宿から徒歩十数分、島の中央に位置にある大きな門の前に到着した。
昨日と違い、固く閉ざされた門の前では、すでに
「あっ! シサラ、おはよう!」
「おはよう、竜太郎君」
彼は、おれに気づくと顔を輝かせる。そして、ほっとしたように息を吐いた。おれが寝坊してしまわないか、心配してくれていたのかもしれない。
門前には警備の人が立っていたが、竜太郎君が事前に話を通してくれていたらしい。挨拶をすると、すんなりと門を開けてくれた。門を潜り、竜太郎君と二人で事務所へと向かった。
「再発行した後、試験まで時間ある? ちょっと、話しておきたいことがあってね……」
「話しておきたいこと? ……わかった、時間なら大丈夫だよ」
「そっか、よかった」
ほっとする。試験終わりにケンくんと話をする前に、竜太郎君に昨晩聞いた会話について共有しておきたかったのだ。
そうこう話していると事務所へと到着した。時刻はちょうど七時半。もう、事務所の開いている時間だ。
腕時計を巻いた腕を下ろし、竜太郎君と顔を見合わせる。
「こういうのって、なんだか妙に緊張するよね」
「ね、職員室に入る時みたい」
お互い笑顔を作って、ひとつ頷き合う。それから引手に手を掛け、ガラリとドアを開けた。
「失礼します! ええと……」
あ、そういえば何言うか考えてなかったや。職員室の時みたいに、まず名乗ってから用件を伝えたらいいのかな……?
事務所内のレイアウトも、職員室に似ている気がする。パーティションがいくつもあって仕切られているのは、職員室とは違うけど。
よし、じゃあ――
「――やぁやぁっ、昨日ぶりだねっ!」
名乗ろうと息を吸ったその時。ガラガラという音とともに、奥のパーティションの陰からスウェットワンピース姿の可憐な女性が体を覗かせた。
灰色と水色のオッドアイ。毛先が水色になった薄い金髪をハーフアップにした、小柄な彼女に会うのは二度目だ。今日も素敵な三つ編みだなぁ。
「再発行だよねっ! こっちこっち!」
そう言って手招きされたので、軽い足取りで彼女の元へと向かう。
どうして再発行するって知ってるんだろう。まぁ、細かいことはいいや。年上のお姉さんに手招きされたからには、素直に招かれねば。
「し、シサラって……実は貴族だったりしないよね?」
スキップをしそうになる両足を理性で抑えていると、竜太郎君が声をひそめて訊ねてきた。
「え? いや、違うけど……なんで?」
ただ困惑する。そんなこと初めて言われた。どうして、おれが貴族だなんて……ひょっとして、スキップを抑えようとする足運びが、おれ史上最大の瞬間気品火力を偶発的に引き出してしまったのか?
なんて、そんなはずはないか。竜太郎君だって、おれが本当に貴族だと思っているわけではなさそうだった。現に彼の視線は、おれではなく、ハーフアップの彼女へと向けられている。
「だって、あの方……塔派貴族、
「え、とうはきぞく? なにそれ……あのお姉さんとは、昨日の試験会場でお話ししただけだよ。おれのところの試験監督だったんだ」
なんだかよくわからないが、すごい人なのかもしれない。確かに、彼女の笑顔を見ているとパワーがみなぎってくる気がする。
けど……
あ、そっか。
「もしかして、
月影さんは識殿下の護衛騎士、星見の塔所属だ。おそらくは目の前の彼女こそが、月影さんが『話を通しておく』と言っていた相手なのだろう。
「おおっ、察しが良いね~! そうだよ、月影さんから話はすべて聞いているともっ。災難だったね、随分と活きの良い受験票だったんでしょー?」
「あはは……」
「その、はい……」
竜太郎君と二人、笑って濁す。いや、よく見てみると竜太郎君の顔は笑っているんじゃなくて、ただ引き攣っているだけだった。君の気にすることじゃないのに。
「あ、そういや昨日は名乗ってなかったっけ」
特に乱れのないワンピースを整えて、こほんと可愛らしく咳払いする。
「このボクこそが、自称
花のような朗らかな笑みを咲かせる悠理さんに続いて、おれと竜太郎君も彼女へと自己紹介する。おれも、『シサラ』と呼んで欲しいと希望を出しておいた。
「『自称』……なんですか?」
「そうなんだよね~。ライバルの伊織さんがさぁ、これがもう手強いんだぁ〜」
ちょっと気になったことを訊いてみれば、悠理さんは楽しげに肩を竦めた。
伊織さん……というのは、
お菓子がたくさん置かれた机の前に案内されると、悠理さんは四方を区切るようにパーティションを閉じる。手早く閉めたせいか、歪な四角形を作ることになったパーティションは、四隅のうちひとつに大きな隙間が空いてしまっていた。
それを気にした様子もなく、悠理さんは立てかけられたパイプ椅子を二つ手に取り、彼女の机の前に広げた。そこに座るように促されたので、慌ててお礼を言って座る。手伝えばよかった……!
「じゃあ、お待ちかね。再発行の手続きをやってこうかっ!」
「よろしくお願いします!」
悠理さんは、キャスター付きの椅子に飛び乗るように腰掛けた。そして、くるりと机の方へ椅子を回転させると、据え置き型の端末を操作し始める。
入力デバイスを操作する悠理さんを見ながら、肩の力が抜けていくのを自覚した。本当に、これから再発行できるんだ。
「じゃあ、まずは受験番号言ってみようかー? あ、『わからない』って回答も想定内だからねっ、安心していいよ!」
「40318です」
「え、覚えてるの? すっごっ!」
昨日、筆記試験の席を探すために何度も見て偶然番号を覚えていただけなのだが、褒められてとても嬉しい。
「うんうん、キミは
おれに視線を向け、すぐに端末へと視線を戻した悠理さんは、ご機嫌に人差し指で端末の画面を押した。……これ、ちゃんと確認されてるんだよね? 大丈夫だよね?
ほんの少し不安も覚えつつも、再発行の手続きを進めていった。そして入力を終え、後は発行するだけとなったのだが。
「いやぁ、
「いえいえ、全然待てます。手続きありがとうございます」
何人かの承認が必要だとかで、受験票を発行するまでに十分ほど掛かるそう。そんなわけで、話でもして待とうということになった。
事務所内を区切るパーティションには軽い防音魔術が掛けれていて、多少騒いでも問題はないとのことだ。
「へぇ~! 悠理さんも、救助船のメンバーだったんですね! その節は本当にお世話になりました!」
「おかげさまで僕たち、
「んへへ~、こうも真っ直ぐ感謝されると照れちゃうね。ほとんど月影さんが一人でなんとかしちゃったから、ボクがしたのはちょっとした手当てだけだったりするんだけど。まぁ、嬉しいから、お礼はとても大事に受け取っとこうかなっ!」
両手で口元を覆いながら、くるくると椅子の座面ごと悠理さんが回る。回転して指向性がめちゃくちゃになってもわかるほど、その声音は弾んでいた。
やがて椅子の回転が止まり、悠理さんは宙に伸ばしていた足をそっと床に下ろした。
「でも……“守護”の家系のボクとしては、もうちょっとみんなの役に立ちたくはあったかもね~。ボクもまだまだだ、早く月影さんたちに追いつきたいものだよ」
明るい声。長いまつ毛に縁取られた灰色と水色の瞳には、静かな光が宿っていた。
「……そういえば、その……なんとかの家系っていうのは、何なんですか?」
ここ数日、みんなが当たり前のように言っているのを耳にするが、おれはまったくもって知らなかった。ずっと雰囲気で聞いていたし、言っていた。
でも、さすがにそろそろ、それが何なのか確認しておきたかった。おれだけ思いっきりズレた会話をしてたら恥ずかしいし……。
「ああ、周りに貴族がいないと馴染みがないよね。正確には貴族ってより、代々魔法を受け継ぐ家なんだけど。同じ魔法をね」
「代々……同じ魔法を受け継ぐ家……?」
悠理さんの灰色の瞳を見ながら、その口ぶりが気になって首を傾げる。話に集中しようと横髪を耳に掛けると、腕時計に髪が引っかかって絡まりそうになった。
「星樹によって適性のある者に授けられると云われる魔法は、その適性を親から子に遺伝する事も多い。それは、君も知っていると思う」
「はい。魔法を発現した人の子どもは、そうでない場合に比べて魔法を発現しやすいんですよね」
だからこそ、領地防衛を担う貴族は、魔力に秀でた貴族同士で婚姻を結ぶのが建国当時からの主流だという。それ故に魔法を発現する人間は貴族に多く、平民に少ない。
もしかすると、平民出身の魔道士を育てようと魔道学園の門戸が開かれている今は、後から見れば特殊な時代なのかもしれない。
「その通り、魔法を発現しやすいだけなんだ」
床を蹴って椅子ごとおれたちのすぐ前へと移動してきた悠理さんは、ポケットへと両手を入れた。ポケットから取り出した左右の手には、それぞれお
お札を人差し指と中指に挟むと、彼女は水色の魔力を注ぐ。冷気を帯びたお札は、悠理さんの手を離れてひとりでに浮き上がった。
「適性が遺伝したとしても、同じ魔法を発現する訳じゃない。多かれ少なかれ個人によって差異が出るんだ」
浮かぶお札がむくむくと膨らみ、やがてデフォルメされた人のような形へと変わる。
二つのお札人形は悠理さんの膝の上にふんわりと着地すると、彼女の体をよじ登り、左右の手のひらの上へ立った。
悠理さんは、おれたちに見えやすい高さに、お札人形の乗った両手を持ち上げる。
「たとえば、手から氷塊を放出できる魔法を持った親がいたとして」
右手に乗ったお札人形が、前へ突き出した両手から小さな氷の礫を放った。人のいない方向に放たれたそれは、すぐに空中に霧散する。
「その親から、手を翳したものを氷で覆える魔法を持つ子が生まれたり……といった具合にね」
左手に乗ったお札人形が両手を翳すと、右手のお札人形が薄い氷に包まれて動かなくなる。氷はすぐに砕けて、再び右手のお札人形は動き出した。ぺこぺこと何度も頭を下げる左のお札人形に、右のお札人形は気にするなとばかりに片手を上げた。
「そういった違いがあるのがほとんどなんだよ」
二体のお札人形が煙に包まれて、元のお札の姿へと戻った。
「でも、その差異を極小に……個人の資質による個性の範囲まで。同じ魔法と呼べる範疇にまで、差異を縮める事ができるんだ。
「星樹……」
悠理さんは、お札を人差し指と中指に挟むと魔力を込めた。
先ほどと違って『千氷』と水色の魔力文字が浮かび上がたお札は、先ほどと同様に人形へと変化する。
「そうして親から子へと同じ魔法を受け継いで、代々魔法を研ぎ澄ませていくんだ」
お札人形たちは、揃って両手を前へと突き出すと、小さな氷の礫を放った。同じ現象を起こしてみせた二体のお札人形はハイタッチを交わすと、煙とともにまたお札へと戻る。
「……まぁ、親子なら誰でも魔法名を継げるってわけじゃなくて、どこかの代で魔法の継承が途絶えちゃう事もままあるんだけどね。途絶えたと思い込んでいた魔法が数代後に継承できちゃった、なんて事もあるって聞くし」
動かなくなった二枚のお札をポケットにしまいながら、彼女は補足する。
無上の魔本のように、そもそも星樹の葉に名前を刻めずに受け継げない魔法もあるそうだ。
「そういう家系を外から見た時、その魔法名を呼ぶのが誰にとってもわかりやすいんだろうけど……魔法の能力をそのまま名前にしたものも多くって。たとえば魔族みたいな、敵対してる悪〜い相手に魔法を知られると面倒でしょー?」
「そうですね……」
魔族か。確かに、魔族に知られるのはまずいな。
安易に魔法について訊ねるなっていうマナーも、元は潜む魔族を警戒してのものだったと聞くし。なんでも人間に紛れ込んだ魔族に英雄の魔法の弱点を探られ、大打撃を受けた時代があったのだとか。
「だからみんな、大々的に『うちはこんな魔法名です』とは名乗ったりしないんだよね。まぁ、そんなこんなで、代々魔法を受け継ぐ家は、役割や伝承・性質だとかを元に、人々から
至上の栄誉……わかる気がする。おれも、夜明陛下に褒められたらと思うとすごく嬉しいし。
「まぁ、創界遊戯みたいに魔法名が広まりすぎちゃってたり、
へらりと笑って、悠理さんは両手を天井へと向けて肩を竦めた。
「ちょっと長くなっちゃったけど……どうかなっ、君の疑問には答えられたかな~?」
穏やかに細められた灰色と水色の瞳がおれを見つめる。おれはそれに元気よく頷いた。
「はいっ、よくわかりました! さすがは
「えへへ、上手なんだから。嬉しいなぁ」
一族で代々魔法を受け継ぐ家が、
「“守護”の家系とか“境界”の家系だとかは、代々同じ魔法を受け継いで、代々守護したり境界したりしてきたってわけなんですね!」
「うん、そうだよ、そういうことっ! ……ん? 境界したり……? ……いや、まぁ合ってるか。確かに、言われてみれば“境界”ってわかりにくいもんね」
悠理さんは一度首を傾げたが、その後すぐに納得したように頷いていた。
とりあえず、おれの理解は合っているらしいので一安心。
「“龍血”の家系もそうだよね、シサラ」
隣に座る
「龍……けつ?」
おれの心がドラゴンを感じて踊る。初めて聞く家系だ、いったいどんな家系なのだろうか。ワクワクしながら、竜太郎くんを見た。
「あ、初耳だった? 龍の血と書いて、“龍血”。
「えっ、そうなの!? “龍血”の家系……よし、覚えた。教えてくれてありがとう! 竜太郎君!」
「喜んでくれたなら良かったよ」
柔らかく頬を綻ばせる竜太郎君。それはもう、おれは大喜びだ。一迅さんについて、またひとつ知れた……!
「そっか、そっかぁ……一迅さんも、代々魔法を受け継ぐ家のご出身なんだ。おれ、知らないことばっかりだ。ねぇ竜太郎君、他に知っている家系はある? あったら教えてよ!」
わくわくと両手を握って竜太郎君に訊いてみると、彼はへの字に眉を寄せて、頬を掻いた。
「いやぁ、僕も詳しくないからなぁ。他に知ってるのは、ケンちゃんの“伝達”の家系くらいなものだし……僕も興味があるので知りたいですね」
「よろしくお願いします! 悠理先生!」
竜太郎君と二人、少し身を乗り出して悠理さんを見る。
椅子に座って足を揺らしていた彼女は、おれたちの声に応えて勢いよく立ち上がった。
「まっかせたまえ、君たち~! え~と、まずは識さんの“
悠理さんが両手の人差し指をこめかみに当てて唸る。
そして数秒もしないうちに、彼女は眩い笑顔とともに人差し指を立てた。
「……ああっ、そうそう! それと、沙夜の“桃源”の家系っ!」
「沙夜ちゃんっっ!!」
「んにぇっ!?」
不意打ちで出てきた名前に、思わず立ち上がった。しまった、悠理さんが驚いてしまっている。
慌てて、急に大声を出したことを謝ろうとしたその時――
「――ん? 呼ばれた……?」
「沙夜ちゃんっっ!?」
え、ええええええ?? え? いや、え? 沙夜ちゃんの声……?
真後ろから聞こえた声に振り返ると、隙間の空いたパーティションがある。この仕切りの向こうから、沙夜ちゃんの声が聞こえてきた。
防音魔術とやらの効果のおかげか、微かなものだったけど……間違いなく、この耳で聞いた。気のせい? いや違う、気のせいなはずがない。だってこんなにも、心が喜んでいるんだから。
「ふふーん? お話ししたいんだね?」
覗き込んでくる灰色と水色の瞳にブンブンと頷く。お話し、とてもしたい。
そして慌てて、今度は両手をブンブンブンと振る。迷惑をかけたくはない。
「まぁまぁ、ここはボクに任せてよ!」
「えっ、でも……」
「じゃっ、訊いてくるね!」
悠理さんはにっこりと微笑むと、パーティションの陰へと消えていった。
ぎゅっとシャツの裾を握りしめながら、ひたすらにパステルカラーの仕切りを見つめる。
たった数十秒が数十分のように感じた。前置きなく、目の前のパーティションがガラガラと音を立てた。
「おっまたせ~! 沙夜も話したいってさっ」
開かれていくパーティションからは、まず悠理さんが現れ、そしてテーブルセットとそこに腰掛ける二人の女性の姿が見えた。
そのうちの一人は、もちろん沙夜ちゃんだ。白いアウターを羽織った
「あ、あの……お食事中だったんですね、すみません……!」
テーブルの上には、サンドやケーキが入っていると思しきトドールの包みが所狭しと並んでいた。
「いや、気にする必要はない。冷めるものでもないし、どうせ今日は暇だからな。私を好いてくれている相手との会話を優先したいと考えるのは、ごく自然な思考だろう?」
紙コップを机の上に置き、彼女は向かいに座るメイド服姿の少女を横目に見やる。
「
「姫様の、だもんね? ちゃぁーんとわかってるって。鍵ちゃん、ウソつかない」
「……ならいい」
白髪のメイド少女は、面白がるように眠たげな青色の瞳を細め、両手で持ったサンドウィッチへとかぶりついた。
沙夜ちゃんは少女に頷くと、立ち上がってこちらへと歩いてくる。
「君たちと会うのは、これで二度目だな」
「そ、その節はご迷惑を……!」
「申し訳ございませんでした……っ!」
何故か遥か後方に居る竜太郎君と二人、頭を垂れる。沙夜ちゃんとの記念すべき第一回目の邂逅は、ケンくんと揉めていたところを諌めてもらった時だった。面目ない。
「それについても気にしなくていい。今のはただの、私の記憶力が良いという自慢だ。まぁ、たった二日前の出来事だから、記憶力の証明にはなり得ないかもしれないが」
沙夜ちゃんが一度会ったファンの顔を忘れないというのは有名な話だ。今それについて話したのは、おれと竜太郎君に気負わせないためだろうか。促されるままに顔を上げた。
「んー、話すといっても、試験までそう時間がある訳でもない。何を話したものか……」
ポケットから覗かせた端末をチラリと確認した後、沙夜ちゃんは腕を組んで考え込んだ。首を傾げたことで、沙夜ちゃんの青みがかった緑の瞳が覗く。いつも前髪に隠れがちな沙夜ちゃんの右目を、こんなにも間近で見られるなんて……!
おれも必死に頭を回す。おれから沙夜ちゃんと話をしたいと希望した手前、こちらから話題を提供すべきだとは思うのだが……なにぶん“沙夜ちゃんの好きなところ100選”といった話題しか思いつかない。おれとしては素晴らしい話題だと思うのだが、なにぶん以前似たような会話をねえちゃん相手にして怒られてしまったことがあった。ねえちゃんが照れ屋なのはあるだろうが、世間一般的にも推奨される話題でない可能性は高かった。
「ああ、そうだ。握手をするのはどうだろう? 大抵の人間は、私と握手をすると喜ぶんだ」
えっ。えっ。
「あく、しゅ……?」
「うん、握手だ」
沙夜ちゃんの長袖のアウターから生える真っ白な手を見る。レアだ、食事中だったからか沙夜ちゃんはいつもの手袋をしていない。
……その手と、握手……? ちょっと情報を処理しきれない。
「へぇ、君から『握手をしよう』だなんて、珍しい事もあるもんだね~。……いや、そう珍しい事でもなかったかな?」
テーブルセットの椅子に腰掛けて、いつの間にかケーキを頬張っていた悠理さんが楽しそうな声音で言う。
確かに、沙夜ちゃんからだれかに握手している映像は見たことがない気がする。片手を上げて挨拶をすることがほとんどだった。この国は、数年前まで他国との交流はほとんどなかったというし、握手という文化が身に馴染まない陽照人も多い。沙夜ちゃんもその一人なのかもしれない。
次に遭遇することが出来たとしても、握手をねだるのは控えておこう。今回は沙夜ちゃんから言ってくれたし、せっかくだから……甘えちゃっていいよね?
「悠理、なんだその顔は。その件についてなら、鍵の居ない所にしてくれ。君たち二人の相手をするのは、さすがの私でも疲れてしまうんだよ」
「疲れるぅ? ほんとっモグっ!」
沙夜ちゃんは、何かを言おうと口を開いたメイド服の少女の前にホットドッグを差し出してかぶりつかせた。
こういった日常の沙夜ちゃんを見る機会なんてそうそうない。目に染みる。しっかりとその光景を目に焼き付けると、おれは振り返った。彼は依然として、パーティションへと十の字になって張り付いている。
「さっきから、竜太郎君はそんなところで何をやってるの?」
「何をって……! だって……! むしろシサラこそ、どうしてそんなに普通にしていられッ……いや、普通ではないか」
竜太郎君は急にスンと落ち着いて、パーティションから身を剥がした。おれのそばへと歩いてくる。そんな竜太郎君に首を傾げる。
「おれは普通だけど?」
「瞬き忘れてるよ。そんなに目を見開いてちゃ、目が乾いて痛いでしょ」
「ホントだ」
目を瞑って潤いを補給しながら、いつの間にか頬に伝っていた涙をハンカチで拭う。そういえばさっきから、比喩表現とかじゃなくて本当に目が染みたように痛かった気がする。
「じゃあ……しようか、握手」
「は、はい……!」
こちらへと戻ってきた沙夜ちゃんが、おれと竜太郎君に微笑みながら手のひらを差し出した。
「……っ」
おずおずと腕を伸ばすと、指先はいとも容易く沙夜ちゃんに触れた。
あっ、人間だ、人間の皮膚の感触がする……! 指紋を感じるッ!
「指先だけで良いのか?」
「んぎゃっ」
沙夜ちゃんの人差し指に接触したまま動けずにいると、彼女の方からぎゅっと手を握り込まれた。
感情の洪水に溺れそうになる。なんて柔らかい……沙夜ちゃんの手はおれよりずっと柔らかくて、完璧な手入れをされた肌は触れるだけで心に特大の幸福をもたらしてくれる。
「あ……ああ……っ」
「そうか、喜んでもらえたなら何よりだ。これでまたひとつ、私との握手を喜ばない人間は少数派だという確信が強まったよ」
冗談めかして微笑む沙夜ちゃんに、さらにハッピーがわさわさ降ってくる。目を回しながら、なんとかハッピーパラメータが満杯になったことを伝えた。本当に名残惜しいが、これ以上は何かが破裂してしまう。
「本物の沙夜殿下と握手しちゃった……!」
「しちゃったねっ、握手……ッ!」
竜太郎君とともにしばらく喜びを噛み締めていると、悠理さんが受験票をが無事再発行できたことを知らせてくれた。彼女はパーティションを開けて出ていき、数分もしないうちにまた戻ってきた。
渡された厚紙をまじまじと見つめる。受験番号と名前の記されたこの紙は、間違いなくおれの受験票に他ならない。これがあれば、おれは今日の試験を受けられるのだ。
「昨日の嵐の影響か、まだちょっと風が強いからね。失くさないように気をつけるんだよ~」
「はいっ、ありがとうございます! 気をつけますねっ!」
「よかった……」
両手でしっかりと受験票を握っていると、隣で竜太郎君が胸を撫で下ろしていた。
悠理さんたちは、事務所を出るところまで見送ってくれるとのことで、ご厚意に甘えることにした。
「雨、降らないよな?」
パーティションを出た先には窓がある。前を歩く沙夜ちゃんは、薄暗い雲の浮かぶ空を見ながら、悠理さんへと訊ねた。
「そうだね~、これから段々と晴れてくるはずだよ。ボクの左目がそう言ってるからね。けど、君って雨も苦手だったっけ?」
「まぁ、濡れると体が冷えるから好きではないけど……ほら、今夜の件があるだろう? 雨天中止だからな、気になって仕方がないんだ」
「えっ、あれ通ったんだ。本当、沙夜に甘いよね~。そんな所も素敵なんだけどさっ」
「ふぅー、まったく苦労したよ……主につっきーが」
つっきー……月影さんのことだろうか。昨日運んでいた魔道具と何か関係があるのかな?
居心地悪そうに身動ぎする沙夜ちゃんを見ながら、ハーフパンツのポケットに受験票をしまう。今日のズボンは特別だ、なんとポケットにファスナーがあるのだ。これなら落としてしまう心配はない。
「勿論、働きに応じた褒賞は与えるつもりだ」
「なら鍵ちゃんは、この前出たゲーム機がいい。昨日、くーちゃんと遊ぶ約束したんだよねー」
「……わかった、覚えておく」
くーちゃん? なんだかとてもいい響きだ。すごく気になるけど、訊かない方がいいよなぁ……。
理性を働かせていると、振り向いた沙夜ちゃんと目が合った。彼女の瞳に、おれと竜太郎君が映っている。
「君たちも、どうか今夜を楽しみにしていてくれ。詳細は話せないが、本当に綺麗に出来たんだ」
「今夜ですね、わかりました!」
「楽しみにしてます!」
楽しそうな沙夜ちゃん。雨天中止、綺麗。月影さんの運んでいた、下手に触ると“ドカン”な魔道具……加えて、沙夜ちゃんは大の炎好きで有名だ。一度たりとも腰に佩く剣すら抜かないまま、彼女は愛する火炎魔術で世界を三度獲った。
これだけ判断材料があれば、今夜何が起こるのか予想できた。沙夜ちゃんが詳しい時間や場所を言わなかったのは、きっと“その時”が来ればわかるからなのだろう。島のどこに居たって見上げることができるんだ。
「改めて、朝早くからありがとうございました」
事務所を出ると、悠理さんたちにおれは改めて頭を下げた。ポケットを撫でれば、紙の感触がある。この最終日も、おれが試験に参加できる証だ。
「あの……っ、本当にッありがとうございます! 僕もう、どうしようかと……ッ」
隣から聞こえてきた声に様子を伺ってみると、竜太郎君がおれよりも深く頭を下げていた。その拳はひどく震えている。
彼に何かを言おうとするより先に、優しく肩に手を置かれた。促されるまま、顔を上げる。灰色と水色の瞳が柔らかな眼差しでおれたちを見ていた。
「どういたしまして。ボクとしても、君たちの不安の種を取り除く事が出来て嬉しいよ。今日の試験、君たちが充分に自身を出し切れるって信じてるねっ!」
「はいっ!」
試験への気力を滾らせて返事をすると、声が揃う。竜太郎君と二人、顔を見合わせて笑った。
「……そういえば、彼とは別行動か?」
事務所に戻っていく悠理さんたちと別れ、踵を返そうとした時、事務所の扉から顔を覗かせた沙夜ちゃんにそう訊かれて肩が跳ねる。
彼女の言う 『彼』とは、ケンくんのことだろう。沙夜ちゃんは、おれたちを三人組だと認識しているのかもしれない。実際には、竜太郎君とケンくん+おれ……なのだが。
「え、えっとケンちゃんは……」
「はいっ、別行動です!」
ここで詳しく言う必要はないと判断して、ただ事実を肯定する。
ケンくんとの関係の悪化を見抜かれてしまったようで居心地が悪かったが、別行動の理由を彼女が訊ねてくることはなかった。
「そうか。なら、彼に会ったら伝えておいてくれ。『
「は、はい……っ」
右手をひらひらと振って言う沙夜ちゃんに、竜太郎君と二度、三度と頷く。
他の人には沙夜ちゃんが事務所に居ることは秘密だと言い含められたので、それにも頷いた。沙夜ちゃんは大人気だ、居場所を不特定多数に知られれば大きな騒ぎになりかねない。
「伝言はそれだけだ、引き留めて悪かったな。じゃあ、行っておいで。私も、君たち受験生を応援している」
「行ってきます!」
元気にそう返事して、おれたちは出発した。
この短時間にたくさん応援されちゃった。カギさん? も両手で、その、念のようなものを……たぶん、送ってくれたはずだ。