いつかこの手に雷光を   作:直崎ゆきふり

6 / 7
5(中) 森の中の出会い

「そういえば、なんで“雷撃剣”なの? 速いから?」

 

 隣を歩く少女、那谷(なたに)がおれを見る。

 那谷がはぐれたという“みさおくん”と合流するまでの間、ひとまずは彼女を行動を共にすることになったのだ。やったね。

 

 現在は那谷と二人、広場へと向かっていた。『魅青(みさお)くんはたぶん、広場近くにいると思う』、というのが那谷の予想だ。

 彼女は地図も見ずに迷いのない足取りで森を歩いていく。これも魔本の効果かな。

 

「ううん、カッコいいからかな。おれはね、一迅(いっしゅん)さんが好きでっ。だから、技名だけでも雷って言いたいんだよね!」

 

 天高く突き上げた拳の先には、『45』が浮かんでいる。残り時間は四十五分だ。

 

 那谷の疑問はごもっとも。本当に残念ながら、おれに雷属性への適性はない。だから“雷撃剣”と言ってはいるが、何の変哲もないただの全力の振りかぶりだ。

 あの眩い光を放てたら、と。数えきれないほど強く願ったが、無いものをねだっても仕方がない。

 

「いっしゅん? ……あー、龍嵜一迅(りざきいっしゅん)? 明日の筆記試験に出てくるかもしれないっていう、あの?」

「そうだよ、三騎士の龍嵜一迅さん! 那谷はあんまり知らない感じ? おれの地元ではかなり有名だから、なんだか新鮮かも……!」

「うーん、たしかに詳しくはないかな。身長とか、使ってる剣の名前くらいしか知らないかも。これも試験に出たりすると思う……?」

「えっ!? 剣の名前知ってるの!?」

 

 身長192センチの一迅さんは、腰に剣を()いている。おれを助けてくれた時も、刀身に雷光を纏わせて周囲の魔物をあっという間に倒してしまった。カッコよかったなぁ……!

 

  それにしても剣の名前を知ってるだなんて、那谷は謙遜してるだけで一迅さんに相当詳しいんじゃないか。試験対策のためだけに、そこまで調べないでしょ。隠れファンってやつかな。

 

 わくわくと那谷が剣の名前を教えてくれるのを待っていると、彼女はパーカーのポケットから文庫サイズの本を取り出した。

 手に持つ黒地のハードカバーの表紙には、金色の装飾で星樹が描かれている。星霊(ホシノカミ)以外に金の瞳を持つことを許された人間。“星樹の虚像”と名付けられた魔法に目覚めた者だけが所有する、無限のページを持つ魔道書“無上の魔本”だ。

 魔本を開いた那谷は、何も書かれていないページを指でなぞった。白い指が通った側から文字が浮かび上がってくる。

 

「うん、知ってる。襾冴天雷(かごてんらい)って剣だよ」

「かごてんらい……なるほど、そう書くんだねっ。ありがとう!」

 

 那谷の書いてくれた文字を冊子に写す。この後提出してしまうが問題はない。一度で覚えてみせる。

 襾冴天雷……それが、一迅さんの愛剣……!

 

「ねぇ、志更くんの地元がどこかって訊いてもいい?」

 

 鼻唄混じりに繰り返し襾冴天雷を唱えていると、那谷にそう尋ねられた。

 これは……おれに興味を持ってくれてる!?

 ……いや、ちょっと繰り返し唱えすぎて、那谷に気まずい思いをさせちゃったのかも。反省。

 

「西だよ。ええと……あんまり知られた地名じゃないから、未踏の森の近くの街って言った方が伝わりやすいかな」

 

 まぁ、そんなに近いってわけでもないけど、他に名前の知られているものが思いつかない。観光名所とかも特に無い街だし。

 未踏の森は、数年前に移住してきた民族の“ルルトゥスの聖火”とやらが呪いに効くと判明したとかで、最近新聞に度々その名前が載っている。だから比較的伝わりやすいのでないかと思う。

 伝わらなかったらどう補足しようと那谷を見てみると、彼女は目を丸くしていた。

 

「え、そうなの? 私、小さい頃はその辺りにいたよ」

「えっ、すごい偶然だねっ」

 

 これは……いいぞ。仲良くなるには、共通の話題があれば良いと聞く。西トークで盛り上がって、那谷との仲を深めていこう!

 でも……何を話そう。なんか特産品とかあったかなぁ。那谷が興味を持ってくれそうな、美味しい食べ物……うーん……。炎焼き? いや、あの円形の焼き菓子は呼び名が違うだけで全国的なものなんだっけ……。

 

 話題に困ったおれは潔く西トークは諦めて、那谷と当たり障りのない会話をすることにした。相手を知ることも、仲良くなるための方法のひとつだと思う。頭を捻って、いくつか質問を生み出し、彼女はそれに答えてくれた。

 那谷は現在、帝都の郊外に住んでるらしい。大氾濫の後にすぐ引っ越したそう。引っ越した理由は大氾濫で住んでた村が無くなったから、とのこと。思い切り当たり障ってしまった……!

 

 そうだよなぁ、おれの今住んでる街は一迅さんたちが護り抜いてくれたけど、そうじゃないところもあるよなぁ……! 本当に迂闊だった……ッ。

 

 慌てて謝ろうとするが、那谷が気にした様子は一切ない。空を見上げる彼女はむしろ、どこか機嫌が良さそうに思えた。

 言葉を飲み込む。この状況で謝っても、おれの気晴らしになるだけだ。胸中で謝罪するだけに留めた。

 

「そっか、西で有名なんだ、龍嵜一迅……知らなかった」

 

 ぽつりと溢されたそれにどんな感情が込められているのか、おれには推し量ることはできなかった。

 

「那谷は――」

「――グゴォアアアアアア!!」

「っなんだ……!?」

 

 突然響いた咆哮。続いて絶叫が響く。それもひとつ、ふたつじゃない。

 苦痛に満ちた悲鳴が断続的に響き、声が段々と大きくなっている。こちらに近づいてきている。

 

「……なに?」

 

 草むらの影に身を潜めながら、那谷は目を凝らすように金眼を細める。

 その気配はひどく希薄だ。可愛らしい顔に目が引っ掛からなければ、よもや存在を認知するのも困難なほど。気配を消すことに慣れている。こんな非常時でなければ、コツを伝授してもらいたかった。

 

「行動範囲広いなぁ……」

 

 口の中で悪態をつく。

 この現象の正体には心当たりがあった。これと似た断末魔をごく最近聞いたからだ。おそらく、東がやって来てしまったのだ。

 すぐ側に立つ少女の耳元へ、声を潜めて告げる。

 

「気をつけて、那谷。5ポイントだ」

 

 5ポイント……つまりは、猛毒を持つ魔物。

 

「ああ、どくタイプ? じゃあ声の数的に、正体不明の方かな。それか新登場」

「そうだね」

 

 猛毒の魔物については事前に共有してあった。今こちらに向かってきている可能性の高い東の魔物については、持っている情報が少なく、ほとんど何も伝えられなかったが。

 新たな5ポイントの魔物という可能性は正直考えたくない。もし、そんなにゴロゴロと猛毒が彷徨いているとしたら悪夢だ。

 

「……今から撤退は間に合いそうにないな。開けたところを歩きすぎたみたいだ」

 

 しゃがみ込んでいるから背の高い草の影に隠れられているが、逃げるために立ち上がればこの身を隠してくれるものは何もない。

 慎重を期すべきだった。那谷とのおしゃべりに浮かれて、気を緩ませすぎた。彼女まで危険に晒して、自分が情けない。彼女とは違って、おれは5ポイントの脅威を直接目にしたはずなのに。

 

「なら、このまま隠れとこ? たぶんバレない」

「そうだね。鼻の効く魔物じゃなければいいんだけど……」

「大丈夫だよ、志更くん。見つかってもプラス4ポイントになるだけだから」

「ははっ、心強いなぁ」

 

 親指を立てる那谷に、笑みを作って返す。微塵も恐怖を感じていない彼女が眩しかった。

 どうか魔物の進路に直撃しませんように。両肘を抱えてそう祈っていると、大きな足音を鳴らしてこちらへ向かってくる何人もの受験生の姿が見えた。みんな青い顔をして我先にと走ってくる。

 その後方には、熊と狐を混ぜたような……毒々しい呼気を吐く魔物がいた。

 

「どっ……!?」

 毒ガス……!?

 

 意図せず漏れ出た声に、慌てて口を両手で覆う。

 迂闊な真似をしたことを那谷にアイコンタクトで謝ると、彼女は首を傾げておれの背を撫でた。優しさが沁みる。そしてアイコンタクトは伝わってない。難しい。本当にごめんね……。

 

「来るなぁ! 来るなよぉ……ッ!」

「なんでこっちに……っ」

 

 追われる彼らは一様に、背中を突こうとする紫色の霧にパニックを起こしていた。逃げる方向を分散させることもなく、木々の開けた一本道を真っ直ぐと進んでくる。

 でも思ったより魔物の足は速くなかった。これならさっき撤退してたら間に合ったかも。

 ここまで逃げてこられた彼らだって、追い付かれる心配はないだろう。現に魔物との距離は少しずつ離れていっている。冷静になれば、バラバラに逃げればいいと気づくだろうし。

 ……おれたちも、このままやり過ごせそうかな。幸い、こちらが風上だ。風向きが正反対の強風でも吹かない限り、毒ガスがおれたちに降りかかることはない。数メートル先を横切っていく彼らを見ながら、そう算段する。

 

「うあ!」

 

 息を呑む。

 たった数メートル前。走っていた受験生の一人が目の前で躓いた。彼女が地面に倒れていくのを、スローモーションになった世界でおれは見ていることしかできなかった。

 転んだ彼女は、すぐさま地面に両手をついて起き上がった。そして走り出そうと足をつき、バランスを崩して再び地面に伏せった。

 時間をかけて立ち上がる彼女の両脇を、他の受験生たちが追い抜いていく。

 

「なんっ……なんで、どうして……!?」

 

 抱えた膝に爪が食い込む。血が滲もうと痛みを感じない。そんなことよりも目の前の光景が耐え難かった。

 おれは、転ぶ彼女が足を挫く瞬間を目撃してしまっていた。だから、わかる。彼女はもう走れない。

 逃げられない彼女を待っているのは……何だ?

 

「グガァアアアァアアアアッ!!」

「あっ……」

 

 後ろで上がった咆哮に、片足を引き摺る彼女は血の気の引いた顔で振り返った。

 反射的に走り出そうとして、また転ぶ。力無く地面を引っ掻くその手は、自身を追い抜いていく受験生たちに伸ばされる。

 だが魔物に追い立てられる彼らはそれに気づかず、少女だけを置いて去っていく。彼女だけが取り残された。

 

「……あ。た、助け……助けてっ! ……いやだ、死にたくない……ッ! たすけてよ、誰かッ!」

 

 彼女の顔が暗い絶望に覆われる。頬を伝う雫が土を斑らに染めていく。

 その姿に――ふと、暗闇を思い出した。

 

『――なんで、だれもいないの』

 

 蠕動する水槽。粘膜の檻。溢れ出る血がふわふわと狭い海を染めていく。

 何度叫んでも、だれもおれを助けてくれない。

 

『――どうして、おれだけがひとりなの』

 

 せめて血と臓物から逃れようと、目を瞑り、両手で口を押さえていたあの時を。

 

『――っなんでこんな所に子供がいるんだよ……!? この森はどうなって、いやそれより……あー、もう大丈夫だからな! こんな奴ら……そう、バチバチっとすれば一瞬だ! だから安心、は難しいのか? なら、えっと……、私を応援しろ! そう、勇者でも来たと思って! なっ? 勇者ってのは凄いらしいぞ、助けられないやつなんていないんだ! ……凄いよな、勇者って』

 

 そして――おれを助けてくれた雷光の勇者を思い出した。眩く輝く、光を。

 

「……志更くん?」

 

 そうだ。おれは……勇者になりたいんだ。眩く輝く、光に。

 

「あな、たは……?」

「あっ」

 

 何も考えず、つい少女の前に飛び出してしまった。

 これではただ死にに出たようなものだ。なんの毒対策もない。

 

「それでも……見捨てるなんてしたくない」

 

 濃厚な死の気配。逃げ出したい。

 それでも、ああ、大丈夫。おれは今、ひとりじゃないから。

 おれはだれも見捨てない。おれは見捨てられたくなかったから。

 

「さあ、おれの肩に手を回して。一緒に逃げよう。大丈夫、君はひとりなんかじゃない」

「ご、ごめんなさい……っ」

「いいんだ。いいんだよ。ひとりで死ぬなんて、寂しいんだから」

 

 背中の木剣をお腹側へと回し、涙を零す彼女を背負って立ち上がる。叶うことなら、その涙を止めてあげたかった。

 今からこの子を抱えて走って、果たして何秒引き延ばせるのだろう。苦しむ覚悟なんてない。痛いのはいやだ。死にたくない。死んでも甦られる? そんな理由で、この恐怖が無くなるものか。

 それでも笑え。勇者は決して、だれもひとりにはしない。だから勇者はひとりにはならないんだ。

 

「――品行方正だ……」

 

 風に乗せられて届いた呟き。草むらに隠れていたはずの那谷が出てきてしまっていた。

 彼女はあろうことか、こちらへ走ってくる。そして、おれたちと魔物を隔てるように立ち塞がった。

 

「那谷、危ないよ。君だけでも逃げるんだ」

 

 声が震えないように努めた。おれの恐怖が伝われば、那谷はこの場を離れられない。

 上手く内心を隠せたと思った。なのに、帝黄色の背中は動いてくれない。逃げてくれない。

どうして。身軽な君は、今から逃げたって間に合うだろう……!?

 

「ううん、私がやる。私は、志更くんより強いから。だから、やるべきなんだよ。人が死ぬところなんて、私も見たくないし」

「何を、言って……」

「言ったでしょ? 『プラス4ポイントになるだけ』だって。大丈夫。私、すごく強いんだよ」

 

 背負った少女の嘆息が聞こえた。足を止めて振り返る。

 見れば、那谷の手のひらに火が宿っていた。小さなそれは、瞬く間に拡散していく。 

 

「ググルゥアアアアアア!!」

 

 猛毒の霧。死を齎す怪物。

 牙を剥いて迫り来る魔物は、あんなにも恐ろしかった……はずなのに。

 今は、少しだって――怖くない。

 

「その毒、いらない」

 

 目の前に立つ少女から目が離せない。燈る火が心を離さない。

 猛毒の霧を燃やしながら広がる炎が、ひたすらなまでに美しかった。

 どうして那谷の魔法は、見るだけでこんなにも安心するのだろう。あの火を見れば、もう大丈夫なのだと恐怖が解けていく。

 

「グギャゥ……!? グルルルルッ……!」

 

 魔物の足が止まった。

 対峙する那谷を、魔法で生み出された火を警戒している。

 

「大丈夫、痛くないよ。これは痛くない火」

 

 毒を燃やし尽くした火が、今度は鋭く収束していく。

 刃を形作っていくそれは、沙夜(さよ)ちゃんの魔術によく似ていた。掻火爪(かきひづめ)を、魔法で再現しているのだ。

 火の刃が完成し、立ち竦む魔物へと向けられる。

 

千熱(せんねつ)――」

「――眠り姫(フローズ)

 

 ――瞬間、森が冷気に包まれた。

 

「ばん、んぇ? 急にすごい気温下がった。寒い?」

「え、ぁ……だ、い……」

 

 右手に火を宿らせたまま那谷が振り返ったが、言葉が上手く出てこず返答できなかった。

 

「いったい、何が起こって……!?」

 

 背負った少女が白い息を吐く。おれの口からも白い息が何度も漏れる。

 突如現れた、草木も凍る氷点下。肌が張り、冷えた耳が痛いが、寒さを気にしていられる余裕はない。

 何故ならば、その中心には、見覚えのある特徴を有した氷像が立っていたからだ。

 

「魔物が……凍ってる……」

 

 熊のようであり狐のようでもあるその魔物は、間違いなく先ほどまで対峙していた猛毒の魔物に他ならない。位置も、ポーズだって記憶と一致している。

 いったい、何が起こったというんだ。……ああ、そう。確か、微かに声が聞こえた。風に乗ってきたんだ。短い言葉だった。それでその後一気に寒くなった。なら詠唱か? だったら人間? それなら逃げなくとも大丈夫か……?

 

「おーい、志更くん? どうしたの、体温低いよ。寒いんじゃない? あっためていい?」

 

 一人日常にいる那谷が魔法を宿した右手をこちらへ向ける。刃の形をしていた火が元に戻っていくのを、おれはぼんやりと見ていた。あ、那谷の息は透明だ……。

 おれの方へと歩み寄ってきた那谷が、左手をおれの頬に添えた。

 

「熱くないよ。暖かいだけだよ。ほんと、だよ」

 

 囁かれる声は、どこまでも優しくて。心が溶かされていく。背負った少女も那谷のお顔に見惚れているようで、ちょっと呼吸の頻度が高くなっていた。とてもわかる。

 燃え盛る右手がおれの頬に触れようとするのを、無抵抗に受け入れ――る、直前で、那谷の右手の火が小さく揺らめいた。

 二、三度目をぱちぱちとさせた那谷が魔法を消し、細い指先でおれの頬をむにむにと揉む。幸せだぁ……。心があったかいよぉ……。

 

「――やっと見つけたぞ、玖遠(くおん)

 

 凍りつく魔物の背後から、その少年は現れた。

 聞き覚えのある声に、見覚えのある顔だ。おれは彼を、この方を知っている。

 ……那谷の呼ぶ名前の響きに覚えがあったから少しくらいは予感はしてたけどさぁ、まさか本当にそうだとは思わないじゃん! 由緒ない家柄とはいったい何だったのか……! おやんごとなきお方と組んでるじゃないか!

 

「あ、やっぱり魔法消そうとしたの、魅青(みさお)くんだったんだ」

「魔力は温存しろって言ってんだろ」

「……うん、言ってた……」

 

 那谷がおれの背に隠れようとする。表情は変わらないが、不注意で壺を割ってしまったところを目撃された小学生のような雰囲気を漂わせている。バツが悪そうだ。

 可愛いけどやめてほしい。おれを間に挟まないで。どうすればいいのかわからないから。背負った彼女も逃げようとしてるって。危ないよ、そんなに動くと落っことしちゃうって。

 

「この場に残っているのは、玖遠を含めて三人だけだな」

「だよ。魅青くん入れて四人」

 

 犬耳の生えた黒髪。原色のごとく鮮やかな青の瞳。彼の名を知らない帝国民はいない。

 陽照(ひでらし)帝国が第六皇弟(おうてい)。最年少で七玉(しちぎょく)が“青”を戴いた天才、狗握(くにぎ)魅青(みさお)殿下だ。齢は現在十四歳だと聞く。これは……十中八九ご本人だろう。

 一通りおれたちを見定めた殿下は、懐から白い布を取り出した。

 

「怪我人は一人……捻挫か。そこ、座れるか?」

「えっ……」

「はいっ……!」

 

 殿下が指差すと、一画の冬が砕ける。その中心には腰掛けやすいサイズの岩があった。

 そこに怪我人の少女を座らせればいいのだろう。おれは岩の元へ歩くと、背負っていた少女を岩に座らせ……

 

「ちょっと、抵抗しないで……」

「……私、あなたにとても感謝してる。助けに来てくれてありがとう。そしてお願い、もう一度助けて……!」

「いやいや、きっと大丈夫だって。大丈夫、だいじょーぶ」

 

 小声で唱えかけてくる少女の両肩を抑えて、岩にひっつけと念じる。強い思いが通じたのか、彼女は観念して岩に腰掛けた。すぐさま後ろ足で距離を取ると、彼女は子犬のような目でおれを見た。その顔には『せめて側に居てほしい』と書いてある。

 悪く思わないでくれ、おれは皇族との口の利き方なんてわからないんだ……!

 両目を強く瞑り罪悪感に耐えている最中、空いた背中に柔らかな感触がくっついた。

 

「どわっ!? な、那谷……!?」

「かくまって」

「もちろんです」

 

 おれは背中をアジトとして提供しながら、心臓が飛び出してこないように口を一文字に結んだ。……U字かもしれない。

 

「使い捨ての治癒用魔道具だ。回復と鎮痛の効果がある。巻いてやるから、ジッとしとけよ。すぐ終わる」

「あ……ありがとうございます!」

「つっても効果は微小だ。今から提出に向かっとけ。魔物の心配ならするな、広場付近は既に狩り尽くされてる。提出が終わったら、忘れず医務室にも寄れよ」

「はい! ありがとうございます! はい! 行ってきます!」

 

 幾分か顔色を良くした少女は何度も頭を下げると、殿下の言葉に従って広場へと向かい始める。よかった。若干ぎこちなくはあるが、ちゃんと歩けてる。

 ほっとしながら遠ざかっていく少女を見送っていると、幾らか姿が小さくなるまで歩いたところで彼女は勢いよく振り返った。そして冊子とペンを取り出すと、何やら書き始める。書き終えると大きく頷き、両手で開いた冊子をこちらへ向けた。

 

「『助けてくれてありがとう。嬉しかった。絶対にあなたたちは合格する!』……だって」

「そっか……そう、書いてくれたんだ」

 

 親指を立てる那谷を真似して、おれも親指を立ててみる。この嬉しさが、彼女に伝わればいいな。

 少女は満面の笑みを浮かべ深く頭を下げると、今度こそ去っていった。

 どうか、彼女も合格しますように。

 

 

 

「いつまで隠れてる?」

 

 去っていった少女の背中が木々に隠れて見えなくなった頃、殿下が眉間に皺を寄せた。その青い瞳の先には、おれを盾にして隠れる那谷がいる。俯いた緑黒髪に首筋がくすぐられる。

 おれは可能な限り息を殺して『35』を見る。視線を合わせるな。おれはただの隠れ蓑。おれのことはどうかぺんぺん草だと思って、どうか那谷とだけお話ししてください……! どうかどうか!

 

「隠れてないよ」

「そうか。一応確認しとくが、冊子とナイフは失くしてないだろうな? お前はうっかりしている所がある」

「安心してよ。ばっちり持ってる」

「なら魔法は? 僕と離れている間に魔法は使ったか?」

「……それ、凍らせたままでいいの? これは探索ポイントを集める試験なんだよ。立派な氷像を作っても加点されない。すごい冷凍技術だとは思うけど。魅青くん、冷凍業界の未来は明るいね」

「妙な未来を背負わせるな。話逸らしやがって」

 

 那谷のおぼつかない話題転換に殿下は肩をすくめると、背を向けて凍りついた魔物の方へと歩んだ。

 殿下の踏みしめる地面から広がるように氷が消滅していき、静止していた世界が動き出す。風がそよぎ、草が揺れ、木々が匂い立つ。

 その中でただひとつ、魔物だけが冬の世界に取り残された。

 

微睡みの君(フローズン)

 

 殿下が唱えると手に氷の刃が表出した。氷の刃がするりと凍った魔物を切り分け、滑らかな断面を作る。途端に魔物が粒子となって空へ溶けていく。今のが二回目の採取だったようだ。

 凍っているからかなり硬かったはずなのに、ああも簡単に切れるなんて。一瞬のうちに周囲を凍りつかせたことといい、さすがは七玉(しちぎょく)だ……!

 今上陛下が即位と同時に導入した七玉は、彼女によって選ばれた七人がそれぞれの色を戴く。『陽照(ひでらし)はね、平和でなくちゃいけないんだよ』と公言する陛下が対魔族用に設置しただけあって、その戦闘能力は帝国でも上位に位置するそうだ。まあ一人欠員しているから、正確には現在六人だけど。

 ああ、夜明陛下のことを思い出していたら、陛下のご尊顔を見たくなってきたな。帰ったら朝刊の“本日の陛下”コーナーを読み直そう。今日は一迅さんも載ってるんだよね! 首に帝冠を着けた少女に優しく微笑みかけるドラゴン角尻尾お姉さん騎士という素晴らしい構図! たった百円を払うだけでわりと高頻度で推しのお顔が見られる上にお写真が手に入るから、新聞を買うのがやめられない……!

 今日で物資の搬入は終わるらしく、明日以降はこの島に新聞が入荷しないのが本当に残念でならない。島から帰ったら、急いで買わなきゃ……!

 

「横入りだったからな、訊いておく。僕が貰っても構わないのか?」

「いいよ。今、ポイント富豪してるから。ね?」

「え、あ、うん」

 

 おれでは倒せなかったし、助けてくれた殿下が採取することついてまったく文句はないけど。

 何ポイント持ってるのかわからない那谷はともかくとして、おれは多いと言えるほどポイントを持っているんだろうか?

 いまいち他の受験生たちの保有ポイントがどれくらいなのかわからない。

 3ポイントの魔物に苦戦してる受験生もわりと見かけたから、平均以上のポイントを有しているとは思うけど。

 

「……へえ、ポイントには困っていない、と。興味があるな、僕に冊子を見せてくれないか?」

「うん、いいよ」

 

 おれ越しに青い瞳に那谷が映る。唇の端を持ち上げた殿下は髪を掻き上げ、黒髪の間から人耳と朝焼け色のピアスが覗いた。

 那谷が差し出した冊子を殿下はパラパラと捲っていく。

 

「……僕の知らない採取アイテムが三つもある。どれも魔物だな、これはどうした?」

「エンカウントした」

「うち一つは6ポイントだが?」

「ごめん。魅青くんも憬肉触玉手(ローパー)欲しかったよね。おいしそうだったのに、仕様上二回しか採取できなかった」

「違う。魔法を使っただろって言ってんだ」

「つか……使ってないよ、一回しか」

「使ってんじゃねえか。魔力の消耗を控えるって話だったよな。忘れたとは言わせないぞ、魔本持ちめ」

 

 人の言葉、人の動き、人の終生。それらは葉となり、星樹を繁らせる。星樹には、すべての人の記憶が記録されている。

 だから、星樹への限定的なアクセス権を持つ金色の瞳の人間は、完璧な記憶能力を魔本によって与えられている。見たものを、聞いたものを、感じたものを、認識したものを決して忘れない。

 ……といっても、那谷の反応的に、忘れないからといって必要な場面で思い出せるとは限らないようだけど。筆記試験最強の能力ってわけじゃないのかな。

 

「ま、マッチサイズだったし。ね? そうだよね?」

「う、うん……たぶん……?」

「ほら、そうだったって言ってるよ」

 

 味方を得たと思ってる那谷には悪いけど、正直断言はできないかな。

 確かに最初は小さな火だったけど、すぐにナイフを覆えるくらい大きくなってた気がするし……火でナイフに膜を張るように薄く引き伸ばされていたから、体積は変わっていなかったのかな。

 でも、魔法の体積と魔力消費量が必ずしも一致するわけではないし……熟練者であれば特にそうだ。込められた魔力量は外見では判別できない。

 一度発動しかけた技を停止させ、その魔力をそのまま別の技へと変化させるなんて芸当はそう簡単にできるものではない。魔道知識の浅いおれにすら理解できる。

 那谷の魔法の腕はきっと、数千人の受験生の中でもトップクラスの練度だ。

 

「はぁ……まあ、いい。目を離した僕にも非があるからな。お前が無事でいてくれただけで充分だろう」

「……ごめんなさい」

 

 おれの服を握る那谷の手に力が入った。今の言葉がいちばん効いたらしい。

 

「……それで、彼女は?」

 

 青がおれを映す。少し顔を逸らして目だけでこちらを見やる姿は、なんだか気まずそうだ。これまでおれに話しかけてこなかったのは、掛ける言葉を探していたのかもしれない。

 おれは別に、このままでも気にしなかったのに。だって、絶対これ殿下と何かお話しする流れだよね……!?

 

「志更くんのこと?」

「お前の前にいる彼女が“しさらくん”であればそうだ」

 

 頷いた殿下に、那谷も頷く。

 そして那谷は、おれの肩口から顔を出して言った。

 

「友達だよ」

「友……!?」

 

 とも、だち……ともだち……友達!!!

 衝撃が全身を迸る。那谷は今、おれを友達だと言った。

 友達とは、仲が良い人間同士をいう。那谷は、おれを友達だと言ってくれた。

 那谷は……那谷は、おれと、仲良くなりたい……って、そう、思ってくれたんだ。おれを友達と思ってくれてるんだ。友達なんだ、おれたち。

 

「そうか、友人が出来たのか。……挨拶が遅くなってしまったな。僕は狗握(くにぎ)魅青(みさお)だ。探索演習中、そこの那谷(なたに)玖遠(くおん)と組んでいる。君の名前を覚えておきたい、教えてくれないか?」

 

 殿下が片手を胸に添えて、おれを見た。

 慌てて衝撃から立ち直り、衣服の乱れを整える。那谷の友人として、情けない姿は見せられない。

 

「ど、どうも……おれは……本日付で那谷の友達になりました、英地(はなち)志更(しさら)と申します。不束者ですが、以後那谷の友達とお見知り置きいただけますと幸いです……!」

 

 うあああっ、意気込んではみたけど、やっぱり皇族との話し方なんてわからないよぉ……! 無礼だったかな……!? 助けて、ねえちゃん……!

 冷や汗をドバドバさせるおれの背後で『はなち……?』と首を傾げる気配がした。右に13°。振り返らなくとも何度に首を傾げているのかわかる。これが友情パワーか。友達相手に分度器は必要ないんだね、初めて知ったよ。

 

「僕が離れていた間、玖遠が随分と世話になったようだ。礼を言う、助かった」

「あ、いえ、そんな……おれが彼女に助けられたんです、殿下。彼女のおかげで、おれは死なずに済みました」

 

 採取に夢中になっていたおれは、背後から近づいてくる憬肉触玉手(ローパー)に気づかなかった。那谷がいなければ、攻撃の主すら知らぬままおれは魔力の粒子と化していただろう。ありがとう、マイフレンド。

 

「そうか。玖遠、良い行いをしたな」

「……まぁ、品行方正を心がけてるからね」

 

 それにしても、実際に会わないとわからないものなんだなぁ。

 テレビの中の狗握殿下はいつも眉間に皺を寄せていて、人を寄せつけない雰囲気を漂わせていたから、てっきりもっと気難しい人なのだとばかり思っていた。

 こんなにも柔らかな表情で微笑むことのできる方だったのか。

 

「玖遠の友人に畏まられるというのは、なんとも居心地が悪いな。僕の我が儘に過ぎないが、見知った同級生のように気安く扱ってくれないか? ここにいるのは君と同じ受験生の狗握魅青だ」

「え、あの……」

「難しく考える必要はない。来春には僕も君も、ただの魔道学園の生徒だろ? 入学前の予行練習だと思ってくれ」

 

 すごい……合格前提での話をされてる……。こんなの初めてだ……!

 殿下の提案は遠慮して断るべきなのだろうが、正直かなり助かる。ここで断ったところで、皇族対話スキルを獲得できるわけでもないし。

 ほら、もしかしたら断る方が無礼かもしれないし?

 

「…………わかった。じゃあ、狗握君って呼んでもいい? おれのことは、シサラと呼んでくれたら嬉しいかな」

「ああ、シサラだな」

「……私も玖遠でいいよ?」

 

 頷く狗握君に安堵していると、ぴょこりと那谷が顔を覗かせた。

 不意打ちで至近距離に現れた可愛い顔に思わず飛び上がって距離を取ってしまうが、那谷が遠くなってしまったので、すぐに元の位置に戻って彼女と向かい合う。

 

「え……そんな……!? 那谷は那谷だよ、おれの心が保たない……! ごめんね、修行が足りなくて……ッ」

「あ、うん。志更くんがそれでいいならいいけど」

 

 おれの那谷呼びに合わせて、おれを名字で呼ぼうとは思ってないみたいだ。よかった。おれは英地くんじゃなくて、志更くんだからね。よかったよかった。ずっと志更くんって呼んでねっ!

 

「立ち話はここまでにしておこう。僕たちも提出に向かった方がいい。あまりのんびりしていると間に合わないからな」

 

 腕時計を確認した狗握君が、広場の方角を示して歩き出した。

 

「あ、ほんとだ。あと十五分ちょいしかないね」

 

 狗握君が歩くたびに揺れる尻尾を見ながら、那谷が同意する。へぇ、魔本持ちって時計を見なくても時間がわかるものなんだ、すご……い、な……あれ?

 

「えっ?」

 

 いや、待って。待ってほしい。

 那谷は今なんて言った? 残り時間が十五分しかない、そう言ったのか……?

 震える指で木剣の紐を強く握る。寒気の正体を確かめようと、おれは空を見上げた。

 

「……そんな」

 

 そこにあったのは、『32』だ。結界の上面に塗られるようにして、『32』という数字がでかでかと表示されている。

 まさか……。背筋に冷たい汗が伝う。

 ……おれは、腕時計をポケットにしまっていた。腕に着けて戦闘中に被弾すれば壊れてしまうから。明日は筆記試験、絶対に腕時計を壊すわけにはいかなかった。

 だから、試験開始の合図とともに、残り時間と一致する数字が現れた時はラッキーだと思った。わざわざポケットから時計を取り出すことなく、上を見るだけで残り時間がわかるからだ。

 空の数字を信じたのだ。あの数字が、本当に残り時間を表しているのか。それを疑うこともなく。

 

「おい、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」

「う、うん、大丈夫だよ……」

 

 狗握君に答えながら、ポケットから腕時計を取り出そうとするが、引っ掛かってしまってなかなか取り出せない。はやく、早く……出たっ。

 

「ッ……あ、はは」

 

 時計盤の短針と長針が指し示していた時刻は――十二時十三分だった。

 試験終了時刻は十二時三十分。『32』分なんかじゃない! 残り時間はたったの『17』分だ!

 そうだよ、だれが言ったんだ。あれが残り時間を示す数字だなんて、そんなのだれも言ってない。おれが勝手に、そう思い込んでいただけだった……!

 これは試験だ。合格する人間と、合格しない人間に分たれる。だから高得点を目指さなければならない。全受験生の中で、自身の点数が相対的に高くなければならない。

 

「……おれは君たちに会えてよかったよ。ありがとう、おれと出会ってくれて」

「え、いきなりどうしたの?」

 

 しゃがみ込んだおれを那谷が覗き込もうとしたので、顔を覆う両手を下げて立ち上がる。こんなことで心配させたくないし、おれの反省のために二人の時間を無駄にはしたくなかった。

 

「すっかり、あれに騙されちゃってたって話」

 

 狗握君を先頭にして歩きながら、軽い声音で隣の那谷に笑いかける。

 

「32? あの謎の数字に騙される……? わかった。もしかして、しゃべるタイプの数字? 脳内に直接語りかけてくるんだ」

「喋ってはないかな」

「あれ、ちがった」

 

 那谷が首を傾げる。彼女は空を見上げ、そしてまた首を傾げた。困惑している。

 那谷には理解できないのだろう。彼女は時計も無しに正確な時刻がわかる。だから、あれが時間を示しているとは考えもしなかった。あのカウントは六十秒よりも多くの時間を掛けて、数字を小さくしていっていたから。

 だから那谷にとっては、あれは謎の数字にしかなり得なかった。

 

「あれは試験開始直後に始まった、不正確なカウントダウンだ。つまり、あの数字は他の受験生が仕掛けた罠なんだよ。目的は、試験終了時刻を誤認させ、冊子の提出を妨害する事だ」

 

 すごいなぁ。狗握君はちゃんとあれを疑って、騙されなかったんだ。

 

「な、なるほど?」

 

 わかっていなさそうな那谷に、広場に向かう道すがら狗握君がさらに詳しく説明した。

 説明を聞き終え、全容を理解した那谷が手のひらを握り拳でポンと叩いた。

 

「え、試験が開始するまでに思いついたってこと? すごいね。私もなんかやってみればよかった。いや、諦めるのは早い。まだ間に合う。ねえ、『16』って書いてもいいと思う? びっくりするかな?」

 

 現在の時刻は十二時十四分。実に品行方正である。

 

「はいはい、妙案、アイデア出し担当。実行役は僕に任せとけ。立ち上がる姫君(フローズンガーデン)

 

 片手をポケットに突っ込んだまま、狗握君がノールックで魔法を打ち上げた。

 青の荊棘(けいきょく)が空に咲く。鮮やかな氷が『32』を呑み、『16』が描かれた。

 

「だがまあ、これで説明しやすくなったか」

 

 狗握君が上着のポケットから冊子を取り出した。歩く速度を緩めた彼と、おれたちが横並びになった。

 

「わかったろ? 他の受験生を妨害する奴がいるって。ああいった間接的な手法もあるが、中には直接的な手段に出る奴もいる。今から言いたいのは、後者についてだ」

 

 そう話す彼の手元には……

 

「……冊子が二つ?」

 

 理解が追いつかない。探索演習では、冊子は一人につき一冊が配布されるものじゃないのか? それなのにどうして、彼は二冊も持っているんだ。

 

「落としもの?」

「そうだな、落として死んだ」

 

 それは……。もう少し、違う言葉を選べなかったんだろうか。眉間に皺を寄せないよう留意する。

 ごく短い間ではあるし、ほんの少しでもあるが、彼の人柄をおれは知っている。おれたちを襲おうとしていた魔物を凍らせ、持っていた魔道具を怪我人の少女のために使ってくれた。そんな彼が進んで他人を傷つけるとは思えない。

 

「一応確認しとくけど、狗握君から仕掛けたってわけじゃないよね?」

「確かに返り討ちにしただけだが、どっちも同じだろ」

「気分の問題だけど、かなり違うかな。狗握君が無事でよかった」

「……そうか」

 

 それにしても……他の受験生に挑まれたのか。

 さっき狗握君は言っていた。『直接的な手段に出るやつだっている』、と。

 

「もしかして、冊子を奪おうとする受験生がいるの?」

 

 思っていたよりも固い声が出た。少し長めに息を吐く。狗握君は、彼がこれから必要になると判断した情報をくれようとしているのだ。落ち着いて頭に入れなければ。

 

「探せども玖遠が見つからないもんだから、僕は一度、広場に戻ったんだ」

 

 那谷が視線を逸らした。完璧な曲線を描く横顔がとても可愛い。あ、いや、今は那谷じゃなくて、狗握君の話を聞かないと。

 

「そしたら広場の周りにウジャウジャいたぜ、獲物を狙うハイエナどもが。流石に百や二百って程じゃなかったが、中には徒党を組んで幾つも冊子を巻き上げてる奴らも居た。ご苦労なこった」

「え、いつの間に冊子集め試験になったの? 私、聞いてない……」

「なってねえから、お前は絶対やんなよ。品行方正に支障きたすぞ」

「そうなの? じゃあ、冊子集めが趣味の人たち? そういう人もいるんだね」

「……奴らの目的は高得点だ。何でも、『冊子は一冊までというルールはない』んだとよ。奴らは他から冊子を奪って、何冊も提出しようとしてるって訳だ。まあ、二冊以上提出出来るとも明記されてねえから、学園側の裁量によるだろうな。この辺は、急遽試験内容が変更された影響によるものなのか、わざと曖昧なルールを提示して受験生同士の戦闘を誘発させたかったのか……それ以外か、そんなのは今考えた所で時間の無駄だ」

 

 元々は内陸にある別の会場で入学試験が開催される予定だったのが、受験生の運送ルートで大規模な落石事故があったとかで十日ほど前に試験会場の変更が通知されたのだ。あの時はびっくりした。まぁ、日程に変更はなかったから、すぐに受け入れられたけど。

 会場の変更に伴い、試験の内容も変更になったそうで、学園側の検証不足が要因で不合格者が発生すれば、個別での再試験等の措置を取ると異例の説明がなされていた。だから今年の合格者の予定数は公式に発表されていない。

 一日目と三日目の試験内容が当日まで知らされないのも、そのドタバタの影響なのではないかとおれは考えている。

 

「大事なのは、冊子を奪われちまえば0ポイントって事だ。だから提出を終えるまで、絶対に警戒は怠るな」

 

 二冊の冊子を上着のポケットに直しながら狗握君はそう締め括った。

 

「教えてくれてありがとう」

「……別に。礼を言われる程の事でもねえよ」

 

 犬耳をピクピクと震わしながら、狗握君は顔を逸らした。ちょっぴり照れ屋な一面があるらしい。

 

「……あー、そんで玖遠、お前もわかったな? 相手が誰だろうと油断はするなよ」

「わかった。目と目が合ったらバトルだね」

「ちが……」

 

 言葉を止めた狗握君は那谷のフードを手に取り、フードを深く那谷に被せた。那谷の目元が帝黄色に隠されて見えなくなってしまう。

 

「……そうそう、その通りだ。だから、誰とも目を合わせるなよ。目が合わなかったらバトルはしない、攻撃されたら逃げる。いいな?」

「うん」

 

 そうして、おれたち三人は広場を目指して歩き続けた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。