受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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六十一話

 

家族の仲が一段落ついたせいか、

馬車の中の空気も、目に見えて軽くなっていた。

さっきまであれほど重かったはずなのに、不思議なものだ。

 

そんな中で、リーリャさんがぽつりと切り出した。

 

 

「アイシャは、カイン様について行かれるのでしょう?」

 

 

「はい、そうですけど……あ、もしかして駄目でしたか?」

 

 

言ってから、今さら気づく。

いくらアイシャ自身の意思を尊重すると言っても、

親の許可なしに娘を連れ回すのは、さすがにまずい。

 

反射的に覚悟を決めた、その時。

 

リーリャさんは、ゆっくりと首を横に振った。

 

 

「いいえ。アイシャがカイン様について行くことに、異論はありません。むしろ……あの子が、自分で選んだ道を歩こうとしているのなら、私としてはそれを止める理由はありません」

 

 

「それは良かったです」

 

 

「ただ……もしよろしければ。私も、カイン様の旅に同行させていただけないかと思いまして」

 

 

「ミリシオンには師匠もいますし……いったん、戻ってもいいんですよ?」

 

 

「いえ、お気持ちは嬉しいのですが、わざわざ私一人のために戻っていただくのは、申し訳ありません」

 

 

そう言われて、俺は心の中で小さく頷いた。

まあ、要するにアイシャと一緒にいたい、ってことだよな。

理由としては、十分すぎる。

 

 

「それに、アイシャには礼儀作法を教えたいのです。旅の途中であっても、役に立つことは多いでしょうから」

 

 

「ああ、礼儀作法なら俺が一応教えてます」

 

 

「そうなのですか?」

 

 

「まあ、リーリャさんに教わったことを、そのまま教えただけですけど」

 

 

そう言ってから、俺は隣をちらっと見る。

 

 

「なっ、アイシャ」

 

 

「うん!」

 

 

俺の視線を受け取ったアイシャは、

すっと背筋を伸ばした。

 

次の瞬間、動きが変わる。

足を揃え、重心を落ち着かせ、

腰から自然に上体を倒す。

角度は浅すぎず、深すぎず。

動作に迷いがない。

 

そして、一連の所作を終えると、

小さく胸を張る。

 

 

「ふふーん」

 

 

俺がいつもの癖で、頭に手を伸ばそうとした、

その瞬間。

視界の端で、同じようにリーリャさんの手が伸びかけていたので、俺は反射的に手を引っ込めた。

 

……が。

 

 

「もう!」

 

 

短い声と同時に、

アイシャの手が、ぐいっと俺の手首を掴み、

そのまま自分の頭の上に持っていく。

 

観念して撫でると、

アイシャは満足そうに目を細めた。

 

 

「んふー」

 

アイシャがご満悦そうなのは良かったが、

いかんせんアイシャの頭は小さい。

 

そこに俺の手と、

リーリャさんの手が同時に伸びてくるもんだから、

正直、かなり撫でづらい。

 

指がぶつかりそうになるし、

避けようとすると今度は変な角度になるし、

気を抜くと髪を引っかけそうになる。

 

それでも、アイシャは気にしていない。

むしろ、二人分の手を感じているのが嬉しいのか、

さっきよりも、少しだけ笑顔が緩んでいる。

 

リーリャさんは、その様子を見て、

ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

 

「とても、上手な挨拶でしたよ。アイシャ」

 

 

「お兄ちゃんが、教えてくれたからかな!」

 

 

「はいはい」

 

 

そう返しながら、俺はもう一度だけ軽くアイシャの頭を撫でた。

満足したのか、アイシャはふふん、と小さく胸を張ってから、俺の手を解放した。

 

その一連の流れを、リーリャさんは見ている。

それから、改めて姿勢を正し、かしこまった口調で口を開く。

 

 

「カイン様。先ほどのお話に戻るのですが……私が、カイン様の旅に同行させていただくことは、可能でしょうか?」

 

 

「もちろんです! というか、むしろ大歓迎ですよ」

 

 

「ありがとうございます」

 

 

「いえいえ。アイシャも安心するでしょうし、経験も段違いですから。正直、かなり頼りになります」

 

 

リーリャさんは、わずかに微笑んだ。

 

 

「……これで、恩をお返しできます」

 

 

「恩、ですか?」

 

 

「はい。アイシャのこと……それから、危険な状況にもかかわらず、城から救い出してくださったことです」

 

 

……恩か。

 

胸の奥で、その言葉を転がしてみる。

俺としては、恩を売ったつもりはない。

あそこでリーリャさんを見捨てると言う選択肢は最初からなかった。

 

でも――

それを恩として受け取る人がいるなら、

無理に否定するのも、かえって失礼か。

 

 

「じゃあ……お願いします。俺一人だと、抜けてるところが多いんで。生活面も判断も、かなり助けてもらうことになります」

 

 

「そのようには見えませんが……承知しました。微力ながら、お役に立てるよう努めます」

 

 

「そうだ。次の町でミリシオンにいる師匠に手紙を出しましょうか。合流はしばらく先になりますけど、状況だけでも伝えておいた方がいいでしょうし」

 

 

「はい。そうしていただけると助かります」

 

 

話が一段落したところで、俺はふと思い出して、隣を見る。

 

 

「アイシャも、師匠に何か書くか?」

 

 

「んー……私は、別にいいかな~」

 

 

あっさりしている。

驚くほど、あっさりだ。

 

……師匠。

 

一瞬だけ、脳裏に浮かぶ顔。

ちょっとかわいそうだな、と思ってしまう。

 

そんな俺の内情などお構いなしに、

アイシャは、ぱっと表情を切り替え、

身を乗り出した。

 

 

「それよりもね。お母さんがどうやって、お兄ちゃんに助けられたのか、聞きたいなー」

 

 

声が弾んでおり、目もきらきらしている。

完全に“面白そうな話”を待つ顔だ。

 

リーリャさんは、すぐに咳払いを一つして、

きりっとした表情になる。

 

 

「アイシャ。人様の大変な経験を、娯楽のように聞こうとするものではありません」

 

 

そう言いながら、ちらりと俺を見る。

「申し訳ありません」という含みを込めた視線だ。

 

 

「いえいえ、あれぐらいなら大丈夫ですよ」

 

 

「そうそう、お兄ちゃんは魔王にも勝てるもんね!」

 

 

「ま、魔王、ですか?」

 

 

リーリャさんが、怪訝そうに眉を寄せた。

 

 

「ええと……まあ、その辺りの話も含めてですね。親子でちゃんと話す時間が必要でしょう」

 

 

今ここで説明するには、

いろいろ端折れない話が多すぎる。

 

リーリャさんは一瞬考えるように視線を落とし、

それからアイシャの方へ向き直った。

 

 

「そうですね。では、アイシャの方から教えてください」

 

 

「えー、長くなるよ?」

 

 

「構いませんよ」

 

 

「えへへ……じゃあ、最初から教えるね」

 

 

楽しそうに語り出すアイシャを見ながら、

俺は少しだけ肩の力を抜いた。

 

最初は主観的な話になるだろうと思っていた。

怖かった、つらかった、寂しかった、

そういう感情が先に立つのが普通だ。

けれど、アイシャの語り口は意外なほど落ち着いていて、

出来事を順序立てて追っていた。

どこで何が起きて、誰がどう動いて、

どうやって切り抜けたのか。

自分がどう感じたかよりも、

何があったかを丁寧に説明している。

 

リーリャさんは、最初は静かに聞いていたが、

話が進むにつれて、表情が少しずつ変わっていった。

驚き、安堵、誇らしさ。

自分の知らなかった娘の時間を、

一つひとつ大切そうに受け取っている顔だった。

 

話が終わる頃には、リーリャさんの表情は、

はっきりと誇らしげなものに変わっていた。

そして、しっかりと褒めていた。

その瞬間、アイシャの目が、

ほんの少しだけ潤んだのを、俺は見逃さなかった。

 

その流れで、ノコパラとブレイズにも感謝が向けられた。

二人とも照れくさそうにしながら、それを受け取っていた。

こういう場面で黙って頷くだけなのが、いかにも二人らしい。

 

それから、俺にも改めて礼を言われた。

ただ、その時だけほんの少しだけ空気が変わった。

 

アイシャが事実をそのまま語ったせいで、

どうやら俺の評価が、微妙に「頼れる」から

「ちょっと怖い」寄りに動いたらしい。

 

……まあ、仕方ないか。

事実を語ったせい、というのもおかしな話だけど。

俺だって、自分のやったことを改めて聞かされると、

「何してんだこいつ」と思うし。

 

 

 

―――

 

 

 

リーリャさんが旅に加わったことで、

俺のやることが、目に見えて減ってしまった。

 

いや、減った、というより消えていっている、

と言った方が正確かもしれない。

 

まず、身の回りのこと。

野営の準備、荷物の整理、補給の管理。

気づけば、俺が手を出す前に全部終わっている。

しかも俺の何倍も丁寧で、無駄がない。

 

俺ができないことも、

俺がやらないことも、

俺がやろうとしていたことも、

全部、自然に補われていく。

 

しかも、それを自分だけで完結させない。

アイシャを呼んで、理由を説明して、手順を見せて、やらせて、確認して、褒める。

 

アイシャの成長は早い。

スポンジが水を吸うみたいな速度だ。

見て、理解して、次にはもう真似している。

 

俺はというと、

その様子を少し離れたところから見て、

「うんうん」と頷く係になっていた。

 

ノコパラも、相変わらずいい仕事をしている。

町に入れば自然と人の輪に溶け込み、

噂話や相場、治安の空気を集めてくる。

しかも精度が高い。危険な場所、避けるべき人物、

その判断が的確だ。

 

ブレイズはブレイズで、

進路判断や危険察知が抜群だ。

その判断が外れる確率は極めて低い。

 

……経験の差だな。

才能とか直感とか、そういう言葉で片づけるのは簡単だけど、多分そうじゃない。

積み重ねてきた失敗の数と、

生き残るために選び続けてきた選択の量。

それが、判断の重みになっている。

 

ありがたい。

本当にありがたい。

 

……ありがたい、んだけど。

 

このままだと、

俺の役割は「料理がおいしい人」になる。

 

いや、まて。

それは役割か?

違う、それはただの特技だ。

 

しかも、「強い」という特徴も、

中央大陸では正直言って過剰だ。

敵がいないわけじゃないが、

大抵の相手は、俺がいなくてもどうにかなる。

 

実際、最近俺がちゃんと戦ったのなんて、

赤竜の顎下で急に襲ってきた赤竜の群れぐらいで、

それ以外は……特に何もしていない。

 

役割が薄くなると、

人間はちょっと不安になる。

 

必要とされていないわけじゃない。

でも、「いなくても回る」状態になると、

自分がどこに立っているのか、分からなくなる。

 

しかも、追い打ちが来ている。

 

料理だ。

 

リーリャさんに、地球の料理を教えている。

というか、教え始めたつもりだったのに、

気づけば向こうがどんどん吸収している。

 

手際の良さは、さすがメイドさんと言ったところか。

 

いや、褒めている場合じゃない。

 

料理は、俺のアイデンティティだ。

前世から持ち越してきた、

数少ない「自分で自分を肯定できる要素」なのだ。

 

まあ、これからも共有はする。

教えるのも嫌いじゃない。

一緒に作って、美味いって言われるのは正直嬉しい。

でも、追いつかれないようには、頑張りたい。

 

そんな、どうでもいい意地を燃やしながら、

俺は旅を続けた。

 

 

 

―――

 

 

 

俺達は、アスラ王国へ入国し、

さらに進んで、フィットア領へと足を踏み入れていた。

 

だが……何もなかった。

 

あまりにも、何もなかった。

 

本当に、一言で表すならそれだけだ。

草原がどこまでも広がっている。

かつて村があったことを示すものすら、残っていない。

 

俺は、無意識に辺りを見回していた。

ブエナ村で、いつもルーデウスたちと待ち合わせていた、あの木があったはずの方向を。

 

 

「……ない、か」

 

 

転移災害で全て失われた、とは聞いていた。

言葉として理解していたつもりだった。

しかし、実際に目の前に突きつけられると、

やるせなさが消えない。

 

何もない。

記憶の中の景色だけが、取り残されている。

 

リーリャさんも、少しだけ悲しげな顔をしていた。

言葉はない。

だが、視線が地面に残ったわずかな痕跡を追っていた。

 

フィットア領唯一の町……

と言えるのかは分からないが、

難民キャンプに到着した。

 

規模としては、村程度。

活気はなく、音も少ない。

人はいるが、声がない。

 

ログハウスやテントが、

ぽつぽつと立っているだけ。

仮設という言葉が、嫌になるほど似合う光景だ。

 

そんな難民キャンプの中央。

俺たちは、冒険者ギルドに似た建物、

いや、似ているだけの、本部へと足を運んだ。

 

入口には『難民キャンプ本部』と書かれていた。

 

俺たちは、無言のまま中へ入る。

 

壁際に、大きな掲示板があった。

紙が何枚も貼られている。

俺は嫌な予感を覚えながら、そこに近づいた。

 

『死亡者・行方不明者リスト』

 

俺は、無意識に息を詰めてその紙の前に立った。

視線が自然とブエナ村の欄を探している。

 

……あった。

 

村の名前の下に、びっしりと並ぶ人名。

知っている名前。知らない名前。

その半数以上に、斜線が引かれていた。

 

行方不明だった者が、死亡と確認された時、

名前に斜線が引かれる。

 

……そういう仕組みか?

 

俺は、視線を動かす。

そして――見つけてしまった。

 

シルフィ

 

その名前に、斜線が引かれている。

 

一瞬、息が止まった。

心臓が、嫌な音を立てる。

頭が真っ白になる。

 

俺は真っ先に死亡者欄を見た。

 

だが……ない。

 

シルフィの名前はどこにもなかった。

 

混乱したまま、受付に聞いた。

言葉が少し早口になるのが自分でも分かった。

 

受付の人は、淡々と答えた。

 

「その方はすでに見つかった方です。生存確認済みですね」

 

……そうか。

 

行方不明者が見つかっても死亡者欄に書かれないだけで、斜線自体は引かれるのか。

 

胸の奥に溜まっていた何かが、

一気に抜けていく。

足から力が抜けそうになるのを、

どうにか踏ん張る。

 

……大丈夫だ。

シルフィは生きている。

それだけで今は十分だ。

 

俺は一度、深く息を吸ってから、

掲示板の前に戻った。

深呼吸一つで、思考は戻ってくる。

 

アイシャとリーリャさんは、もう見つかっている。

だから、俺達が名前に斜線をしておく必要がある。

 

掲示板に視線を走らせる。

指でなぞるように、順番に。

 

……ん。

 

アイシャの名前には、

すでに斜線が引かれていた。

 

受付の人に聞くと、どうやら俺たちがここに辿り着くよりも先に、

生存の情報が届いていたらしい。

 

次に、リーリャさん。

 

名前を見つけて、その上に斜線を引く。

 

次は、確認しなくてもいいはずの名前だ。

 

アイシャに斜線があるなら、

俺にも、当然引かれているはずだ。

 

それでも一応、確認しておく。

何かミスがあってはいけない。

それだけの話だ。

 

自分の名前を探す。

視線を下へ、横へ。

お……あった。

 

カイン・アルネス

ガラン・アルネス

セリス・アルネス

 

俺の名前の近くに両親の名前もあった。

そして、名前に被せるように、斜線が引かれていた。

 

胸の奥に、ほんのわずかな安堵が広がる。

これでいい。

これで終わりだ。

 

あとは形式的な確認。

死亡者欄に名前が載っていないか、

それを確認して終わり。

それだけの簡単な作業だ。

 

視線を死亡者欄へと移して、名前を探す。

 

…………?

 

一瞬、文字が意味を持たなくなる。

文字の並びが、ただの記号に見える。

読み飛ばそうとして、

それでも、視界の端に引っかかった。

 

 

「ある……?」

 

 

ある。

 

俺の名前じゃない。

俺の、じゃない。

 

――ガラン・アルネス

――セリス・アルネス

 

両親の名前。

 

 

「……え?」

 

 

思考が、完全に止まった。

 

……違う。違うはずだ。

 

だって、キシリカの魔眼であの人は見つかったんだ。

だったら同姓同名だ。そうだろ。

世界は広い。アスラには同じ名前の人間は多い。

そうだ。偶然、同じ名前の誰かが――

 

 

「……いや、? は? なん、で……え?」

 

 

言葉にならない。疑問ですらない。

ただ、意味を拒絶する音が、口から零れただけだ。

 

俺は、無意識に一歩後ずさった。

文字の前に立っているのが、急に耐えられなくなる。

まるで、その場にいると何か取り返しのつかないものが確定してしまうみたいで。

 

喉が、ひくりと震える。

呼吸が、うまくできない。

肺に空気が入っているのに、

息が足りない感覚だけが残る。

 

足の裏が、冷たい。

地面を踏んでいる感覚が、薄れていく。

自分の体が、ここにあるという実感が、

少しずつ切り離されていくような感覚。

 

誰かが、俺を呼んだ気がする。

アイシャか、リーリャさんか、

それともブレイズかノコパラか。

 

その全部が、ひどく遠い。

音だけがあって、意味が届かない。

まるで水の中にいるみたいだ。

 

 

「いや、待て。待て待て待て……」

 

 

誰に向けた言葉でもない。

現実を、押し戻そうとするみたいに、

俺は小さく呟いた。

 

違う。

これは、何かの間違いだ。

 

同姓同名。記録ミス。

情報の混線。転移災害だ。混乱している。

こんな名簿なんて、いくらでも間違える。

 

理由はいくらでも考えられる。

考えられるはずなのに――

嫌な確信だけが、俺の中で静かに広がっていく。

 

俺は、ふらつく足で受付へ向かった。

 

どうやって歩いているのか、分からない。

視界が狭くて、前だけを見ているはずなのに、

距離感がおかしい。

 

気づいたら、そこに立っていた。

 

カウンターの向こうで、

受付の人がこちらを見ている。

何かを言わなきゃいけない。

分かっているのに、言葉が出てこない。

 

喉を震わせる。

何度も何度も、唾を飲み込む。

 

ようやく、声になった。

 

 

「……あの……この名前、って」

 

 

指で示したその二行を、

自分でも信じられない気持ちで見つめる。

 

 

「間違い、ですよね……?」

 

 

受付の人は、俺の顔をじっと見た。

一瞬、何かを察したように、

表情が変わる。

 

 

「! もしや、カイン様でしょうか?」

 

 

心臓が、強く跳ねる。

 

 

「……は、はい」

 

 

たったそれだけの返事に、

ひどく時間がかかった気がした。

 

受付の人は、何も言わずに立ち上がり、

奥へと急いで行った。

 

……否定しなかった。

 

その事実が、

じわじわと、骨の内側に染み込んでくる。

 

俺は、その場に立ち尽くしたまま、

戻ってくるのを、ぼんやりと眺めていた。

 

時間の感覚が曖昧になる。

長かったのか、短かったのか、分からない。

 

やがて、足音がした。

 

白髪に髭を蓄え、片方だけのメガネをした、壮年の男。

 

その姿を見た瞬間、

動悸が一気に強くなった。

 

嫌な予感なんて言葉じゃ足りない。

さっきまでのそれとは、比べものにならないほど、

はっきりした、逃げ場のない確信に近いもの。

 

男は一歩前に出て、俺に向かって深く頭を下げた。

謝罪のための動作だと、脳が先に理解してしまう。

 

 

「カイン様、申し訳ございません。ガラン様とセリス様は転移者の救護の途中で――」

 

 

声は聞こえている。

音としては、ちゃんと耳に届いている。

なのに、言葉としては頭に入ってこない。

意味に変換される前に、何かが拒んでいる。

 

……やめてくれ。

その先を言うな。

頼むから。

ここで止まれ。

言葉を選べ。

言い直せ。

間違いでしたと言え。

 

そう思った瞬間、

まるでこちらの願いなど最初から存在しなかったかのように、

次の言葉が、淡々とこの世界に生まれた。

 

 

「――亡くなられました」

 

 

亡くなる……

 

亡くなる?

 

頭の中で、勝手に辞書が開く。

 

亡くなる:

人が死ぬことを敬意をもって表現した語。

 

たしか、そういう意味だったよな?

 

……そうか。

 

世界が、ほんの一瞬だけ静止した。

 

音が消える。

人の気配も、空気の重さも、全部が遠のく。

自分がどこに立っているのか、分からなくなる。

 

瞬間、俺の脳内に溢れ出した存在した記憶。

 

木を担いで帰ってくる父さんの背中。

夕暮れの中で、少しだけ影が長く伸びていて、

近づくと木の匂いと汗の匂いが混ざっていた。

大きく口を開けながら笑って、俺の頭を撫でてきた手。

力加減を間違えて、少し痛かったこと。

それでも、嫌じゃなかったこと。

あの手で触れられて、「大丈夫だ」と言われれば、

根拠なんてなくても、本当に大丈夫になる気がした。

 

料理をしていた母さんの横顔。

鍋から立ち上る湯気。

匂いにつられて近づくと、

「つまみ食いはだめよ」と言いながら、

結局、一口分だけ差し出してくれた。

叱る声より、笑う声の方が多かった人。

背中越しに聞こえる鼻歌。

その旋律を、今でもはっきりと思い出せる。

 

どうでもいい日常が、

どうでもよくないものだったと、

今になって、遅すぎるくらいに思い知らされる。

 

――まだ、話していないことがあった。

――まだ、聞いていないことがあった。

――まだ、返していない言葉があった。

 

まだ。

 

まだ、時間はあると思っていた。

また会えると思っていた。

次に帰ったときでいい、

そのうち言えばいい、

今じゃなくてもいい。

 

そうやって先送りにしたものが、

一気に行き場を失う。

 

まだ、まだ、まだ……

まだまだまだまだまだまだまだ。

 

頭の中で、その言葉だけが反響する。

まるで壊れた鐘みたいに、

同じ音だけが、何度も何度も鳴る。

 

止めようとしても止まらない。

考えるのをやめたくても、

考える以外のことができない。

 

誰かが、俺を呼んでいる気がする。

心配そうな声。

すぐ近くにいるはずなのに、やけに遠い。

振り向けば、顔が見えるはずなのに、

首を動かす力が、どこにも見当たらない。

 

父さんと母さんは、

誰かを助ける途中で死んだ……らしい。

 

それが、悪いとは思えない。

むしろ、二人らしい。

そう思えてしまう自分が、

たまらなく嫌だった。

 

誇らしいとさえ感じてしまう。

その感情が、さらに胸をえぐる。

 

なんで、そんな立派な最期なんだ。

なんで、そんな納得できそうな理由を残すんだ。

 

英雄みたいじゃないか。

善人の見本みたいじゃないか。

 

……違うだろ。

 

俺は、そんな物語の登場人物として、

二人を見送る準備なんてしていなかった。

 

俺はそんなもの、望んでいなかった。

 

助けなくてよかった。

逃げてよかった。

見なかったことにして、

生き延びてくれれば、それでよかった。

 

誰かの命より、俺を選んでほしかった。

 

……そんなこと、

口に出せるはずもないけど。

 

喉がひどく乾いていた。

唾を飲み込もうとしても、

何もない。

泣きたいのかどうかも、分からない。

感情が多すぎて、どれも形にならない。

 

代わりに、やけに落ち着いた声が、

自分の耳に届いた。

 

 

「そう……ですか」

 

 

本当は、違う言葉を言うつもりだった。

喉の奥に、ずっと準備していた言葉があった。

 

「ただいま」

 

そう言えば、あの二人が、

いつもと同じように顔を上げて、

 

「おかえり」

 

……そう、返してくれるはずだった。

 

俺はただ、その一言を聞きたかっただけなのに。

 

それだけでよかった。

それだけで、全部が報われて、

今日が終わって、また明日が始まるはずだった。

 

でも、そんな明日は、

もう、どこにもない。

 

俺はその場に立ったまま、

何もできず、何も言えず、

ただ、帰る場所が消えた世界を、

受け止めるしかなかった。

 

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