今、俺はラトレイア家の広大な庭で
カーライルさんと真正面から向かい合っていた。
この場に立っているのは俺とカーライルさん、ただ二人だけ。
つまり、
この勝負は余計な言い訳も、余計な口出しも、
誰の助けもない、純粋な一対一。
「ひとつ言っておこうカイン君。この一騎打ちはあくまで試しだ。勝敗そのもので昨日の判断が覆ることはない」
そのまま、厳しくも誠実な眼差しで俺を射抜く。
「だが、カイン君がどの程度の覚悟と腕を持つか……この目で確かめさせてもらう」
「はい」
この戦いで俺は、呪力強化は使う。
だが術式は使わない、式神も御廚子も封じる。
術式を使えば、勝つこと自体は難しくないだろう。
それは分かっている。
だが、理解も納得もできない力でねじ伏せられたところで、カーライルさんが安心するはずがない。
純粋に、剣士としての俺だけで挑む。
「準備はいいな、カイン君」
「はい」
その瞬間、空気が変わった。
言葉の余韻が消えるより早く、
カーライルさんの気配が一段階深く沈む。
俺は静かに水神流の「待ち」の構えへと移行する。
半身に構え、剣先は相手を向けず、あくまで自然体。
こちらから仕掛けず、相手の動きを受けて流し、崩す。
その姿勢を見て、カーライルさんの眉がわずかに上がった。
「水神流か……」
次の瞬間、地面を蹴る音が響いた。
カーライルさんが風のように距離を詰めてくる。
踏み込みは鋭く、迷いがない。
騎士として鍛え上げられた実力が、その一歩だけで分かる。
速い、確かに速いが、俺の目で十分追える速さだった。
これより速い相手を、俺はすでに知っている。
魔大陸のSランク魔物はもっと速い。
アトーフェと比べれば、なおさら読みやすい。
こっちは人間の速さだ。
「はッ!」
振り下ろされた剣が、視界の端から弧を描く。
迷いも溜めもない、教本のような美しい一撃。
呪力強化をしていなければ、骨くらい簡単に砕かれるだろう。
当たればの話だが。
俺は身体を半歩ずらし、刃を斜めに滑らせて力をそらす。
衝撃が肩から腰へ流れていき、地面へと抜けた。
「むっ……これを受け流すか」
低く感嘆する声が背中越しに聞こえた。
同時に、俺はすでに反撃へ移っていた。
流した剣の軌道を利用し、そのまま自分の剣を振り、カーライルさんの脇腹へ斜めに打ち込む。
だが。
剣がぶつかるより速く、俺の剣はぴたりと止められた。
「……!」
横から伸びてきたカーライルさんの剣が、俺の進路を正確に塞いでいる。
俺が背後に回り込んだ時点で、すでに迎撃の準備を完了していたのか。
次の瞬間、俺は距離を取るために大きく跳ぶ。
地面を蹴り、芝の上を滑るように後退し、構えを立て直す。
カーライルさんは追撃してこなかった。
踏み込めば届く距離まで俺が下がったというのに、
一歩たりとも前へ出ない。
ただ静かに、しかし鋭くこちらを見据えている。
そして、淡々と告げる。
「……やはり本気ではないな、カイン君」
俺が息を整えるより先に、カーライルさんの言葉が続く。
「私は、力を見せびらかせと言っているのではない。だが……守る覚悟を見せると言った以上、半端な剣を振るうべきではない、そうだろう?」
視線が、まっすぐに俺を貫く。
分かっていた。
分かっていたのに、どこかで「試験だから」と意識していたのかもしれない。
力量を示しつつ、危険は最小限に……そんな甘えがあった。
「カーライル様の言う通りたしかに、今の一太刀は全力ではありませんでした」
吐き出すように認める。
術式を使っていないから本気ではないという意味ではない。
この一年。
俺には剣での切り札ができた。
転移事件が起きる前。
師匠がやっていた、あの一振り。
どうしてか分からない。
何百回も見たわけでもない。
原理も曖昧だ。
それなのに――
あの一太刀だけは、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
あの技には、まだ“先”がある、
理由なんてない。
けれど、あれで完成じゃない、まだ続きがある。
自分なら、その先に手を伸ばせる。
そんな根拠のない確信だけが、
胸の奥に居座り続けていた。
だからこの一年、呪術と併行しながらも。
あの一振りだけは、狂ったように、
何万、何十万回と振り続けた。
俺は深く息を吸い込み、頭を下げた。
「……申し訳ありません、カーライル様。本気を見せずに剣を交えるなんて、失礼でした」
「謝る必要はないよ、カイン君。未完成でも、迷いがあっても……前へ踏み出そうとする姿勢。私は君のそういうところを評価している」
そして、穏やかに口角を上げる。
「さあ……遠慮はいらない。君の全てを私に見せてくれ」
短く返し、ゆっくりと息を吐き出す。
俺は、足の裏に重心を沈め、腰を落とす。
左足をわずかに引き、腰を沈め、柄へ添えた手に無駄な力を入れない。
胸の内側に溜まっていたすべての焦りや雑念が、するすると落ちていく。
居合の構え。
自分でも気づけば、この形に収まっていた。
もっとも速く前へ踏み込み
もっとも速く相手の間合いに入り
もっとも速く剣を振り抜く
無駄を削り落とし、速さだけを研ぎ澄ませた、
“ただ一振り”のための構えだ。
風が止んだ。
空気が、俺の踏み出す瞬間を待っているようだった。
カーライルさんの視線が、
居合の構えを見てわずかに鋭くなる。
深く息を吸い、肺の奥で熱を整える。
俺は静かに、しかし確実に前へ踏み出した。
地面を砕くような派手さも、重い音もない。
ただ、最短距離を無駄なく進むためだけの一歩。
次の瞬間には、もう距離が詰まっていた。
カーライルさんが、反射で剣を振り上げる。
だが、関係ない。
止める必要はない。
受け流す必要もない。
ましてや、動きを読む必要もない。
だって――俺の方が、速いのだから。
握る柄に込めた力が、一切の抵抗なく軌道を走り抜けた。
一本の軌跡だけがまっすぐ伸びる。
ほんの一瞬、カーライルさんの瞳が揺れた。
迎撃のため剣を振りかぶろうとしていた。
しかし、間に合わない。
迎撃も、受けも、斬り下ろすことも――
何ひとつ許さない。
呼吸一つ分にも満たない一瞬で、
俺の一閃が最短経路を走った。
カーライルさんの剣が振り下ろされるより早く、
迎撃の意志が筋肉へ伝達されるより早く、
反射神経がその状況を認識するより早く、
俺の剣は、カーライルさんの首筋へ吸い込まれるように到達していた。
刃はかすかに肌へ触れ、紙一重の距離で寸止め。
カーライルさんの呼吸がひとつだけ、遅れて返ってくる。
風が、遅れて俺達の間を通り抜けた。
「見事だ」
俺は静かに剣を引き、そのまま鞘へと滑らせる。
そして深く、礼をした。
―――
互いに一礼した後、
少し場所を移した。
「これでも神殿騎士団の大隊長なのだがな……」
カーライルさんは腰に手を添え、軽く息をつきながら言った。
「最後の一振り、あれは無音の太刀……いや、光の太刀ではないかね?」
「無音の太刀」転移する前に師匠が俺の目の前で放った、あの技の名前だ。
しかし「光の太刀」というのは知らない。
もしかすると……今の俺の一撃と似通った技が存在するのだろうか?
「光の太刀、とはどういう技なのですか?」
「剣神流の奥義。聖級以上の剣士が扱う、一撃必殺の技だ。私はてっきり……パウロに教わったのだと思っていたが、違ったかね?」
「師匠は三大流派をすべて習得していますが……上級までのはずです。聖級以上の技は、教わっていないと思います」
「ふむ……そうか。ならば私の勘違いだったかもしれん、昔「光の太刀」を見たことがある。あれは一筋の光が走ったような、あまりにも速い剣だった……君の一振りは、その軌跡にとてもよく似ていた」
「……いえ、俺はまだ上級ですし、使っているのは水神流です。剣神流の奥義に似ていると言われても……さすがにそれは、ありえないと思います」
「そうか、まあ、光の太刀は両手を使って放つものだ。君は片手で放っているから違うのだろうね。でも……君の一振りは、そう呼ばれたとしても不思議ではないほど、見事だったよ」
静かな声だったが、その奥には確かな賛辞が宿っていた。
そして、わざとらしいほど軽い調子で続ける。
「神殿騎士団に勧誘したいぐらいにね」
「……勘弁してください」
「あはは、そうか。だが、それほどの腕だと私に思わせたということだよ、カイン君」
「ありがとうございます」
「これで確信した。あの子を預けると言った私の判断は、間違っていなかったとね」
カーライルさんはそう言って背を向け、歩き出す。
けれど、数歩進んだところでふと振り返った。
「そうだカイン君。私から、伝えておきたいことがある」
「なんでしょう?」
「剣を振るう理由を、どうか見失わないでほしい」
少しだけ間を置いて、ゆっくりと言葉を紡ぎはじめる。
「強さを求める者は多い。だが、不思議なことに……人は強くなるほど、自分を誤魔化し、理由をねじ曲げ、剣を振るう意味を置き去りにしてしまう者が多くなる」
その言葉は、まるで俺の胸の奥を見透かしているかのようだった。
カーライルさんはゆっくりと振り返り、その瞳がまっすぐ俺を射抜く。
「だからこそ、君ほどの力を持つ者は、常に自問し続ける義務がある。迷えば立ち止まり、悩めば向き合え。悩むこと自体は悪くない。むしろ若い者ほど、存分に悩めばいい。だが……悩むことから逃げてはいけない。悩むことをやめた瞬間、人は簡単に自分を見失ってしまうからね」
その言葉は、俺だけに向けたものではないのかもしれない。
カーライルさん自身が、
かつて誰かに言えずに飲み込んだ言葉だったのかもしれない。
「少々説教じみた話だったかもしれんが……まあ、この歳になると、どうもな」
カーライルさんは最後にそう締めくくると、
ほんのわずかだけ柔らかい笑みを浮かべた。
戦士としての厳しさではなく、年長者としての温かさが滲む微笑だった。
俺はその背に、自然と深く頭を垂れる。
「はい。肝に銘じます」
その言葉は、思っていた以上に素直に出ていた。
カーライルさんは満足そうに一度頷き、今度こそ本当に歩き出していった。
―――
ラトレイア家を辞したあと、俺はひとりでミリシオンの街を歩いていた。
「送ろうか?」とカーライルさんには言われたが、丁重に断った。
今はひとりで歩きたかった。
風が冷たくて気持ちいい。
緊張がゆっくりと剥がれていくのを感じる。
勝った。
とりあえず結果だけ見れば、そういうことになる。
神殿騎士団の大隊長に勝ったというところだけを聞けば、
普通なら舞い上がった方がいいのかもしれない。
自分の実力を誇りたくもなるのかもしれない。
けれど……浮かれた感情は、まったく湧かなかった。
代わりに頭を占めていたのは、カーライルさんの言葉だ。
「迷えば自分を見失わずにすむ、か」
その言葉だけが、何度も頭の中を往復していた。
だが同時に、どうしても浮かんでしまう疑問がある。
――迷えば剣が鈍るのではないか?
この世界では、ほんの一瞬の遅れが命取りになる。
迷った瞬間に死ぬ、そんな場面を何度か経験してきた。
だけどカーライルさんは、迷えと言った。
矛盾しているようで、どこか核心を突いている気もする。
そもそも今の俺に、何が無駄で、何が必要なのか判断できるほど、経験も、年齢も、そこまで積み上げちゃいないのだろう。
前世の記憶はあるが、それだって胸を張れるほど真面目に生きてきたわけじゃない。
責任のある選択を避け、どこか他人事で流されるように毎日をやり過ごしていた。
今思えば、あの頃の俺には、
迷うという行為すらしていなかったのかもしれない。
どこか他人事のように、自分の人生を傍観していた。
今の俺は……ようやく“ちゃんと生きる”ってことを始めたばかりだ。
だからこそ今の俺には、迷うことそのものが必要な行為なのかもしれない。
悩んで、立ち止まって、立ち止まったからこそ見えるものがあって、
またほんの少しだけ前へ進んで。
その繰り返しの中で、俺という人間はゆっくり固まっていくのだと思う。
結論は出ない。
焦って答えを掴もうとしても、
指の隙間から零れるだけだろう。
むしろ急ぐほど、本当に大事なものを見落としてしまう気がする。
カーライルさんの言葉は、そういう意味なのかもしれない。
「ちゃんと生きるって……難しいなぁ」
思わず苦笑いが漏れた。
でも、難しいと感じている時点で、
前の人生の俺とはもう違うんだろう。
悩むほどの人間関係があって、
迷うほど大切な仲間がいて、
立ち止まってしまうほど守りたいものがある。
だから今こうして頭を抱えてるのは、
傍観者じゃなくて、
ちゃんと当事者として生きてる証拠なのかもしれない。
たとえ選択に自信がなくても。
たとえ正解が分からなくても。
それでも自分の意思で足を前に出してる。
だからまぁ、迷うくらいで丁度いいのかもしれない。
上手く生きるのは下手くそなままだけど……