「お兄ちゃんをたおーす!!」
あまりにも物騒で、元気すぎる宣言が夜の空気を切り裂いた。
「ど、どうしたんだ? 急に……」
「どうしたも何もねぇだろ」
ノコパラだ。腕を組んだまま、
ため息交じりに首を振っている。
「……?」
「気づいてねぇのか……」
そう言って、ノコパラは自分の目元をトントンと指で指す。
その仕草を見て、俺は反射的に自分の目元に触れる。
指先が、しっとりと濡れた。
……ぬるい。
「……あ」
「これは重症だな」
ブレイズが真顔で言う。
「ち、違う。あくびだ。ほら、徹夜気味だったし」
「無理しないでって言ったじゃん!!」
「カイン様……どうか休まれてください」
リーリャさんまで援護射撃を入れてくる。
包囲網が完成している。
逃げ道がない。
「いや、本当に大丈夫だから」
「嘘」
「いや、嘘じゃ――」
「言ったでしょ。嘘ついてても分かるって」
……ああ、そうだった。
俺は嘘が下手なんだった。
言葉に詰まった俺の前で、
ブレイズが小さく肩をすくめる。
「……って言っても、お前は無理するだろ? だから――」
そのまま、アイシャに目配せする。
「お兄ちゃんをたおーす!!」
「いや、倒すって何――」
最後まで言い切る前に、空気が変わった。
「安心しろ。殺しはしねぇ」
ノコパラの声は、やけに落ち着いている。
その落ち着きが、逆に嫌な予感しかしない。
「気絶で済ませる」
そう言いながら、ノコパラの腕がしなった。
俺は右手を上げ、指で挟む。
……ナイフだ。
「いや、死ぬだろこれは」
「いいや、お前はこれぐらいじゃ死なねぇよ」
ノコパラの声が、森の奥から返ってきた。
違和感を感じ、視線を上げるが誰もいない。
さっきまで腕を組んで立っていたはずの、ノコパラも、ブレイズも、アイシャも、
跡形もなく消えている。
いや……一人だけいた。
「リーリャさん? これ、なんなんですか? 止めてくださいよ」
割と本気で言った。
だが、リーリャさんは静かに首を横に振る。
「申し訳ありません。ですが……必要なことだと判断いたしました」
そう言い残して、リーリャさんは一礼し、
静かにその場を離れていった。
取り残されたのは、俺一人。
「必要なことって……」
言葉は、途中で切れた。
来る。
次の瞬間、森の暗がりから、ナイフが何本も飛んできた。
軌道がバラけている。牽制と本命を混ぜた、嫌な投げ方。
振り向きざま、視界に入ったナイフすべてに『解』を走らせる。
空中で金属が断たれ、綺麗に真っ二つになって地面へ落ちる。
「おい、ノコパラ。ナイフがもったいないだろ?」
斬りながら、つい口が動く。
――違和感。
飛んでくる軌道の中に、
明らかに挙動の違う“何か”が混じっている。
ナイフじゃない。
袋……?
考えるより先に、身体が動いた。
反射で斬撃を飛ばす。
――パンッ。
乾いた破裂音。
同時に、細かい粉塵が爆ぜるように広がった。
「……っ、まずった!」
砂か? いや、もっと細かい。
刺激が走る前に、咄嗟に目をつむる。
視界が、完全に閉ざされた。
次の瞬間、地面を踏み砕くような足音。
一直線。迷いがない。
……ブレイズだ。
視界はまだ使えない。
だから、頼れるのは気配だけだ。
俺は意識を一点に集中させ、ブレイズの位置をたどる。
速い。一直線に突っ込んでくるが、ただの直進じゃない。
途中で、気配が――跳ねた。
「……フンッ!」
「上か!」
気配の集中点をなぞるように、
頭を囲む形で片腕を突き出す。
守るというより、受け止めるための構え。
「痛ッた!!」
鈍く、骨に直接叩きつけられる感覚。
重い。剣の重さじゃない。
これはブレイズ愛用の――
「斧じゃねぇか!!」
思わず声が出た。冗談じゃない。
俺じゃなかったら腕が吹っ飛んでるぞ。
呪力強化。闘気。
二つをまとっていたから、骨は砕けていない。
腕で斧を弾き返すように力を込めると、
ブレイズの気配は、すぐに距離を取った。
俺は即座に『満象』を使って、水を引き出す。
ぬるい水を目に叩きつけるようにして洗い流した。
粉塵が流れ落ち、ぼやけた視界が戻ってくる。
……よし、見える。
視界が戻った瞬間、判断は終わっていた。
逃げるか。
戦う意味もないし、戦いたくもない。
相手は仲間だ。
誰一人、怪我なんてさせたくない。
俺は腕から『蝦蟇』の舌を伸ばす。
ぬるりとした舌が、近くの太い枝に絡みつく。
そのまま身体を引き上げ、次の木へ。
また舌を射出し、巻き付け、引く。
立体移動。
森の中を、枝から枝へと飛ぶ。
背後の気配を常に意識しながら、俺は空中を渡っていく。
「ん?」
違和感が、肌を撫でた。
次の瞬間、何かが胴に巻きつく。
――何かに引っかかった。
「っ――!」
糸だ。しかも一本じゃない。複数。
一瞬で腕ごと胴体を絡め取られ、関節の可動域を殺される。
腕が使えない。
『蝦蟇』の舌が、引っかける先を失いそのまま落下する。
木と木の間に張ったワイヤートラップか?
「フンッ」
全身に力を込め、糸を無理やり引きちぎる。
バチン、と乾いた音。
糸は切れたが、俺の体勢は立て直せない。
……地面にぶつかる。
そう思った瞬間、地面がそのまま抜けた。
「落とし穴か!」
声に出した時には、もう遅い。
視界が一気に暗転し、身体が縦に引きずり落とされる。
重力が腹の底を掴み、内臓が浮く感覚。
――着地。
膝と足裏で衝撃を殺す。
土が舞い、穴の底に鈍い音が響いた。
即座に体勢を立て直し、周囲を確認する。
「上がるか……」
そう判断して跳躍のために踏み込んだ、その瞬間。
頭上の光が遮られ、影が落ちてきた。
上から。
一直線に。
見えたのは、斧。
そして、その柄を握る巨体。
斧を両手で構え、重力を味方につけたまま、
真っ直ぐ俺に向かって落下してくる。
殺す気はない、と言っていたはずだが。
……くそ。
剣は持ってきていない。
穴の中は狭く、横に跳ぶスペースもない。
受けるか……
斧が振り下ろされる刹那、
俺は片手を伸ばし、刃の部分を掴む。
手のひらに斬撃を纏わせる。
ギャリギャリと騒がしい音が鳴る。
「ッ……重いな!」
「失礼な奴だな。気にしてるんだぞ?」
「お前らいったい、何がしたいんだ!」
「お前を倒したいのさ」
迷いのない声。
冗談でも、勢いでもない。
本気で言っている。
「どういうことだ……っ、よッ!」
声と同時に、腰を回す。
掴んだ斧ごと、力任せに引き抜き、投げる。
ブレイズは抵抗せず、穴の外へと放り出される。
重い音が、外で鳴った。
……倒したいだって?
意味が分からない。
倒す理由がどこにも見当たらない。
敵でもない。
裏切りでもない。
俺が何かをした覚えもない。
――ヒトガミの仕業か?
一瞬、その考えが頭をよぎる。
だが違う。
この動き、この連携、この悪意の無さ。
誰かに操られている感じじゃない。
むしろ、全員が同じ意志を共有している。
考えがまとまる前に、頭上から音がした。
ゴロ……という、不穏な音。
見上げる。
穴の縁からでかい岩が一つ、押し出されてきている。
穴を埋める気か。あれが直撃したら流石に潰れるかもな。
そう思った俺は『解』を放った。
斬撃が走り、岩は空中で粉々に砕け散る。
破片が雨のように降り注ぐ。
だが、その奥が見えた瞬間、思考が一拍遅れた。
そこには、浮いている……
「……アイシャ!?」
粉々にした岩の向こう、破片の雨の中に、アイシャがいた。
岩の上に乗っていたのか? 危ないじゃないか!
そして、その表情は……笑っている。
危機感がない。
いや、ないんじゃない。
最初から、俺が何とかすると分かっている顔だ。
次の瞬間、重力に引かれたアイシャの身体が、
俺の方へ落ちてくる。
「アイシャ!」
考えるより先に声が出た。
両腕を広げる。受け止めるつもりだ。
それ以外の選択肢は、最初から頭になかった。
――その動きを、アイシャが見ていた。
空中で、くるりと体勢を整える。
信じられないほど器用に。
まるで俺の反応を待っていたかのように。
そして、にぱっと笑って、手のひらをこちらに向けた。
「?」
「お兄ちゃん!! 大好きッ!!!」
「なっ!?」
「ちょっと痛いと思うけど我慢してね!
無詠唱。至近距離。
手のひらから放たれた岩砲弾が、
俺の脳天ど真ん中一直線に迫ってくる。
――避けられる。
判断は早かった。
軌道は単純。速度もそれほどない。
一歩横にずれれば、簡単に避けられる。
だが、避ければどうなる。
勢いのまま落下するアイシャは、
地面に叩きつけられる。
受け止める人がいなくなる。
それだけは、ありえない。
仮に当たったとしても、
呪力強化と闘気をまとっている今の俺なら、
あの程度の岩砲弾は、通らない――
――はずだった。
呪力というのは、負の感情を源にする。
怒り、憎しみ、悲しみ、焦燥。
それらを燃料にして、力に変える。
つまり、何が言いたいのかと言うと……
――大好き。
そんな事を言われて、
負の感情を吐き出せる人間なんて、そういない。
呪力強化がほどける感覚がした。
だが、自覚した時にはもう遅い。
岩砲弾が目の前に迫ってくる。
「やられたな……」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
次の瞬間。
ごつん、という鈍い衝撃が頭に直撃する。
視界が揺れる。音が遠ざかる。
思考がぶつ切りにされる。
それでも、俺の腕は伸びたままだった。
反射でアイシャを抱きしめる。
――よかった、受け止められた。
そんな安心感が胸に広がった。
「私の勝ち!」
―――
意識が、ゆっくりと浮上してくる。
最初に感じたのは、頭の下の感触だった。
地面の硬さでもなければ、簡易ベッドの枕の感触でもない。
沈み込むようで、でも支えられている、不思議な感触。
ぼんやりとしたまま、目を開ける。
視界いっぱいに、赤みがかった茶色の髪が落ちてきた。
重力に従って垂れた髪が、カーテンみたいに揺れている。
その中心から、こっちを覗き込む顔があった。
「あ……お兄ちゃん、起きた?」
アイシャだ。
状況を理解するまで、数秒かかった。
視界の端にはテントの天幕。
薄い布越しに差し込む外の光。
身体は横になっていて、妙に首の角度が楽で――
……あ。
俺はテントのベッドに横たわっていて、
頭は、アイシャの膝の上に乗せられている。
膝枕だ。
理解した瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。
何をしているんだ俺は、という理性と、
動きたくない、という感情が同時に湧き上がる。
俺は必死に理性を働かせ、起き上がろうと肩に力を入れた。
――が。
「だーめ」
額に手のひらが置かれて、優しく押し返される。
俺の頭は再びアイシャの膝上に戻された。
力は弱いのに、抵抗する気が起きない。
「私言ったよね? 我慢して隠すぐらいなら、私に言うことって」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
……言われた。確かに言われた。
それなのに俺は、いつもの癖で、
平気なふりをして、役割を演じて、
一人で処理しようとした。
「だからこれは」
アイシャの指が、俺の額の前で構えられる。
「約束を破った、お仕置き……ねっ!」
「あたっ」
額に、軽い衝撃がくる。
痛みはほとんどない。
だが、不意打ちだった分、
妙に間の抜けた声が出てしまった。
「デコピン……」
「そう。デコピン」
そう言って、アイシャは何でもないことのように頷く。
そして、デコピンをした指は引っ込められることなく、そのまま俺の髪に触れた。
くしゃり。
少し乱すような、遠慮のない動き。
次の瞬間には、指先の力が抜けて、
ゆっくりとした撫で方に変わった。
……撫でている。
頭の上から、一定のリズムで。
まるで、子どもをあやすみたいに。
「よしよし」
声が優しい。
「よく頑張りました。お兄ちゃんは偉いよ」
……完全に、子ども扱いだ。
これでは立場が逆だし、年齢的にもおかしい。
守る側のはずの俺が、撫でられている。
「俺は……子供じゃないんだから、撫でなくていい」
そう言ったつもりだった。
だが、声は思ったより弱く、
自分でも驚くほど、抵抗の色がなかった。
「ううん。お兄ちゃんは、まだ子どもだよ」
そのまま撫でる手は止まらない。
「あとちょっとで十五歳になっちゃうけどね」
そう言って、少しだけ笑う。
「それに、お兄ちゃん言ってたじゃん。頑張った子を見ると、撫でたくなるって」
胸の奥が、きゅっと縮む。
嫌な予感がした。
感情が戻ってきたせいで、また吐き気が来る。
胸の奥が掻き回されて、
あのどうしようもない波が、来る。
……はずだった。
だが。
込み上げてきたのは、
苦い液体でも、えづきでもなかった。
代わりに。
視界が、ゆっくりと滲んでいく。
瞬きをしても、戻らない。
輪郭が曖昧になって、
光がにじんで、揺れる。
頬に、生温いものが落ちた。
――涙だ。
理解するまで、少し時間がかかった。
自分の身体の反応を、頭が追いつけなかった。
……みっともない。
そう思うより先に、また涙が落ちる。
止めようとすればするほど、逆に増えていく。
まるで、長い間溜め込んでいた分を、
「今しかない」と身体が判断したみたいに。
その様子を見たアイシャは少しだけ目を細めた。
怒っているわけでも、困っているわけでもない。
どちらかと言えば――呆れに近い。
けれど、その呆れはやけに優しく見えた。
「もう! やっぱり、無理してたんじゃん」
責める響きは、どこにもない。
最初から分かっていた、という調子で、
肩をすくめながらそう言った。
「今はね、たっくさん泣いていいんだよ」
そう言って、にぱっと笑った。
いつもの、太陽みたいな笑顔。
「なんたってお兄ちゃんは……頑張り屋さんだからね!」
「……っ」
声にならない息が漏れた。
アイシャは、そんな俺の反応を見て、
少しだけ満足そうに頷く。
「ノコパラも言ってたよ。『俺が子どもに負けるわけないだろ! 子どもは黙って、大人に頼れ!』って」
「……」
何も言えなくなった俺を見て、
アイシャは、にやっと悪戯っぽく笑った。
「ホント、その通りだと思うな~」
「……本当に、ごめん」
その続きを口にするのは、少し勇気が必要だった。
でも、ここまで来たら誤魔化す意味もない。
「俺さ……誰かに頼った結果、失うのが怖かったんだ。迷惑だって思われるかもしれないし……それで、もしアイシャに見捨てられたらって……思ってた」
「えっ、お兄ちゃんそんなこと思ってたの?」
「うん」
短く答えると、アイシャは少し考えるように視線を逸らしてから、照れたように言う。
「まあ、私も役に立たなかったら捨てられるんじゃないかって、ずっと考えてたし、お兄ちゃんのことあんまり言えないけどね」
「……そう、だな」
そう返すと、撫でていた手が止まり、
アイシャは一度だけ視線を落とす。
迷っているのか指先が宙を彷徨って、
次の瞬間、俺の肩にそっと手を入れてきた。
膝の上に預けていた頭が、ゆっくりと持ち上がる。
首の角度が変わり、今まで当たり前みたいにあった膝の温度が離れていく。
代わりに、背中側へ回された手のひらの熱が、布越しに伝わった。
「……起きて」
小さな力で引かれて、俺は半身を起こす。
アイシャも同じように身を乗り出し、
膝を折って座り直す。
俺とアイシャの間にあった上下が消えて、
ただ向かい合う形になる。
そして、迷うような間が空いてから、
アイシャは顔をそっと俺に近づけてきた。
次の瞬間、
俺たちの額が、こつん、と触れ合う。
近すぎて、視界が一瞬ぼやけ、
アイシャの吐息が肌に触れる。
「お兄ちゃんが私を見捨てないように」
緑色の瞳が、真正面から俺を捉える。
「私も、お兄ちゃんを見捨てないよ」
「……どんな理屈だよ」
「いいの! 理屈じゃないから」
そう言い切るアイシャの声には、迷いがなかった。
疑う余地なんて、最初から存在しないとでも言うような響き。
……少し、うらやましいと思った。
俺はいつだって、理由を探す。
確証を集めて、筋を通して、
納得してからじゃないと前に進めない。
理屈がなければ不安になるし、
保証がなければ、手を伸ばすのが怖くなる。
だから、アイシャのように、
迷いなく言える強さが眩しかった。
「一人で頑張るお兄ちゃんも好きだけど。頼ってくれるお兄ちゃんは、もっと好きだよ」
「そんな風に言われなくても……次からは、ちゃんと頼るよ」
「次からじゃない、今から!」
「ああ、分かった」
「よろしい!」
アイシャは満足そうに言った。
その声が落ち着くと同時に、場に静けさが戻る。
沈黙が落ちる。
会話が途切れた、という感じじゃない。
言うべきことは、もう全部言った。
伝えるべき気持ちは、ちゃんと行き渡った。
そのあとに残った、静かな余白だ。
……近いな。
今さら気づいて、
今さらどうしようもないのだと気づく。
いや、少し身じろぎすればすぐ離れられる。
そんなことは、分かっている。
でも、身体は動いてくれない。
アイシャの額の温度が、じんわりと伝わってくる。
額に当たる、少し硬い感触。
その熱が、思っていたよりも心地よくて、
離れる理由を、脳が探しあぐねている。
俺は、無意識のままアイシャの瞳を見つめていた。
あわい緑色。
深くて、澄んでいて、光をよく映す色。
師匠と、ルーデウスと、ノルンちゃんと同じ色。
同じはずなのに、
アイシャのそれは、少し違う。
理由は分からない。
理屈もつけられない。
ただ、目を逸らすのが惜しいと思ってしまう。
そんな目だ。
俺の視線に気づいたのか、
アイシャが、ふいに目をそらした。
額が離れる。
「あ……」
思わず、声が漏れる。
――残念だ。
そんな感情が浮かんだことに、自分で驚く。
別に、見つめ合う必要なんてないのに。
それなのに、胸の奥がほんの少しだけ名残惜しそうに鳴った。
「……見すぎだよ、お兄ちゃん」
「ご、ごめん……」
咄嗟にそう言うと、
アイシャは、むっとした顔でこちらを見る。
「ああ、もう! なんで、そんな捨てられた子犬みたいな顔するの!」
「どんな顔だよ……」
自分では分からない。
だが、そう言われるくらいには、
きっと今の俺は情けない顔なんだろう。
そんな顔を、アイシャはじっと見つめてくる。
さっきまでの悪戯っぽさじゃない。
少し真剣で、少し迷っている目。
「お、お兄ちゃん……」
「なんだ?」
「目、つぶってて」
「?」
「お願い……」
一瞬だけ、警戒が頭をよぎる。
岩砲弾のことを思い出し、
反射的に、肩に力が入りかける。
身構えようとして――
「……分かった」
結局、そう言っていた。
……何を警戒してるんだ、俺は。
相手はアイシャだ。
俺を倒して、泣かせて、膝枕までしてくれた相手だ。
今さら、何を構える必要がある。
俺はゆっくりと目を閉じた。
視界が遮断された瞬間、感覚が研ぎ澄まされる。
衣擦れの音。すぐ近くで感じる、アイシャの気配。
距離が縮まるのが分かる。
息遣いが、ほんの少しだけ近い。
心臓が、やけにうるさい。
さっきまで泣いていたせいだ。
呼吸が乱れているせいだ。
そうやって理由を探して、落ち着かせようとする。
でも、理由を付けたところで、胸の奥の妙な熱は消えない。
何をされるのか分からない不安と、
なぜかそれを拒みたくない気持ちが、
奇妙に同居している。
次の瞬間。
額に、何かが触れた。
ほんの一瞬。
羽が触れたみたいに、軽くて、柔らかい感触。
――デコピン?
反射的にそう思った。
いや、違う。
デコピンなら弾く衝撃がある。
痛みがある。音もする。
今のは、ただ……触れた。
置かれた。押し当てられた。
触れたのは額のはずなのに、
その感触は一点に留まらず、じわりと内側へ染み込んでくる。
まるで、体温そのものを分け与えられたような……そんな感覚。
俺は目を開けられない。
開けたら、何かが壊れる気がしたからだ。
何が壊れるのかも分からないくせに。
心臓の音だけがやけに大きい。
同時に、空気がふっと軽くなる。
距離が戻ったのが、はっきり分かる。
でも、さっきの温度だけが、額に残っている。
消えてくれないのだ。
まるで、そこに印を残されたみたいに。
……何だったんだ、今の。
疑問が形になる前に、アイシャの声が飛んできた。
「ほら、起きた起きた。いつまで寝てるの!」
ぱし、と額を叩かれた感触。
今度はちゃんと“叩かれた”という衝撃。
痛みはほとんどないのに、その感触だけで、
一気に現実へ引き戻された。
目を開けると、アイシャはすでにベッドから出ていた。
何もなかったような顔で、腰に手を当てている。
いつも通りの元気なアイシャだ。
「ノコパラとブレイズさんにも、ごめんなさいしないと!」
「あ、ああ……そうだな」
返事がすこし遅れた。
頭がまだ追いついていない。
俺が返事を返すと、
アイシャは、にぱっと笑って、くるりと背を向けた。
さっきまでの距離なんて存在しなかったかのようだ。
「じゃ、先に外で待ってるからね!」
そう言って、テントの入口を開け、
少し駆け足で外へ出ていった。
「……」
俺は一人、取り残される。
無意識に額に手を当てていた。
そこにはもう、何も残っていないはずだ。
指先で触れても何も感じない。
当たり前だ。熱なんて残るわけがない。
それなのに。
さっき触れられた熱が、
皮膚の内側に薄く貼り付いたまま、消えない。
俺は首を振って、立ち上がる。
外では、ノコパラとブレイズの気配がする。
謝らないとな。
心配かけたし、無理もさせた。
あんな手の込んだ罠まで仕掛けさせて。
そう思いながら、テントの入口へ向かう。
向かうはずなのに。
なぜか、額に当てた手をしばらく下ろせなかった。
温度はとっくに消えているはずだ。
当たり前だ。触れただけなのだから。
それでも、指先がそこから離れると――
何か大事なものが、すっと抜け落ちてしまう気がして。
結局俺は、深呼吸をひとつしてようやく手を下ろした。
そして、何もなかったような顔を作って外へ出る。
何もなかったような顔を作れているかどうかは、
自分でも分からなかった。