受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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十一話

 

ある日、釣りをした帰りにグレイラット家の前を通った。

 

魚の入った籠を肩に提げ、のんびり歩いていた俺の耳に、

グレイラット家の庭の方から人の声が届く。

風に混じって流れてきたその声は、ルーデウスと……ロキシーさんだ。

以前ロキシーさんが言っていた卒業試験の話だろうか?

 

思わず足を止め、耳をすませる。

庭の方をうかがうと、ルーデウスが何かを言い淀んでいるのが見えた。

肩がこわばり、小さな体が微かに震えている。

 

 

「……そ、外ですか?」

 

 

怯えた声だった。俺は思わず眉を寄せる。

 

 

「はい、村の外です。もう馬も用意してあります」

 

 

ロキシーさんの声音は落ち着いていて、どこまでも澄んでいる。

だが、その穏やかさに反して、ルーデウスの顔色はどんどん悪くなっていく。

彼が外を恐れているのは、俺も知っていた。

以前、釣りに誘ったときみたいに、

見えない鎖に縛られているかのように、動けなくなっている。

外に一歩踏み出す――ただそれだけのことが、

ルーデウスにとっては断崖絶壁に足をかけることと同じほどの恐怖なのだろう。

 

 

「家の中ではできませんか?」

 

 

「できません」

 

 

「できませんか……」

 

 

ルーデウスの肩が小さく落ちる。その横顔を見て、俺の胸が詰まった。

 

 

(やっぱり、ロキシーさんは知らないんだな。ルーデウスが外に出られないってことを)

 

 

俺は一歩踏み出しかけた。声をかけ、説明してやらなければ。

ロキシーさんが無理に外へ連れ出そうとすれば、

ルーデウスはきっと心を壊してしまう――そう思った。

 

だが、その瞬間。

 

 

『やめておけ、小僧』

 

 

宿儺の声が心の奥に響いた。冷たくも鋭く、俺の動きを押し止める。

 

 

(なんで止めるんだよ、ルーデウスが苦しんでるのに、このままじゃ――)

 

 

『小僧が行っても邪魔になるだけだ』

 

 

(邪魔って……)

 

 

『考えてみろ、小僧。お前が説明すれば、一時は楽になるかもしれん。だが、その先はどうする? あの餓鬼がいつまでも外を避けて生きられると思うか?』

 

 

宿儺の声は低く、嘲るようでいて妙に確信めいていた。

 

 

『いずれは外に出ねばならん。恐怖を越えねばならん。それを他者の言葉で取り繕い、隠し続けるのは、ただ弱さを先延ばしにするだけだ』

 

 

(ッ……!)

 

 

その一言で気づいた。俺がしようとしたことは、

結局ルーデウスを「守る」んじゃなくて「縛る」ことだったのだと。

ロキシーさんに説明すれば、今日の外出は避けられるかもしれない。

でもそれは、ルーデウスの恐怖をただ覆い隠すだけ。

明日も、明後日も、彼は同じ場所で立ち止まったままだ。

 

信じなきゃ何も始まらない、

ルーデウス自身が、自分の足で外へ踏み出すと決めるその瞬間を。

 

 

(ごめん宿儺、俺が間違ってた……)

 

 

喉が乾く。胸の奥が熱い。

自分の軽率さに気づいた恥ずかしさと、それでも正しく気づけた安堵が入り混じる。

 

宿儺は鼻で笑った。

 

 

『気づけたのならよい、小僧がどれほど思い悩もうと、結局選ぶのはあの餓鬼自身だ。お前にできるのは、その瞬間を邪魔せず、見届けることだけだ』

 

 

そうだ。助けるんじゃない。

無理に背中を押すんじゃない。

外に出られない苦しさも、そこから一歩踏み出す勇気も、ルーデウスのものだ。

 

俺にできるのは、その一歩が踏み出される時を、ただ信じて待つこと。

そして、もしその足が折れそうになったときに、隣で支えることだ。

 

 

『小僧、余計なことはするな。これはあの餓鬼が自分で越えねばならぬ壁だ。』

 

 

わかってる。

俺が口を出せば、ルーデウスは今日一日は楽になるだろう。

けどそれはただ逃げ道を広げてやるだけ。

宿儺が言ったとおり、問題を先延ばしにするだけだ。

 

 

「仕方ありませんね」

 

 

ロキシーさんが小さく息をつくと、

次の瞬間――ルーデウスの体がひょいと宙に浮いた。

 

 

「なっ――!?」

 

 

ロキシーさんが、迷いなくルーデウスを抱き上げた。

あれほど外を怖がっていたはずの少年は、

抵抗らしい抵抗も見せず、驚きの声を上げるだけで、

そのままロキシーさんに担がれた。

 

庭を出た先には、一頭の馬が待っている。

師匠の愛馬であるカラヴァッジョだ。

ロキシーさんは軽やかに歩み、ルーデウスを鞍へと乗せた。

その光景を、俺は木陰から見つめていた。

 

胸の奥に広がるのは、不思議な安堵だった。

恐怖に足を縫い止められていたはずのルーデウスが、今は確かに庭の外にいる。

自分の意志だけでは越えられなかった壁を、彼は他者の力を借りて越えてみせた。

 

 

(……そっか。俺がやろうとしてたのは逃げ道を作ることだった。でも……時には、こうして背中を押すことも必要なんだ)

 

 

俺はようやく理解した。恐怖から庇うのではなく、

その背を押して一歩踏み出させること、

それもまた、大事な支え方だということを。

 

ロキシーさんの迷いのない行動を見て、俺は小さく息を吐いた。

ルーデウスはきっと、この日を境に少しずつ変わっていくのだろう。

怖さを知りながらも、外に触れられた経験は必ず彼を強くするはずだ。

 

そして俺もまた、人を信じることを学んだ。

必要なときにはしっかりと背を押すことも信じることなんだと。

 

 

 

 

 

 

 

★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

 

 

 

 

 

 

グレイラット家の庭先でルーデウスがロキシーさんに担がれ、

カラヴァッジョの背に乗せられるのを見届けた俺は、少し距離をとって歩き出した。

 

馬の蹄が土を叩くリズムに合わせ、ルーデウスの小さな背が揺れていく。

その背中はこわばっていたが、完全に縮こまってはいなかった。

風が草原を渡り、青空がどこまでも広がっている。

馬に揺られるルーデウスが、その景色をどう見ているのか、俺にはわからない。

怖さが勝っているかもしれないし、ほんの少しだけ胸を躍らせているかもしれない。

 

森と畑を抜けた草原の中、一本の木の下で馬が繋がれていた。

その傍らで、ロキシーさんがルーデウスを地面に降ろす。

俺は少し離れた場所でそれをこっそり見ていた。

 

 

「これからわたしは水聖級攻撃魔術《豪雷積層雲(キュムロニンバス)》を使います」

 

 

(おお……上級のさらに上、水聖級魔術か!)

 

 

『ほう、水聖級か……名乗りからすれば「雨雲」を操る術だろうな』

 

 

宿儺の声が響く。だがその響きには、未知の術を前にした好奇心の色が隠しきれない。

これは最近分かったことだが、宿儺は意外と新しいもの好きだ。

 

 

『どれほどの魔術を魅せてくれるか……見ものだな』

 

 

ロキシーさんは小さく息を吸い込み、真剣な眼差しで天を仰いだ。

その口から、言葉が紡がれる。

 

 

「雄大なる水の精霊にして、天に上がりし雷帝の王子よ!我が願いを叶え、凶暴なる恵みをもたらし、矮小なる存在に力を見せつけよ!神なる金槌を金床に打ち付けて畏怖を示し、大地を水で埋め尽くせ!ああ、雨よ!全てを押し流し、あらゆるものを駆逐せよ――《豪雷積層雲(キュムロニンバス)》!」

 

 

詠唱と同時に、空気が一変する。

 

さっきまで青空が広がっていた草原の上空に、黒い雲が渦を巻くように集まり始めた。

低い唸り声のような風の音。次第に陽光が遮られ、辺りは急速に薄暗く沈んでいく。

 

 

『ほう……なかなかの迫力だな』

 

 

次の瞬間、稲光が閃き、轟音が大地を揺るがした。眩い閃光に思わず目を細める。

そして――叩きつけるような豪雨が、瞬く間に全身を濡らしていった。

 

 

(ああ、これが水聖級か……! 中級からたった二段階上がるだけで、この規模なのかよ…それにまだ上には、三つもあるんだよな)

 

 

俺の予想していた「洪水」や「大雨」なんて生易しいものじゃない。

空そのものを支配して、風も雨も雷も、一度に呼び寄せる。

ただ見上げているだけなのに、胸の奥を鷲づかみにされるような圧倒感だった。

 

豪雨は一瞬で世界を塗り替えた。

空は昼だというのに墨を流したように暗く、雷鳴が途切れなく轟いている。

叩きつける雨粒は皮膚を刺すように冷たく、わずかな時間で衣服は重たく水を含んだ。

 

 

『聖級でこれほどか。ならば王級や帝級の威力がどうなるか気になるな……天地を裂き、大陸を沈めるかもしれん』

 

 

途中、カラヴァッジョが雷に打たれる事故もあったが、嵐を散らしたロキシーさんは、気を取り直すように姿勢を正し、ルーデウスの方へ振り返った。

 

 

「――さあ、ルディ。あなたの番です」

 

 

(本当にやるのか……? さっきの魔術を、ルーデウスが……)

 

 

『見ものだな』

 

 

ロキシーさんは念のため、と言わんばかりに土を操り、

彼女と馬の周囲に丸いドームを築いた。

雷雨の直撃を避けるための即席の避難所だろう。

ひとまずカラヴァッジョもこれで安全だ。

 

ルーデウスは天を見上げている。

雨はすでに上がり、雲はちぎれて流れている。

 

 

「雄大なる水の精霊にして、天に上がりし雷帝の王子よ――」

 

 

詠唱が始まる。あれだけ長い詠唱を、一度聞いただけで覚えたのか。

ルーデウスが詠唱を言い切る前から、空気が再び湿り、温度が落ちたのがわかる。

 

 

(来る……!)

 

 

詠唱の終盤、ルーデウスの両手が胸前からゆっくり上がる。

 

 

「――キュムロニンバス!」

 

 

風が反転する。草原一帯の空気が吸い上げられるように蠢き、

上空で渦が噛み合った。雲が早送りのような速度で積み上がっていく。

 

 

『ほう……あの青髪の女がやったような《豪雷積層雲》とは少し違うな……下層に温層、上層に寒層ができている。魔術の継続条件を外部に肩代わりさせているのか……?』

 

 

(……ってことは、ロキシーさんみたいに術者が手を離せば消えるんじゃなくて……むしろ逆か? ルーデウスが消さない限り、嵐は延々と残り続けるってことか!?)

 

 

『ああ。あの餓鬼は「雲が自走する仕組み」まで想像できている。素人の直感にしては出来すぎだがな』

 

 

「……そうか、斜めに上がっていく竜巻が雲を押し上げて……」

 

 

ロキシーさんの呟きが雨風にさらわれる。

対してルーデウスは、上げきった両手をすっと下ろした。

にもかかわらず、雲は崩れない。

先ほど組んだ仕掛けが自走しているのだろう。

宿儺の言う通り才能という言葉で片づけるには、ちょっと出来すぎだ。

 

 

(キュムロニンバスは多分、発動者が魔力を注ぎ続けないとすぐに散ってしまう術だ。だから彼女は「一時間維持できたら合格」と魔力が1時間続くかを試すような条件を出した。だが……これはもう、答えの質が別物だ)

 

 

風はうねり続け、黒雲はさらに広がっていく。

その中心にそびえる黒雲を見上げ、俺は息を吸い込む。

 

さっきまで、すぐ隣にいると思っていた。

なのに今、あいつの背中がやけに遠い。

 

届かないと分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。

理屈じゃない、衝動だけが指先を突き動かした。

 

 

「“龍鱗”“反発”“番いの流星”」

 

 

 

『どうした、小僧?』

 

 

「『解』」

 

 

宿儺の問いかけに、俺は答えず、詠唱を終えた。

 

──しかし。

 

何も起きなかった。

斬撃が生まれる感触はなく、空気が裂ける気配もない。

指先に込めた呪力は弾かれ、虚しく拡散していく。

大気に吸い取られるように、ただ霧散するばかり。

 

 

『フン……当然の結果だな。『捌』もままならん小僧では“触れていないものを斬る”などできるはずがないだろう。媒介を意識する段階にすら至っておらん』

 

 

俺は答えない。答えを用意してなどいなかったし、

宿儺の言う通り結果は分かっていた。

 

雷鳴に掻き消されそうな声で、俺は小さく吐き出す。

 

 

「……負けてられないな」

 

 

思わず口から零れた言葉は、誰に聞かせるわけでもない独り言だった。

雲の下で小さな体を揺らしながら立つルーデウスを横目に見て、俺は背を向ける。

ここで突っ立っている暇はない、向かうのはいつもの修練場。

 

 

『声を掛けんでもよいのか?』

 

 

「今は……修行したい気分なんだ。あいつに会うのは、その後でいい」

 

 

言いながら、自分の胸の奥がざわつくのを感じていた。

悔しさもある。けれど、それ以上に――置いていかれたくない。

俺よりも小さいはずの背中が、今日確かに遠く見えた。

 

あの背中を追い続けるために。俺はルーデウスの友達だと胸を張って言えるように。

 

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