俺は城の壁をぶち抜いた犯罪者である。
ことの顛末を、できるだけ簡潔に、
できるだけ穏便な言葉を選んで、
ブレイズとノコパラに説明した。
二人とも途中から無言になり、
最終的にブレイズは深いため息をつき、
ノコパラは「まあ……いつかやるとは思ってた」とよく分からない納得をしていた。
納得されるのもそれはそれで複雑だが、
ともかく長居は無用という結論に至り、
俺たちは早々に支度を整え、国を出た。
そして今。
俺たちは馬車に乗り、
すでにシーローン王国を離れている。
……いる、のだが。
気まずい。
とんでもなく気まずい。
原因は分かっている。
俺の向かいに座るリーリャさんと、
俺の隣にいるアイシャ。
視線が合わない。
というか、合うと火花が散りそうだ。
あの後俺が部屋を出て、
ブレイズとノコパラに事情を説明し、
急いで出発の支度を整えて、
戻ってきたら、喧嘩していた。
理由は単純明快。
アイシャを、今後どうするか。
正確に言えば、
「アイシャをルーデウスに仕えさせるかどうか」
……うん。
予想は、していた。
あの流れのまま、
全部が綺麗に収まるとも思っていなかった。
再会して、泣いて、抱き合って、はい解決。
そんなに現実は都合よくできていない。
馬車の揺れが一定のリズムを刻む中、
俺は天井をぼんやり眺めながら、ため息を一つ飲み込んだ。
正直なところ、リーリャさんがなぜそこまでしてアイシャを、ルーデウスに仕えさせようとしているのか。
俺には、はっきりとは分からない。
恩義。忠誠。
あるいは、リーリャさんなりの「幸せ」の形。
彼女自身が、そうやって生きてきたからこそ、
それが最善だと信じているのかもしれない。
一方で、アイシャの方はというと。
今のところは、「ルーデウスに仕える」
という選択肢を取る気はまったくなさそうだ。
まあ、そりゃそうだ。
会ったこともない相手に、
一生仕えなさい、なんて言われて、
はい分かりました、となる人間はそういない。
それが、たとえ才能があって、
立派な人物だとしてもだ。
だが、俺がこうして一人で考えていても、
状況は何一つ進まない。
リーリャさんの考えも、アイシャの本心も、
想像だけで決めつけるわけにはいかない。
……聞くしかないか。
このまま気まずい空気を飼い続けるより、
多少ぎこちなくても、口に出した方がいい。
「リーリャさん。一つ、聞いてもいいですか」
リーリャさんは、姿勢を正したままこちらを見る。
「どうして、アイシャをルーデウスに仕えさせたいんですか」
「ルーデウス様に、仕えたくないと思う人物がいるのですか?」
「それは、たくさんいるんじゃないですか? なあ、ノコパラ」
「なんで俺に振るんだよ……まあ、そうだな。俺は誰かに仕えるなんて御免だ」
「……それは、ルーデウス様とまだお会いしていないからです」
「アイシャも、ルーデウスとは会ったことないですよ」
その言葉が落ちた瞬間、
リーリャさんは、はっきりと息を呑んだ。
そして、そのまま押し黙る。
リーリャさんの表情を見ていると、この人が悪意でやっているわけじゃないのが分かる。
だからこそ、誰が悪いとか、
どちらが間違っているとか、
そういう単純な話じゃない。
俺は一度、息を整えてから続けた。
「そもそも……ルーデウスが、アイシャをメイドさんにするかどうかも、まだ分からないじゃないですか」
「いえ。ルーデウス様なら、きっと仕えることを許してくださいます」
ほとんど間を置かずにそう言った。
迷いも、確認もない。
まるで最初から決まっている前提を、
そのまま口にしたような言い方だった。
……この感じ。
多分、あまり言語化できていないな。
頭で整理して出した結論というより、
もっと感情に近いところで固まっている答えだ。
なら、まずはそこを聞くしかない。
「どうして、そう思うんですか? ルーデウスに、直接聞いたわけでもないんですよね?」
「……はい。直接、そのように伺ったわけではありません。ですが……ルーデウス様なら、きっとアイシャを仕えさせてくださると、私は信じております」
「信じている、ですか」
「はい」
「リーリャさんに、そう感じさせる出来事があったんですね?」
「……はい」
短い返事。
それ以上は続かない。
……なるほど。
やっぱり、あるんだな。
信じ切ってしまうだけの“何か”が。
人がそこまで断言できる時、
たいていは理由がある。
言葉にしていないだけで、
心の中には、はっきりとした確証が残っている。
「それを、教えてもらうことはできますか?」
「それは……」
俺はすぐに続けた。
「話したくないなら、無理には聞きません。話しづらいことなら、いったん馬車を止めて、他の人に聞こえないとこで話してもいいです」
ノコパラの方を見ると、
「俺は別に聞かなくていいぞ」
という顔で肩をすくめている。
ブレイズも、何も言わずに視線を外した。
「……お願いします」
その言葉を受けて、俺は『虎葬』に、止まれと指示を出す。
『玉犬』なら急停止するところだが、
『虎葬』は、ゆっくりと速度を落とし、
道の脇で止まった。
リーリャさんは一度だけこちらに会釈をして、
静かに馬車を降りた。
その背中を見送りながら、
俺も続こうと腰を浮かせた――その瞬間。
くい、と服の裾が引かれる。
振り向くと、アイシャが小さな手で俺の服を掴んでいた。
「アイシャ?」
その声に、リーリャさんが振り返り、
少し強い声を出しかける。
「アイシャ! 何を――」
その言葉を、俺は軽く手で制した。
「大丈夫です。先に行っててもらえますか。すぐ追いつきますので」
リーリャさんは一瞬戸惑った顔をしたが、
何も言わずに頷き、再び歩き出した。
その姿が十分に遠ざかるのを確認してから、
俺は視線をアイシャに戻す。
「どうしたんだ?」
アイシャは、服を掴んだまま視線を落とし、
地面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……私、お兄ちゃんのメイドさんになりたい」
「……」
「顔も知らない人のメイドさんになるくらいなら……お兄ちゃんがいい」
「……俺は、そんな妥協でアイシャに自分の未来を決めてほしくない」
「妥協じゃないもん」
「『ルーデウスに仕えるくらいなら』って言葉の後に、俺が来るなら……それは妥協になるかもしれない」
アイシャは黙った。反論は来ない。
「アイシャは、ここで考えててくれないか? 自分が将来どうなりたいのかをさ」
「……そんなこと考えても。お母さんが、ダメって言うじゃん」
「親がそう言ったからって、子供がその通りに進まなきゃいけないわけじゃない。確かに親は道を整備してくれるし、危ない場所を避けさせてくれて、選択肢も示してくれる」
俺は、少しだけ声を落とした。
「でも、最終的にその道を歩くかどうかを決めるのは、アイシャ本人だ」
「……」
「大丈夫。リーリャさんのことは俺が何とかして見せる」
言い切ってから、もう一度アイシャの目を見る。
「最後に聞く。アイシャは本当に俺に仕えたいのか?」
アイシャは、少しだけ顔を上げかけて、
またすぐに視線を落とした。
指先が、ぎゅっと服の裾を掴む。
「……違う」
……そうか。
胸の奥で、何かがちくりとする。
正直に言えば、少しだけ、
ほんの少しだけ寂しかった。
それもいいかもな、
なんて考えてしまった自分がいたから。
俺に仕える未来を、アイシャが選ぶことをどこかで想像してしまっていたから。
だから、少しだけ悲しくなって。
同時に、それ以上に嬉しくなった。
アイシャが自分の意志で、考えようとしている。
その事実が、すごく嬉しかった。
「アイシャは偉いな」
短くそう言って、俺はアイシャの頭に手を置いた。
くしゃっと、いつもより少しだけ乱暴に撫でる。
「悩んで、考えて、選べばいい。アイシャの人生なんだから」
アイシャは何も言わず、されるがままだったが、
耳がほんのり赤くなっているのが見えた。
よし、と心の中で一区切りをつけて、
リーリャさんの方へ向かおうとした。
――その時だった。
「あのね……」
「?」
背後から、アイシャの声がする。
俺が振り返ろうとした、その瞬間。
「私は、お兄ちゃんのメイドさんじゃなくってね――」
背後から伸びたアイシャの手が、俺の耳を塞いだ。
「――っ!?」
世界が一気に無音になる。
風の音も、馬車の軋む音も、
アイシャの声も、全部が消えた。
動こうとすると、指先に少し力がこもる。
強くはない。
でも、はっきりとした意思があった。
数秒。
たったそれだけなのに、やけに長く感じる。
そして、ふっと両手が離れた。
「……な、なんだったんだ?」
思わず振り返る。
アイシャは、いつもの少し意地の悪い笑顔で、
くすっと笑った。
「なんでもないよ。ただ、私の夢を言っただけ!」
……夢?
訳が分からず、ノコパラとブレイズの方を見る。
二人とも、見事なまでに視線を逸らしていた。
おい。なんで目を合わせない。
……何て言ったんだ?
胸の奥が、妙にざわつく。
聞いてはいけない気もするし、
聞かないと落ち着かない気もする。
アイシャは、何もなかったように一歩下がり、
さっきよりも少しだけ、晴れやかな顔をしていた。
耳を塞いだ手の感触が、まだ耳に残っていて。
俺は、理由の分からない鼓動を抱えたまま、
再びリーリャさんの方へと歩き出した。
―――
リーリャさんの背中に追いつき、
俺は軽く息を整えてから声をかけた。
「遅れてすみません」
「いえ、それは構いませんが。もしや、あの子が何か粗相を……?」
「い、いえ。そんなことは。ただ……少し話をしてただけです」
「そうですか。それならよかったです」
「それで続きを、お願いします。リーリャさんがルーデウスをそこまで信じられる理由を」
「それは……ルーデウス様が、私たちを助けてくださったからです」
「助けた、というのは?」
「……アイシャは、旦那様との子なのです」
……うん、それは知っている。
この話は、ルーデウス本人から聞いている。
確か――
「師匠がリーリャさんと……不倫をして、リーリャさんが家を出ようとしたんですよね?」
「いえ、私が旦那様を誘ったのです」
「……そこは置いておくとして、その問題をルーデウスがうまく収めたと聞いています。それがあったから、ルーデウスに恩義を感じてるんですね?」
「はい」
短く、けれど迷いのない返事だった。
……それが、なぜ“仕えさせてくれる”に繋がるんだ?
リーリャさんがルーデウスを信じている理由は、分かった。
命運が分かれる場面で、
実際に助けられたのなら、信頼するのは自然だ。
でも、それと
「アイシャを仕えさせたい」
「アイシャを仕えさせてくれる」
という結論は、少し距離があるように思える。
だって、あの場には他にも大人がいたはずだ。
主犯格の師匠は論外として、
最終的に「家族として受け入れる」と決断したのは、ゼニスさんだと聞いている。
そう考えれば、感謝と信頼を向ける相手はゼニスさんになる。
でも、リーリャさんの中で“絶対的”なのは、
当時……いや、今も子供のルーデウス。
……やっぱり、そこが引っかかる。
俺は無意識のうちに顎に手を当て、
少し考える仕草を取っていた。
俺は一度、視点を完全に切り替えてみることにした。
もし、俺がリーリャさんだったらどう感じるか。
不倫が発覚して、正妻に頭を下げて、
「許す」と言われて、事件は解決。
そしてまた、同じ家で暮らすことになったとして。
――自分は本当に許されたのだと、心の底から信じられるだろうか。
俺は無理だな。
感謝はする。恩も感じる。
でも同時に、ずっと疑ってしまうだろう。
「……もしかしてですけど。リーリャさんは、不倫を許してもらっても、本当に許してもらえているのかずっと不安だったんじゃないですか?」
一瞬、リーリャさんの表情が固まった。
目線が逸れて、口元がわずかに強張る。
否定の言葉は出てこない。
これは肯定と受け取ってもいいよな?
「人間不信」と言うほど大げさなものじゃない。
誰にでも起こりうるものだ。
リーリャさんは、“許された”という事実を、
どうしても自分の中で飲み込めなかったのかもしれない。
リーリャさんとゼニスさんの仲はだいぶ良かったが、仲がいいからこそ、ふとした瞬間に不安になってしまうのだろう。
「だから、リーリャさんはルーデウスを信用してるんですね。自分が一番弱いときに、何の立場もなく、何の義務もなく、ただ助けてくれた存在だから」
「そう……なのかもしれません」
リーリャさんは、ぽつりとそう答えた。
断定ではなく、否定でもない。
自分の中で、今ようやく形になりつつある考えを、
確かめるようだった。
「ルーデウスなら、自分を裏切らないという確信があった。だから、その“安心”を、アイシャにも渡したかった……そういうことですか?」
守るため。不安から遠ざけるため。
そう言われれば、十分に母親らしい選択だ。
そう思ったのだが……
リーリャさんは、はっきりと首を横に振った。
「いいえ。それは違います。カイン様に言われて……今、ようやく気づきました」
そう前置きしてから、
リーリャさんはゆっくりと言葉を続ける。
「私は……アイシャを、ルーデウス様に仕えさせることで“恩”を与えようとしていたのだと思います。そうすることでその恩が、この安心をより強固なものにしてくれると……」
リーリャさんの視線が揺れる。
「……そんな、浅ましい考えでした」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で何かがひっかかった。
浅ましい、か。
まあ、事実としてはそうなのかもしれない。
でも、俺はリーリャさんを責める気は起きない。
なぜなら、前世の俺もまったく同じことをしていたのだから。
役に立つ自分を差し出して、
必要とされる場所にしがみつく。
仕事でも、人間関係でも、
「俺は使える」「俺は便利だ」
と無言で訴え続けて、
それでようやく居場所を確保しているつもりになっていた。
だが、そんなものは一時の感情で簡単に忘れられる。
それを、俺は知っている。
まあ、ルーデウスがそんなことをするとは思えない。
人の善意を踏みにじるような真似を、あいつはしないだろう。
リーリャさんがルーデウスを信じる理由も理解はできる。
リーリャさんは、俯いたまま震える声で続けた。
「あの子の言う通りです。結局私はあの子のことを……道具として利用していたんです」
涙が、ぽろりと落ちる。
拭おうともせず、ただ落ちるままに。
「守るため、幸せにするため……そんな聞こえのいい言葉を並べて。本当は、自分が安心したかっただけなのかもしれません。私はアイシャを……愛していなかったのだと思います」
その言葉は、あまりにも強すぎた。
自分を罰するために、
必要以上に鋭く研がれた言葉だ。
「そうですね……リーリャさんに、利己的な欲求があったのは、否定しません」
リーリャさんが、びくりと肩を揺らす。
「安心したかった。失うのが怖かった。だから、アイシャを縛った。そこまでは、事実なのかもしれません。ただ――」
リーリャさんが、わずかに顔を上げた。
「アイシャを愛していない、というのは……違うと思います」
顔を上げたリーリャさんの目が、揺れた。
「愛していなかった人間が、真っ先に子供の無事を確認しますか? 再会した瞬間に、あんな顔をして泣けますか?」
「だとしても私は……あの子を傷つけて――」
「それは事実です。確かにアイシャは傷ついていた。でも、もし今までのことをリーリャさんが、本当に悪かったと思っているなら。アイシャを見て、抱きしめてあげてください。ルーデウスに仕えさせるためじゃない。安心を得るためでもない……」
「ちゃんと、あの子の母親として、アイシャを褒めてあげてください」
「……私なんかがいいのでしょうか?」
「俺は、親が子供を愛するのに許可はいらないと思ってます。そしてアイシャはそれを求めてるんです。お願いします。あの子は頑張り屋さんのとってもいい子なんです」
「……わかりました」
リーリャさんは、少し間を置いてから、
静かにそう答えた。
「あと……アイシャは聡い子です。リーリャさんがどう作用しようとしても、そう簡単には思い通りにはなりませんよ」
リーリャさんは、一瞬きょとんとした顔をしてから、ふっと力の抜けた笑みを浮かべた。
「そうですね。あの子は、旦那様に似て自由奔放ですから」
その返事が、妙に嬉しそうだったのが印象に残った。
「ですね!」
「差し支えなければ、あの子がしてきたことを教えてくださらないでしょうか?」
「はい! もちろんです! まずは何から話しましょうか――」
―――
ちょっと……いや、だいぶ時間を使ってしまった。
まあ、リーリャさんも楽しそうに聞いてくれたから良しとするか。
早歩きで馬車の方へ戻ると、外で待っていたアイシャが、俺の姿を見つけるなり、ぱっと顔を上げて、小走りで近づいてきた。
「お兄ちゃん! どう、だった?」
俺は深く説明する代わりに、
にっと笑って、親指を立てる。
サムズアップだ。
「?」
分かってない顔だ。まあいいか。
その時。
俺の横をリーリャさんが会釈してから、スッと通り過ぎていく。
リーリャさんに気づいた瞬間、アイシャの背筋が伸び表情が変わる。
――覚悟を決めた時の顔だ。
「お母さん……私ね、夢ができたの」
その言葉に、リーリャさんは少しだけ目を見開き、
すぐに優しく微笑んだ。
「はい」
「ルーデウス様に仕える、って夢じゃないよ?」
念を押すみたいに、アイシャは言った。
リーリャさんは、口元に手を当てて――くすっと、軽く笑った。
「はい。大丈夫です」
「……怒らないの?」
「はい」
その返事と同時に、リーリャさんは一歩前に出て、
アイシャをぎゅっと抱きしめた。
「あっ」
短く声が漏れる。
完全に不意打ちだったらしく、
アイシャの体が一瞬だけ強張る。
でも、すぐに力が抜けていくのが分かった。
リーリャさんは、そのままアイシャの頭に手を置いて、ゆっくり、優しく撫でた。
「ごめんなさい、あなたに重たい期待を背負わせて、たくさん我慢をさせてしまいましたね」
「ん。大丈夫」
アイシャは、なんてことなさそうに答えた。
本当に、いつも通りの軽さで。
その返答に、俺は違和感を覚える。
リーリャさんも、その違和感に気づいたのか、
アイシャの肩を掴みながら少しだけ離れ、
その顔をしっかりと見つめた。
「いいえ……大丈夫ではありませんよ、アイシャ。あなたは怖い思いをしました。知らない土地で、知らない人に囲まれて、それでも今日まで生き延びました」
アイシャの目が、少しずつ潤んでいく。
「カイン様から、たくさん聞きました。気配りができて、頭もよくて、状況を読むのが早い。自分より他人を優先してしまうほど、優しい子だと」
「あなたは、私の自慢の娘です」
アイシャの顔が歪む。
次の瞬間、堰を切ったみたいに声が溢れた。
「ほめるなら……っ、ほめるなら……もっと、はやぐ……言ってほじがったぁ……っ!」
「はい。遅くなって……本当に、ごめんなさい」
「お、おがあさん! おかあさん……っ!」
アイシャはリーリャさんにぎゅっと力強く抱き着く。
反比例するようにリーリャさんはアイシャの背中を優しく撫でた。
だめだな。
ちょっと泣きそうになる。
……俺は知っている。
ノルンちゃんが、師匠に抱きしめられていたとき。
頭を撫でられていたとき。
その光景を見たアイシャの顔を。
羨ましい、とは言わなかった。
ただ、少しだけ――
本当に、ほんの少しだけ、
悲しそうな顔をしていた。
あの子にとって師匠は、
妾の子だと、自分から線を引いてしまう存在で、
存分に甘えていい相手じゃなかったのかもしれない。
甘えたい気持ちがなかったわけじゃないと思う、
ただ、存分に甘えていいと思えなかったのだろう。
でも、リーリャさんは違ったらしい。
なぜなら、泣きじゃくるアイシャの手は、
今も、リーリャさんの背中を、
強く掴んで離れなかったのだから。