気づけば、俺はそこに立っていた。
頭上には天井すらなく、代わりに骨で編まれた巨大なアーチが空を塞いでいる。
足元には、数えきれない骸骨の山。
たまに訪れる宿儺の生得領域だ。
その中央――骨の玉座に、宿儺が座していた。
『滑稽だな、小僧』
「宿儺……俺、どうすればいいかな……」
返事はない。
骨の軋む音だけが響く。
いつもなら皮肉の一つでも返してくるくせに。
「こっから……アイシャを連れて逃げるには、どうしたらいいかな?」
『人間は――自己に甘い生き物だ』
「……確かにそうだけどさ。このままだと、殺されるんだよ」
『それだ。そのことを言っている』
「なにがだよ……!」
声が震える。焦りが喉を詰まらせる。
何を言いたいのか分からない。
分かりたくもない。
『なぜ俺に助けを求める? “俺を退屈させない”のではなかったのか?』
その言葉が胸に突き刺さる。
あの時、自分で言った言葉だ。
「退屈させない」と。
なのに、いざ目の前に死が迫った途端、
俺は逃げ道を探している。
「い、今する話じゃないだろ!? 俺は……」
『それになぜ逃げようとしている?』
「殺されるからだよ!!」
叫ぶように答える。
自分でも滑稽だと思う。
だが、もう何も隠せなかった。
怖いものは怖い。
『小僧は言ったな。あの魔王を倒す、と。それがなぜ、逃げるという言葉にすり替わっている? 殺されるからだと? 殺されることなど、最初から言われていたことだろう』
言葉が喉の奥で止まった。
何も返せない。
宿儺の声が、さらに低く沈む。
『自分だけは死なないとでも思っているのか?』
……そうだよ。
俺は自分は死なないと思ってたんだ。
どこかで、根拠もなく信じてた。
死んで生まれ変わって心機一転!
俺はこの物語の主人公で、どんな困難も、
最後には笑って乗り越えるんだって。
そんな甘い幻想を、
心の奥でずっと抱えていた。
死ぬ覚悟どころか、死ぬ可能性すら頭に入れてなかった。
馬鹿みたいだ。
何の力も確証もないくせに。
この先、全部うまくいくなんて、
どうして信じられたんだろう。
『小僧には決定的に足りていないものがある』
「足りないもの……?」
『ああ。力でも才でもない。そんなものは後からいくらでも埋められる。お前に足りんのは“目標”だ』
目標。あまりにも単純な言葉だった。
でも、その響きが妙に俺に刺さった。
まるで、自分がずっと避けてきたものを突然突きつけられたようで、
心がざわめいた。
「目標なら……言っただろ? 俺は“満足して死にたい”って――」
『満足して死にたいだと?』
宿儺の唇が、わずかに歪む。
それは笑いでも、怒りでもなく、呆れに近かった。
『小僧のそれはただの願望にすぎん。目標とはそんな曖昧なものではない“どう死にたいか”ではなく“どう生きたいか”を定めるものだ』
ぐっと喉が詰まる。何か言い返したくても、言葉が出ない。
『前にも言ったな。進む道を決めた人間は強いと。小僧には、その道が曖昧なのだ。何を成すために歩くのか、自分でもわかっていない。だからこそ、その信念がいかに本気であろうとも、いとも容易く折れるのだ』
その瞳は退屈そうに俺を見下ろしていた。
それは怒りでも呆れでもない、
ただ、どうしようもなく興味を失った目だった。
退屈そうな、空っぽの視線。見覚えがある。
あれは、前世で何度も見てきた、失望の目だ。
けれど今のそれは、比にならなかった。
宿儺の期待に応えられなかった。
ただその事実が、体の芯を凍らせる。
前の世界で感じた失望なんて、安いものだった。
どうでもいい奴の期待なんて、笑って流せた。
けれど、自分が認められたいと思った相手に、憧れた相手に、
見限られる怖さは、その何百倍も重いのだと知った。
沈黙が、永遠のように続いた。
宿儺はしばらく俺を見下ろしていたが、やがて、深く息を吐いた。
『……せめてもの縁だ。俺の呪力は好きに使わせてやる。あとは小僧の好きにしろ』
その言葉に、頭の奥が真っ白になった。
紅い瞳が、もう一度だけ俺を見下ろす。
その視線には、怒りも、興味も、何もなかった。
『小僧――俺は、がっかりした』
その言葉が落ちた瞬間、何かが崩れた。
胸の奥にあった熱が一気に冷え、世界が遠ざかっていく。
鼓動の音も、息の音も、何もかもが薄れていく。
そんな俺のことなどお構いなしに、激痛が全身を駆け抜けた。
意識の底から一気に引きずり上げられるような感覚に、喉から息が漏れた。
目を開けると、そこはもう現実だった。
冷たい石の床。そして、響く怒号。
「なんだぁ! 貴様はこの程度なのか!?」
アトーフェの耳をつんざくような声が響く。
その顔には怒りではなく、露骨な失望の色が浮かんでいた。
紅い瞳が、興味を失ったように細められている。
その表情を見ても、何も感じなかった。
心が、何も動かなかった。
もうどうでもいい――そう思った。
宿儺に失望され、今度は魔王に見下ろされ。
自分が何のために剣を握っていたのかさえ、思い出せなかった。
―――宿儺視点―――
始めは、ただの気まぐれだった。
あの虚無のような空間で、なぜかそいつはそこにいた。
偶然か、必然か。そんなものはどうでもいい。
ただ目の前にいたから、話しかけてやった。
そいつの話を俺は下らないと思った。
夢も理想も、薄っぺらい。
だが、理解はできた。
“変わりたい”という意志だけは、確かにあった。
ただ、力が足りず、身の丈に合っていないだけだ。
ちょうどその頃、俺は退屈だった。
長すぎる生の中で、初めてそう思った。
殺すこと、壊すこと、奪うことに飽きていた。
なぜか、その時の俺は思った。
こいつについていけば、
何か“新しいもの”が見られるのではないかと。
そして、その予感は的中した。
元の世界とは別の世界、呪いも、術も、存在しない異世界。
秩序も価値観も違うこの場所で、
こいつがどう生き、どう足掻くのか俺は興味を持った。
しかし、それだけだった。
興味はあれど、情などない。
暇を潰すには、ちょうどいい存在だった。
俺はこいつを育てることにした。
そう、教師の真似事だ。
五条悟。
あの男が生前にしていたことだ。
なぜ、あれほどの強者が他者に期待する?
なぜ、己の時間を誰かの成長に費やす?
だが、これも理解はできる。
誰かに期待し、その誰かが実際に何かをやって魅せる。
それは、確かに面白い。
そう――最初は、ただの気まぐれだったのだ。
だから、そこまで力を入れていたわけではない。
どうせそのうち飽きる。
人間の成長など、見飽きた茶番の一つにすぎんと、
俺自身が思っていた。
だが、その考えが変わったのは、つい最近のことだ。
あの日、小僧が見せた『捌』は、俺の知るそれとは違っていた。
同じ御廚子でありながら、小僧は自分の理解で再構築していた。
しかも驚くべきことに、明確に俺のそれを凌駕していた。
大して興味も期待もしていない小僧が、
俺の期待以上のことをやって魅せたのだ。
今まで生きていて、感じたことのない熱が体を巡った。
「愉快だ」と思った。
「もっと見てみたい」と心のどこかで呟いた。
人は、自分以外の他人に“自分”を保管させ、
他人以外の何者かに変化させる。
家族、友人、恋人、このあたりか。
そうしてしまうから、
その人間の一挙一動に、知らず知らず影響を受ける。
他者の心に入る方法は二つしかない。
一つは、相手の興味を引き、許可を得ること。
もう一つは、相手と同等、あるいはそれ以上の力を持ち、
力ずくで踏み込むことだ。
虎杖悠仁は、後者だ。
だが、虎杖悠仁が俺と同等なわけではない、
ただ意思の強さのみで俺と並んでしまった。
身の丈に合わない理想を、意思の強さで押し通し、
それによって無理やり俺の心へ侵入してきた。
俺は、それがどうしようもなく不愉快だった。
だが小僧は違った、
ほんの一部ではあるが、俺を超えるものを魅せ、
興味を持たせ、俺の心に入って来た。
そうして俺は小僧に影響を受けてしまったのだ。
そして満たされたと感じたのだ、この俺が。
そして、その影響を虎杖悠仁の時とは違い、面白いと感じてしまった。
小僧の言う「俺を退屈させない」という理想は、
明らかに小僧の身の丈に合っていない。
だが――出来るかもしれないと思ってしまった。
その日からだ。
俺は小僧に、期待し続けようと思った。
何があっても、どんな運命が待っていようとも、
この小僧がどこまで伸びるのかを、見届けてみたくなった。
小僧には、天賦の才がある。
それはこの世界に来て数年で気づいた疑いようのない事実だった。
肉体、感覚、適応力、成長速度。
どれを取っても、最初から“器”が違う。
生まれつき強者の器を持つ存在だと。
だが、どうにも噛み合わなかった。
本来、天賦の才を持つ者の成長の仕方ではない。
すべてが才能の器と釣り合っていなかった。
鍵穴と鍵が別物のような違和感。
その違和感の正体は、すぐにわかった。
原因は、転生による不具合だ。
転生によって、天賦の才を持つ肉体に、
小僧の“凡才の思考”が入り込んだ。
魂と器の不一致。
それがすべての原因だろう。
だから俺は興味を持った。
この体に入るはずの魂などどうでもよかった。
むしろ弱者の思考は、天賦の才を持つ器を、どこまで引き出せるのか。
その一点に、純粋な好奇心を覚えた。
だから――
『――わざわざこんな芝居まで打ったのだ』
小僧は弱者だ、肉体には天賦の才が宿っているが、
その思考は明らかに弱者のそれだ。
しかし、弱者がどうすれば成長できるのか。
それは、すでに理解していた。
虎杖悠仁を見て、嫌というほど思い知らされた。
奴は何度も絶望を喰らい、そのたびに立ち上がった。
強さとは、喪失を知った者が手にするものだ。
俺は閃いた。
同じ状況を、小僧にも作ってやろうと。
大切なものを失う恐怖を知れば、人は変わる。
壊れた心は、新しい形を得て再生する。
弱者が弱者のまま高みへと至る道は、それしかない。
だが、前世の小僧には、それがなかった。
失うものも、守るものもなかった。
故に、失う恐怖も知らなかった。
痛みを避けるように、現実から目を逸らし続けて生きていた。
……だから、わざわざ“期待”という名の餌を与え、
そして失わせ、飢えを教えた。
俺からの信頼を、自分の手で壊すという経験をさせたのだ。
信頼を失う痛み、見放される恐怖は、あればあるほどいい。
人は絶望の中で初めて、自分の価値を問う。
転移、小僧を俺の手元から離す、いい理由になった。
もう手を引く時期だ。この先は、自分の足で歩かせる。
『俺と一緒に、本気をだすなどという腑抜けた思考ではダメなのだ』
俺にも、この世界の魔力を使ってやりたいことがある。
ヒトガミとかいう神気取りの存在も気になるしな。
長く縛りつく気も、育ての親を気取る気もない。
だが、その片手間に、見ていてやるのも悪くない。
小僧が本当に折れるのか、それとも俺の期待に応えてくれるのか。
『――期待しているぞ、小僧』