当日の空気は、いつもより少しだけ冷たかった。
グレイラット家へ向かう途中、道の先に一台の馬車が止まっているのが見えた。
おそらく、ルーデウスを連れていくための馬車だろう。
少し距離を詰めると、馬車の横に立つ人物が視界に入った。
褐色の肌、右目には黒い眼帯。腰には重厚な剣、鋭い猫耳がピクリと動く。
腰の後ろからは、尻尾がゆらりと揺れていた。
おお! 尻尾だ。しなやかで、表情があって、いい。
……いや、今はそんな話をしている場合じゃない。
見ればわかる。この人がギレーヌだ。
師匠の「筋肉ダルマ」という表現、
あれはあながち間違いでもなかったらしい。
腕も脚も、岩みたいに締まっている。
というか、この人露出が激しい。
ルーデウスの教育によろしくない気がする。
そんなくだらないことを考えているうちに、
推定ギレーヌの耳がぴくりと動いた。
「……なんだ」
「初めまして、もしかしてあなたがギレーヌさんですか? 俺はカインと言います。師匠……パウロさんから聞いていませんか?」
「ギレーヌでいい、カインか、たしか、友を切る役目を任された、あいつの一番弟子だったか?」
「はい、その一番弟子です」
「そうか、あたしもかつて友を切ったことがあるが……あれはいいものではない」
「ん?」
「どうした」
この人、比喩とかじゃなく俺がルーデウスを物理的に切ると思ってないか?
「あの、切るというのは比喩でして、実際に斬るつもりはありません」
「む、そうだったか……だが、その顔を見る限り、覚悟はまだできてないようだな」
「はい、ですが、やるべきことはやるつもりです」
「……あたしもお前らの戦いを見てもいいか?」
唐突な申し出に、思わず言葉を詰まらせる。
「どうしてですか? 俺はまだ水神流の上級までしか行ってませんよ。もちろん全力でやりますが、剣王のギレーヌさんからしたら、面白くもなんともないと思いますけど」
「ギレーヌでいい」
それだけを短く言い、片目を細めた。
「年は?」
「たしか……八つか九つです」
「そうか、その年で上級ならお前には十分剣の才能がある。パウロもすぐに追い越すだろう」
「剣王が言うと説得力ありますね。じゃあ、ルーデウスに気づかれないようにお願いしますね」
「ああ、心得ている。それと――」
ギレーヌは片目を細めたまま、尻尾をひと振りして言葉を継いだ。
「剣を振るうことに迷ったら、その迷いごと捨てろ。そしたら少しは軽くなる……師の言葉だ」
「はい……ありがとうございます」
意味はまだ掴めない。
だが、これはギレーヌなりの叱咤激励なのだろう。
ならば、心にしっかりと刻んでおこう。
★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
昼下がりの道は、朝より一段と陽が強い。
俺はひとり、握った木剣の感触を確かめていた。
(……迷うな、か)
意味は全部わかったわけじゃない。
でもためらいを抱えたままじゃ、剣が鈍るということだけは分かる。
ルーデウスをどうやって気絶させるかは、師匠から俺に任されている。
任された以上、手を抜くつもりはない。
だが、いちばんの問題はそこじゃない。
あいつが、俺に本気で勝とうとしてくれるかどうかだ。
『小僧、迷いを捨てさせる方法を教えてやろう。あるいは、迷いを忘れる方法でもいい』
(宿儺、ルーデウスが本気になるようなアイデアが何かあるのか?)
『ある、それは、怒りだ。怒りは、迷いと躊躇を忘れさせる。余計な思考を削ぎ落とし、人をただ一つの目的に向け収束させる。進むべき道を決めた人間は強いぞ。まあ、怒りに飲み込まれなければの話だがな』
(怒らせる、か……嫌われ役をやるつもりだったんだ。ちょうどいい)
俺は深呼吸をひとつして、庭へ向かった。
「ルーデウス、ちょっといいか。来てくれ」
「はい……どうしました?」
「……なあ、俺たちって、今まで一回も喧嘩したことなかったよな」
「それだけ気が合うということなんでしょう」
自信ありげに、少し照れているのか冗談めかして笑う。
「そうだな……」
俺は何でもないふうに、木剣の柄を持ち替え、ルーデウスに差し出す。
ルーデウスの目が一瞬だけ丸くなる。
受け取った指先が、ほんのわずかに汗ばんでいるのが見えた。
「ルーデウス」
「はい」
喉の奥で息を整える。「迷うな」というギレーヌの声が胸の奥で反響する。
「お前さ、模擬戦の時、手抜いてるだろ」
「……どういう意味ですか?」
「ルーデウスはさ、俺に向けて、使えるはずの攻撃魔術を一切使わないだろ?」
ルーデウスは困惑を隠そうともせず、木剣を握る手を下げたまま俺を見た。
「手を抜いた覚えはありません。ただ――」
「俺を相手に本気を出す意味はない、か?」
「違います。そんなこと、思ったこともありません」
「じゃあ、なんで攻撃魔術を使わない? 俺が対処できないと思ってるからか? それとも……下に見てるからか」
ルーデウスの口が、わずかに止まった。俺は淡々と続ける。
「もしかして才能あるからって、俺のこと舐めてるんだろ?」
「……いま、なんと?」
声の温度が一瞬で下がる。空気が変わった。
ルーデウスの目に、いつもの穏やかさはもうない。
代わりに、怒気と困惑が混じっていた。
「ルーデウス、お前が俺を下に見てるって話だよ」
「違う!!」
ルーデウスの声に熱が宿る。
「俺は……あんたのこと、尊敬してるんだよ!」
普段の丁寧な口調が剥がれていく。
これが彼の素なのかもしれない。
「俺はあんたのことを尊敬してるし、下に見たことなんて一度もない!」
(ああ、俺だってルーデウスの事を尊敬してるよ)
普段なら絶対に見せない感情が、表情の端々に滲んでいた。
拳が震え、木剣を握る手が強くなる。
「俺が剣術を頑張れたのは、あんたを超えたいと思ったからだ。だから、俺があんたを下に見てるなんて、嘘だったとしても、あんたにだけは言われたくなかった!」
言葉がぶつかるたびに、胸の奥がざらついた。
そこまで真っすぐに言われると、こっちの方が揺らぎそうになる。
「じゃあ……証明してくれよ、お前が手を抜いてないって、本気を出してるって証明をさ」
その言葉に、ルーデウスの呼吸が一度だけ荒くなった。
怒りと戸惑いが混じり合って、それでも彼はゆっくりと木剣を握り直す。
やがて、深呼吸を一つ。表情が、少しずつ静かに戻っていく。
「……正直、なんでカインが僕を本気にさせたいのかは、分かりません。」
聡いルーデウスのことだ。俺の下手な演技に気づいているのだろう。
だが、その怒りは明らかに本物だ。
「でも、そこまでやりたいってんなら、付き合いましょう」
ルーデウスは小さく息を吐き、問いかけるように言った。
「僕の本気が見たいんですから、もちろん魔術はありですよね?」
「もちろんだ。全部ありでいく。開始の合図は、いつも通りお前がやってくれ」
「わかりました、この戦いが終わったら説明してもらいますからね」
ルーデウスは軽く頷き、静かに片手を掲げた。
掌に淡い光が膨らみ、小さな火の玉が空へと放たれる。
俺は木剣を構え、重心を落とした。
向かい合うルーデウスも同じく、剣を斜めに構える。
火球が空で炸裂し、乾いた音が庭に響いた。
その音を合図に、俺は地を蹴った。
砂を巻き上げ、一直線にルーデウスへ向かう。
「行くぞ! ルーデウス!」
返事の代わりにルーデウスは腕が振るわれ、
圧縮された岩弾が空気を裂いて突っ込んでくる。
身体を傾けて避け、紙一重でかわす。
一発、二発――三発目は受け流す。
「ッ……!」
刃の角度を変えて、岩弾を滑らせる。
衝撃を吸い、流れのままに受け流す。
弾が軌道を逸れ、背後で地面を抉った。
ルーデウスが放った本気の魔術は、師匠の一撃より重かった。
しかし、軌道が単調な分、まだ対処できる。
ルーデウスは間合いを取りながら、次々と岩の弾丸を撃ち込んでくる。
飛んでくる魔術を、まとめて弾いた。
バン、と乾いた破裂音。
土魔術が剣先で砕け、粉塵となり視界を奪う。二段構えか。
次の攻撃が来る。
そう判断して足を止める……が、来ない。
(おかしい……撃ってこない?)
視界が薄く晴れていく。
ルーデウスは動かず、こちらを見ている。罠か?
迷っても仕方がない。土煙を割って前へ出る。間合いまで、あと一歩だ。
(来る)
足下の土が、ぬるりと動き、泥沼があと一歩の位置に展開される。
想定通りだ。俺は先んじて詠唱しておいた土魔術を使い、泥沼を埋め、
あと一歩を踏み込む。
勝ち筋が見えた瞬間――
「カインなら、そこまで読んでくれると思ってましたよ」
――ゴッ
鈍い衝撃が頭を叩いた。視界が白く弾け、足がよろめく。
上からだ……いや、今は見えない。
何かがぶつかった。思考が一瞬遅れる。
思考が固まるより先に、俺の耳に風切り音が聞こえる。
ルーデウスが、風魔術で剣を押し出して加速させて振りかぶる。
この姿勢、この角度、受け流しは間に合わない。なら――
「――借りるぞ」
足元に、墨を垂らしたような黒が走った。
十種影法術で作った浅い影の沼、踏み込んだ右足がぬるりと沈む。
踏み込みが崩れ、剣の角度がわずかに狂う。
木剣の軌道が俺の耳元を掠め、風圧だけが頬を裂いた。
「なッ……!」
俺は半身で前に滑り込み、木剣で首筋を的確に打つ。
乾いた音。ルーデウスの視線がふっと上を向き、意識が落ちた。
「ギリギリだったな……」
倒れかけた身体を前から抱きとめる。
意識のないルーデウスをそっと地面に寝かせ、
頭の下に自分の上着を丸めて差し込む。
上を見上げる。さっきの衝撃、
恐らく土煙に紛れて上に放った岩が落下してきたものだ。
俺が読んだと思ったあの泥沼は、本命を隠すための囮。
内容だけ見れば、完敗だ。
「終わったか……カイン、お前ルディの作戦に完全にはまってたな」
「はい。さすがは師匠の息子です」
「お前それ言えばいいと思ってないか?」
「やめたほうがいいですか?」
「……いや、気分がよくなるからやめんでいい。そんなことよりあいつが放った魔術。ありゃ当たってたら死んでたぞ。まあ……お前がよけれるギリギリを狙ってたようだけどな」
「ギリギリを狙った」その言葉にふと、頭の中にいやな予感が湧いて出る。
(結局ルーデウスは手を抜いてたってことにならないか?)
考えが嫌な方向へ伸びる。
もしそうなら、俺がやったことは単なる茶番だ。
『違うな、あの餓鬼は小僧を殺したいのではない。勝とうとしたのだ。手を抜いたことにはならん』
宿儺の言葉を聞いて、少し整理がつく。
確かに、殺そうとすることと、勝とうとすることは違う。
ルーデウスは勝とうとしていた。それは認めるべき事実だ。
冷静に考え直す。俺の目的は何だったか。
厳密には、ルーデウスを本気にさせることじゃない。
狙いは、ルーデウスが俺に勝とうとすること。
そして、そのうえで俺が勝つこと。
そこだ。危うく目的を見失うところだった。
手加減だったかどうかなんて二の次だ。
重要なのは、あいつが勝ち筋を組み立てて、
なお勝てなかったという事実を刻むこと。
ルーデウスが自分の手で最善を尽くし、なお俺が上回る。
そういう敗北の方が、ただの叱責よりも効く。
その時の悔しさを糧に、あいつは自分で這い上がるしかなくなるからだ。
(ありがとう、宿儺。助かった)
心の中で小さく礼を言う。助言はいつも刺々しいが、的確だ。
──返事はない。沈黙が返ってくるだけだ。
俺は深く息を吐き、顔を上げた。あとは段取りどおりだ。
師匠が手際よくルーデウスの手首と足首を縛る。
そして、門の外まで来ていた馬車へ向かう。
そのとき。
「ルディ!?」
甲高い声。振り向くと、
シルフィと、その父親のロールズさんが駆けてくる。
シルフィの顔が真っ青だ。
師匠に縛られているルーデウスを見た瞬間、目が見開かれた。
シルフィの掌から、鋭い風の矢が師匠の背へ一直線。
師匠は片手でルーデウスを担いだまま、木剣で魔術を受け流す。
師匠は難なく受け流したが、当たれば普通に死ぬ威力だ。
「シルフィ、やめなさい!」
ロールズさんがシルフィの肩を掴む。
振り払おうとする腕を、がっちりと押さえ込む。
暴れる肩を必死に押さえ、事情を伝えている。
(……シルフィにも、恨まれるかな)
胸の奥が少し重くなる。けれど、やることは変わらない。
俺と師匠は、馬車に向かう。
俺はルーデウスの頭を支え、静かに馬車の中に横たえた。
師匠が懐から封書を二通取り出す。
一つは赤い封蝋で封じた手紙。俺と師匠で仕上げたものだ。
もう一つの手紙は、
「ルーデウスが俺のことを下に見ている」という言葉の撤回と謝罪、
それと「俺もルーデウスを尊敬している」この二つの言葉を書いた手紙だ。
「目を覚ましたら読ませてください」
俺が差し出すと、ギレーヌは無言で受け取り、
胸当ての内側に差し込んだ。
師匠が一歩前に出る。
「頼んだぞ」
「ああ」
それだけ。二人の会話は本当にそれだけだった。
視線を庭の端に向ける。シルフィが立っていた。
目元は赤い。けれど、涙は止まっている。
震える肩をぐっと抑え、こちらを真っ直ぐ見た。
「……わかった。カインを倒せるぐらいに、強くなる!」
「聞いたんだな」
「うん、ボクが、ルディの邪魔になってた」
怒っている。いつの間にか「くん」付けもしなくなってるし。
まあ、離れ離れにさせた張本人だからな。
「ボクが弱いから、カインは何も言わないでやったんでしょ。ボクに話したら、止めるって思ったからでしょ」
「ごめん、シルフィ」
「いい、カインのおかげでボクわかったんだ。カインに勝てるぐらい強くなれば、ルディを支えられるぐらい強くなれば、ルディのそばにいてもいいって」
「……ありがとう、シルフィは強いな」
シルフィは小さく息を呑み、視線を落とす。
その顔は、少し悔しそうで、でも前を見ていた。
車輪がきしみ、馬が鼻を鳴らす。
手綱が引かれ、馬車がゆっくり動き出した。
(またな、ルーデウス)
心の中で短く告げる。言葉にすれば、余計に重くなる気がした。
感傷に浸りかけたところで、家のほうから声が飛んできた。
「――あぁ、私の可愛いルディが行ってしまうわ!」
「奥様。これも試練でございます! ルーデウス様は必ず、より逞しくなって帰って参ります!」
ゼニスさんとリーリャさんが、
やたら芝居がかった調子で門前に並んで見送っている。
肩を抱いて、わざとらしく嘆いて、次の瞬間には胸を張って励まして。
完全にひと昔前のドラマのようなノリだ。
(もしかしなくても、この二人、けっこう仲いいな?)
ゼニスさんが大げさにハンカチを振る。
やってることは、完全にコントだ。
ルーデウスが優秀なのを知ってるから、
根っこではそこまで心配していないのだろう。
耐えきれず、口元が緩んだ。思わず笑いが漏れる。
重かった胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。
次に会うのは五年後か——そんなことを考えながら、
馬車がゆっくりと動き出すのを見送る。
俺は馬車が完全に見えなくなるまで見送った。
次に会うとき、ルーデウスがどれだけ変わっているか楽しみだ。
俺は拳を握りしめ、胸に溜まった複雑な感情をひとつにまとめた。
悔しさも、期待も、不安も全部、力に変える。
ルーデウスに置いて行かれないよう、俺も本気で頑張ろう。