俺とアイシャは、鵺の足にぶら下がりながら、崩れた城の外壁を越え、
周囲の町を見下ろしていた。
そして、冷静になると気づく。
さっきの俺、
ちょっと……いや、かなりどうかしてた。
世界が祝福してるだの、全能感だの、勝利のイメージだの。
……なんだあれ。
中二病こじらせた詩人か?
恥ずかしさが、遅れて全力で俺を殴ってきた。
よし。
あの時のことは忘れよう。
なかった。存在しない。
宇宙の彼方へ封印だ。
そう自分に言い聞かせ、
俺はぐっと気持ちを切り替えてから、アイシャへ視線を向けた。
「アイシャ……大丈夫だったか? 痛いところとか、ないか?」
「ううん……平気。でも……お兄ちゃん、体……血が……」
俺は一瞬だけ、自分の服に目をやった。
裂けた布の下から、赤黒い血が乾ききらず滲んでいる。
けど、反転術式で止めてるから問題ない。
「これくらい、平気だ」
アイシャの小さな肩は、少しだけ震えていた。
「ごめんな、アイシャ」
その言葉が、喉の奥から自然に漏れた。
あの瞬間、俺は全部を投げ出して終わろうとしていた。
宿儺にも、アトーフェにも、そして何より、アイシャにも背を向けて。
まだアイシャがいたのに。
まだ守るべきものがあったのに。
それでも、あの瞬間、俺は“どうでもいい”なんて思ってしまった。
けど、あの時、アイシャの声が俺を引き戻してくれた。
あの震えた叫びがなければ、今の俺はいなかっただろう。
アイシャは申し訳なさそうな顔で俺を見上げる。
「私も……」
アイシャが何かを言おうとした瞬間――
「ぐええええぇ……」
鵺が、ものすごく苦しそうな声を上げた。
「えっ!? ど、どうしたんだ、鵺!?」
みるみるうちに高度が下がっていく。
嫌な汗が頬を伝った。
「ま、まさか……重かったのか……?」
その言葉に、アイシャが目をぱちぱちさせたあと、
無言で抱きつく腕に力を込めた。
怖がっているというより、何かを察したような顔だった。
鵺が最後に情けない声を上げ――落下した。
空気が裂け、地面が近づく。
俺はアイシャを抱きかかえ、反射的に脚に呪力を流した。
ドンッ――
――という衝撃と共に、砂煙が舞う。
地面に着地し、ひざに重みが響く。
「っ……ジーンとするな……」
腕の中のアイシャは無事だ。俺は地面に尻をついて息を吐く。
その隣で、鵺がぐったりと地面に転がっていた。
「次からは……もう少し出力上げて、大きく作るか……無理させたな『鵺』」
そんな反省を口にしつつ、俺は『鵺』影に帰し、
城のあちこちに散らばっている『脱兎』と視界を共有する。
崩れた城壁。瓦礫の山。
その中央で、魔虚羅がアトーフェと剣を交えている。
……凄まじいな。
ちょくちょく監視はしていたが、
北神流そのものに“適応”したってことでいいのか?
いや、今はそんなことを気にしている暇はない。
「急がないと、アトーフェの次は俺だからな……」
調伏が終わっていない今、あれはただのキリングマシーンだ。
視界を戻すと、
すぐそばで、アイシャが不安そうにこちらを見ていた。
「アイシャ、あの岩陰に隠れててくれ」
「う、うん」
アイシャが小走りで岩陰へ向かうのを確認して、
俺は手影絵を作る。
「頼むからできてくれよ、二体同時調伏……『円鹿』」
ずるり、と影の中から現れたのは、鹿。
……目がちょっと多いのと、ガタイがいいこと以外はほとんど普通の鹿だ。
よし。魔虚羅を調伏の儀に呼んでるから無理かと思ったが、いけた。
次の瞬間、
円鹿が地面を蹴って、一直線に俺へ突進してくる。
手を振りぬく。
「『解』」
空間を裂く斬撃が、円鹿の前脚を正確に断ち落とした。
バランスを失って地面に崩れる円鹿へ、一気に距離を詰める。
頭に手を置く。
「悪いな。本当はもっとちゃんと調伏したかったんだが……『捌』」
内側からの斬撃が走り、
円鹿の身体は音もなく分解された。
肉片は地面に落ち、そのまま、影の中へと静かに溶けていく。
「調伏したてで式神使いが荒いが……早速出番だぞ『円鹿』」
再び影が揺らぎ、
さっきと同じ鹿が、何事もなかったかのように姿を現した。
……あとは、タイミングだな。
「お兄ちゃん! もういい?」
岩陰からアイシャの声が飛んでくる。
「まだだ! あとちょっとだけそこにいてくれ。出来れば俺の方を見ないでくれると助かる!」
「わかった!」
素直すぎる返事に、少しだけ胸が軽くなる。
今からやることは、子供には刺激が強いからな。
切断された腕とか見られてたから、今さらな気もするけど……
俺は再び意識を切り替え、『脱兎』の視界へと潜り込む。
魔虚羅は、すでにアトーフェの“再生”に適応していた。
斬られた箇所が塞がっていない。
最初に期待していたのは、この適応。
再生能力を“再生不能”へと追い込むことだったが、
まさか北神流に適応するとは、思ってもみなかった。
そんなことを考えていると、
脱兎の視界の中で、アトーフェが首を落とされそうになっていた。
視界を現実へ引き戻す。
すぐ目の前に、静かに佇む円鹿。
「『円鹿』マジで頼むぞ……心臓が止まった瞬間だからな」
タイミングは一度きり。
剣を握る手が震える。
覚悟を決めても、怖いものは怖いし、
痛いものは、やっぱり痛い。
それでも――今は、我慢だ。
俺は息を一つ吐き、
自分の胸へと剣を突き立て、深く刺した。
鉄が皮膚を裂き、肋骨の間を押し広げ、
内臓の奥へと侵入してくる。
熱い。鋭い。痛い。
鈍い衝撃と、焼けつくような痛みが、胸の内側で弾けた。
空気が、一気に肺から抜け落ちる。
喉が引きつり、視界が白くにじむ。
「ゴフッ……」
血が喉を焼き、
口の端からこぼれ落ちる。
指の感覚が消え、
視界が暗く沈んでいく。
―――
「っ……!」
意識が、唐突に引き戻された。
次の瞬間、肺が空気を貪る。
生きている感覚が、ゆっくりと全身に戻ってきた。
「はあ、はあ、はあ……!」
胸を押さえる。
心臓は――動いている。強く、確かに。
服に視線を落とすと、胸元が大きく裂けている。
だが、皮膚の下にあるはずの傷は、どこにもなかった。
「服……脱げばよかったかな」
思わずそんなことを呟いてから、術式に意識を向ける。
魔虚羅の気配も調伏の儀の感覚も……ない。
「……成功ってことで、いいのか?」
すぐに意識を切り替え、『脱兎』の視界を共有する。
そこに、魔虚羅はいなかった。
中央に倒れているのは、アトーフェ。
生きているな……
魔虚羅の調伏の儀が終わっているのを鑑みて、
アトーフェは、一度死んだと考えていいだろう。
なら、なぜ生きている?
魔虚羅が消えたことで、適応の効果も消えたのか?
いや、考えても分からないことを考えるだけ無駄だな。
目的は達成できた……よな?
死ななかったとはいえ三度も首を落としたんだから、
さすがに俺の勝ちでいいだろう。
出来れば不安の種は潰しておきたかったのだが、
追ってくる気配もないし、大丈夫か。
そう思うと、今までの疲れがどっと来た。
「ふぅー……ありがとな『円鹿』」
心からそう言って、円鹿を影へと帰した。
……正直、分の悪すぎる賭けだった。
調伏の儀は、式神を調伏するか、
あるいはその儀式の参加者が全員死ぬか。
そのどちらかでしか終われない。
だから、アトーフェが死ぬ瞬間に、
俺も心臓を止める。
そうすることで、調伏の儀の参加者を全員死んだという判定にし、
調伏の儀を正式に終わらせてから、
止まった心臓を『円鹿』で治してもらったわけだが。
いかんせん、不確定要素が多すぎたな。
二体同時調伏、アトーフェの死、調伏の儀側の「死」の判定……
挙げればきりがない。
というか、冷静に考えれば、
調伏の儀をアトーフェまで巻き込む必要は、
なかったかもしれない。
俺一人でやっていれば、
心臓を止めるタイミングも、
全部こちらで指定できたし……
……いや、それだと、
俺だけにヘイトが向いていた可能性があるな。
アトーフェが同じ儀式の参加者だったから、
アトーフェにもヘイトが向かっていたのかもしれない。
「まあ……なんにせよ、結果オーライだ」
そう呟いて、俺は岩陰の方へと向かった。
あそこだ。
しゃがみ込んで、両手で目を覆い、
じっと動かずに待っている影が見えた。
……律儀だな。
俺の足音に気づいたのか、
アイシャが、そっとこちらを向く。
「……終わった?」
「ああ」
それだけで、アイシャはほっと息を吐いた。
……あれ。
何があったのか、どうなったのか、
いつものアイシャなら、真っ先に聞いてきそうなものだ。
だが、今日は聞かない。
覗いていた様子もない。
本当に、言われた通り目を伏せて待っていたらしい。
……疲れてるのかもな。
まあ、そりゃそうか。ここまでのことがあって、
平気なわけがない。
周囲の気配を確認しながら、俺は言った。
「アイシャ、行くぞ」
アイシャはこくりと頷き、
すっと立ち上がった。
俺は手影絵を作り、
呪力を練り上げると、黒い波紋が静かに広がる。
「『玉犬』」
影から現れたのは、いつもよりも大きな玉犬だった。
漆黒の毛並みが風を切り、地を踏むたびに低く唸る。
その体は人を軽々と乗せられるほどに大きい。
「行けるか?」
玉犬が低く鳴く。俺はアイシャを前に乗せ、
自分もその背にまたがった。
「しっかり掴まってろ」
「うん!」
呪力を使いっぱなしにはなるが、
宿儺の呪力があるから大丈夫だろう。
さっきの戦いでだいぶ消耗したと思っていたが、
体の奥底にはまだ底知れない力が残っているのを感じる。
静かに息を吐く。
宿儺……本当に、もう姿を現さないのだろうか。
その存在を思い浮かべるだけで、胸の奥が少し痛んだ。
気づけば、あいつの声がないだけで、世界が少し静かすぎる。
まるで、心の一部が抜け落ちたような感覚だった。
(……少し、いや、かなり寂しいな)
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
アイシャに心配されてしまった。
大人としてアイシャを守らなければ。
空を見上げながら、思考が少しずつ現実に戻っていく。
ここは魔大陸――そう言っていた。
魔大陸からブエナ村までは、どれくらいかかるんだろうか。
どの道長旅になりそうだ。
そんなことを考えているうちに、潮の匂いが強くなった。
玉犬の足元には、白い砂と波の音。
「わあーっ、すっごい! これ全部、水!?」
「それは、海だ」
そうか……アイシャは海を見るのが初めてなんだな。
まあ、俺もこの世界で海を見るのは初めてだけど。
「ねえ、お兄ちゃん。海って、飲めるの?」
「やめといた方がいい、しょっぱいからな」
「えっ、ほんとに?」
アイシャは海に指を浸し、ペロっとなめた
「うえ~しょっぱ~」
「だから言っただろ?」
「なんでこんなにしょっぱいの? お砂糖のほうがいいのに」
「たしかにな。甘かったら、飲み物にして売れそうだ」
「名付けて! アイシャのうみジュース!」
「名前のセンスがすごいな……でも、いいなその店、できたら俺も飲みに行くか」
「うん! 特別に、お兄ちゃんはタダでいいよ!」
そんな会話をしながら、俺たちは玉犬にまたがり、海沿いの道を進んでいった。
道中は、たまに……いや、かなりの頻度で魔物が出る。
牙をむいた灰色の巨大な狼。巨大なトカゲに、これまた巨大な亀。
そのたびに、俺は腕を振るい、切り刻む。
風を切る感覚だけが残り、魔物の体が静かに崩れ落ちた。
「お兄ちゃん、すごい……!」
「ふふ……だろう?」
俺は短く答え、死体の肉を少しだけ削ぎ取る。
食料になる分だけをとり、残りは燃やした。
この世界の魔物は、死体を放っておくと別の魔物になるらしいからな。
魔大陸の魔物は、ブエナ村の魔物とは比べものにならないくらい強い。
筋肉の密度も、動きの速さも、桁が違う。
一撃でももらえば、普通の人間ならその場で終わりだ。
アトーフェとの戦いで『解』を覚えていなければ危なかったかもしれん。
というか、『解』はどう考えてもインチキだ。
見えない斬撃なんて、対処のしようがない。
だが――使えるものは使う。練習にもなるしな。
腕を軽く振るう。
空気が裂け、数十メートル先の岩が真っ二つに割れた。
「お兄ちゃん……それ危ないよ」
「アイシャを守るためだ」
俺がそう言うと、アイシャは少しだけ口を尖らせた。
やがて太陽が沈み、夜になった。
玉犬を影に戻し、岩陰に腰を下ろす。
影の中に手を差し入れ、調理器具と包みを取り出した。
包みの中には、ブエナ村の家庭菜園で育てた野菜や干し肉。
転移前に、母さんと一緒に仕込んだやつだ。
「腐る前に使いきらないとな」
包丁を取り出し、手際よく野菜を切ろうとしたが。
ふと思い立って、指を振る。
野菜は俺の思い通りにきれいに切れた。
「おお、『捌』も便利だったが『解』の方が便利だな」
火を起こし、鍋を乗せ、煮込み始めると、
潮の匂いに混ざって温かな香りが広がった。
塩をひとつまみ加え、干し肉を入れると、
スープの色がゆっくりと深まっていく。
「……いい匂い」
「もう少しでできる。器、取ってくれ」
「はーい!」
湯気が立ちのぼる。
木の器にスープをよそい、アイシャの前に差し出した。
「熱いから、気をつけろよ……いただきます」
「うん……いただきます」
アイシャはふうふうと息を吹きかけてから、一口すすった。
「……おいしい!」そう言って、笑顔になる。
その声を聞いて、俺も少し遅れて口をつける。
……うまい。
塩と干し肉の旨味が、疲れた身体に染み込んでいく。
血の味がまだ口の奥に残っているのに、
それすら洗い流すような温かさだった。
「……死にそうになった後のご飯は、格別にうまいということが分かったな」
「そんなの、わかりたくないよ」
「そうだな。アイシャは、わからなくていいことだ」
スープを食べ終わる頃には、焚き火が小さくなっていた。
俺はスプーンを拭き取りながら周囲を見渡した。
夜の海風は冷たく、砂の上に寝るには少し厳しい。
「そろそろ寝る準備するか」
「でも……布団ないよ?」
「大丈夫だ……『玉犬』」
黒い波紋が地面を走り、そこから『玉犬』が姿を現した。
「アイシャ、こいつが布団のかわりだ。あったかいぞ」
「ほんと? わぁ……もふもふだぁ」
『玉犬』がそっと身体を丸め、アイシャを包み込むように伏せた。
アイシャの表情が少しずつとろけるように緩んでいく。
アイシャの可愛い姿を横目に、俺は影をもう一度広げ、鵺を呼び出す。
「周囲の索敵はお前に任せる。頼んだぞ」
鵺が低く鳴き、闇に溶けるように消えていった。
「お兄ちゃん、寝ないの?」
「アイシャが寝たら寝るさ」
アイシャは『玉犬』の毛に包まれたまま、小さな声で「おやすみ」と言った。
数分もしないうちに、静かな寝息が聞こえてくる。
アイシャが寝息を立てている間も、魔物は何度か襲ってきた。
もっとも、俺たちにたどり着く前に『鵺』に見つかっていたが。
『鵺』が上空を旋回し、その視界を俺の頭の中に映す。
俺は息を整え、手を伸ばした。
「……『解』」
空気が裂ける音とともに、黒い影が沈黙する。
『鵺』に攻撃はさせない。音が出るからな。
でかい音を立てたら、アイシャが起きるかもしれない。
『鵺』の視界に映る魔物を見つけては、斬る。また現れれば、斬る。
そんな作業のような行為を、ただ淡々と繰り返していると、
いつの間にか、夜は明けていた。
『鵺』を影に帰し、『玉犬』の毛並みに朝日が差し込む。
アイシャが小さくあくびをして、目をこすった。
「……ん~、おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう。寒くなかったか?」
「うん。もふもふで気持ちよかった!」
簡単に温め直したスープを分ける。塩気が身体に戻ってくる。
アイシャは器を両手で抱え、冷ましてから飲んだ。
「ふう……ごちそうさま!」
アイシャが空になった器を差し出してくる。
唇の端にスープの跡がついていて、俺は思わず笑った。
「口、ついてるぞ」
「えっ、どこ!?」
「ほら、そこ」
指で示すと、アイシャは慌てて袖でぬぐった。
焚き火を消し、出発の準備をする。
準備と言ってもすることは少ないが。
「今日も頼むぞ」
玉犬が小さく唸り、鼻を鳴らす。
俺たちは玉犬にまたがり、海沿いの道を進みはじめた。
―――
数時間、町を見つけた。
石造りの外壁と煙を上げる屋根が見える。
玉犬を軽く撫でてから、影の中へと返した。
黒い波紋が地面に広がり、『玉犬』の姿が静かに溶けて消える。
「……あ、帰っちゃった」
「魔物だと思われたら、厄介だからな」
「でも、あんなに可愛いのに……」
門の前には二人の兵士が立っていた。
赤紫の肌に、黒い角。人族ではない。
鋭い眼光でこちらをじっと見てくる。
俺たちを見ると、片方が眉をひそめ、もう片方は何かを呟いた。
その視線には、敵意ではなく、警戒と興味が入り混じっていた。
人族の子供だ、珍しいのだろう。
兵士たちはしばらく無言で俺たちを見つめていたが、
特に何もされることはなく門をくぐった。
門の先には、屋台がずらりと並び、
香辛料の匂いと焼いた肉の煙が漂っている。
呼び込みの声や、看板の文字もすべて魔神語だった。
ロキシーさんに教わっていて、本当によかった。
彼女の本には、この大陸で使われる通貨の種類や、
宿の相場、食料の値段まで細かく書かれていた。
まずは、お金だな。これがなければ何もできない。
腰の袋を軽く叩く。中には、ブエナ村で使っていた硬貨が数枚。
この大陸では使えない。つまり、今の俺たちは無一文と言う訳だ。
移動しながら稼がなくてはならないから、
冒険者になるのが一番現実的だろう。
危険はあるが、今の俺には戦う力がある。
通りを少し歩くと、石造りの建物の前に人だかりが見えた。
木製の看板には、見覚えのある剣と盾の紋章。
その下に、魔神語で「冒険者ギルド」と刻まれている。
扉を押し開けると、酒と汗と鉄の匂いが鼻を刺した。
獣皮の鎧を着た魔族たちが、木製のテーブルを囲んで飲んでいる。
壁には討伐依頼と思しき紙がびっしり貼られていた。
奥のカウンターに立つ受付嬢のもとへ歩く。
「冒険者登録をしたいのですが、ここで合ってますか?」
「合ってますけど……あなたたち、子供じゃないですか?」
「事情があって、ここで稼がなきゃならないんです」
そう言うと、受付嬢は少し眉を寄せ、俺とアイシャを交互に見た。
「命の保証はできませんよ?」
「それは、わかっています」
そう返すと、俺とアイシャに、三枚の紙と尖った炭が渡された。
上部には名前や職業を書く欄、
下には細かい文字で注意事項と規約がびっしりと並んでいた。
魔神語だ、隣で首をかしげるアイシャに、
一つひとつ声に出して読み聞かせる。
要約するとこうだ。
1. 登録と利用
冒険者として登録すれば、ギルドの各種サービス(依頼仲介・報酬受取・素材買取・貨幣両替など)を利用できる。
2. サービス内容
世界情勢により、サービス内容は予告なく変更されることがある。
3. 登録情報とカード管理
登録情報は冒険者カードで管理。紛失時は再発行できるが、ランクはFから再スタート。地域ごとの罰金も発生。
4. 脱退と再登録
希望すれば脱退可能。再登録もできるが、やはりFランクから。
5. 禁止行為
法律違反、ギルドの品位を汚す行為、他者の依頼妨害、依頼の売買は禁止。
違反すると罰金と資格剥奪。
6. 違約金
依頼失敗時は報酬の2割を違約金として半年以内に支払う。支払えない場合は資格剥奪。
7. ランク制度
ランクはS〜Fの7段階。原則として、自分のランクの上下1段階以内の依頼しか受けられない。
8. 昇級・降級
一定数の依頼を成功させると昇級可能。実力不足を感じる場合は現ランクのままでも可。連続失敗で降級。
9. 義務
魔物の襲撃など国やギルドからの要請には従う義務がある。
緊急時にはギルド職員の指示に従うこと。
アイシャは、まるで授業を受けているみたいに、真剣な表情で聞いていた。
読み終えて顔を上げると、受付嬢のお姉さんが温かい目でこちらを見ていた。
……というか、両替ができるのか。後でしておこう。
俺の分の記載は出来たが、アイシャは魔神語が書けない。
代わりに書いてもいいのだろうか?
「アイシャ、あー……妹は、文字が書けないのですが、俺が代わりに書いてもいいでしょうか?」
「いいですよ」
受付嬢が微笑みながら頷いた。
許可を得て、俺はアイシャの分の紙を手に取る。
名前の欄には“アイシャ・グレイラット”と書いた。
お姉さんは、少し不思議な顔をしたが、
深い事情があるのかと勝手に勘違いしてくれたのか何も言われなかった。
職業の欄は、少し考えて“シーフ”と書き込む。
本当は盗賊の意味があるが、軽装で動ける者、という広い解釈もできる。
「書かれましたら、こちらに手を乗せて頂きます」
受付嬢が差し出したのは、透き通った板だった。
中央には複雑な魔法陣が描かれてる。
言われた通り、俺はその上に手を乗せた。
受付嬢が板の端を軽く叩くと、魔法陣がぼんやりと輝きはじめた。
「名前・カイン・アルネス。職業・剣士。ランク・F」
俺が書いた紙の内容を受付嬢が読み上げ、再び板を軽く叩く。
すると、魔法陣が少し光り消えた。
「これで登録完了です。こちらがあなたの冒険者カードになります」
受付嬢がそう言って差し出したのは、手のひらサイズの鉄の板だった。
表面には淡い光を帯びた文字が浮かび上がっている。
―――――――――――――
名前:カイン・アルネス
性別:男
種族:人族
年齢:12
職業:剣士
ランク:F
―――――――――――――
名前、職業、ランクは職員が入力していたが、
性別、種族、年齢は――この板が、俺の手から読み取った情報らしい。
……オーバーテクノロジーだな。どういう仕組みなんだろうか
「次は妹さんですね」
お姉さんの言葉に、アイシャを前へ出す。
小さな手が恐る恐る板の上に乗せられた。
―――――――――――――
名前:アイシャ・グレイラット
性別:女
種族:人族
年齢:3
職業:シーフ
―――――――――――――
アイシャは目を輝かせながらそのカードを両手で受け取る。
「カードに込められた魔力が切れると使えなくなりますので、注意してくださいね」
「魔力が……どのくらいで魔力は切れるんですか? それと、どうやって補充するんですか?」
「魔力は通常で一年ほどは持ちますよ」
受付嬢は慣れた手つきで別の書類を整えながら続けた。
「ただ、依頼を完了して報告に来るたび、こちらで魔力充填を行いますので――普通に活動していれば、切れることはまずありません」
「なるほど……それなら安心ですね」
「はい。あと、再充填に料金はかかりませんのでご心配なく」
受付嬢は書類を片づけながら、ふと思い出したように言った。
「お二人は一緒に行動されるんですよね?」
「はい、基本的には」
「であれば、パーティー登録をなさっては?」
「パーティー登録?」
「はい。同行者がいらっしゃるようですし、登録しておくと依頼の報酬や昇格処理がスムーズになります」
聞き返すと、受付嬢は慣れた調子で説明を始めた。
パーティは最大で七人まで登録可能。
リーダーより上下一ランクの範囲でしか加入できず、
受けられる依頼はパーティの“平均ランク”で決まる。
依頼を成功させれば、昇格値はメンバー全員に入る。
ただし、パーティに所属していても個人で依頼を受けることは可。
加入にはリーダーとギルド、双方の承認が必要。
脱退はギルドの承認だけでいい。
また、リーダーにはメンバーを強制的に脱退させる権限がある。
そして、リーダーが死亡した場合――パーティは自動的に解散となる。
さらに、二つ以上のパーティが集まると“クラン”という形での連合を作れる。
優秀なクランはギルドから特別報酬や支援を受けることもあるらしい。
……なるほど。思った以上にしっかりとした組織体系だ。
アイシャと二人きりでも“パーティ”として認められるなら、
今の俺たちにとっては心強い。
「じゃあ、パーティ登録もお願いします」
「では、パーティ名は何に致しますか?」
う、名前を決めるの苦手なんだよな……。
こういうの、センス問われるし。
変に格好つけると寒いし、適当すぎても後で恥ずかしい。
アイシャの意見も聞くか……俺達のパーティーなわけだし。
俺は少し姿勢を低くして、アイシャに事情を簡単に説明する。
アイシャは少し考えこむように首をかしげたあと、ぱっと顔を上げた。
「うーん……じゃあ、『アイシャ・カイン団』!」
「なるほど、そのまんまだな」
……でも待てよ。
俺たちは今、遭難中だ。
無理に格好つけた名前にするよりも、こういう直球な名前のほうが、
見つけてもらいやすいかもしれない。
“アイシャ・カイン団”
ネーミングセンスはちょっとあれな気もするが、名前を聞けばすぐにわかる。
俺とアイシャが一緒にいるってことが、一発で伝わる。
悪くない。いや、むしろ理にかなってる。
「……うん、それでいこう」
アイシャが満面の笑みを浮かべる。
その姿を見て、俺も自然と口元がゆるんだ。
「アイシャ・カイン団でよろしかったですか?」
「はい、それでお願いします」
苦笑いしながら答えると、受付嬢は軽く頷き、カードを手に取った。
彼女は何かの手続きをしながら、奥の机に消えていく。
ほんの数十秒後、再び戻ってきた。
「お待たせしました」
差し出されたカードを受け取る。
そこには、さっきまでなかった一行が増えていた。
パーティー:アイシャ・カイン団
「依頼を受ける際は、掲示板に貼られている紙をはがして、こちらまでお持ちください。買取なども行っておりますので、不要な素材などがあればいつでもどうぞ」
受付嬢は柔らかな声で続けた。
「以上で登録終了です。お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
俺は深く頭を下げた。
受付嬢はにこりと笑い、軽く会釈を返してくれる。
横を見ると、アイシャもそれを真似して、ぺこりと丁寧に頭を下げていた。
「ありがとうございました!」
両替窓口で手持ちのアスラ銀貨二枚と大銅貨七枚を差し出す。
一枚ずつ確認され、しばらくして袋に詰められた魔大陸の貨幣が返ってきた。
思っていたよりも多い。
アスラ王国と魔大陸では、貨幣の価値がかなり違うからか。
しかし、銀貨二枚でここまで膨らむとは
視線を感じて、さりげなく袋を影の中へ沈める。
そして、ふとした拍子に思い出した。
――そういえば、ここがどこなのか、まだ聞いていなかった。
俺は受付嬢の方へ振り返り、カウンターに近づいた。
「すみません。一つだけ、聞いてもいいですか?」
「はい? どうされました?」
「この町の名前を、教えてもらえますか?」
「ここはクラスマの町ですよ。海沿いの交易都市です」
「教えてくれてありがとうございます」
受付嬢に頭を下げ、俺たちは、冒険者ギルドを後にした。