まずい、皆の好感度を上げ過ぎた   作:ヘルタ様万歳

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昔は今の鏡①

 

 

名を定める、という行為は往々にして重大な儀式として扱われる。

 

だが実際の所それは多くの場合、歴史の断層の中に埋もれた偶然の副産物に違いない。後世の人間が「必然」と呼び直すだけで、当時の当事者にとっては気まぐれな思い付きによる選択だったかもしれない。

 

私はその時、名前について深く思案していたわけではなかった。むしろ、思案という工程そのものに対して興味を抱けなかった。重要だとも、早急に取り組むべき問題とも思ってなかった。久し振りの自由を楽しむのに全リソースを割いていて、それ所ではなかったとも言う。非常に簡単に言えば面倒臭かったのだ。

 

 

歩行に目的はなかった。それでも足は進む。人間の移動というものは、しばしば意識よりも古い衝動に導かれる事がある。そして嗅覚が先に反応した。油と塩と熱が混じった匂い。文明史的に言えば極めて原始的で、同時に普遍的な信号。

 

ふと匂いの原因を探すように視線を漂わせてみれば、通りの一角に簡素な建造物がある。砂塵と日光に削られた外壁。達筆な一筆で撫でられたその看板には、実に素朴な文字列が記されていた。

 

――柴関ラーメン。

 

看板に書かれた価格設定を見るに明らかにこの地域の生徒層を想定しているように思う。ここは営利よりも、消耗の受け皿を目的とした生活遺構なのだろうか。

 

暖簾をくぐる。内部は狭く、カウンターといくつかの簡易的な席。空間構造は単純だが、長年の使用による痕跡が随所に見られる。床の擦れ、壁の油染み。しかし不思議と居心地が悪いとは思わなかった

 

「いらっしゃい。好きな席に座ってくれ」

 

厨房の奥から落ち着いた声がする。

 

「どうも」

 

私は軽く会釈し、カウンターの端に腰を下ろす。椅子の高さが合わず少しだけ足が浮く。身長の変化をこういう場面で再確認させられるのは未だ慣れない。

 

鍋の前に立つ男がちらりとこちらを見る。

 

「お客さん、この辺りでは見ない顔だな。初めてかい?」

 

「いいえ。最近はめっきり減りましたが、以前も何度か通っていました。今日は久々に通りがかったので」

 

「そうかそうか。ま、メニューから好きなものを選んでくれ。迷うなら、この店一押しの柴関ラーメンでも頼んでくれりゃ決して後悔はさせねぇ」

 

「では、それで」

 

「固さとか、脂とかは?」

 

「特に指定はありません」

 

「あいよ」

 

簡潔なやり取りだが、無駄がなくそれが心地良い。鍋に火が入り、湯気が立ち始める。彼は無言のまま作業を進め、その動きに迷いはない。視線は必要な時だけ材料に落ち無意味に宙を泳がない。

 

「この辺り、学生も来られるんですか?」

 

何気なく口にすると、彼は麺を茹でながら答えた。

 

「多かないけどよ、腹減らした顔して歩いてくるのは、だいたい若いのだな」

 

「価格も良心的ですし、雰囲気も暖かくて気に入りました」

 

そう言うと、彼は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を鍋へ戻した。

 

「おいおい、褒めたって替え玉しか出ねぇぞ? ……まぁ、単純によ、そうしないと続かんからさ。儲けたいなら別の場所でやってる」

 

淡々とした言い方だ。誇るでもなく卑下するでもない。彼の人となりを知る程に好きになってしまいそうだった。私は元来、こうした気のあるものに弱いのだ。

 

「ここでは長いんですか?」

 

「ん? まあ、それなりにな」

 

そう言って、彼は器にスープを注ぐ。やがて、カウンター越しに頼んだものが差し出される。

 

「熱いから気をつけてくれ」

 

「いただきます」

 

受け取った瞬間、掌に伝わる熱が過不足なく現実を主張する。軽く会釈すると、彼はそれに応えるように頷き、それ以上何も言わず厨房へ引っ込んでしまった。

 

白濁したスープは熱く、舌に触れた瞬間に温度だけが正確に伝わってくる。余計な主張はなく旨味も塩気も丁度良い。麺は噛むための張りを残しており、歯を入れた時にきちんと抵抗がある。チャーシューは柔らかく、脂が口の中でほどける前に繊維が静か崩れる。

 

久々に、こういう油分の多いものを口にした所為か、胃の奥に妙な満足感が溜まっていく。重い筈なのに不快ではない。栄養でも嗜好でもなく、消耗を補うための食事は久し振りだった。器を持ち上げもう一口スープを啜る。たまにはこういうのも悪くない。そう思える程度には今の私は、ちゃんと腹が減っていたらしい。

 

 

 

 

スープを半分ほど飲み終えた頃だった。

 

入口の引き戸が、必要最小限の音を立てて開く。風が一瞬だけ店内を撫で油の匂いに外気が混じる。視線を向けるより先に、空気が変わったのが分かった。

 

白い肌、銀色の髪。赤い瞳。コートの下から覗く蜥蜴めいた尻尾と、左側だけの片翼。その翼に下げられたリボン付きのペンデュラムが、歩くたびに小さく揺れる。

 

彼女は店内を一巡し、空席を確認した。選択肢は複数存在していたにも関わらず、最終的に選ばれたのは私の隣の席だった。

 

「こちら、よろしいかしら」

 

こういう手合いは例え拒んだとしても座るだろうなと考え、私は肯定の意思表示として最小限の動作で応じる。彼女は着席し、即座に店主へ注文を伝える。

 

「五目ラーメンを一杯、お願いしますわ」

 

沈黙。食事という行為の前段階として妥当な空白であるそれは、しかし隣席からの視線がどうにも気になり、私の注意を持続的に刺激していた。

 

「どうしてわざわざ隣に?」

 

彼女は短い思考時間の後、次のように返した。

 

「匂いですわ」

 

説明としては簡潔だがやや抽象的過ぎるし、話の前後がまるで繋がっていない。私の怪訝そうな表情を読み取ったのか、彼女は続けて説明を続けた。

 

「空席に囲まれて食べるより、誰かと一緒に食べた方がより料理を美味しく彩るからですわ」

 

「なるほど。君にとって必要な工程なんだね」

 

誰かと共に卓を囲んだ経験に乏しい身からすれば、彼女の考えはとても斬新に感じた。しかし悪くない。程なくして彼女の元へラーメンが提供された。その瞬間、彼女の挙動が変化する。

 

姿勢が正され視線が定まる。これは習慣だろうか。食事を単なる摂取行為ではなく、何か神聖な儀式として扱う者の所作に見える。先ほどの言動といい、食べるのが好きな子なんだろうか。

 

ラーメンを前にした瞬間、彼女は一拍呼吸を整えた。次いで迷いのない動作で箸を取る。一口、上品に啜ったかと思えばそのまま目を閉じた。

 

「……えぇ」

 

低く、満足を噛み締めるような声。

 

「これは良いですわね。奇を衒わず、無理な誤魔化しもない。素材と工程がきちんと調和している」

 

もう一口、今度はスープを啜る。

 

「高級な素材が使われているという訳ではございませんが、一定以上の食への拘りと情熱を感じますわ。それにこの価格で、この味わい。どれを取っても素晴らしいですわ」

 

色白の頬に僅かに朱が浮かぶ。価値を分類し残すべき点を抽出する。その態度は料理に対する彼女なりの礼儀なのだろうか。一通り賛辞を述べた後、彼女は箸を置き今度は私の方へ視線を向けた。その赤い瞳は、ふいに私の手元へ移る。

 

「失礼」

 

前置きとして発せられたその一言は許可を取るための形式的なものだろう。

 

「貴女の食べ方が、少し気になりまして」

 

指摘された瞬間、私は自分の動作を思い返す。麺を持ち上げる高さ。啜る速度。スープを飲む間隔。いずれも無意識下で形成された癖に過ぎないが、もしや知らぬ間に食への拘りのある彼女の琴線に触れる事でもしてしまっただろうか、と。

 

「美味しいものを前にした人間は往々にして二極化しますの。貪欲になるか、萎縮するか。ですが貴女はそのどちらでもない。とても静かで綺麗な食べ方をなさいますのね」

 

その言葉は評価としては明確だったが、称賛にありがちな熱は含まれていなかった。彼女にとってそれは、感情の発露ではなく単なる観察結果によるものだろう。つまり嘘や装飾のない本音というものだ。

 

意外な指摘に思考が一瞬遅れる。自分の食べ方を、第三者の視点で意識した事なんて殆どなかったから。

 

麺を啜る速度、箸を置く位置。スープを飲む間隔。

 

いずれも深く考えた末の所作ではない。ただ、そうするのが一番摩耗が少ないと身体が覚えているだけだ。

 

「ありがとう……?」

 

疑問符が混じったのは、礼を言うべきか判断がつかなかったからだ。褒められた、というより、予期しない報告を受け取った感覚に近い。彼女はそこで初めて、ほんの僅かに口元を緩めた。

 

それは社交的な微笑ではなければ相手に好意を示すためのものでもない。もっと内向きで見た者が独りごちるような表情だった。

 

白い肌に落ちる店内の照明が、彼女の輪郭を柔らかく縁取る。赤い瞳は感情を強く映す色の筈なのに不思議と落ち着いている。尾と片翼は動かず、余計な自己主張をしない。あれらもまた、日常の一部として扱われているのだろう。

 

「これも何かの縁。差し支えなければ、貴女のお名前を伺っても?」

 

私は一瞬、言葉に詰まる。該当する語が依然として存在しないからだ。妙な緊張が走る。名を呼ばれる場面はこれまで幾度もあった。だが、名を提示する段階で立ち止まったのは初めてかもしれない。

 

「……以前の自分とお別れをしたばかりでね。実はまだ定めていないんだ」

 

これでは説明としては不十分だが、これ以上どう説明すれば良いのか分からなかった。コミュニケーションには自信があったんだけどな。

 

「まぁ」

 

短い感嘆。意外にもそこに困惑はなかった。驚きはすぐに収束し、私の言葉が彼女の内部にある好奇心を刺激したのだろう。未知の遺構や、想定外の層から出土した遺物を前にした研究者が見せるような、慎重で、しかし確かな興味を帯びた笑みがその表情に浮かんだ。

 

「まぁ、そう言う事だからね、呼び合う為の仮の呼称でも私は構わないよ。名前について特にこれといって拘りもないしね」

 

彼女の視線の焦点は顔ではなく、私の手元へ注がれていた。残り三分の一ほどのスープ、沈んだ麺、縁に残る油の輪郭、或いはその全体。

 

やがて、得心したように小さく頷いた。

 

「では、シバセキさんとお呼びさせていただきますわ」

 

彼女はそう言ってから、ほんの僅かに顎を引く。赤い瞳がこちらの反応を探るように見つめてくる。肯定か、拒絶か、あるいは無反応か。そのいずれにも対応できる余白を残した視線だった。沈黙しているのは、彼女がこの後の立ち周りを測りかねているからだろう。

 

店内には麺を啜る音と、スープが器に触れる微かな響きだけが残っている。厨房の奥から聞こえる鍋の音も今は一定の周期を保っていた。

 

呼ばれた音が、耳に馴染むまでの時間。その間、頭の中では名前という概念の軽さと重さが秤にかけられていた。拒む理由は特に見当たらなかった。むしろその即席さが斬新で心地よい。ある程度の考察をしながら、名付けの由来が気になってつい問いかけてしまう。

 

「それは?」

 

「貴女が頼んだものですわ」

 

彼女は何でもないことのように言った。私は小さく息を吐き、つい口元を緩めてしまう。なんだか面白い子だ。

 

視線を今度は彼女の手元へ移す。私のものより具が多いそれを見ながら、この悪戯を気に入ってくれると良いなと願いながら。

 

「なるほど、じゃあ君はゴモクさんだね」

 

言葉が落ちた直後、彼女は一拍動きを止めた。表情が追いついていないというより、予想外の入力を処理している間の静止だった。

 

きょとんとしたまま目を瞬かせ、次の瞬間、僅かに肩が揺れる。

 

「……ふふ」

 

抑えきれなかった、という笑い方だった。声を張るでもなく口を大きく開くでもない。口元に手を寄せ、けれど確かに愉快さが滲んだ顔で上品に笑った。

 

品は崩さない。それでいて隠す気もない。思いがけない呼ばれ方を受け取ってそれを拒まず、むしろ楽しんでさえいる人間の笑み。珍しいものを見た気分になり沈んでいた感情が高揚していく。

 

「えぇ、それも悪くありませんわ」

 

こうして正式な名でも永続的な呼称でもない、その場限りのニックネームが成立した。

 

かつての私は肩書だけならいくらでも持っていた。役職、立場、呼ばれ方。必要に応じて付与され、役目を終えれば剥がされる名称の数々。

 

それらと比べれば、この呼び名には何の効力も保証もない。記録に残ることもなければ、将来まで持ち越される理由もない。それが不思議と悪くなかった。

 

 

程なく、彼女の方が先に器が空になった。箸を置く所作は丁寧で、余韻を切り捨てない。私はそれを横目で確認しながら残りを飲み干す。店内には相変わらず私たちしかいない。こんなに美味しい店なのにどうして人が少ないのだろう。

 

「ごちそうさまでした」

 

彼女は立ち上がりコートを整える。尾と翼が僅かに揺れた。

 

「今日は楽しい食事でした」

 

それは社交辞令としても成立する言葉だったが、声の調子は記憶として残すに足る誠実さを帯びていた。

 

「こちらこそ」

 

彼女はお会計を済ませると入口へ向かい、そこでふと思い出したように振り返る。

 

「シバセキさん、またご縁がありましたら、その時はお名前、教えてくださいね」

 

そう言って彼女は、私の返事を待たずして暖簾をくぐっていった。

 

残されたのは空の器と、不思議な満足感。確かに彼女の言う通り誰かと卓を囲むというのも、なかなか悪くないのかもしれない。

 

 

 

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