俺はいつもより上質な服を身に纏い、革靴の紐をしっかり締めた。
「アイシャ、今の俺に違和感とかないよな?」
「バッチリ! ちょーかっこいいよ!」
かっこいいかどうかを聞いたわけじゃないんだが。
まあ、嬉しいからいいや。
「じゃあ師匠、行きましょうか」
「……おう」
師匠は溜め息を一つ吐いて、肩を回した。
俺たちは家を出た。
向かう先はもちろんゼニスさんの実家。
ラトレイア家だ。
目的は二つ。
ひとつ、ゼニスさんが生存しているという報告。
そしてもうひとつ、アイシャが俺の旅に同行する事への許可。
それとは別に、俺個人として確かめたいことがある。
クレアと言う人物を、ちゃんと自分の目で確かめたいからだ。
人間は“聞いただけの印象”と“自分の目で見た印象”が違うことが多い。
師匠たちから聞いた人柄は「とにかく頑固」だが、
そんな一言で片付く人間なんていない。
実際に会ってみれば、
案外いい人、なんてこともあるかもしれない。
……いや、それはさすがに希望的観測すぎるな。
とにかく、
俺なりのやり方で、きちんと向き合いたいと思う。
―――
着いた。
ラトレイア家はでかかった。
大きな門に、その両脇には獅子の像。
門の奥には真っ直ぐ続く道があり、
道の脇には大きな噴水が優雅に水を噴き上げていた。
絵に描いたような貴族の家だな。
隣を見ると、師匠は珍しく真面目な顔をしていた。
背筋も伸びているし、視線も定まっている。
普段のだらしなさは欠片もない。
俺は努めて余裕のある態度を崩さないようにした。
口調も普段より丁寧に。
なんせ、こっちは一般人、平民だ。
失礼があってはならない。
門前に来訪を告げると、
すぐさま取り次いでくれた。
師匠が一緒だからだろう。
俺一人なら門前払いは確実だった。
俺たちは重厚な門をくぐり抜け、
屋敷の扉の前に立つと、
扉の前にいた、年配の執事がゆっくりと頭を下げた。
「パウロ様。お待ちしておりました。では、ご案内いたします」
俺は心の中で姿勢を正し、師匠は妙に歩幅が小さくなっていた。
執事に続いて廊下を進む。
やがて執事が一つの扉の前で足を止めた。
「こちらです。旦那様と大奥様がお待ちです」
執事の低い声が廊下に落ちた。
……大奥様はクレアさんとして、
旦那様、クレアさんの夫もいるのか。
名前は確か、カーライル・ラトレイア。
ミリス神殿騎士団の重職で、この家の当主。
事前にいろいろ調べて来ておいてよかった。
知らずに来ていたら、きっと何か一つやらかしていただろう。
「パウロ様と同伴者をお連れいたしました」
「入れ」
奥から、重く落ち着いた男の声が返ってくる。
執事が扉を開ける。
部屋の奥。
椅子に座る二人が、こちらをじっと見ていた。
片や、
背筋を糸で吊るされたように伸ばし、
一寸たりとも乱れのない姿勢で座る女性。
視線は鋭く、隙が一切ない。
濃い深緑のドレスに、凛とした佇まい。
あの人がクレア・ラトレイアか。
そして、その隣に座る男性。
白い髭に刻まれた深い皺。
歴戦の猛者だと言うことを感じさせる、鋭い眼光。
カーライル・ラトレイアか。
俺たちは静かに一礼し、所定の位置で足を止める。
この場で格が最も低いのは当然、俺だ。
だから、俺から先に口を開くべきだった。
……だったのだが、
隣の師匠が一歩前に出ようとした。
ピクリとクレアの眉が、わずかに震えた。
師匠が口を開くのは不敬とまではいかないが……
“礼儀を知らない”という評価を受ける。
ただでさえ悪い印象が、もっと悪くなってしまう。
俺はとっさに師匠の足を踏みつけて止めた。
「……ッ!」
師匠は喉の奥で呻いたが、声を漏らす前に俺が前へ進み出る。
ゆるやかに上体を倒し、胸に手を当て、正式な礼法で頭を下げる。
冒険者として覚える必要はなかったが、
リーリャさんがシルフィに教えていた、礼儀作法を、俺もついでに教えてもらっていてよかった。
「初めまして、カーライル様、クレア様。私はパウロ・グレイラットの弟子。カインと申します」
俺は続ける。
「本日はパウロが先日お伝えし忘れていた重大な報告が二つほどあり、それをお伝えするために参りました」
クレアがゆっくりと顎を引いた。
こちらに関心を向けたという、最小限の動作。
「……あなたが、パウロの報告の代行を?」
「はい。誠に勝手ながらパウロに報告を任せるのは適任ではないと、私が判断いたしました。平民の身ゆえ、礼儀作法に拙い部分があるかもしれませんが……どうか本日は私より説明させていただければと存じます」
クレアの冷たい視線が横へと流れ、
動かない師匠へ向けられた。
「よろしい……少なくとも、そこの男よりは話ができそうです」
「身に余るお言葉、恐れ入ります」
クレアはそれ以上反応を示さず、ただこちらを見つめる。
沈黙が支配する空気の中で、師匠がようやく震えるように息を吸った。
次は俺の番だ……
そう言わんばかりに一歩前へ出る。
だが――
「結構」
そのクレアの一言に、
師匠の足が止まり、魂が抜けたように一歩下がった。
カーライルが腕を組み、俺と師匠を見比べた。
そして静かに口を開く。
「……落ち着け、クレア。カイン君の説明を聞くのが先だろう」
「ええ……では、座りなさい。話を聞きましょう」
俺は丁寧に一礼してから椅子に腰を下ろす。
師匠も俺の隣へ座ろうとした――瞬間、
クレアの眉がピクリと動いた。
俺は静かに師匠の袖を引き、
「姿勢正しく」と目で伝える。
師匠は頷き、まるで裁判官の前に立つ罪人のような緊張感で座った。
クレアの眉は、それ以上動かなかった。
どうやらギリギリ合格らしい。
「さて。パウロの代わりに話をするとのことだったな、カイン君」
「はい。本日は二点、お伝えすべきことがございます。まず一つ目……ゼニス様のご生存についてです」
瞬間、空気が変わった。
クレアの眉が、わずかに震えた。
カーライルは驚愕を隠すためか、深く呼吸を整えた。
だが。
次の動作で、二人はまったく同じ行動を取った。
俺ではなく、パウロを睨んだのだ。
“どうしてこの男はその事実を伝えていなかったのか”
その問いが、視線だけで語られていた。
「パウロ。貴様……このような最重要の報せを、なぜ黙っていた?」
「……パウロ。あなたという人は、自分の妻の生死すら“報告し忘れる”ほど無頓着なのですか?」
「パウロに代わり、私より詳細をご説明いたします。ゼニス様はベガリット大陸で発見され、現在も生存しておられます。ただし、安全とは言い難い状況にあり……それゆえに、確実な方法で救出する必要がございます」
「……詳しい場所はどこだ?」
「場所は――ベガリット大陸・迷宮都市ラパン。その地下迷宮にて確認されたとの情報を得ております」
「迷宮……」
クレアの眉がピクリと揺れた。
「君は……なぜ、そこにゼニスがいると断言できる? その言いぶりからして、実際に行ったわけではないのだろう?」
魔界大帝キシリカが見つけてくれました。
そんな事実を口にしたところで、
この二人が信じるはずがない。
いや、むしろ 信じられてしまったら困る。
ラトレイア家は、明確な魔族排斥派閥だ。
その前で、魔界大帝が教えてくれました。
なんていえば、信用を失うどころか、即座に追い出される。
信じられる方が問題だ。
だから、俺は“事実”だけを抜き出す。
「それは、旅の途中で出会った“魔眼保持者”の情報によるものです」
「魔眼保持者……?」
声に嫌悪が滲む。
だが、“魔族”とは違う。
魔眼と魔族は必ずしも結び付かない。
人族でも魔眼を持つ者は存在する。
俺は淡々と続けた。
「その人物の魔眼は“特定の人物を捉える能力”を持ちます。ゼニス様の特徴を提示したところ、その魔眼が“迷宮都市ラパンで確認された”と示したのです」
「……随分と都合のいい話ですね。その人物も、魔眼そのものも、信用するに値するのか疑わしいものです」
「懸念はごもっともに存じます。しかし、その人物は“こちらへ恩を売る必要すらない立場”の者にございました。むしろ、私の方から協力を依頼し、対価を支払ったほどでして……利害も動機もなく、虚偽を述べる理由がございません」
クレアの視線が深く細められる。
「これは……あくまで私の主観ではございます。断言はできませんが……どうか、信じていただきたい」
「……だとしても、魔眼の力そのものの信憑性はどうなのです。その者が嘘をつかないとしても、見間違い、誤認、あるいは魔眼そのものが不確かな可能性もあるでしょう」
疑いは当然だ。
むしろ、これほど理性的に問いを重ねてくれる分だけ話が進めやすい。
俺は姿勢を整え、落ち着いた声で応じた。
「魔眼そのものの信頼性については……私自身、魔眼を所持している身ゆえ、多少なりとも理解がございます」
「……あなたも、魔眼を?」
「はい。種類は異なりますが、魔眼というものは、個人の感情や主観によって左右される余地が一切なく、ゆえに、一定以上の熟練者が用いる魔眼は信頼に足る情報をもたらします」
断言に近い口調で言い切ったが、嘘だ。
俺が、魔眼を持っているからといって、
他人の魔眼の精度が分かるわけではない。
ましてや、キシリカの魔眼がどういう理屈で見つけているかなんて、
分かるはずもない。
だが、
キシリカに不純な動機が一切ない
という一点だけは、揺るぎようのない事実だ。
それだけで十分だ。
クレアにとって必要なのは、魔眼の正体ではなく、
ゼニスが“生きている”という確証。
クレアはしばし沈黙し、俺を見つめていた。
そこへ、カーライルが口を開いた。
落ち着いた声だが、妻を諭すような柔らかさがあった。
「……クレア。カイン君の話は理に適っているように思えるが、どうだろう。ゼニスが“生存している可能性が高い”というだけでも、我々にとっては大きいはずだ」
クレアは眉をぴくりと震わせ、
長く息を吐いた。
「分かりました。あなたの言葉を信じましょう、ゼニスは、生きているのですね」
「ご理解心より感謝申し上げます。では、次の要件についてお話ししてもよろしいでしょうか」
「ええ。聞きましょう」
カーライルも頷き、わずかに身を乗り出す。
「二つ目の要件は……アイシャの件についてです」
俺は姿勢を正し、言葉を選びつつ続けた。
「アイシャは転移により、私とともに魔大陸へ飛ばされました。以後一年間、私自身の家族を探す旅と並行して、パウロと同じく転移者の捜索、及び保護を行いながら、アイシャを魔大陸からミリスまで護衛し連れて参りました」
「魔大陸で、か。あそこは魔物の多くがC級以上……。君のような年若い者が一年も生き抜き、なお他者を庇護する余裕があったとは……随分と腕が立つようだな?」
「カーライル、その話は後にしてください。前置きはもう十分です。あなたの要件とは何でしょう」
「今後の旅路にもアイシャを連れていきたいと考えております」
「だめです」
即答だった。迷いの欠片すらない拒絶。
「あの子らは、私が教育いたします。転移で一年も野放しにされていたのでしょう? これ以上、規律のない環境に置くわけにはいきません。あの子らに相応しい教育と生活は、こちらで用意いたします」
「待ちなさい、クレア。あの子はまだ幼い。親元を離れ、こちらに来るにせよ、カイン君についていくにせよ……どちらも親のもとから離れることになる。それはあの子の将来のためにもよくないことではないのか?」
「ご懸念はもっともに存じます。しかし、私はアイシャを旅に連れていく価値があると考えております」
カーライルは黙って続きを促した。
俺は一語ずつ、慎重に続けた。
「アイシャは、極めて多才な子です。言語、魔術、計算、交渉、判断力。ミリスに来るまでの旅で、その才能は驚くほど開花いたしました。そのような子を、一つの場所に留め、どこでも受けられる教育だけを受けさせるのは……才能の伸びを閉ざすことにもなりましょう」
クレアの眉がピクリと動く。
だが、遮る気配はない。
続けろ、という無言の合図に感じられた。
「もちろん、礼儀作法や規律を疎かにするつもりはございません。旅の間も、私自身が責任を持って教え、行動を律し、外に出ても恥じない振る舞いを身に着けさせるつもりです」
俺は視線を伏せず、まっすぐカーライルを見た。
一瞬の沈黙。
そしてカーライルが、問う。
「……それは、あの子自身が望んだことなのか?」
「私の旅についていくことは、アイシャ自身が望んだことです。一時の迷いではなく、はっきりとした意志です」
「……選んだと言っても、あの子はまだ子どもでしょう。子どもの言葉を、どこまで真に受けるつもりですか?」
俺は胸中に走った苛立ちを押し殺した。
「何も知らないくせに」と叫びたくなる気持ちを、
深呼吸で押しとどめる。
ゆっくりと、丁寧に言葉を選ぶ。
「確かに、アイシャはまだ子どもです。ですが、子どもが選んだからと言って、その選択を軽んじていい理由にはなりません」
クレアの反論を許さぬような鋭い視線が突き刺さる。
それでも俺は続けた。
「アイシャは、自分で考え、恐れ、悩み……それでも“どうしたいか”を選びました。
あの子は聡い子です。親と離れる不安も、旅の危険も、これからの暮らしの厳しさも……全部理解した上で。それでも彼女は、私と一緒に行きたい、とはっきり言いました」
「その選択を『子どもだから』という理由だけで、なかったことにはしたくないんです!」
室内の空気が一瞬で張りつめた。
声を張るつもりなどなかった。
それでも、アイシャのことになると、
胸の奥の何かが抑えきれなくなる。
ラトレイア家の静かな部屋には、
あまりにも場違いなほど響いてしまっていた。
そんな中、最初に口を開いたのはカーライルだった。
「パウロ。お前は許可したのか?」
「あ、そうです」
いきなり話を振られて戸惑ったのか師匠の声は裏返っていた。
俺は横目で見て頭を抱えそうになる。
カーライルは眉一つ動かさず、静かに続けた。
「単なる“甘い親”として許可したのか。それとも“考えのうえ”で許可したのか……そこを聞いている」
師匠は一瞬だけ視線を落とす。
だが、次の瞬間には顔を上げていた。
「……甘い親なのは、自分でもわかっています。ですが、この一年。聞いた話によるとアイシャは、俺の想像以上に強く生きていました。俺よりよっぽど、大人だと思える瞬間だって何度もありました。俺が側にいてやれなかった分……アイシャはちゃんと成長してたんです。そして、そんな娘が迷いなく「行きたい」と言ったんです。なら……俺はそれを信じるべきだと、考えて許可しました」
師匠の言葉は、飾り気がなく、まっすぐだった。
本当にこの人は、肝心なところで外さない。
俺は横で静かに息を整えながら、心の中で呟く。
やっぱり師匠は、やるときはやる人だ。
普段のだらしなさも、軽口も、
全部この瞬間のための前フリなんじゃないかと思えるくらいに。
「なるほど。お前なりに考えたうえでの判断、ということだな」
「はい」
カーライルはその言葉を受け取り、ゆっくりと視線を俺へ移す。
その目が、真正面から俺を射抜くように向けられる。
「では、カイン君。君は、本当にアイシャを守れるのか?」
「相手が魔王であろうと……守り抜いてみせます」
「はは……魔王、か。ずいぶんと大きく出たな。しかし、大それた虚勢ではなく、本気で言っている顔だな。よろしい、度胸があるのは悪いことではない」
カーライルはわずかに顎を引き、
俺を見たままゆっくりと言葉を続けた。
「よし。カイン君、君がアイシャを連れていくことを、私は許可しよう」
俺は胸に手を当て、深く、恥じない礼を込めて頭を下げた。
「寛大なお心に、心より感謝申し上げます」
続けて隣の師匠も、俺に合わせるように同じ姿勢で礼をした。
しかし。
「カーライル!」
静謐な部屋に、鋭い声が響いた。
クレアが手を膝に打ちつけるように置き、
眉を吊り上げてカーライルをにらみつけた。
「軽々しく認めるつもりですか? 一年も行方知れずだった子どもを、またどこかに行かせるというのに……!」
カーライルはその怒声にも顔色一つ動かさず、
ただ静かにクレアへと向き直った。
「軽々しく、ではないさ。クレア。カイン君は、責任を背負う覚悟を持っている。そしてパウロもまた……親として考えたうえで許可したと言った。二人の男がここまで言ったのだ。ならば、我々もその覚悟を受け取るべきだろう」
「あなたは、覚悟と言うけれど、覚悟だけで守れるほど……世の中甘くありません」
「もちろんだ、クレア。覚悟だけで何でも守れるなどとは、私も思っていないし、君が不安がる気持ちも分かるが、今回の件に関してだけは、口出しさせない」
クレアがわずかに目を見開く。
カーライルはそのまま続けた。
「一年前の、捜索団への援助の件を覚えているな? あの時、私は、家としての負担をすべて引き受け、お前の判断を最後まで尊重した。今度は、君が私を尊重する番だ」
しばしの沈黙のあと、
クレアはほんの少し俯き、
低い、しかしはっきりとした声で言った。
「……そう、ですか。でしたら……今回は、あなたの判断に従いましょう」
その声は、悔しさと不安を抱えつつも、
確かに夫の判断を受け入れていた。
「カーライル様とクレア様のご判断が、間違っていなかったと証明できるよう、全身全霊で務めを果たします」
―――
ラトレイア家の重厚な門をくぐり抜け、外気に触れた瞬間。
師匠は肩をぐるぐる回しながら、ため息とも唸りともつかない声を漏らす。
「やっぱり、あの人はおっかないな……」
「そうですかね?」
さっきの応接室の緊張と威圧感を思い返しつつも、
師匠の反応ほどには恐怖を感じていなかった。
「お前、さっきのが怖くなかったのかよ?」
「緊張はしましたけど、怖いとは……あまり」
「確かにお前は堂々としてたけどよ」
「堂々としていた、というより……クレアさん、師匠たちが言うほどの悪い人じゃなかったと思いますよ」
「どこをどう見たらそう思えるんだよ……」
「なんというか“怒っていた”というより“心配していた”だけに見えました」
「心配……?」
「ええ。アイシャを思っての言葉でしたし、カーライルさんの意見もきちんと聞いていました。理不尽な怒りとは……違った気がします」
俺は小さく息を吐き、門の向こうをもう一度振り返った。
身構えていたほどの嫌な人ではなかったな。
実際に対面してみれば、
確かに厳しいし、頑固なのは間違いない。
言葉に棘はあるし、表情も険しかった。
けれど、思っていたより、ずっと優しい人だった。
厳しさの奥に、不安と心配がずっと見えていた。
本当にどうでもいい相手なら、
あんなふうに怒りもしない。
問いただしもしない。
食い下がりもしない。
本当にダメなのは……無関心だ。
あの人は、アイシャが妾の子だとしても。
ちゃんと家族として想っていた。
それが分かっただけでも、今日ここへ来た意味はあった。
そこへ、横を歩いていた師匠がぽつりと聞いてきた。
「なぁカイン……転移者が船で来るって話、あの人に言わなくてよかったのか?」
「…………あ」
「お、おいおい……まさかお前まで言い忘れたとか言うんじゃないだろうな?」
俺は苦笑し、肩をすくめた。
「あはは、冗談ですよ。師匠じゃないんですから。最初から言わないつもりでした」
「おまえなぁ……紛らわしい言い方すんなよ」
魔王も海族も深く関わっている以上、
魔族排斥派であるラトレイア家に話せる内容ではなかった。
海族は厳密には魔族ではない。
だが、ミリス教団の掲げる「魔族はすべて滅ぶべし」という教えは、
ラプラス戦役から来てるっぽいからな。
そのラプラス戦役で、海族は魔族側についたという記録が残っている。
事実がどうであれ、ミリスの価値観から見れば、
「あれは魔族と同類」と扱われかねない。
だから俺は何も言わなかった。
正しい情報が、正しく扱われるとは限らないからな。
「しかし……お前、さっきのクレアさんの前でやけに礼儀正しかったよな。俺よりよっぽど貴族っぽいっていうか……」
「自覚があるなら直してくださいよ。元貴族なんでしょう?」
「貴族っつってもな……礼儀作法の授業なんて真面目に聞いてなかったし、ガキのころに家のことが嫌になって飛び出してからは、ずっと冒険者やってたからな。使う機会もなければ忘れんだろ」
……なるほど。師匠らしいと言えばらしい理由だ。
「逆に聞くけど、お前こそどこでそんな礼儀作法覚えたんだよ?」
「リーリャさんに教えてもらったんですよ。シルフィに礼儀作法を教えるついでで、一緒に」
「……ああ、あれか」
「あれです」
師匠の顔が、ふっと苦い影を落とした。
さっきまで普通に歩いていたはずなのに、
リーリャさんのことを思い出しているのだろう。
「リーリャさんも……きっとすぐ見つかりますよ。ルーデウスが連れてきてくれるかもしれませんし」
師匠は一瞬ぽかんとした後、
ふっと笑った。
「……なんか、想像できるな、それ。あいつならさらっと連れて帰ってきそうだ」
「でしょう?」
「それにしてもお前……あんなこと引き受けて大丈夫だったのか?」
「あんなこと、って……カーライルさんとの一騎打ちの件ですか?」
俺は答えながら、さっきのやり取りを思い返した。
あの話し合いがすべて終わり、退出の挨拶をしたあとだ。
カーライルさんに呼び止められ――
『君の言葉に嘘はないと思う。しかし、覚悟と実力は別だ。それを見極めるため……後日、私と手合わせしてもらえないだろうか』
――と言われた。
俺があの場で放った言葉を、言葉だけで終わらせないかどうか、
あの人は自分の目で確かめたかったのだろう。
「ああ、相手は神殿騎士団の大隊長だぞ? 普通は二つ返事で引き受ける話じゃない」
「だからって、あそこで引いたらダメでしょう。あの一騎打ちの提案って、要するに
“俺に任せてもいいかどうか”を見極めるためのものですよね。「任せられるか?」って聞かれたら「任せてください」と返すのが礼儀でしょう?」
そこで師匠はふっと表情を緩め、
大きな手で俺の頭をぐしゃっとわしづかみにした。
「カッコつけやがって」
髪をわしゃわしゃにされながら、俺も小さく笑った。
「師匠の弟子ですから」