受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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六十二話

 

その日は、難民キャンプに張られたテントで休むことになった。

両親のことを教えてくれたアルフォンスさんが、テントを貸してくれた。

 

テントの中で横になりながら、

俺はぼんやりと天井を見上げていた。

視界いっぱいに広がるテントの内側は、

どこまでも無機質で、怖いくらい何も映さない。

 

アイシャは、リーリャさんのところで休んでいる。

少し前に、様子を見に来てくれた。

声をかけるでもなく、

ただ無事を確かめるように覗いて、

静かに戻っていった。

 

……気を遣われている。

 

その事実が、じわりと胸に刺さる。

守る側だったはずなのに、

いつの間にか「気を遣われる側」になっている。

それが、どうしようもなく情けなかった。

そして……怖かった。

 

ノコパラとブレイズは、俺が休んでいる間に、

保護していた転移者たちの生存報告に行ってくれたらしい。

 

俺の代わりに、だ。

 

生きている人間を「生きている」と証明するのは、大事な仕事だ。

それができなければ、誰かの家族は、ずっと宙ぶらりんになる。

その事は知っていたつもりだったが、

今日改めてそれを、思い知らされた。

 

……大事なことだ。

それは分かっている。

分かっているからこそ、

行けなかった自分が嫌になる。

 

 

 

―――

 

 

 

目が覚めた。

 

外は完全に暗い。

時間の感覚が曖昧で、

どれくらい眠ったのかも分からない。

 

次の瞬間、強烈な吐き気が込み上げてきて、

俺は慌てて体を起こした。

 

だが、間に合わない。

 

地面に吐瀉物を吐いた。

胃の中はほとんど空っぽなのに、

それでも何かを吐き出そうとして、喉がえづく。

 

口を拭きながら、ぼんやり考える。

 

……役割。

 

最近ずっとそれを考えていた。

 

両親は、役割を果たして死んだ。

誰かを助ける、という役割を選んで。

結果として命を落としたとしても、

それは彼ら自身が選んだ生き方だった。

 

立派だと思う。

誇らしいとも思う。

だからこそ、その事実が胸の奥で鋭く引っかかる。

 

じゃあ、俺は何なんだ。

 

守るために死ぬ覚悟はある。

それは間違いない。

いざとなれば、躊躇いなく前に出るだろう。

 

でも。

 

守るために死ぬことを前提にはしたくない。

 

それは、父さんや母さんが選んだ道を、

その背景も、覚悟も、積み重ねも理解しきらないまま、形だけなぞることになる気がしてならない。

 

それは敬意じゃない。

雑で、軽くて、安っぽいただの模倣だ。

 

父さんと母さんも、死ぬために前に出たわけじゃない。

生きて帰るつもりで、助けに行ったはずだ。

その結果が死だっただけで。

 

俺は、守ったあとも生きていたい。

昨日の続きを、何事もなかったかのように積み重ねていきたい。

 

それは欲張りなのだろうか……

 

英雄譚に出てくるような、

綺麗な覚悟じゃないのかもしれない。

 

父さんと母さんの死のように、

理不尽は、何の前触れもなくやってくる。

 

準備なんて関係ない。

覚悟があろうがなかろうが、

世界は平気で積み重ねて来た何かを奪っていく。

 

その時、こんな半端な覚悟で、

俺は皆を守れるんだろうか。

 

それとも結局、父さんたちと同じように、

「正しかった」という言葉だけを残して、

理不尽に殺されてしまうのだろうか。

 

考えれば考えるほど、答えは遠ざかる。

言葉にしようとすると、どれも薄っぺらくなる。

 

正解なんて、今の俺には出せない。

理屈を積み上げても、最後は感情に引き戻される。

感情に従えば、不安が膨らむ。

 

今は頭を使いたくない。

考えるのをやめたい。

考え続けることで、自分がすり減っていくのが分かる。

 

俺は、深く息を吐いた。

吐き出した息は白くならない。

ここはまだ、それほど寒くない。

なのに、身体の奥は冷えていた。

 

このままテントに戻って、

天井を見つめ続けるのは違う。

そう思って、俺はそのまま本部へ向かった。

 

本部は夜だというのに、明かりが点いていて、人がちらほらといた。

紙を抱えた人、地図を広げている人、疲れた顔で椅子に座る人。

 

中に入った瞬間、何人かの視線がこちらを向いた。

囁き声はないが、空気がわずかに変わるのが分かる。

どうやら、俺はちょっとした有名人らしい。

 

噂が回るのは早い。

魔大陸から生きて戻った子供。

転移者を保護している子供。

名前と顔が、もう結びついているらしい。

 

正直、居心地はよくない。

期待や評価は、今の俺には重すぎる。

 

休むように止められた。

今は無理をする必要はない、と。

子供なんだから、と。

その判断が正しいことも、

配慮から出た言葉だということも分かる。

 

それでも、手伝わせてもらった。

気が紛れるからだ。

それ以上でも、それ以下でもない。

 

手を動かしている間は、思考が一本に絞られる。

名簿の照合、報告書の整理、物資の配分記録。

どれも感情を必要としない作業で、

だからこそ今の俺には都合がよかった。

悲しみも後悔も、いったん棚に上げておける。

 

本部には、アルフォンスさんもいた。

師匠と一緒にフィットア領捜索団を立ち上げた人物だと、師匠に聞いている。

ただし、目指しているものは同じではない。

師匠は家族を探すために動き、

アルフォンスさんはフィットア領復興のために動いている。

 

利害が一致したから協力した。

その割り切り方は、少し冷たくも見えるが、

実際には、その冷静さがなければ、

こんな状況で組織は回らないのだろう。

感情だけでは、人は救えない。

 

俺のことも、師匠から聞いていたらしい。

あの人の弟子にしては落ち着いている、という評価だった。

 

確かに師匠なら、家族が死んだと知ったら、

何日も寝込み、酒を飲み、感情を隠しもせず荒れるだろう。

周囲に当たり散らし、それでも最後には、誰かに支えられて立ち直る。

そういう人だ。

 

それに比べれば、俺はずっと静かに見えるのだろう。

アルフォンスさんの目には、感情を切り離せる、

ドライな人間に映ったかもしれない。

 

魔大陸で保護した転移者の身内が、ここにいたことも伝えられた。

無事だと分かって、よかったと思った。

確かにそういう結果は、救いの一つだ。

 

けれど、胸が跳ねるような喜びはなかった。

自分の感情を押し込めているからだ。

だから「よかったです」とだけ返した。

それが正しい言葉なのかどうかも、判断できなかった。

 

 

 

―――

 

 

 

作業はいつの間にかひと段落ついていた。

書類の束が片づき、報告の流れが整理され、

机の上が静かになる。

気づけば、窓の向こうが明るい。

夜が終わっていた。

 

外に出る。

空気が肺に入って、背筋が伸びた。

 

……うん。

頭が、少しだけクリーンになっている気がする。

 

考え続けていた時の、あの粘つく思考が薄れている。

答えが出たわけじゃない。

整理がついたわけでもない。

それでも、思考が一度リセットされた感覚があった。

 

……悪くない。

 

そう思った瞬間、足音が近づいてきた。

 

 

「お兄ちゃん!」

 

 

振り向くと、アイシャがこちらへ駆け寄ってくる。

顔には、はっきりとした焦りが浮かんでいた。

 

 

「大丈夫なの!? どこ行ってたの!?」

 

 

「……大丈夫だよ」

 

 

反射的に、頷いた。

 

嘘じゃない……はずだ。

 

胸が痛いとか、息が苦しいとか、

そういう分かりやすい異常は、今はない。

立っているし、話せるし、頭も回っている。

なら、「大丈夫」の範囲内だろう。

 

アイシャは少し納得いかなさそうな顔をしたまま、

続けて聞いてきた。

 

 

「テントにいなかったから、探したんだよ?」

 

 

「ごめん。本部で事務作業を手伝ってたんだ」

 

 

「え? ……な、なんで?」

 

 

「何かしてたかったんだ。じっとしてると、余計なことばっかり考えそうだったから……」

 

 

「それは……っ! 全然大丈夫じゃないじゃん!」

 

 

思ったよりも強い声だった。

驚いて目を向けると、

アイシャは唇をきゅっと噛みしめている。

 

 

「だって、それって……無理してるってことでしょ? 気を紛らわせないとダメなぐらい、つらいってことでしょ?」

 

 

「そんなことない、大丈夫だよ。それにさ、俺だけがじっとしてるわけにはいかないだろ?」

 

 

そう言いながら、視線を逸らす。

視界には本部がうつる。

 

 

「皆やることがある。ノコパラもブレイズも、リーリャさんも。そのなかで、俺だけ何もせずに寝っ転がってるっていうのは――」

 

 

「約束したじゃん」

 

 

「……約束?」

 

 

「苦しかったら、我慢するぐらいなら、私に言うって。ひとりで抱え込まないって」

 

 

「ああ、覚えてるよ。忘れるわけないだろ?」

 

 

「じゃあ、なんで!」

 

 

アイシャの声が少しだけ強くなる。

 

俺は一度、息を吸った。

言葉を選ぶというより、自分の状態を確かめるために。

 

今の俺は、壊れていない。

悲しいし、痛いし、混乱もしている。

でも、立っている。

考えている。選べている。

 

だから――

 

 

「今は……本当に、もう大丈夫なんだ」

 

 

「……ほんとに?」

 

 

「ああ、ほんとだ」

 

 

今度は、間を置かずに言った。

 

それでも、完全に納得はしていない顔だった。

だから、俺は手を伸ばした。

 

アイシャの頭を、そっと撫でる。

いつもより、ゆっくり。

確かめるみたいに。

それだけで、気持ちが少し楽になる。

 

 

「……心配してくれて、ありがとう、アイシャとの約束は忘れてない。本当に限界だと思ったら、その時は言うよ」

 

 

自分で言いながら、

その言葉を反芻する。

 

「限界だと思ったら」

 

それを判断するのは、俺自身だ。

 

アイシャは、しばらく俺の顔を見ていた。

何かを測るみたいに。

それから、ゆっくりと頷く。

 

 

「……分かった」

 

 

その顔を見た瞬間、胸が詰まった。

リーリャさんと向き合うと決めた時の顔だった。

 

俺はもう一度、アイシャの頭を軽く撫でてから、手を離した。

 

 

「じゃあ、戻るよ」

 

 

そのまま踵を返し、本部へ向かう。

背中に残る視線を振り切るみたいに、

歩幅を少しだけ大きくした。

 

 

 

――

 

 

本部に戻ると、相変わらず灯りは落ちていなかった。

夜明けを越えても、人は動き続けている。

書類の山、掲示板、報告の束。

机に向かって腰を下ろし、自然と手が動き始める。

 

……なんだか、会社員時代を思い出すな。

 

終わらない事務作業。

期限に追われ、数字と文字に囲まれて、

「これ、俺じゃなくてもよくないか?」なんて思いながら、

それでも誰かがやらなきゃ回らない仕事。

 

ただ、あの頃と違うのは――褒められる。

 

字が読みやすい。整理が早い。

情報の抜けが少ない。

 

この項目とこの報告を紐づけておいた方がいい、

なんて言うと、感心すらされる。

……これが、いわゆる現代知識無双というやつだろうか。

 

そんなふうに考えが逸れかけた、その時。

視界の端に、妙な動きが入った。

 

顔を上げると、アルフォンスさんが誰かと話しているのが見えた。

……いや、話しているというより、一方的に何かを言われている。

 

相手は、かなり大声だ。

内容までは聞こえないが、身振りが大きく、

感情がそのまま外に出ている感じがする。

 

……ん?

 

褐色の肌。

鍛え抜かれた体躯。

右目の眼帯。

頭の上には、ぴんと立った猫耳。

その後ろで、ゆらりと揺れる尻尾。

 

――ギレーヌか?

 

そう認識した瞬間、小さな驚きが走った。

だが、すぐに冷静な思考が追いつく。

なぜここにいるのか、と問うほど不自然な話でもない。

 

アルフォンスさんは、ボレアス家の執事だ。

亡くなった領主のため、そして残された土地のために、フィットア領の復興を進めている人だと聞いている。

 

なら、その主家に仕えていたギレーヌが、

この場にいてもなんら不思議ではないだろう。

 

 

「あ」

 

 

目が合った。

次の瞬間、ギレーヌの耳がぴくりと跳ねる。

 

……覚えているのだろうか。

 

あの頃の俺は、まだ小さく、存在感も薄かった。

剣王であるギレーヌの記憶に残るほどの人物だったかと問われれば、正直、自信はない。

記憶の片隅に残っていれば御の字だ。

 

ギレーヌはこちらへ歩いてきた。

歩幅は大きく、迷いがない。

 

近づいてくるその姿を見ながら、

胸の奥で、別の疑問が浮かび上がる。

 

聞きたいことが、いくつもある。

 

ルーデウスは、あっちでどんな風に過ごしていたのか。

家庭教師として、うまくやれていたのか。

ボレアス家の空気に呑まれていなかったか。

ボレアス家のお嬢様は、ルーデウスに懐いたのか。

シルフィのことは、話していただろうか。

 

思考が、次々と広がっていく。

 

あ、そうだ。

俺が送った杖。

あれは、どうだったんだろうか。

 

感想も聞きたい。

使い勝手はどうだったか。

気に入ってくれたのか。

 

……いや。

転移のせいで、失われている可能性も高い。

形あるものは、あの災害の前ではあまりにも脆い。

 

なくなっていたとしても、仕方ない。

それでも、感想は聞いてみたかった。

 

ちなみに、ルーデウスの名前は掲示板で確認した。

死亡者欄にはなかった。

それだけで、少しだけ息が楽になった。

 

でも、行方不明の欄にはまだ名前がある。

 

もしかしたら、もう見つかっているんじゃないか。

そう期待して、何度か確認をした。

だが、結果は変わらなかった。

 

その現実を沈めたまま顔を上げると、

ギレーヌはもう俺の目の前にいた。

 

距離は近い。

身長と俺が座っているせいで、

自然と見上げる形になる。

 

なんて声をかけようか迷っていると、次の瞬間。

ギレーヌは深く頭を下げた。

 

……え?

 

あまりに唐突で、反応が遅れる。

俺が戸惑っていると、ギレーヌは低く、

はっきりとした声で言葉を放った。

 

 

「お前の両親。ガランとセリスのことだが……私があと少し早ければ助かっていた。本当に申し訳ない」

 

 

……ああ。それか。

 

その話は、アルフォンスさんから聞いている。

 

両親は、魔物の群れから人を助けていた。

その場で逃げ延びた人たちが、ここに辿り着き、

「助けてくれた人がいた」と伝えた。

それを聞いて、向かった剣士がいた、と。

 

――その「剣士」が、ギレーヌだったのか。

 

というか、俺の事を覚えてくれてたのか。

 

 

「大丈夫ですよ」

 

 

そう口にした自分の声は、思ったより落ち着いていた。

 

だが、ギレーヌは頭を下げたまま続けた。

 

 

「いや……私が道に迷っていなければ、間に合っていたかもしれない」

 

 

……迷った、か。

 

最後に逃がされた人の話では、

逃げる時点で、二人はすでに満身創痍だったという。

 

道に迷ったかどうかなんて、関係ない。

仮に最短で辿り着いていたとしても、

結果は大きく変わらなかっただろう。

 

 

「大丈夫ですよ。ギレーヌさんが気負う必要はありません。もう、どうしようもない状況だったと聞いてます」

 

 

「しかし……」

 

 

その声は低く、ただ納得しきれない者の声だった。

 

ギレーヌの顔は、下げられているせいでつむじしか見えない。

だが、尻尾を見れば分かる。

力なく垂れ、微かに揺れているその尻尾が、

ギレーヌがどれだけこの事を重く受け止めているかを雄弁に語っている。

 

やっぱり、尻尾はいい。

こういう時、本心が隠しきれない。

確証が目に見える形で現れる。

 

人間じゃあ、こうはいかない。

いくらでも言葉を選べる。

表情を整えられる。

正しそうな謝罪も、分別ある態度も、いくらでも作れる。

そして、その奥に何があるかは、結局分からないままだ。

 

……人間不信の良くないところが出たな。

 

自分が嫌になる。

取り繕うなんて俺が言えた義理じゃない。

俺自身さんざん取り繕って生きてきたくせに、

都合のいい時だけ、「本心が見えるから安心」

なんて思うのは、虫の良すぎる話だ。

 

それでも、ギレーヌが本心で俺に謝っていると分かった。

それだけで十分だ。

俺にできることは、それを受け取って、終わらせること。

これ以上、ギレーヌに背負わせないこと。

 

 

「この世界に、もしもはありません。起きたことだけが現実で、変えられない過去を、何度も並べ替えても答えは出ないんです。後から正解を探すことはできても、その時の選択を変えることは出来ないんです」

 

 

それは、自分に言い聞かせるような言葉でもあった。

俺自身、何度も“もしも”を考えたからだ。

あの時こうしていれば、ああしていれば。

でも、そうやって過去を弄り回すたび、

残るのは疲労と後悔だけだった。

 

だから――

 

「……俺達は、前を向くしかありません。誰かが自分を罰し続けて、救われる人はいませんから」

 

 

ギレーヌが顔を上げる。

その表情は、やはりつらそうだった。

納得はしている。理屈も分かっている。

それでも、胸の奥で何かが引っかかっているのが見える。

 

俺に許されても、自分を許せないのかもしれない。

 

責任感が強い人間ほどそうだ。

自分の力の及ばなかった部分まで、自分の責任にしてしまう。

だから、別の形を用意するしかない。

人は、何か実感があれば、自分を許しやすくなるものだ。

 

 

「では一つ、お願いがあります。ルーデウスが、そっちでどんなことをしたのか。どう過ごして、何を教えたのか……何でもいいので、それを聞かせてください」

 

 

「そんなことでいいのか……?」

 

 

「そんなことじゃありませんよ、とっても大事な事です」

 

 

「わかった……お前がそれでいいなら、そうしよう」

 

 

よしよし。

正直なところ、これ以上あのつらそうな顔を見続けるのは、俺の方がきつかった。

だからこの選択は、半分はギレーヌのためで、半分は俺自身のためだ。

 

俺は、そのままギレーヌから話を聞いた。

順序立てて語る、というより、

思い出したことを一つずつ掬い上げるような話し方だった。

言葉は多くない。

細かい説明も、上手とは言えない。

でも、覚えていることを、落とさないように、零さないように、ひとつずつ差し出してくる感じがあった。

 

エリス・ボレアス・グレイラット

俺とほぼ同い年の、お嬢様。

かつては凶暴で、誰の言うことも聞かなかったらしいその少女が、嘘みたいにルーデウスに懐いたのだという。

 

勉強を投げ出さない。

癇癪を起こしても、最後まで机に戻る。

怒鳴ることはあっても、手は出さなくなった。

 

……どれだけ荒れていたんだ、そのお嬢様。

 

ギレーヌ目線では、ルーデウスに惚れていたとも言っていた。

 

やっぱり、師匠の息子だな。

女の子を落とすのがうまい。

才能というか、業というか。

 

そう思った瞬間、シルフィの顔が脳裏をよぎる。

 

……忘れてないだろうな?

まあ、この世界は重婚も普通にある。

全員娶ってしまえば丸く収まる。

実際、師匠はそうして――

いや、リーリャさんって形式上は結婚していないのか?

その辺りは、まあ……今はいい。

 

さらに聞かされた話で、少し笑ってしまった。

俺が送った、ルーデウスへの誕生日プレゼントの杖。

あれが、お嬢様が送った誕生日プレゼントとかぶったらしい。

 

しかも向こうは、杖製作師(ロッド・ディレクター)に依頼した特注品。

金貨百枚は優に超える代物だという。

……そりゃ勝てん。

貴族の財力は、やっぱり別格だ。

 

別に勝負がしたかったわけじゃないけど。

 

話し終えたギレーヌは、深く一礼して、その場を離れていった。

背中を見送りながら、俺は小さく息を吐く。

肩の奥に溜まっていた何かが、ほんの少しだけ抜けた気がした。

 

いやー、楽しかった。

誰かの近況を聞いて、笑って、内心で突っ込みを入れて。

感情が、ちゃんと反応している。

死んだままじゃなかった、とでも言うような感覚。

 

その瞬間、嫌な予感がした。

 

口元を押さえる。

まずい。

分かっている。この感じ。

 

――蓋がゆるんだ。

 

感情が戻るということは、

押し込めていたものも一緒に浮き上がってくるということだ。

喜びも、安堵も、懐かしさも。

そして、それらに張り付いていた、

痛みも喪失も後悔も悲しみも、全部まとめて。

 

俺は足早に歩き出し、厠へ向かう。

途中で誰かに声をかけられても、返事をする余裕はない。

喉の奥がひくひくと震え、胃が嫌な主張を始めている。

 

中へ駆け込み、身体を折るようにして吐いた。

喉が勝手にえづき、胃の中身を吐き出す。

何も食べていないせいで、苦い液体だけが込み上げてくる。

 

分かっていた。

分かっていたことだ。

 

楽しかった。

懐かしかった。

安心した。

その全部が引き金だ。

 

俺は目を閉じる。

息が浅い。速い。このままじゃ駄目だ。

 

鎮めろ……

感情を、ただの情報として処理しろ。

そうすれば、この苦しみはなくなる。

 

今、俺の身に起きていることは何だ?

急激な感情の再活性化に伴う、自律神経の乱れ。

身体反応。条件反射。

記憶刺激に対する、生理的応答。

心や気持ちがどうこうではなく、

脳と神経が勝手にやっているだけのこと。

 

全部、説明がつく。理屈が通る。

原因が分かるなら、対処は可能だ。

 

だから、俯瞰しろ。

一歩引いて、ただの現象として捉えろ。

「自分が苦しい」のではない。

「苦しい反応が起きている」だけだ。

 

床に膝をつき、吐瀉物を前にして、

呼吸が乱れている人間がいる。

それだけだ。

そこに意味を与えるな。

価値判断を混ぜるな。

 

……前世で、さんざんやってきたことだろ。

 

 

「はあ……はあ……」

 

 

少しずつ、えづきが収まってくる。

喉の反射が弱まり、胃の奥の痙攣が止まる。

視界の端で揺れていた影が、形を取り戻す。

 

そうだ。

それでいい。

これでいい。

 

俺は壁に手をつき、そのまま額を当てる。

冷たい感触が、思考を現実に引き戻してくれる。

視界の端で、床の汚れがやけにくっきり見える。

 

……勘が、戻って来たな。

 

失敗をなすりつけられたとき。

責任だけを押し付けられ、弁解すら許されなかったとき。

感情を表に出すこと自体が、致命的な弱点になる環境で。

怒りも悔しさも、悲しみも、全部を切り離して。

結果だけを出すために、ひたすら感情を棚にしまってきた。

 

 

「はは……」

 

 

乾いた笑いが、勝手に漏れた。

 

ああ……俺は何をやっているんだろうな。

 

これじゃあ、前世の俺と一緒じゃないか。

世界が変わっても。

名前が変わっても。

生まれ直しても。

やっていることは、何一つ変わっていない。

 

結局、追い詰められた瞬間に選ぶのは、

誰にも触らせない場所へ引きこもる、このやり方だ。

 

俺はこれ以外で、この苦しみを抑える方法を知らない。

 

頼ればいい。

そんなことは分かっている。

アイシャもいる。リーリャさんもいる。

ノコパラやブレイズだって、きっと力になってくれる。

 

皆を信じていないわけじゃない。

完全に無条件で、とは言えないが信じてはいる。

 

でも――俺は、俺を信じられない。

 

俺なんかのために、

俺のため“だけ”に、

この重さを一緒に背負ってくれるかどうか。

その可能性を、どうしても信じきれない。

 

もし、預けて。

もし、吐き出して。

もし、受け止めきれないと言われたら。

もし、距離を置かれたら。

もし、失望されたら。

 

だったら……

最初から、渡さなければいい。

最初から、一人で処理すればいい。

慣れているやり方で、慣れた痛みを選べばいい。

 

そうやって、俺はこの選択を取ってしまう。

 

……自分でも情けないと思う。

分かっている。

もっと上手なやり方があるのかもしれない。

頼って、吐き出して、支え合って、少しずつ軽くする。

きっと、それが健全で、正しくて、強い。

 

それでも俺は怖いんだ。

 

今の皆との関係を、壊したくない。

それだけだ。

 

前世では、手に入らなかった関係。

一緒にいて、居場所だと思えた時間。

それらを得てしまったからこそ、失う恐怖を知ってしまった。

 

だから、この関係がほんの少しでも壊れるかもしれないと思うだけで、耐えられない。

 

自分が傷つくよりも、

関係が傷つく可能性の方が、ずっと怖い。

 

……結局、自分可愛さだ。

守っているようで、逃げているだけだ。

分かっている。

分かっていて、やめられない。

 

 

「よし」

 

 

小さく呟いて、頬を叩く。

ぱちん、と乾いた音がして、意識が少しだけ前に戻る。

声に出すことで、意識を現在に引き戻す。

『満像』から引き出した水で、口を洗う。

ぬるい感触が、舌と喉を一気に通り抜け、残った苦味を押し流す。

呼吸が、完全に整った。

 

厠を出る。

周囲には何もない。

ここは、少し離れた場所に設えられた簡素なトイレだ。

 

本部に戻ろう。

 

そう思って数歩進んだところで、人影が見えた。

 

アイシャたちだ。

ノコパラ、ブレイズ、それにリーリャさんまでいる。

そして――なぜか、リーリャさん以外の全員が、腕を組んでいる。

 

 

「?」

 

 

なんで三人とも同じポーズなんだ。

しかも妙に気合が入っている。

ブレイズは無言で頷き、ノコパラは目を逸らし、

アイシャは――怒っている顔だ。

 

 

「どうし――」

 

 

――たんだ。

そう言おうとした、その瞬間だった。

 

 

「お兄ちゃん、ちょっとついてきて」

 

 

アイシャがやけに真剣な顔で言い放った。

 

拒否する理由も思いつかず、俺は黙って頷いた。

そのまま全員の後ろについて行く。

ノコパラは無言。ブレイズも無言。

二人とも、視線を合わせてこない。

リーリャさんだけが、少し心配そうな顔をしている。

 

……何だこれ。

 

そのまま連れて行かれた先は、

キャンプから少し離れた森の中。

 

いや、森は転移災害で無くなったはずだから、

多分この森は人工的に作られた森なのだろう。

 

やがて、アイシャたちが足を止めた。

アイシャの左右にいる二人がくるりとこちらを向く。

妙に整った隊形だ。

 

 

「どうしたんだ?」

 

 

そう聞いた俺の前で、アイシャがくるりと振り返る。

そして、俺に向かって、びしっと指を突きつけた。

 

 

 

 

「お兄ちゃんをたおーす!!」

 

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