ルーデウスがブエナ村を出てからを境にシルフィが弱音を一切吐かなくなった。
宿儺の言った通り、目標を一つに絞るってのは人を強くするらしい。
愛の力だとか、感動的な言い方をするつもりはないが、確かにシルフィは変わった。
シルフィの目標はただ一つ。
ルーデウスの隣に立ち、
支えることが出来るぐらいに強くなること。
シルフィは、ルーデウスの隣に立てるようになるために、自分を鍛え始めた。
具体的には、俺の日課のジョギングにシルフィがついてくるようになった。
それは、まだ夜の冷気が残る早朝、
いつものように家の前で準備運動をしていたら、背後から小さな声がした。
「カイン、ボクも一緒に走っていい?」
正直、最初は無理だろうと思った。
俺のジョギングは軽い修行の一環ということもあって、
距離も村の周りを数周とそれなりに長い。
だが、シルフィを焚きつけた俺に止める権利はなかったし、
止めるつもりもなかった。
「……わかった。でも、無理はするなよ」
そう言って走り出したが、
案の定、最初のうちはついてこられなかった。
一周も行かないうちに、シルフィは息を切らし、額に汗を浮かべていた。
それでも、何とか俺の背中を追いかけ最後まで走りぬいた。
無理をしているのに、やめる気配がまったくない。
足がもつれて転びそうになっても、すぐに立ち上がって走り出す。
そのたびに俺は、わざとペースを落としたり、後ろを振り返ったりしたが、
シルフィは一度も助けを求めなかった。
次の日も、その次の日も、シルフィは必ず来た。
誰に言われたわけでもない。
やめても誰も怒らないのに、彼女はただ、自分で決めて走り続けていた。
何日も、何週間も、何か月もそれを繰り返した。
最初はついてこられず、だが次第に少しずつ体力がつき、
走り方も、俺が教えながら一つずつ身につけていった。
気づけば、シルフィの走り方から無駄が減って、
走るたびに足音が軽くなっていく。
努力が形になる瞬間というのは、見ていて気持ちがいいものだ。
一年も経つ頃には、シルフィは完全に俺と並走できるようになっていた。
それどころか、最近では先に行こうとすることのほうが多い。
ほんの少し俺の前を走っては、わざとらしく勝ち誇ったような顔をする。
安い挑発だと分かってなお、つい追いかけてしまうのだから、
俺もたいがい単純だと思う。
ジョギングを終える頃には、
俺とシルフィは肩で息をして、地面に尻をつけている。
これじゃあ、この後の稽古に響くに決まっているのに、どうしても手を抜けない。
……たぶん、次のジョギングでも、俺はまた全力で走らされるんだろう。
走り終えたあとは、いつものように短い休憩を挟み、師匠との剣術稽古に移る。
ルーデウスの本気を見て父の威厳に焦りを覚えたのか、
あの日以来、師匠は自分の稽古も兼ねて、俺と向き合うようになった。
不倫した師匠に、父親としての威厳があると思えないが、
師匠が技を磨き続ける姿を見ていると、威厳なんて言葉はどうでもよくなる。
シルフィの方はというと、しばらくの間は、
ルーデウスがやっていた魔術を見よう見まねで、
自分のものにしていたようなのだが、
それにも限度があり上達の実感はなかなか得られなかったらしい。
ルーデウスの魔術を隣で見て育ったシルフィはかなり落ち込んでいた。
そんな、伸び悩むシルフィを見かねた、
母さんとゼニスさんが治癒魔術を教えるようになった。
二人が働いている、診療所の手伝いをしながら、
最初は簡単な擦り傷の治療から始まり、
今では軽い打撲なら一瞬で治せるほどになっている。
教える母さんも「娘ができたみたい」と楽しそうだった。
とはいえ、魔術を学んでいるだけでは成果が分かりづらい、
そんなことをシルフィに言われたので、
月に一度、俺と模擬戦をすることにした。
つまりは俺をものさしにして今の強さを知ろうというわけだ。
最初の数回は、本当におそるおそるだった。
シルフィは攻撃魔術を撃つたびに手を止めて、こちらを気にする。
まるで当ててはいけないものを扱うように魔術を放っていた。
まあ、年齢を考えれば当然だ。
人を傷つけることに抵抗があるのは、むしろ健全だと思う。
しかし、俺が魔術を難なく避けたり受け流したりしていくうちに、
シルフィは、むきになったのか、はたまた俺が魔術では死なないと思ったのか、
今ではすっかり手加減なしのガチ魔術が飛んでくるようになった。
無詠唱なので予備動作もなく、ノータイムで魔術が飛んでくる。
あの手加減なしの魔術を食らえば簡単に死ねる。
正直なところ、模擬戦というよりただの戦闘に近い。
だが、俺もその緊張感を悪く思ってはいない。
死の間際での一瞬の判断こそ、己を鍛える最良の修行だと宿儺も言っていた。
おかげで、魔術の受け流しも反射速度も以前よりずっと早くなった。
シルフィのおかげで、俺の修行の質は確実に上がっている。
シルフィが治癒魔術を学び始めてから、
自然と俺と一緒に過ごす時間は減っていった。
あの子は今、明確な目標に向かって進んでいる。
俺が手を貸すまでもなく、日々の努力で力を積み重ねている。
そうして、必然的に俺には“自分の修業だけに集中できる時間”が増えた。
今の俺は、剣でも魔術でもなく――呪力効率と出力の修業に時間を割いている。
宿儺の助言を受けながら、ひたすら呪力を流し、練り、循環させる。
助言曰く、呪力効率を高めるには、自分の呼吸と一致させることが大事らしい。
最初のうちは流れが途切れて体がだるくなったり、
逆に過剰に集中して頭痛を起こしたりもしたが、
最近はそれもなくなり戦闘中でも制御は安定している。
呪力総量は、生まれ持った才能で決まる。
それが一般的な常識らしい。
だが、俺の場合は事情が違う。
宿儺が呪力を供給してくれるのだ、
宿儺がいる限り、俺の中には“外部供給”という反則じみた仕組みが存在している。
ただし、それは便利なだけじゃない。
呪力の供給はあくまで宿儺の意志で行われる。
つまり、俺の呪力が尽きて動けなくなったときに頼むことになるわけだが、
だいたい決まっておちょくられる。
『人にものを頼む態度ではないな、小僧』
毎度この調子だ。
こっちは気を失いそうなほど限界だってのに、
まるで叩けば音が鳴るおもちゃで遊ぶかのように、宿儺は楽しげに見ている。
イラつくにはイラつくが、怒りは不思議と湧かない。
まあ、宿儺を退屈させないといった手前全然許容範囲内だ。
それに、宿儺が俺に心を開いてきていると考えればかわいいもんだ。
それを宿儺に言えば一生呪力を供給してくれなさそうだが。
結局、俺は宿儺に頼っている。
それでも、自分の足で立つために、
できることはやらなければならない。
呪力効率が安定してきた今、次の段階として“出力”の方を鍛えることにした。
宿儺曰く、どれだけ呪力の総量があっても、出力がなければ宝の持ち腐れらしい。
宿儺はさらに続けた。
出力は蛇口のようなもので、器が大きくても肝心の蛇口がお粗末なら意味がない。
つまり呪力出力を鍛えるには、その蛇口を無理やり広げるしかない、と。
方法は単純、とにかくでかい呪力量を使いまくること。
単純だが、地獄だ。
宿儺の呪力という身の丈に合わない呪力を放出するという行為は、
想像以上に苦しかった。
頭の奥が焼けるように痛くなり、指先から熱が漏れ出していく。
何度も気を失いかけ、吐き気をこらえながら繰り返す。
意識の奥で宿儺の笑い声が響くたび、
もう少しだけ頑張ってみようという気になるのが悔しい。
けれど、その悔しさがなければ、ここまで来られなかったのも確かだ。
術式の方は、まずまずの進捗だ。
「解」は依然として出せないが、何もない場所を知覚する、
その手触りをまだ掴めていない。
理論はわかっても、体が追いつかない部分がある。
その代わりに「捌」は、思ったより早く熟練してきた。
ルーデウスみたいに無詠唱で放てるようになり、反応速度は格段に上がった。
相手の動きを見ながら即座に斬撃を描けるのは、戦闘での安心感に直結する。
そして、想定外の発見もあった。
宿儺にすらできないような斬撃を放てるのだ。
それは、触れている対象の「どこからでも」斬撃を発生させられるということだ。
通常「捌」は、触れた場所からしか斬撃を放てない。
宿儺が頭に触れているなら、斬撃は頭から形成される。
だが、俺の「捌」は違った。
触点が頭でも、腹を貫く軌跡を描いたり、
指を切り落とすような角度の斬撃を放てるのだ。
最初にこれを成功させた瞬間の、宿儺の反応は今でも鮮明に覚えている。
宿儺の声が、一瞬途切れたのだ。
ほんの数秒の沈黙。いつも俺をからかうその余裕が、一瞬だけ消えたのだ。
当然、仕返しのチャンスだと思った。
いつもおちょくられている俺が、ようやく一矢報いる瞬間。
だが――宿儺は一週間、完全にフルシカトを貫いた。
まるで、存在そのものを消したかのように沈黙していた。
最初の二日は気まずくなり、三日目にはさすがに少し寂しくなった。
けれど、その頃には理由が分かった気がした。
宿儺の事だ、沈黙の裏では理屈を考えているに違いない。
俺はその間、何も言わず修行を続けた。
宿儺が何を考えているのか知る必要もなかった。
そして一週間後、俺が寝ようと布団に入った時、ようやく宿儺が口を開いた。
『……小僧が阿呆だからできたのだ』
最初は何のことか分からなかった。
だが、すぐに「捌」のことだと察した。
俺が問い返すと、宿儺はため息混じりに答えた。
『小僧は対象のすべてを、同じものとして認識している。だからこそ、触れている対象全体を、曖昧に――ひとつの形として捉えている。その結果、触れた対象のどこからでも斬撃を放てるのだ』
どうやら、俺の感覚が「雑すぎる」ことが原因だったらしい。
宿儺のように明確な境界や構造を認識していないから、
逆に全体を「ぼやけた存在」として扱っている。
俺の中では、確かにそんな感覚がある。
対象に触れ、対象そのもの一つの物体のように捉える。
そこから、好きな場所に斬撃を描ける。
それが、俺の「捌」だ。
宿儺はその理屈を語りながらも、どこか不機嫌そうだった。
俺が理解しきれない何かを、宿儺は内側で感じ取っているのかもしれない。
あの宿儺が、自分にできないことを見せられたのだから、当然か。
それでも、彼は最後に小さく笑った気がした。
『阿呆だからできた』
その言葉は侮辱のようでいて、どこか賞賛にも聞こえた。
理屈を超えたものを前にしても、
最後には笑ってみせるあたり、やっぱり宿儺らしい。
下手におちょくり返して機嫌を損ねるのも面倒だし、
その日は大人しくしておくことにした。
……ただ、その判断が裏目に出たのは、翌日だった。
宿儺が不意に。
『呪力供給の量を一段上げるぞ』
一段上、という言葉の軽さに騙されたのは一瞬だった。
実際は、一段上どころではなかった。
まるで天地が逆転するような呪力の圧が、体内を逆流する。
血が沸騰し、骨が軋むような感覚。
『理解できぬなら、感覚で覚えろ。阿呆なりにな』
どうやら、昨日の笑みは機嫌が良かったわけではなかったらしい。
俺は心の中で苦笑いを浮かべながら、黙ってその地獄を受け入れた。