暗い。
目を開けているのか、閉じているのかも分からない。
手を伸ばしても、何にも触れない。
音もなく、匂いもなく、ただひたすらに無が広がっていた。
(……どこだ、ここは)
目覚めた瞬間、意識は浮かんでいた。
地面も空もない場所――だが、落ちている感覚も、支えられている感覚もない。
ただ、自分の意識だけが、闇の中にぽつんと灯っていた。
(死んだ……のか?)
そう考えてみても、身体の感覚があまりにも希薄だ。
痛みも重みもない、だというのに、思考だけははっきりしている。
やがて、ぽたり――と、遠くで“何か”が落ちた音がした。
水? 石?
わからない。ただ、確かに音が聞こえた。
「……ほう。ここに俺以外の人間が来るとは」
その声は、背後から聞こえた。
どこか鼻にかかったような声。だが、底知れない威圧感がにじんでいる。
振り返ると――そこに“そいつ”はいた。
異様な気配をまとい、四本の腕を組む巨体。
肌には黒い紋様が浮かび、腹部には大きな口。
二つある顔で、こちらを見下ろしていた。
(こいつは……)
知っている。記憶の底に刻まれた名前が、自然と口を突いた。
「……両面宿儺」
その瞬間、男の口元が深く釣り上がる。
「なんだ、俺を知っているのか? ……ああ、たしかあのカラス使いの女が中継していたのだったな」
そう言い、宿儺はこちらをみる。
その視線の奥にある何かが、ずっとこちらを値踏みしているようで、居心地が悪かった。
「こんな場所に両面宿儺と二人っきりってどんな拷問だよ……」
思わずぼやいた言葉に、宿儺が「フン」と鼻を鳴らした。
「安心しろ、貴様に手を出す気はない。どうやら、ここでは術式も使えんようだしな」
「まぁ、術式なしでも貴様一人殺すぐらい訳ないがな」そう聞き捨てならない言葉を吐きながら両面宿儺はゆったりと胡坐をかいた。
過去の記憶がよみがえる。前世で語られた、世界を恐れさせた名前。
両面宿儺は人を喰らい、渋谷を破壊し、術師たちを圧倒的な力で葬った存在、理解できない化け物だったはずだ。
けれど、今、目の前の宿儺は――思っていたよりずっと人間らしい目をしていた。冷たく、鋭く、だけど……どこか、退屈そうな。
「……で? 俺に何か用があって来たわけじゃないんだろ?」
「そうだな。俺にもよく分かっていない。だが、気づいたらこの空間にいた」
「死後の世界か?」
「いや、呪霊の戯言だが『循環する魂の通り道』らしい、おそらく輪廻転生のための準備場所のようなものだろう、だが、そんなことよりだ」
「なんだ……」
「貴様は、俺の『器』になりえる」
「……俺が『器』?」
おれがそう言うと、四つあるうちのひとつの手だけを伸ばしてこちらの胸元を指した。
「貴様の魂は歪だ。空っぽだが……奥に、妙に居心地の良さそうな“空席”がある」
「乗っ取るつもりか? 言っとくが俺に1000年も生きてるおっさんを入れるほどの余裕はないぞ」
「ケヒッ、この俺を老いぼれ呼ばわりか」
四本の腕を組んだまま、腹を揺らして笑っているが、その笑い声は乾いていた。
「安心しろ、俺は乗っ取ろうなどとは考えておらん。貴様の中に空席があるということは、何かが足りないということだろう? それを埋めてやろうということだ」
俺はその言葉に胸をざわつかせた。
「それで、お前は、俺の空席とやらを埋めて、何がしたい?」
「もしかしたら、記憶を保ったまま転生出来るかもしれんだろう?」
「……お前は生まれ変わって何をしたいんだ? また暴れ回るのか?」
「フン、言うほど暴れていたか?」
「いや、大暴れしてただろ……まあ、いいや。暴れ回るのが目的じゃないなら何が目的なんだ?」
「次があれば生き方を変えてみるのもいいかもしれない、と思っていたところだからな」
「というと?」
少しの沈黙の後宿儺は口を開いた。
「ずっと、俺は呪いの王としてしか生きられなかった……いや、違うな。生き方を選ぶこともできたが、俺は選ばなかった、恐れたのだ、自らの呪いに焼き殺されることを。」
宿儺はゆっくりと視線をこちらに向けた。
その目には、テレビ越しで観たような、ただの冷酷な化け物ではないように見えた。
俺はしばらく言葉を失った。
誰もが恐れ、忌み嫌う“呪いの王”の、胸の内にそんな葛藤があったなんて。
「だが……貴様は違う。俺の中にある呪いを使い、俺の選ばなかった人生を歩む。俺はそれを見てみたいのだ」
その言葉に、胸の奥で何かが疼いた。
宿儺の呪い――その強大な力を自分の一部として受け入れ、共に歩むという未来。
考えただけで恐ろしいが、同時にどこか魅かれるものがあった。
宿儺は鋭い目で俺をじっと見つめる。
「……俺はここで宿儺に出会って、話してみて……情が沸いてしまった、呪いの王も案外人間臭いんだなって。俺には、お前がどんな道を歩んできたのか、全部理解できたわけじゃない。でも――少なくとも俺は、宿儺を“理解のできない化け物”とは思わないし思えない」
その言葉に、宿儺の笑みがわずかに揺れる。
「俺も、たぶんずっと迷ってたんだと思う。何のために生まれたのか、何が正しいのか……それすら分からなくなってた」
「フン、弱者にありがちな下らん価値観だ……」
宿儺は鼻を鳴らして笑ったが、その声音にはかすかに柔らかさが混じっていた。
「……だが、俺も似たようなことを考えていたのかもしれんな。何が正しいかなんて、くだらんと切り捨ててきたが……それはただ俺が選ばなかっただけの話だ。選べば、弱くなる気がした。何かを「守る」だの「信じる」だの、そんなものに縛られるのが癪だった。俺は――誰のものでもなかったからな」
宿儺の声は静かだった。だが、その静けさの奥にある重みは、想像以上に深く、重かった。
俺は何も言えなかった。ただ、その言葉の一つひとつが、自分の心に静かに、けれど確かに沈んでいく。
宿儺がゆっくりと立ち上がる。闇の中に、その巨体が浮かび上がった。
彼の気配が、こちらへと向けられる。
「お前に託すぞ、俺の呪いを――その力を。呪いとしてではなく“意思”としてだ」
「意思として?」
「呪いとは本来、感情だ。怨念、執着、怒り、その力をどう使うかはお前次第。だが、俺の力は強大だ。受け入れるには覚悟が要る」
宿儺の両目がじっと俺を射抜く。
「お前がその空席を開けたままにしておくなら、それもいい。だが埋めることを選ぶなら……俺の呪いは、お前の剣にもなり、盾にもなるだろう」
「……分かった、さっき会ったばかりでちょっと話しただけだけだが、悩んでるやつをそのままにしておくのも寝覚めがわるいからな。それに、俺だって自分の生き方に後悔してるからな、生き方を変えるにはいい機会だ」
「情が沸いた、か。言っておくが俺は数えきれない数の人間を殺してるぞ」
「そんなのテレビで飽きるほど聞いたよ、ていうかもう死んじまって違う生き方をしようとしてるんだろ?死んだ奴に罰を与えるのは俺の仕事じゃないし、そこに俺がとやかく言えるほど偉くはない」
宿儺はわずかに口角を上げる。
その笑みには、ここに来た時のようなものとは違うものがあった。ほんのわずかに、満足げな――そんな表情。
「ならば、その空席を埋めよう、だが勘違いするな。これは共に歩むということだ。俺はお前の中に居るが、従うわけではない」
「むしろ、そっちが俺に振り回されないように気をつけろよ」
そう言って笑った俺に、宿儺もまた声を上げて笑った。
「クハッ!……言ったな、いいだろう、その身が砕けようとも、呪いを抱き通せ。俺の呪いはただの力じゃない。使いこなせなければ、俺と同じようにお前自身が呪いとなって朽ちるだろう」
「望むところだ。お前の呪い、俺が飼い慣らしてやる」
静かに言い放つと、
――バリンッ!!――
突然、真っ暗な空間に鋭いヒビが走った。その亀裂から、いくつかのの光の玉が流れ込んでくる。
光の玉はまるで意志を持つかのように、俺たちの目の前を一直線に通り抜けていく。
光の玉が通り過ぎた先の闇にも、また新たなヒビが生まれ、何もない空間を破りその向こうに消えた。
その裂け目に引き込まれるように、俺と宿儺もまた吸い込まれていく。
体が軽くなり、意識が浮遊しながら――
心の奥底から、奇妙な高揚感が込み上げてきた。
「これは?」
「……どうやら俺たちがこの場にいられるのも限界が来たようだな」
「生まれ変わるってことか?」
「分からん……生まれ変わったら俺の自我は消えるかもしれん。会うのはこれが最初で最後かもしれんが、覚えておけ。お前の中に“俺”はすでにいる」
「ああ」
「俺の呪いと共に、新たな地で、見せてみろ!」
「小僧!!」