受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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六十三話

 

「お兄ちゃんをたおーす!!」

 

 

あまりにも物騒で、元気すぎる宣言が夜の空気を切り裂いた。

 

 

「ど、どうしたんだ? 急に……」

 

 

「どうしたも何もねぇだろ」

 

 

ノコパラだ。腕を組んだまま、

ため息交じりに首を振っている。

 

 

「……?」

 

 

「気づいてねぇのか……」

 

 

そう言って、ノコパラは自分の目元をトントンと指で指す。

その仕草を見て、俺は反射的に自分の目元に触れる。

 

指先が、しっとりと濡れた。

……ぬるい。

 

 

「……あ」

 

 

「これは重症だな」

 

 

ブレイズが真顔で言う。

 

 

「ち、違う。あくびだ。ほら、徹夜気味だったし」

 

 

「無理しないでって言ったじゃん!!」

 

 

「カイン様……どうか休まれてください」

 

 

リーリャさんまで援護射撃を入れてくる。

包囲網が完成している。

逃げ道がない。

 

 

「いや、本当に大丈夫だから」

 

 

「嘘」

 

 

「いや、嘘じゃ――」

 

 

「言ったでしょ。嘘ついてても分かるって」

 

 

……ああ、そうだった。

俺は嘘が下手なんだった。

 

言葉に詰まった俺の前で、

ブレイズが小さく肩をすくめる。

 

 

「……って言っても、お前は無理するだろ? だから――」

 

 

そのまま、アイシャに目配せする。

 

 

「お兄ちゃんをたおーす!!」

 

 

「いや、倒すって何――」

 

 

最後まで言い切る前に、空気が変わった。

 

 

「安心しろ。殺しはしねぇ」

 

 

ノコパラの声は、やけに落ち着いている。

その落ち着きが、逆に嫌な予感しかしない。

 

 

「気絶で済ませる」

 

 

そう言いながら、ノコパラの腕がしなった。

俺は右手を上げ、指で挟む。

 

……ナイフだ。

 

 

「いや、死ぬだろこれは」

 

 

「いいや、お前はこれぐらいじゃ死なねぇよ」

 

 

ノコパラの声が、森の奥から返ってきた。

違和感を感じ、視線を上げるが誰もいない。

 

さっきまで腕を組んで立っていたはずの、ノコパラも、ブレイズも、アイシャも、

跡形もなく消えている。

 

いや……一人だけいた。

 

 

「リーリャさん? これ、なんなんですか? 止めてくださいよ」

 

 

割と本気で言った。

だが、リーリャさんは静かに首を横に振る。

 

 

「申し訳ありません。ですが……必要なことだと判断いたしました」

 

 

そう言い残して、リーリャさんは一礼し、

静かにその場を離れていった。

 

取り残されたのは、俺一人。

 

 

「必要なことって……」

 

 

言葉は、途中で切れた。

 

来る。

 

次の瞬間、森の暗がりから、ナイフが何本も飛んできた。

軌道がバラけている。牽制と本命を混ぜた、嫌な投げ方。

 

振り向きざま、視界に入ったナイフすべてに『解』を走らせる。

空中で金属が断たれ、綺麗に真っ二つになって地面へ落ちる。

 

 

「おい、ノコパラ。ナイフがもったいないだろ?」

 

 

斬りながら、つい口が動く。

 

――違和感。

 

飛んでくる軌道の中に、

明らかに挙動の違う“何か”が混じっている。

ナイフじゃない。

袋……?

 

考えるより先に、身体が動いた。

反射で斬撃を飛ばす。

 

――パンッ。

 

乾いた破裂音。

同時に、細かい粉塵が爆ぜるように広がった。

 

 

「……っ、まずった!」

 

 

砂か? いや、もっと細かい。

刺激が走る前に、咄嗟に目をつむる。

 

視界が、完全に閉ざされた。

 

次の瞬間、地面を踏み砕くような足音。

一直線。迷いがない。

 

……ブレイズだ。

 

視界はまだ使えない。

だから、頼れるのは気配だけだ。

 

俺は意識を一点に集中させ、ブレイズの位置をたどる。

速い。一直線に突っ込んでくるが、ただの直進じゃない。

途中で、気配が――跳ねた。

 

 

「……フンッ!」

 

 

「上か!」

 

 

気配の集中点をなぞるように、

頭を囲む形で片腕を突き出す。

守るというより、受け止めるための構え。

 

 

「痛ッた!!」

 

 

鈍く、骨に直接叩きつけられる感覚。

重い。剣の重さじゃない。

これはブレイズ愛用の――

 

 

「斧じゃねぇか!!」

 

 

思わず声が出た。冗談じゃない。

俺じゃなかったら腕が吹っ飛んでるぞ。

 

呪力強化。闘気。

二つをまとっていたから、骨は砕けていない。

 

腕で斧を弾き返すように力を込めると、

ブレイズの気配は、すぐに距離を取った。

 

俺は即座に『満象』を使って、水を引き出す。

ぬるい水を目に叩きつけるようにして洗い流した。

粉塵が流れ落ち、ぼやけた視界が戻ってくる。

 

……よし、見える。

 

視界が戻った瞬間、判断は終わっていた。

 

逃げるか。

 

戦う意味もないし、戦いたくもない。

 

相手は仲間だ。

誰一人、怪我なんてさせたくない。

 

俺は腕から『蝦蟇』の舌を伸ばす。

ぬるりとした舌が、近くの太い枝に絡みつく。

そのまま身体を引き上げ、次の木へ。

また舌を射出し、巻き付け、引く。

 

立体移動。

森の中を、枝から枝へと飛ぶ。

 

背後の気配を常に意識しながら、俺は空中を渡っていく。

 

 

「ん?」

 

 

違和感が、肌を撫でた。

次の瞬間、何かが胴に巻きつく。

 

――何かに引っかかった。

 

 

「っ――!」

 

 

糸だ。しかも一本じゃない。複数。

一瞬で腕ごと胴体を絡め取られ、関節の可動域を殺される。

 

腕が使えない。

『蝦蟇』の舌が、引っかける先を失いそのまま落下する。

 

木と木の間に張ったワイヤートラップか?

 

 

「フンッ」

 

 

全身に力を込め、糸を無理やり引きちぎる。

バチン、と乾いた音。

糸は切れたが、俺の体勢は立て直せない。

 

……地面にぶつかる。

そう思った瞬間、地面がそのまま抜けた。

 

 

「落とし穴か!」

 

 

声に出した時には、もう遅い。

視界が一気に暗転し、身体が縦に引きずり落とされる。

重力が腹の底を掴み、内臓が浮く感覚。

 

――着地。

 

膝と足裏で衝撃を殺す。

土が舞い、穴の底に鈍い音が響いた。

即座に体勢を立て直し、周囲を確認する。

 

 

「上がるか……」

 

 

そう判断して跳躍のために踏み込んだ、その瞬間。

 

頭上の光が遮られ、影が落ちてきた。

 

上から。

一直線に。

 

見えたのは、斧。

そして、その柄を握る巨体。

 

斧を両手で構え、重力を味方につけたまま、

真っ直ぐ俺に向かって落下してくる。

殺す気はない、と言っていたはずだが。

 

……くそ。

 

剣は持ってきていない。

穴の中は狭く、横に跳ぶスペースもない。

 

受けるか……

 

斧が振り下ろされる刹那、

俺は片手を伸ばし、刃の部分を掴む。

手のひらに斬撃を纏わせる。

ギャリギャリと騒がしい音が鳴る。

 

 

「ッ……重いな!」

 

 

「失礼な奴だな。気にしてるんだぞ?」

 

 

「お前らいったい、何がしたいんだ!」

 

 

「お前を倒したいのさ」

 

 

迷いのない声。

冗談でも、勢いでもない。

本気で言っている。

 

 

「どういうことだ……っ、よッ!」

 

 

声と同時に、腰を回す。

掴んだ斧ごと、力任せに引き抜き、投げる。

 

ブレイズは抵抗せず、穴の外へと放り出される。

重い音が、外で鳴った。

 

……倒したいだって?

意味が分からない。

倒す理由がどこにも見当たらない。

 

敵でもない。

裏切りでもない。

俺が何かをした覚えもない。

 

――ヒトガミの仕業か?

 

一瞬、その考えが頭をよぎる。

だが違う。

この動き、この連携、この悪意の無さ。

誰かに操られている感じじゃない。

むしろ、全員が同じ意志を共有している。

 

考えがまとまる前に、頭上から音がした。

 

ゴロ……という、不穏な音。

 

見上げる。

穴の縁からでかい岩が一つ、押し出されてきている。

穴を埋める気か。あれが直撃したら流石に潰れるかもな。

 

そう思った俺は『解』を放った。

斬撃が走り、岩は空中で粉々に砕け散る。

破片が雨のように降り注ぐ。

 

だが、その奥が見えた瞬間、思考が一拍遅れた。

 

そこには、浮いている……

 

 

「……アイシャ!?」

 

 

粉々にした岩の向こう、破片の雨の中に、アイシャがいた。

岩の上に乗っていたのか? 危ないじゃないか!

 

そして、その表情は……笑っている。

 

危機感がない。

いや、ないんじゃない。

最初から、俺が何とかすると分かっている顔だ。

 

次の瞬間、重力に引かれたアイシャの身体が、

俺の方へ落ちてくる。

 

 

「アイシャ!」

 

 

考えるより先に声が出た。

両腕を広げる。受け止めるつもりだ。

それ以外の選択肢は、最初から頭になかった。

 

――その動きを、アイシャが見ていた。

 

空中で、くるりと体勢を整える。

信じられないほど器用に。

まるで俺の反応を待っていたかのように。

 

そして、にぱっと笑って、手のひらをこちらに向けた。

 

 

「?」

 

 

「お兄ちゃん!! 大好きッ!!!」

 

 

「なっ!?」

 

 

「ちょっと痛いと思うけど我慢してね! 岩砲弾(ストーンキャノン)!!」

 

 

無詠唱。至近距離。

手のひらから放たれた岩砲弾が、

俺の脳天ど真ん中一直線に迫ってくる。

 

――避けられる。

 

判断は早かった。

軌道は単純。速度もそれほどない。

一歩横にずれれば、簡単に避けられる。

 

だが、避ければどうなる。

勢いのまま落下するアイシャは、

地面に叩きつけられる。

受け止める人がいなくなる。

それだけは、ありえない。

 

仮に当たったとしても、

呪力強化と闘気をまとっている今の俺なら、

あの程度の岩砲弾は、通らない――

 

――はずだった。

 

呪力というのは、負の感情を源にする。

怒り、憎しみ、悲しみ、焦燥。

それらを燃料にして、力に変える。

 

つまり、何が言いたいのかと言うと……

 

――大好き。

 

そんな事を言われて、

負の感情を吐き出せる人間なんて、そういない。

 

呪力強化がほどける感覚がした。

だが、自覚した時にはもう遅い。

 

岩砲弾が目の前に迫ってくる。

 

 

「やられたな……」

 

 

思わず、間の抜けた声が漏れた。

 

次の瞬間。

 

ごつん、という鈍い衝撃が頭に直撃する。

視界が揺れる。音が遠ざかる。

思考がぶつ切りにされる。

 

それでも、俺の腕は伸びたままだった。

反射でアイシャを抱きしめる。

 

――よかった、受け止められた。

 

そんな安心感が胸に広がった。

 

 

「私の勝ち!」

 

 

 

―――

 

 

 

意識が、ゆっくりと浮上してくる。

 

最初に感じたのは、頭の下の感触だった。

地面の硬さでもなければ、簡易ベッドの枕の感触でもない。

沈み込むようで、でも支えられている、不思議な感触。

 

ぼんやりとしたまま、目を開ける。

 

視界いっぱいに、赤みがかった茶色の髪が落ちてきた。

重力に従って垂れた髪が、カーテンみたいに揺れている。

その中心から、こっちを覗き込む顔があった。

 

 

「あ……お兄ちゃん、起きた?」

 

 

アイシャだ。

 

状況を理解するまで、数秒かかった。

視界の端にはテントの天幕。

薄い布越しに差し込む外の光。

身体は横になっていて、妙に首の角度が楽で――

 

……あ。

 

俺はテントのベッドに横たわっていて、

頭は、アイシャの膝の上に乗せられている。

 

膝枕だ。

 

理解した瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。

何をしているんだ俺は、という理性と、

動きたくない、という感情が同時に湧き上がる。

 

俺は必死に理性を働かせ、起き上がろうと肩に力を入れた。

 

――が。

 

 

「だーめ」

 

 

額に手のひらが置かれて、優しく押し返される。

俺の頭は再びアイシャの膝上に戻された。

 

力は弱いのに、抵抗する気が起きない。

 

 

「私言ったよね? 我慢して隠すぐらいなら、私に言うことって」

 

 

胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 

……言われた。確かに言われた。

それなのに俺は、いつもの癖で、

平気なふりをして、役割を演じて、

一人で処理しようとした。

 

 

「だからこれは」

 

 

アイシャの指が、俺の額の前で構えられる。

 

 

「約束を破った、お仕置き……ねっ!」

 

 

「あたっ」

 

 

額に、軽い衝撃がくる。

痛みはほとんどない。

だが、不意打ちだった分、

妙に間の抜けた声が出てしまった。

 

 

「デコピン……」

 

 

「そう。デコピン」

 

 

そう言って、アイシャは何でもないことのように頷く。

そして、デコピンをした指は引っ込められることなく、そのまま俺の髪に触れた。

 

くしゃり。

 

少し乱すような、遠慮のない動き。

次の瞬間には、指先の力が抜けて、

ゆっくりとした撫で方に変わった。

 

……撫でている。

 

頭の上から、一定のリズムで。

まるで、子どもをあやすみたいに。

 

 

「よしよし」

 

 

声が優しい。

 

 

「よく頑張りました。お兄ちゃんは偉いよ」

 

 

……完全に、子ども扱いだ。

 

これでは立場が逆だし、年齢的にもおかしい。

守る側のはずの俺が、撫でられている。

 

 

「俺は……子供じゃないんだから、撫でなくていい」

 

 

そう言ったつもりだった。

だが、声は思ったより弱く、

自分でも驚くほど、抵抗の色がなかった。

 

 

「ううん。お兄ちゃんは、まだ子どもだよ」

 

 

そのまま撫でる手は止まらない。

 

 

「あとちょっとで十五歳になっちゃうけどね」

 

 

そう言って、少しだけ笑う。

 

 

「それに、お兄ちゃん言ってたじゃん。頑張った子を見ると、撫でたくなるって」

 

 

胸の奥が、きゅっと縮む。

嫌な予感がした。

 

感情が戻ってきたせいで、また吐き気が来る。

胸の奥が掻き回されて、

あのどうしようもない波が、来る。

 

……はずだった。

 

だが。

 

込み上げてきたのは、

苦い液体でも、えづきでもなかった。

 

代わりに。

 

視界が、ゆっくりと滲んでいく。

 

瞬きをしても、戻らない。

輪郭が曖昧になって、

光がにじんで、揺れる。

 

頬に、生温いものが落ちた。

 

――涙だ。

 

理解するまで、少し時間がかかった。

自分の身体の反応を、頭が追いつけなかった。

 

……みっともない。

 

そう思うより先に、また涙が落ちる。

止めようとすればするほど、逆に増えていく。

まるで、長い間溜め込んでいた分を、

「今しかない」と身体が判断したみたいに。

 

その様子を見たアイシャは少しだけ目を細めた。

怒っているわけでも、困っているわけでもない。

どちらかと言えば――呆れに近い。

 

けれど、その呆れはやけに優しく見えた。

 

 

「もう! やっぱり、無理してたんじゃん」

 

 

責める響きは、どこにもない。

最初から分かっていた、という調子で、

肩をすくめながらそう言った。

 

 

「今はね、たっくさん泣いていいんだよ」

 

 

そう言って、にぱっと笑った。

いつもの、太陽みたいな笑顔。

 

 

「なんたってお兄ちゃんは……頑張り屋さんだからね!」

 

 

「……っ」

 

 

声にならない息が漏れた。

アイシャは、そんな俺の反応を見て、

少しだけ満足そうに頷く。

 

 

「ノコパラも言ってたよ。『俺が子どもに負けるわけないだろ! 子どもは黙って、大人に頼れ!』って」

 

 

「……」

 

 

何も言えなくなった俺を見て、

アイシャは、にやっと悪戯っぽく笑った。

 

 

「ホント、その通りだと思うな~」

 

 

「……本当に、ごめん」

 

 

その続きを口にするのは、少し勇気が必要だった。

でも、ここまで来たら誤魔化す意味もない。

 

 

「俺さ……誰かに頼った結果、失うのが怖かったんだ。迷惑だって思われるかもしれないし……それで、もしアイシャに見捨てられたらって……思ってた」

 

 

「えっ、お兄ちゃんそんなこと思ってたの?」

 

 

「うん」

 

 

短く答えると、アイシャは少し考えるように視線を逸らしてから、照れたように言う。

 

 

「まあ、私も役に立たなかったら捨てられるんじゃないかって、ずっと考えてたし、お兄ちゃんのことあんまり言えないけどね」

 

 

「……そう、だな」

 

 

そう返すと、撫でていた手が止まり、

アイシャは一度だけ視線を落とす。

迷っているのか指先が宙を彷徨って、

次の瞬間、俺の肩にそっと手を入れてきた。

 

膝の上に預けていた頭が、ゆっくりと持ち上がる。

首の角度が変わり、今まで当たり前みたいにあった膝の温度が離れていく。

代わりに、背中側へ回された手のひらの熱が、布越しに伝わった。

 

 

「……起きて」

 

 

小さな力で引かれて、俺は半身を起こす。

アイシャも同じように身を乗り出し、

膝を折って座り直す。

俺とアイシャの間にあった上下が消えて、

ただ向かい合う形になる。

 

そして、迷うような間が空いてから、

アイシャは顔をそっと俺に近づけてきた。

 

次の瞬間、

俺たちの額が、こつん、と触れ合う。

近すぎて、視界が一瞬ぼやけ、

アイシャの吐息が肌に触れる。

 

 

「お兄ちゃんが私を見捨てないように」

 

 

緑色の瞳が、真正面から俺を捉える。

 

 

「私も、お兄ちゃんを見捨てないよ」

 

 

「……どんな理屈だよ」

 

 

「いいの! 理屈じゃないから」

 

 

そう言い切るアイシャの声には、迷いがなかった。

疑う余地なんて、最初から存在しないとでも言うような響き。

 

……少し、うらやましいと思った。

 

俺はいつだって、理由を探す。

確証を集めて、筋を通して、

納得してからじゃないと前に進めない。

理屈がなければ不安になるし、

保証がなければ、手を伸ばすのが怖くなる。

 

だから、アイシャのように、

迷いなく言える強さが眩しかった。

 

 

「一人で頑張るお兄ちゃんも好きだけど。頼ってくれるお兄ちゃんは、もっと好きだよ」

 

 

「そんな風に言われなくても……次からは、ちゃんと頼るよ」

 

 

「次からじゃない、今から!」

 

 

「ああ、分かった」

 

 

「よろしい!」

 

 

アイシャは満足そうに言った。

その声が落ち着くと同時に、場に静けさが戻る。

 

沈黙が落ちる。

 

会話が途切れた、という感じじゃない。

言うべきことは、もう全部言った。

伝えるべき気持ちは、ちゃんと行き渡った。

そのあとに残った、静かな余白だ。

 

……近いな。

 

今さら気づいて、

今さらどうしようもないのだと気づく。

いや、少し身じろぎすればすぐ離れられる。

そんなことは、分かっている。

 

でも、身体は動いてくれない。

 

アイシャの額の温度が、じんわりと伝わってくる。

額に当たる、少し硬い感触。

その熱が、思っていたよりも心地よくて、

離れる理由を、脳が探しあぐねている。

 

俺は、無意識のままアイシャの瞳を見つめていた。

あわい緑色。

深くて、澄んでいて、光をよく映す色。

 

師匠と、ルーデウスと、ノルンちゃんと同じ色。

 

同じはずなのに、

アイシャのそれは、少し違う。

 

理由は分からない。

理屈もつけられない。

ただ、目を逸らすのが惜しいと思ってしまう。

そんな目だ。

 

俺の視線に気づいたのか、

アイシャが、ふいに目をそらした。

 

額が離れる。

 

 

「あ……」

 

 

思わず、声が漏れる。

 

――残念だ。

 

そんな感情が浮かんだことに、自分で驚く。

別に、見つめ合う必要なんてないのに。

それなのに、胸の奥がほんの少しだけ名残惜しそうに鳴った。

 

 

「……見すぎだよ、お兄ちゃん」

 

 

「ご、ごめん……」

 

 

咄嗟にそう言うと、

アイシャは、むっとした顔でこちらを見る。

 

 

「ああ、もう! なんで、そんな捨てられた子犬みたいな顔するの!」

 

 

「どんな顔だよ……」

 

 

自分では分からない。

だが、そう言われるくらいには、

きっと今の俺は情けない顔なんだろう。

 

そんな顔を、アイシャはじっと見つめてくる。

さっきまでの悪戯っぽさじゃない。

少し真剣で、少し迷っている目。

 

 

「お、お兄ちゃん……」

 

 

「なんだ?」

 

 

「目、つぶってて」

 

 

「?」

 

 

「お願い……」

 

 

一瞬だけ、警戒が頭をよぎる。

岩砲弾のことを思い出し、

反射的に、肩に力が入りかける。

身構えようとして――

 

 

「……分かった」

 

 

結局、そう言っていた。

 

……何を警戒してるんだ、俺は。

 

相手はアイシャだ。

俺を倒して、泣かせて、膝枕までしてくれた相手だ。

今さら、何を構える必要がある。

 

俺はゆっくりと目を閉じた。

 

視界が遮断された瞬間、感覚が研ぎ澄まされる。

衣擦れの音。すぐ近くで感じる、アイシャの気配。

 

距離が縮まるのが分かる。

息遣いが、ほんの少しだけ近い。

 

心臓が、やけにうるさい。

さっきまで泣いていたせいだ。

呼吸が乱れているせいだ。

そうやって理由を探して、落ち着かせようとする。

 

でも、理由を付けたところで、胸の奥の妙な熱は消えない。

 

何をされるのか分からない不安と、

なぜかそれを拒みたくない気持ちが、

奇妙に同居している。

 

次の瞬間。

 

額に、何かが触れた。

 

ほんの一瞬。

羽が触れたみたいに、軽くて、柔らかい感触。

 

――デコピン?

 

反射的にそう思った。

いや、違う。

デコピンなら弾く衝撃がある。

痛みがある。音もする。

今のは、ただ……触れた。

置かれた。押し当てられた。

 

触れたのは額のはずなのに、

その感触は一点に留まらず、じわりと内側へ染み込んでくる。

まるで、体温そのものを分け与えられたような……そんな感覚。

 

俺は目を開けられない。

開けたら、何かが壊れる気がしたからだ。

何が壊れるのかも分からないくせに。

 

心臓の音だけがやけに大きい。

 

同時に、空気がふっと軽くなる。

距離が戻ったのが、はっきり分かる。

 

でも、さっきの温度だけが、額に残っている。

消えてくれないのだ。

まるで、そこに印を残されたみたいに。

 

……何だったんだ、今の。

 

疑問が形になる前に、アイシャの声が飛んできた。

 

 

「ほら、起きた起きた。いつまで寝てるの!」

 

 

ぱし、と額を叩かれた感触。

今度はちゃんと“叩かれた”という衝撃。

痛みはほとんどないのに、その感触だけで、

一気に現実へ引き戻された。

 

目を開けると、アイシャはすでにベッドから出ていた。

何もなかったような顔で、腰に手を当てている。

 

いつも通りの元気なアイシャだ。

 

 

「ノコパラとブレイズさんにも、ごめんなさいしないと!」

 

 

「あ、ああ……そうだな」

 

 

返事がすこし遅れた。

頭がまだ追いついていない。

 

俺が返事を返すと、

アイシャは、にぱっと笑って、くるりと背を向けた。

さっきまでの距離なんて存在しなかったかのようだ。

 

 

「じゃ、先に外で待ってるからね!」

 

 

そう言って、テントの入口を開け、

少し駆け足で外へ出ていった。

 

 

「……」

 

 

俺は一人、取り残される。

 

無意識に額に手を当てていた。

そこにはもう、何も残っていないはずだ。

 

指先で触れても何も感じない。

当たり前だ。熱なんて残るわけがない。

 

それなのに。

 

さっき触れられた熱が、

皮膚の内側に薄く貼り付いたまま、消えない。

 

俺は首を振って、立ち上がる。

外では、ノコパラとブレイズの気配がする。

 

謝らないとな。

心配かけたし、無理もさせた。

あんな手の込んだ罠まで仕掛けさせて。

 

そう思いながら、テントの入口へ向かう。

 

向かうはずなのに。

 

なぜか、額に当てた手をしばらく下ろせなかった。

 

温度はとっくに消えているはずだ。

当たり前だ。触れただけなのだから。

 

それでも、指先がそこから離れると――

何か大事なものが、すっと抜け落ちてしまう気がして。

 

結局俺は、深呼吸をひとつしてようやく手を下ろした。

そして、何もなかったような顔を作って外へ出る。

 

何もなかったような顔を作れているかどうかは、

自分でも分からなかった。

 

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