いつかこの手に雷光を   作:直崎ゆきふり

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一章 君とおれのおとぎ話
1 踏み出した日


「ああ、ここで待ってりゃ船が来るみたいだ。しっかし、入学試験のためだけにこんな遠出をさせるとは、魔道学園のお偉いさん方はいったい何考えてんだかな。わざわざ海を渡れって」

 

 入道雲の浮かぶ空の下、ねえちゃんが受験案内表に描かれた地図を指差した。

 黒髪を汗で張り付かせたねえちゃんは、強い日差しが照りつく港には似合わない、分厚い生地の仕事用スーツを着ている。彼女は着替える時間すら惜しい激務の合間を縫って、おれの見送りに駆けつけてくれたのだ。

 Tシャツに薄手のパーカーを羽織った涼しげな自身を見下ろして、なんだかすごく申し訳ない気持ちになった。

 

「忙しいのにごめんね。車、出してくれてありがとう」

「気にすんなって。可愛い妹分の受験とくれば、送ってやりたくなるのが姉心ってもんさ。気負わず行けよ、お前なら大丈夫だ」

 

 ねえちゃんの灰色の瞳が真っ直ぐとおれを見つめる。

 彼女はいつだって、おれよりもおれを信じてくれていた。

 おかげでおれは纏わりつく不安を振り払い、魔道学園への願書を提出できたのだ。

 

「……うん。おれ、魔道士になるよ。一迅(いっしゅん)さんみたいに、なりたいから」

 

 改めて決意を口にする。おれを信頼してくれる彼女に、再度意気込みを聞いて欲しかったのだ。

 いっそう後になんて退けないと思えるから。

 

「おうおう、その意気だ。立派な子に育って、私も鼻が高いったらありゃしねえ」

 

 頭の上に、ねえちゃんの冷たい手が乗せられた。藍色の前髪が額を撫でてくすぐったい。

 むず痒い胸の疼きをそのままに、おれは俯きがちにねえちゃんを見上げた。

 

「もう……っ、おれ、子供じゃないんだよ?」

「何言ってんだ、成人ってのは十五になった人間を言うんだぜ。お前はまだ立派なお子様だよ」

 

 照れ隠しだなんて、ねえちゃんにはお見通しだった。くつくつと喉を鳴らす音がして、おれはわかりやすく頬を膨らませた。

 

「もうすぐじゃん」

「急ぐな急ぐな。残り少ない子供時代を謳歌したまえ、中学生。おらっ、ねえちゃんにたっぷり撫でさせろっ」

「わわわっ」

 

 ねえちゃんの両手の指が、わしゃわしゃと襲いかかってきた。

 

 一通りおれを撫で回したねえちゃんは、満足した様子でおれの髪を整えた後、腕を顔の前へ持ち上げスーツの袖をずらした。初任給で買ったという、ピカピカな腕時計が太陽光を浴びて一段と輝きを放った。

 

「おっ、もうこんな時間か。楽しい時間が過ぎ去んのは、本当にあっという間だねぇ」

 

 受験案内表をおれへと手渡すと、ねえちゃんは車に戻り、流れるようにシートベルトを装着した。運転席に座る彼女が片手をかちゃかちゃと動かせば、わずかな駆動音と共に滑らかに窓硝子が降りる。

 硝子のない窓越しに灰色と目が合った。

 

「暑さには充分気をつけろよ。熱中症で倒れちまえば、取り返しがつかないからな」

「八月だから、まだ暑いもんね。わかった、ちゃんと気をつけるよ」

 

 素直に頷けば、安心したようにねえちゃんは笑った。

 

「それじゃあな、シサラ。ねえちゃんは、お前の合格を祈ってる」

「……うん、じゃあね」

 

 魔動エンジンの音が響く。手慣れたようにねえちゃんがハンドルをくるくるさせると、赤い車体はおれに背を向けた。ねえちゃんの運転に迷いはない。車はスムーズに走り出し、あっという間に小さくなった。

 その赤が1ピクセルも見えなくなるまで、おれは道路を眺め続けた。

 

 ねえちゃんは、この後すぐに仕事に戻るんだろうな。

 就職して養育施設を出たねえちゃんは、いつも忙しそうだ。滅多に顔も見せに来ない。昔みたいに、二人で毎日一緒に遊ぶなんてことはできなくなった。

 大人は、子供とは違う。まるで世界が隔たれてしまったかのように、最近のねえちゃんは遠かった。

 

 でも、ねえちゃんは……やっぱりねえちゃんだ。変わらない。

 白く冷たい指先が、優しく髪を()く感覚。

 馴染み深く、そして記憶に新しい感触をなぞるように、おれは右手を頭上へ乗せた。

 そうして待合室へと歩き出す。日差しに当たり続けたら、熱中症になっちゃうから。

 

 海風で広がる髪を押さえ、古びた木の匂いのする待合室の扉を開ける。

 待合室内には、時計とベンチがあるだけ。人影は一つとしてない。壁にかけられた時計を確認すれば、船が来るまであと三十分。手持ち無沙汰だ。

 

 本の一冊くらい、増やしてもよかったなぁ……。

 極限まで荷物を減らした旅行用バッグを両腕に抱えて、おれはベンチで一人波の音を聴き続けた。

 

 

 魔道士とは、魔法や魔術を使う者のことである。

 国家資格を取得してはじめて、人は魔道士を名乗ることができる。

 

 東暦(とうれき)二九九六年。陽照(ひでらし)帝国の建国からおよそ三千年を迎える現在、魔道士への門は平民にも広く開かれるようになっていた。

 それまでのように上級貴族からの推薦なしに、平民が魔道学園の入学試験を受けることができるようになったのだ。

 

 今上陛下による、魔道士育成法発令から早数年。魔道士は、中学生のなりたい職業第一位の座を(ほしいまま)にしていた。

 それは、実力さえあれば大金を稼げるというのも大きな理由だが、一番はやはり魔道士がカッコいいからだと、おれは思っている。

 

 大の大人が数十の束になろうと打ち勝つことのできない魔物を、魔術詠唱ひとつで容易く吹き飛ばしてみせたり。魔術を使って作物を急速に成長させてみせたり……日常・非日常にかかわらず、魔道士はおれたちを助けてくれるカッコいいヒーローなのだ。

 

 その魔道士におれがなれるかどうか、すべてはこの入学試験の合否次第だ。

 門戸が広くなったとはいえ、魔道学園への入学なしに、おれたち平民が魔道士となる道はいまだ険しい。なんとしてでも、この試験に合格しなければならない。

 憧れに手を伸ばすために。

 

 おれは一迅さんのようになりたいのだ。

 “地に立つ太陽”(こうていへいか)に仕える、“雷光の騎士”(かのじょ)のように。

 かつておれを助けてくれた、勇者のように。

 

 

 そうこう考えていれば、不意に鳥の鳴き声が聞こえた。

 この独特の鳴き声をおれは知っている。海路を見分ける、船首カモメの鳴き声だ。

 試験会場行きの船がおれを迎えにきた。

 

 待合室から顔を覗かせれば、桟橋(さんばし)に白い船が停まっている。

 あの船がそうだ。

 逸る鼓動に連れられて、おれは足早に桟橋へ向かった。

 

 船に近づけば、船体に長方形の切れ込みのように嵌められた扉が見えた。その扉のいくらか下、おれの肩の高さには、読み取り機が縫い付けられている。

 受験案内表で事前に確認した通り、おれは受験票に記された識別コードを……おっと、その前に。

 

 船へと入る前に、身だしなみチェックといこうかな。海風で髪が乱れていたら恥ずかしいし。

 とはいえ手鏡なんて持ち合わせていないから、海面に映るぼやけた姿を確認するだけなんだけどね。

 手櫛で前髪を整えながら海を覗くと、藍色髪の少女とばっちり目が合った。

 

「うわあ!?」

 

 跳ねる心臓と足が同期して、後ろに飛び退く。

 手からすっぽ抜けたバッグが、どさりと地面に落ちた。

 

「な、なに……っ」

 

 背負った木剣の柄を握りながら海面を注視しても、少女が海から出てくる様子はない。

 頭の中で大きく響く脈動が静まる頃に、どこかで見た顔だと思い至って、おれは事態を把握した。

 

 バッグを拾い、もう一度海面に顔を近づける。

 すると、にゅるりとその少女も顔を見せた。

 二つに結んだ深い海のような藍色の髪に、浅海色の青い瞳。頭にちょこんと二つ生えた角、首からぶら下げた小ぶりのナイフ……どこまでも覚えのある特徴。

 その少女は、おれだった。

 

 ここまで鮮明に映っているのは、魔道具の影響だろう。

 列島の遠海に出る船は、海中の魔物から船体を護らんと魔道具を積んでいる。どうやらこの船は光系の魔道具を用いているようだ。

 触れるほどに指先を伸ばせば指紋すら水面に映るが、三歩も下がれば顔と体の境界すら曖昧だ。もっと離れれば影すらも映らなくなるだろう。

 こういった水面の反射率が距離によって変化する現象は副産物なのだと、図書館の本には記載されていた。その本によるとこの魔道具は、効果範囲内の光を吸収率を上げ透過率を下げることで、船の姿を海中の魔物に捕捉されないようにしているそうだ。

 

 まさか、試験会場へ着く前にこんな魔術を体験できるなんてラッキーだ。

 蛇口を捻って出る水や、コンロから吹き出る火だって、魔術といえば魔術ではあるけれど。やっぱりこういった、普段は見られないものを見られると、すごくテンションが上がる。

 おれはこれから、魔道学園の入学試験を受けに行くんだ……!

 

 

 読み取り機に受験票の識別コードをかざす。

 ぷしゅー、と鳴いて縦に長い扉が降りてきた。

 おれは橋のように架けられたそれを登り、船へと足を踏み入れる。

 

 船内に入った途端、潮の匂いが薄れるのがわかった。日差しもいくらか弱まった気がする。

 何らかの魔道具の効果なのだろうか。これならば熱中症の心配もすることなく、試験会場までの旅路を快適に過ごせそうだ。ねえちゃんも一安心。

 

 壁の矢印に導かれて通路を進むと、『受付』の紙が貼られた長机があった。机の奥には眼鏡をかけた男性が座っていて、彼は来訪者の影に気づき顔を上げた。

 早口にならないよう留意しつつ、おれは笑顔を作って挨拶する。元気な挨拶、印象が試験では大事だと聞く。彼もにこやかに返してくれた。

 

「受験生の方ですね。受付のため、受験票の提示をお願いします」

「よろしくお願いします」

 

 おれは受験票を受付の男性に手渡した。彼の視線が、紙面の文字をなぞるように何度も往復する。

 最後に、糊付けされた顔写真とおれを見比べて、彼は口を開いた。

 

「では、お名前と生年月日を口頭で確認します。生年月日につきましては、東暦での該当日をご回答ください」

「名前は、英地(はなち)志更(しさら)。生年月日は、東暦2981年8月31日です」

 

 答えると、彼は大きく頷く。

 眼鏡の位置を調整しながら、『お誕生日が近いですね』と言った。

 

「受験要項にも記載があったと思いますが、受験開始日前日、つまりは本日までに十五歳の誕生日を迎えられていない場合、受験には保護者様の同意が必要となります。同意書はお持ちですか?」

「はい」

 

 おれはボストンバッグの中から細い封筒を取り出し、彼に差し出す。封筒には、後見人である片白穢祢(ねえちゃん)の書いてくれた同意書が入っている。

 彼は内容を精査すると、手に持った携帯型星絡端末で受験票の識別コードを読み取り、端末の画面を指で何度も擦った。

 

 ああ、擦ってるわけじゃなくて、文字を入力しているのか。

 

 魔道士の間では端末といえば、画面をタッチして操作する携帯型端末を指すほど普及しているそうだが、その高額さ故におれには馴染みがない。使ったことがあるのは、施設や中学校に置かれている据置型の共用端末だけ。

 自分専用の携帯型端末は、おれの憧れのひとつでもある。魔道学園に入学すれば、端末が一人に一台支給されるという噂は本当なのだろうか。

 

「保護者の同意を得ていることを受験者情報に紐づけましたので、今後同意書は不要となります。同意書の回収につきましては任意ですが、いかがなさいますか? 御守りとして、手元に置いておかれる方もいらっしゃいますが」

 

 御守り、か。ねえちゃんの顔が浮かぶ。

 薄い封筒がなんだか特別なものに思えてきた。

 

「……持っておきます」

 

 おれは返却された同意書と受験票を失くさないよう、そっとバッグの奥底にしまい込んだ。

 

「では、受付は以上です。試験会場到着までは今からおよそ三時間、十四時頃を予定しています。それまでは客室をご利用くださいませ。客室は、このまま真っ直ぐと進み、甲板へ出たところにある青いドアの奥にあります」

 

 三時間か、長いなぁ。

 気分としては、いますぐに試験を始めてほしいくらいだ。緊張して落ち着かないのだ。

 おれは礼を言い、いそいそとその場を後にする。

 

 言われた通りに甲板へ出ると、遮るものがなくなって視界が明るくなった。

 どこだ。青を探して、あたりを見渡す。

 

「おっ、客室かあ!? それなら、そっちだ!」

 

 波音に掻き消されることのない、威勢のいい声。

 舵の前に立つ、色濃く日焼けした男は、その太い人差し指をピンと伸ばした。延長線上には、おれの探していた青いドアがある。

 おれは親切な彼に届くよう、彼と同様に声を張り上げた。

 

「ありがとうございます! 会場までの操舵、よろしくお願いします!」

「おおっ、任せろう!」

 

 男が血管の浮かぶ拳で胸を打てば、鈍い音とともに彼の頭に巻いたバンダナが揺れた。

 大きく筋肉の盛り上がった逞しい体軀、深く刻まれた皺に自負の込められた笑み。いかにも頼りになる海の男といった風体だ。この貫禄、ひょっとしたら船長かもしれない。

 彼ならばどんな嵐が来たって、豪快な笑みを浮かべながらくるくると舵を回し、きっとおれを無事に試験会場のある島まで送り届けてくれるだろう。

 そう思うと、肩から力が抜けたことに気づいた。陽照に来て初めて遠海に出るから、少しばかり不安になってしまっていたのかもしれない。ねえちゃんの言いつけを守り、泳ぐのはいつも浅瀬だったから。

 おれは船長と別れ、青いドアへと向かった。

 

 体力作りのために泳いだり、海辺で木剣を振って修行をしたり、水面に浮かんで気分転換をしたり。

 生まれてからずっと、おれにとって海は身近なものだ。けれども船に乗るのは、これが初めての経験だった。

 

 まだ出港前だというのに波に浮かされて、船体は穏やかに揺すられている。

 気分が落ち着いてみると、スニーカーが踏み締める焦茶色の甲板はなんだか覚束ない。まるで水面に浮かぶ薄板の上を歩いているようだ、なんて。そんなの思い込みに過ぎないだろうけど。

 海にいるのにこんなにも不安定で、心許ない感覚は、なんとも新鮮だ。

 重心を揺するような波は、海路に漕ぎ出せば今よりもっと強いものになるだろう。何の対策もなしに、おれの三半規管が耐えられる保証はない。

 念のために、酔い止め軟膏を塗っておいて正解だった。冷感を覚える手首の内側を撫で、おれは客室のノブを握る。

 

 

 階段を降り、さらに扉を開けて足を踏み入れた客室は、想像よりも広かった。

 幼い頃に丸呑みにされたヒャクジョウザメの胃袋のようだ。あの時は本当、死ぬかと思った。

 まあ、おれはこうして生き延びて、一迅さんみたいになりたいと魔道士を志しているわけだけども。

 

 天井に吊られたランプが揺れるたびに、長方形の床に落ちた十数の影も揺れる。

 ランプの光に照らされているのは、おれと同じく、陽照西部であるこの地域から試験会場のある島へ向かう受験生たちだ。

 別の港からこの便(びん)に乗船した彼らは各々、扉の前を除いて口の字型に設置された、壁へ接着するソファにまばらに座っている。

 

 よかった、船の中にはおれ以外にも受験生がいた。そりゃそうだもんな、魔道士人気だし。これから三時間を一人で過ごさなくていいのは嬉しい。

 きっと待合室で一人だったのは、この港が未踏とも呼ばれる大森林の入り口にほど近い場所だったからだろう。数年前に物資搬送の海上輸送ルートとして港が整備されてからは魔物も出ないが、復興の進んだ現在は人通りはほとんどない。街から近い港を選ぶのが普通だ。

 おれは一迅さんと出会った場所に一番近い港から出発したくて、施設から遠いこの港まで、わざわざねえちゃんに車で送ってもらったのだ。我が儘を聞いてくれて本当にありがとう、ねえちゃん。感謝してもしきれないよ。

 

 おれは部屋の隅へ向かい、空いていたソファに旅行用バッグと並び座った。

 それから数分して、船首カモメが大きく鳴く。出航の時間だ。

 

 

 窓の外の景色を見るのにも飽きてきた。陸地から遠く離れ、遠海に出てしまえば窓はずっと見慣れた海の青を映すだけで変わり映えがしない。

 

 せっかくだから、だれかに話しかけてみるのはどうだろう。いいんじゃなかろうか。

 ここには何人もの受験生がいるっていうのに、このまま到着まで一人でじっとしてるってのも寂しいし、おれと同じく一人で暇を持て余してる人だっていると思うんだよ。

 

 そわりと周囲を見渡す。だれか、話しかけやすそうな人はいないだろうか。

 こう……共通の話題がありそうな人。そんなの見ただけでわかるものなのか、わかんないけどさ。

 

 あっ、いた!

 

 室内を隅々まで見渡せば、仕立ての良い衣服を身に纏った金髪の少年がいた。彼が()く剣には、ドラゴンのストラップが着けられている。

 

 彼だ、彼がいい。

 彼とは違って木を削って作ったものだけれど、おれも剣を持っているし、ドラゴンの描かれたTシャツを着ている。このシャツはおれの大のお気に入りだ。

 剣にドラゴン。共通点が二つもあるなんて、親近感が湧く。とても湧く。話しかけてみたい。

 

 意気揚々と浮かせた腰を、おれはすぐに落とした。どうやら彼は、お友達と一緒に試験に臨むらしい。ハンカチで手を拭きながら客室に入ってきた、サスペンダーパンツの少年と何やら親しげに話し始めたのだ。

 残念ながらおれには、すでに出来上がっているコミュニティに割って入る度胸はなかった。

 傍らのバッグを引き寄せ、おれは寂しく両腕にそれを抱いた。うぅ、孤独だよ、ねえちゃん……!

 

 そんな時だ、壁に叩きつけられたのは。

 

「うぐっ。な……なに?」

 

 突然の出来事ではあったが、バッグがクッションとなってくれたおかげでダメージは少なかった。受け身を取ろうと、咄嗟に壁に叩きつけた腕が痺れる程度。

 

 いくつもの呻き声を聞きながら壁から身を起こした瞬間、備え付けのスピーカーからノイズ音が響いた。

 

「船体が大きく揺れた。負傷者はいないか? 打ち所の悪いやつがいれば、手助けしてやってくれ!」

 

 雑音が多く聞き取り辛いが、これは船長の声だ。

 急いで周囲を見渡すが、それぞれ上体を起こし打ちつけた場所を摩っていて、介抱を必要としている様子はなかった。

 

「揺れの原因は、急浮上してきた大型の魔物との衝突によるものだ。敵影は現時点で未確認、そいつの獰猛さによっちゃあ船体に攻撃を仕掛けられる可能性もある。そんなわけで、すでにま……えんよ、せ……こ、から……ぷを、か、ぱ……」

 

 混じるノイズが激しくなり、船長の声が掻き消される。

 その後すぐに何かが途切れる音がして、スピーカーは沈黙だけを伝えるようになった。

 

「ま、待ってよ……何も、聞こえないよ……?」

「魔物ってどういうことだよ!? 船の中は安全じゃないのかよ!?」

「落ち着いて、案内表に書かれていたで……しょわっ!?」

「また揺れ……ッ!?」

 

 混乱する声が満ちる中、船は先ほどよりも大きく揺れた。

 衝撃によって宙に投げ出されそうになるが、ソファの肘掛けを掴むことでどうにか耐える。

 

「……ッ、みんなっ無事!?」

 

 揺れがある程度鎮まり、床に落とされた体を両手でソファの足に縫い付けながら、おれは叫んだ。

 

「ああ、なんとかなぁ!」

「大丈夫だよっ」

 

 口々に返ってくる声を聞きながら、横目で部屋全体を確認する。

 さすがは魔道学園入学を志望する受験生なだけあって、二度目の揺れにはそれぞれ対処できたようだ。

 

 そう安堵したのも束の間、窓の外に視線が吸い寄せられる。

 

「こ、これ……試験がもう始まってるとかなんじゃないかぁ……?」

「いいや、違うな。あんなものを……学園が、素人に差し向けるものかよ」

「うっそだろ……!?」

 

 窓の外。船にほど近い、そこに浮かぶ大きなシルエット。

 それは、数多の伝承で船を沈める“海の悪魔”と称された、

 

「く……大烏賊或蛸(クラーケン)だ……!!」

 

 海底に棲む大型の魔物、大烏賊或蛸(クラーケン)であった。

 

『――いったい何考えてんだかな。わざわざ海を渡れって』

 

 息を凍らせただ伏せるおれの脳裏に、ねえちゃんの声がリフレインした。

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