ない。ない。ない。
……ここにもない。見つからない。
「風向きはこっちだったはずなのに……!」
人通りの少ない街路をくまなく見渡して。木々の枝葉を見上げて。路傍の石を持ち上げて。ゴミ箱の蓋を開けて。
探して、探して、探して、探す。一枚の紙切れを見つけるために。
「どこに行っちゃったんだ……おれの受験票!」
ケンくんの手から放たれ、見失った受験票。
あれから、ケンくんの胸ぐらを掴み上げる
投げ飛ばされた時から、風向きはほとんど変わっていない。方向はこっちで合っているはずだ。
けど見つからないってことは、おれの予想よりもっと遠くへ飛ばされてしまったんだろうか。可能性は高いかもしれない、専門家でもないおれの予想なんて、そう当てになるものでもないだろうから。
でも遠くって……どこまで? もっと遠くだなんて、それこそ、この島の外まで飛んでいってしまったかもしれない。いや、そんなはずはない、ないはずだ。だって、そんなの見つけ……なんとしてでも見つけないと。絶対にこの島の中にある、はずなんだ。そうに決まってる。
……けど、見つからなかったら?
その時はどうする? どうなる?
受験票がなければ、試験を試験を受けられない。
試験を受けられなければ、試験には合格できない。
「おれは……魔道士に、なれないの……?」
その事実を再認識すると、膝から力が抜けそうになる。
ただ何も考えずに崩れ落ちて、この現実から逃れたくなる。
ひらひらと近くの木から落ちてくる葉っぱの動きをぼんやりと見つめていると、あの時と同じくらいに強く風が吹いた。
空で舞っていた葉っぱは、あの時のおれの受験票と同様、風に煽られて勢いを増した。そして――コツン、と。何もない空に衝突音を生み出して、そのまま翻ることなく落下する。
「え?」
どうして落ちたんだ? それも真っ逆さまに。
衝突音がしたってことは、ぶつかったってことだろうけど……何にぶつかったんだ? あるのは無色透明だけ、何かがあるようには見えない。
それなら、葉っぱの方に原因があるのかな。
「あれ」
落ちた葉っぱを拾い上げようとして、見つからない。周囲には他にもたくさんの葉が落ちていて、どれがさっき落ちたものなのかわからなかった。
その落ち葉たちは線を描くように、真っ直ぐとお行儀よく並んでいた。まるで、ここから先に進むことを許されなかったように。
何もないところに葉が衝突したことに続いて、不可思議な現象だ。落ち葉の群れをどかしてみても、下に溝があるわけでもない。どうしてこんなことが起きてるんだ?
湧き出た疑念に、おれは落ち葉をひとつ拾って顔を上げる。そして、目に入ったのは背の高い壁だった。いや、正確には塀だ。建物をぐるりと囲む、高くて長い頑丈そうな壁。
「あ……ここ、明日の試験会場なんだ」
それなら、わかったかもしれない。きっと、さっき葉っぱがぶつかったものの正体は、結界だったんだ。侵入者を弾くための結界。それが、この試験会場を囲うように張られているんだ。
髪が頬を撫でる。持っていた落ち葉を手放せば、それは風に煽られて高く舞い上がる。そして、結界があるらしき場所へ衝突し、再び地面へと力無く落ちた。
「やっぱり、そうなんだ。なら――」
塀の外周は、見渡してもはっきりと角を判別できない程度には広い。建物の窓は、高い塀よりさらに高い位置にあるものだけでも、縦方向に八つ数えられた。結界の大きさは、建物の大きさに比例する。
あの時、ケンくんの立っていた位置と風向きも合わせて考えれば、おれの受験票も――
「――結界に引っかかって、この辺りに落ちてる可能性が高いっ!」
一縷の希望を胸に、おれは一直線に長く長く並ぶ落ち葉の群れを掻き分け始めた、のだが……やっと見つけた希望も、すぐに潰えてしまった。
まるで、そんなものは初めからなかったのだとばかりに、いくら葉っぱを掴んで散りばめても、おれの受験票がこの手に戻ることはなかった。
「シサラ……ケンちゃんは、魔法を使ったのかもしれない。きっと、発動条件を満たしてたんだ」
「魔法……?」
途中で合流して、受験票の捜索を手伝ってくれていた
「状況を考えれば……僕としても、この結界に引っかかっているのが自然だと思うんだよ……」
竜太郎君は、葉っぱに擦れたせいで血の滲むおれの手を痛ましそうな顔で見ると、肩に掛けていたバッグから救急セットを取り出して処置をしてくれた。
おれがお礼を言うと、首を振った彼はさらに顔を歪ませた。
「ごめんね……僕が、君を巻き込んだから……ッ」
「それは違うよ、君は悪くない。おれが無遠慮すぎたんだ」
竜太郎君の言葉をしっかりと否定する。強引に話を進めようとしてケンくんを怒らせてしまったのは、おれの浅慮が招いた結果だ。竜太郎君のせいじゃない。
とはいえ、なにも受験票を投げることないよね。これならまだ、殴られた方が痛くはなかっただろう。さすがに、ケンくんにも多大な非があると思ってしまう。
でも、それなのに。どうしてだろう……おれは、ケンくんを恨みきれずにいる。だってあの時のケンくんは――ケンくんは、なんだ……? おれは今、何と続けようとしていたんだ?
「……僕、ケンちゃんを探してくるよっ!」
「えっ、あ、それは助かるけど、……あっ、行っちゃった」
考え込んでいたせいで、反応するのがワンテンポ遅れた。おれが返事をした時には、すでに竜太郎君は駆け出していて、その背中はあっという間に小さくなっていく。
今から追いかけたとしても、追いつくことは叶わないだろう。足が速いなぁ。
「余計……拗れたり、しないよね……?」
竜太郎君はああ言っていたが、ケンくんが魔法を使ったという確証はないのだ。それなのに、ケンくんを問い詰めるようなことをすれば、今以上に彼らの確執が深いものになってしまうかもしれない。それはおれの本意ではなかった。
「ああぁー………うん。とりあえず、おれはこのまま捜索を続けよう」
まぁ、可能性を考えたところで仕方がない。たとえ魔法によって飛ばされていたのだとしても、受験票を見つけないことにはどうにもならないのだから。
というか、そもそもケンくんはどんな魔法を使うんだろう。紙を遠くに飛ばすなら、風の魔法かな? いや、でもあの時吹いた強風は、偶然吹いたもののように思えたけどなぁ。
それから少しして、おれは受験票は結界に引っ掛からなかったのだと判断し、風下の方へと捜索範囲を広げた。島の中央へと少しずつ進んでいく。
周辺一帯に、明日の試験会場の建物よりも大きな建物はない。わかりやすい捜索の取っ掛かりなんてひとつもなく、腹の底からふつふつと嫌な焦燥感がおれの心を確実に蝕んでいった。体にまとわりつく湿った暑さが不快でならなかった。
街路に転がる大きな石ころを隅へと寄せていた時、レインコートを着た綺麗なお姉さんたちがあちらこちらで台車を押しているのが目に留まった。
台車の上にはカゴが置かれていて、その中にはなにやら四角い物体がいくつも詰められていた。お姉さんたちは、それらを等間隔に街路脇へと設置しているようだった。
暑い中、大変そうだ。四角い物体ひとつは重くはなさそうだけど、なにぶん数が多い。いつものおれならば、綺麗な年上のお姉さん相手にテンションが上がってお手伝いでも申し出ていたかもしれないな。
でも……今は、そんな余裕はおれにはなかった。早く受験票を探さなきゃ。じゃないと――
「――おや、少女シサラではないですか。こんなところにしゃがみ込んで、暑さに疲れてしまいましたか? 医務室まで付き添いますよ。もし手遅れになってしまっては、星脈還しが適応されませんからね」
「つ、
掛けられた声に顔を上げると、いつの間にかレインコートを着たお姉さんのうちの一人がそばに立っていた。形の良い人差し指を顎へと当て、目を瞑ったままおれを見下ろしている。
月色髪の彼女は一昨日出会った、はちゃめちゃ敬語系金髪目瞑り有翼騎士お姉さんこと、
まだ交流時間こそ少ないが、何かがあると簡単に彼女のはちゃめちゃ敬語からは、はちゃめちゃが剥がれ落ちてしまうことをすでに理解していた。おれの負傷に気づいた時の彼女が、そうだったからだ。月影さんは今、おれをとても心配してくれている。
「あ、いえ……確かに暑いですけど、熱中症とかではないのでご心配なくっ!」
顔の前に両手を広げて慌てて弁解すると、彼女はおれの近くにしゃがみ込んだ。ふわりと白葡萄のようなほのかな甘さが鼻を撫でて、だらしなく頬が緩むのを自覚する。
あれ、この匂い……つい最近、似たものをどこかで嗅いだことがある気がする。シャンプーの匂いだろうか、どこに売ってるんだろう。
「怪我ですか。やはり、診てもらったほうがよいのでは? 医務室には行ったことがありますよね」
「あっ、いや……これは大した怪我じゃ……!」
言われて、顔前に掲げていた絆創膏まみれの手をバッと背中に隠した。
本当に大した怪我じゃない。ちょっと葉に擦れて切れてしまっただけだ。放っておいても、数日経てば勝手に治る。
「些細な怪我であろうと、明日の試験に影響する可能性はあります。十全に力を発揮したいのであれば、医務室に行くことを
「試験……」
そうだった。おれは……どうしたら……。
「そっか、なにか心配ごとがあるんだね。お姉さんにお話しできそうかな?」
心を溶かす声に、いつの間にか下を向いていた顔を上げると、出会ってからずっと閉じられていた彼女の目蓋が持ち上げられていた。
月色の睫毛に縁取られたそれは、柔らかくおれを映している。初めて見た月影さんの瞳は、優しい薄紫色をしていた。
「っおれ、明日の試験……受けれれないかも、しれなくて……!」
考えるよりも前に、言葉がついて出てきてしまった。
「へぇ……そうなの? でも、『かも』ってことは、知らないうちにしちゃった違反行為を咎められた、とかではなさそうだけど」
「してないです! 気をつけてます!」
「そうだよね。なら、さ。だったらどうして、明日の試験を受けらないかもしれない、って……君は思うのかな?」
どうしよう……あの時のことをそのまま伝えるのは、なんだか気が引けてしまう。
だって、そんなことをしたら……ケンくんは、どうなってしまうんだろう。おれはやっぱり、ケンくんを恨めていない。
彼のことを思うのなら、ここは話を切り上げて捜索を再開するべきだろう。
「……か、かぜがっ」
けれど、何もなかったと言えるほど、おれは強くはなくて。
みっともなく震えた声で、そう切り出すのをやめられなかった。
「風邪? たしかに、ちょっぴり体温高めかな」
そっと額に触れられる。暑さに熱ったおれよりも、その指先の温度は低くて気持ちがいい。思わず逸らしてしまった視線を戻すと、月影さんと目が合って微笑まれる。生きててよかった。
あ、違う。誤解されてるんだ! 早く続きを言わないと……!
「強い、風が……吹いたんです」
「ああ、
離れていく指先が名残惜しい。けれども、おれの話を聞いてくれようとしてるんだ。ちゃんと事情を話そう。
話そう、と思うのに……こんなの、言ったところでどうなるんだろう、と、いまさらながらに気づいてしまった。
「それで……その、」
失くしたことなんて伝えて、探すのを手伝ってもらうつもりか? また、おれのわがままで他人を困らせるのか?
月影さんは忙しそうなのに、こうして話を聞いてくれている。これ以上引き留めて迷惑をかけたくない。手伝えないと言わせてしまうのだって、いやだった。面倒なやつだと思われるのが怖くて仕方がなかった。
「うん、聞いてるよ。だから聞かせて。志更ちゃんは、なにに困っているのかな?」
膝と膝が触れ合いそうな距離。怜悧な目元は柔らかく弧を描いていて、艶やかな唇からはただ、おれを案じる言葉だけが紡がれる。彼女のすべては、凍てつく冬にそばで揺らめく炎のように心地が良かった。彼女に見つめられていると、ひどく息がしやすかった。
ああ、そっか……話しても、大丈夫なんだ。月影さんならきっと、おれを煙たがったりしない。この人は、煩わしそうな目でおれを遠ざけたりしない。おれの手を振り払ったりしない。
根拠なんてわからない。けれど、その薄紫の瞳は、おれのすべてを許してくれているような、そんな気がして。
「……失くし、ちゃって……受験票……」
引き攣った喉が痛い。それでも涙だけはこぼさないようにと歯を食いしばれば、堪えきれなかった嗚咽がひとつ、不恰好にもまろび出てしまった。
「それは……不安だったね。がんばって探しても、見つからなかったんだね。でも大丈夫だよ、大丈夫だからね」
「おれ、おれ……っ、どうしたら……!」
月影さんの細い指先が、おれの髪を頭頂からゆっくりと梳く。壊れ物を扱うかのような繊細な手つきに、膝を抱える腕に食い込ませていた爪から力が抜けていく。
「志更ちゃんは、朝はどうかな? 強いほう? そうだね……明日の朝、予定より一時間早く起きられそう?」
「え……起きられ、ます……けど、おれ、いつもあんまり長く寝られないので……」
あ、違う。寝られないんじゃない、それだけで充分なんだ。だって回復できるから。言い間違えを心の中だけで訂正しておく。
「そっか、なら安心だね。じゃあ、明日の朝七時半に事務所が開くから。行って、受験票を再発行してもらうといいよ。話は通しておくからさ。だから、志更ちゃんは大丈夫なんだよ」
え。
いま、なんて……
「……再発行、できるんですかっ!?」
まったくもって思いつかなかった。そうだ、探しても見つからないのなら、再度入手する方法を考えればよかったんだ。
言われてみれば、真っ先に選択肢に上がりそうなものなのに……! 焦るあまり、ここまで頭が回らなくなってしまっていたのか。
「うん、できるよ。万が一の時に備えて
「明日……」
「そう、朝七時半から開くんだ。場所はわかる?」
「はいっ」
今朝、筆記試験の会場の敷地内で見かけたのを覚えている。ばっちりだ。
「それなら、何も心配することはないよ。明日の朝に事務所に行けば、君は明日もちゃんと試験を受けられる。……あ、試験が始まる時間にだけは気をつけてね。事務所とは、ちょっと距離があるから」
「はいっ! ありがとうございます……!」
何度も何度もお礼を伝える。ここで月影さんに会えてよかった。声を掛けてもらえて本当に嬉しかった。
立ち上がってブンブンと頭を下げていると、苦笑した月影さんに止められた。
「あの、それ運ぶの手伝いますっ」
「これ? うーん、気持ちは嬉しいけど、ちょっと扱いの難しい魔道具だからねー。うちの人間以外には触らせないようにお達しが出て、おりましてね。何せ、うっかりするとドカンもありえる代物ですから。いやはや、せっかくの楽ができるチャンスだというのに、
目を瞑った月影さんは、肩をすくめて台車の上に置かれたいくつもの四角い物体を見下ろした。
そしておれの方へと再び顔を向け、片方の目蓋を持ち上げる。
「けど、まぁ……お礼がしたいっていうなら、この試験に合格してもらえると、
「……わかりました。絶対に合格します!」
「あ、でも気負いすぎないようにね? プレッシャーをかけたいわけじゃないんだ。そもそも大したことしてないし。ただ、私は君を応援してるよ、って、そう言いたいだけなんだよ」
月影さんは空を一瞥すると、ポシェットから取り出した容器を手渡してくれた。中身は塗り薬で、浅い切り傷であれば一晩で治るのだという。
そして彼女は開けていた片目を瞑ると、ガラガラと台車を方向転換させた。結ばれた月色の長い後ろ髪がゆらゆらと風に揺れる。
「天気予報をしてみましょうか。そうですね、
言われて空を見上げる。たしかに空を覆う雲は、今にも雨を溢してしまいかねないほどに黒を溜め込んでいた。
「少女シサラ、急いで宿に戻るのです。風邪を引いては、明日の試験に差し支えてしまいますから」
「……はいっ! 本当にありがとうございましたっっ!」
月影さんへもう一度深く頭を下げると、おれはぐっと足へ力を込めて駆け出した。
「あっ、いたいた……おーい、
月影さんと別れてから少し。ケンくんを探し回っていた竜太郎君を見つけ、受験票が再発行できることを伝えた。
「そうなんだ……じゃあ、明日の朝、僕も付いていくよ。無事に君の手元に来るのを見るまで、どうにも落ち着けないというか……いい?」
「もちろんだよ。おれも、実はまだちょっぴり不安だから、竜太郎君がいてくれたら助かるかな。ぜひ、お願いするよ」
そうして明日の約束を取りつけていると、降り出してきた雨に慌てて竜太郎君と別れた。
本降りになる前にどうにか宿に辿り着くと、急いでシャワーを浴びる。海水と違っておれの魔法の適応外だ、濡れたままだと体が冷えてしまう。
夕食やお風呂などの明日の準備を済ませ、寝る前に月影さんからいただいた傷薬を塗る。途端に、じくじくと疼いていた痛みが消え去った。すごい効果だ、これなら明日の試験は万全の状態で受けられるだろう。そう、おれは……明日の試験を受けられるんだ。魔道士を諦めなくていいんだ。
ぐしゃぐしゃになってしまった同意書を枕の下に入れ、布団を肩まで被る。寝不足なのもあって強い眠気を感じるのに、胸がざわめいて落ち着かなかった。
このままだと、眠ったところですぐに目覚めてしまいそうだ。気を鎮めよう。
ベッドのそばのスリッパを引っ掛けて、少しだけカーテンを開ける。カーテンに掛けられていた防音の魔術の効果が切れて、雨粒と風が強く窓硝子を叩く音が明かりのない部屋に響いた。
おれは外からの音に混じる、わずかな波音に耳を澄ませた。この悪天候でかなりの荒波ではあったけど、それでも海を感じていれば多少は心が落ち着いた。
ベッドに再び横たわり、仰向けで腕で目元を覆っていると、唐突に波音だけが鮮明になった。頭上の角がほんのりと熱を持っている。海の音を聴こうとするあまり、無意識に魔法を発動してしまったらしい。だけど、この程度の魔力消費なら問題ない。このまま、おれの今日が終わるまでこうしていよう。
波音が雑念を押し流し、穏やかな眠気が枕の奥底へと意識を運んでいく。ゆっくりと息を吐いてひたすらに脱力し、意識が途絶えるのを待った。
波が浜辺に押し寄せ、引いていく。その度に海水が泡立ち、泡沫が消えていく。何度も、何度も。
ふと、波音に人の話し声が混じっていることに気がついた。こんな悪天候の中、だれか浜辺にいるのだろうか。
「――手筈は整っているのだろうな?」
「はい。指示通り、経路を再度確認しました。日中にお伝えした通り、あちら側は手薄なままです。貴方であれば、何ら問題は無いかと」
聞こえた声はふたつ。少年らしきものと、それよりもいくらか低い男性の声。どちらの声にも聞き覚えのある気がする。
いや、それよりこれは盗み聞きだ。早く魔法をオフにしないと――
「準備は万全です。時刻、場所……共に変更はありません」
あれ。この声って……まさか。
よく通る少年の声に思い至った。この声の主は――ケンくんだ。
「そうか……そうか! では明日、明日だ! この一年、どれだけ待ち望んだ事だろう!」
嵐の騒音にすら勝らん、男の高笑い。何やらずいぶんと、明日を楽しそうだ。
こちらの声の正体はわからなかった。聞き覚えがあるはずなのだが、すぐには思い出せそうにない。もしかしたら、一度挨拶をしただけの人なのかも。もどかしい、もしお姉さんの声だったら一発で思い出せたのに……!
「全く……貴様が魔法に目覚めてさえいれば、この様な苦労はせずに済んだというのにな、ええ?」
「……申し訳ございません」
男の威圧的な言葉に、ケンくんが静かに謝意を述べる。
この暴雨の中二人で会っているというのに、あまりケンくんとこの男の仲は良いものではないらしい。
「存分に励むがいい。明日は、貴様にとっても待ち望んだ日なのだろう? 契約が果たせるのだから」
「……はい」
「その働きぶりを期待しているぞ。ではな」
吐き捨てるように別れの言葉を最後に、男の声は聞こえなくなった。結局、最後まで男がだれなのかわからないままおてしまった。
「どうか、我らに……栄華のあらんことを」
それは男の背中に掛けた声だったのだろうか。その祈るような声音に、ふとケンくんと初めて会話した時のことを思い出した。
揺れる船体、叩きつけられた体、
……ああ、そうか。ようやく気づけた。どうしておれが、受験票を投げられてもケンくんを恨めなかったのか。
竜太郎君に強く当たる時、おれの受験票を投げた時、そして……
おれはずっと、彼が怒っているのだと思っていた。けど、きっとそうじゃなかったんだ。彼はずっと、堪えていたんだ。だれにも吐露できない感情を、一人で抱え続けていたのだろう。震えるほど強く――ドラゴンのストラップを握りしめながら。
「ああ、そうだとも……本当に、どれだけ待ち望んだことか」
その呟きは、精一杯魔法を使ってようやく届くような小さなものだった。強い感情の宿るそれは、ただ聞いているだけで胸が締めつけられるようだった。
眠気に抗い、しばらく感覚を研ぎ澄ませていたが、それきりケンくんの声がおれに届くことはなかった。海から離れてしまったのかもしれない。
話をしなれば、そう思った。彼と、ケンくんときちんと話をしなければならない。
彼が何に悩んでいるのかなんてわからない。本当に悩んでいるのかだって、おれがそう思っているだけの早とちりかもしれない。
だから明日、試験終わりにケンくんと話そう。何もないのならそれがいい。けれども、もし本当に彼が何かに悩んでいるのだとしたら、このまま放っておけない。竜太郎君と一緒に、どうにか彼の力になろう。だって、だれにも助けられないのは、とても寂しいことだから。
全部は明日だ。今日はもう、これ以上起きていても仕方がない。
おれは抵抗をやめ、眠気へと自身を委ねることにした。ふわりと体が溶けるような錯覚を覚え、意識が解けていく。
〈――だれか〉
それはもう、夢か現実かもわからなくなったころだった。
〈ねぇ……だれでも、いいの。きこえて……きいて……〉
発動していたことをすっかりと忘れて制御を失った魔法が、泡沫のようにか細い声を拾い上げた。
〈おねがい……わたしをみつけて〉
どこか幼さを感じさせる、透き通った女の子の悲しみと諦観の入り混じった声。
今にも消えてしまいそうな小さな光に、深く届かないとわかっていても手を伸ばさずにはいられなかった。
「うん……必ず、見つけるよ……」
今度は、そばで声がきこえた。ほんとうに、すぐそばだ。へんだな、ここにはおれしか……いない、の……に……。
その返答が他ならないおれ自身の口から発せられたものだと自覚した直後、窓へと伸ばしていた腕がばたりとベッドへと音を立てて落ちた。
その日は、深く暗い海の底で膝を抱える少女の夢を見た。海の中で涙を流すことすらできずに泣いている、少女の夢を。
その少女が、かつてのおれであったのか、それとも違うだれかだったのか。それを確かめる前に、おれの意識は真っ暗闇に洗い流された。