『もう、いいんだ……早く……殺してくれよ』
……完膚なきまで折れたな。
俺に裏切られたと理解し、
肉体よりも先に心が崩れている。
期待を切り捨てられ、価値を否定され、
身の置き所を失った面だ。
人間が“自分”を失う瞬間ほど、分かりやすいものはない。
「やりすぎたか?」
……つまらんな。興醒めだ。
俺が見たかったのは、こんなものではない。
追い詰められた人間は嫌いではない。
だが、それは“抗う意思”が残っている場合に限る。
今の小僧には、それすらない。
折れたのではない。手放したのだ。
まあいい。
死ぬというなら、それまでだ。
俺が代わりにこの魔王を殺してやるのも悪くはない。
その場合、肉体は返す道理もないがな。
そう考えた瞬間――
『お兄ちゃん!!!』
声が、届いた。
小僧の肩が跳ね、魔王の止めを避けた。
閉じかけていた意識が、無理矢理に引き戻される。
諦めるという選択が、途中で断ち切られた。
……。
一人で立つには、まだ早かったか。
自分の価値のためでも、誇りのためでもない。
他者の存在に縋って、無理矢理に現世へ引き戻される。
まあいい。
動機はどうであれ立ったな、小僧。
……まあ、立ったとて、なのだが。
形勢は一分も好転しておらん。
傷は深く、呼吸は乱れ、力の底も見えている。
盤面は依然として最悪だ。
『ああ……俺は死ぬとしても、アイシャだけは、助けないとだからな……』
ふむ……自分の生存を、条件から外したか。
勝利条件を捨て、撤退条件を優先し、
そのうえで“守る対象”だけを一点に絞る。
小僧は理解している。
この戦いで勝つことは不可能だと。
ここに留まる限り、二人とも死ぬという現実を。
だからこそ、自分を切り離した。
凡手だ。
だが、妥当ではある。
この状況で最も見込みの高い結末を選んだ。
冷え切った現実だけを見据えた、
凡庸で堅実な落としどころ。
しかし、俺が見たいのは、そんな正解ではない。
理屈をすべて踏み越えた先にある、
説明不能な“何か”だ。
「……!!」
小僧の拳から、黒い火花が走った。
――黒閃。
……ククッ。
ここでそれを引くか。
悪運の強い奴め。
黒閃を経たことで、
小僧はわずかに自分の本質へ近づいているな。
もっとも、俺は小僧の本質など知らん。
理解する気も、定義する気もない。
これが良い兆候になるか。
それとも、より救いようのない方向へ転がるか。
どちらに転ぶかはわからんが、
俺の中にこびりついていた退屈が、
ほんの少しだけ、薄れたのは事実だ。
……やはり。
自分以外を、自分の中に居れたままでいると、
どうしても、その“他者”に引きずられる。
感情、選択、判断。
意図せず、影響を受ける。
小僧以外の人間であれば、
実に煩わしいところだ。
虫の羽音ほどの価値もない。
『……そうか、俺はずっと……怒ってたんだ』
俺は小僧の思考を読み取る。
いや、読むというより、俯瞰すると言う表現が正しいか。
要するに――気に食わなかった、というところか。
理不尽に勝てない現実に。
期待を向けられ、それを一方的に切り捨てられたことに。
守りたいものがあるくせに、力が足りなかった自分自身に。
実に単純だ。
だが、悪くはない。
怒りは力になる。
恐怖よりも、希望よりも、
よほど即効性があり、よほど正直だ。
扱い方さえ間違えなければの話だが。
『ああ……俺も自分にワクワクしてるよ。自分に期待したのなんて初めてだ』
怒りが消えているな。
ついさっきまで、胸の奥で燻っていたはずの熱が、形を変えている。
……黒閃の全能感に飲まれたか?
代わりにあるのは、高揚と……確信か。
自分は“できる側”に立ったのだという、根拠の薄い実感。
恐怖が引き、痛みが遠のき、世界が一段軽くなる。
あの感覚を知らぬ者は少ない。
極限に立った人間が、
偶然にも力を噛み合わせた時にだけ訪れる、甘い錯覚だ。
「止めるか?」
……まあ、よい。
人間というのは、ああいう極限状態に立つと、
現実以上の自分を容易く錯覚する。
世界が自分を中心に回っているような感覚。
自分の一挙一動が、理に適い、結果に結びつくという誤解。
まるで己が世界を支配しているかのような、
根拠なき万能感。
それは多くの場合、
次の失敗で粉々に砕ける幻想だ。
一瞬で剥がれ落ちる。
よくある話だ。
『……ははっ』
乾いた笑いが漏れる。
次の刹那、失われていた部位に呪力が集束し、形を結ぶ。
肉が生え、骨が繋がり、血の巡りが再開する。
「ほう! 反転術式か!」
ただ塞ぐだけの半端な代物ではない。
失われた四肢を生やすほどの高レベルのもの。
黒閃程度で、そこまで至れるとは思わなんだ。
あれは確かに呪力の核心に触れる契機ではあるが、
理解しただけで扱えるわけではない。
理屈は教えた。
だが、理屈だけで至れる域ではない。
となると、黒閃の全能感が、そうさせたか?
「できる」と錯覚したから、実際にできてしまった――
そういう類の跳躍か。
できると知っていれば、出来ないことも出来るようになる。
黒閃の全能感が良い方に作用したか。
……だが。
違和感が残る。
どうにも、腑に落ちん。
あまりにも“様になっている”。
浮ついた高揚にありがちな、雑音がない。
呼吸も、視線も、姿勢も――落ち着きすぎている。
黒閃を一度経験した程度で、
あそこまで迷いのない“確信”を抱けるか?
高揚にしては静かすぎる。
全能感を、こともなげに使いこなしている……?
疑問が、はっきりと形を持った、その瞬間――
『『解』』
まあ、出来るだろうな。
黒閃を経て感覚が研ぎ澄まされ、
空気を触媒として掴めるようになったのだ。
あとは媒介を意識し、距離を計り、
刃を置くだけの簡潔な動作。
――そして、結果は出た。
空間が裂け、首が落ちる。
一瞬の静寂。勝敗が決したかに見えた、その刹那――
『そうか!』
吠え声と同時に、落ちたはずの首が、
何事もなかったかのように、胴へ戻る。
「……ほう。不死か」
何かの術でもなければ、後付けの再生でもない。
元からそう設計された生物だな。
魔王を名乗るだけはある。
さて、どれほどの破壊まで、許容する?
首の切断は問題なし。
内臓の損壊も、おそらく無意味。
四肢の欠損も時間の問題だろう。
さすがに粉微塵にすれば死ぬだろうが……
小僧が粉微塵にできる訳でもあるまい。
「どうするのだ、小僧?」
力比べは詰んでいる。
削り合いは成立しない。
時間をかければ、確実に小僧が先に尽きる。
『アトーフェ……お前、まだ自分が死なないとでも思ってんだろ……』
「ケヒッ! 小僧がそれを言うか」
だが、理屈としては間違っていない。
魔虚羅。
確かに、あれなら魔王を殺せるだろう。
不死殺しとしては、これ以上ない。
あの魔王がどれほど再生しようと、
魔虚羅が障害だと思えば、必ず死に至る形へ辿り着く。
……だが。
その先は、どうするつもりだ?
調伏の儀は、魔王が死んでも終わらんぞ?
魔王が死ねば、次は小僧だ。
まさか、自爆覚悟という訳でもあるまい。
となると、何か策がある。
生き残る前提で、あの手を切ったということだ。
一瞬、思考がよぎる。
魔虚羅を、魔王に調伏させるつもりではないだろうな。
いや、それは愚策だ。
調伏の儀は、
術者と式神以外の意味を持つ他者を巻き込めば、
たとえ式神を殺したとしても、
調伏そのものが成り立たなくなる。
この世界には、呪力がない。
この世界の生物は、調伏の儀の参加者とは見做されない。
そう考えたことも、確かにある。
だが、現実がそれを否定している。
魔虚羅を顕現させた瞬間、
あの魔王は、明確に儀の中に組み込まれていたのを感じた。
ならば結論は一つだ。
この世界の生物も、
少なくとも調伏の儀の判定上は、
「参加者」として扱われている。
それに、もしそのつもりなら、
小僧の口から、あの言葉は出てこん。
あの一言は、
「魔虚羅に魔王を殺させる」ための言葉だ。
「魔王に魔虚羅を殺させる」ための言葉ではない。
つまり小僧は、魔虚羅が勝つ前提で盤面を組んでいると見るべきか。
『言っとくけど……こっから先は、そっちが勇者だから』
脳裏に、かつての影がよぎった。
五条悟。
あそこまで分かりやすく、
あそこまで疑いようのない“圧倒的強者”は、
そういない。
あれほどの強者が、
この世界にも、果たしているだろうか?
もし、いるとしたら――
小僧は、勝てる……か……?
「……小僧は勝てるか、だと?」
思わず、言葉が漏れた。
自嘲にも、嘲笑にもなりきらない、半端な声音。
自分でも少し遅れて、その意味を噛みしめる。
ククッ……可笑しな話だ。
俺が戦うかどうかではない。
俺が出張るか、俺が潰すか、俺が奪うか。
そんな選択肢が、思考の中心にない。
代わりに浮かんだのは、
「あの小僧が、勝てるかどうか」
まさかこの俺が、
他者の未来を夢想する日が来ようとはな。
可笑しくて、仕方がない。
自分が立つか。
自分が殺すか。
自分が終わらせるか。
そういう思考しか持たなかったはずだ。
それなのに今は違う。
盤面の外から、一人の人間の行く末を眺めている。
……俺も一度負け、折れたとでも言うべきか。
自分以外に目を向け、自分以外の可能性を考える。
貴様なら、この変化を成長と呼ぶのだろうなあ……虎杖悠仁。
『遅い、遅いぞ! そんなもので俺に届くかぁっ!』
『脱兎』の視界を共有する。
魔虚羅が、魔王と斬り結んでいる。
ほう……やるな、あの魔王。
力そのものでは、明らかに劣っている。
純粋な力も、速度も、魔虚羅の方が上だ。
だが、技術で力の差を無効化している。
小僧と相対した時は、
本気ではなかったということか。
慢心だな。
―――ガゴンッ。
来たか。
鈍く、重い音。
魔虚羅の背後にある方陣が、確かに回った。
先に、今の障害である剣術に適応することを選んだか。
今の魔虚羅では、再生と言う障害の前に、剣術が来るのだから当然か……
さて……いくつの回転で完全に適応するか。
―――ガゴンッ。
……互角、か。
簡単にはいかんな。
それだけ、この世界の剣術が発達しているということだろう。
生き残るために削ぎ落とされ、
殺すために磨き上げられた結果だ。
やはり、戦いの本流は肉体に限るな。
呪術だの、術式だのと騒ぎ立てるが、
それらは所詮、皮や肉に付随した装飾に過ぎん。
どれほど奇怪で、どれほど強大であろうと、
最終的に振るい、受け止めるのは身体だ。
そこが腐っていれば、
どんな術も砂上の楼閣だと言わざるを得ん。
―――ガゴンッ。
……成ったな。
完全に適応した。
三回……か。
なかなか適応に梃子摺ったな。
それだけ、あの魔王の剣が洗練されていたということか。
だが――それも、ここまでだ。
剣術という障害は、もうない。
斬撃は通じ、受けは崩れ、
技は意味を失う。
あとは、不死に適応するだけだ。
―――ガゴンッ。
傷が治っておらんな。
なるほど……不死に適応する過程で、
再生という機構そのものに適応したか。
……首を落とせば、どうなる?
もしや、このまま斬れば、
普通の人間と同じように死ぬのではないか?
不死であるがゆえに、
これまで許容されていた数々の致命傷。
首の切断。
臓腑の破壊。
致死量を遥かに超える損壊。
今まで“無意味”だった傷が、
一転して、そのまま“死”になる。
不死の魔王は、もはや不死ではなくなった。
さて、そうなれば次は小僧だが……
『ゴフッ……』
「……?」
小僧が――自分の心臓に、剣を突き刺している。
……。
…………!
そうか。
調伏の儀に参加している全員が死んだと、
式そのものに誤認させるつもりか。
術者が死に、参加者が死に、式神だけが残る。
勝者も、敗者も成立しない。
調伏は完遂されず、
同時に続行条件も失う。
考えたな、小僧。
以前の小僧なら、そこに辿り着いたとしても、
実行まではしなかっただろう。
理屈としては理解しても、
自分の命を“条件”として差し出す決断までは出来なかった。
だが今は違う。躊躇がない。迷いもない。
「ん?」
円鹿が、動いている。
反転術式を使う治癒の式神。
必死に、小僧を生かそうとしている。
……だが、出力が足りておらんな。
致命傷に対して、円鹿の出力が明らかに不足している。
肉は戻りかけているが、
心臓の拍動が安定しない。
術者の死で、術式が不安定になっているのか。
それとも、他の要因か……
理由は分からん。
だが結果は明々白々。
このままでは、小僧は死ぬ。
………。
しばし、考える。
実に、つまらん終わり方だ。
ここで終わるというのは、興醒めも興醒めだ。
「……まあ、よい」
退屈は、もう十分に紛れた。
この先も、見る価値がある。
それが知れただけで、
介入する理由としては十分だ。
……仕方あるまい。
俺が、治してやるか。
「まだまだ期待しているぞ、小僧」