百鬼夜行   作:ドラマ・ドラマ

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1.波止場

火は、すでに町の半分を呑み込んでいた。

 

海峡を渡って吹きつける夜風が炎を押し広げ、乾き切った梁や積み上げられた船材を、赤く執拗に舐めていく。爆ぜる木材の音が闇を叩き、その衝撃が空気を震わせた。潮の匂いに焦げた臭気が絡み合い、息を吸うたび、喉の奥から肺へと熱が落ちていく。

 

海面には、燃え落ちた破片が点々と浮かんでいた。火光を映し込んだ水は歪み、波に揺られ、互いに触れては離れていく。その揺らめきが、夜に残されていたわずかな静寂を、何度も引き裂いていた。

 

波止場は、もはや港としての体を成していない。折れ倒れた係留柱、焼け落ちた網、半ば崩れた倉庫の壁。火は用途も由来も顧みず、そこに積み上げられてきた人の営みを、等しく呑み込み続けている。残されていたのは生活の痕跡ではない。町そのものが否定され、削り取られていく光景だった。

 

ほんの数日前まで、この港町は平穏を享受していた。外でどれほど戦が繰り返されようとも、ここだけは戦禍の外にある――そう信じられ、あるいは信じたいという願望によって、その均衡は保たれていた。

 

だが今夜、その前提は音を立てて崩れ始めていた。

 

海峡を越えてきた人間の軍勢は、夜の帳に紛れるように姿を現し、瞬く間に波止場を制圧していく。潮風に揺れる鎖帷子と胸当てが擦れ合い、乾いた金属音が規則正しく連なった。石畳を打つ重い靴底の衝撃、鞘の中で鳴る剣、互いの位置を確かめ合う低い声。それらが積み重なり、夜の静寂は押し潰されるように破られていく。

 

船団の先陣が岸壁へと達する。小型の上陸艇が波に煽られ、鉄の楔のように水面を割った。船底が浅瀬の岩に擦れる軋み、舷側を打つ水音が重なる。兵士たちは甲冑の重みを意にも介さず海から跳ね上がり、濡れた石畳へと足を下ろした。

 

火光を映すその眼差しに、迷いはない。視界に入るものすべてが、征服すべき対象として無言のうちに選別されていく。

 

命令は短く、簡潔だった。波止場を押さえ、倉庫を制圧し、抵抗は排除する。

 

それが何を意味するかを、兵士たちは理解している。だが、理解した上で疑問を挟む者はいない。ここに集められたのは、命令を遂行するための人間だけだった。

 

やがて、悲鳴が上がった。

 

最初は一つ。次に二つ。だがそれらは言葉として形を保たない。石畳に弾かれ、建物に吸われ、夜気に引き裂かれて消えていく。炎に照らし出された人影は個としての輪郭を失い、恐怖という概念そのものの象徴として揺らいでいた。

 

それでも兵士たちは歩みを緩めない。血と火の匂いが混じり合う空間を、命令に従う歯車のように進み続ける。剣を振るう腕にためらいはなく、視線は次の標的へと流れていった。

 

倉庫の扉は打ち破られ、梁が音を立てて折れ、積み上げられていた板材が火に煽られて弾け飛ぶ。その衝撃音が港全体へ反響し、次々と重なっていく。火光は建物の影を不自然なほど引き延ばし、人の形をした影を、獣とも異形ともつかぬ姿へと歪めていた。

 

兵士たちは、波止場を単なる通過点として扱わなかった。

 

岸壁から内陸へ続く通りは即座に遮断され、倉庫群の出入口には分隊が配置される。逃げ場を失った人影が建物の影をよぎるたび、甲冑の擦れる音が間を詰めた。剣が抜かれる音は短く、鋭い。威嚇の意味はなく、振るう前提で抜かれた刃だった。

 

内側から扉を押さえる音が響く。木材が軋み、押し合う気配が伝わる。合図ひとつで鉄槌が振り下ろされ、留め金が飛び、板が裂けた。暗がりから熱と悲鳴が噴き出す。中にいた者たちは、立ち上がる暇も与えられなかった。

 

火は、人間の手を必要としていなかった。既に町の構造を理解したかのように、屋根から屋根へ、通りから通りへと移っていく。炎が回り込んだ先で兵士が行軍を止めることはない。経路を変え、包囲を続けるだけだ。火と鉄は互いを妨げず、結果として町を削り取っていった。

 

波止場に残された船は、抵抗の意思を示す前に無力化された。帆は切り裂かれ、舵は壊され、船底には楔が打ち込まれる。海へ逃げようとした者がいれば、浅瀬に追い詰められ、波に足を取られたところを仕留められた。水面に広がる赤は、やがて夜の色に溶け、跡形もなく消えていく。

 

指揮を執る騎士は、波止場の中央に立ち、燃え上がる倉庫群を見渡していた。町が崩れていく様を、破壊としてではなく工程として受け止めている。予定通りだ、と判断する。抵抗は散発的で、統制は取られていない。この港に軍事的な備えがないことは、事前の報告通りだった。

 

それでも、妙な感覚が残る。

 

火は十分に広がり、人影も潰えつつある。それにもかかわらず、勝利の高揚が立ち上がらない。波止場を覆う音は制圧のそれであるはずなのに、どこかが欠けている。歓声でも、恐慌でもない。――反応そのものが、薄い。

 

騎士は兜の奥で眉をひそめた。

 

「……妙だな」

 

呟きは、誰に聞かせるでもなく漏れただけだった。兵士たちは命令を待ち、待機の姿勢を崩さない。燃え落ちる音と、遠くで続く破壊の響きだけが、一定の律動を刻んでいる。

 

そのとき、風向きが変わった。

 

熱を含んでいたはずの風が、一瞬、冷えた気配を帯びる。火の揺らめきが不自然に歪み、影の伸び方が変わった。ごく短い違和感だったが、騎士はそれを見逃さない。視線を走らせる。だが、見えるのは炎と瓦礫、人影の残滓だけだ。

 

異変は、姿を現さない。

 

それでも、理由の分からない不安だけが、波止場の底へ沈み込んでいく。騎士は気のせいだと切り捨て、次の命令を出そうとした。

 

その瞬間――どこかで金属が落ちる音がした。

 

戦場にはありふれた音のはずだった。だが、この夜だけは、ひどく大きく、はっきりと耳に残った。音の主を探して振り返った兵士の動きが、わずかに遅れる。

 

騎士は、確信する。

 

――まだ、すべてを制圧したわけではない。

 

だが、この夜は、まだ終わっていない。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

港町の路地は、すでに人の暮らしの場所ではなかった。

 

炎は屋根から屋根へと渡り、狭い通りを塞ぐように燃え広がっている。崩れた壁の隙間から熱が漏れ、石畳は赤く照らされて脆く歪み、踏みしめるたび低い悲鳴を返した。火の粉と煙が風に巻き上げられ、視界は断続的に断ち切られる。破壊の音は方向を失い、近いのか遠いのかも分からない。町全体が、一つの巨大な生き物のように軋み、唸っていた。

 

石畳の中央で、少女は立ち尽くしていた。

 

息を吸うたび、喉の奥が焼ける。煙に咳き込もうとしても、声は出ない。足に力を入れようとしても、身体は言うことを聞かなかった。炎に照らされて揺れる影と、倒れた鎧の鈍い反射。それらが何を意味するのかを考える前に、心臓だけが無秩序に鳴り続けている。

 

鋼靴の音が近づいた。

 

一つではない。複数だ。鎧の擦れる乾いた音、荒い呼吸、短く交わされる低い声。狭い路地にそれらが重なり、逃げ場のない圧力となって迫ってくる。

 

少女は一歩退こうとして足をもつれさせ、石畳に倒れ込んだ。直後、肩を強く掴まれる。指の力は強く、抵抗が無意味であることを即座に理解させた。刃が抜かれる音がする。火光を受け、影が剣の形を取る。

 

そのときだった。

 

「……その娘一人に、ずいぶんと手間をかけるのね」

 

声は低く、静かだった。怒りも嘲りもない。ただ、事実を並べただけの調子。

 

兵たちの動きが止まる。振り返った先に、女が立っていた。燃え盛る通りの中央。熱風の只中にありながら、その周囲だけ空気が沈み、澱んでいるように見える。長い黒髪が夜風に揺れ、口元は白い布で覆われていた。

 

戦場に立つ者の気配とも、逃げ惑う民のそれとも違う。切れ長の瞳が、兵士たちを一人ずつなぞる。その視線に感情はない。数を数えるようでもあり、選び分けているようでもある。

 

「なんだ、女か」

 

兵の一人が下卑た笑みを浮かべた。別の男が、少女の肩を掴む手に力を込める。女は止めない。怯えも嫌悪も示さず、ただ一歩、前へ出た。

 

「ねえ」

 

布越しの声が、路地に落ちる。

 

「私、綺麗?」

 

場違いな問いだった。あまりに静かで、あまりに唐突で、炎の唸りさえ一瞬遠のいたように感じられる。兵たちは顔を見合わせる。やがて、誰かが機嫌を取るように笑った。

 

「ああ。隠れてても分かるさ」

 

「なら、ちゃんと見せてみろよ」

 

短い沈黙の後、女は口元の布に指をかけた。布が外れ、石畳に落ちる。

 

次の瞬間、兵士たちの呼吸が止まった。

 

そこにあったのは、人の顔の形をした“何か”だった。だが、それは成立していなかった。唇の端から端まで走る裂け目。赤橙の炎に照らされ、その奥に歯とも影ともつかぬ暗色が、ぬめるように覗いている。

 

理解が追いつく前に、身体が先に反応した。

 

最初の男が崩れ落ちる。刃が振るわれた音はしなかった。気づいたときには、鎧ごと胴が断たれ、血が石畳に落ちている。逃げようと背を向けた男の背に、影が踏み込む。次の瞬間、閃光のような一撃。剣が手を離れ、乾いた音を立てて転がった。

 

残った一人は叫ぼうとして、喉を引き攣らせた。声になる前に、刃が通り過ぎていた。

 

そこに激情はない。見せしめも、執念もない。不要なものを処理するような、過不足のない所作だけが残っていた。

 

女は刃を下げ、少女を見る。

 

「……行きなさい」

 

声音は平坦だった。命令でも、慈悲でもない。

 

少女は震えながら立ち上がり、数歩走ってから振り返りそうになるのを必死に堪え、そのまま炎の向こうへ消えていく。

 

女は刃を鞘に収め、足元に落ちた布を拾い上げ、裂けた口を再び覆った。

 

「……もう、覚えている者はいないのね」

 

誰に向けた言葉でもない。問いでも、責めでもなかった。

 

そう言い残し、女の姿は煙と炎の向こうへ溶けていった。

 

路地に残ったのは、倒れ伏した兵士たちの屍と、燃え続ける音だけだった。港町の夜はなおも赤く照らされ、ここがすでに「庇護の内側」であったことを、誰にも説明されることなく、静かに刻み続けている。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

港町の別の路地もまた、人の営みが続く場所とは呼べなくなっていた。

 

炎は木造の家々に絡みつき、獣のように梁や壁を舐め回しては喰らい尽くす。赤と黒が夜を塗り潰し、崩れ落ちた瓦が乾いた衝撃音を立てて石畳を打った。焼け落ちた木片は弾かれるように海へと落ち、鈍い水音となって、途切れ途切れに路地へ戻ってくる。そのすべてが、時間をかけて少年の心を押し潰していた。

 

少年は瓦礫の隙間に身を沈め、冷えた石壁に背を押しつける。火傷の痛みが遅れて全身を貫き、震える手足は言うことを聞かない。胸の奥では、熱と恐怖が絡み合い、呼吸のたびに煙と炎が肺を抉った。倒れる兵士の呻き、瓦礫の崩落、揺らめく炎の朱に照らされ――五感すべてが洪水のように押し寄せ、理性は静かに、確実に削られていく。

 

そのとき、路地の奥に二つの影が現れた。

 

小さな一体を目にした瞬間、少年の脳裏には、かつて森で見かけた獣の輪郭がよぎった。細長い胴、短い四肢、地を舐めるように低く構えた姿――記憶にある小獣のそれと、よく似ている。

 

だが、前肢の先に備わっていたのは爪ではなかった。骨そのものが歪み、反り返り、刃の形を取ったかのような異様な鎌。振るわれるたび、空気が裂け、刃に触れずとも走った風が皮膚を刺す。動きは速いというより、あまりにも軽い。跳躍のたびに「走る」という過程が存在せず、意思を持った突風が位置を移しているように見えた。その都度、乾いた金属音が短く鳴り、少年の背筋を強張らせる。

 

「……動くな」

 

低く、抑えた声だった。獣のものではない。だが、人の声と断じることもできない。

 

――違う。

 

理解が形になる前に、確信だけが胸の底へ落ちてくる。分からないものを分かろうとすること自体が危険だと、本能が警鐘を鳴らしていた。恐怖は遅れて、しかし確実に身体を支配しはじめる。

 

少年は息を殺し、瓦礫の陰へさらに身を沈めた。視界の端で揺れる炎と血の赤が、心臓を直接掴むように迫る。小型の異形は瞬きほどの時間で兵士たちの間を駆け抜ける。鎌が振るわれるたび、風を伴った切っ先が命を刈り取った。飛び散る破片、空気に残る血の匂い――それらすべてが、逃れようのない現実として少年の前に突きつけられていく。

 

「……人は、すぐ忘れる」

 

低く、重たい声が路地に落ちた。

 

声の主は、形容そのものを拒むような巨獣だった。猿を思わせる頭部に、闇を映す黒い瞳。広げられた鳥の翼が夜気を切り裂き、羽ばたくたび瓦礫と火の粉が宙を舞う。胴と四肢は肉食獣のそれであり、蛇のようにしなる尾が地や崩れ石に触れるたび、空気が震えた。尾と爪が振るわれるごとに路地は揺れ、低いうなりに混じって、鳥とも獣ともつかぬ甲高い音が断続的に響く。その音は、少年の胸の奥に冷たい波紋を広げていった。

 

「……約は、残っている」

 

応えたのは、小柄な異形だった。風を纏い、地に触れることなく立つその姿が、声とともに揺らぐ。

 

言葉が終わるより早く、鎌が振るわれる。風が刃となって兵の動きを断ち、次の瞬間、巨獣の尾と爪が叩き落とした。鎧が裂け、肉が潰れ、兵士たちは声を上げる間もなく石畳に崩れ落ちる。

 

血と煙が混じり合い、時間の感覚が歪む。光景は連続した出来事ではなく、断ち切られた断片として、少年の眼裏に焼き付いていった。

 

再び、閃光が走った。

 

雷が夜を裂き、轟音が腹の底を打つ。赤と黒、炎と血、閃きと影。世界は一瞬で混濁し、恐怖だけが輪郭を持って立ち上がる。少年は瓦礫の隙間に伏せ、歯を食いしばる。熱、煙、血の匂い、衝撃、切り裂くような風――それらすべてが、皮膚を越えて内側へと突き刺さった。

 

やがて、音が引いていく。

 

炎の唸りだけが、路地に残った。

 

その中で、小柄な異形の視線が一度、少年を捉えた。

 

「……見たな」

 

それだけだった。

 

それ以上の言葉も、説明もない。関心を示すことなく、影は風の流れに紛れ、夜気の奥へ溶けていく。巨獣の気配もまた、雷鳴の残響とともに遠ざかっていった。

 

路地には、倒れ伏した兵士たちと、燃え残る瓦礫と、熱を孕んだ空気だけが残された。少年は動けなかった。それが何であるのか――言葉を持たぬまま、少年は崩れた夜の底で震え続けていた。

 

路地を満たしていたはずの殺気や気配は、気づけば霧が引くように消え去り、代わりに焼け落ちた木の匂いと、熱を孕んだ空気が漂っている。少年は瓦礫の影から身を起こすことができず、石畳に伏したまま、胸の上下を確かめるように浅い呼吸を繰り返していた。

 

動けば、何かが崩れる気がした。

 

瓦礫の向こうには、動かなくなった兵士たちの影がある。甲冑に覆われた身体は、ついさきほどまで剣を振るい、怒号を上げていたはずだ。その事実だけが、異様なほど遠く感じられた。血の色は炎に照らされ、黒く沈んで見える。生き物だったものが、ただの障害物へと変わっている。

 

少年は視線を逸らした。理解しようとした瞬間、それは人の営みの外にあるものだと、身体が先に拒んだ。煙が流れ、視界がわずかに開ける。

 

路地の入口に、松明を掲げた影が現れた。数人の町人と、武装した守備兵らしき姿が混じっている。足取りは慎重で、足元を確かめるように進んできた。その中の一人が、倒れ伏す兵士たちを見て、言葉を失ったように立ち尽くす。

 

「……なんだ、これは」

 

誰かが呟いた。答えは返らない。

 

少年の存在に気づいたのは、その少し後だった。瓦礫の間に隠れるようにしている小さな影を見つけ、驚いた声が上がる。数人が駆け寄り、少年の腕を掴んだ。触れられた瞬間、身体が跳ねるように震え、喉の奥から掠れた息が漏れる。

 

「大丈夫だ、もう終わった」

 

その言葉は、慰めの形をしていながら、何一つ届かなかった。終わったのは何なのか。始まったままのものは、どこへ行ったのか。

 

少年は、何も答えなかった。

 

抱き起こされ、路地の外へ連れ出される。焼け落ちた建物の影から影へと移るたび、視界の端に、あの夜の断片が蘇る。風に裂かれる空気。甲高い音。視線だけを残して消えていった影。

 

「……見たな」

 

その声が、耳の奥に沈殿している。命令でも脅しでもない。ただ、事実を指し示しただけの言葉。

 

町の広場には、生き残った者たちが集められていた。毛布をかけられ、怪我の有無を確かめられ、名前を呼ばれる。泣き声と嗚咽が混じり合い、夜が人の感情によって塗り直されていく。少年はその中に座らされ、何度か問いを投げかけられた。

 

「何があった」「敵はどこへ行った」「数は、どれくらいだった」

 

少年は、答えられなかった。

 

頭の中にあるものは、言葉に直した途端、壊れてしまいそうだった。雷や風を語れば、偶然として片づけられる。どちらも違うと感じているのに、それを否定する術がない。

 

やがて、大人たちは目を伏せるようになる。

 

「……子どもだ。混乱している」「無理に思い出させるな」

 

その判断に、少年は救われたわけではなかった。ただ、切り捨てられたのだと理解した。

 

少年の耳に入ってきた言葉は、次第に形を変えていった。帝国兵同士の争いだった、という者。落雷に巻き込まれただけだ、という者。獣の仕業だと囁く声も、ひそやかに混じる。

 

どの説明にも、少年が見たものは含まれていなかった。

 

少年は俯き、手のひらを見つめる。煤と血が混じった汚れが、爪の隙間に残っている。それは洗い流せば消える類のものだ。だが、胸の奥に沈んだ感覚は、洗っても取れないと直感していた。

 

あの存在は、名を名乗らなかった。自分が何者かを語ることもなかった。

 

ただ、見たかどうかを確かめただけだ。

 

少年は知っている。今後、あの夜について語ることはないだろう。語れば、嘘になる。語らなければ、忘れたことにされる。そのどちらを選んでも、あの視線だけは残る。

 

炎は、いずれ消える。瓦礫は、片づけられる。町は形を取り戻す。

 

だが、元には戻らない。

 

少年は、人混みの中で膝を抱えたまま、夜の終わりを待っていた。理解できないものを理解しないまま抱え込み、それでも生き延びてしまったという事実だけを、受け入れさせられながら。

 

空のどこかで、風が流れを変えた。

 

それが偶然なのか、残響なのかを確かめる術はない。ただ、少年の中で、何かが確定した夜だった。世界には、語られないまま残るものがある。そして、それを見てしまう者がいる。

 

少年は、否応なくその側に立たされていた。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

小高い丘の上から、港を見下ろす影があった。夜はすでに深く、炎はなお燃えているが、その勢いは確かに衰えつつある。赤く縁取られた建物の列と、立ちのぼる黒煙が、海峡の上でゆっくりとほどけていく。

 

戦が終わったとは言えない。だが、この夜に起こるべきことは、すでに起こりきっていた。

 

異国めいた衣をまとった女は、黙したままその光景を眺めている。長い髪の奥で、九つの尾が熱と潮の流れに従って緩やかに揺れた。視線は港に落ちているが、そこに感慨はない。ただ結果だけを受け取っている。

 

「……思うたより、早う踏み込みましたな」

 

低く落とされた声は、独り言めいていながら、丘の縁に立つ背へと向けられていた。赤橙色の鎧をまとった男は応えない。角を戴くその体躯は、港の炎よりも動かぬ存在として夜に立っている。視線は一点に留まらず、岸壁、崩れた倉、沖合に残る船影へと静かに巡っていた。

 

「……年をまたげば、約も軽うなる。人は、そういう生き物どす」

 

女はそれ以上を続けない。評価でも批判でもない。ただ、長い時間を生きてきた者が何度も見てきた事実を、そのまま言葉にしただけだった。男は港の北寄り、波止場の突端に残る人影を一瞥し、短く告げる。

 

「……不戦の約定は、破られた」

 

感情はこもっていない。現状を受け入れ、事実を確定させるための一言だった。

 

「ここを越えられれば、次は防げん」

 

それだけで十分だった。重ねた説明はなく、異議を挟む余地もない。

 

「……瀬蔵」

 

名が呼ばれ、丘の影がわずかに揺れる。低く詰まった異形が姿を現した。濡れた岩のような肌と、頭頂に満ちた水が夜気を吸い込んでいる。

 

「……へい」

 

「波止場から海峡沿い。今夜のうちは、誰も通すな」

 

「船は」

 

「沈めるな。――使えなくしろ」

 

瀬蔵は即座に顎を引いた。

 

「……承知しやした」

 

説明はない。その背が闇へ溶けたことで、命令はすでに実行段階に入っていた。丘の上には再び、二つの影が残る。女は港から視線を離し、男の背に向けて一礼する。

 

「鎮火と、生存者の回収を最優先にいたします」

 

「ああ」

 

「鞍馬には、空からの補給路を断たせます。文左衛門には、備えを開かせまひょ」

 

男は頷くだけで応えた。名だけが静かに夜へ落ち、その重みを今この場で量る必要はなかった。

 

「……三日後に軍議を開く。準備しろ…」

 

それ以上は語られない。男は再び、燃え残る港へと視線を戻した。この地は、まだ内側にある。だが、その条件は今しがた書き換えられた。

 

丘を渡る風は、もはや焦げた匂いを運ばない。代わりに、次の動きが始まる気配だけを残し、夜は静かに更けていった。

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