ご了承ください。
王子の部屋の扉が閉まり、俺は城の廊下に一人きりになる。
さっきまでの異様な熱量が嘘みたいに、急に現実へ引き戻された感じがした。
王子と人形談義して、誕生日プレゼントを差し出して、その対価に王族の捜索網を動かす約束を取り付けて……冷静に振り返るとなかなかに濃い一日だ。
正直に言えば、ルーデウス以外の転移者。
たとえばリーリャさんとかの捜索も頼みたかったところだが……それは無理そうだな。
あくまでザノバは、ルーデウスが人形を作れるから協力してくれた感じだったし。
まあ、その分ルーデウスの捜索は全力でやってくれるのは間違いないだろう。
さて、もう昼になる頃だが、何をしようか。
今日はただの散歩のつもりで街をぶらついていただけだから、特に予定もない。
おなかも空いてきた。
自分で何か作るか、
それとも店で簡単に済ませるか……
「いや、というかここはどこなんだ?」
俺はまた迷ってしまった。
冷静に思い返すと、俺は完全にザノバの後ろについて歩いていただけだったので、帰り道などまったく覚えていない。
そもそも城がでかすぎる。
仕方なく透視眼を使って、壁の向こうの通路や階段の位置を確認しながら移動する。
「この城、絶対人を迷わせるために設計されてるだろ……」
ぼやきながらも、頭の中で道筋を一本ずつ引いていく。
頭の中でルートを組み立て、候補をいくつか決めた、その瞬間。
透視眼の視界の端に、ふと一人の女性が映った。
一つ上の階。
そこを歩いている、メイドさん。
……は?
思考が、文字通り止まる。
待て待て待て待て。
城にメイドがいるのは当たり前だ。
当たり前なんだけど――
「でもなんで、あの人がここにいるんだよ!?」
いや、今は「なんで」を考えてる暇はない。
俺は透視眼を維持したまま、城の中を走った。
途中、角から出てきた使用人がぎょっとした顔をするが、そんなの構っていられない。
階段を全段飛ばして駆け上がる。
廊下を曲がって、足音が響くのも構わずにメイドさんの方へ向かった。
メイドさんが、俺の足音に気づいたのかこちらに振り向いた。
そして、目が合う。
一瞬、相手の目が丸くなって、次の瞬間に信じられないものを見る顔になった。
俺も同じ顔をしてたと思う。
だって、ありえない。
こんな場所で、こんな形で。
「リーリャさん! 俺のことを覚えてますか!?」
「か、カイン様!? どうしてここに……!?」
「それはこっちのセリフですよ! リーリャさんこそなんでここにいるんですか!」
「私は数年前、気づいたらこの城に転移しておりました」
転移か……
無差別に飛ばされるはずのそれで、この城に直接放り込まれたのか。
運がいいのか、悪いのか分からない話だ。
「それから、ずっとここに?」
「はい。牢獄に入れられたわけではありませんが、他国のスパイではないかと疑われまして、今日までずっとこの城の中で外出も許されず、軟禁されておりました」
「ッ! なにか危害を加えられたりはしませんでしたか!?」
「い、いえ、そのようなことは、特に何もされておりませんので……大丈夫です」
「それで、良かったです、とはなりませんよ……」
“何もされていない”のと“何も問題がない”のは別だ。
衣食住があれば、それで良いわけがない。
「お気遣いいただきありがとうございます」
リーリャさんは、丁寧に頭を下げた。
その所作が、俺の焦りを少しだけ冷ましてくれる。
「……逃げますか?」
俺は声を落として言った。
ここで長話をしている時間はない。
再会の喜びとか、思い出話とか、そういうのは全部あとだ。
「もちろんです」
「このことを城の人に話したら、リーリャさんを素直に解放してくれますかね?」
一縷の望み、ってやつだ。
リーリャさんは少しだけ目を細めて、困ったような顔をした。
「転移事件の情報が流れて来た際、一度は解放される流れになっておりました」
「おお……じゃあ――」
「ですが、第七王子からの妨害が入りまして……その後は、その王子の管理下に置かれております。ですので、それは難しいかと」
「そう、ですか……」
「申し訳ございません。私も王子の考えをすべて理解しているわけではございませんので」
「いやいや! リーリャさんが謝ることじゃないですよ」
言いながら、俺は奥歯を軽く噛んだ。
王子が横やりを入れてまで、わざわざ管理下に置き、自由を奪った。
それが善意である可能性は、どう考えても低いだろう。
うーん……ザノバに頼めば何とかなるか?
うまくいけば、リーリャさんの身柄を正式に動かせるかもしれない。
序列的に偉いのは第三王子のザノバだろうし……
そうやって、ほんの一瞬だけ希望に寄りかけた、その瞬間だった。
「リーリャ! 誰だそいつは!?」
廊下に響く怒鳴り声で、俺の思考がぶつりと切れる。
顔を上げると、そこにはいかにも偉そうな感じの小太りの男がいた。
両脇には護衛だと思われる兵士を数人連れている。
背は低めで、つるんとしたおかっぱ頭。
髪の色や雰囲気から推測するに……ザノバの弟か?
顔立ちが少し似ている。
リーリャさんが俺に耳を寄せて囁いた。
「あれが、例の第七王子でございます」
「嘘だろ……」
「いえ、本当です」
「あ、リーリャさんを疑ったわけじゃないです」
「……そうでしたか」
当たりを引きたくない場面で、いちばん厄介そうな当たりを引いてしまった。
逃げる、って話の最中にリーリャさんを軟禁した本人が出てくるとか、冗談じゃない。
だが、この場で糸口を作れなきゃ話は動かない。
動かないどころか、最悪俺もまとめて拘束される。
俺は前に出て、リーリャさんを半歩だけ隠す形になった。
「私は、ザノバ殿下に連れてこられてきたもので……こちらにいるリーリャの知人です」
今の俺の肩書きが自分でもよくわからない。
王子は俺を上から下まで舐めるように見て、鼻で笑った。
「ほう、兄上に……なにをしに来たのだ?」
「身柄を引き受けたいのですが」
俺がそう言った瞬間、第七王子の顔が、ゆっくり歪んだ。
歪んだというより、喜びを隠しきれない顔になっていく。
待ってましたと言わんばかりに、口角が勝手に上がっていく。
そして次の瞬間、腹の底から絞り出すような笑い声を上げた。
「ギャハハハハ! まんまと餌につられたな!」
「……?」
俺は、思わず首をかしげた。
意味が分からない。
餌? 誰が? 何の?
俺は、今この瞬間にリーリャさんを見つけただけで――
「とぼけても無駄だ! リーリャを助けに来たと言うことは、貴様がルーデウスなのだな!」
なんでここでルーデウスが出てくるんだ?
頭の中で、思考が一回転してそのまま壁にぶつかった。
理屈が繋がらない。
だが、この王子の頭の中では、リーリャさんとルーデウスが一本の線で繋がっているらしい。
「いえ、俺はルーデウスじゃあ……」
否定しようとした。
当然だ。
否定しないと、話が変な方向に固定される。
でも、王子は俺の言葉を途中で叩き潰すみたいに遮った。
「ルーデウスではないのなら、なぜリーリャを助けようとする?」
何を言ってるんだ、こいつは……
ルーデウスじゃなくても助けようとする人間なんて、いくらでもいる。
それこそ、リーリャさん自身の知り合いだって、家族だって、誰だっているだろう。
助ける人物を一人に固定してる時点で、発想がおかしい。
意味の分からない言葉に、なんて返答すればいいか分からず、俺は思わず黙ってしまった。
その一瞬の“間”を、王子は勝手に都合よく解釈する。
「フン! 言いよどむと言うことは、やはり貴様がルーデウスか!」
……そう捉えられてしまったか。
何を考えているかは知らないが、こいつにとってリーリャさんはルーデウスをおびき寄せるための餌であり、その餌に釣られた相手は、ルーデウスに違いない。
そんな意味不明な思考ロックに陥ってる、と見るべきか。
自分の妄想が現実だと思い込んでいるタイプ。
これは、まともに会話できそうにないな。
こういう相手に正論は通じないだろう。
王子が、愉快そうに顎をしゃくった。
兵士たちが一斉に動く気配がする。
「貴様ら! 余の餌に食いついた獲物だ、ひっ捕らえろ! 逆らったら……分かってるな?」
「結局そうなるのかよ……」
言いながら、俺はぱっと手影絵を作って、呪力を流した。
見た目は子どもの遊びみたいでも、やることは大真面目だ。
「『脱兎』」
床から、壁から、天井から。
ぼふっ、ぼふっ、と白い塊が湧き上がり、数えようとしたら頭が痛くなる量の白兎が城の廊下を埋め尽くした。
跳ねる。ぶつかる。走り回る。
耳元をかすめて、足元を抜けて、膝に当たって、兵士の脛に突っ込む。
視界が一気に白で埋まった。
「なっ、なんだこれは!」
王子の叫び声が聞こえた。
でもその姿は、もう見えない。
『脱兎』の壁が、王子と俺たちの間にぶ厚く挟まってる。
「これは……」
リーリャさんが、息を呑む。
驚くのも無理はない。
ただ、説明してる時間はない。
「さあ! 今のうちに逃げますよ! リーリャさん!」
俺はそう言って、リーリャさんの手を取って走り出す。
指が冷たい。
でも、握り返してくれた。
その小さな力だけで、俺の中の決心が一段固まる。
……ただ。
走り出してすぐ、リーリャさんの足取りが重いのが分かった。
靴が硬いのか、裾が長いのか、動きが少し遅れる。
俺が速度を落とした瞬間、リーリャさんが息を乱しながら謝った。
「申し訳ございません……足が……」
どうして謝るのか、と言いかけて、飲み込んだ。
責めてるように聞こえたら、余計に身体が硬くなる。
俺が支えればいいだけだ。
「大丈夫です。俺が合わせます」
廊下がT字に分かれる場所に差し掛かる。
俺は即座に透視眼を使って左右を覗く。
左から兵士。右にも兵士。
こっちが逃げる方向を予測したみたいに、既に回り込んでいる。
王子とは違って、ちゃんとしてる。
背後も当然使えない。
俺たちが通ってきた方向は、兵士が『脱兎』を斬りつけながら押し出してきている。
あの速度なら、じきに追いつかれるだろう。
俺はそのまま進む。
左右に曲がる選択肢を捨てて、突き当りの壁まで向かって止まる。
「どうするか……」
考えがまとまりきる前に、リーリャさんが俺の腕を引いた。
視線が、左右から迫る兵士の方へ向いている。
嫌な予感がした。
「カイン様……私のことは、置いて行ってください」
言葉が、遅れて胸に刺さった。
聞き間違いかと思ったけど、リーリャさんの目は本気だ。
恐怖で混乱してるんじゃない。
この人は“最適解”として自分を切る判断をしている。
「一度逃げて助けを……」
そんなことを、こんなに自然に言えるのか。
どうして、自分を切り捨てる判断が、呼吸みたいに出てくるんだ。
いや、俺が子供だからだ。
俺が大人だったら、リーリャさんはこんな提案をしなかったかもしれない。
でも、俺は――それを受け取れない。
「絶対に見捨てません。リーリャさんが相手なら、なおさらです」
言い切って、俺はリーリャさんの手を強く握った。
きっかけは、ほとんど運みたいなもんだ。
たまたま透視眼の端に映って、たまたま俺が気づいて、たまたま声をかけられた。
でも、運で見つけたからといって、失っていい理由にはならない。
アイシャの母親が見つかった。
それが、どれだけ大きいことか。
アホ王子一人のせいで、それを台無しにしてたまるか。
俺は突き当たりの壁を見る。
「リーリャさんは、高いところが苦手な人ですか?」
俺が急にそう聞くと、リーリャさんが目を瞬いた。
状況と質問が噛み合ってない。
そりゃそうだ。
「? い、いえ……苦手というわけではございませんが……」
「それはよかった」
俺は短く言って、壁へ手を伸ばした。
掌を石に当てる。
「『捌』」
呟いた瞬間、斬撃が走る。
壁は斬撃でバラバラにされすぎて粉微塵になって砕け散る。
長方形のきれいな穴ができた。
「『鵺』」
足元の影が、俺の意思に従って伸びた。
床を這って、穴の縁を越えて、外壁へつたい、外へ染み出していく。
そして外側で、影が膨らむ。
通常よりも二回り大きな『鵺』が、城の外に形を成した。
躊躇ってる暇はない。
俺はリーリャさんを見て、両手で抱きかかえた。
「えっ……!? あ、あの、いったいなにを――」
リーリャさんが慌てて声を上げる。
当然だ。
突然抱えられて、突然壁に穴が空いて、突然でかい鳥が外にいる。
理解が追いつく方が怖い。
「すみません。ちょっと、我慢してください」
そのまま俺は、壁に空いた穴へ一歩踏み出して――落ちた。
「っ!」
風圧が身体を叩きつける。
リーリャさんが、ぎゅっと目を閉じたのが分かった。
どん、と『鵺』の背に着地し、
リーリャさんをそっと下ろす。
「……すまん『鵺』高度を上げてくれ」
背中を軽く叩くと、『鵺』は不満そうに鳴きながらも、素直に翼を大きく広げた。
ぐん、と身体が持ち上がる。
風が強くなり、
街並みが一段下へと遠ざかっていく。
俺は軽く体勢を整えながら、
さっきまでいた城の方を振り返った。
兵士たちがわらわらと集まっている。
こちらを指差し、慌てた様子で叫び合い、
何人かが前に出て、杖を大きく振りかぶった。
「まじか……」
次の瞬間。
石弾が複数、こちらへ飛んできた。
俺はため息混じりに、指を軽く振る。
空中で石弾が砕け、粉微塵になり、
砂塵はそのまま風に散っていった。
下に住んでる人たちに当たったら、どうするつもりだ。
城の兵士が放っていい魔術じゃないだろ。
そう思っている間にも『鵺』はさらに高度を上げ、魔術の射程から完全に外れる。
ようやく一息ついたところで、
リーリャさんが遠ざかる城を見つめたまま、
静かに口を開いた。
「あの。アイシャは……無事なのでしょうか」
「はい。俺と一緒に転移して、今も一緒にいますよ」
「……そう、ですか」
リーリャさんの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
張り詰めていたものがようやくほどけた、そんな感じだった。
その横顔を見ながら、ふと胸の奥に引っかかる。
アイシャは言っていた。
「お母さんは、自分を便利な道具として見ている」と。
確かに、行動だけを切り取れば、そう見える場面もあったのかもしれない。
厳しく、感情を表に出さず、距離を保ち続ける態度。
子どもから見れば冷たく映るやり方だっただろう。
だが――今、目の前で見せているこの表情は、どう見ても「道具」を案じる人のものじゃないように感じた。
なにより、真っ先に気にかけたのは娘のアイシャだ。
その事実だけで、少なくとも一面的な見方では語れないと俺は思う。
リーリャさんに俺達が転移してから、今に至るまでの話を順に伝えた。
アイシャと一緒に魔大陸へ飛ばされたこと。
ミリシオンに師匠がいて、
俺たちは今、フィットア領を目指していること。
すでに見つかっている人たちのこと。
まだ見つかっていない人たちのこと。
良い話も、悪い話も、
できるだけ正確に、話した。
リーリャさんは、途中で何度も頷きながら、
一つ一つの情報を大切そうに受け取っていた。
そして、少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「ルーデウス様は、まだ見つかっていないのですか……」
「ルーデウスなら、きっと大丈夫ですよ」
言いながら、俺は透視眼で雲の下を見渡す。
白い雲の向こうにある、街並みを覗く。
その中に俺達が止まっている宿の屋根が見えた。
このまま鵺で降りたら、確実に町が騒ぎになる。
不気味な仮面をつけた、怪鳥が空から降りてきたら目立つだろう。
余計な混乱は避けたい。
……今更な気もするけど。
俺は一度、リーリャさんの方を向いた。
「……あの、今乗ってるこいつで降りちゃうと、町が騒がしくなると思うので、失礼してもいいですかね?」
急に抱き上げるのは、さすがに失礼だ。
さっきは本当にとっさだった。
状況が状況とはいえ、あれは反省している。
リーリャさんは、少し驚いた顔をしてから、小さく頷いた。
「はい。お願いします」
その返事を聞いてから、
俺は改めて両手を伸ばし、
さっきと同じように、慎重に抱きかかえた。
俺は一歩踏み出し、そのまま飛び降りた。
風が一気に身体を叩く。
リーリャさんは今度も声を上げなかったが、
服を掴む手に、力が入っていた。
そのまま高度を落とし、
俺たちは宿の中庭に勢いを殺して着地する。
「あの高さから……」
ぽつりと零れた声には、驚きと、
ほんの少しの引き気味な感情が混じっていた。
「まあ、鍛えてますから」
我ながら雑な返しだが、事実なので仕方ない。
説明すると長くなるし、今はそれどころじゃない。
俺はリーリャさんを下ろし、宿の中へと向かう。
借りている部屋の前に立ち、ノックをする。
「ん……? お兄ちゃん? ちょっと待ってね」
扉の向こうから、聞き慣れた声が返ってくる。
その何気ない調子に、思わず肩の力が抜けた。
……と、その直後だった。
後ろにいたリーリャさんが、
俺の横をすっと追い越して、そのまま扉を開ける。
部屋の中。
ベッドの上に腰掛けたアイシャの膝の上には、
縫い直したばかりと思われる旅用の服。
針仕事の途中だったのだろう、
几帳面に揃えられた糸と布が脇に置かれていた。
「もう、お兄ちゃん! ちょっと待ってっ……て」
アイシャが顔を上げ、言葉が途中で途切れる。
「……え?」
こちらから見えるのは、アイシャの顔だけ、
リーリャさんの表情は、俺の位置からは見えない。
それでも、二人の視線が確かに重なったのが分かった。
一瞬、本当に一瞬だけ、
時間が止まったように感じた。
「アイシャ……」
少し震える声で、リーリャさんが名前を呼ぶ。
アイシャは目を見開いたまま、数秒固まっていたが、やがて信じられないものを見るように、口を開いた。
「……おかあ、さん?」
その一言が、引き金だった。
「アイシャ……っ!」
リーリャさんは一歩踏み出し、
ためらいもなくアイシャを抱きしめた。
強く、強く。
逃がさないと言わんばかりに。
「ああ、よかった! あなたが無事で……本当によかった……」
すすり泣く声。
肩を震わせながら、何度も同じ言葉を繰り返す。
腕に込められた力は強く、
離すつもりなんて微塵も感じられない。
アイシャも、最初は驚いたまま固まっていたが、
次第に目の縁が赤くなり、涙がじわりと滲んでいく。
「うん……」
短い返事しかできないまま、
アイシャはほんの少し迷うように指を動かし、
それから意を決したみたいに、
リーリャさんの背中へと腕を回した。
小さな腕だった。
それでも、その腕に込められた力は確かで、離れないという意思だけは、はっきり伝わってくる。
口では、
「道具扱いされている」とか、
「私のことを見ていない」とか、
アイシャはそう言っていた。
アイシャがそう感じていたのは、きっと事実だ。
厳しくて、距離があって、
感情を表に出すことが少なくて、
愛情が見えづらい母親だったのだろう。
……それでも。
それでも、やっぱり、
母親から愛されたかったんだろう。
自分は必要とされているのか。
自分は、大切に思われているのか。
ずっと、心のどこかで、
その答えを求め続けていたんだろう。
そして、今こうして抱きしめられたことで、
その問いに、ようやく形のある答えが返ってきた。
言葉じゃなく、説明でもなく、
ただ「抱きしめられる」という、
一番分かりやすい形で。
リーリャさんの顔は、俺からは見えない。
でも、肩越しに伝わってくる震えと、
小さく漏れる嗚咽が、
すべてを物語っていた。
俺は、その光景をほんの少しだけ見届けてから、
音を立てないように一歩下がった。
床板が軋まないように気をつけながら、
静かに踵を返す。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
自分が愛されていると知ると、
人間はどうしても、嬉しくなってしまうものだ。
俺はこの世界に来て、両親に愛してもらったことでそれを知った。
だからこそ、分かる。
今目の前で起きていることが、
どれほど大切で、どれほど尊い瞬間なのかを。
俺は廊下へと歩き出し、
そっと扉を閉めた。