いつかこの手に雷光を   作:直崎ゆきふり

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6 見据えるもの

 医務室のある建物へと到着すると、受付で軽く那谷(なたに)の状態を見られ、そして順番は繰り上げられることなく待合室で待つこととなった。

 よかった。とりあえずは大きな異常はないらしい。

 

 診察を待つための待合室には、横幅の長いソファーがいくつも並んでいる。座席数にはまだまだ余裕があったので、壁際にあるソファーにおれも那谷と並んで座ることにした。

 

 隣には、帝黄色(ていおうしょく)のフード。

 よし、と膝の上に握った両手を乗せて、さりげなく那谷を窺うと、すでにフードの奥の金色の瞳がこちらを向いていた。ドキリと心臓が跳ねる。

 

志更(しさら)くん、お腹空いてない?」

「え……お腹? まぁ、空いてはいるかな。もうとっくにお昼だしね」

 

 お腹をさすりながら、そう答える。

 試験の途中で水枝のジュースを飲んだおかげでそこまでではないが、最後に食事をしたのは早朝のサンドウィッチだ。

 

「お昼食べてきたら? 付き添いなくても大丈夫だよ。順番来るまで、ここに座ってられるから」

「ありがとう。でも、おれ、もう少しだけ那谷とお話ししたいんだよね。ダメ、かな?」

「べつにだめじゃないよ。……ただ明日、志更くんは自信ある?」

 

 早くお昼を食べて宿で勉強した方がいい、ということだろう。本当にその通りだ。

 

「ないよ。那谷もないんだね」

「うん。目、金色なのに意外?」

 

 フードに隠れたその顔は、きっと表情の変わらないまま。声だって平坦だ。

 短い付き合いではあるが、那谷は感情が表出しにくい体質だとすでに理解できていた。

 

「まぁ、そうだね、意外かも。おれが想像しているより、魔本(まぼん)って勉強で便利じゃないっぽい?」

「便利だよ。認識したことは忘れないし、思考速度も上げられる。間違いなく、他の子よりも有利……だけど、問題文を読んで解くのは私だから。たぶん魔本は、私よりもずっと賢い人が使って初めて、その真価を発揮できるんだろうね」

 

 魔本の縁をそっとなぞる那谷の指先を、おれは黙って見ていた。不安をこぼす彼女は、励ましの言葉を求めているわけではないと思ったから。

 

「だから、明日の筆記試験には自信が持てないけど……それでも、私は合格するよ。みんな、私が合格するものだと思ってるから」

「期待されてるんだね」

「正直言うと、荷が重い」

「だよね」

 

 ねえちゃんの顔が思い浮かんだ。おれの合格を信じてくれている、ただ一人の家族の顔。

 大切な人が寄せてくれる期待を裏切りたくないという思いは、おれにも痛いほどに共感できる。

 

「だから、ごめんね。私、志更くんに期待してる。志更くんが魔道士になること、疑ってない」

「……任せてよ。お互い、学園生活が今から楽しみだね」

 

 おれと那谷は二人笑い合った。

 見かけ上は、彼女の表情は変わらないままだったけど。

 

「そういえば……那谷はさ、どの学園にするのか、もう決めた?」

 

 いくつか雑談を交わしたころ、おれはそう切り出した。

 相手によっては『何を今さら』と一笑に付される問いではあるが、彼女がそういう子ではないとおれは知っている。

 これは、彼女と出会ってからずっと訊きたかったかったことなのだ。この答えを知りたいがために、おれは先程の彼女の申し出を断ったと言ってもいい。

 空腹より、筆記試験前日の追い込みより。おれにとっては、よほど合格率に影響する問いに他ならないのだから。

 

 この魔道学園合同試験は、その名の通りに魔道都市に所属する、すべての学園が共同で運営する試験だ。この試験は一般的な入学試験とは違い、合格した後に入学したい学園の希望を提出する順序となっている。学園ごとの生徒数によって非常勤講師――宮廷魔道士の臨時講師や特別資格を持つ教生など――が割り振られるためだそう。

 入学したい学園の希望が通るのは入学試験の成績順で、真っ先に埋まる由緒正しい貴族向けの学園だ。けれども、それ以外の学園は受験生たちからの人気がバラけ、希望校への入学は案外叶いやすいと聞く。卒業生の少ない、新設校ならば殊更だそう。

 

 だが、それほどまでに人気がバラけるというのはつまり、どの学園も魅力的だということ。新設校以外はどこも有名な魔道士を輩出しているし、設備だってここ数年で改装されたりして真新しくなっている。

 おれはカリキュラムに特殊な設備を必要とする、憬肉触玉手(ローパー)農家などの専門職を目指しているわけではない。普通科志望だ。

 パンフレットに載る校舎は、どこも同等に光り輝いて見えてしまっていた。

 

「ちょっと選択肢が多すぎてね……よければ聞かせてほしいな、なんて」

 

 もし中等部の学園を選ぶのであれば、一迅(いっしゅん)さんや沙夜(さよ)ちゃんの通っていた“学院”一択だったのだが。あいにくと、特別な才能を持たない平民が通えるのは高等部からだけだ。

 夜明陛下のおかげで広く魔道学園の門戸が開かれるようになったとはいえ、十五歳になる前の魔核の不安定な時期の子供を、平民まで受け入れられるほど教員の数は足りていない。魔核が壊れれば人は死んでしまう以上、一般的な平民が中等部から魔道教育を受けられるようになるのは、まだまだ先のことだろう。

 まぁ、“学院”は超絶名門校らしいから、中等部受験が可能だったとしても通えなかった可能性は高いんだけどね。

 

「私は、白宮原(しらみやはら)にするよ」

 

 ポケットへ魔本をしまいながら、那谷は静かにその名を口にする。

 

「白宮原……っていうと、白宮原伊織さんが学園長を務めてるところ?」

「うん」

 

 ここ二日間でよく聞く名前だ。数時間前にモニター越しにみた、昔のねえちゃんと同じ髪色をした少女の姿を思い出した。

 “境界”の家系が当主。結界のスペシャリストだという白髪の彼女は、穏やかな笑みを浮かべた優しそうな人だった。甲板に結界を張って、大烏賊或蛸(クラーケン)からおれたちを護ってくれた恩人でもある。

 

「そっか、那谷はもう決めてるんだね。学園選びの参考にしたいんだけど、那谷はどういうふうに学園を決めたの? なんとなく?」

 

 白宮原学園は数年前に開設された新設校だ。以前パンフレットを読んだ限りでは、どの学園よりも校舎が清新だったという印象しかおれは抱かなかった。

 パンフレットだけでは知ることのできない、白宮原の魅力があるのだとしたら是非とも知りたい。もちろん、無理に聞くつもりはないが。

 

「理由? そうだね……まず、学食がおいしかった。あと、食堂が広いでしょ。だから、お昼時でも座席に困らないんだって。それで、メニューもたくさんで、一月(ひとつき)に毎日違うごはんを食べられそうなくらいでね。ベーカリーコーナーもあったんだよ、ピザ焼いてた、クッキーもっ。すごいでしょ、白宮原」

 

 ぎゅっと両拳を胸の前で握る那谷の目は、未来への希望で輝いていた。学園での食事事情は、那谷にとって学園選びで最も大事な事項なのだ。

 彼女の被るフードが落ちないよう、そっと被せ直す。

 

「学食かぁ」

 

 確かに、学食が美味しいのはおれとしても魅力的かもしれない。

 実技授業だとか、体を動かしたらお腹もすごく空くだろうし。たくさん食べれば、身長も伸びそうな気がする。もうちょっと欲しいんだよね、身長。

 食費については、頑張ってアルバイトで稼ごう。成績優秀者は毎月学園側からお金を貰えるって話だけど……おれには縁遠い話だ。

 

 うん、というわけでして。おれ、白宮原を志すのもいんじゃないだろうか。那谷と一緒の学園に通えるし!!

 “クラスメイト”って響き、よくない? いいよね、いいよ、なんて魅力的な響きなんだ。那谷と同じクラスになって、隣の席で授業を受けたい……!!

 うっかり教科書を忘れちゃった時なんかは、二人でひとつの教科書を見たりしてさぁ! ぐはは。

 

「ははっ。いいね、白宮原。見学してみて合いそうだったら、おれも白宮原を志望してみようかな」

 

 進路希望をほぼ白宮原一択に固めながら、おれは那谷へと笑いかけた。

 

「うん、見学してみて。オープンキャンパス、チョコクリームバナナタルト食べられるんだって、タルトだよ。ぜひ行ってみて、私も行く」

「そうなんだ。楽しみだね」

「楽しみ」

 

 狗握(くにぎ)君が用意していたフルーツタルトといい、那谷はタルトが好きなのかもしれない。

 ふむふむ、覚えておこう。

 

 そうして明日明後日と続く入学試験へのモチベーションを大きく高めていると、那谷の順番が来た。

 

「人が増えてきたみたいだから、おれは外にいるよ」

「待ち飽きたら、無理せず帰っちゃってね」

「わかった。その時はそうする」

 

 診察室へ入っていく那谷の後ろ姿を見送る。後ろ姿も可愛い。

 ちょっとオーバーサイズのパーカーがよく似合ってるなぁ……あれ、腰のところ少し膨らんでる。那谷も手ぶらかと思ってたけど、ポーチか何か着けてたんだ。用意がいいな、おれも小さめのバッグとか用意してくればよかったなぁ。……あ。明日の試験の筆記用具どうしよう、ポケットに入れるのはまずいよなぁ……。

 

 診察室のスライドドアに遮られて彼女の姿が見えなくなると、おれもソファーから立ち上がって待合室を出た。

 入り口近くのベンチに腰掛け、ガラスの扉越しに診察室のドアを時折見やる。那谷が出てきたら、手を振ってみようかな。

 

 

「にゃん」

 

 夏風に揺られ、視界を狭めようとする深海色の髪を耳にかけていると、ふと、鳴き声がした。すぐ近くからだ。

 

「ね、ねこ……?」

 

 下を見ると、そこには四つ足に靴を履いた猫が、ちょこんと座っておれを見上げていた。背中には、小さなリュックサックまで背負っていて、お出かけお猫さんといった風体だ。

 この島に住む猫だろうか。靴を履いて、鞄を背負うだなんて変わった習性だ。いや、どんな猫だ。聞いたことないぞ。あ、野良猫じゃないな、首輪してるし。

 それに、感じたことのない、この独特の気配。ひょっとして、この猫は……精霊、なのか?

 

「なぁーう?」

 

 推定猫精霊は、すんすんとおれの足元の匂いを嗅ぐと、先ほどよりも長めの鳴き声を上げながら、まんまるな瞳でおれを見上げてきた。まるで、おれに何かを問いかけているかのようだ。

 あいにくと、おれには猫語はわからない、のだが。

 

「ああ、君は那谷の知り合いのお猫さんかな? おれから那谷の匂いがするものだから、不思議に思ってるんだね」

「にゃ」

 

 だがしかし、今回に限り、そのワードに限り、おれにはこの猫精霊が何を言わんとしているのか理解できた。

 何故ならば、この猫精霊が口にした言葉が『なぁーう(くおん)』だったからに他ならない。那谷の名前を聞き分けられないおれではないのだ。

 

「おれは、那谷のお友達なんだ。君もそう?」

「……にゃむ」

 

 頷いた猫は、ゆったりとおれの周りを一周した。

 すんすんと鼻を鳴らし、いくらか伏せられたその目は、おれが那谷に相応しいかを見定めんとしている。ギュンと背筋が伸びる。

 

「にゃー」

 

 もったいぶったような沈黙の後、四つ足を揃えておれの前へと座った猫精霊は、ひとつ可愛らしく鳴いた。目を瞑って、ふむふむと、おそらくは仰々しく頷いている。

 これは……お眼鏡に適った、ということかな。

 

「お待たせ、志更くん。終わったよ」

 

 同志猫精霊とテレパシーで会話できないものかあれこれ試していると、診察を終えた那谷がいつの間にかそばに立っていた。

 

「あ、鳴月(なづき)だ、さっきぶり。偶然だね、散歩?」

「にゃっ」

 

 へぇ、鳴月って名前なのか。

 猫に目を合わせるように、那谷が膝に手を当てて上体を屈ませる。つられてショートパンツの後ろが少し持ち上がり、裏ももの肌が覗く。そのショートパンツとサイハイソックスの間に作られし肌色のオーバルは、この世で最も魅惑的な白をしていた。

 

「ふしゃふしゃ」

「おー、爪が伸びた。何回見てもすごいね、猫の不思議ってやつだ。それでもしかしてなんだけど、なんか私、引っ掻かれてる?」

「にゃ」

「そうなんだ、どうしたの? あ、お昼まだだった? トドール行く? Bサンドおいしいよね」

「……にゃは~」

 

 これ以上言っても仕方ない、とばかりに鳴月は肩を竦めるように首を振る。首輪に付けられたホワイトオニキスの勾玉が光を帯びた。

 ぴょん、と高くジャンプすると鳴月の履いていた靴が魔力の粒子となって、首輪の勾玉に吸い込まる。そして、那谷の腕の中に着地した鳴月は、そのまま那谷に抱き抱えられた。那谷の腕に頭を擦り付けて、満足そうにごろごろと喉を鳴らす。

 

「その猫って、精霊だよね?」

「うん」

「へぇ、珍しいね。魔道士以外も、本当に精霊と契約できるんだ」

 

 精霊との契約を結べるのは基本的には魔道士だけだ。

 国からの特別な許可があれば魔道士でなくても契約を維持できると聞いたことはあるが、実例を知ったのはこれが初めてだった。

 

「ううん、鳴月と契約してるのは魔道士のお姉ちゃん」

 

 と、思ったら違った。

 よくよく考えたら、契約しているのなら念話で鳴月と会話できるはずだったな。あ、でも魔本持ちって念話はできないんだっけ?

 

「そういえばお姉さんいるんだったね。年上のお姉さんが」

「うん? まぁ、年上だね、一応。料理がすごくおいしいよ、たぶん世界一」

 

 那谷のお姉さん、是非会ってみたいなぁ。

 那谷と那谷のお姉さんの会話する光景を永遠に眺めてみたい。

 

「あ、連絡来てる。そろそろ宿に戻らないと」

「そっか。じゃあ、今日はここでお別れだね」

 

 ガサゴソと、鳴月の背負ったリュックから、那谷が取り出したのは端末だ。帝黄色のカバーが装着されている。

 

「もしよかったら、明日……一緒に、試験会場に行かない?」

 

 名残惜しい気持ちから、そう誘ってみた。

 人を誘った経験なんてほとんどない。両手をギュッと握ると、シャツのざらざらとした繊維が親指を強く撫でた。

 

「ごめんね。さっきの診察で、明日の試験は大事を取って医務室で受けるように言われちゃって……明後日の試験も、試験内容によっては医務室で受けることになるかな」

「そう、なんだ……そういうことなら……仕方がないね」

 

 耐え難い感情が胸中を占める。

 

『――主治医の先生も笑顔でゴーサイン出してたって、お姉ちゃん言ってたんだよ』

 

 那谷は、病気か何かなのだろうか。

 そう思っても、訊くことはできない。おれと那谷は今日が初対面だ、踏み込みすぎては彼女を困らせてしまうだろう。

 人間同士の争いを減らすことを目的とする星脈還しは、甦りの条件が限られている。おれには、せめて彼女の抱えるものが深刻でなければいいと祈ることしかできなかった。

 

「たぶん、次に会うのはオープンキャンパスって可能性もあるね。連絡先、交換しとく?」

 

 端末がこちらに差し出される。

 上下反転したその画面には、封筒のような絵が浮かんでいた。

 

「ごめん、おれ、端末持ってなくて……ッ!」

 

 本気で悔しい。那谷の連絡先欲しいッ。

 どうしておれは、これまでに宝くじを当てられなかったんだろう……!

 宝くじなんて買ったこともないくせに、おれは自身の不運を全力で嘆いた。

 

「へぇ、そっか。じゃあ、ちょっと待って」

「え、うん……?」

 

 ベンチに両手をつき悔し涙を流していたおれは、言われるがまま那谷を待った。

 ポケットから取り出した魔本を捲った彼女は、サラサラとペンで何かを書き込むと、そのページを千切った。

 

「これ、私のID。渡しとく」

「あい、でぃー……?」

 

 小首を傾げて、手渡された紙切れに刻まれた11桁の数字を見る。この数字列、どこかで似たようなのを見た覚えが……。

 

「連絡先だよ」

 

 親指を立てた那谷が補足してくれた。

 

「あっ……ありがとう! おれ、一生大事にするね!」

 

 連絡先! 那谷の連絡先!

 これがあれば、いつでも那谷とお話ができるんだ! 国中の公衆電話の場所を調べないと!

 

「明日の筆記試験、お互いに頑張ろうね!」

「うん、健闘しよう」

 

 鳴月を抱えた那谷は何度か手を振ると、そのまま振り返らずに去っていった。おれは、その背中が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。

 ねえちゃん、おれね……生まれて初めて友達ができたんだ。

 

 

 

 昼食を済ませたおれは、食後の散歩も兼ねて遠回りをして宿へと帰っていた。

 道行く受験生たちの顔をざっと確認してみるも、竜太郎(りんたろう)君の姿はない。

 

 サスペンダーパンツを履いた、目尻の柔らかな温厚そうな茶髪の少年。きっと彼ならば、下船後のケンくんの様子がおかしかった理由を知っているはずだ。

 けれども、試験が終了してから時間が経ちすぎているのもあって、彼の姿は見つけられなかった。当然か、もう宿に戻って明日の試験に備えているのかもしれない。やっぱり今から探すのは諦めて、明日――

 

 なんだ、あの人だかり?

 

 聞こえてくる声から、だれかが言い争いをしているのだとわかった。

 いつもなら避けて通るだけなのだが、なぜだか妙に気になって、人だかりを掻き分けてぽっかりと遠巻きにされた騒動の中心部へと顔を出した。

 

「なんでなんだよ、ケンちゃん!」

「関係無いだろッ!」

 

 驚愕に、思わず目を見開く。

 

「――ケンくん……と、竜太郎君……!?」

 

 騒動の中心にいたのは、おれの探し人たちだったのだ。

 どうして、仲の良さそうだった二人がこんな険悪に言い争ってるんだ……!?

 

「俺に関わるな! もう放っておいてくれ!」

「っ、そんなこと、できるわけないだろう!」

 

 震えるほど強く左手を握り込んで怒りを露わにするケンくんと、そんなケンくんを見て苦しそうに歪む竜太郎君の顔。

 

「ね、ねぇ、二人とも……どうしたの?」

 

 しまった、もう少し考えてから動けばよかった……! 見ていられなくて、無意識に声を掛けてしまった。

 勢いよく振り返り、おれを射抜く二人の目に内心竦み上がる。いや、情けなくも一歩後退りしてしまった。

 おれは、だれにもバレないように手早く深呼吸すると、彼らに歩み寄る。

 

「大きな声が聞こえてきたから気になったんだ。どうしたの、何か……トラブルでもあった?」

 

 そう訊けば、ケンくんの眉間に刻まれた皺がさらに深くなった。

 

「……煩いんだよ、お前には関係無いだろ」

「おっ!? おお、お……!?」

 

 お、お前!? 今、お前って言った!? ……ケンくんが!?

 なんか……なんか違う、ケンくん違う! ダメだ、すごく解釈違い!! “君”っ言い直してほしい……!!

 

「その言い方はないだろう! 彼女は、僕らのために仲裁しようとしてくれてるんだ。それを……いくら機嫌が悪いからって、君らしくもない!」

「……ハッ、俺らしいだと? 知ったふうな口を聞くなよ、理解者気取りがッ」

「……っ、そう、それでも今の君の言葉は不実だった!」

 

 いやでも今のは違うと思うんだよね、ケンくんはね、他人に“お前”なんて言わないんだよなんて、こんな時に考えてる場合じゃないねっ!

 お、おれのせいで二人が余計に拗れてしまった! どうしよう!?

 

「わっ、ちょちょちょ、竜太郎君! おれのために怒ってくれるのは嬉しいけど、おれは余計に拗らせたかったわけじゃなくて……! おれは気にしていないから、いったんこのことは置いておいて、どうしてケンくんは“お前”なんて言うようになったのか……じゃなくてっ! 二人はどうして言い争っているのか、おれに教えてくれないかな?」

「……それは」

「あ、言いたくないことなんだね、訊いちゃってごめんね……! それなら、ええと……」

 

 気まずげに言葉を濁す竜太郎君の様子に、慌てておれは前言撤回する。

 原因を聞き出せないのならどうしようかと続ける言葉に迷っていると、ケンくんの険しい視線が突き刺った。

 

「何だ、用が無いなら帰ればいいだろう」

「でも……船の上では、二人ともあんなに仲が良さそうだったのに。おれ、見てらんないよ」

 

 それに、船上の君はだれよりも眩かったのに。

 俯いたケンくんの手はより強く握られ、幾筋もの血管が浮き出てきた。

 

「……だまれよ。あんなの、ほんの気まぐれだ! 俺は、そいつの事なんて、ずっと――」

 

 ああ、どうしよう。火に油を注いだだけだった。ケンくんにも、竜太郎君にも悪いことをしてしまった。

 この先の言葉を言わせてはならないと、冷たい予感が背中を撫でるのに、おれにはどうすればいいのかわからなかった。

 

「――少しばかり、大きな声を出し過ぎているんじゃないか?」

 

 静かに響いた声に、ケンくんが言葉を中断し勢いよく振り返る。

 この、冷たいようで柔らかな、一度聞けば二度と忘れられない澄声には聞き覚えがある。

 まさか。何を置いても声の主を確かめようと、おれはそちらへ向いた。

 

「おいおい、マジかよっ!?」

「本物だァ……!」

 

 騒めく周囲。響動めくおれの心臓。

 人混みが自然に割れ、その姿は何にも遮られることがなくなる。数歩歩けば届く距離に、冷艶たる美貌のあの人がいる。目の前に、立っている。

 

 縺れることのない、背中の半ばまで伸ばされた艶やかな緑黒髪(りょっこくがみ)

 “陽の目”と呼ばれる木漏れ日を閉じ込めたような切れ長の緑の瞳は、片側だけ長い前髪によって右目のほとんどが隠されていてわかりづらいが、左右で微妙で色彩が異なっている。

 腰のベルトには炎を模った剣。頭上へと上げられた、光を反射しないゴーグル。

 そして何より、その左胸元。白いアウターに縫い付けられた黒のループには、カラビナでスクエア型の透明な魔道金属が引っ掛けられていた。透ける金属の内側では、ゆらゆらと消えることのない炎が揺れている。

 それは、“月火燈(げっかとう)”という名前の魔道具で、それを持つのはこの世にただ一人だけ。

 

 つまり、彼女は本物の――

 

「――さ、沙夜ちゃん……!」

 

 本物……! 本物の涼見(すずみ)沙夜(さよ)だ……!!

 テレビ越しよりずっと綺麗だ、顔が良いッッ! こんなの光そのものだよ、目が光合成しちゃってるよぉッ!

 ああっ、突然の引退会見以来、数ヶ月間供給がなくて寂しかったのに、まさかこんなところで人生初の生沙夜ちゃんをお目にかかれるなんて、夢みたいだ……。

 

 ……あれ、どうしてここに沙夜ちゃんが?

 試験会場の変更で色々とバタバタしてるみたいだし、その関係かな?

 そういえば水月(みづき)さん、沙夜ちゃんがここに来てないとはあの時言ってなかったな。月影(つきかげ)さんは(しき)殿下の護衛騎士だそうだけど、もしかしたら沙夜ちゃんの護衛をすることだってあるのかもしれない。月影さん、なんだか忙しそうにあちらこちらに行ってたし、沙夜ちゃんと識殿下は同じ星見の塔に住む皇族だし。

 

 いや、あれこれ考えるのはやめだ。

 選択と集中。今はとにかく沙夜ちゃんの姿を見ることに、沙夜ちゃんの言葉を聞くことに、沙夜ちゃんの気配を感じることだけに集中しなければ……!

 

「いいかな、君たち。試験でナイーブになっているのは仕方がないが、ここは大通り。君たち以外にも、ナイーブな受験生たちがトコトコと歩く公共の場だ。もう少しばかり声を抑えた方が良いと、理解してくれるな?」

「ごめんなさい! 沙夜ちゃん!」

「す、すみませんでした……!」

「うんうん、その様子なら今後は大丈夫そうだな」

 

 間髪を容れずに謝ったおれと竜太郎君に、沙夜ちゃんは頷く。頷く沙夜ちゃん、とても良い……。

 

「君はどう?」

 

 穏やかな声音で続けた彼女は、ケンくんの方へと歩み寄った。

 一歩を進むたびに、緑黒髪がさらさらと揺れ、キューティクルが夏の日差しできらきらと輝く。髪と肌のコントラストがパーフェクト……ッ。

 

「殿下の仰る通りです、自身の事しか見えておりませんでした。以後、気をつけます」

「そうか」

 

 ケンくんの反省の言葉に、再び沙夜ちゃんが頷いた。もっと頷いたところ見たい。

 

「あの」

「ん? どうした?」

 

 ケンくんは思わずといった様子で伸ばしかけた手を、皇族相手に無礼だと思ったのか方向転換させ、その手を自身の胸へと添えた。

 

「その……お会い出来て、光栄です。俺は、ずっと貴女に……憧れていたんです、まさかこんな所で貴女に出会えるだなんて……この奇跡に対する喜びを、どう言い表せば良いのか。俺は、“伝達”の家系が長男、届将(かいはた)研想(けんそう)と申します。どうか……っ、お見知りおきください」

 

 そして、胸に当てていた右手を差し出し、ケンくんは微笑んだ。先ほどの剣呑さはどこへやら。今の彼は、だれが見たって好青年そのものだ。船上の彼のように。

 憧れの人が突如目の前に現れた動揺からか、少々言葉がしどろもどろになってはいたけど。まぁ、おれが沙夜ちゃんと話そうとすればもっと酷いことになるだろうから、ケンくんはやっぱりすごい。

 

「うん、私は涼見沙夜だ」

 

 沙夜ちゃんの口角がわずかに持ち上げられ、細められた左目にケンくんが映る。

 彼女も手のひらを伸ばそうとした――その時、突然音楽が鳴り響く。

 

「着信音……?」

 

 脈絡なく響いた音楽に困惑していると、隣の竜太郎君がその正体を呟いた。

 ああ、端末に連絡が来た時に鳴るっていう、アレか。

 

「悪いな、急用だ」

 

 沙夜ちゃんの右手がポケットへと引っ込められると、すぐに着信音が止む。

 

「そういう訳で、お話はここまで。明日(あす)以降の試験も頑張るんだぞ、君たち。私は受験生(君たち)みんなを応援しているからな」

 

 えっ、もう行っちゃうの……!?

 

「――のか?」

「……いえ」

 

 タイミングを逃した握手の代わりとばかりに、沙夜ちゃんはすれ違いざまにケンくんの肩にぽんと左手を乗せ、何事かを囁いた。

 首を振るケンくんを一瞥すると、沙夜ちゃんはそのまま去っていく。ホントにもう行っちゃうんだ……。

 

「沙夜ちゃん……」

 

 思わず漏れた別れを惜しむ声が届いたのか、海沿いの道を歩いていく彼女は振り返らないまま、ひらひらと手を振ってくれた。

 か、カッコいい!!

 

「……お待たせ。それで、どうかな? 色良い返事をくれると思っているんだけど。たくさん用意してきたんだ。それこそ、島中から見えるくらいにね」

 

 海が風に乗せて運んできた沙夜ちゃんの声音は弾んでいて、その着信を今か今かと待っていたことが伺え――ってまずい! これ盗み聞き……っ!

 魔法オフ、魔法オフ! 海さん、声届けなくていいから……!

 

 頭に生えた小さな二本の角を意識しながら、海との繋がりを弱めていく。

 探索演習中、魔力をたくさん使ったせいかもしれない。魔法が暴発してしまったみたいだ。気をつけないと……!

 

「あ……」

 

 右手を彷徨わせるケンくんは、遠くなっていく背中を茫然と見送っていた。その嘆惜は深く共感できた。

 ケンくんに続く流れで、おれも握手してもらいたかった……!

 

「ケンちゃんってば、殿下のファンだったのっ? 僕、初めて知ったよ! 教えてくれてもよかったのにさっ」

「まだ諦めるには早いよ、ケンくん! おれ聞いたんだ、もう試験終わりまで船の出入りはないって! だから、チャンスはまた必ずやってくるはずだよ!」

 

 一迅さんの載るかもしれない新聞を入手できないのが残念であることに変わりはないが、まさか船の出入りがなくなることに、こんなドデカいメリットが生まれるなんて……!

 

「……うるさい」

 

 両拳を握って興奮するおれたちに、ケンくんは眉を顰めて足早に歩き出した。

 

「あっ、待ってよ! ケンちゃん!」

「ついてくるな」

「あ……」

 

 思わずといった様子で、竜太郎君の足が止まる。

 睨みつけるためだけに顔を振り返らせたケンくんは、立ち止まることなく歩みを進めていく。彼らの距離が開いていく。

 

「どうして、ケンちゃん……船の中では、昔のケンちゃんだったのに」

 

 昔の……?

 

「待ってってば~!」

 

 竜太郎君に呟きの意味を訊ねる前に、彼はケンくんを追いかけて去っていってしまった。

 おれも追いかけよう。……でも、必要以上に首を突っ込んでもいいのかな……?

 そう逡巡しているうちに、雑踏に消えた彼らを見失ってしまった。

 

 

「どこ、行ったんだろう……」

 

 二人ともほとんど走ってるようなものだったから、近場にはもういないのかもしれない。

 そうわかってはいたのだが、すぐには宿に戻る気にはなれなくて、少し周辺を捜索してみることにした。

 そして思った通り、彼らの姿は見つからない。やっぱり諦めて海風でも浴びようかと、少し入り組んだ路地裏を進んでいると、走ってきた影と曲がり角でぶつかりそうになった。

 

「……!!」

「誰だ、が、……ッ子供か」

 

 なんとかすんでのところで躱し、衝突は免れた。驚きから肌が粟立ち、大きく心臓が鳴り響く。

 

「いやはや、すまなかったね。急ぐあまり、注意を怠っていたんだ」

 

 目深にハットを被った紳士のような出で立ちの男は、さらにハットを深く被るように鍔を指で摘んだ。

 

「い、いえ……こちらこそ、すみません……」

 

 男からは香水の他に、強く海の匂いが漂っている。今し方島へ到着したばかりの魔道士、なのだろうか……?

 断定はできないが急ぐ魔道士の邪魔はしたくないし、魔道士相手でなくともそうだ。おれは背の高い彼を視界に収めながら壁に張り付き、彼へと道を譲る。

 紳士は片手を上げて落ち着き払った声で礼を言うと、おれの横をゆっくりと通り過ぎていったので視線を切った。

 ほっ、と短く息を吐く。突然知らない人と会って緊張した……。

 

「ああ、そうだ」

「は、はい……!?」

 

 背後から聞こえた声に慌てて振り返ると、薄らと皺の刻まれた口元に笑みを浮かべた紳士が真後ろに立っていた。

 なんで、まだここに? 急いでるんじゃないのか……?

 

「路地裏には入らない方がいい。魔道士たちの治める島とはいえ、影の世界には何が潜んでいるのかわかったものではないからね」

「はっ、はい……」

 

 正直言っている意味がわからなかったが、何やら忠告をしてくれているようだったので、素直に頷いておく。

 濁さずに言えば、薄気味悪かった。ただ距離感が近いだけの親切な人であれば申し訳ないが。けれども、知らない大人には常に警戒を払うよう、おれはねえちゃんに再三再四注意されている。

 

「なんだったんだ……」

 

 今度こそ去っていった男の消えていった方角を見ながら、おれは茫然と呟いた。

 

 

 

 男と別れてからすぐに二人の捜索を切り上げ、ようやく宿へと戻ったおれは机の上にテキストとノートを広げた。

 さすがにこれ以上、他のことへ現を抜かし続けるわけにはいかなかった。おれは那谷にも言った通り、勉学に自信があるわけではないのだ。これまでにわからない箇所はひとつひとつ潰してきたから、苦手とまでもいかないが。

 ねえちゃんと那谷の期待に応えられるよう、筆記前日の追い込みへと着手した。彼女たちの声はしっかりと鼓膜に棲みついている。あんなにも寄り道をしていたわりに、やる気は過去最高と言っていいほど充分だった。

 

 期待してる、志更くん。

 一緒に白宮原に通おうね、志更くん。

 志更くん、ここってどうやって解くんだっけ?

 

 そうしていると、いつの間にか時刻は二十二時を過ぎようとしていた。しまった、予定よりも遅くなってしまった。イマジナリー那谷を召喚するのは時と場合を選んだ方が良さそうだ、反省。

 おれは机の上に転がしていた夕食のパンの空袋をゴミ箱へと捨て、大急ぎでシャワーを浴びた。備え付けのドライヤーが静音機能の高いものであったことに感謝する。

 

 寝る準備を済ませたおれは、ベッドへと横たわった。明日の準備だって忘れちゃいない、コンビニで貰った袋へ必要なものはすべて詰めた。……やっぱり小さめのバッグ、持ってこればよかったな。

 まぁ、何にせよ、今日はもう寝るしかできない。あとは、明日……頑張るだけ。落ち着いてしっかりと見直さないとな、一つの些細なミスが命運を別つんだから。

 最後に今朝買った新聞を広げて、一迅さんに就寝の挨拶を済ませた。

 

 新聞を丁寧に畳んで机に置くと、昨日と同様ねえちゃんの同意書を枕の下へと潜り込ませて、おれはベッドサイドの照明の灯りを落とした。

 今日も、夢に出てきてくれるかな。友達ができたって報告の練習がしたい。

 窓から差し込む月明かりの中、おれの意識は闇へと溶けていった。

 

 

 

――ごぽり、水の音がする。

 

 口から漏れた吐息が泡となっては昇り、そして弾けて消えていく。

 元々、そんなものなどまやかしであったかのように。跡形もなく。

 

 ああ、夢だ。夢の中にいる。おれは、また過去にいる。

 いつだって、そうわかっているのに。いつだって、耐えられない。

 どうして、最近はこの夢を見なくなっていたのに、なんて思っても無駄だ。

 

 起きろ、起きろ。

 念じたところで、泥のように絡みつく過去は捨てられない。

 過去は消えてくれない。世界が変わろうとも、おれが憶えている。

 

 

 “前”の世界にいた時のことは、もうほとんどが曖昧だ。

 魚を獲って生活していたこと。たまに上がる陸で、魚を焼いて食べるのが好きだったこと。焼き魚を食べた後の絵本を読んでもらう時間が、ずっと続けばいいのにと思っていたこと。

 そして、あの日のことは、しっかりと記憶に根付いていた。

 

 おれには家族がいた。父と母と、兄。四人家族だった。

 みんなでいても会話が弾むわけじゃかったけど、不仲だったわけでもない。少なくとも、おれはそう思っていた。

 ただ、それは、単におれが目を逸らしていただけなのかも……なんて思い始めたのは、すべてが終わった後だった。

 

 住んでいた辺りの潮は流れが複雑で勢いも強く、たいていの天敵はこの潮を警戒して寄っては来ない。この潮を突破できるのは、この近辺では一度も見たことのないようなよっぽどの大物か、うっかり潮に流されて入り込んできた小型の魚だけ。

 先祖代々から潮と共存してきたおれたちは、日々流れ込んでくるその魚たちを食料とし、日々の生活を送っていた。

 

「潮の流れが悪いのかもしれないな。昨日の嵐の影響やもしれん」

「少し休憩してから場所を変えましょうか」

「せめて今夜の魚だけでも獲れると良いが……」

 

 その日は、家族四人で狩りをしていた。

 けれども、普段なら一日分の魚を入れる網かごがいっぱいになっているはずの時間になっても、おれたちは魚を一匹も獲れずにいた。空っぽの網かごが三つ、稀にある不漁の日だった。

 このまま狩りを続けたところで成果に期待できそうになかったため、おれたちは岩場の陰で休憩を取ることにした。

 

「シサラも、もうすぐ七歳か」

「この子なら、長にだってなれるかもしれないわね。そうなれば、私たちだって……」

「ああ、こんなつまらない生活ともおさらばだ」

 

 岩に背をもたれかからせながら、いつものように訪れるとも知れない未来に思いを馳せる両親。

 

 父と母は普通の人だった。泳ぐのが特別速かったわけでも、狩りが特段上手だったわけでもなく。そして反対に、遅くもなく下手でもなかった。

 だから、村というよりは群れのような集団の中で、突出することも淪落することもない、至って普通に育ち暮らしてきた人たちだった。おれが生まれるまでは。

 物心がついた頃にはすでにだれよりも速く泳げたおれを、『シサラは海に愛されている』と二人はいつも機嫌良さそうに見ていた。

 

「ねぇ、今日はもう帰って陸で遊ばないっ? おれ、勇者のお話の続き読みたい!」

 

 おれは、そういった両親の視線がなんだか苦手で、二人の寄せる期待に気づかないふりをしていた。

 

「何言ってんだ、手ぶらで帰るわけないだろ! そんな姿、他のヤツらに見られたら舐められちまう!」

 

 そして、そんなおれに対し、言葉を荒らげ叱責する兄。

 それが英地(はなち)家の常だった。

 

「ご、ごめん、にいちゃん……」

「ハンッ。すぐ謝りやがって、ホントお前は情けないな。父さんも母さんも、どうしてこんなに気弱なヤツが長になれるって思ってんだか」

 

 兄とはたぶん、五つも離れていなかったと思う。三つか、四つ……誕生日を祝う習慣がなかったから朧げではあるが、兄がおれよりも数年早く生まれていたことは確かだ。

 まぁ、朧げな理由としては、おれと兄は、一日の中で言葉を交わないこともあるほどに距離が開いていたのも大きな要因かもしれない。兄はおれを避けていたし、以前は優しかった兄に避けられるようになったことを気にしないでいられるほどおれも陽気な性格ではなかった。

 

 兄は、おれを嫌っていた。本人の口から聞いたわけじゃない。でも、うっすらとした確信は、常に兄に対する苦手意識を膨張させた。

 おれは、おれが自身よりも速く泳げるのだと知った時の、兄の歪んだ顔が忘れられなかった。

 

 そうして、いくらかの雑談をして、いくらかの時が過ぎて。おれたちは、狩場を変えて再び狩りに励もうとした。

 今に思えばもっと深く考えるべきだったのだ。どうして、こんなにもこの辺りに魚がいなかったのかを。

 

 でも、それも後だから言える話。

 魔法を持たなかった当時のおれには、その兆候をまったくと言っていいほど感じ取ることができなかった。

 このまま、いつまでも日常が続くと、本気でそう思っていたんだ。

 

 

「こっちにも全然いないな」

「そうねぇ、もう少し遠くまで行ってみましょうか。シサラ、先に行って……シサラ?」

 

――ふと、おれは振り返った。

 

「あら、どうしたの?」

「……かえ、ろう」

 

 そう発して首を傾げる。

 どうしておれは、突然こんなことを?

 

「はぁ? まだ言ってんのかよ。そんなに帰りたいなら、お前一人で帰れよ。ただし、お前今日の晩飯抜きなっ」

「こらこら、そんなに強く当たるんじゃない」

「シサラ、調子が悪いのなら、そこの岩場でしばらく休んでいるといいわ」

 

 なにか、何かが迫っている。“それ”と出会ってはだめだ、絶対に。

 そんな根拠もない確信を、悪寒として感じ取った。

 

「だめ、だ。みんな、ここ、だめだ! 逃げないと!」

 

 おれとしては叫んだつもりだった。だけど、震える喉から出たのはひどくか細い声でしかなかった。

 

「逃げる? いったい、何か、ら」

「そん、な」

 

――ギザギザ。

 

 たくさんのギザギザとしたものがびっしりと生えた、すごく大きな筒のようなものが、すぐそこに生えてきた。

 それが口だと理解できたのは、おそらく生存本能によるもの。

 

――巨大なサメが、おれたちを食べようと大口を開けているのだ。目と、鼻の先で。

 

「――うわあああああ!!」

「ヒャクジョウザメ……!?」

 

 叫び声が響く。おれの、もしかしたらみんなの口から発されたものだったのかもしれない。

 だれの声なのか判別できないほどの混乱の中、おれたちは一目散に逃げ出した。その瞬間、他人のことなんて考えていられる余裕はなかった。

 

 どうして、どうして。

 どうして、こんなことになったんだ。だって、おかしいだろ。

 

 ただ、泳いだ。必死に泳いだ。

 背中に迫る死に追いつかれないように。

 

 そうして手足を全力で動かしていると、ふとやけに静かなことに気づく。

 狭まった岩陰に入り込み、意を決して後ろを振り返ると、そこには何もいなかった。サメも――家族も。

 

「み、みんな……?」

 

 まさか……まさか……。

 いや、絶対違う。違うに決まってる。

 きっと、どこかに、同じように隠れてるだけだ。きっと大丈夫。そうだよ、そうだ。

 

――ホントに?

 やめろ。やめてくれ。

――行かなきゃ。

 そんなこと、考えなくていいから。

――いちばん速いおれが。

 だから、もう、何も、見せないでくれ。

 

 おれを、ひとりにしないで。

 

 

 いったいどれほど泳いだろう。わからない。おれには何時間のようにも感じられたが、恐怖心が時間を細切れにして引き延ばしていただけかもしれない。実際に経っていたのは数分、あるいは数十秒だなんてこともありうる。

 手足にまとわりつく海水をひどく重く感じたのは生まれて初めてだった。まるでどこか知らない世界に迷い込んでしまったかのような、そんな心細さで泳いで、泳いで……そして、見つけた。

 

「にいちゃんっ」

 

 冷たい青の中を漂うその姿に、ぎゅっと閉じた唇の中で叫ぶ。

 よかった――と、思えたのは一瞬だった。溶ける赤と、過ぎる魚影。

 

「にいちゃんっ!」

 

 今度の叫びは、我慢できなかった。

 おれの声に反応してか、兄の目蓋がわずかに開かれる。

 

「し……ら……」

 

 か細く震える唇、焦点の合わない瞳。兄の体力が尽きかけていることは一目瞭然だった。

 噎せ返るような鉄の臭い。青が、兄から溢れ出る赤に染まっていく。兄はその右足を喰い千切られていた。兄のすぐ背後にいる、ヒャクジョウザメに。

 

「いま、いくから!」

 

 急げ、急げ。ヒャクジョウザメが旋回を終えて、再び齧り付く前に。

 辿り着け。一緒に逃げるんだ。

 

 指先で水を掻き切り、足の動きを微細に調整する。おれの出せる、トップスピード。

 大丈夫、ヒャクジョウザメが兄へと到達する前に、先におれが着く。

 大丈夫、大丈夫。だから、速く。もっと速く!

 

 もう、目の前。あと少し。

 よし、手を伸ばせば届――

 

「にいちゃ――え」

 

――かない。

 

 急激に迫る、大口を開けたヒャクジョウザメ。開いていく、おれと兄の距離。

 いくつもの小さな水泡がゆらゆらと揺れていた。

 

「な、んで……?」

 

 どうして。

 どうして、どうしてだよ。

 どうしてなんだよ、にいちゃん。

 どうして、おれを突き飛ばしたんだよ。

 どうして、おれを、ヒャクジョウザメの方に突き飛ばしたんだよ。

 

 なんで……いくら、そう、いくら慌ててるからって危ないだろ?

 けど、まぁ、あの怪我なんだ。パニックを起こしたって当然か。

 でもさ、おれ、ホントびっくりしたんだから。後で文句のひとつくらい言ってやるからねっ。

 

 そうして再び兄の元へ泳ごうと、腕で水を掻き分けようとして――兄の顔に、ひどく歪んだ笑みが浮かんでいることに気がついた。

 

「に、い……」

 

 びっくりして、目を逸らせなかった。

 だから、その口の動きを見てしまった。

 海が、その言葉を運んできてしまった。

 兄は言ったのだ。焦った様子で戻ってきた両親の腕に抱かれながら。

 

『――やっと、いなくなってくれる』、と。

 

 わざと。

 わざと、突き飛ばしたんだ。

 おれを、サメの方に……()は、わざと突き飛ばしたんだ!

 

 あまりの衝撃に泳ぐことを忘れたおれは、笑みを浮かべた彼に見送られながらヒャクジョウザメに丸呑みにされた。

 狭まってくる暗闇の中心には、海面から差し込む日差しに照らされながら逃げ去っていく三人の姿だけが見える。

 だがそれも、ヒャクジョウザメの口が完全に閉ざされるまでの刹那のこと。すぐに外は見えなくなってしまった。

 

 ここにあるのは、爪を突き立ててもどうにもならないヒャクジョウザメの胃袋と、呑み込まれた海藻や砂、石ころだけ。

 非力な子供だけで脱出できる手立ては、どこにもなかった。

 

 ああ、おれ、死ぬんだ。

 今日、ここで死ぬんだ。

 

 どうして?

 ねぇ、どうしてなの?

 

「いやだ」

 

 ねぇ、だれか。

 だれでもいいんだ。

 

「だれか、ここにいて」

 

 絵本の中の勇者さまみたいに。

 おれをこの暗闇から連れ出してよ。

 

「おれを、ひとりにしないで」

 

――その願いは、中途半端に、そして最悪の形で叶った。

 

 

 二度、三度。海藻と砂が流入して。

 そのあと、四度目。それらは呑み込まれてきた。

 海の中ならば暗闇を見通せるおれには、その正体がわかってしまった。

 

「……くせに」

 

 ぐちゃぐちゃで、真っ赤なナニカ。

 

「おれを、見捨てたくせに……なんで、」

 

 人の形を保てないほどに、噛み潰された塊。

 刻まれた肉と肉の間から、真っ赤な血と臓物がふわふわと狭い海に流れ出ていた。

 

「どうして、死んじゃうの」

 

 混ぜこぜになった肉塊。

 なおも原型を残す、小さな手がふたつに、サイズの異なる大きな手がふたつ。

 手首から先のない、死にすら別たれることなく繋がれたそれらを見ないようにと、おれは体を丸めた。

 

「なんで、だれもいないの」

 

 蠕動する水槽。粘膜の檻。溢れ出る血がふわふわと狭い海を染めていく。

 何度叫んでも、だれもおれを助けてくれない。

 

「どうして、おれだけがひとりなの」

 

 せめて血と臓物から逃れようと、目を瞑り、両手で口を押さえた。

 

 

 

 

「――はっ、……ぁ……、ぁあ……!」

 

 体に纏わりつく布団を投げ捨て、転がり落ちるようにベッドから降りた。

 

 夢。これは、ただの夢だ。

 わかってるんだ、そんなこと。

 終わったことだって、もうどうしようもないことだって。

 

「っ、は、……はっ……はぁ……!」

 

 なのに、胸の痛みが首を締め付けて、いくら呼吸を繰り返しても息苦しい。心臓を骨が貫くようだ。

 早く、治れよ。この胸痛に原因なんてないくせに。

 

 枕の下へと手を滑り込ませる。指先が紙を掠める。それを引っ張り出して、封筒の中に指を差し込む。

 震える指のせいで封筒が多少破れたが、なんとか中身を取り出せた。

 

「ねえ、ちゃん……」

 

 片白穢祢。かたしろ、えね。ねえちゃん。おれの、ねえちゃん。たったひとりの、おれの家族。

 何度も、何度も、その名前を呼ぶ。

 

 ねえちゃんの声が聞きたかった。せめて、思い出の中のねえちゃんと一緒にいたかった。

 片白穢祢の文字をなぞれば、より鮮明に思い出せると信じたかった。その髪を、その声を、その指先を。何度も反芻する。

 ああ、でも……やっぱり本物のねえちゃんじゃないと、ダメみたいだ。

 

 おれの体温では、おれを温められない。

 おれの腕では、おれを抱きしめられない。

 おれの手では、繋いだところでひとりぼっち。

 

 でも、こんなのはいつものことだ。大丈夫、おれは大丈夫。

 ねえちゃんが施設を出てからずっと、いつもおれはひとりで夜を越えてきたんだ。

 

 同意書の手紙を握りしめたまま、ふらつく足取りで机の前に辿り着く。

 机の上に手を伸ばし、新聞紙を取って広げた。

 

「ぁ……」

 

 おれはもう、助けられたんだ。この人に……一迅さんに。あの光を思い出せ。眩くおれを照らしてくれた雷光を。

 

「大丈夫……大丈夫……」

 

 やけにゆっくりと動く秒針にもっと早く動けと念じる。

 早く朝が来てほしい。光で、おれを照らしてほしい。暗闇なんて嫌いだ、おれの弱さを容易く浮き彫りにしてしまう。ひとりは怖い。

 ああ、おれも。おれにも、雷光があれば。こんな暗闇なんて、きっとどうともなかったのに。

 

「一迅さん……」

 

 名前を呼んでその輪郭をなぞっても、紙面に印刷された一迅さんは陛下の方を見ていて目が合わなかった。

 手紙と新聞を抱きしめながら、おれは朝陽が昇るのをずっとずっと待ち続けた。

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