まずい、皆の好感度を上げ過ぎた   作:ヘルタ様万歳

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風邪でも流行っているのだろうか

 

 

最初に強調しておきますが、私は整体部に遊びに行っている訳ではありません。あくまで定期的に状況を確認しているだけです。それ以上でもそれ以下でもない。

 

ゲヘナ学園において風紀委員長──ヒナ委員長が、特定の部活に継続的に足を運んでいるというのを小耳に挟みました。その時点で私は違和感を覚えたのです。

 

まさに異常事態です。必要であれば無理をするし、ご自身が不要であると判断した事柄を簡単に切り捨ててしまう様なお人で、本来ならばご自身の体調や私生活を優先する様な人ではありません。……それについてはもう少し譲歩していただきたい所ですが、とにかく合理性や責務を優先する委員長が足繁く通っている場所があるとくれば調べずにはいられないというもの。

 

部室棟本館は相変わらず無駄に広い。通路は直線的で視界を遮るものが少ない。それなのに歩いていると距離感が曖昧になり、音が吸われ足音だけが少し遅れて返ってくる。

 

風紀委員会の執務室と比べると、当然だが空気の密度がまるで違う。あちらでは書類も人も常に急かすように騒がしいのに対し、ここはとても静かで、時計の針でさえほんの少し躊躇ってから進んでいるように感じてしまう。

 

整体部の扉を開けると、いつも同じ匂いがする。薬品ではない。紙と木材、何か香でも炊いているのか、意識しなければ気付かない程度なのに、不快にならない程度の微かな甘い香りが意識を緩慢にしていく。

 

「いらっしゃい。今日は早いね」

 

ウヅキさんはいつも通りの調子でそう言いました。声量は控えめで抑揚も少ない。けれど、何処かその落ち着いた声音に温度を感じてしまって、勝手に身体が反応してしまう。

 

制服の上から白衣を着た落ち着いた服装。色味も輪郭も主張しないのに、なぜか視線を外しづらい。おそらく人を観察する癖が無意識の所作にまで染みついているのでしょう。

 

「別に、時間が空いただけです」

 

距離を保つために必要以上に視線を合わせないように努めながら簡易ベッドに横になる動作はもう手慣れたもの。うつ伏せになるとベッドの反発が身体を支え肩の位置が自然と定まる。

 

最初の頃はこの体勢が少し気恥ずかしかった。視界を奪われた状態で背中を預けなくてはならないというのは、警戒しなくてはならない対象を前にした状況を鑑みるにあまり好ましい状況ではない。それが今では慣れてしまったのか、特に何も感じない。

 

「君、今週も相当な量の書類を処理したな」

 

背後から穏やかな声がかかる。

 

「今週は、激務続き……でしたから」

 

彼女の指が肩甲骨の内側に沈み、深く、静かに。逃げ場を塞ぐような圧力が多少の痛みと湧き上がる様な心地良さを運んでくる。普段からマッサージ部なんて冗談めかして言ってますが、いっそエステサロンと命名した方がいいのではと思ってしまう。

 

「そうか。大変だね、君も」

 

私は反射的に息を止めかけて、すぐに吐き出す。

 

「いったい何方と比べているんですか」

 

「君の大好きなヒナ委員長の事だけど」

 

「……なッ」

 

一瞬、肩に余計な力が入ってしまった。

それを彼女は見逃さず、するりと手を滑らせる。

 

「冗談だよ。ほら、力を抜いて」

 

否定も反論も用意していた筈なのに。そうあっさりと言われて言葉に詰まってしまった。肩の力を抜いたのを確認してからまた施術を再開した。

 

基本的に施術中、ウヅキさんは余計なことを言いません。必要なことだけを、適切な順番で告げる。それが妙に落ち着く。 

 

 

「天雨、君はよくやっている」

 

その一言が胸の奥に引っかかった様に苦しくなり、つい拒絶する様な声を出してしまう。

 

「……評価は不要です」

 

「君らしいね。ただ私は褒めてあげたかっただけなんだ。君は少し自罰的だろう? 少しでも軽くなれば良いと思ったんだ」

 

腰に掛かる指圧が少し緩む。同時に呼吸が自然と深くなる。自分でも驚くほど心臓が弾んでいくのを感じていた。それを認めるのが癪で仕方がありませんが。

 

彼女は整体以外にも、ヘッドスパや必要とあらば整骨や耳かきなども行っているようだった。首の角度を調整するために「この方が合理的だ」と言われ、結果として……その、いわゆる膝枕の状態になります。

 

つまり距離が近い。今でさえ、否が応でも彼女から漂う柑橘系の匂いが思考を掻き乱していくというのに。

 

私は渋々従っただけです。

本当に、渋々。

 

「……失礼します」

 

そう言って頭を預けた瞬間、思った以上に安定した感触が返ってきて、それだけで肩の力が抜けてしまう。

 

「少し力が入ってるようだけど、どうかした?」

 

「……何でもありませんから、気にしないでください」

 

「そう? 君がそう言うなら、以降は気にしないようにするよ」

 

淡々と言われて、思わず睨んでしまう。でも、ウヅキさんはただ静かに頬にかかった髪を避けて、首元を支えるだけ。

 

その仕草がやけに丁寧で。

過不足がなくて。

どうしようもなく、腹立たしい。

 

表向き、私は相変わらずです。

 

「別に、ここが好きなわけではありません」

「ただの敵情視察です」

「勘違いなさらないでください」

 

不満そうな顔も忘れません。

声色も冷たく保つ。

 

でも、内心では。

 

──今日は少し長くお願いしてもいいかもしれませんね。

──次は、いつ来られるでしょう。

──この体勢も悪くありません。

 

そんなことばかり考えてしまっている。気づけば週に一度。頭の中だけにある予定表の片隅で「整体部」の文字をなぞるのが当たり前になっていた。

 

それでも、私は認めません。

認めるつもりもありません。

 

「……本当に、嫌になります」

 

そう言いながら、今日も私はウヅキさんの膝に頭を預けてしまう。そもそも私は名前で呼んでいるのに、ウヅキさんは「天雨」呼びなのも気に入らない要因の一つでした。

 

外から見れば、嫌がっているように見えるでしょう。

ええ、それで結構です。

そういう狙いですから。

 

内心でどれだけ安心しているかなんてそんなこと、わざわざ教えてあげる必要はありませんから。

 

 

……思えば、最初からこうだった訳ではない。

 

整体部という存在を、私が最初に把握したのは、ヒナ委員長がそこへ定期的に足を運んでいるという話を耳にした時だった。その時点で胸の奥に小さな棘が立ったのを覚えている。

 

委員長が誑かされている。

 

今となっては思わず苦笑してしまいますが、当時の私にとっては最も合理的な仮説でした。

 

私は密かに調査を開始した。

 

整体部の活動記録。

部員構成。

利用者の傾向。

委員長が訪れる頻度と時間帯。

 

資料を並べ、線を引き、関係性を洗い出す。やっていることはいつもと同じで、違うのは胸の奥にある焦燥感だけ。

 

何故ならどの資料を見ても、違和感は増すばかりだったから。

 

整体部は驚くほど地味だった。派手な宣伝もなければ成果を誇る報告書もない。そもそも彼女以外の部員の出入りは一切存在せず、そこから弾き出される結論に余計理解不能という言葉が浮かんでくる。何かよからぬ事をしようだとか、隠れた思惑も見られない。目的は一貫して「身体の状態を整える」。それだけ。

 

それが、逆に不気味でした。そもそも委員長ほどの人物を相手にして、何も得ようとしないなどあり得ない。何かを隠している。そう考える方が自然だ。だから私は直接確認することにしました。

 

初めて整体部の扉の前に立った日のことは、今でも細部まで思い出せます。扉を開けた瞬間「敵」と応対するつもりでいたから、無意識に背筋を伸ばしていた。臨戦態勢、と言ってもいい。

 

「失礼します」

 

声は硬く短く。余計な隙を見せないよう意識していた。

 

扉を開けて中にいたのが件の整体部、部長の宮雲ウヅキさんでした。

 

第一印象は、拍子抜け。

想像していたよりも小柄で、威圧感もない。ただ、こちらを静かに見つめる視線だけが妙に優しかった。

 

それが気に入りませんでした。

 

こちらは警戒しているのに、向こうはごく自然体で。途端に馬鹿馬鹿しくなってしまう。

 

「……少し、お話を」

 

そう言った私に、彼女は小さく頷いただけでした。

 

「何か問題が?」

 

声音や雰囲気は穏やかで、余計に調子を崩される。

 

私は一歩踏み出した。

視線を逸らさず、言葉を選ばず。

 

「我らが風紀委員長、空崎ヒナ委員長が頻繁にここを訪れているそうですね。いったい何をしているんですか」

 

こういった手合いには遠回しに聞くよりも、いっそ直球で聞いた方が良い。彼女は一瞬だけ考える素振りを見せてから答えた。

 

「特別な事はしてないよ。身体の状態を整えているだけで、貴女の思う様な怪しい事はしていない」

 

特に緊張もして居ない様子だった。

 

「口ではどうとでも言えます」

 

私は反論を期待していました。

 

正当性の主張。

資格の説明。

あるいは、言い訳。

 

その全てから粗を探し指摘してやればいい。そう息巻いていた私の予想を裏切る様に彼女はあっさり言ってのけた。

 

「そうだね」

 

一拍、言葉を失ったのを覚えている。

 

「……責任は取れるんでしょうね」

 

苛立ちが、声に滲んだのを自覚しています。

 

「必要なら取るよ」

 

彼女の言葉は驚くほど、軽い。

 

その軽さが、委員長の背負っているものの重さを理解していない証拠に思えた。しかしその印象は次の彼女の言葉で良い意味で裏切られる事になります。

 

「彼女の症状は放っておくには深刻だからね。出来れば長期的な施術をと思っているが……どうかした?」

 

「……い、いえ」

 

そこで初めて、自分が思い違いをしていた事に気付いた。同時に、数々の失礼を働いていた事に思い至り、後日菓子折りを持って再び整体部へ足を運ぶ事になるのはちょっとした後日。

 

今なら分かります。

 

あの頃の私が警戒していたのは委員長を誑かす存在ではありませんでした。委員長が誰かに身を委ねるという事実そのもの。それを認めてしまえば、自分の立ち位置が揺らぐ気がしていた。委員長を支えると誓った自分は何の役にも立たなかったと、認める様なものだった。

 

だから私は合理性という名の盾で敵意を正当化し、許されざる感情に身を委ねたのだ。

 

今、その記憶を辿りながら少しだけ思い出す。

 

もし、あの頃の私が今の自分を見たら。ウヅキさんの膝に頭を預け、目を閉じ、何も言わずに身体を委ねている私を見たならきっと、信じられないような顔で喚いていたに違いありません。

 

そんな状況でもウヅキさんは平常心で、いつもの様に穏やかな笑みを浮かべているのでしょう。

 

そう考えると胸の奥がほんの少しだけ、ざわついてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

整体部を立ち上げてから丁度3週間。かなりの利用者が増えた。

 

週あたりの来室者数、再訪率、利用間隔。そのいずれもが当初の想定よりずっと高い。そろそろ1人では罷り通らなくなって来たかと思えばそうでもなく、不思議な事にダブルブッキングは起こってない。

 

盛況の理由については、いくつか仮説を立てている。風紀委員の間での口コミ。部室棟本館という立地など。いずれも妥当だ。特別なことをしているつもりはないから、きっと最初の利用者が宣伝でもしてくれたんだろう。次に来た時にでもお茶を振る舞おう。

 

ただ一つ、記録に残しづらい変化もある。

 

最近、妙に視線を向けられることが増えた。施術中、あるいは施術前後。会話が止まった一瞬や、私が器具を片付けている最中に何処か熱を帯びた視線を感じることがある。

 

最初は偶然だと思った。人は知らない場所や初めての体験に対して不必要に視線を向けがちだ。警戒か、興味か、そのどちらか。整体部はまだ設立して新しい。観察されるのは自然だろう。

 

しかし明らかにその頻度が増えている。敵意でも、純粋な警戒でもない。評価とも違う。どこか、個人的で、長く、逸らされるのを待っているような性質をしている。天雨アコも、その一人。

 

施術台に横になっている時だけではない。来室した瞬間、あるいは帰り際。言葉を交わしていない時間に、こちらを見ていることがある。気づくと慌てて視線を逸らすのが少々引っ掛かるが特に反応はしない。

 

利用者にとって施術者は身体に触れる存在だ。そこに安心や依存に近い感覚が生じることは理解している。いわゆる転移反応というやつだ。それに該当するものだろう。

 

だが、私自身に向けられている理由までは、まだ説明がつかない。

 

ヒナも、視線を向ける事はある。ただし天雨のそれとは違う。私個人に対する単純な評価と友人としての一定の信頼。理由はわからないが、変化がないかを静かに観察しているようだった。

 

問題は、それ以外だ。

 

施術を終えた後、感謝以上の言葉を向けられることがある。距離が近い。言葉が多い。あるいは、逆に黙り込んで、こちらをぼんやりと見ているなど。

 

その事について特段気にしていない。整体部の活動方針として、身体の状態を観測し、調整する。それ以上でもそれ以下でもない。

 

もし視線の意味を考えるとしたらそれは私の役割ではない。そう結論付けている。

 

 

 

 

 

 

 

整体部の午後は、相変わらず時間の堆積が曖昧だ。

 

部室棟本館の外では、生徒たちの足音や怒号めいた会話が幾重にも反響している筈なのに、この部屋まで届く頃にはそれらは摩耗し、角を失い、ただの背景音に変わっている。まるで長い年月を経て丸くなった石のように。

 

机に向かって記録書を纏めていた所にふと扉が開く音がした。金属が擦れる音は控えめだが、踏み出す足取りには躊躇がない。私は視線を上げる前から来訪者を特定していた。

 

「失礼いたします」

 

天雨アコ。柔らかい敬語と、外見に似合わないほど鋭い視線。入室と同時に部屋の全体を一巡し、家具の配置、窓の位置、私の手元までを一息で把握している。その様子は現場を見極める調査員に近い。

 

「今日は特に忙しそうだけど、大丈夫?」

 

私はそう言い、ペンを置いた。

 

「ええ、問題ありません」

 

「何だか特に疲れていそうだね。今日は少し長めにしようか」

 

「……はい。お願いします」

 

天雨は一瞬だけ口元を引き結んだが、特に反論はしなかった。それも以前よりは反応が柔らかい。初来室時にあった探るような間はもうない。

 

彼女は自然な動きで上着を整え、簡易ベッドへ向かう。うつ伏せになった背中は、来室時よりも僅かに緊張している。呼吸が浅く、肩が上がったままだ。

 

私は数秒、触れずに観測する。背部の左右差。肩甲帯の可動域。筋の張り方。すべてが過密な行政処理の痕跡を語っている。

 

「背部の緊張が非対称だ。今週は、相当忙しかったようだね?」

 

「……どうして、そこまで分かるんですか」

 

「地層と同じだ。表層が静かでも、内部の圧力は必ず歪みとして露出してしまう。君の場合、それが肩と背中に集中している」

 

最初の圧を、浅く、広く入れる。指先ではなく、掌で全体を覆うように。急いではならない。遺物を掘り出す時と同じで、性急な介入は構造を壊してしまうから。

 

天雨は一瞬だけ息を止め、それからゆっくりと肺に溜まった空気を吐き出した。

 

「……相変わらず、ですね」

 

「変わる必要がないからね」

 

肩甲骨の内側へ、圧を移す。筋が抵抗し、やがて緩む。その変化は掌を通して明確に伝わってくる。

 

「……っ」

 

「痛むのは酷使した結果だ」

 

「分かっています。……構わず、続けて下さい」

 

「暫くここを重点的に解すから、あまりに痛む様なら加減をするから言ってくれ」

 

私は彼女の上に跨り、ある程度の位置を整える。彼女は指示される前に、自然に身体の力を抜いて預けてくる。以前よりも迷いがない。信頼と受け取ってもいいのだろうか。

 

「……毎度思いますが、この格好は」

 

「なにがだ?」

 

「いえ……」

 

警戒心の強い彼女の事だ。きっと無防備に背中を晒すのが受け入れ難いのだろう。

 

「また肩に力が入っているね」

 

「っ……職業柄です」

 

「ここでは、その前提を一時的に放棄した方がいい」

 

「わかって、います」

 

下着のホックを外し、手にマッサージオイルを塗りたくる。まずは腰下からゆっくりと上へ揉む様に手を這わせる。

 

まだ慣れないのか手が触れる瞬間、ピクリと反応し滲む様な緊張が伝わってくる。私は不必要な感情を意図的に排除して施術を続ける。距離が近いのは事実だが、それは手技上の必要あっての事だ。

 

施術が終盤に差し掛かる頃、背中の緊張は明らかに減っていた。彼女はゆっくりと起き上がり、肩を回す。動きは来室時より滑らかだ。

 

「……驚くほど楽になりました」

 

「だとしても、あまり無理はしないようにね」

 

「善処します」

 

 

整体部の床は、光の当たり方によって表情を変える。部室棟本館の廊下から差し込む午後の光は、窓硝子を一枚隔てただけで性質を変え、白く均された床面に淡い反射を落とす。その反射は均一ではなく、長年の使用で生じた細かな摩耗や、僅かな湿度の差によって場所ごとに滑りやすさが異なる。

 

私はその事実を、知識としては把握していた。

 

施術を終え、器具を所定の位置に戻していた時だった。天雨アコが簡易ベッドから降り、上着の袖を整えながら一歩踏み出す。その動きはいつも通り洗練されていたが、足裏が床に触れた瞬間、微かな違和感が空気を切った。

 

布と床が擦れる、軽い音。

 

「あっ──」

 

次の瞬間、彼女の重心が前に崩れる。身体が一瞬宙に浮いたように見え、腕が空を掴む。だが距離が足りない。立て直す余裕はなく、彼女の身体はそのまま前方へ倒れ込んできた。

 

衝撃は、予想よりも穏やかだった。彼女の手が私の胸元に触れ、次いで私の背中が床に当たる。鈍い音。肺から空気が一度だけ押し出される。頭部は無意識に守ったため、床に打ち付けることはなかった。

 

視界が反転する。

天井の照明が、ほんの僅かに揺れて見える。

 

「……大丈夫ですか!?」

 

天雨の声は明らかに動揺していた。彼女は私の上に覆い被さる形になったまま、慌てて体勢を立て直そうとする。だが距離が近すぎる。膝が床に引っかかり、手の位置も定まらず、かえって動きがぎこちない。

 

彼女の表情はいつもの余裕を失っていた。眉が寄り、目が見開かれ、唇が僅かに震えている。強気な行政官の仮面は、この瞬間ばかりは完全に外れていた。

 

「大丈夫だ、気にしないでくれ」

 

私は淡々と答える。

声の調子は転倒前とさして変わらない。

 

「床のメンテナンスを怠っていた私の落ち度だ」

 

そう告げながら、私は起き上がろうとする。

だが、その動作の途中で袖口に微かな抵抗を感じた。

 

「ちょっと、待ってください」

 

天雨が私の袖を掴んでいた。指先の力は強くない。振り払おうと思えば出来たが、彼女の顔は赤いのに気付き一瞬止まる。転倒の所為か、それとも別の理由か。呼吸は浅く、視線が定まらない。それでもこちらを離そうとしない。もしや風邪か?

 

「今の……もう少し、何か反応があってもよろしいのでは?」

 

「反応とは」

 

「驚くとか、慌てるとか……普通、ありますでしょう」

 

声は敬語の形を保っているが、語尾に苛立ちが滲んでいる。

 

「転倒事故に対する最適反応は、二次被害の回避と状況確認だと思うが……」

 

「そういう意味ではありません!」

 

声が一段高くなる。彼女は唇を噛み、視線を逸らすが、それでも袖を離さなかった。いったいどうしたというのだろう。

 

「……少しは、私を意識してくださっても……」

 

あまりに小さくて上手く聞き取れず、もう一度聞き返そうとした所で整体部の扉が静かに開いた。

 

音は小さい。だが、その開閉に伴って流れ込んできた空気は、明らかに温度が違った。

 

「……何をしているの」

 

声は低く、抑えられている。

感情は乗っていない。だが、圧がある。床に置かれた物の配置まで正されるような、静かな威圧。

 

空崎ヒナだ。彼女は扉の前に立ったまま、状況をある程度把握したのか若干頬を赤くしながら床に倒れている私に覆い被さる形の天雨、互いの距離。袖を掴む手を順に確認していき、表情に色が失われていく。

 

いつもと殆ど雰囲気は変わらないものの、目だけが異様に冷えている。感情を抑え込んだまま、底に沈めた怒りが静かに光っているようだった。

 

「……い、委員長、これは」

 

天雨が慌てて言いかける。

だが、その声は途中で止まってしまう。ヒナの視線が、真っ直ぐ彼女を射抜いたからだ。

 

「言い訳は後で聞く」

 

それだけ。短い言葉だが、拒否も反論も許さない様な圧力がある。

 

ヒナは歩み寄り、アコの腕を掴む。力は強くない。だが、関節の位置と角度が正確で、抵抗すれば痛みが出ることを即座に理解させる掴み方だ。

 

「……痛っ、い、委員長! せめて着替えてから──」

 

「迷惑をかけた」

 

ヒナは私の方を向き、深く頭を下げた。

 

「気にしないでくれ、ただの事故だ。あまり天雨を責めないでやってくれ」

 

「善処する」

 

ヒナは短く頷く。その言葉好きだね、君たち。私は事実を述べただけだが、果たして聞き入れられたのかは天雨のみぞ知る事だろう。

 

「施術は、また改めて来る」

 

ヒナはそう言い残し、天雨を引きずるように連れていく。彼女は抵抗するように一瞬振り返るが、ヒナの手を振りほどくことはできない。悔しそうに眉を寄せ……いや、そこはかとなく嬉しそうだな。

 

一瞬何か言いたげに口を開きかけて、結局何も言えずに扉の向こうへ消えていき、扉が閉まる。

 

埃の粒子が再び光の中を漂い始め、室内に元の静寂が戻った。私は床から起き上がり、服についた微かな埃を払う。

 

ノートを開き、今日の出来事を記録する。

転倒事故については備考欄に一行追加する。

 

「床材摩耗による滑倒の可能性。注意喚起を検討」

 

 

整体部は、今日も通常通り機能している。

 

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