王竜王国の首都――ワイバーンに到着した。
街並みは……
ひと言で言うなら、ゴチャゴチャしている。
石造りの建物の隣に木組みの家、
その横には妙に豪奢な塔。
高さも色も素材も全部バラバラで、
統一感という概念が仕事をしていない。
悪く言えば雑多、良く言えば活気がある。
そんな感じか。
そんな街の中で、やけに目につくものがあった。
剣術道場だ。
あちこちに看板が立ち、開け放たれた扉の奥からは
木剣がぶつかる乾いた音と、威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
初心者向けらしいこぢんまりした道場から、
明らかに実力者専用みたいな、
空気の重たい佇まいの道場まで。
流派も規模もバラバラで、数も多い。
いや、北神流が少し多いか。
北神流、あの笑い声が頭の中で響いて離れない。
……俺はいつまであの魔王に苦しむのだろうか。
それに剣もたくさん売っている。
通り沿いの露店や武具屋の前には、
所狭しと刃が並べられていた。
もっとも、大半がなまくらだったが。
なまくらの剣を横目に流しながら通りを抜け、
良さげな定食屋に入り、夜ご飯を食べた。
ご飯を食べ終え、街を歩いている途中に、
目をつけていた宿に向かう。
外観は石と木の折衷、三階建てで、看板には
「赤翼亭」と赤い竜の絵が描かれている。
名前は派手だが、中はわりと落ち着いており、
受付の親父は無愛想だが、手続きは早かった。
部屋割りは、
ノコパラとブレイズ、アイシャと俺。
いつも通りだ。
何度も同じ分け方をしているせいで、
もはや確認すら必要ない。
流れ作業のように鍵を受け取り、
それぞれ階段を上がる。
部屋の扉を閉めると、
外の喧騒が少しだけ遠のいた。
俺とアイシャはそれぞれ荷物を下ろし、
いつものように手分けして整理を始めた。
こういう作業は不思議と落ち着く。
窓際で作業をしていたアイシャが突然声を上げた。
「お兄ちゃん、みてみて! あの建物すっごく大っきい!」
「あれは多分、増築を繰り返した結果だな」
「えぇ……効率悪すぎじゃない?」
「土地が足りなくなったんじゃないか?」
「でも、こんなぐにゃぐにゃにするより、最初から大きく建てればいいのに」
「予算とか、当時の事情とか、色々あるんだろ」
「ふーん」
アイシャは窓辺の手すりにもたれたまま、
しばらく街を見下ろしていたが、
ふと思い出したように振り返る。
「お兄ちゃん、ここにはどのくらい滞在するの?」
「長くても三日だな。消耗品を補給して、あとは転移被害者の情報集めぐらいか……」
俺は椅子にもたれ、天井を見上げながら答えたが、
そこで少し考え直す。
「……いや、それは師匠が各地に配置してる伝言役の人が、冒険者ギルドにいるらしいし、その人に聞けばいいのか」
「じゃあ、私が消耗品の補充を管理するね」
「助かる。いつも任せきりで悪いな」
そう言って、アイシャの頭を撫でた。
柔らかい髪が指に絡む。
昔より少し伸びて、手触りも変わった気がする。
「えへへ」
小さく笑う声が、やけに近い。
アイシャはそのまま俺の腕に軽くもたれかかって、
しばらくじっとしていた。
そうしていると、アイシャがふと思い出したように呟いた。
「あ」
「どうした?」
「前々から聞きたかったんだけどさ……お兄ちゃんって、なんでよく私の頭を撫でるの?」
「急だな……もしかして、嫌だったか?」
「ううん。褒められるのが嫌ってわけじゃないよ。ただ、気になっただけ」
俺はアイシャをなでる手を止めて考える。
「あ……」
自分の何気ない行動を、
ちゃんとした言葉にするのは案外難しい。
気づいたらやっていることほど、
理由を問われると困る。
でも、聞かれた以上ちゃんと答えたい気もした。
俺はしばらく天井を見て考えた。
答えを探すというより、感覚をなぞる感じで。
「……よく頑張った子には、こうして撫でたくなるんだよ」
「えー? 私まだ頑張ってないよ。今日なんて街歩いただけだし」
「そうか?」
アイシャはそう言い切るが、俺の感覚は少し違う。
今日一日、俺が街を眺めて剣と道場に気を取られている間、アイシャは露店の値段を見比べて、
武具屋の消耗品の相場をざっと頭に入れて、
宿に戻る途中、
「ここ安かった」「あそこは高い」と、
きっちり整理していた。
宿に着いても消耗品の在庫を確認して、
足りないものを紙に書き出して、
無駄遣いしないように値段まで比べていた。
誰に言われたわけでもない。
当たり前みたいな顔でやっていた。
俺から見れば……いや、だれから見ても十分頑張っていると言えるだろう。
最近のアイシャは、
人の気持ちが分かるようになってきている。
露店の店主が疲れてそうだと、
前みたいに強引に値切ったりしないし、
優しくなったと思う。
その一方で、自分には妙に厳しい。
それがアイシャの良いところでもある。
慢心しないし、成長も早い。
同時に、少し心配になるところでもあるが。
……もう少し、自分を甘やかしてもいいと思うんだけどな。
「まだ、消耗品の補充もしてないじゃん。なのに撫でるのはおかしくない?」
「んー……じゃあ。先払い、ってことで」
「先払い?」
「ああ。だから、明日から消耗品の補充をよろしくな」
「う~ん……」
アイシャは、納得したような、していないような、
何とも言えない顔をした。
「別に、無理してやる必要はないぞ」
「そうじゃないよ。ただ、お兄ちゃんに褒められると、なんかやる気出るんだよね」
「なんでだ?」
「んー……私のことをちゃんと見て、褒めてくれてる感じがするからかな~」
「いや、アイシャを褒めてるんだから、アイシャを見てるのは普通じゃないのか?」
「……たしかに。なんでそう思ったんだろ?」
アイシャは顎に手を当てて、しばらく考え込んだ。
俺はその様子を、特に何も言わずに見守る。
「むー……わかんないや」
そう言って、アイシャはへにゃっと笑った。
……まあ、さっきの俺と同じか。
自分がなんとなく思っていることを、
急に言語化しろと言われても、
そう簡単にできるわけがない。
アイシャが思い出したように顔を上げる。
「あ、でもね。ノコパラもブレイズさんも、同じこと言ってた」
「あいつらもか?」
「うん。お兄ちゃんに言われたら、やる気出るって」
内心、少しだけ複雑な気分になる。
嬉しくないわけじゃない。
頼られているのは分かるし、信頼されているのも、
多分……多分だが本当だ。
でも、俺の言葉が人に義務感を植え付けているのだとしたら、それは、少し考えものだ。
無理をさせたいわけじゃない。
期待を押し付けたいわけでもない。
ただ、それぞれが、自分で選んで動いてくれれば、それでいい。
俺は、少し口数が減る。
アイシャはそんな俺の空気を感じ取ったのか、
慌てて付け足した。
「でもね、嫌とかじゃないよ。なんか……心が満たされる感じ?」
「満たされる、か……」
その言葉を、頭の中で一度転がしてから、
俺はゆっくり頷いた。
「……それなら、まあいいか。ありがとな、アイシャ」
「どういたしまして!」
アイシャはにぱっと笑う。
……心が満たされる、か。
ちゃんと見てもらっているという感覚。
誰かの目に映っているという実感。
それだけで、人は驚くほど楽になる。
たぶん、そういうことなんだろう。
俺はそう結論をだして、
背もたれから体を起こした。
「さて……そろそろ寝るか」
「えー、もう寝るの~? もっとお兄ちゃんと話したかったんだけど……」
「ご飯も食べたし、体も拭いたし、歯も磨いただろ。やることがないんだったら、明日に備えて寝た方がいい」
「それはそうだけどさぁー」
アイシャはベッドに腰掛けて、足をぷらぷらさせながら、不満そうに頬を膨らませる。
俺は少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「じゃあ……ベッドの中で、眠くなるまで話すか」
「やたっ!」
……このやり取り、何度目だろうか。
俺は小さく笑って、部屋の明かりを消した。
窓から差し込む淡い光だけが、
部屋をぼんやり照らす。
アイシャは嬉しそうに布団を引き寄せて、
もぞもぞと潜り込む。
子どもの頃と、ほとんど変わらない仕草。
俺も自分のベッドの上に横になって、
天井を見上げた。
すると、隣のベッドから、
小さな声が聞こえた。
「お兄ぃ~ちゃんっ」
「なんだ」
「なんでもない、呼んだだけ!」
「……何もないなら寝るぞ」
「じょうだん、じょ~だん! お兄ちゃんいっつもすぐ寝ちゃうからなー。今日こそは夜更かしさせるから!」
「他のお客さんもいるんだから、静かに頼むぞ」
そんなやり取りをしながら俺たちは眠りについた。
―――
翌日の夕方。
俺は一通りの用事を終わらせて、宿へ戻ってきた。
転移者の情報は、結局なかった。
まあ、あの事件からもう一年以上経っている。
生存者が動くなら、とっくに何かしらの痕跡が残っているはずだ。
期待していたわけじゃないが、
やっぱり、何もないと少し肩の力が抜ける。
気持ちを切り替えて階段を上り、部屋に戻ろうとしたところで、廊下の奥から声がかかった。
「帰ったか……カイン、ちょっと来い」
声の方を振り返ると、ブレイズだった。
アイシャと一緒に消耗品の補充に行っていたはずだが、終わったのだろうか?
「どうしたんだ? ブレイズ。消耗品の補充はできたのか?」
「……そのことなんだが」
ブレイズの声のトーンが、ほんの少し変わった。
胸の奥が、一瞬だけひやりとする。
「どうした。アイシャに何かあったのか?」
「そういうわけじゃない、ただ……少しミスをしてな」
「ミス?」
「ああ、実は――」
ブレイズの話によると、
消耗品の購入の際、アイシャが町の相場を見誤って、通常よりも高値でまとめ買いしてしまったらしい。
しかも、
同じ品を別の店ではもっと安く売っていたという。
ブレイズが気づいて止めようとしたが、
その時点で取引はほぼ成立していたとのこと。
「珍しいな。というか、アイシャのミスらしいミスは、今日が初めてじゃないか?」
「ああ。それが理由かは分からんが、相当落ち込んでいる」
「……そうなのか」
「だからお前が慰めてやってくれ。まあ、言わなくてもそうするんだろうが」
「まあな。ありがとな、ブレイズ」
そう言って別れたあと、俺はそのまま二階の廊下を進み、部屋の前に立った。
部屋の前に立ち、ノックする。
そう……ちゃんとノックをする。
前に一度、ノックをせずに入って、
大事になったことがある。
それ以来、何があってもノックすることを心がけている。
鉄の掟だ。
「……お兄ちゃん?」
中から、少しこもった声がする。
「ああ。入ってもいいか?」
「……うん」
返事を聞いてから、俺はドアを開ける。
部屋の中は薄暗く、窓は閉められている。
部屋を見回すと、ベッドの上で、
毛布がもっこりと盛り上がっているのに気づいた。
中でアイシャが丸くなっているのが分かる。
「ブレイズさんから聞いた?」
「……ああ」
そう答えると、毛布の山がもぞもぞと動き、
アイシャがその中からむくりと起き上がった。
髪が少しぼさぼさだ。
……後で整えなきゃだな。
「……ごめんなさい」
その声は、ちゃんと悔しそうで、
ちゃんと落ち込んでいた。
「大丈夫だ」
「怒ってないの?」
少し不安そうに、
アイシャがこちらを見る。
「怒ってないよ」
正確に言えば、怒る理由がない。
こういうミスは、どうしたって起こる。
人間がやっている以上、
どれだけ気をつけていても、ゼロにはならない。
今回のは、サボった結果でも、慢心でもない。
なら、怒る意味がない。
「明確に直すところがあるミスだったら、何か言ったかもしれないけど。アイシャも、次からは気をつけるつもりなんだろ?」
「……うん」
「なら、問題ないさ」
そう言いながら、俺はいつもの癖で、
そのままアイシャの頭を撫でようとした。
――が。
すっと、避けられる。
手が空を切った。
……あれ?
完全に想定外で、
俺はちょっとだけ固まる。
思わず、手を宙に浮かせたまま固まっていると、
アイシャがこちらを見て、むっとした顔で言った。
「なんで、撫でるの!」
「あ、ご、ごめん……嫌だったか?」
慌てて手を引っ込める。
「そうじゃない! 昨日言ってたじゃん、頑張った子にしか褒めないって!」
「それは……」
「今日の私はミスしちゃったし、昨日撫でられた分も返せてないのに、おかしいじゃん!」
「俺が撫でる程度のことを、そんなに重く捉えなくてもいいんだぞ?」
「捉えるよ……私ね、昨日お兄ちゃんに言われて考えてみたの」
「……自分を見て褒めてくれるってやつか?」
「うん」
アイシャは視線を落としたまま、続けた。
「お兄ちゃんは知ってると思うけど、私ね、転移が起きる前はお母さんにずっと「あなたはいつか、ルーデウス様に仕える子になるのです」って言われて育てられてきたの」
アイシャは布団の端をぎゅっと掴んだ。
「だから、お母さんが私を褒めてくれても、それは私を見て褒めた言葉じゃなかった」
「……そんなことは――」
「あるよ。お母さんは、多分……私を便利な道具だと思ってる」
アイシャは自嘲気味に言った。
俺はその言葉に、思わず押し黙った。
リーリャさんが本当にそう思っているのかどうか、
それは正直、分からない。
あの人なりの愛情も、苦しさも、事情も俺なりに想像はできる。
だがそれは俺というフィルターを通したリーリャさんでしかない。
それに――
アイシャがそう感じて育ったという事実だけは、
否定しようがないのだ。
「だからね……お兄ちゃんに褒められるのは、すっごく嬉しかったんだよ。ちゃんと私のことを見てくれてる気がしたから」
アイシャは唇を噛みしめて、続けた。
「でもさ……私が何にもできなかったのに褒められたら、それって、お母さんと同じじゃん……」
「……なあ、アイシャ」
「……」
「アイシャにとって、「頑張った」って、どういうときに使うんだ?」
アイシャは少し考え込んでから、小さく答える。
「……ちゃんと成果が出たとき、かな」
「だから、俺に褒められるのが不安になったんだな。“頑張ってないのに褒められてる”って思ったから」
「……うん」
……なるほどな。
恐らくだが、アイシャは、
“何もできない自分”に価値を見出せていない。
そして、その価値を結果でしか証明できないと思い込んでいる。
だからこそ、
ミスをして褒められたことが、不安になった。
「自分はまだ価値のある状態じゃないのに」
「それなのに褒められるのは、おかしい」
「それは、役割で褒められていた過去と同じになる」
そう、感じたのかもしれない。
……俺の伝え方が悪かった。
言葉が足りなかった。
軽く言ったつもりの一言が、
アイシャの中で、こんなにも重く響いていたとは思っていなかった。
俺は、ベッドの縁に座ってをアイシャを見た。
「アイシャ……結果が出なかったからって、頑張らなかったってわけじゃないんだ。結果が出るまでの道のりを歩くのもちゃんと頑張りなんだよ」
それは、俺にとっては当たり前の感覚だ。
剣の稽古でも、戦いでも、旅でも、
結果が出るまでには、必ず積み重ねがある。
その途中にある時間を、俺は頑張りと呼んできた。
だが、アイシャは首を横に振る。
「“頑張った”って言えるのは、ちゃんとできたときだけでしょ? できなかったら、それはただの失敗で、迷惑かけただけで……意味ないじゃん」
「……確かにさ、大半の人間は他人の過程を見ずに結果だけを見ると思う」
アイシャは黙って聞いている。
「でもさ、俺はアイシャの過程もちゃんと見たいんだ。何を考えて、何を迷って、何を選んだのかとかね……まあ、神様じゃあるまいし、全部を見れるわけじゃないけど」
「……」
「俺は結果だけじゃなくて過程も見たうえで、アイシャを褒めたんだ」
俺は、できるだけ穏やかに言葉を続けた。
「だからさ、「今までの頑張りに意味がない」なんて……そんな悲しいこと言うなよ。昨日、アイシャに先払いをしたのも適当に撫でたわけじゃない。アイシャが頑張れる人間だって知ってたから撫でたんだ」
「俺は……ちゃんとアイシャの頑張りを見てるよ」
しばらく、沈黙が続いた。
アイシャは俯いたまま、動かない。
その小さな背中が、ゆっくりと震え出し、
目からは涙がこぼれ落ちていく。
「ごめんなさい……っ」
アイシャはしばらく、声を殺して泣いていた。
肩が小刻みに揺れて、
必死に声を抑えようとしているのが分かる。
……不安だったのだろう。
アイシャにとって、失敗は、
“できなかった”だけじゃない。
自分の価値が揺らぐという意味だ。
今まで、目立った失敗をせずにやってきた。
それは誇れることだ。
でも同時に、ずっとその恐怖と戦い続けてきた、
ということでもある。
俺はゆっくりと手を伸ばし、
アイシャの頭を撫でた。
「ごめんな、アイシャ。今まで気づいてやれなくて。だから、さ……今は思いっきり泣いていいんだよ。アイシャは頑張り屋さんだからな」
その一言で、アイシャの中にため込んでいた何かが切れたようだった。
アイシャは俺の胸に飛び込み、
今まで押し殺してきたものを全部吐き出すみたいに、声を殺さず、思いっきり泣いた。
嗚咽が胸にぶつかる。
胸元に押しつけられた額が熱い。
肩が震え、服が濡れていく。
「……うぅ……っ」
俺は何も言わず、
ただ背中に腕を回して、
一定のリズムで頭を撫で続ける。
しばらく嗚咽だけが続いて、
やがて、アイシャは途切れ途切れに言葉を吐き出し始めた。
「お、お母ざんにほめられるたびに……わだしが、やぐにだでなかったら……いらないんだって、思っちゃって……! だがら、しっぱいじだら……お兄ちゃんに……見ずでられるんじゃないかって……」
小さな手が、俺の服をぎゅっと掴む。
声が裏返り、涙で言葉が途切れる。
「ぜったい……そんなことないのに……! あたまでは、分かってるのに……ずっと、ずっと……こわがっだぁ……っ!」
俺は、アイシャの背中をゆっくり撫でながら、
静かに言った。
「アイシャは今日ミスをした。でもな……アイシャには、もうたくさんのマルがあるんだ。たった一つのバツで、それが全部なくなったりはしないよ」
俺は忘れない。
俺をあの絶望から救ってくれたこと。
俺の弱さを認めてくれたこと。
何度も、何度も、何度も、俺を支えてくれたこと。
あれだけのものを、
たった一度の失敗で否定されていいはずがない。
そんな簡単に、崩れていいものじゃない。
アイシャの泣き声は、
少しずつ、小さくなっていった。
俺は何も言わず、
ただ、静かに頭を撫で続けた。
―――
「……もう……大丈夫」
その声はまだ少し鼻にかかっていたけど、
さっきまでの震えはもうない。
「そうか……」
少しだけ、間を置いてから、
俺は続けた。
「……もう一回、謝らせてくれ」
「え?」
「本当に、ごめん……アイシャがこんなに苦しんでるのに、俺は気づけなかった」
俺は、アイシャに支えてもらっていたくせに。
何度も背中を押してもらって、
弱いところを受け止めてもらって、
それなのに、アイシャが抱えていた不安には、
気づけていなかった。
「ううん。私の方から……隠してたことだから……」
「でも……」
「それにね……気づいてくれて、嬉しかったんだよ……」
「……なら、よかった」
それだけ言って、俺は少し視線を逸らした。
こういうときに、気の利いた言葉を並べられるほど、俺は器用な人間じゃない。
ただ、この空気を壊したくなくて、
この距離を保ちたくて、
もう一度、ゆっくりとアイシャの頭を撫でた。
アイシャは一度、深く息を吸ってから、
「はぁ~……」と、やけに長いため息をついた。
「どうしたんだ?」
「……私って、めんどくさいよね?」
「え?」
次の瞬間、アイシャが両手で顔を覆って、
布団に倒れ足をジタバタさせる。
「ああ、もう! 今のセリフが、めんどくさい女のそれじゃん!!」
「まあ、客観的に見たら、面倒くさいかもしれないな」
「ほら、やっぱり~!」
そう言いながら、アイシャは少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
「でもさ……」
「な、なに……?」
「どんな沢山の面倒くさいでも、俺がアイシャを大事にしたいって気持ちには勝てないよ。人間って、ひとつの感情だけで動いてるわけじゃないからさ」
「……」
アイシャは顔を伏せた。
人は、矛盾した感情を同時に抱える生き物だ。
面倒くさいと思いながら大切に思えるし、
不安を抱えながら信じようとすることもできる。
「まあ、その不確実性が、厄介なところでもあるんだが……」
そう独り言のように呟いた、その瞬間だった。
「いてっ」
ドン――と胸に衝撃がきた。
アイシャが、急に勢いよく突撃してきて、
そのまま、俺の胸におでこを当てる。
「アイシャ……?」
「お兄ちゃん、手。貸して」
「……え? あ、ああ」
言われるまま手を差し出すと、
アイシャは一度だけ俺の指先を確かめるように触れてから、ためらいなく、すっと自分の指を滑り込ませてきた。
指と指の間にするりと入り込んできて、
一本ずつ、確かめるように絡めてくる。
握る手の力が、思ったより強い……
体勢的に、アイシャの顔は見えない。
見えないが、俺の手に、
アイシャの吐息が当たるのは分かる。
あたたかくて、少し早い呼吸。
「お、おい……どうしたんだ?」
「なんでもない、なんでもないから……ただ、今はちょっとこのままでいさせて」
「……分かった」
俺はしばらく黙ったまま、
アイシャの様子を窺っていた。
……まあ、泣き疲れた後だしな。
落ち着くまで、こうしてるだけだろう。
それに、今日は色々あった。
感情が行ったり来たりして、
今はたぶん、思考を止めたい時間なんだ。
そう自分に言い聞かせて、
俺は余計なことを考えないようにした。
しばらくするとアイシャが、
そっと俺の手を引き寄せて、自分の頬に当てた。
「…………」
柔らかい。
頬は、少し熱を帯びていて、
さっきまで泣いていたせいか、
ほんのり湿っている。
まつ毛が俺の指に触れて、くすぐったい。
……キモいな、俺。
こんな感想、いちいち浮かべるな。
自分で自分にツッコミを入れながら、
俺は無意識に、手に力が入らないよう気をつけた。
変に力を込めたら、
この空気が壊れてしまいそうな気がしたから。
優秀すぎて、つい忘れそうになるが、
アイシャはまだ、子供なんだ。
知識も、判断力も、人付き合いも、
下手な大人よりよっぽどしっかりしている。
でもそれは、強がりと積み重ねで出来上がった外側であって、内側まで大人ってわけじゃない。
そんな人間が、ふと力を抜いた瞬間に、
人肌が欲しくなるのは、当たり前のことだ。
子供には、支えが必要だ。
寄りかかれる場所が、逃げ込める場所が必要だ。
それは教訓でも義務でもなく、
もっと単純で、もっと自然なこと。
もちろん、支えすぎて、
依存しすぎてしまい、
自立できなくなるのは良くない。
でも――
たまに寄りかかれる居場所ぐらいには、
なれたらいいな。
俺はそう思いながら、
変わらない力加減で、
そのまま手を差し出し続けていた。