俺がパウロの弟子になって数ヶ月後の、稽古が終わったある日の午後。
少し汗をかいた体を冷ますために、俺はルーデウスに声をかけた。
「なあルーデウス、せっかくだし、村の外で釣りでもしないか? 日もまだ高いし」
「……え、そ、外ですか?」
「そう。ここから五分も歩けば小川があって、景色も悪くない。人もいないし静かで絶好の釣り場所なんだ」
ルーデウスはしばらく口を閉ざし、何かを飲み込むように視線を伏せた。引こうとした足は、まるで地面に縫い止められたように、微かに震えたまま動かなかった。
「どうしたんだ、ルーデウス……?」
小さく名前を呼んでも、返事はない。代わりに聞こえたのは、荒くなった呼吸の音だった。肩がかすかに上下して、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
その様子に、ようやく俺は気づいた。これはただ「嫌だ」とか「面倒くさい」とか、そういう類じゃない。体が、本能的に拒絶していた。
「僕外には……でれないんです」
俺が思わず言葉を詰まらせていると、彼はぎこちなく笑った。
「庭までは出られるんです、でもその先に行こうとすると、どうしても足が震えて、動けなくなってしまうんです」
……そういえば。俺はルーデウスが外に出ているところを見たことがない。
最初はただインドア派なだけだと思っていたけど、どうやら違ったらしい。
どうやら違ったらしい。
俺は言葉を選びながら、ゆっくりと息を吐いた。
喉の奥が少しだけ詰まったような感覚があって、それでも、言わなきゃいけないと思った。
「……すまん、ルーデウス。人の心にずけずけと入り込んで、俺無神経だった」
「え……いや、カインが謝ることじゃないですよ。僕が言わなかったんですし……」
ルーデウスはそう言って、いつもの調子を取り戻そうとしたのか、少しだけ笑ってみせた。けれど、その笑顔はどこかぎこちなくて、目も俺とは合わなかった。重い空気が、庭に静かに漂う。気まずさが風に混じって、やけに肌に残る。
「……俺そろそろ帰るよ。その、ごめんな」
そう言って背を向ける。ルーデウスはそれ以上何も言わなかった。
──歩きながら、宿儺に話しかける。
「なあ、宿儺、俺どうすればよかったのかな?」
ルーデウスのあの顔が、頭にこびりついて離れない。
気まずい空気。言葉にできなかった感情。
あのとき、何かもっとできたんじゃないか。言えたんじゃないか。
そう思うが過去は変わらない。
『あの餓鬼が隠していたことだ。小僧が踏み込めるはずもない「外に出られない」というのはどうやら、心に染みついた恐怖だ。何があったのかは知らんが、小僧がそう簡単にどうこうできるものではないだろうな』
(それはそうだけど、その結果として、俺はルーデウスを傷つけてしまった)
『それは、あの餓鬼を知らずに勝手に踏み込んだ結果だ。だが――それは悪意ではない。ただの行き違いというやつだ』
(……でも)
『くだらん』
宿儺はため息を吐きながら俺の言葉を区切るように言った。
『小僧、人と関わり知ろうとすることは、そういうものだ。踏み込めば傷つけることもある。だが、そうして踏み込まなければ、何も始まらん』
俺は目を伏せたまま、静かに歩く。風が肌を撫でるたび、あの時のルーデウスの表情が頭をよぎった。
(……俺は、ルーデウスのことを思いやれてたのか? ただ、自分のしたいことを押し付けただけだったんじゃないのか?)
『それでもいい。小僧は、あの餓鬼と出かけたいとそう願った。それは、前の生では持ち得なかった感情なのだろう?』
(……宿儺って意外と優しいんだな)
そう返すと、宿儺はすぐさま鼻で笑った。
『優しさなどではない。俺は、あの空間で、小僧と話し、言ったはずだ。「生き方を変える」とな、それで小僧にアドバイスしてやっているだけだ。勘違いするなよ、俺は今でも他人に満たしてもらう生き方など、愚かしいと思っている』
愚かしいと言う、だけど俺にはわかる。宿儺はそれを決して否定はしていない。
むしろ──
自分とは違う選択を取った俺を、ほんの少しだけ、認めてくれている。そんな気がした
(……今からルーデウスにちゃんと謝ってくる)
そう心の中で返すと、まるで「勝手にしろ」とでも言いたげに、宿儺はふっと興味なさげに気配を引っ込めた。
俺はそのまま踵を返し、来た道を歩き始めた。陽は傾き始め、村の影が少しずつ伸びていく。
グレイラット家の門が見えてきた。胸の奥がまた少しだけ強張る。
(俺が怖いのは、何も言わずに逃げて、自分の気持ちをごまかすことだ)
――前世の俺は、ずっとそうやって生きてきた。
失敗が怖くて、他人が怖くて、自分の選択に責任を持つのが怖くて……何も選ばず、何も踏み出さず、ただ流されて生きていた。やりたいことも、言いたいことも、言い訳で塗り潰して。どうせ無理だ、どうせ誰もわかってくれないと、勝手に殻に閉じこもって。
(あの頃の俺みたいな生き方だけは、もう絶対にしたくない)
あの空間で宿儺に出会って、心の奥から決めたんだ。
今度の人生では、自分の意志で動くと――誰かと関わり、誰かを理解する努力をするって。たとえそれで、間違えたり、傷つけたりしたとしても。
(だから、ちゃんと謝りたいんだ)
グレイラット家が目の前に迫ってくる。
重々しく見えるわけじゃない。ただ、心のどこかに残るわだかまりが、それを必要以上に大きく見せているだけだ。
深く息を吸い、俺はグレイラット家の扉の前に立った。
そして、躊躇いを押し殺しながら、その手で扉を叩く。
この手にこもる力は、今度こそ、俺自身の選択だった。