この世界、
理由は単純明快、魔物の出現率が陸より遥かに高いからだ。
加護が弱まれば魔物の出現率が上がり、魔物の出現率が高い分だけ強い魔物を引き当てる確率も高くなる。
出港から二時間半が経過した現在、紛ごうかたなく列島遠海に位置するこの船は、その不運を見事に引き当ててしまっていた。
「なんで……なんでっ、あんなのが出てくるんだよ……!」
尻餅をついた受験生の一人が抱えた頭を掻きむしる。
その視線の先では巨大な軟体生物が蠢いていた。
海面に出ている部分だけでも
てらてらと太陽光を粘着質に反射する何本もの太く長い触腕には、ひとつひとつがおれの腕よりも直径がありそうな吸盤がびっしりと並んでいる。
丸い頭部に窄まった口。特徴だけを挙げるだけならば、毒々しい色合いをしたとんでもなく巨大な蛸のように思えるだろう。
けれども違う、あれは蛸の形をしているだけで蛸ではない。少なくとも陽照では、蛸という動物に分類されることはない。
あれは古い伝承に幾度も登場する深海の魔物、
かつては不可避の脅威として数えられた魔物のひとつだ。数え切れないほどの船を沈めさせ、多くの悲劇を生み出した海の悪魔。
当時の被害の甚大さは、かの初代皇帝が勅命によって遠海への
ああ、そうだ、魔道具。魔道具があったはずだ。
思い出すのは海面に映った、藍色の髪に青い瞳。おれの姿。
水の透過率を弄り範囲外から姿を隠す魔道具は、あの
魔道具の効かない変異種? いや、それよりも可能性が高いのは……。
「……考えられるとすれば、頭上に偶然俺たちの船があった、か? まあ、理由なんざ今はどうでもいい。重要なのは、この状況をどう切り抜けるかだ」
ああ、その通りだ。耳に届いた呟きに、声もなく同意する。
おとぎ話の時代から時は流れ、現代では
目撃情報を元に討伐隊が組まれ、そして討ち取ることに成功したニュースは、おれも二、三度新聞で読んだことがある。
とはいえ、それは複数の魔道士によって組まれた討伐隊であればの話。おれたち素人の受験生が何人束になろうとも、あいつを倒すことは不可能だ。個体によって強さに差があることなど何の慰めにもならない。
やはり
どうする。どうしよう。
そもそも思いつきようがないのではないか。おれに実戦の経験などあるはずがない。おれは養育施設で育った、ただの孤児なのだから。
己の無力を自覚した途端、背中を流れ落ちる汗がひどく冷たいことに気がついた。
息をしているのに、肺が凍ったように苦しい。
逃げたい、逃げ出したい。
こんなところに居たくない。
助けて、助けてだれ……だれが、おれを助けてくれるんだ?
騎士になった
あの時のように、恐怖に震えるおれの前に颯爽と現れて、いとも容易くおれを救ってくれる勇者はここにはいないのだ。
渦巻く絶望感に囚われていると、それまで不動であった
大きかった体が、さらに巨大なものになっていく。
物理的な膨張ではなく、こちらに……船に、近づいてきたのだ。
「いや……嫌ぁっ!」
「来るなよッ、来るな!」
何本もの太く長い触腕に巻きつかれ、吸着された船の軋む音がする。
触腕が蠢き船が鳴くたびに、地面だけでなく空気も震えるようだった。
いや、気のせいではなかった。魔物の影の合間から、潮の匂いが室内に流れ込んできている。
窓に……
「あ……ああ……っ」
とん、と背中が何かにぶつかる。
後ろ手で正体を探る。
壁だ。
ここより後ろには下がれない。逃げられない。
どうすれば、どうしようこのままじゃ……ああ、でも。
ぐるりと周囲を見渡す。
一、二、三……なんだ。おれの他に、十八人もいるじゃないか。
おれは、ひとりじゃない。
だから……大丈夫なんだ。
「
膝を抱えていると、突然少年が叫んだ。
重い空気を切り裂く雷撃のような声だ。
「甲板、だと……?」
「なんでそんな……」
「遮蔽物だって、ほとんどなかったわよ」
床に座り込んだおれたちの間に困惑が伝播する。
それを気にした様子もなく、客室の中心で金髪の少年は言葉を続けた。
「甲板が最も安全だからだ! 魔道船の結界は、甲板が一番頑丈に張られている! だから沈むのは、いつだって甲板が最後なんだ! 誰も、死にたくはないだろう!?」
恐怖に突き動かされたように立ち上がった茶髪の少年が客室を飛び出し、それに数人が続く。
だが大多数は周囲の顔を窺うばかりで、その場から一歩も動けずにいる。少年の言葉を信じることができないのだ。
「思い出せ、舵があったのだって甲板だ!」
再び少年は声を張り上げたが、目に見える効果はなかった。
歯痒さからか彼は顔を歪ませ、鞘にくくりつられた紐の先を握り込んだ。その手の中にあるのは……ドラゴンのストラップだ。
強く握った拳を震える膝に当て、立ち上がる。
一度深く息を吐いてから、おれは一歩を踏み出した。
少年の赤い瞳と目が合う。暴れる心臓に気づかないふりをして、おれは笑みを作った。
一迅さんなら、ここで笑うだろうから。
おれなんかが彼の役に立てるのかなんて正直わからない。
彼のようなリーダーシップはおれにはない。みんなと向かい合って声を張り上げる度胸だってない。
だけど、おれにもできることはあるはずなんだ。それなら、おれも立ち上がるべきだと思った。
一人で立ち続ける彼は、きっと寂しいだろうから。
「ほ、本当だ、確かに舵は外にあった……でも、なんで甲板なの? だってそうでしょ、壁のある室内を護った方がいいよ……」
代弁するのだ。
躊躇する気持ちを。恐れる気持ちを。
どうして、彼の言葉を信じられないのかを。
そして信じるんだ、彼を。
少年は握り締めていた手を解き、唇を薄らと持ち上げた。
どうやら、おれの意図は彼に伝わったようだ。
「魔道船を沈める原因の殆どは、あの
「それって……甲板じゃないといけない理由でもあるの?」
「ある。魔道士の足場を護る為だ」
息を呑む。
「……魔道士?」
「そう、魔道士だ」
思わず尋ね返せば、少年はしっかりと頷いた。
「魔道船に乗る者は皆、魔道士に命を託す。船を、命を脅かすあの魔物を……必ずや魔道士が討ち取ってくれると信じて」
再びおれを見る彼の目には強い光があった。
まるで助けが来ないことなんて、それこそあり得ないと言わんばかりに。
彼は何故だか、おれもその未来を疑っていないのだと深く信じているようだった。
彼を、そして彼の側で揺れる、ドラゴンのストラップを見る。
魔物の影が落ちる船内であろうと眩く映る、純白の龍を。
彼もおれを見ていた。
これから発する問いに対する、おれの答えをすでに確信しているかのような顔をして。
「君も知っているだろう? 彼女たち魔道士が、大きな絶望すらをも希望に変えてくれる存在である事を!」
陽照西部出身である彼は、同じく陽照西部の住人であるおれに問う。
この胸に去来する感情の名前は、いったい何なのだろう。
その正体すら確かめることなく、おれは衝動に身を任せた。
「うん、知ってる……知ってるよ! おれ、
おっと、つい熱が入ってしまった。
少年が面食らっている。申し訳ない。
「……そうだな、彼女はとても恰好良い」
でも流石だ。すぐに気を取り直した彼はぐるりと部屋を見渡す。
一人一人に目を合わせるように、ゆっくりと。
そうして少年は再び言葉を紡いだ。
「なあ、魔道士を志す同志たちよ。俺たちこそが、最も魔道士の恰好良さに詳しい筈だ。ならば、容易く想像できるのではないか? 甲板で助けを待つ俺たちを、駆けつけた魔道士が助けてくれる……その瞬間を!」
「で……できる……想像、できる……っ」
そう言ったのは、おれではない。
「私も……! だって、前に助けてもらったもの……
「実は僕も、あの
「俺もっ、俺も大氾濫で、
ぽつり、ぽつりと同意の言葉で溢れる。
ああ、そうだ。そうなのだ。
この船には、陽照の西部に住む人間しか乗っていないのだ。
八年前に陽照西部で起きた大氾濫は、第二波が来ていれば西の七割は壊滅していたとすら云われた未曾有の大災害だった。
その絶望からおれたちを救ってみせたのが、“三騎士”を始めとする魔道士たちに他ならない。
そして、あの時助けられることしかできなかったおれたちは、無力ながらも魔道士に憧れ、彼女たちのように生きたいという決意を胸に、今この船に乗っている。
魔道士になりたいという夢を抱いている。魔道士に対する絶対的な信頼を抱いている。
「ああ、そうだ! 俺たちは“魔道士”を信じている! ならば、俺たちがすべき事は何だ!?」
「ま、待つこと!」
「そうだ、待たねばならない! その為には何ができる!?」
「甲板に……一秒でも長く、生き残れる場所にいる! そうして待っていれば、あの時みたいに助けが来てくれるから……っ!」
それぞれが一歩を踏み出し、おれと肩を並べる。
それを見た少年は安堵したように微笑んだ。
「尚も恐怖に震える者はいないか? いるなら振り返るといい、俺がその首を掻き切ろう」
「いないよっ」
「ここで還っちまうなんて勿体ねぇ真似、誰がするかよ!」
「魔道士が助けに来てくれるところ、見逃しちゃうものね」
あ、その手もあったんだ。まったく考えが至らなかった……!
この世界では人が人によって殺された場合、例外を除いて
とはいえ殺人は安易に選べる手段でもない。死んだ人間は一番近い星脈へと魔力体となって転送され、数日後に体が再構築されてようやく甦ることができるからだ。
少年がこれまでこの案を口にしなかった大きな理由は、今死ねば試験が受けられなくなるからだろう。
「そうか、いらん心配だったな。ならば共に生きよう。甲板に出るぞ!」
扉を指差して先陣を切った少年に続き、いっせいに甲板に向かって駆け出した。
自省していてワンテンポ遅れたおれも、みんなに習って慌てて足を動かす。
バッグは放ったままだ。こんな緊急時に荷物で手を塞ぐわけにはいかない。運が良ければ回収できるだろう、船が沈んで荷が海に放り出されなければだけど。
ごめんね、ねえちゃん……せっかく防水バッグ買ってくれたのに……!
「君で最後だな」
「わわっ!?」
全開になった客室の扉を潜り抜けようとしたまさにその瞬間、扉の影から声を掛けられた。
声の主は、染め上げた金髪に林檎のように赤い瞳をしていた。すでに甲板に上がっていったはずの少年だった。
「驚かせるつもりはなかった。すまない」
「え、いや謝らなくても……それより、君が扉を開いくれていたんだね、ありがとう」
「足の挫いたやつでもいれば、目覚めが悪いからな」
一番先に走り出してみんなを希望へと連れ出したのに、残留者がいないか気にかけて残ってくれていたのか。
きっと彼みたいな人が、いずれは多くを救う魔道士になるのだろう。ひょっとしたら魔王だって倒しちゃうのかもしれない。
そんなことをつい考えてしまうほど、彼は可能性に満ち溢れているように思えた。
甲板への階段を上りながらそう思っていると、隣で金髪を揺らす彼がおれに微笑みかけてきた。
「こうして一人残らず連れ出せたのは、君の援護あってのものだ。助かった、礼を言う」
「お礼なんてそんな……」
畏れ多い、それが正直な感想だった。
援護に成功したのは結果論だ。そもそも援護といっていいのかすらわからない、彼任せにも程があったのだから。
「でも、助けになれたなら良かったよ。君の勇気、おれも見習わなくちゃね」
「だめだ」
「え……」
固い声を出した少年に頭が真っ白になる。
足が止まって、彼との間に距離ができた。
数歩出口に近いところで立ち止まった彼の顔は、逆光で輪郭だけが浮かび上がるばかりだ。
「君は
どうして、そんなにも……苦しげなのだろう。
ただ自己評価が低いと判断するには、あまりにもその声音は切実なもののように思えた。
何か言わなければ、いや何を言ったら良いんだ、彼はおれの返答を求めていない。
逡巡しているうちに、タイムリミットは訪れた。
「あっ! ケンちゃん、やっと来た! もうっ、すぐに来るって言ったくせに、ぜんぜん来ないんだからっ」
「悪いな、気を揉ませて。心配ありがとうな、
「えっ……あ……ううんっ、僕が勝手に心配してただけで……と、ともかく! 一緒にがんばろうね!」
おれが何かを言う前に、彼はサスペンダーパンツルックのお友達と一緒に甲板へ上がってしまった。
「おおっ、全員来たようだなあ! 呼びに行く前に甲板に出て来られるなんざ、とんだ粒揃いだ!」
青いドアを最後に通り抜けたおれを確認し、舵前に立つ船長は声を張り上げた。
断続的に揺れる甲板を見れば、他の受験生のみんなはすでにロープを両手に握っていた。困惑したような空気が流れている。
「ロープ……?」
とりあえずはとおれも真似をしてみたものの、甲板に打ち付けられた杭に張られたロープへ揃って縋りつく光景には小首を傾げざるを得ない。
何のために、こんなことをしているんだ。
「碌な方法じゃねえが、これが一番なんでな。船には“境界”の家系、
あっけらかんと宣った船長に、一斉にざわめく。
それでも取り乱す者はいない。みんな、攻撃の飛び交う甲板であろうとも甲板に居続ける覚悟はできていた。
そんなおれたちに、船長は笑みを深めて説明を続ける。
「怖がらせちまったな。まあ、それは船内に攻撃が通るってだけの話だ。白宮原の嬢ちゃんは言ってたぜ、『どんな魔物に遭遇しようとも、甲板だけは必ず二十分保たせられるようにしました』ってな! なあ、ここいらだけ、床板の色が変わってんのがわかるか? 緊急用の結界が発動してんだ」
とん、とん。船長は踵で船板を叩く。
焦茶色だったはずの床板は、明度が上がっていた。発光しているのだ。
「ここが、甲板だ。この板の上が甲板、絶対の安全圏。だから、この板から……何があっても、足を離すんじゃねえぞ!」
「それは……どういう……?」
「俺も嬢ちゃんから聞いた時は驚いちまったもんだが、何でも『甲板の上に触れているものは、甲板です。そういうことです、そういうことができたみたいです』って言ってたぜ! つまりだ! ロープをしっかり握って床に踏ん張って、何が何でも結界の範囲内で居続けろってこった! 救援要請受けてすっ飛んでくる魔道士が、アイツをぶちのめすまでなあッ!」
張られたロープの意味を理解したおれたちはしっかりと腰を落とし、抱え込むようにロープを握り直す。
「絶対に離さない……絶対だ!」
「生きるぜ生きるぜ生きるぜっ!」
「みんなで生き残ろう! みんなで魔道士になろう!」
高ぶる感情のまま、口々に叫んだ。
これまで意識的に視界から排除してきた
本当は目を背けていたいが、ロープを握り締めておくためには、次にどんな攻撃が仕掛けられるのか知っておいた方がいいと考えたのだ。
俯いたままでは
それでは不必要に疲れてしまうだろう。大事なのは、必要な時に必要な分の体力が残っていることだ。
体力の温存。それを叶えるためには、恐怖に打ち勝ち魔物を見据え、不必要な場面で力を抜き体力の消耗を抑えなければならない。
求められるのは、胆力だけだ。幸い、あの個体は精神干渉をしてくるような、悪辣な個体ではないのだから。
触腕を巻きつけ船を持ち上げようとしていた
練り上げられた魔力は渦を描きながら収束していき、やがて窄められた口元に集められる。
「来るぞ、
船長が声を張り上げた刹那、力の奔流が直撃した。
周囲から、おれから、絶叫が溢れ甲板に満ちる。
「ッ……は、……はぁ……っ!」
だが、痛みはない。
肺が絞られる苦しさは、吐きそうなまでの恐怖と緊張から来るものだ。凶悪な魔力の渦中だというのに、呼吸にさえ困らない。
魔物の中でも上位に位置する
すごい、すごい……!
魔道士は本当にすごい……いつだって!
体温が高揚し、頬が熱くなる。その熱を吐き出す度に、恐怖心が解けていくのがわかった。
行ける……ッ!
大丈夫だ。
結界を信じて、立ち続ければいいだけなんだ。
本当に、それだけなんだ……!
それだけで、みんな無事に生き残れる!
「よおし! いいぞ、おまえたち! その調子だ、足裏と甲板をくっけ続けろおッ!」
「はいっ!!」
いっそう希望を燃やして、おれたちはロープを握る。
「船長! 砲台の準備ができやした! どうしやす、撃っちまいやすか!?」
「おう、一発だあ! 一発かましてやれ! 当たろうが外れようが今は一発だけだ! バカスカ撃って、うっかり魔道士に当てようモンなら目も当てらんねえからなあっ」
「わかりやした! ……おーい! 一発点火だー! いっぱつ、てんかー!」
心にいくらかの余裕が生まれ、丸まっていた背を真っ直ぐと伸ばせるようになった。
視野が広がった気分だ。今まで見えてなかったものが、聞こえなかったものが、情報として頭に入ってくる。
船乗りというのは凄まじい。
この状況下で命綱なしに、軽い足取りで甲板を歩いている。その顔に恐怖心は一つとしてない。
片足を常に床板に着けるようにしているのはわかるが、それだけ。おれが同じことをしようとは、到底思えなかった。そんな度胸はない。
「このまま。こんくらいなら、いつまでだって……ッ」
「もういやだぁ……こんなの耐え続けろっていうのぉ……?」
同じ受験生でも、精神状態はさまざまだ。
多くは先の
後者の気持ちも理解できる。おれたちは魔物の恐怖だって知っているのだ。
「あああ……ああ……あ……」
「どうして……私……!」
特に参ってしまっているのが二人だ。
そのうちの一人はサスペンダーの彼だから、放っておいて問題ない。すぐ側に“ケンちゃん”と呼ばれていた金髪の少年がいる。
さて、もう一人をどうしよう。
下手に話しかけて状態を悪化させてはならないが、放っておくのだって忍びない。周りに人がこんなにいるっていうのに、一人で恐怖に耐えろだなんてあんまりだ。
どうにかしたい。目の前にいるのは、女の子一人だ。大勢を相手に声を上げるわけじゃない。だったらおれにもできるはずなんだ。一人じゃないと伝えられるはずなんだ。
「どうしよう……魔道士が来る前に沈んじゃったら」
「だったらその時は、おれが君を還すよ」
考えている暇はない、食い気味に彼女の独白に割り込んだ。
口に出した思考は人から人へと感染していく。絶望的な未来など、だれにも思い描かせてはならない。
それが具体的であればあるほど、強い力を持って人の希望を沈めてしまう。
「へっ!? あ、貴女が……?」
横槍を入れられ、目を丸くした彼女が顔を上げる。
おれは努めて余裕ぶって横目に彼女を見やった。
「ねえ、自分でするのは怖いからさ、代わりにおれのことお願いしてもいい?」
軽い調子を装って首からぶら下げたナイフを片手で持ち上げてみせれば、彼女の強張った顔がいくらか和らいだ。
「何よそれ。でも、いいわね。その時は任せてちょうだい。私、首を切るの、すごく上手いのよ」
彼女の繊細な指先が、自身のナイフを撫でる。その手にはたくさんの傷跡があった。
消えない傷、おそらくは魔物につけられたであろう傷。彼女もまた大氾濫で生還した一人だ。
「えー、それは頼もしいなぁ」
「もう、信じてないでしょ? 本当なのよ。私、大氾濫の時に弟の首を切って助けたんだからっ」
「おおっ、それはすごい!」
「でしょ?」
本当にすごい。緊急時の星脈還しについての講座受講が国民に義務付けられたのは、あの大氾濫以降の現皇帝の治世となってからだ。
大氾濫の時分に星脈還しがもう少し一般にも普及していれば、当時の死亡者はもっと少ない人数になっていただろうと云われている。
彼女は幼き心を奮い立たせ、彼女より幼い命を懸命に護り切ったのだ。弟を、決して見捨てたりはしなかったのだ。その勇気に心の底から尊敬の念が湧き上がる。
「……ありがとね。もう、大丈夫よ」
「それはよかった」
彼女は微笑むと、ロープを握り直し
どうやら、もう大丈夫そうだ。
おれも、視界の端に追いやっていた巨大軟体生物を中央へと戻す。最後まで油断せず、この局面を乗り切ろう。
「おい、喜べえ! 通信が入った、あと五分で魔道士が到着するッ!」
そんな時に船長の声が再び響いた。
「五分ってことは、六〇を五回数えればいいってことだよな……!?」
「もうすぐじゃん!」
「やった! さっすが魔道士!」
甲板中で歓声が湧き上がる。
それが刺激となってしまったのか、
頭に過ったのは“突進”の二文字。
咄嗟に強く強くロープを握り、深く深く腰を落とす。
「踏ん張れッ! 強くだ! 揺れるぞッ!」
衝突の瞬間、思わず目を瞑った。
鼓膜が裂けそうなまでの轟音が響き、おれ自身が殴られたのかと錯覚するまでの衝撃が船体を震わせる。
「うぐ……がぁ……っ!」
手が熱い。ロープの繊維ひとつひとつが強い摩擦で皮を削る。瞼に遮られた暗闇の中、その熱源を頼りにどうにか自身を手繰り寄せる。
入り込んできた水が甲板を濡らして滑りそうになるのを、スニーカーをいっそう床板に押し付けてなんとか堪える。
歯を食いしばる。もう少し、もう少しで揺れは収まるはずだ。
ばちり。
なんだ、何の音だ。
何かが弾けるような音が鳴っている。何度も何度も。
目を開けると、吸盤が眼前にあった。
「あっ……」
おれを、捕食しようとしている。
逃げ、ないと。そう、逃げるんだ。捕まってしまう。
ロープから手を離し、その場から離れようと右足で傾いた床を蹴……っだめだ!
慌ててロープを抱き寄せ、しゃがみ込む。
ばちり。
また音がした。
結界が、
今、もし甲板から体が離れていたら……おれは、食べられてしまっていた。
心臓が耳元で鳴り響き、視界に黒い靄がかかる。
息を吐く、息を吐く、息を吸う。呼吸を整えなければ。青ざめた頭では判断を間違える。
「一発点火だあ!」
「わっかりやしたー!」
魔道砲台から放たれた火球が
その時、踏ん張るおれを、前から後ろへ大きなものが横切っていった。
大きな音を鳴らしながら、それは甲板を転がっていく。
そう、まるで悲鳴のような音を立てて……って、まるでも何も悲鳴そのものじゃないか。
ということはつまり、今転がっていったのは……人!?
影が描いた軌道を肩越しに追いかけたが、そこにはだれもいない。さっぱりとした空間があるだけだ。
気のせいだったのか、いや、そんなはずはない。
目に力を込める。
「あっ!」
甲板の先、赤い染みの滲んだ船の縁に骨ばった指がかかっている。
割れた爪先は白んでいて、大きな力が加わっていることが見て取れる。その先に人体がぶら下がっているのだと理解できた。
落ちかけている……!
引き上げたい、でもどうやって……!?
船体はいまだに不安定。助けに向かえば、おれの方が船から落ちてしまうかもしれない。泳ぎにはすこぶる自信があるが、水に棲む魔物を相手取って逃げ切れるものなのか。魔物と競泳をしたことなんてなかった。
だから彼には悪いが、魔道士が来るまで耐えてもらおう。船長が魔道士が来ると言ってから、かなりの時間が経過したはずだ。だって、こんなにも長く心臓が暴れ続けているんだから。
それにそうだ。もしも耐え切れず海に落ちてしまったとしても、きっと
問題ない。このままで大丈夫。おれはここに居ていい。あとほんの少しの辛抱なんだ。
「た、すけ……!」
黒髪が
血の気を引かせ真っ白になった顔の下には、その首には……何も、掛かっていなかった。自決用のナイフを持っていない。落としたのか!?
まずい。あれではだめだ。星脈に還れない。どうにかしないとだめだ……!
「原初の火は安寧を
魔術詠唱……!?
聞こえてきた詠唱に首を回転させれば、いつの間にか近くに金髪の少年がいた。ロープから離した右手には魔力が集っている。
「我が手に宿るは星の煌めき 我が爪を
そうか、別にナイフで首を切らなくても殺してしまえばいいんだ……!
「たの、む……もう、限界なんだ……」
か細い声に鼓膜を切り裂かれる気分だった。
魔術を習得していないおれは何の役にも立てない。
強張った喉で唾を飲み込み、魔術の成功を祈った。
「火炎術式“
燃える魔力が炎の刃となって放たれる。
刃は真っ直ぐと甲板を照らし進んでいく。船縁の少年目がけて一直線だ。
この魔術は何度もテレビで見たことがある。触れたものを燃やし断ち切る、火の斬撃を飛ばす魔術だ。
よし、これでもう大丈――
「うわわ!?」
「ぐ……ッ!?」
――突然体が浮いた。ロープを手繰り寄せ、強引に着地する。
何だ!? 船を突き上げられたのか!? いい加減、何か思い通りになれよッ!
いや、それよりも……彼は!?
甲板より先、青い空に投げ出された少年を見つけた。
短く切り揃えられた黒髪が海風に靡く。隙間から覗く目は呆然と見開かれ、虚空に伸ばされた手は何も掴むことなく半開きになっていた。
「た、すけ……」
どうする、このままいけば彼は海に落ちる。今から走ったとしても、間に合わない。彼が落ちるスピードよりも速く、おれの足は走れない。
仮に海に落ちた彼を追いかけたとして、おれに彼を見つけることはできるのか。そもそも、その前におれが魔物に喰べられてしまうかもしれない。
そうだ、魔道士……魔道士なら、海に落ちた人間を探すことができるんじゃないか。ほら、よく本であるじゃないか、魔力を探知して背後から迫る敵を返り討ちにしてしまう場面が。応用すれば人探しにだって使えそうだろう。
……だけど、それはいつの話だ? 彼が魔物に見つかるまでに間に合うのか?
金髪の少年を見る。彼は再び詠唱を開始していた。
苦しげに歪められた赤い目は、魔術が間に合わないことを何より雄弁に語っている。
打つ手はないのか?
おれは何もできないのか?
本当に……?
「だれかっ……!」
――絶望に染まったその顔と、目が合った。
「おれが行く!」
全霊で叫ぶ。
一拍も置かず言えたはずだ。
彼にもちゃんと届いたはずだ。
助けが来ると信じてくれたはずだ。
一人ではないと思ってくれたはずだ。
水飛沫を上げて消えた彼を追うため、気合を入れて駆け出す。
強く蹴られた床板がぎしりと鳴いた。
「おい莫迦ッ、二の舞になるぞ!」
掛けられた声がおれに届かないようにと加速する。
立ち止まれば間に合わない。だが、追われては困る。二人は無理だ、確実に。
足を動かしたまま上体を捻る。仕立ての良い服を着た金髪の少年が、必死な形相でおれへと手を伸ばしていた。
今にもロープを手放して追いかけて来てしまいそうだ。
「心配ありがとう! けど大丈夫! おれ、泳ぐの得意なんだ! 溺れない選手権なんてのがあったら、世界で一位取れるくらい!」
「命知らずがッ!」
明るく宣言してみせれば、途端に少年の眉が吊り上がる。
「俺は船から降りないからな! ちゃんと近くまで戻ってこないと引っ張り上げられないぞ! わかったな!?」
優しいな。おれが走らなかったら、きっと彼が走り出していただろう。
顔に笑みが浮かぶのを自覚した。
「わかった! 必ず戻ってくる!」
叫び返しながら船縁へと手を掛け、手すりを蹴る。
体が重力に抗い、結界を越えた。
水面に映るのは、鮮明なおれの顔。
「いいか!? もしもの時は、お前だけでも首を掻き切るんだぞッ!」
激励を背に、おれは荒波へと無防備に飛び込んだ。
昼間なのに、暗い。
だが大丈夫、おれには見える。
体に叩きつけられる、強い水流。
だが問題ない、おれは流されない。
何故ならば――おれは
星樹に導かれ、こちらの世界へと渡ってきた者。或いは、こちらの世界で生まれ変わった者。
この世界、
おれは、海の人間として生まれた。
だから、たとえ世界が変わろうとも……どんな荒波にだって適応できる。
海は決して、おれを傷つけない。
首から下げた自決用の折りたたみナイフを失くしてしまわないように気をつけながら、おれは周囲を大きく見渡した。