クラスマの町か――。
グレイラット家にあった『世界を歩く』という本では、
魔大陸の最北端にある町と書かれていた。
一見すると、何の特徴もない港町に見えるが。
この一帯を治める魔王が海族と親密で、
長年にわたって交易が続いているらしい。
クラスマの町は、その交易の拠点であり、
海人族がもたらす海の幸や、
魔大陸特有の刺激の強い香草やスパイス。
それらがこの町で交わることで、
他では味わえない料理が生まれるのだという。
確かに歩いているだけで、香辛料の匂いが漂ってくる。
乾いた大地に似合わないほど、食欲を刺激する匂いだ。
意外とお金にも余裕があるし、
宿を取ったら、少し見て回るのも悪くないかもな。
そう考えていると、ふと視界の先に『赤鷲の羽亭』
という木の看板が目に入った。
外観からして、どう見ても宿屋だ。
一泊・石銭八枚。
少し高めだが、このぐらいなら許容範囲内だ。
受付で三日分の料金を支払い、鍵を受け取る。
通された部屋は、ベッドが一つの小さい部屋だった。
アイシャは椅子に座り、俺もベッドに腰を下ろす。
「ノミとか怖いな」
シーツをめくると、少しだけ埃っぽい匂いがした。
まあ、魔大陸の宿屋だ。
清潔さを求めすぎるのは酷というものだが、気になるものは気になる。
「こんな時は……ルーデウス直伝、熱風魔術!」
詠唱を唱え終わると、熱風がベッド全体を包み込む。
湿気が飛び、微かな臭いが抜けていく。
もう一度、念入りに温度を上げて、数分ほど熱を回し続けた。
「……よし、これで殺虫完了っと」
俺は再びベッドに腰を下ろし、伸びをする。
いつの間にか、アイシャもベッドの端に来ており、
俺の隣にちょこんと座っていた。
両足をぶらぶら揺らしながら、俺のほうを見上げてくる。
「……そういえば、そろそろ昼飯の時間か」
「おなかすいたー!」
「だよな。けど、ロキシーさんによると、魔大陸の食べ物は、どれもまずいらしい」
「えぇ~!」
「だが、俺の手にかかればどんな食材も一級品にしてみせるさ」
「さすがお兄ちゃん!」
影の中から包みを取り出す。
ブエナ村から持ってきた野菜は、もう残りわずかだ。
干し肉と合わせれば、ギリギリ一食分は作れる。
「影の中の野菜も使い切りたいし……そうだな、カレーでも作れないかな」
「かれー?」
「うん。辛くて、あったかくて、疲れが取れる食べ物だ」
「たのしみ!」
「よし、行くか」
軽く身支度を整える。
ギルドで買った簡単な地図を頼りに、
俺たちは市場の方へ向かった。
並んだ屋台には、見たことのない食材ばかりが並ぶ。
紫色の魚、足の多すぎる甲殻類、
香りだけで鼻の奥が痺れるようなスパイスまで並んでいる。
「わぁ……見たことない物ばっか売ってるね!」
「確かに、文化の違いだな」
スパイスを売っている店へと近づく。
赤、黄、黒――粉の色だけで味の違いが伝わってくる。
赤は、鼻の奥を刺激するような鋭い香り。
黄は、少し甘さを感じる香り。
黒は……焦げたような苦味を帯びた香りで、
正直、カレー初心者の俺に使う勇気は出ない。
「うーん……赤と黄を混ぜれば、ちょうどよさそうだな」
匂いを頼りに数種類を選び、袋に詰めてもらう。
支払いを済ませ、香りの強い袋を手に取る。
アイシャはそれを嗅いで、くすぐったそうに笑う。
「くしゃみ出そう……でもいいにおい!」
「カレーは匂いが強いし、宿でやると怒られそうだから町の外で作るか」
そう言って宿の方角から離れ、町の外に向かって歩き出す。
露店が並ぶ通りを歩いていると、
ふと視界の端に――見慣れた形のものが映った。
「……豆か?」
思わず足を止めた。
乾いた土色の小粒が、木箱いっぱいに詰まっている。
しかも、形といい、色といい、どう見ても大豆に近い。
これさえあれば、万能調味料――醤油が作れる。
醤油ができれば、数多くの料理をこの世界で作れるようになる。
すき焼き食べたいなぁ……
覗き込んでいると、店主が声をかけてきた。
「坊主、それが欲しいのか? 珍しいな。鬼ヶ島から輸入してきたんだが、いかんせん味が薄くて全然売れんのだ」
「全部でいくらですか?」
「気に入ったなら安くするぞ。全部で……屑鉄銭一枚でどうだ?」
「買った!」
「毎度ありぃ!」
即答して、袋を受け取る。
屑鉄銭一枚。
なんともいい買い物ができた。
―――
町から少し離れた丘の上に腰を下ろす。
ここなら匂いを気にせず料理できそうだ。
ふと視線を上げると、近くに黒い城が見えた。
あれが、この地方を治める魔王の居城だろう。
思わず息をのむ。黒い城、そしてあの不気味な威圧感。
嫌でも、アトーフェの姿が頭をよぎった。
「……やめやめ」
頭を軽く振る。今は過去を思い出している場合じゃない。
目の前にあるのは、戦場じゃなく昼飯なのだから。
「よし、早く飯を作ろう」
影から鍋やまな板を取り出して並べる。
スパイスを袋から少し取り出し、香りを確かめる。
赤と黄を混ぜると、ほんのりと温かみのある香りに変わる。
刻んだ干し肉と野菜を炒め、スパイスを加えると、
空気が一瞬で食欲を誘う匂いに染まった。
「うわぁ……いい匂い! おなかすいてきた!」
「もう少し煮込めばできあがりだ」
カレーの香りが漂いはじめたころ、俺は鍋の中を軽くかき混ぜた。
野菜がとろけるように柔らかくなっている。
スパイスの香りが風に乗り、海の匂いをかき消していく。
「……よし、できたな」
影から木皿を取り出し、パンをちぎって乗せる。
カレーを少しすくって、皿の端に落とした。香りだけで腹が鳴る。
「いただきます!」
パンをちぎってカレーに浸し、口に運ぶ。
熱い。けど、うまい。
魔大陸の香草が想像以上に合ったな。
「お兄ちゃん、これ……すっごくおいしい!」
「辛くなかったか?」
「へーき! お水ちょっとちょうだい!」
水を差し出すと、彼女はごくごくと飲んで、またパンをちぎった。
その様子を見て、思わず笑う。
パンをもう一口食べたところで、背後に気配を感じた。
砂を蹴る音。誰かが走ってくる。しかも速い。
すぐに『鵺』の視界を共有する。
上空から見えるのは、転がるような勢いでこちらに向かってくる影。
……太った男? いや、あの体格にしては速すぎる。
「……なんだ、あれ」
敵意は……感じない。
むしろ、息を切らしながら、何かに惹かれたように走ってきている。
やがて距離が縮まると、砂埃の向こうから声が響いた。
「お、おぉぉぉ……! この香りは……なんだ、この香りはぁぁぁ!!」
現れたのは、立派な腹を揺らしながら駆けてくる魔族の男だった。
肌は青く、服は上半身がはだけ、腹には黄金の帯。
見た目はどう見ても貴族か豪商。
だが、その走る速さは人間離れしている。
その顔には、興奮と歓喜が入り混じった表情が浮かんでいる。
アイシャが俺の背中にぴたりと張りついた。
「やはり料理だったか!? この世にまだ、わしの知らぬ香りがあったとは!」
男は目を輝かせながら、俺とカレーの鍋を交互に見た。
その目は完全に鍋に釘付けだった。
俺はゆっくり立ち上がり、
片手でアイシャを庇い、距離をとりながら尋ねた。
「……あの、あなたは?」
「わしのことなどどうでもいい! 今はそれより、その鍋の中身を、食べさせてくれぇ!!」
男は前のめりに詰め寄ってきた。
「金ならいくらでも払う! お願いだ、その香りをわしに味あわせてくれ!!」
「そんなにお腹が空いてるなら、お金は大丈夫ですよ。食べますか?」
「ほ、本当か!? もちろんだ、食べさせてくれ!」
男の顔が一気に輝いた。
その迫力に押されつつも俺は皿を取り出し、
カレーをすくって男の前に差し出した。
「熱いですから、気をつけてくださいね」
「おお……感謝する」
男は目を見開き、ゆっくりと手を伸ばした。
まるで宝石でも扱うように、慎重にパンを口に運ぶ。
――そして。
「……ッ!? な、なな、なんだこれはぁぁぁぁ!!!」
空気が震えた。男の全身がびくりと跳ね、目を剥いたまま天を仰ぐ。
「辛味が舌を突き、熱が喉を駆け抜ける……それでいて、後から押し寄せるこの深み! 香りは炎、味は嵐、喉を通る瞬間にはまるで快楽の波が全身を駆けるようだ!!」
……なんだその表現。
「ひと口、ひと口が戦いだ! 舌が焼けるのに、次を求めずにはいられん! まさか、このわしの食生に、これほどの感動が残っていようとは!!」
男はカレーを掬い、パンをちぎり、口に押し込み、再び絶叫する。
汗を流し、涙まで浮かべながら、それでも止まらない。
よっぽどお腹が空いてたのだろうか……?
まあ、いいか。そこまで喜んでくれるなら、作った甲斐がある。
「気に入ったなら、遠慮なくどうぞ」
俺はつい嬉しくなって、どんどん皿に盛ってやった。
アイシャは俺の後ろで小さく震えている。
無理もない。
目の前では青い大男が、見たこともない速さで叫びながら、
パンとカレーを交互に食べ続けており、
しかも言葉がまったく分からないのだ。
……そりゃ怖いよな。
「このわしが……まだ知らぬ味があったとは……! しかもこれほど美味な料理が……!」
無我夢中で食べ進め、気づけば鍋の底が見え始めていた。
用意してた数日分のパンまで食べつくしてしまった。
男は最後のひと切れを口に入れ、満足げに息を吐いた。
「ふぅぅぅ……まさか、まだこの世に未知の味があったとは……少年よ、心から礼を言おう」
「えっと……どういたしまして。ところで、あなたは一体?」
「そうだな。礼も兼ねて、名を名乗っておこう」
嫌な予感がした。
「ワシは不死魔王、バグラーハグラー」
「……っ!」
思わず、息を呑む。
不死魔王――その言葉が耳に入った瞬間、体が反射的に動いた。
立ち上がり、アイシャを背に庇いながら、腰の剣に手をかける。
脳裏に浮かんだのは、あのアトーフェの顔だった。
「待て待て! なぜ戦おうとする! 落ち着け、少年!」
「落ち着けるかよ! アトーフェと同じ“不死魔王”なんだろ!? この間、死ぬ思いしたばっかなんだぞ!」
「あんなやつと一緒にされては困る! ワシはあんな血の気の多い狂戦士とは違う! 戦より食、剣より酒じゃ!」
その勢いに、逆に俺のほうが押される。
目の前の男……いや、魔王は、本気で戦う気配がまったくない。
「この街を見たなら、わかるじゃろう? 争いはほとんどない。交易で賑わい、食が豊かで、民は笑っておる」
男は顎で遠くのクラスマの町を指した。
確かに、あの穏やかな雰囲気はアトーフェの支配下では考えられない。
「ワシは食が好きなだけの穏健派じゃ。命の取り合いなどごめんだ。うまい酒と、うまい料理があればそれでいい」
「……なるほど。すまなかった。いろいろとあってな。魔王と聞くと反射的に身構えてしまうんだ」
「ふむ、無理もない。アトーフェの名を聞けば誰でもそうなるじゃろう。ところで、少年。名を聞いてもよいか?」
「……カインです。カイン・アルネス」
「カイン、おぬしの料理の腕、たいしたものじゃ。あの香り、あの味、ワシの長い舌の歴史にもない味であった!」
その言葉に、思わず顔が緩む。
アトーフェとは違う意味で、やたら真っすぐな魔王だ。
「実はの、ワシの城には広い厨房があってな。世界中の珍味を集めておる」
バグラーハグラーの目が爛々と輝く。
「どうじゃ、カイン。その腕をもっと見せてくれんか? 城に来い! 材料も道具も、好きなだけ使わせてやると誓おう!」
俺は一瞬だけ空を見上げた。食料も残り少ないし、情報もほとんどない。
俺の脳裏に浮かんだのは、さっきの“あの表情”だった。
涙を浮かべながら全身で感動していた顔
あんな顔、演技じゃできない。
「お兄ちゃん……?」
「大丈夫だアイシャ、この人は悪い人じゃない……多分」
魔王の城なんて、滅多に行ける場所じゃない。
それに、本当に料理の素材や道具が揃っているなら魅力的な提案だ。
決意を固めて顔を上げる。
「わかりました。せっかく誘ってもらったので、お邪魔します」
「おお! そうこなくては! よし、すぐに案内してやる!」
―――
バグラーハグラーの後をついて行くと、
さっきから見えていた城に近づいた。
やはり、あの城は魔王の城だったか。
「……あれが、あなたの城ですか?」
「うむ! どうじゃ、立派なもんじゃろう?」
黒い城壁。けど、アトーフェ城のような重圧や威圧感はない。
あちらが“要塞”なら、こちらは“テーマパークの城”という感じだ。
門が開くと、香ばしい匂いと共に温かな空気が流れ出てきた。
バグラーハグラーに続いて、長い廊下を進む。
壁には色とりどりの皿や瓶が並び、料理の香りが漂っていた。
通りすがる魔族の使用人たちも、皆どこか穏やかな表情をしている。
戦の緊張とは無縁の空気、本当に魔王の城なのか疑うほどだった。
「して、カインよ、どこであのような料理を学んだのだ?」
言葉に詰まる。どう説明したものか。
「レシピサイトです!」なんて言えるわけがない。
「……自作です」
……嘘をついてしまった。
バグラーハグラーの足が止まる。
振り向いたその顔には、信じられないという表情が浮かんでいた。
「まさか……誰にも教わらず、あの味を生み出したと言うのか!?」
「……そうなりますね」
「なんと……!」
魔王の顔が輝く。
次の瞬間、両肩をガシッと掴まれた。
「なんと素晴らしい! 天才ではないか! 料理の神が嫉妬するほどの閃きよ!」
「は、はあ……ありがとうございます」
あまりにまっすぐ褒められて、罪悪感が胸を刺す。
……本当は、クックパッドのおかげなのに。
「さあ! この先が厨房だ! おぬしの腕を、存分に振るうがよい!」
その声に導かれ、俺は巨大な扉をくぐる。
そこは、まるで城ひとつが丸ごと厨房になったような光景だった。
何十という竈が並び、金属の調理台がずらりと並ぶ。
天井は高く、煙は魔法の光に吸い込まれて消えていく。
「どうじゃ、壮観であろう?」
バグラーハグラーが誇らしげに胸を……いや腹を張る。
「……すごいな」
思わず言葉が漏れた。
目を引くのは、前世で見たような道具の数々。
包丁や鍋、フライパン。使ってみたいと思っていた器具や、
用途がまるでわからない、奇妙な形の道具もあった。
厨房を一通り見回したあと、奥の扉が開かれた。
中から冷気が流れ出し、肌がひやりとする。
「ここが食材置き場じゃ。鮮度を保つため、常に冷却魔術を張っておる」
足を踏み入れると、まるで氷の洞窟のようだった。
棚には肉や魚、野菜や果実がぎっしり並んでいる。
中には氷漬けの巨大な獣の足や、青く光る果物が並んでいた。
「これは……すごいな。どこからこんなに?」
「世界中じゃ! 陸・海・空、うまい物があると聞けば、必ず手に入れる! ワシは強欲だからのう!」
冷気が頬を撫でる中、その情熱だけは熱かった。
ふと、鼻をくすぐる懐かしい匂いがした。
潮の香りでも、肉の脂でもない。もっと落ち着く香り。
深くて香ばしく、懐かしい匂いだ。
「……この匂い、まさか」
匂いをたどると、奥の棚にずらりと並んだ酒樽の中に、それはあった。
「これは?」
「ん? それか? 鬼ヶ島から取り寄せたものじゃ。鬼族が好んで飲むという、珍しい代物でな。酒かと思って飲んでみたのだが――」
「だが?」
「刺激が強くてな。ワシでも二口で降参した。まったく、あいつらの舌はどうなっとるのか」
「試飲してみても?」
「もちろん」
皿を一つ借りて、少しだけ注ぐ。指先で軽く浸し、舐める。
「…………醤油じゃねぇか」
「なんじゃ、それは?」
「いえ、こっちの話です」
俺は樽を見つめながら苦笑する。
旅の途中で、何か月もかけて作ろうとしていた“醤油”。
まさか、魔王の城で先に完成品と出会うとは思わなかった。
どうやら――この魔王との付き合いは、長くなりそうだ。