体が動かない。
いや、動かす気力がなかった。
宿儺に見限られた。
その事実が、頭の中で何度も反響して、
思考のすべてを塗り潰していた。
「おい、立て」
その声にも、もう何も感じなかった。
俺が動かないのを見て、アトーフェはゆっくりと歩み寄る。
剣は手にしているのに、刃を向けようともしない。
拳が振るわれた。頬が砕けるような衝撃。
立つ間もなく、二撃目が腹にめり込む。
空気が抜け、膝が勝手に落ちた。
痛い。それでも、死ねない。
アトーフェは、俺をわざと殺さないように殴っている。
「もう、いいんだ……早く……殺してくれよ」
自分の声が、自分のものに聞こえなかった。
アトーフェが、俺を見下ろしている。
紅い瞳は、怒りでも敵意でもなく……退屈。
ただ、退屈そうに。
「……貴様も、勇者ではなかったか」
アトーフェは剣を構える。
今度こそ終わりだ。
鋭い金属音が響き、刃が空気を裂く。
――ああ、これでいい。
そう思った瞬間だった。
「お兄ちゃん!!!」
その声が響いた瞬間、体が勝手に動いた。
考えるよりも先に、目の前で振り下ろされる刃を、反射的に避ける。
だが、遅かった。
鋭い痛みが左腕を貫いた。
切断まではいかないが、
肉が裂け、血が勢いよく噴き出す。
ちぎれかけた腕が、ぶらりと垂れ下がった。
「――ッ、がああああっ!」
痛い。ただ痛い。
生きることを諦め、
死を受け入れたときには、、
もう感じなくなっていたはずの痛みが、
今になって取り戻したように、全身を駆け巡る。
アトーフェが一歩、俺の前に立つ。
「……なぜよけた? 当たっていれば、貴様の思い通りに死ねたはずだ」
そうだ。なぜ、避けた?
あと少しで楽になれたのに。
自分でも分からない。震える手を押さえながら、息を吸う。
……怖い。
死ぬのが、怖い。生きるのも、怖い。
どちらも選べないまま、俺はただ立ち尽くしていた。
檻の中でアイシャが立ち上がっていた。
小さな手で鉄格子を掴み、全身を震わせている。
涙で濡れた頬。
それでも、まっすぐに俺を見ていた。
そして、その目は――俺に期待していた。
恐怖に震えながらも、俺を信じようとしている。
アイシャの視線が、命綱のように俺を繋ぎ止めていた。
その瞬間、死の恐怖を、別の恐怖が上書きしていく。
宿儺に見限られたときの、あの冷たい痛みが蘇る。
あの目を、あの想いを、裏切るのが怖かった。
失うのが怖かった。
それは、確かに恐怖だった。
だが不思議と――体は動いた。
こわばるどころか、むしろ熱が走る。
今の俺は、誰がどう見たって死ぬ寸前だ。
血を流しすぎて、片腕はほとんど使えない。
立っているのも奇跡みたいなもんだ。
だが、そんな俺にアイシャは、まだ期待している。
頼る人が、他にいないだけかもしれない。
必死にしがみつくように、俺を見ているのかもしれない。
それでも、いい。
シルフィのように無詠唱とはいかないが、
詠唱の一部を省略する程度ならできる。
魔力を指先に集中させ、傷口に触れる。
ちぎれかけた左腕が、ゆっくりと、神経の糸で縫い合わされていく。
アトーフェが、剣を肩に担いだまま、
眉をわずかに上げ、鼻で笑う。
「……なんだ、まだやるのか?」
「ああ……俺は死ぬとしてもアイシャだけは、助けないとだからな……」
その言葉を口にした瞬間、
心の奥でうっすらと何かが定まった気がした。
宿儺の言葉が脳裏をよぎる――目標。
俺に足りなかったもの。
とってつけたようなものかもしれない。
だが、何も持たないよりはましだ。
「……『鵺』」
羽ばたきと共に電流が弾け、青白い光が走る。
鵺が鳴き声を上げてアトーフェへと突撃する。
「フンッ! そんなもので――」
言いかけたアトーフェの身体が、電流で一瞬だけ硬直した。
そのわずかな隙を逃さず、俺は踏み込む。
視界がぶれるほどの速さで、剣を振り抜いた。
狙いは首筋。
剣は確かに当たった。
だが、切れない。首に当たった瞬間、弾かれた。
金属のように硬い感触。
「チッ! ……闘気か」
「オラァ!」
電撃の痺れが切れ、アトーフェが反撃し、剣を振るう。
「『蝦蟇』」
地面から伸びた巨大な舌が、俺の胴を包み込む。
そのまま後ろ引かれ、アトーフェの一撃を紙一重で回避した。
「ほう……なぜかは知らんが、戦う気になったようだな!」
アトーフェが笑った。
怒鳴るでもなく、嘲るでもなく純粋に愉快そうに。
「勝てぬと分かっていながら挑む! いいぞ、勇者ではないが……親衛隊に入れてやってもいいかもしれん」
……それもいいかもな。
そんな考えが、ほんの一瞬、脳裏をよぎった。
そして、自分でも気づかないうちに、
わずかに口角が上がっていた。
気づいた瞬間、吐き気がした。
何考えてんだ、俺は。
そんなことだから、宿儺に見限られるのだ。
「……冗談じゃない」
俺は吐き捨てるように言った。
「ならば! その意地貫き通してみせろ!」
俺は息を吸い、考えを一つに絞る。
――アイシャを連れて、逃げる。それだけだ。
「……『玉犬』」
影が波打ち、黒と白、二匹の獣が姿を現す。
牙をむき出しにしてアトーフェの足元へ突っ込み、左右から噛みついた。
「フハハッ! 犬っころ風情が、このオレに牙を立てるか!」
玉犬が噛み付くが、アトーフェの闘気は岩よりも硬く、
文字どおり、歯が立たない。
それでも、動きを止めるには十分だ。
アトーフェを足止めしている隙に駆け抜ける。
アイシャのいる檻へ――玉座の前にある階段を上ればすぐだ。
「っ……はぁ、はぁ……!」
息が切れる。体の奥で、焼けるような痛みが続く。
それでも足を止めない。
アトーフェが玉犬を振りほどき、向かってくる。
「『大蛇』」
影の中から『大蛇』が飛び出し、アトーフェに食らいつこうとするが。
剣を振るわれ、『大蛇』は弾け飛んで影になって消える。
だが、それでもいい。少しでも時間を稼げれば。
「いいぞ……このまま……」
「この程度じゃあ、俺は止まらねぇ!!」
「……っ、『脱兎』!」
「さっきから、奇妙な技ばかり使うなぁ貴様は! もしや神子か?」
影が裂け、雪崩のように無数の兎が床を駆けた。
音を立てて弾けるように跳ね、
脱兎はアトーフェに向かって雪崩のように押し寄せる。
俺はその雪崩を背に、アイシャへと駆けた。
距離はあとわずか。
鉄格子の向こう、泣き腫らしたアイシャの目が見える。
「お兄ちゃんっ!」
「待ってろ!」
腕を伸ばす。あと数歩。あと少し――
「だが!! 甘ぁい!!」
アトーフェが突っ込んできた。
脱兎たちをものともせず、
まるで本能で道を読んだように一直線に俺へ向かったのだ。
避ける暇もなかった。
「な――っ!」
重い衝撃。視界が反転する。
何かが砕け、地面を転がった。
息ができない。体が言うことを聞かない。
床に叩きつけられた俺の目の前でアトーフェが立っていた。
アトーフェは、喜んでいた。
「いい目をしてきたな、貴様。勇者ではなかったが……戦士ではあったようだな」
俺は床に倒れたまま、その言葉を聞いていた。
息をするたび、肺の奥が焼けるように痛む。
アトーフェが剣を構え直し、目を細める。
「カイン・アルネス……貴様の名前、覚えておこう」
アトーフェは、ゆっくりと剣を持ち上げる。
刀身が光を反射し、赤い炎のように輝いた。
薄れていく意識の中で、遠くから声が聞こえた。
「やめてぇぇッ!!!」
アイシャの声だ。必死で鉄格子を叩きながら、泣き叫んでいる。
それでもアトーフェは止まらない。
彼女の影が、ゆっくりと俺の上に伸びていく。
――が、突然、別の声が割り込んだ。
「話が違いますぞ、アトーフェ様!」
低く、焦りを帯びていた。俺は目だけを動かし、その方向を見た。
声の主は、俺によくしてくれた親衛隊の隊長、ムーアだった。
「アトーフェ様が気に入ったら、殺さずに親衛隊にするという約束だったはずです!」
「うるっせぇ! こいつはさっき、それを断った! 戦士なら一度決めたことは貫き通すもんだろうが!!」
「はぁ……はぁ……そう、だよな」
一度決めたことは、貫き通さないとだよな。
アイシャを助けて、アトーフェから逃げる。
宿儺にも言われたじゃないか。
進む道を決めた人間は強い、って。
(頼ってばっかで悪いな、宿儺……)
俺はゆっくりと目を閉じ、内側へ意識を沈めた。
そこには、未だに残っている宿儺の呪力があった。
それを手繰る。掴む。引きずり出す。
俺が宿儺の呪力供給を制御できるのは、せいぜい四割程度。
だが――今は関係ない。
(……全部、使わせてもらうぞ)
心の奥でそう呟いた瞬間、世界が裏返るような熱が走った。
内側から血が沸騰するような圧が、筋肉を、神経を、骨を焼く。
全身の筋肉が悲鳴を上げているのに、力が溢れて止まらない。
呪力が制御できずに暴れている。
(今はただ、アトーフェをぶっ飛ばすことだけを考えろ)
暴れる呪力を拳に集める。
骨が軋み、皮膚の下で血管が爆ぜる。
痛みも恐怖も、熱に溶かされて消えていく。
視線を上げると、アトーフェはまだムーアと向かい合っていた。
意識は俺から逸れている。
完全に油断している。今しかない。
「一発入れる」と、自分にそう言い聞かせる。
たった一発で倒せるとは思っていない。
だが、やめる理由にもならない。
膝を沈める。腹に力を込める。
抑えきれない呪力が溢れ出し、拳の周囲で空気が歪む。
そのまま立ち上がり、
油断しているアトーフェに全力の拳をぶち込む。
――――その時、拳から黒い火花が走った。
錆びた夜のような黒い閃きが拳を伝い、空気ごと裂けた。
拳はみぞおちに喰い込み、
アトーフェの体が一気に後方へ吹き飛んだ。
鎧が裂け、火花が舞う。
俺は何が起きたのか分からなかった。
ただ、殴った瞬間――世界が、静まり返ったように感じた。
胸の奥がざわつく。何かが、確かに違った。
拳を振るった後も、体の中で呪力が暴れない。
さっきまで暴走していたはずの力が、
まるで呼吸するように自然に流れている。
指先ひとつ、意識を向けるだけで呪力がついてくる。
まるでずっと昔からこれを使っていたみたいに。
研ぎ澄まされていく感覚。
視界がくっきりと浮かび上がる。
全能感――そんな言葉が頭をよぎった。
こんな感覚は、久しぶりだ……
「ん? 久しぶり……?」
俺の思考をよそに、
目の前で、アトーフェが壁を砕いて立ち上がる。
砕けた石片が音を立てて落ちる中、
アトーフェは口角を吊り上げた。
「なんだ今のは!」
アトーフェの怒声が響く。
だが、俺の耳にはもう届かない。
頭の中で何かが静かに回り始めていた。
全能感――それは確かにあった。
だが同時に、胸の奥が空洞のように感じる。
何かが欠けている。
感覚が研ぎ澄まされればされるほど、
逆にその「穴」がはっきりと見えてくる。
足りない。
この状態でも、まだ“届かない”何かがある。
体は完璧に動く。呪力の流れも理想通り。
なのに、どこか……核心に触れられない。
(なんだ……この違和感……)
今まで、自分のことなんてどうでもよかった。
強くなれればそれでよかった。
でも今は違う。
初めて俺は俺という存在に興味を持った。
「おもしろいッ!! 何度倒れても立ち、そのたびに強くなる! 俺は知りたくなったぞ! お前がどこまで強くなれるのかをな!!」
アトーフェが床を蹴る。
砕けた石が跳ね上がり、赤黒い残光を残して巨体が迫る。
剣が振るわれる。空気が裂け、衝撃波が床を抉った。
アトーフェの力任せの剣なら、
軌道を読めば避けられるそう踏んでいた。
だが、体が勝手に反応する。
皮膚の下がざわつくような危険信号。
考えるよりも先に、体が横へ滑った。
刃が頬をかすめ、髪が宙に舞う。
アトーフェの目が見開かれた。
「今のをよけるか!!」
……さっきまでの戦いは遊びだったってことか。
今の一太刀。あれは、明確に剣術だった。
流れるような動き、無駄のない踏み込み。
北神流か。それもかなり高いレベル。
視線の端で、自分の落とした剣が見えた。
拾って戦うこともできる。けどそれじゃあ意味がない。
今の俺が必要なのはあの打撃だ。
「『鵺』」
『鵺』に体当たりを命じる。
紫電を撒き散らしてアトーフェに突っ込んでいく。
「何度も同じ手が通じるオレではないぞ!!」
アトーフェの拳が、鵺を上から叩く。
床に叩きつけられた鵺は、ギリギリで形を保っている。
アトーフェは痺れているが明らかにさっきよりも効きが悪い。
無理だったか……そう思った。
しかし、それ以上に、
もう一度あの一撃を決めたかった。
初めてなんだ。
俺が、俺自身に期待したのは。
あれをもう一度出せば、たどり着ける気がする。
俺という……人間の本質に。
そのためだったら……
呪力を拳に込め、アトーフェへ走る。
床が砕け、空気が震えた。
「おそいわぁっ!!」
──左腕を切り落とされた。
金属の冷たさと同時に、断絶するような、
生々しい痛みが腕を走った。
血が吹き出し、世界が暗くなりかける。
叫びを上げそうになるのを堪えて、
俺はただその刃と視線を見据えた。
アトーフェは勝ち誇ったように笑った。
「とったぁ!!!」
左腕を切った剣をそのまま反転させ、
アトーフェは、トドメの構えを取る。
同時に、俺の口から小さな声が漏れた。
「……とった」
その一言を言い終えるか終えないかの瞬間、
アトーフェの足元で黒い影が生まれた。
踏み込みが、影に沈む。
アトーフェの足が、影に飲み込まれる。
重心が奪われ、床を蹴る力が一瞬で吸い取られたように感じたのか、
踏み込みはそのまま影の中に沈んでいった。
アトーフェの体が、よろめき、
剣が、空を斬る。
残った右の拳に、全てを込める。
左腕に残る痛みを脳裏の隅に追いやり、足に力を沈める。
息を吸って、吐いて、視界がギリギリまで濃縮される。
周りの音が遠ざかり、心臓の鼓動だけが太鼓のように響いた。
さっきの感覚だ、あの違和感がまた来る。
指先から小さな電流が走るような感覚。
体勢を崩したアトーフェの顔面を目がけて拳を振り抜く。
――――再び黒い火花が散った。
世界が一瞬だけ白く光る。
音が割れ、空気が裂け、アトーフェの体が吹き飛んだ。
俺はその光景を、ただ見ていた。
拳の痺れと、胸の奥の熱だけを感じながら。
火花が散った瞬間、俺は確かに掴んだ。
俺の……本質を。
「……そうか、俺はずっと……怒ってたんだ」