時間の経過というものは振り返った瞬間に初めて実感されるものだ。日々の中では摩耗するだけで、節目として意識されることは少ない。だが制度は違う。学年という区分は個人の自覚とは無関係に積み重ねられ、否応なく経過を突きつけてくる。これは、なかなか逃れがたい性質だ。
私は再び学生となり、気付けば一年が経過していた。黒服に勧められるまま、ゲヘナ学園の三年生という身分を得た形で。
自身の身の上を軽く調べてみたが、特に特筆すべきことはなかった。私は一年前から在籍していた事になっており、持病により入学してから一年ほど療養していた、という扱いだ。確認してみると、入院記録や通った覚えのない中学校の在籍記録まで揃っていた。ここまで用意されているという事は、黒服はかなり前から準備していたという事になる。まぁ、無辜の生徒を騙し身分を剥奪した、という訳ではなかっただけ良しとしよう。
さて、ゲヘナ学園の惨状だが。トリニティ総合学園に在籍していた身からすれば地獄そのものと言っていい。謀とは程遠い、身勝手で自分本位な、自由奔放な彼女たち。
だが私は、その環境が思いの他気に入っているらしい。人間の進化、あるいは適応というのは、なるほど馬鹿にできないものだね。そうして一年を過ごし現在、私は三年生となった。
三年生になって最初に行ったのは部活動の申請だった。特段の動機があったわけではない。キヴォトスにおいて部とは居場所であり、肩書きであり、他者からの干渉を最小限に抑えるための緩衝材にもなり得る。あとは単純に、退屈だったからかな。
申請書の部活動名欄に、私は「整体部」と記入した。審査は一瞬で終わった。却下される理由も、精査される価値もないと判断されたのか、すぐに部活として認められた。それでいいのか……。
部室として割り当てられたのは、部室棟本館の一角にある、半ば倉庫と化した一室。中は思ったよりも広く、増築と改修を繰り返した痕跡は随所に見られる。少なくとも「用途が分からなくなって放置された空間」でしかないが、綺麗に片付ければ使いやすそうだった。そこを一週間かけて徐々に片付けていき、充てられた予算を元に必要な家具や空間を彩るものを適切に配置していく。
整体部に割り当てられた部室は本館二階の中程に位置している。窓は東向きで、午前中には柔らかな採光が得られる。湿気は少なく、経年劣化によって破損していた部分については、黒服から支給された資金――正確には、かつてトリニティであくせくと働いていた頃の資金が、そのまま移し替えられていた。要するに私のポケットマネーで余す所なく補修したため殆ど新築のように姿を変えた。
私は鍵を開け、室内へと入る。
といっても部室としてはかなり簡素だ。長机が一台、オフィスチェアが二脚。壁際に金属製のガラス棚。備品として登録されているのはそれだけだが空間としては過不足はないだろう。整体部としての本質的な環境を作り過ぎない。過剰な設備はかえって不要だろう。
私は壁際に簡易ベッドを設置している。正式な医療用ベッドはまだ届いていないため本当に間に合わせでしかないが、耐荷重と高さは十分に検証した。フレーム構造は単純で、体重移動時の揺れも少ない。施術者の動線を妨げない配置だろう。
整体部の活動内容をまだ学園側に詳細を提出していない。
提出したのは「軽いマッサージ」だとか「必要であれば整骨など」というフレーズを織り込んではいるが、それで今の所まかり通ってしまっているので、ゲヘナにおいて活動内容の精査は例外的措置であり、通常は事故が起きてから検討される方針なのかもしれない。
人体構造の知識、手技による施術スキル、神経系の反射機構について体系的な理解はある。ホシノのケアをしていた際にそういった知識はあらかた知識としても、手先の技能としても習得している。ただしここで扱うのはあくまでその一部分のみあればいい。治療ではなく、単なるマッサージ屋として。
日常的に過剰な負荷に晒されると、表層の損傷よりも深部の歪みが蓄積する。姿勢、重心、筋緊張の偏り。そうした微細な変化は数値化されない限り見過ごされがちだ。争いごとの絶えないゲヘナ生徒の憩いの場となればいい、というコンセプトに基づいて設立したのがこの整体部なのだった。
入り口付近の棚には、私物の専門書を並べている。解剖学図譜、運動連鎖に関する論文集、筋膜理論のレビュー。いずれも、ただの趣味の範囲を出ないものだ。
部員は、私一人。
他にも数名ほど幽霊部員を雇っているから、制度上は問題ない筈。1人というのは活動の自由度を著しく高めるし、私としてもやりやすい。合意形成も方針転換も不要で、すべての判断は私一人で完結する。単純でいい。
しかし、設立されてから一週間ほどということもあり、施術希望者は今のところ居ない。土日祝日のみ定休日とさせてもらい、こうして暇な日などは基本的に部室の掃除か道具の点検が主。
環境を維持し、記録を取り、必要であれば自分自身の身体を観測対象とする。鏡の前に立ち、肩の高さ、骨盤の傾き、重心線を確認する。可動域の左右差、呼吸の深さ。微細な違和感は数日後に顕在化する前兆であることが多い。日々のメンテナンスを欠かさなかったからこそ、私はあそこまで長生きできたのだろうしね。
掃除と点検を一通り終え、備品の配置を微調整していたところで、部室の扉が控えめに叩かれた。音の質が軽い。躊躇いを含んだようなノック音。来訪者は様子見にでも来たのだろうか。まぁ、一週間前にはなかった部活が突然生えたのだからそりゃあ警戒もするだろう。
「……失礼する」
扉の向こうから覗いた顔には多少見覚えがあった。銀鏡イオリ、ゲヘナ学園でも比較的名の通った風紀委員の一人だ。中へと入ってきた彼女の視線はまず室内を一巡する。簡易ベッド、壁際の本棚、整然と並べられたタオル、マッサージオイル。過剰な装飾がないことにかえって警戒心を強めている様子だった。
「ここが……整体部?」
疑念を隠さない声音。看板倒れの部活や、実態の伴わない活動が多い学園だ。無理もない。
「その通り。申請上は整体部、実態としては軽いマッサージから整骨、大抵の身体のメンテナンスは問題ないよ」
私の言葉に銀鏡さんは眉を顰める。
「正直言うと、ちょっと怪しいんだけど」
それでも踵を返さない辺り、相当に疲労が蓄積しているのだろう。彼女の立ち姿は一見して安定しているが、重心がわずかに前方へ偏っている。肩甲帯の可動域が狭く、首の付け根に慢性的な緊張が見て取れた。
「無理に信じる必要はないけど、もし気になるなら試してみてほしい」
「……言い方が余計に怪しい」
「心外だ。私はいつだって品行方正に生きている一生徒のつもりなんだけど」
銀鏡さんは疑念に満ちた視線を投げかけながらも制服の上着を脱ぎ、指示される通りにベッドにうつ伏せになった。とりあえずは施術前に軽く触診を行う。僧帽筋上部は硬化が進み、表層筋と深層筋の滑走性が低下している。特に右肩。利き腕側に負荷が集中している証拠だ。
「肩と背中に疲労が溜まっているね」
「……まあ。ここ最近は任務続きだったし」
私はまず呼吸のリズムを整える所から始める。胸郭の可動性を阻害している筋群を緩めることで副交感神経優位の状態を作る。筋膜の反応を待ちながらゆっくりと圧をかけていくと、銀鏡さんの呼吸が次第に深くなっていく。
「抵抗せず、出来れば体の力も抜いてほしい」
肩甲骨内側縁に沿って指を滑らせ、癒着点を一つずつ剥がす。僅かな振動を与え神経反射を利用して筋緊張を揉み解すように指を動かせば彼女の身体が軽く震えた気がした。
「……っ」
短い声。痛みというより、詰まりが抜ける瞬間の違和感だろうか。
「痛かったかな。もう少し力を落とそうか?」
「……いや、このままで、頼む」
「わかった。それじゃあ続けるから、もし痛みだしたら教えてほしい」
施術はそれから二十分ほど続いた。最後に肩関節の可動域を確認すると、明らかに左右差が減少しており、銀鏡さんはゆっくりと身体を起こし驚いたように数度肩を回した。
「え、なにこれ」
声は思わず零れた、という調子だった。
銀鏡さんは半信半疑のまま肩を回し、次いで首を左右に傾ける。風紀委員として常に背筋を伸ばし無駄のない動作を心掛けている彼女にしては、どこか落ち着かない仕草だ。制服の襟元に指を掛け、確かめるようにもう一度肩をすくめる。動作は明らかに軽い。先ほどまで引っかかっていたはずの違和感が消え、関節が本来あるべき位置に収まっている。その変化を身体が先に理解し思考が追いついていないようだった。
目が、少しだけ大きく見開かれる。驚きを隠そうとしているが、抑えきれていない。普段のきりりとした表情が崩れ、年相応の戸惑いが浮かぶ。その様子を見ているとこちらまで妙に胸の奥が温かくなり、思わず口元が綻んでしまう。
「一時的な改善ではあるけどね。現時点ではこれで十分かな」
そう告げると、銀鏡さんは一瞬だけこちらを見てそれから直ぐに視線を逸らした。頬にほんのりと赤みが差しているのは施術後の血行が良くなった影響だろうか。
「……正直、舐めてた」
低く短い言葉。だがそこには軽んじた調子はなく、率直な認識の修正が含まれていた。彼女はこういうとき余計な言い訳をしないのだろう。
「助かった。ありがと」
「こちらこそ。出来たばかりの部だったからね。この通り閑古鳥が鳴いていて少々困っていたんだ。つまり君が記念すべき最初の利用者という訳だ。私としても来てくれて助かったよ」
「そ、そうか……あんたも苦労してるんだな」
「風紀員である君ほどじゃないさ」
「……また来る」
彼女はそれだけ言うとさっと上着を羽織った。動きは相変わらず機敏でもうさっきまでの重さや不自然さは感じられない。ブーツの音も入ってきた時よりも心なしか軽やかに聞こえた。……いや、これは私の希望的観測かな。
すると彼女は扉の前で一瞬だけ足を止め、何か言いかけるように振り返り――しかし結局何も言わずにそのまま部室を後にした。初めて見た時は、淡泊で近寄りがたい子なのかと思っていたけれど、今の一連の反応を見る限り、思ったよりもずっと素直で、律儀で、優しい子なのかもしれない。
一番最初の客としては上出来だろう。私はタオルを畳みながら部室の静けさを取り戻した空間を見渡す。どうやらこの場所は思っていたよりも早くその役割を持ち始めたらしい。
整体部活動記録 ○月○日/晴れ
記録者:部長 宮雲ウヅキ
【概要】
ゲヘナ学園にて施術対応。風紀委員会経由での依頼が主。環境要因(長時間の立哨・戦闘後の緊張残存)による筋緊張と疲労の蓄積が多く見られた。
対象者①:銀鏡イオリ
所属:風紀委員会
主訴:肩部〜上背部の強い張り、頭痛の前兆
【所見】
・僧帽筋上部・肩甲挙筋の過緊張
・姿勢保持の癖による左右差あり
・自覚症状より実測の緊張が強い
【施術内容】
・肩甲帯可動域の確認
・深層筋への持続圧調整
・頸部の過緊張緩和(短時間)
【経過】
施術中も終始落ち着きがなく、周囲への警戒を解こうとしない。終了後「軽くなった気はする」と短く申告。効果は出ているが慢性的なものの可能性があるため定期的ケアが望ましい。
対象者②:空崎ヒナ
所属:風紀委員会 委員長
主訴:自覚症状なし(周囲の勧めによる来訪)
【所見】
・下肢・体幹の筋出力バランスが極端に良好
・ただし全身に抜けない緊張が残存
・休息不足が疑われる
【施術内容】
・呼吸誘導を含む全身調整
・骨盤帯・脊柱の微調整
・神経反射を抑える軽圧中心
【経過】
施術後、明らかに呼吸が楽になっていた。本人は「問題ない」と繰り返すが「眠くなる感覚は久しぶり」との怪しい発言あり。聞けば日々激務に追われているとのこと。軽い過労の兆候あり。継続観察が必要と判断。
対象者③:黒舘ハルナ
所属:美食研究会
主訴:食後の胃部不快感、背部の違和感
【所見】
・消化器負担由来の背部反射点に緊張
・姿勢は良好だが、食事内容の振れ幅が大きいと推測
【施術内容】
・胸郭周囲の可動補助
・横隔膜周辺の緊張調整
・食後に適した短時間施術のみ実施
【経過】
施術中も料理談義が止まらない。「この程度で済ませるのは惜しいですわね」と何故か不満げだが、施術後は「呼吸が楽」だと評価を頂いた。爆発物の持ち込みが確認されたので軽く注意した。ラーメン屋での彼女の人物像を大幅に修正する必要あり。
対象者④:火宮チナツ
所属:風紀委員会
主訴:腰部の張り
【所見】
・長時間立哨による腰背部疲労
・基本的な筋疲労
【施術内容】
・腰背部の表層調整
・下肢ストレッチ指導
【経過】
即時改善。「もっと早く来ればよかった」とのこと。少し嬉しかったので施術後に最近設置したばかりのソファでお茶をした。今まで出会った中で一番コミュニケーションが取りやすかった。
対象者⑤:愛清フウカ
所属:給食部
主訴:全身疲労
【所見】
・学園特有の生活リズムによる慢性疲労
・念のため確認したが、外傷はなし
【施術内容】
・簡易全身調整
・短時間で実行可能なセルフケア指導
【経過】
施術後、表情が柔らぐ。整体部の存在を初めて知ったとのこと。今後も通うからと定休日を聞かれた。
本日の総評。
ゲヘナ学園の生徒は自覚の有無に関わらず全体的に少し疲れているようだ。特に風紀委員会所属者は責任と警戒による日々の慢性的な疲労が相当溜まっていた。
整体部としては単発ではなく継続的なケアが課題。次回は、施術希望者の事前リスト化を検討する。
――以上、記録終了。