俺たちは、イーストポートで購入した馬車に乗り、
王竜王国の首都ワイバーンへ向かっている。
……そして最近、俺はひとつ気づいたことがある。
馬車を引くのは、玉犬よりも、
虎葬を馬に変化させて引かせた方が、
圧倒的に楽だということに。
理由は単純だ。
玉犬は、顕現させ続けるために俺が呪力を供給しなければならない。
さらに、移動中も逐一命令を出す必要があり、
道が曲がるにも指示、止まるのにも指示、休ませるにも指示。
可愛いし、頼れるし、強いのだが、
長距離移動となると、頭の中だけで指示するだけとはいえ、地味に手間がかかっていた。
一方、虎葬は違った。
仕組みは正直よく分からない。
多分、これまで吸収してきた色々な生物の脳の影響だと思う。
虎葬は、ある程度の自立思考と知能がある。
目的地と道筋を教えれば、
あとは自分で判断して動いてくれる。
分かれ道では減速して確認するし、
路面が荒れていれば自然と速度を落とす。
前方に人や馬車がいれば距離を取り、
無理に追い越そうともしない。
……正直、俺が手綱をとるより見ていて安心する。
それだけでも十分すごいのだが、
さらに驚いたのは、
顕現に必要なエネルギーを、俺の呪力ではなく、
虎葬自身が持つ魔力で賄っているという点だった。
魔物を吸収した際に取り込んだ魔力を、
そのまま燃料として使っているのだ。
昔、ルーデウスが、
「魔力は、基本的には何にでも転用できる」
みたいな事を言っていた気がする。
当時は「すごいなぁ」くらいにしか思っていなかったが、
まさかそれが、呪力にまで変換できるとは思いもしなかった。
試しに、俺自身の術式を魔力で発動させようともした。
だが、それはどうやっても上手くいかなかった。
虎葬は吸収した生物の構造と一緒に、
魔力を自分のシステムとして組み込んでいるから、
思いのままに使えるのかもしれない。
まあ、そのおかげで、
ある程度、道が舗装されている場所なら、
俺が寝ていても、虎葬は馬車を進めてくれる。
―――
馬車に揺られながら、
俺はどうしてもニヤニヤが止まらなかった。
自覚はある。完全に不審者の笑みだ。
だが、止められない。
「わっ……なんか嬉しそうだね、お兄ちゃん」
隣に座っていたアイシャが、
不思議そうにこっちを見てくる。
「ふふ……いや、ちょっとな」
ちょっと、なんて言葉で済む話じゃない。
ついに。この世界に来てついに、
あれを食す時が来たのだから。
その名も―
SU☆KI☆YA☆KI
心の中で無駄に星を散らしてしまうくらいには、
今の俺のテンションは高まっている。
本当に、長かった、ここまで来るのに丸十年。
転生してから、ずっと心の奥にしまってきた夢。
材料自体は、実はそこまで難しくなかった。
肉はある。野菜もある。砂糖もある。醤油もある。
豆腐はまだないが……
運のいいことに、主要なものは比較的早い段階で揃っていたし、
バグラーのおかげであそこで見つけた食材の場所は頭に入っている。
だが問題は、卵だった。
いや、卵が無いわけじゃない。
ある。どこにでもある。鳥も魔物も卵を産む。
だが、生で食べるとなると話は別だ。
どうしても、食中毒のリスクがつきまとう。
火を通すなら問題ないが、生卵はアウト。
前世の感覚で手を出してはいけない。
その事を俺は身をもって理解している。
そう……俺は一度やらかしているのだ。
バグラーの城で、醤油を手に入れたあの日。
あまりの嬉しさにテンションがぶち上がってしまい、
俺は迷いなく卵かけご飯を食べてしまった。
高熱、激痛、嘔吐、視界が白くなる感覚。
あれはマジでヤバかった。
反転術式がなければ、普通に死んでいた可能性がある。
あのときほど自分の愚かさを呪ったことはない。
だがそれ以上に、許せなかったのは、あの事実だった。
「すき焼きに生卵が使えない」
この事実が、どれだけ俺の心を折りかけたか……
あの黄金色の卵に、熱々の肉をくぐらせて、
とろりと絡めて食べる、あの幸福を奪われる絶望。
しかし、その絶望も長くは続かなかった。
転機はミリシオン。
ミリシオンで、俺はミーナさんから、
何か恩返しがしたいと言うことで、
まだ覚えていなかった、解毒魔術を教えてもらっていた。
そして、解毒魔術を学んでいる最中に、俺の脳内で雷が落ちた。
生で食べて、仮に食中毒になるとしても、
症状が出る前に解毒魔術をかければいい、と。
この発想に至った自分を褒めたいし、
それを可能にしてくれたミーナさんには感謝しかない。
いや本当に。
あの人がいなければ、
俺は一生、この世界で真のすき焼きに辿り着けなかった。
そして、王竜王国に来て、米が補充された。
ここが決定打だった。
米がないすき焼きなど、論外だ。
俺は米が好きなのだ。
主食だ。魂だ。
肉を卵にくぐらせ、
熱々の白米にのせて、ご飯をかきこむ。
これが正義。
これがジャスティス。
――と、頭の中で力説している自分に気づいて、
俺はふっと息を吐いた。
……少し、熱くなりすぎたな。
抑圧され続けてきた俺の本質が、完全に暴走している。
落ち着け、俺……
このすき焼きは、俺だけのすき焼きではない。
アイシャも、ブレイズも、ノコパラも、
みんなにもこの“文化”を知ってほしいのだ。
そう、すき焼きは文化だ。
単なる料理じゃない。
生き方であり、思想であり、人生観だ。
一人で独占するには、あまりにも罪深い。
そうだ……分け合うからこそ、すき焼きは輝く……
などと一人で勝手に悟りを開きかけていると、
向かいのノコパラが、こちらをじっと見ていた。
「……おい、なんかあいつ変だぞ。さっきから一人でブツブツ言ってるし、たまにニヤけてるし……だいぶ怖いんだが?」
「たぶん、頭の中で料理の計画を立てているだけだ……危険な兆候だが、いつものことだろ」
ひどい評価である。
だが否定はしない。概ね事実だ。
「お兄ちゃんさぁ……さっきからずぅ~っと変な顔してるよ?」
「……変な顔って、どんな顔だ」
「んー……」
アイシャは俺の顔をじっと見つめ、
それからにぱっと笑った。
「恋してる顔!」
変な声が出そうになるのを必死で抑える。
「……してない」
「えー、絶対してるよ。だって、目がキラキラしてるし、口元がずっとニヤニヤしてるし、なんか幸せそうだもん」
「それは、だな」
「はっ! もしかしてお兄ちゃん、好きな人できたの?!」
「……目がキラキラしてても、口元がニヤけてても、恋してるとは限らないだろ」
アイシャは馬車の揺れに合わせて体を弾ませながら、こちらを見上げてくる。
俺の頭の中は、すき焼きでいっぱいだ。
だが、それを今説明しても、
「料理に恋してる」なんて思われかねん。
あながち間違いでもないが。
アイシャは、しばらく俺の顔を観察するように見つめたあと、急に声のトーンを落とした。
「もし本当に好きな人がいるならさ……ちゃんと大事にしてあげなよ? カ・イ・ン」
「……」
不意に、名前で呼ばれて、少しだけ驚く。
……なんで急に名前で呼んだんだ?
さっきまでずっと「お兄ちゃん」だったのに。
その一瞬の変化に、変に意識が引っ張られてしまう。
アイシャは、俺の反応を見て満足そうに頷いた。
「わっ、お兄ちゃん顔真っ赤! ……効果てきめんだね」
「分かっててやったな?」
「うん! エリナリーゼさんに教えてもらった技」
「何の技なんだよ……」
「異性をドキッとさせる技、って言ってた」
なんてことを子供に教えてるんだ、あの人は……
だが、エリナリーゼさんならやりかねない。
しかし、それを素直に実践してしまうアイシャもアイシャだ。
「こら、そういうのは、好きな人にやりなさい」
「私は、お兄ちゃんのこと好きだよ?」
一瞬、思考が止まる。
……そうじゃなくてだな。
いや、まて。
この流れ、あまりにも出来すぎている。
もしかして、それもエリナリーゼさんに教えられたやつか?
嫌な予感しかしない。
このままでは、アイシャが誰彼構わず相手を勘違いさせる、
魔性の女に育ってしまう未来が、はっきりと見える。
それだけは阻止せねばならない。
リーリャさんに顔向けができない。
「アイシャ。人の心をもてあそぶのはやめなさい」
アイシャは少しだけむっとした顔をして、言い返す。
「でも……お兄ちゃん、さっき、嬉しそうだったじゃん」
「それは、俺がアイシャを好きだからだ」
「……うぅ」
アイシャは頬を赤くして、小さくうなる。
心が痛むが、ここで終わらせるわけにはいかない。
「でもな、それをいろんな人にやっちゃうと、よくないことが起きる」
「……よくないこと?」
「その気がなくても、相手が勝手に期待したり、勝手に勘違いしたり、勝手に傷ついたりする」
「……」
「それは、アイシャのせいじゃなくても、結果的に、アイシャが悪者になっちゃうんだ」
俺は、言葉を選ぶ。
説教くさくなりすぎないように、
でも、ちゃんと伝わるように。
「……ごめんなさい」
アイシャは少しだけしょんぼりしたあと、素直にそう言ってくれた。
その様子を見て、俺は内心ほっとしながら、続ける。
「アイシャはかわいいからな。だから、そういうのは本当に、大事な相手にだけやるんだぞ。誰にでもやっていいものじゃない」
そう言いながら、
俺はアイシャの頭に手を伸ばした。
わしゃっと、少し強めに撫でる。
「えへへ」
アイシャは嬉しそうに笑って、
素直に撫でられている。
よし、ちゃんと伝わった……はずだ。
その空気をぶち壊すように、
横からノコパラがニヤニヤしながら口を挟んできた。
「勘違いさせるな、なぁ~んて人のこと言えねぇだろ? お兄ちゃん」
「なんのことだ? あと、お前に“お兄ちゃん”と呼ばれる筋合いはない」
「ハッ、無自覚ときましたか。どう思うよ、ブレイズ」
「……確かに。説得力は、やや欠けるな」
胸の奥が、少しだけざわついた。
自分では普通にしているつもりの言動を、
周囲から違う角度で切り取られると、妙に不安になる。
何か……悪いこと言ったか?
アイシャに、変な影響与えてるとか……?
考え始めると、ちょっと怖くなってきたので、
俺はその思考を無理やり打ち切った。
やめやめ。深く考えるとろくなことにならない。
アイシャは相変わらず上機嫌だ。
この空気のまま悩み続けるのは、さすがに居心地が悪い。
―――
俺は焚き火の前に腰を下ろし、
ようやく本日のメインイベントに取り掛かっていた。
鍋を火にかけ、材料を並べ、手順を頭の中でなぞる。
……よし。完璧だ。
横では、アイシャが鼻歌まじりに食材の下処理をしてくれている。
川のせせらぎに紛れるくらいの小さな声で、
機嫌よさそうに、意味不明ではあるが、
心地の良い旋律を奏でている。
アイシャは最近、よく俺の料理を手伝うようになった。
前々からいろいろと教えてはいたし、
簡単な手伝いもしてくれていたが、
本格的に一緒に作るようになったのは、ほんの少し前からだ。
理由は分からない。
ただ、気がついたら隣にいて、
気がついたらエプロンをつけていた。
俺は食材を並べ、呪力を術式に流す。
次の瞬間には、
食材は適度な大きさに刻まれていた。
料理に使うには過剰な能力だが、
今さら包丁に戻る気にもならない。
その様子を、アイシャはじっと見ていた。
「ねぇ、お兄ちゃん……今、楽しい?」
水を切りながら、アイシャがふとそう聞いてきた。
視線は野菜のまま、声だけがこちらに飛んでくる。
「ああ、楽しいぞ」
自分でも驚くくらい迷い返答だった。
アイシャは、くるりと振り返って、
にぱっと笑った。
「ふふっ……そっか! よかった」
それだけ言って、アイシャは、また鼻歌に戻った。
楽しい、か……
俺は、ふと……どうしようもなく考えてしまう。
人の本心は、誰にもわからない。
どんなに近くにいても、
どんなに言葉を交わしても、
心の奥に何を抱えているのかなんて、
結局、完全には掴めない。
それが、俺はたまらなく怖い。
だが。
こうして、誰かと同じ目的を共有している時だけは、その怖さが、すっと消える。
「今日は、うまいすき焼きを作る」
その一点だけで繋がっている今は、
相手が何を考えているかも、
俺がどう思われているかも、
考えなくて済むから。
―――
鍋を、みんなの前に置いた。
ぐつぐつと音を立てるそれは、紛れもなく――すき焼きだ。
すき焼きの鍋から、いい匂いが一気に広がる。
前世で、何度も何度も食べた、あの匂いだ。
ノコパラが、明らかに引いた顔で聞いてくる。
「おい、カイン……ほんとに生の卵につけて食うのかよ……」
「大丈夫だ。解毒魔術がある」
「理屈は分かるけどよぉ……」
俺とアイシャは、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきまーす!」
箸で肉をつかみ、
とろりとした卵にくぐらせ、
そのまま口に運ぶ。
……うまい。
肉の旨味と、卵のまろやかさが口いっぱいに広がる。
俺は、ほとんど反射で、白米をかきこんだ。
少し行儀は悪い。
だが、そんなことはどうでもいい。
涙が出そうだ。
腹の奥が、じんわりと熱くなる。
満足感と安心感と、懐かしさが、
静かに混ざり合っていた。
その様子を、ブレイズとノコパラがじっと見ている。
「……」
ノコパラが、ごくりと喉を鳴らし、
恐る肉を取った。
卵にくぐらせ、一瞬ためらってから、口に入れる。
「……っ!」
そのまま、何も言わずにもう一口。
さらにもう一口。
米も一緒にかきこむ。
「……うめぇ!!」
「だろ」
俺は内心でガッツポーズを決める。
ノコパラは、さっきまでの警戒心が嘘のように、
完全に鍋と向き合い始めていた。
「……なんだよこれ……! 卵ってこんなに仕事するのかよ!? なんでもっと早く教えてくれなかったんだよ!!」
「いや、ずっと言ってただろ」
横を見ると、ブレイズは既に無言だった。
いや、正確には最初から何も言っていない。
言っていないが、行動がすべてを物語っている。
箸の運びは速く、
肉、米、肉、米。
間に野菜が挟まることもあるが、迷いがない。
その光景を見るだけで、
胸の奥が満たされていく。
俺のすぐ横、肩が触れそうな距離で、アイシャが茶碗を抱えている。
湯気に照らされた頬が赤くて、目がやけにきらきらして見える。
「お兄ちゃん! これ、すっごく美味しい!!」
「それはよかった。ちゃんと噛んで食べるんだぞ」
「はーい!」
返事は完璧だが、次の瞬間にはもう口いっぱいに頬張っている。
もぐもぐして、飲み込む前に次の肉へ手が伸びそうになっている。
……まあ、分かる。分かるけど。
俺は軽く息を吐きながら、
アイシャの右頬に、小さな白い点がついているのに気づいた。
米がひと粒、ちょこんと貼り付いている。
口いっぱいに頬張った結果だろう。
俺は箸をいったん置いて、
自分の頬を指先でとん、とん、と叩いた。
「ここだぞ」という意味で、同じ場所を示すように。
アイシャはきょとんとした。
箸も茶碗も持ったまま、首をこてんと傾げる。
頭の上に「?」が浮かんでいそうな顔で、俺の指の動きだけをじっと追っている。
……伝わってないな。
俺は苦笑しながら、口に出して説明しようとした、その瞬間。
アイシャの表情が、ふっと変わった。
何かを理解したみたいに目がわずかに細くなり、口元がにやっとする。
悪い予感が背中を撫でた。
だが、アイシャの方が早かった。
「えいっ!」
楽しそうな声と一緒に、
アイシャの指が俺の頬に、ちょん、と当たった。
一瞬、何をされたのか分からなくて、俺は固まった。
顔に何かが触れた、という情報だけが遅れて届く。
その一拍の間に、アイシャは満足げに、にぱっと笑った。
してやったり、という顔だ。
茶碗を抱えたまま、肩まで小さく弾ませている。
俺は咳払いでごまかして、淡々と言った。
「……米がついてるぞ」
言いながら、俺はアイシャに向き直る。
鍋の湯気が間に流れて、視界が一瞬白く霞む。
その向こうで、アイシャの右頬の米粒がまだ光っている。
俺は指先を伸ばして、それを取ろうとした。
頬に触れる寸前、アイシャの肩がぴくっと揺れた。
「ぁ……」
小さく声が漏れて、目をぎゅっとつぶる。
茶碗を抱える腕に、力が入ったのが分かった。
俺は気にせず、指先で米粒をそっとつまむ。
肌を擦らないように、米だけを取る。
指の腹に、米粒がぺたりとくっついた。
「落ち着いて食べなさい」
そう言って、取った米粒を自分の器の端に置いた。
俺は元の姿勢に戻り、箸を持ち直す。
アイシャはしばらく固まったまま、茶碗を抱えていた。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、箸が止まっている。
視線が鍋に向いているのに、焦点だけが合ってない。
「もうお腹いっぱいか?」
何気なく言うと、アイシャの肩がぴくっと動いた。
それから慌てて箸を持ち直し、ぶんぶんと首を振る。
「だ、だいじょうぶ! もっと食べるから!」
声が少し裏返っている。
俺は「そうか」とだけ返して、深く考えないことにした。
鍋は熱いし、湯気も濃い。
顔が赤いのは、そのせいだろう。
たぶん。
俺は肉を卵にくぐらせる。
とろりとした卵が絡んで、口の中に甘さと脂の旨さが広がる。
追いかけるように白米を流し込む。
「うん! 美味い!!」