あの後、歩きながら簡単に自己紹介を済ませた。
男は、ランドルフという名前らしい。
例の定食屋はイーストポートにあるということで、
俺たちはそのままランドルフさんに案内され、
港町へ足を踏み入れることになった。
港町の風景を眺めていると、
ランドルフさんが、ふと横から声をかけてきた。
「時に……カインさんは剣士なのですか?」
「ええ」
視線を戻すと、ランドルフさんは相変わらず読みづらい顔で、
俺の腰の剣を眺めていた。
「差し支えなければ、流派をお聞きしても?」
「水神流です」
その瞬間、ランドルフの動きが止まった。
まばたき一つ、呼吸一つ、ほんの一拍だけ空白が生まれる。
「……剣神流ではなく?」
「? はい」
「剣神流に興味はないのですか?」
「無いわけじゃないですけど、両方を戦闘で使えるほど器用じゃないと思うんで。中途半端になるくらいなら、今は水神流一本でいこうかなと」
「そうですか」
「そう言うランドルフさんは、何の流派を?」
「私ですか? 北神流と、水神流を少々」
「師匠と同じ、ハイブリッド型ですか」
ぽろっと出た単語だった。
「……ハイブリッド? それはどんな型なのですか?」
「あー……えっとですね、複数の流派や戦い方を、自分の中で混ぜて使う剣士のことです」
「いい言葉ですね」
「そうですか?」
「ええ。今まで自分の剣を説明するのに、ずいぶん回りくどい言い方をしてきましたが……それなら一言で済みます」
「多分、そこまで世の中に浸透してる言葉じゃないですよ」
「おや、そうでしたか。それは残念」
言葉ほど残念そうではない声音で笑う。
肩をすくめつつも、どこか満足そうだ。
そんな他愛のないやり取りをしているうちに、
ランドルフさんは、通りの端で足を止めた。
「ここです」
示された建物を見て、全員が一瞬、言葉を失う。
外見は……お世辞にも、きれいとは言いづらい。
壁にはところどころ穴が空き、板は歪み、屋根の端は剥がれかけている。
看板の文字はほとんど霞んで読み取れない。
……大丈夫か、ここ。
そう思った瞬間、
ランドルフがこちらを振り返り、にこやかに言う。
「フフ……ボロボロでしょう?」
「まあ……はい」
さらっと重いことを言う。
その一言で、俺の中に小さな不安が芽生えた。
味の方は大丈夫なのだろうか……
だが、引き返すにはもう遅い。
ランドルフさんは、ガタガタと音を鳴らしながら扉を開ける。
俺たちもランドルフさんについていき、店の中に入る。
そこは、なんというか……小奇麗な廃墟だった。
清潔ではある。
床も掃除され、テーブルも拭かれている。
だが床にも、天井にも、テーブルにも、あちこちに穴が開いている。
風がひゅうひゅう通り抜け、時々、天井の隙間から光が差し込んでいた。
その光を見上げて、アイシャが小さく眉をひそめる。
「ねえ、お兄ちゃん。ここ、本当に大丈夫なの?」
「……まずかったら、俺が食べるよ」
アイシャはふるふると首を振った。
「そうじゃなくて……天井とか落ちてこないかなって」
あ、そっち。
確かに、今にも踏み抜きそうな板はある。
ブレイズが歩くたびに「ミシ……」と嫌な音も鳴っているし、
ノコパラもさっきから足元をやけに慎重に選んでいる。
「……落ちてきたら、俺が盾になるから」
「それが一番こわいよ……」
ランドルフさんは、
そんな俺たちの様子をまったく気にするでもなく、
奥の席を指して言った。
「どうぞ、こちらへ」
しかし、案内されたテーブルには、
椅子が二脚しかなかった。
仕方なく、ノコパラとブレイズが、
他の席から椅子を引きずってくる。
椅子の脚を引きずる音が、店内にガリガリと響いた。
なんとか四人分が揃い、全員が腰を下ろす。
床がきしんだが、今は考えないことにした。
「皆さん、ドラゴン肉のナナホシ焼きで、よろしかったですね?」
「ええ、それで」
そう答えると、ランドルフさんはそれ以上何も言わず、
本当に音も立てずに、すっと厨房の奥へと消えていった。
店内には風の音だけが残る。
ひゅう、と吹き抜ける隙間風が、
テーブルの上の木屑を転がした。
「……のど乾いたな」
ノコパラがぽつりと呟く。
「そうだな」
歩きっぱなしだったせいか、俺も急に喉の渇きを思い出す。
そこで、何気なく影に手を伸ばした。
影の中からコップを取り出し、テーブルの上に置き、手をかざす。
澄んだ水が、手からそのままコップへと落ちていく。
すぐに、なみなみと満たされた。
コップにちょうどいい量ずつ注ぎ、全員の前へ配った。
「はい」
「……なんだ今のは」
「普通の水だ。衛生面は保証する」
「そうじゃねぇよ」
即ツッコミが入る。
ブレイズがコップを手に取り、じっと俺を見る。
「無詠唱……使えたのか?」
「ああ、ちがうちがう。これは魔術じゃない」
俺は自分の手をひらひら振る。
「『満象』の水を出す能力を『満象』を出さずに使っただけだ」
「器用な奴だなお前は」
「だろ? 結構苦労したんだぞ、これ」
そう言いながら、俺は自分の前に置いたコップを手に取る。
一口含んで、少しだけ眉をひそめた。
「……ぬるいな」
「じゃあ、ちょっと待って」
すると、すぐ横でアイシャがぱっと手をかざし、
無詠唱で小さな氷をいくつか作って、俺のコップに落としてくれる。
カラン、と軽い音。
「はい、どーぞ」
「お、ありがとな、アイシャ」
「どういたしまして、お兄ちゃん!」
にぱっと笑って嬉しそうに胸を張るアイシャの頭を、軽くなでる。
少し照れたように目を細めるのが可愛い。
それを見ていたノコパラが、すかさず声を上げる。
「……なあ、俺にも入れてくれ」
「えー、ノコパラは自分でできるでしょ……」
「なんだよ、カインだってできるだろ」
「うっ……まあ、いいけど」
アイシャは特に嫌がる様子もなく、
今度はノコパラとブレイズのコップにも、同じ大きさの氷を落とした。
「サンキュー」
「助かる」
二人が礼を言う横で、俺はそれを眺めながら、
さっきの自分の動作を頭の中でなぞっていた。
……やっと、形になってきたな。
式神の術式の抽出。
前々からやろうとして、ずっと模索してきたことだ。
式神というのは、顕現していない間、影の中に存在している。
だがその姿は、完全な形を持っていない。
核だけがあり、それ以外は曖昧な輪郭のまま、影の中に溶けている。
顕現とは、その核を基点に、
形と機能を組み上げる行為だ。
そして、式神を観察しているうちに、
気づいたことがあった。
式神が能力を使う瞬間、
必ず、その“核”を通して力が流れている。
ならば――その核だけを掴み、そこに自分の呪力を流し込めば、
式神そのものを顕現させずに、能力だけを引き出せる。
そう、俺は考察した。
理屈は単純だが、問題は感覚だった。
“見えない核”を、意識だけで掴む。
形も重さもないものに指を伸ばす感覚は、
ひどく不安定で、何度も失敗した。
だが最近、ようやくコツが分かってきた。
やはり、俺の考察は当たっていたのだ。
……ん?
やはり?
ふと、その言葉が頭の中に引っかかる。
まるで、前から確信していたかのような言い回しだ。
何か、俺の中に確証があったのだろうか……
理屈だけじゃなく、感覚の奥で、
ずっと「そうなる」と知っていたような、
そんな妙な納得感。
その思考は、ふわりと漂ってきた匂いにあっさり上書きされた。
「おお……いい匂いがしてきたな」
ノコパラが鼻をひくひくさせながら言う。
ブレイズは、少しだけ眉を動かす。
「む、これは……米の匂いか」
「久しぶりの米だな」
「バグラー様にもらったお米、すぐ無くなっちゃったからね」
「あれは一瞬だったな……」
「カインが米に合う料理ばっか作んのが悪ぃんだよ」
「悪いってことはないだろ」
「そーそー。おいしいならいいじゃん!」
「ああ、同感だ」
ブレイズも頷いた。
味方が多くて助かる。
計画性がないと言えば、
まあ……なかったとは思う。
だって仕方ないじゃないか。
米はおいしいし、それに合う料理は、
もっとおいしいのだから。
前世とは違う世界で、
それでも前世と同じ料理を作れるという事実が、
思った以上に心を満たしてしまったのも理由の一つだな。
「おい、こいつを甘やかすんじゃねぇ」
「甘やかしてないもーん。そんなに言うなら、食べなくていいんじゃん」
「えっ」
ブレイズがすかさず乗っかる。
「そうだな。俺たちの分が増えていい」
「ちょ、待て待て待て! 今のは米の管理の話であって、食べないとは言ってねぇ!」
その様子に、俺は思わず吹き出す。
「まあまあ。そういえば、ここ来る途中で米売ってたよな。帰りに、買いだめしとくか」
「お、それいいな。一年分は買おう」
「おい、その米を持つのは俺なんだが?」
「……影に入れりゃいいだろ?」
「その重さは全部俺が負担してるって言っただろ。歩くのもままならなくなる」
「お兄ちゃん! ファイト!」
「……よし。やってやろうじゃないか」
「シスコン」
「うるさい」
そんなくだらないやり取りをしていると――
「――おまたせしました」
全員が一瞬びくっとする。
さっきまでそこに気配などなかったはずなのに、
気づけばランドルフさんが、もうテーブルの横に立っていた。
運ばれてきた料理を見る。
まず、湯気の立つ野菜のスープ。
そして米。色が微妙にまばらで、白や薄茶、
少し黄味がかった粒が混ざっている。
おそらく、いくつかの穀物を一緒に炊いたものだ。
そして――
最後に置かれた皿を見て、全員の動きが止まった。
香ばしい匂い。
こんがりとした衣。
黄金色に揚がった塊。
「唐揚げだ」
「唐揚げじゃん」
「唐揚げじゃねぇか」
「唐揚げだな」
四人分の声が、ほぼ同時に重なった。
一瞬の沈黙のあと、全員がもう一度、皿を見る。
見間違いじゃない。
どこからどう見ても、唐揚げだった。
「……ま、まあ。唐揚げは、うまいしな」
「だな!」
ノコパラが勢いよく頷き、まず最初にフォークを突き刺す。
だが、口に入れた瞬間表情が固まった。
「……ぅ」
無言で二回ほど咀嚼してから、ゆっくりとこちらを見る。
「……まずい」
俺も一口食べてみる。
まあ、なんというか、言葉を濁さずに言うと、まずい。
表面はべちゃっとしていて、油くさく、
衣は吸いすぎた油で口にまとわりつき、後味が重たい。
べたついたまま歯に絡む。
中の肉はやたら硬く、噛むほどに筋っぽく、
そして、はっきりと分かる臭み。
「……うん、まずいな」
「やはり、そうですか……」
背後から、かすかな声。
振り返ると、ランドルフさんが、
盆を抱えたまましょんぼり立っていた。
さっきまでの飄々とした雰囲気が嘘みたいだ。
ノコパラはフォークを置いて言う。
「俺は無理だ……」
「俺もだ」
ブレイズも即座に同意する。
アイシャは何も言わない。
言わないが、表情がすべてを物語っていた。
眉がほんのり下がり、困ったように唐揚げを見つめている。
ああ……気の使える、いい子に育ったな。
内心そう思いつつ、俺はもう一口食べた。
……まあ、確かにまずくはある。
だが、食べられないほどではない。
前世で自炊を始めたころ、
俺も似たようなことを何度かやった。
ここまで壊滅的ではないが、
硬くて臭くて、油まみれの肉を黙々と噛んだ記憶がある。
この世界は下処理も調味も甘いし、仕方ないところはある。
残すのも、何か違う気がした。
作った側の気持ちを思うと、なおさらだ。
だから俺は、黙々と食べ続けた。
正直、うまいとは言えない。
どう贔屓目に見ても、改善点しか浮かばない。
血抜きも、臭み取りも、温度管理も足りていない。
油も新しくない。揚げ時間も、おそらく長すぎる。
考え出すと、いくらでも直せるところが見えてしまう。
ノコパラは途中で完全に戦線離脱し、
ブレイズも水を飲む頻度が増えている。
アイシャは何も言わず、
困った顔をしながらも少しずつ口に運んでいる。
やがて、皿の上から唐揚げが消え、
最後に残ったのは、油の跡だけ。
俺はフォークを置き、手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
その言葉を聞いた瞬間、
ランドルフは少しだけ目を見開く。
「……良いものですね。自分の作った料理を、最後まで完食してもらうというのは」
「同感です」
俺は素直にそう返した。
味の評価とは別に、作った側の気持ちはよく分かる。
その横で、アイシャがまだ、もそもそと肉と格闘していた。
小さく眉を寄せながら、無言で噛んでいる。
「……俺が食べようか?」
「いい……」
「そうか」
俺は苦笑して、そっとアイシャの頭を撫でた。
アイシャは、またもそもそ食べ始める。
――そのとき。
「邪魔するぜぇっ!」
バンッ!と、店の扉が乱暴に開いた。
扉が外れそうだ。
風と埃と一緒に、チンピラ風の男がズカズカと入ってくる。
服装は派手、態度は横柄、声はやたらでかい。
客というより、完全に押しかけだ。
ランドルフさんは一瞬だけ眉を下げ、ぼそりと呟いた。
「……シャガール。またですか」
「知ってる人ですか?」
俺が小声で聞くと、ランドルフさんは苦笑する。
「はい。この人は、私の剣の腕を買って、ここ数年つきまとっている男です」
……数年?
そんなに長く追い回されるほど、ランドルフさんは強いのか。
見た目と定食屋のボロさのギャップが、ますます謎を深めていく。
「ランドルフ! そろそろこんなシケた店やってねぇで、俺のとこに来い!」
「今はお客様がいるので……後にしてください」
「客だぁ? 珍しいな」
そして、俺たちと目が合うと、勝手に近くの椅子を引き寄せ、
どかっと腰を下ろした。床が嫌な音を立てる。
シャガールの視線が、俺の前に置かれた空の皿で止まる。
「……坊主、ランドルフの料理を全部食ったのか?」
「はい」
短く答えると、シャガールは目を丸くした。
「正気か? 味はどうだった?」
少し考えてから、正直に言う。
「……お世辞にも、おいしいとは言えませんでした」
「ほらな、ランドルフ……お前に料理の才能はない」
「……それは、分かっている。だが……」
「何回も聞いたよ。先祖代々の店を守りたいんだろ? 気持ちは分かる。だが、お前にはさっきも言った通り、料理の才能がない」
……才能がない、か。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
聞き慣れた言葉だ。
それでも、何度聞いても、
しっくり来た試しがない響きだった。
「人には向き不向きってもんがある。お前の剣の腕は一流。だが料理は三流以下だ、だったら、その才能を生かした方がいい」
シャガールの言葉は容赦なく、
けれど嘘は一つも混じっていない響きだった。
ランドルフさんは何も言わず、ただ黙って立っている。
その沈黙が、どうしても気になって、俺は口を開いた。
「だからってやめる理由にはならないんじゃないんですか?」
「なんだ?」
「諦めるのは、いつだってできます。明日でも、今でも。でも、そんな中で……自分の理想に少しでも近づこうとしてるランドルフさんは、少なくとも、間違ったことはしてないと思います」
「ハッ……言ってることは立派だがな、それは負け犬の吐く言葉だ」
「……」
「誰だって欲しいもんや、なりたいもんがある。だが重要なのは……実際にそれを得たのかどうかだ。得られなかった奴らは、途中で言い訳を始める。『過程が大事だ』、『挑戦したことに意味がある』……ってな」
「つまり……才能がないって事実から、目を背けてるって言いたいんですか?」
「ああ。俺はな、才能がある奴が、才能のない場所で苦しむのが嫌いなんだ」
「才能がなくたって、料理は出来ますよ」
俺がそう言うと、シャガールは眉をひそめる。
「だから、そうやって自分の世界に逃げ込んでも意味がないって言ってんだ」
「そうじゃありません。そのままの意味ですよ。料理に、才能はいりません」
俺はランドルフさんに向き直った。
「お願いします。ランドルフさん。俺に、あなたの料理を“美味しくする”手伝いをさせてください」
「いえ……そこまでしてもらわずとも。私に料理の才能がないことは、もう分かっています。長く、同じことをやり続けていれば……嫌でも分かりますよ。自分が、どこまでの人間なのか。私はもう、自分を受け入れました」
「受け入れた人は、あんな顔、できませんよ」
「あんな顔、とは?」
「自分の料理が完食されたのを見たときの顔です」
ランドルフの目が、わずかに揺れる。
「あんな顔、全部を受け入れきった人の顔じゃない。諦めきった人なら、結果なんて見ない。期待しないし、落ち込まないし、喜びもしない。でも、あなたは……俺が食べ終わるまで、ずっと皿を見ていた。期待していたんですよ」
「……よく、見ていますね」
「人を気にしすぎるのが、俺の癖ですから」
ノコパラが小声で「めんどくさい性格」と呟き、
ブレイズは小さく鼻で笑った。
「あなたは、まだ諦めきれていない。それに……諦める必要も、ない」
「どうやら、私はとても面倒くさいお客様を招いてしまったようです」
ランドルフはそう言って、困ったように笑った。
その笑顔には、さっきまでの沈みはなくて、
少しだけ吹っ切れた感じがあった。
「面倒くさい性格なのは、自覚しています」
「では、カインさん。私に料理を教えてください」
「はい、ありがとうございます」
その瞬間、シャガールが腕を組んだまま口を挟む。
「おいおい、坊主現実を見ろよ。そいつの料理が、ちょっとやそっとで美味くなるわけないだろ」
「なりますよ。あなたは客なんですから、行儀よく座っていてください」
一瞬、店内が静まり返る。
シャガールは目を丸くし、それから吹き出した。
「ハッ! 言うじゃねぇか坊主。いいぜ見せてみろよ」
シャガールはそう言うと、言われた通り椅子に座り直した。
ふんぞり返るでもなく、腕を組んでじっとこちらを見る。
意外と物分かりはいい人なのかもしれない。
俺はノコパラたちの方へ向き直る。
「すまん。俺の勝手で、変なことに巻き込んだ」
「今さらだろ」
「問題ない」
「お兄ちゃん、がんばって」
「ああ、行ってくる」
二人で厨房へ向かう。
厨房の扉を開けると、さっきよりも強く、油と肉の匂いが鼻を突いた。
広くはないが、道具は一通り揃っている。
包丁、まな板、鍋、フライパン、油の入った鍋。
どれも使い込まれていて、手入れも行き届いている。
「それで……どうやって、私の料理をおいしくするつもりですか? 正直、腕前が急に上がるとも思えませんし、味が劇的に良くなるとも思えないのですが」
「料理には、いいところがあります」
「ほう?」
ランドルフさんが首をかしげる。
「それは、誰が作っても、ちゃんと作れば、ちゃんとおいしくなるところです。剣みたいに向き不向きなんて、絶対に関係ありません。積み上げた分だけ、必ず結果が返ってくる。そういうところです」
―――
ホールでは、シャガールが腕を組んだまま、椅子に座っていた。
ノコパラは頬杖をつき、ブレイズは無言で水を飲み、
アイシャは厨房の方をじっと見つめている。
しばらくして――
厨房の扉が開き、ランドルフが出てきた。
手には、湯気を立てる皿。
「……お待たせしました」
ランドルフさんはそう言って、テーブルの上へと料理を置いた。
シャガールは眉をひそめながらも、フォークを取る。
一口、口に運ぶ。
数秒の沈黙。
「……美味いな」
シャガールは答えず、もう一口、さらにもう一口。
さっきまでの警戒心も威圧感もどこかへ消え、無言で食べ進めていく。
皿が半分ほど空になったところで、シャガールが顔を上げた。
「ランドルフ……お前、何した」
「いえいえ。普通に作っただけですよ。ねぇ、カインさん」
「ええ、普通に作っただけです」
その表情は、どう見ても“普通”じゃなかった。
元々の陰気な顔立ちも相まって、
「絶対何かやっただろ」
と言いたくなる雰囲気を全力で醸し出している。
だが、実際にやったことは、本当に少しだけだ。
血抜き。臭み取り。油の温度管理。
揚げる前の水分処理。味付けの順番と量。
全部、料理の基本中の基本。
才能も魔法もいらない、当たり前の手順。
シャガールは、心底驚いた顔をしていた。
皿とランドルフさんを交互に見ている。
一方、ランドルフさんの顔は、はっきりと嬉しそうだった。
相変わらず、やつれた頬と影の濃い目元で、
見た目はどうしても不気味なのだが、
その表情だけは、どう見ても喜んでいた。
―――
それからしばらくして、俺たちは店を出た。
結局シャガールは、「諦めねぇからな」
とだけ言い残し、去っていった。
背中を見送りながら、ノコパラがぽつりと呟く。
「根は、いい人そうだな」
「ええ。口は悪いですが……他人の才能を腐らせるのが嫌いなだけなんでしょう」
それはそれとして。
俺は、ランドルフさんに向き直り、頭を下げた。
「すみません。今日会ったばかりなのに、ずいぶん勝手なことをしました」
「いえいえ、むしろこちらこそ感謝したいぐらいですよ。あなたのおかげで、シャガールの驚いた顔を見られましたしね」
「でも、俺の都合で踏み込みすぎました」
「では……一つ、聞いてもいいですか?」
「はい」
「なぜ、今日会ったばかりの私に、そこまでしてくれたのですか?」
「……傲慢な理由ですけど。ランドルフさんが、諦めようとしてたのが、気に食わなかったんです」
「それは、ずいぶん傲慢ですねぇ」
「自覚はあります。それに……」
少し照れくさくなって、視線を逸らしながら続けた。
「俺、料理が好きなんですよ。好きなことを誰かと一緒にやるのって、楽しいじゃないですか」
「ええ。そうですね」
正直に言えば、少し踏み込みすぎた自覚はある。
今日会ったばかりの相手に、才能だの諦めだの、
いかにも分かった風なことを言ってしまった。
嫌われてもおかしくなかったし、
「余計なお世話だ」と一蹴されても文句は言えなかった。
それでも、今のこの空気を見れば――
やってよかった、と素直に思える。
「それじゃあ……ごちそうさまでした」
「はい。またのご来店を、お待ちしておりますよ」