まずい、皆の好感度を上げ過ぎた   作:ヘルタ様万歳

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アネモネは

 

 

きっかけはとても些細な出来事から始まった。

 

それは会議でも派閥争いでもない。誰の未来も左右しない、どうでもいい時間。

 

フィリウス分派のリーダーである梔子ウツツが書類を抱えたまま立ち止まった。彼女は廊下の窓から差し込む午後の光をほんの一瞬だけ眺めてからナギサの方を見た。

 

「桐藤」

 

以前はそう呼ばれていた。今にして思えば、しっかりと距離を測った丁寧で正確な声音で、今の様な気安い雰囲気はなかった。

 

「貴女は自分が正しいと分かっているのに、どうしてそんな顔をするんだ?」

 

唐突な問いというのもあり、ナギサは即座には答えられなかった。正しさを問われることには慣れていたが「顔」を問われたことはなかったから。

 

「……どういう意味でしょうか」

 

そう返した声が僅かに硬かった事をナギサは後から自覚する。それに対しウツツは少しだけ首を傾げた。

 

「怒っているようにも悲しんでいるようにも見えない。全てが過ぎ去った後も、安堵した様子もない」

 

指摘は正確だった。ナギサ自身が言語化を避けてきた部分をあまりに無遠慮に容易く掬い上げてくる。

 

「まるで正しい選択をしたと思ってないような人の顔だったから、気になったんだ」

 

その言葉が取り外せない棘の様に刺さる。

 

ナギサは反射的に反論しそうになった。正しさは結果で証明される。感情は考慮すべきではない。いつもならそう言っていた。しかしその時は少し違っていて。

 

「それは……」

 

言葉が、続かない。

 

ウツツは責めるでもなく、結論を急ぐでもなく。ただ静かに待った。その沈黙がナギサには居心地が悪かった。

 

そこでナギサは気付く。

この人は、答えを求めていない。

評価も修正も、求めていない。

 

ただ、目を向けてくれているのだと。

 

「桐藤は」

 

ウツツは穏やかに続ける。

 

「正しいことを選ぶ自分を、あまり好きじゃないでしょ?」

 

――その瞬間、ナギサの中で、何かが崩れていく。否定する言葉はいくらでもあった。けれどそれらはすべて説明であって否定出来る材料にはなり得ない。つまり彼女はナギサを有能な後輩としてでも、次期代表としてでもない。一人の人間として見ていた。

 

それに気付いてしまってからは引き返すにはもう遅すぎる事に気付いた。この人の前では正しさを盾にしなくてもいい。その安心が危険だということも。

 

後になって振り返れば、それは恋と呼んでも差し支えない感情だったかもしれない。しかしその時のナギサはそれを別の言葉で処理した。尊敬、信頼。別段、どれも間違っていない。ただ一つだけ足りなかった言葉があっただけで……。しかしそれを認めてしまえば彼女はきっと正しい選択ができなくなる。だからその感情をそっと胸の奥にしまった。その所為で時間をかけて歪み、執着という形で深く根を張ってしまうとは知らずに。

 

それから世界の見え方が僅かに変わった。耳に入る音が変わった訳でも景色が変わった訳でもない。変わったのは、ナギサ自身の認識だった。

 

梔子ウツツという存在は自然体のようでいて、その実彼女本人の感情を決して映さない。それは彼女なりの誠実さで、感情を混ぜないことで相手を正しく扱おうとしている。自分も相手も過度に傷付けないように。

 

だが、あの問いかけ以降、正しい選択をした人の顔にしては、何処か影が差す憂いを帯びた横顔であると気付いた。思い出す度に胸の奥が僅かにざわついた。反論は簡単で、正しさは結果で証明される。感情は判断のノイズだ。そう、何度も思考をなぞる。それでも、違和感は消えない。

 

なぜなら、ウツツは正しさそのものを否定しなかった。それを尊いものだと認めておきながら、自分にはできないと自嘲するような笑みを浮かべた。それが、ナギサにとって決定的な変化を齎すには十分だった。

 

それ以来、ナギサは無意識の内に、ウツツの動向を追うようになった。

 

会議の議題が始まる前、彼女がどの資料を手に取ったか。発言の順番が回ってくる直前、どこを見ているのか。判断を下す直前、一瞬だけ視線が泳ぐ癖。

 

ある日、偶然廊下ですれ違った時、ナギサは自分が無意識に歩調を落としていることに気づいた。ウツツが隣に並ぶ。話題は業務。ごく当たり前の報告と確認で、実に事務的な内容だった。

 

それでも、会話が終わった後、すぐに別れようとしない自分がいた。理由はない。ただ、離れたくない。その感覚に気づいた瞬間、ナギサの背筋を冷たいものが走る。

 

――これは、危険だ。

 

だが、危険だと理解しても、止める理由には至らなかった。

 

視線も変わった。以前は、発言内容だけを聞いていた。今は、表情を見るようになった。言葉より先に浮かぶ微細な感情。抑えきれずに零れる疲労。決断の直前に生じる、ほんの一瞬の迷い。それらを見逃さないように、ナギサは無意識に集中する。まるで、壊れやすいものを監視するかのように。

 

「最近、よく見ているね」

 

何気ない指摘だった。責める調子も、揶揄う響きもない。ただ、事実を拾い上げただけの声にナギサは酷く安心する。それと同時に、見透かされたという感覚が遅れて押し寄せる。

 

――気づかれていた。

 

視線の癖も、意識の偏りも、自分では制御できているつもりでいたものを、彼女は何の苦労もなく言い当ててくる。

 

「……気の所為では?」

 

そう返した声は、ナギサ自身が思っていたよりも硬かった。これ以上、話題にしてほしくないという意思表示でもあったようにも思う。ウツツは、ほんの一瞬だけ目を細める。

 

「じゃあ、そういうことにしておこうか」

 

軽い言葉。それでいて、逃げ道を残した言い方。一つずつ丁寧に逃げ道を塞いでいくのが彼女の基本戦略だというのに、すぐに分かるナギサの嘘に気づいた上であえて踏み込まなかった。彼女のその選択がナギサの胸を酷くざわつかせるのに、ウツツは窓から空を見上げていた。

 

いっそ暴かれる方がマシだった。指摘されて終わるよりも、この「分かっていて黙っている」態度の方が、ずっと逃げ場がないというのに。ナギサの内側に生じた歪みをそのままナギサ自身に委ねてしまう。

 

――ずるい。

 

心の中で、そう吐き捨てる。

 

相手の弱さを責めない。感情を暴かない。気づいても何でもない事のように受け流してしまえる心の自由さが恨めしい。その優しさでも何でもないような素振り一つが残酷だということを、ウツツ自身は理解していないのだろう。理解していないからこそ、ナギサは何も言えなくなる。呼吸を整えながら、ナギサは視線を逸らす。

 

この人の前では、誤魔化すことも正当化することも、ひどく難しいのだ。それでも踏み込まれなかった事に、ほんの僅かな安堵を覚えてしまう自分がいる。その弱さがナギサをさらに苛立たせた。

 

本当に、ずるい人だ。そう思いながらも彼女の一挙手一投足から目を離せなくなっている自分に言い訳を積み重ねていく毎日。

 

 

 

 

やがてウツツの前では、ナギサは即断を避けるようになった。

 

結論を急がず、慎重に理由を整理する。時には、迷いを口にする。それは弱さの露呈に近いのに、ウツツは何も言わない。静かに聞いた後、ちょっとした助言をしてくれる。ナギサが迷ったままでいないように導いてくれる。

 

それが、ナギサの防衛線を一つずつ、静かに解体していく。決定的だったのは、ティータイムの約束だ。

 

 

「甘いものは、苦手なんだ」

 

それは拒絶に近い言葉だった。社交的な断り方ではない。遠回しでも柔らかくもない。ただ事実だけを告げる、梔子ウツツらしい率直さで舌戦に疲れていたナギサの心を癒すものでもあった。

 

それに満足し、ナギサは一度引き下がろうとした。ここで話題を変えることもできたし、「では、また機会があれば」と微笑んで終わらせることもできた。それが、正しい対応だ。合理的で無難で、誰も傷つかない終わらせ方。

 

――それでも。

 

自分でも理解できない衝動に付き動かされるように、ナギサの口から次の言葉が紡がれた。

 

「それでも構いません。一度だけで構いませんので」

 

言い切った後で、胸の奥が静かにざわつく。理由は説明できない。ただ、引き下がりたくなかった。

 

ウツツはすぐには答えなかった。視線を落とし、ほんの短い時間思考に沈む。

 

その沈黙が、ナギサにはひどく長く感じられた。拒絶される覚悟も、断られた後の言い訳も、すでに頭の中で組み立て始めていた。……やがて、ウツツはほんの一瞬だけ頷いた。

 

「君が、そう言うなら」

 

 

梔子ウツツには、呼び方の癖があった。

 

それは厳密に定義された規則ではなく、本人も殆ど意識していないであろう、呼吸のような区別。

 

公務中、会議の席、あるいは立場が前に出る場面では、彼女は相手を「あなた」と呼ぶ。丁寧で、距離があり、必要以上の感情を含まない呼称。相手を一人の人間としてではなく、役割を持つ存在として扱う時の正確な言葉遣い。

 

一方で、個人的なやり取りの際、立場や肩書きが一時的に後景へ退いた瞬間。彼女は、ごく自然に「君」と呼ぶ。

 

それは、砕けているわけでも、親しげな口調でもない。だが、明確に距離が近い。ナギサは、その違いに気付いていた。最初は偶然だと思った。次に、気のせいだと片付けようとした。だが、何度も繰り返されるうちに、確信へと変わる。

 

梔子ウツツは、誰にでも「君」と呼びかける訳ではないようだった。

 

むしろ、その逆で。必要以上に人との距離を保つ彼女が、無意識のままその距離を一段階だけ縮めた相手。評価や役割ではなく、個人として認識した相手にしか使わない呼び方であると気付いてしまった。

 

ナギサは、それを知ってしまった。

 

だからこそ、ふとした会話の中で、

 

「君は、どう思う?」

 

そう呼ばれた瞬間、胸の奥が静かに揺れ動いてしまう。呼び方が変わった理由を、ウツツはわざわざ説明しない。説明する必要があるともナギサも思っていない。それは、信頼の証でも特別扱いでもない。もっと細やかで、もっと残酷なものだ。

 

ナギサは、それを光栄だとも、危険だとも、すぐには判断できなかった。

 

ただ一つ確かなのはその呼び方を向けられた瞬間から、自分はもう同じ距離には戻れなくなったということだ。梔子ウツツは、無意識のまま線を引き、無意識のまま、その線を越えさせた。それもまた後になって振り返れってみれば恋に近い執着へと変質していく、確かな誤算の一つだった。

 

 

それを理解した瞬間、ナギサは初めて、恐怖を覚える。この関係を失いたくない。その感情が理性よりも先に立ち上がった。

 

これは尊敬だ。信頼の筈だ。対等な関係になりたいという感情を抑えられない。けれど構わない。この想いの形を変えて、深く沈殿させるだけだ。

 

なのに今さら手放せというのか。

 

 

 

桐藤ナギサは、梔子ウツツの部屋を三度、確認した。

 

一度目は事実確認として。

二度目は見落としがないかを確かめるため。

三度目は――理由を探すためだ。

 

しかし、何もない。

本当に、何も残されていなかった。

 

机の上に置かれていた退学届。形式に不備はなく、署名は整い、日付も正確だった。まるで、彼女自身が「これ以上、調べる必要はない」と告げているかのような……それが、ナギサには耐えがたかった。

 

梔子ウツツは、そういう人間ではない。

少なくとも、ナギサの知る限りでは。

 

彼女はいつも言葉を尽くした。説明し、整理し、責任を引き受けた。誰かが困らないように、迷わないように。だからこそ――何も残さないという選択が、理解できない。

 

ナギサは本棚の前に立つ。

 

そこにあったはずの本の配置を、正確に覚えている。背表紙の高さ。癖のある並べ方。合理性と感情が奇妙に同居した、あの配置。それが、全て消えている。最初から何もなかったと言われても納得してしまいそうな空白。

 

「……あり得ません」

 

思わず、声が漏れた。梔子ウツツが、痕跡を残さずに去る。それは、責任を放棄する行為だ。彼女が、そんなことをする筈がない。ナギサは、胸の奥が酷く冷えるのを感じた。

 

切り離しだ。ウツツは、意図的に自分を排除した。誰の手も届かない場所へ、整理された形で退いた。それは、彼女が最も嫌悪するやり方だった筈ではないか。

 

ナギサは、自分が何に怒っているのかを、正確に理解している。

 

悲しいのではない。

寂しいのでもない。

 

選択肢を与えられなかったことに、怒っている。

 

話し合う機会も、反論する余地も、引き留める権利も。

すべて、最初から奪われていた。

 

それが、あまりにも――耐え難い。

梔子ウツツらしかったといえばその通りだが、これではあんまりではないか、と。

 

ナギサは唇を噛む。梔子ウツツは、自分を信頼しているのではなかったのか。いいや、それはあり得ない。仮にもフィリウスを2年間率いていた人だ。信頼できない者に自身の後釜を任せる様な人ではない筈だ。

 

「貴女なら耐えられる」

 

きっとその前提で、去ったに違いない。

 

だとしたら殊更に許せない。

受け入れる役を引き受ける側にされたのに対し、耐え難い苦味を感じた。

 

それは尊重しているようでいて、ただ軽んじる行為だ。

 

「……身勝手です」

 

静かな声。だが、その奥には、鋭い執着がある。

 

梔子ウツツが戻らないとしても、戻るつもりがないとしても、ナギサは終わったとは認めない。整理され、切り離され、完璧に片付けられたからこそ、そこに残された空白は異常なほど輪郭がはっきりしている。

 

ようやく対等になれると思っていたのに、一方的に置いていくなんて。

 

きっとこの怒りは時間が経っても、例え役職が変わっても、決して風化しない。梔子ウツツがどこにいようと、どんな風に生きていようと、ナギサは必ず忘れない。彼女が、自分にだけ許さなかった選択を。

 

 

甘いものが苦手だと言う彼女が、ただ一度だけ頷いてくれた、ティータイムへ誘うという約束がまだ果たされていないのだから。

 

 

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