体に纏わりつく湿った空気に空を見上げれば、分厚い雲が空を覆っていた。
雨が降らないように祈りながら、島の中央を目指して十数分。前を歩く受験生たちに続いて、おれは門を潜り抜けた。
敷地内には数棟、大きな建物が並んでいる。袋から取り出した受験票に書かれた番号を頼りに、きょろきょろと目的地を探す。
ええと、おれの受験番号は『4』から始まってるから……こっちの棟は1で、2はそこ、ここが事務所のある棟で……あっ、あった!
見つけた『4』の棟へと足を踏み入れ、そこからまた該当の数字の書かれた部屋を探し、そしてさらに机に割り振られた数字を見た。
ああ、ここだ、この席で合ってる。おれが今日、筆記試験を受ける席。何度も何度も、部屋の前方のボードに書かれた『4-03』と、机に貼り付けられた『18』のシールを確認し、ようやく椅子の背もたれへと手を掛けた。
こんなに数字を確認してると、昨日の探索演習を思い出すなぁ。まぁ、筆記試験は迷惑行為が禁止だって明記されてるから、今回は間違いなくどれも本物の数字なはずだけどね。
着席すると、受験票を机の上の指定場所へ置く。試験開始前に受験票と解答用紙の識別コードを読み取って紐づけるらしい。
そして受験票に並べるように、ガサゴソと白い袋から鉛筆を三本と消しゴムを二つ取り出すと、ぎゅっと袋を縛って机のフックへと掛けた。
うん、色付きの袋だから透けてないし、結び目から中身も見えてない。筆記具を持ち運ぶバッグがなくてどうしようかと思ってたけど、これならレギュレーション違反の心配はないだろう。最悪、ペンケースを近場の土に埋めることも考えていたのだが、その手間が省けて何より。
けど、コンビニの袋ってそんなに耐久性あるわけじゃないから、休憩時間になったら毎回穴が空いてないか確認したほうがいいな。失格怖い。
まだ少し時間がある。試験官が入室してくるまで、目を休ませておこう。
本当はおれも、周囲と同様に最後の見直しをしたいのはやまやまだけど、袋に入りきらなかったためテキストを持ってきていない。それに、睡眠時間が足りなかったのか目が乾いているような感覚もある。試験に悪影響だ。多少でもいいから、目の違和感を緩和させておきたい。
腕時計を外した手首を撫でながら、おれは目を瞑った。ガヤガヤとした話し声だけが聞こえる。
「――というわけで、消しゴムとかが机から歩いてちゃったりしたらすぐに手を上げるんだよ~。ボクがキミたちの元に帰したげるからね。……以上! これで、注意事項の確認は終わりっ。じゃあこの後、九時ちょうどになったら始まるからさ。みんな、見直しはお、……心臓をゆったりさせてやるんだよー?」
もうすぐ、もうすぐ始まる。あと一分……三十秒……十五……十、九……。
腕時計を見ながらカウントする。フライングだけはなしだ。
鉛筆を右手の中指へと強く食い込ませながら、その時を待った。
三、二、……そして、聞き慣れたチャイムの音が鳴った。
瞬間、部屋中から紙を捲る音が一斉に響く。筆記試験、一教科目開始だ。
まず第一問目。
おれも、もう何年も
まぁ、予想通りの問いだ。素早く鉛筆を動かす。ただし、焦らず慎重に。何があろうと、この問題だけは落とすわけにはいかない。
異鏡夜明。こと、がみ、よ、あけ……っと。
指でなぞりながら、一字一字間違いがないか確認する。
……よし、間違いはない。合ってる。『陛下』は解答用紙に印字されているから、書くのは御名だけでいい。だから、これでよし。
とりあえず、これでこの教科は一発不合格にはなり得なくなった。
テストの第一問目。文面こそ多少異なることもあるが、どんな試験どの教科であろうとも、陽照では伝統的にその問題の内容は決まっている。それは、『今上皇帝陛下の御名を答えよ』、だ。
この問題の配点率はとても高く、100点満点のテストであれば15点分であることが一般的。とんでもない配点率だ。より正確に言えば、正答時に加点されるのが15点っていうのが重要なんだけど。それがこの問題の怖いところなのだ。
テストによっては、この問題が不正答の場合には一発不合格にされてしまうことがあるのだ。『絶対に覚えていて然るべき、皇帝陛下の御名すら答えらないやつなんて落第に決まってるだろ』、というわけである。なので絶対にこの問題だけは落とすわけにはいかなかった。
そうでなくとも、首に帝冠をつけた銀髪赤眼
胸中で御名を唱えれば思い出す……『
二問目以降に求められるのは、純粋な実力だけ。
音を出さないよう静かに息を吐き、おれは次の問題へと取り掛かっていった。
よ、ようやく終わった~~……!
椅子の背にもたれかかって息を吐く。口から白い煙が出そうだ。燃え尽きた……。
事前に仕入れた情報になかった国語のリスニングだったり、魔族に関する記述問題が多かったり、例年より難しくなったのか簡単になったのかよくわかんない試験だった……。
まぁ、リスニングについて知らなかったのは、おれが塾とかに通っていないせいなんだろうけど。
魔族の記述問題は、最近魔族が活発化してるらしいからその影響かな。新聞でも、年々魔族の被害について取り上げる記事が増えてきている印象だ。魔族め、人的被害なんて出さずにおとなしく封印の鍵だけ探せばいいのに。いや、鍵が見つかればより被害が出るか、よくないな。
あああ……不安だ……。
一応ほぼ全問解けたつもりだけど、平均がどのくらいになるのかまったく予想できない。
おれはどのくらいにいるんだ……?
「――はい、これ」
「えっ」
不安に押しつぶされそうになっていた最中、突然掛けられた声に慌てて居住まいを正す。だれもいなくなったと思い込んで、すっかりと油断してしまっていた。
聞き覚えのある声に顔を上げれば、毛先が水色になった金髪を編み込みハーフアップにした小柄な女性が手のひらを広げて立っていた。おれと同じくらいの背丈の彼女は、つい先ほどまでこの部屋の試験監督を務めていた方だ。
「キミでしょー? この大旅行消しゴムの持ち主は」
「あっ、はい! おれのです!」
広げられた手の上にあったのは、試験中にどこかへと転がっていってしまった、おれの消しゴムだった。
「やっぱり! もう、ボクは手を挙げるように言ったんだけどねー? でもまぁ、テスト中は一秒でも惜しいものだし、仕方ないかぁ~」
「す、すみません……ありがとうございます!」
お礼を言って、消しゴムを受け取る。
「いやいや~、こんなに感謝してもらえるなんて、すっごく気分が良いねっ! じゃあ、用事はそれだけだから明日も――ん?」
ふと、彼女の灰色と水色の瞳がおれを捉えたかと思うと、花のように満面の笑みを浮かべる。か、可愛い……!
「キミ、く……志望校、
「えっ」
耳元に寄せられた唇に内緒話をするように囁かれて、ドキリと心臓が跳ねる。
どうして知って……昨日決めたばかりで、まだ
「えっ、ホントに? へぇ~、そうなんだ。うんうん、今日のボクってば冴えてるかもっ」
あ、心を読めるわけではなそうだ。
「……顔に出てましたか?」
どんな顔だろう。自分でもそう思いながら訊ねてみる。
得意げな顔がとても可愛らしくて、もっとお話をしてみたかった。
「いんやー? ただの勘だよ。キミとは長い付き合いになるかも、って予感かな~。何を隠そう、ボクの左目には人の縁が見えるのさっ! なぁーんて、嘘だけどね?」
ご機嫌そう片目を指差す彼女がパチリとウインクをすると、ミディアムボブの髪が波のように揺れる。
「キミが白宮原に来るのを、ボクは楽しみに待ってるよ~!」
そして、それだけを言い残すと、彼女はパーカーワンピースのポケットに手を突っ込んで
「もしかして……あの人って、白宮原の先生?」
一人部屋に取り残されたおれは、消しゴムを手にしたままポツリと呟いた。
編み込みって良いよね……。自分にしようとは思わないけど、三つ編みを編むのはすごく好き。でもねえちゃん、お願いしてもやらせてくれないんだよなぁ……!
「白宮原、行きたいなぁ」
小さな声は、静かになった部屋へと溶け消える。
おれもそろそろ出よう。会場の後片付けとかもあるだろうし、このままずっとここに座ってるいるわけにもいかない。
よいしょ、と気力を振り絞って、おれは椅子から立ち上がった。寝不足のせいか、少し目の前が黒く靄がかる。……よし、もう大丈夫。
「あっ」
荷物をまとめて入れたコンビニの袋を持ち上げようとした瞬間、袋が破れてしまった。
よく見れば、閉じきっていなかったペンケースから飛び出た鉛筆が鋭利な角を覗かせている。袋に穴が空いたことで、入れていた荷物の重みに耐えきれなくなったんだろう。破れたのが試験が終わってからでよかった。
荷物を無理やりポケットへと詰め込んで、破れた袋をごみ箱へ捨てると、おれは部屋を後にした。
お昼はちゃんと食べたはずなのだが、試験で頭を使ったせいか小腹が空いていた。
なので、愛用している方のワクドガでいちばん安いハンバーガーを購入し、シロップを入れたアイスミルクコアムで流し込む。よし、これで夜まで保つだろう。
今日は曇っていて、比較的歩きやすい気温だ。いや、ドラゴン級にジメジメしているから、やっぱり歩きにくいかもしれない。
とはいえ、雨の匂いはしないからまだまだ大丈夫なはず。傘を持っていないから雨だけは勘弁してほしい。
腹ごなしに散歩していると、島の地図の描かれた看板を見つけた。ちょうどよかった。明日の試験会場の場所を確認しておこう。
事前の話では、三日目の試験は一日目と同じ会場で行われるという話だったのだが、
けれど、べつに確認する必要もなかったかもしれない。突然の変更で受験生たちが試験会場を間違えないよう、近隣の宿の子たちと一緒に案内人が会場へと案内してくれるという話だった。
やっぱり、会場への道のりについて、こんなに不安がらなくても良さそうだ。明日朝八時半の宿前集合にだけ遅れないように気をつけよう。
そうこう歩いていると、見覚えのある姿を見つけた。茶色の髪にサスペンダーパンツ。
彼は細い街路の一角で壁に貼り付いていた。……いや、まさか本当に貼り付いてるわけでもないだろうし、こんなところでいったい何をしているんだろう?
「どうし――」
声をかけた瞬間に、肩を跳ねさせた竜太郎君が、必死の形相で自身の口へと人差し指を当てた。慌てて口を両手で押さえる。
「あ、君は……昨日は、ごめんね。せっかく仲裁してくれようとしたのに」
壁に両手を付いて体を少し離した竜太郎君は、申し訳なさそうに目を伏せた。どうやら彼は、おれの顔を覚えていてくれたらしい。
「いや、気にしないで。何もできなかったし。……ねえ、あれってさ」
「……そうだよ」
竜太郎君が貼り付いていた角を曲がった先に、人影があることに気がついた。
曇っているせいで異様に薄暗くて見えづらいが、路地裏の影はふたつ。ひとつは、ここからだと街角から覗く手元だけで、だれだかわからなかった。
そして、もうひとつの影もわかりづらかったが、帯剣した金髪の少年だとは判別できた。――ケンくんだ。
「君……」
「おれはシサラ。シサラって呼んでよ」
そういえばお互いに自己紹介とかしてなかったな。おれが竜太郎君の名前を知っているのも、ケンくんが呼んでいるのを聞いたからだった。
名前の響き的に、“りん”は竜って字が使われているのは確かなんだけど……“たろう”は太郎で合ってるんだろうか。きっとそうだろうと思って、ずっとそう呼んできたけど……ちょっと気になるな、本人に確認しておこう。
「え……うん、合ってるけど……わからないのは、
「そりゃあ、そっちはドラゴンだからだね。聞けばわかるよ」
自信満々に答えれば、ぽかんと竜太郎君が口を開けた。
「そんなの、ケンちゃん以外に言うやついるんだ」
しばらく茫然とした後、彼は堪えきれないとばかりに笑みを溢した。
そして、すぐにきゅっと唇を結ぶと、意を決した様子でこう切り出した。
「シサラは、ケンちゃんについて何か知らない? 僕の勘違いかもしれないけど……今のケンちゃんは、本当に変なんだ……! もし何か知っているのなら……っ」
震える声に、苦しげに歪められた顔。その縋るような焦茶色の瞳に後退りそうになるのを堪える。
彼の苦しみを薄れさせたいからと、都合の良い言葉を吐いてはならない。言っていいのは事実だけだ。
「……ごめん、おれにはわからないかな。ケンくんとは、船の上でいくらかしゃべっただけなんだ」
「あ、いや……謝らなくていい……突然こんなこと訊いちゃってごめんね」
肩を落とす竜太郎君に、居た堪れなくなってそわりと腰をくねらせる。おれのせいではないとわかってはいるけど、何かを言わずにはいられなかった。
「たしかに、おれはケンくんについてあんまり知らないけど、それでも……そんなおれでも、今のケンくんは変だって思う。だって……」
ヒャクジョウザメの胃袋のように、どこにも逃げ場なんてないと思っていた、あの揺れる船の上。
『――
そう叫んだ彼を見た瞬間に、確かにおれは重ねたんだ。
「あの時のケンくんは、まるで――雷光のように輝いていたのに」
一迅さんを。
かつて、おれを絶望から掬い上げてくれた勇者を、おれは彼に見たんだ。
あの瞬間の彼は間違いなく、おれの心を照らす雷光だった。
「らい、こう……」
竜太郎君の目が見開かれる。
しまった、もう少し言葉を選べばよかった。雷光がどうだこうだと言ってわかってくれるのは、おれの話をずっと聞き続けてくれた、ねえちゃんだけだ。
そのはずなのに、竜太郎君は困惑しているふうではなさそうだった。何かを彼の中で咀嚼しているような、そんな様子だった。
「……そうだ、そうだよ。やっぱり、そうだ。ケンちゃんは……今のケンちゃんは、やっぱりおかしいんだ。僕の、勘違いじゃないっ!」
まるでその身に絡みつく鎖を打ち破ったように、竜太郎君の目に光が宿る。
ひどく悩んでいたようだったから、それが好転しそうでたいへん喜ばしい。喜ばしいのだが、いかんせん状況がまずい……!
「こ、声……!」
「あ」
おれはすぐさま竜太郎君を連れて、近くの物陰へと引っ込む。
二人で口を押さえたまま顔を見合わせた。一秒、二秒……重苦しい沈黙が流れる。
三十秒が経ったころ、ようやく街路を覗いた。人通りのない道がそこにある。だれもいない、ケンくんも。
「気づかれなかった、みたいだね」
「だね……ごめんね、ありがとう」
「ううん」
改めて慎重に路地裏の様子を窺うと、先ほどと変わらない様子でケンくんたちは会話を続けていた。
いや、少し変化があった。ケンくんと話している相手の手元が、その袖口が見えるようになっていた。どうやら二人は握手をしているようだった。
袖口だけだから断言はできないが、ケンくんの話し相手はスーツジャケットのようなものを着ているらしい。手の形と服装からして男性のようだが、おれたちと同年代ではないようだった。
いったい、ケンくんはだれとしゃべってるんだ……? そんな興味がむくむくと湧いてきたが、あまり覗きすぎてもバレてしまうだろう。
「この後話せる? よかったら、君と話したんだけど」
「もちろん」
「じゃあ、――あ」
可能な限りの小声で竜太郎君と言葉を交わしていたその時、分厚い雲の隙間から陽が差し込んだ。
ケンくんの髪がきらきらと光を反射し、臙脂色のスーツの袖口が照らされる。
あれ、あの色って昨日の……今日も路地裏にいるなんて、路地裏の警備でも担当してるのかな。昨日注意されたのに、こんなところにいるのがバレたら怒られるかもしれない。怖いから、早く退散しないと。
竜太郎君を急かそうと彼に声を掛けようとしたら、彼は目を見開いて固まっていた。
「――旦那、様……?」
そう呟いた竜太郎君に、知っている人なのかと訊こうとして――ケンくんが、こちらを見たような気がした。
……いや、気のせいか。頭の向きは変わってないし。竜太郎君の声だって、隣のおれにやっと聞こえるくらいに抑えられたものだった。
けれども、本当に気づかれてしまう前に退散したほうがいい。竜太郎君と顔を見合わせ、そそくさとこの場を後にした。
さざなみが大きく響く。波が荒ぶっている、今夜は雨が降りそうだ。おれはともかく、
浜辺へと続く階段に腰掛けながら、ポケットから飛び出そうになる中身を無理やり押し込む。うっかり落とすわけにはいかない。特に受験票は大事だ。これが無いと、試験を受けられなくなってしまう。
隣に座る竜太郎君を見ると、彼は肘を膝の上に乗せて、組んだ指を額に当てていた。何かを思い悩んだ様子で俯いていた彼だったが、やがてこちらを窺うように焦茶色の瞳が覗いた。
「……昨日、僕ら……ケンカ、してたろう?」
とてもか細く、今にも掻き消えてしまいそうな声だった。海の魔法を持つおれ相手でなければ、波音に上書きされてその声は届かなかったかもしれない。
「そうだね、びっくりしちゃった」
本当に驚いた。船の上では互いを案じていたはずのケンくんたちが険悪な空気で言い争いをしていたんだから。
「ケンちゃん、昨日……探索演習の冊子を、提出しなかったんだ」
「えっ!?」
その言葉の意味を理解したくなかった。だって、冊子を提出できなければ……昨日の試験は――加点されない。
「あっ、もしかしてケンくんも妨害に……!?」
そうだ。
これが学園側の検証不足によるルール設定ミスだと認定されたなら、まだチャンスはあるかもしれない……!
「……ううん、違う。あんなの、ケンちゃんの敵にはならないよ。だからケンちゃんは……自分の意思で、提出しなかったんだと思う」
続いた竜太郎君の言葉に、おれの淡い期待はあっけなく潰えた。
「そんな……どうして……」
「……いくら訊いても答えてくれなかった。僕、『先に提出してろ』って言われたから、ずっと広場の隅で待ってたんだ。試験が終わっても、退場を促されるまで……ずっと。でも――ケンちゃんは来なかった」
荒々しい波の音だけが響く。生温い風が体に纏わりつく感覚が、嫌にはっきり知覚できた。
重い沈黙に焦りを覚えていると、不意に竜太郎君が微笑んだ。
「君たち、すごかったね。あんなにド派手に広場に来るんだもん、すごかったなぁ……」
あの時、竜太郎君もそこにいたんだ。妨害組を乗り越えて、辿り着いたあの広場に。他のことに必死で、全然気づかなかった。
「それで、さっきも言ったけど。僕、会場の外でようやく見つけたケンちゃんを問い詰めたんだよね。『どうして冊子を提出しなかったんだ』って。そしたらケンちゃん、『お前には関係ない』ってすごく怒っちゃって……その後は、君も知っての通りかな」
これが、昨日の言い争いの真相……何を言えばいいのか、わからなかった。
どうしてケンくんは……おかしい。何もかも。冊子を提出しなかったこともだけど、どうして竜太郎君にそんなに強く当たるんだ。らしくもない。ほんの少ししか知らないけど、それでも絶対にケンくんらしくない。
「そういえば、まだお礼が言えてなかったね。昨日は、仲裁しようとしてくれてありがとう。君が声を掛けてくれて、本当にほっとしたんだ」
「……それならよかった。まぁ、おれにはそれ以外何もできなかったから、収まったのは
ほんっとうにナイスタイミングだった。あの時、沙夜ちゃんが遮ってくれなかったらと思うとゾッとする。
ただの予感に過ぎないけど、ケンくんにあの言葉の続きを言わせることだけは絶対にしちゃないことだった。
「シサラ、沙夜殿下のファンなんだ。僕も、あの勝利確定宣言好きだよ」
「あれも良いよね~! おれも、その後の必殺技と合わせて好きだよ! ねえ、あの宣言してる時って絶対目が合ってるよね!? おれの勘違いじゃないよね!?」
「勘違いじゃないと思うよ、僕もいつもテレビ越しに僕に話しかけられたって思っちゃうし。どうやってカメラ見つけてるんだろう、魔道戦で使われてるのは物理的なカメラじゃないらしいけど……」
「それはもうパッションじゃない!? 愛の為せる技!」
なんならテレビ越しどころか、不透明のレンズのついたゴーグル越しだし。それで目が合ったって思えるのは、もう愛の力としか言いようがないよね。ほら、よく聞くじゃん、愛の力は無限の運命って!
「なるほどね、沙夜殿下はファンを大事にしてるって聞くもんね。一度会ったファンの顔と名前は忘れないんだとか。昨日も、ケンちゃんと握手してくださろうと……あれには驚いたなぁ、ケンちゃんも沙夜殿下のファンだったなんて。今までそんな素振りまったくなかったから」
「う、うん……そういえばそうだったね。あの着信さえなければね……」
瞬時に背筋を伸ばす。おれとしたことが、すっかり気持ちよく沙夜ちゃんについて語ってしまっていた。今はケンくんの話だ、ケンくんの……
「あれ、でもケンくんって沙夜ちゃんの
ケンくんは
沙夜ちゃんの生み出した魔術だからそれを習得したんだとしたら、ファンだってことを隠していたわけじゃなさそうなんだけど。竜太郎君が知らなかったなんて不思議だ。
「そうなんだけどね、あれってかなり発動しやすいらしくて。火属性は大体の人が適性あるし、数年前から掻火爪は、初級者が最初に習う魔術としても重宝されてるって話。だから練習してるところを見てても、僕としたことが全然結びつけられなかったんだよねぇ」
「へぇ~」
やっぱり沙夜ちゃんってすごい! おれも初めての魔術は掻火爪にしてみたいなぁ~!
雷属性の魔術もすっっごく使ってみたいけど、扱いが難しい上に適性者も少ないって聞くし。おれに雷属性の適性あるのだろうか。心の底からあって欲しいんだけど。あるものだと信じたいんだけど。おれも、この手に眩い光があればきっと勇気百倍だ。
「ただ、いくら掻火爪が扱いやすいといっても、ケンちゃんみたいな威力はそう簡単には出せないと僕は思うね。なんせケンちゃんは、継承した魔法の特訓を小さい頃からずーっと頑張ってきたんだから。あの掻火爪の完成度だって、お手本に出来そうなくらい高かったでしょ? もちろん、僕だってまだ中学生のケンちゃんが魔道士の方々には敵わないことはわかってるよ。けどさ、同年代の子と比べるのなら、貴族たちの中でだって魔力の扱いがかなり上手い方だと僕は思うんだよね。それくらい、ケンちゃんは一生懸命特訓してたんだ……してたんだよ」
楽しそうにケンくんについて話していたのに、突然竜太郎君は抱えた膝に顔を埋めた。落差にぎょっとする。
「何があったの?」
一生懸命特訓してた頃のケンくん。
ひょっとしたら、それが竜太郎君の言う“昔のケンちゃん”、なのだろうか。
「……わからない。ただ、何かが起きただろう日のことは憶えてる」
二の腕に食い込む爪。その掠れた声に、おれまで胸が痛くなった。
「ずっと、誰かに聞いて欲しかったんだ。でも、誰も僕の話を取り合ってくれなかった。上手く話せる自信はないけど……シサラ、聞いてくれる?」
「うん、おれでよければ」
窺うように覗いた瞳に即座に頷く。おれとしても、聞いておきたかった。
「そうだね、明日でちょうど一年になるのか」
竜太郎君は薄く微笑むと、空を見上げた。彼の茶髪が海風に揺れる。
その焦茶色の瞳には、空を覆う分厚い雲が映っていた。今にも雨が降り出してしまいそうだ。
「……その日は、ケンちゃんの誕生日でね。だから僕、プレゼントを渡したくてケンちゃんのお屋敷に行ったんだ。それで、いつも通りに門番さんに挨拶して門の中に入れてもらおうとしたら、門番さんがいなくて……誰も立っていない門を見た時、妙に胸騒ぎがしたのを憶えてる。だから、とんでもなくダメなことだけど、僕、勝手にお屋敷の中に入ってったんだ。まずは玄関の分厚くて重い扉を開けてね、それで次に長い廊下に続く扉を開けて、その次に使用人たちの歓談室の扉を開けて……いくつも、いくつも扉を開けて、開けまくって。それなのに――誰も、いなかった」
「え、だれも……?」
「君も、おかしいと思うよねっ? ケンちゃんや旦那様だけじゃない、使用人の一人として侵入者である僕の前に現れなかったんだよ」
思わず訊き返せば、身を乗り出しながら竜太郎君が頷いた。
「確かに、身分差を感じさせない親しみやすい御一家だったさ。でも、領地を持つ男爵家の立派なお屋敷だ。誰にも留守を任せずに家を空けるなんて、絶対にあり得ない。そうだよね?」
「そ、そうだね、おれもそう思うよ……」
あまりに竜太郎君の声が切実だったので、瞬時に彼へと同調する。
けれど、嘘というわけでもない。おれの育った養育施設にも、金品目当てに忍び込もうとする人間はいたのだ。より高価なものがあるだろう貴族の屋敷が狙われることに疑いはなかった。
そんなおれを見て、竜太郎君は短く息を吐いた。まるで迷子になった子供が知り合いを見つけた時のような顔をしていた。
「ま、まぁ、留守ってわけでもなかったから、今のは大袈裟に言っちゃったかも。お屋敷の中を隅から探して……見つけたんだ、ケンちゃんを」
お屋敷の最奥。それまで存在すら知らなかった重い重い金属製の扉を開けると、真っ暗な階段からケンくんがちょうど上ってくるところだったそうだ。
「それで、その、ね……僕、ケンちゃんの顔見たら、すごく安心して。それで、手を取ろうとしたら……はたき落とされちゃった。『勝手に入ってきやがって』……って。当然だよね、僕が悪い」
その時の痛みを思い出してか、竜太郎君は自身の右手の甲をさすった。
「そうだよ、僕が悪かった。そう、わかってたのにさ。初めてケンちゃんに怒鳴られて動揺しちゃって…………逃げちゃったんだ」
声というよりは空気の擦れる音に近い掠れ切ったそれは、罪の告解のようだった。
「家に帰ってから途端に冷静になって、謝りたいって思ったんだ。けど、急に眩暈がして倒れちゃって……本当、タイミングの悪い風邪だった。熱がずっと下がらなくて、学校も休まざるを得なくて。次にケンちゃんに会えたのは、その日から一ヶ月も経ってからになっちゃったんだ。風邪が治って登校して、ケンちゃんに謝ろうと意を決して教室の扉を開けたら――すでに全部が変わった後だった」
領主の一人息子だというのにだれに対しても常に穏やかな物腰で、けれどもいざという時は頼りになる、誠実で心優しい少年。その周囲には自然と人が集まる、教師からの信頼も厚いクラスの人気者。
彼が一人でいるところを見るのは、魔道士を志す彼が自らに課した修行中だけだった。
だというのに、復帰した竜太郎君が目にしたのは、窓際の席で一人頬杖をつくケンくんと、そんな彼を眉を顰めて遠巻きにするクラスメイトたち。
「謝ろうとしたら遮られて、教室を出ていっちゃって……直感的にだけど、お屋敷に勝手に入ったことだけが原因じゃないって思った。だから、原因を探ろうと何度もお屋敷に行ったんだけど、門番さんもあれ以来ずっと不在で」
竜太郎君が勝手にお屋敷へ入った日の早朝に使用人全員に暇を出されていた、そう知ったのはかなり後のことだったという。
「門から見える庭が日に日に荒れていくのを見ることしかできなかった……あそこで、三代ぶりに発言した
おれから憔悴しきった顔を隠すように、竜太郎君は顔を伏せた。
「クラスメイトや先生たちに相談してみても、みんな『届将君は変わってしまったんだ』だとか『君ももう届将君には関わらないほうがいい』なんて言うばっかりで……その度に違うって否定してきたけど。僕も、きっと…………心の底では諦めかけてたんだ」
組んだ手を額に押し付ける彼の声は、ひどく震えていた。
けれども、すぐに俯いていた顔は上げられた。その瞳には、一筋の希望が差し込んでいる。
「でも、船にっ……あの船に乗った時、ケンちゃん言ったんだ。『竜太郎、もしこの船で不測の事態が起きたら、何を置いてもこの甲板にまで来るんだ。俺もすぐに向かうから』って。そう言って、一年前までと同じ顔で笑ったんだ!」
そこからは夢のような時間だった、竜太郎君は続ける。
……よかった! あの時話しかけないで! いや、でもだからこそ、いっそう
あのヒャクジョウザメを彷彿とさせる巨体を思い出すだけで体の芯から震えそうになるけど、それ以上の怒りが沸々と湧いてくる。本当に、どうしておれたちの乗った船と衝突したりしたんだ、あいつは……!
「でも、それも……船を降りるまでだった。一昨日、この島に足をつけた瞬間……また、冷たいケンちゃんになっちゃって……僕、耐えられなかった……!」
ああ、そうか。だからあの時、ケンくんは一人で居たのか。
――『……気安く話しかけるなよ、ヒーロー気取りが』
初めておれを睨みつけた時の彼は、竜太郎君と別れた直後だったんだ。
「僕は、わからない。どうしてケンちゃんがあんな風になっちゃったのか」
竜太郎君はずっと一人で抱え続けてきたのだろう。竜太郎君の痛みがどれほどのものなのか、おれにはわからない。おれに友達ができたのは、昨日が初めてだったから。
もしも那谷がケンくんの立場だったなら、おれは……おれは、おれを睨む彼女の前から逃げずにいられただろうか。
「でも、わかったことがある」
俯いていた彼が顔を上げ、焦茶色の瞳が真っ直ぐにおれを射抜く。
「きっと、ケンちゃんは何かに苦しんでる。君のおかげで、そう気づけたんだ」
「おれの……?」
「君、言っただろう? 『雷光みたいだった』って。船の中のケンちゃんが――彼女のようだったって」
竜太郎君はシャツの胸元から、首から繋がる紐を摘んで引っ張り出した。
紐の先にあるのは――純白のドラゴンのストラップ。
「僕らの街は、大氾濫で魔物に踏み荒らされた。たくさんの人が死んだよ。父さんも、母さんも……ケンちゃんのお母様も」
そうだ。だれもがあの日を生きられたわけではない。
だれもが、希望を待ち望んでいたのに。
「でも、僕らは死ななかった。助けられたからだ。一迅様が
それでも、おれたちは助けられた。だから、こうして今を生きている。
「大氾濫の翌年、復興が少しずつ進む街を見ながら、ケンちゃんと二人誓ったんだ。僕たちも将来、誰かを救える
ぎゅっと握りしめられるドラゴンのストラップ。
きっと竜太郎君にとって、そのストラップは誓いの証なのだ。
ケンくんと共に憧れに手を伸ばすと決めた、彼の原点。
「思い悩む必要はなかった。ケンちゃんは、このストラップを捨てずに今も持ってる。確証なんて、それだけで充分だったんだ」
握った拳を見つめるその瞳には、眩い光が宿っていた。
「僕らは一度、腹の
彼の焦茶色に、おれの青が映る。
寄せられた眉には不安が宿っている。けれども、彼はもう立ち止まることはない。
「明日の試験が終わったら、ケンちゃんと話をしようと思う。でも、冷静に話せる自信がない。一緒についてきて、僕がヒートアップしてしまいそうになったら声を掛けてほしいっ!」
「うん、わかった。もちろんだよ」
二つ返事で頷いた。おれが彼の力になれる、そう思ってくれたことが嬉しかった。
おれも、竜太郎君とケンくんの力になりたいと思った。
「――随分と、仲が良さそうだな」
その時、後ろから声がかけられた。
階段に座ったまま振り返れば、染め上げた金髪の少年がそこにいた。
「ケンちゃん……!」
竜太郎君はすぐさま立ち上がり、階段を上る。そんな彼を、ケンくんは林檎色の瞳でただ見下ろしていた。
「……盗み見なんて真似、するとはな」
「それは……っ」
どこか確信めいた色を含むケンくんの声音に、竜太郎君の足が止まる。
行き場のない手がおろおろと空だけを掴んだ。
「……ごめん。コソコソと探るようなことをしたのは、悪かったと思ってる。その、さっき話していたのって……旦那様、だよね?」
「……はぁ? 父上がこんな所に居る訳がないだろう。見間違えだ」
「そ、それもそうだよね……」
会話のとっかかりを掴むことに失敗した竜太郎君は、それでも落ち込まなかった。目を閉じ、そして数秒後に開けられた彼の瞳には先ほどと同様に強い光が宿っていた。
「ケンちゃん」
「……なんだ」
そう訊き返すケンくんの声はどこか揺れていた。後退ることはなかったが、彼の靴と砂利の擦れる音がした。
「明日の試験終わりに、君に話があるんだ」
「……明日?」
ぴくり、ケンくんの片眉が持ち上がる。
「無理だな。俺は、話すことなんてない」
にべもない返答だった。取り付く島もないその様に、竜太郎君の瞳が揺れる。
このままだとダメだ。せっかくの竜太郎君の決意が鈍ってしまいかねない。
「ねえ、ケンくんどうにか明日――あっ」
体の内側がひっくり返ったような錯覚がする。いやに湿った生ぬるい風を掴もうとするが、当然の如く掴めない。
慌てていたからか、寝不足からか。原因は定かではないが、突然立ち上がったことでバランスを崩し――階段を踏み外してしまったのだ。
「シサラっ!」
伸ばされた手は宙を切った。
青ざめた竜太郎君に、罪悪感が募る。せっかくおれを頼ってくれたのに、邪魔になってしまった。
それに、ここで怪我をしてしまえば、彼は自身を責めてしまうだろう。せめて、当たりどころが悪くありませんように。そう祈ることしかできずに、おれは落下の衝撃に備えた。
「あ――れ?」
固く目を瞑って覚悟したような強い衝撃はなかった。まるで風が受け止めてくれたかのような、柔らかな衝撃だけが訪れるだけだった。
もしかして、と目を開ける。すると、思った通りの顔がそこにあった。さらさらと潮風に染め上げられた金髪が揺れている。
「ケン、くん」
わずかに伏せられた林檎のような真っ赤な瞳が、案じるようにこちらを見つめていた。
「あ、ありがとう……っ」
「怪我は――あ、いや……ハンッ、寝不足か? 試験期間中に夜更かしだなんて随分だな。緊張で眠れないのならば、医務室にでも行ったらどうだ?」
ハッとした様子で彼はまなじりを持ち上げると、刺々しい声音でそう言った。
そして、そっとおれを離すと、数段階段を降りていく。まだ去っていくつもりはなさそうだったので、彼の背中をぼんやりと見つめる。
「そうだね、そうしようかな」
「……今のは、心配じゃない」
「そっか」
背中しか見えないケンくんがどんな顔をしているのかはわからなかったが、その言葉が嘘と思えて仕方がなかった。
「シサラ……! だ、大丈夫っ?」
「大丈夫だよ、ケンくんがしっかり受け止めてくれたからね」
あわあわと階段を降りてくる竜太郎君に、軽く腕を広げて怪我一つないことをアピールする。
それにしても……と、竜太郎君の降りてきた段数を数えた。落下していた時間は一秒もあったのか怪しい。そんな短時間で動く点Pに追いつくなんて、なんて速さなんだろうか。あ、なんで今こんなこと考えて……階段を踏み外したことといい、思ってた以上に睡眠が足りていないのかもしれない。
「よかった……さすがだね、ケンちゃん」
「別に」
胸を撫で下ろして、竜太郎君はしゃがみ込むケンくんの背中に笑いかけた。ケンくんはそっけない返事を返すだけで一瞥すらしない。興味がないとばかりに、砂浜の貝殻か何かを拾い上げているようだった。
「それで、その……明日、どうしても無理なの?」
「どうにか時間を作れないかな?」
竜太郎君と一緒に頼み込んでみるが、ケンくんは首を振るだけだった。
「しつこい」
鋭く細められた真っ赤な瞳に貫かれて竦みそうになる。
だが、それでも前に出る。彼へと近づいていく。階段を一段一段と降りていく。
「だったら……この後は?」
「えっ」
後ろから聞こえてきた驚きの声に胸中で謝罪する。それはそうだ、大事なお話を二十四時間も勝手に前倒しにされようとしているのだから。
「今日この後、話をするのはどうかな?」
「……今日も無理だ。明日の準備があるからな」
少し声が上擦っている。苛立たしげに、左拳が握られる。
断れるのは想定内。むしろ、承諾でもされたらどうしようかと不安だったから一安心だ。
今、ケンくんに訊きたかったのは別のことだった。
「本当に? 明日の試験に備えるつもりなの?」
彼の拳に幾筋もの血管が浮かび上がるが、それには構わず目の前にいる彼を見続ける。
明日の試験終わりにケンくんに会えるのかどうか、確認しておきたかったのだ。会えさえしたならば、強引に話の場へと連れ込めばいい。ケンくんは、今だって竜太郎君を無視していない。
「……何処に、疑う余地がある? 受験生ならば当然だろう」
そう答える、ケンくんの林檎色の瞳は揺れていた。
それは、おれが妙に念押ししてくることに対しての動揺か。それとも、彼が嘘をついているからか。
「当然? だったら、どうして昨日の――」
それは、彼にとって絶対に触れられたくない事柄だったらしい。
「――黙れ!」
おれが問いかけの言葉を言い切るより早く、ケンくんの右腕が持ち上げられた。
叩かれる……! そう身構えたが、その握られた拳はおれへと向くことなく、天高く掲げられたままだ。
必然的に彼の手が、その手に握った紙切れが目に入った。
「あ、それ……」
「ケンちゃん、何を……」
咄嗟にポケットを漁るが、目当ての感触はない。つまり、
たった今、ケンくんが手にしているそれは――おれの、受験票だった。
「っ、本当にッ……お前はしつこいな。これに懲りたら、もう二度とおれに関わろうとするなよ――ハナチシサラ!」
そうしてケンくんの腕は振り抜かれる。
彼の手から解き放たれたおれの受験票は、強く吹いた風にさらわれ――どこかへと消えていった。
おれはその光景を、茫然と見ていることしかできなかった。