受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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六十四話

 

テントを出ると、三人が揃って待っていた。

ノコパラ、ブレイズ、そしてリーリャさん。

 

……全員、待っていたのだろう。

 

 

「ほら!」

 

 

背中から、アイシャに軽く押される。

前に出ろ、という意味だろう。

 

子ども扱いだと分かっているし、正直かなり恥ずかしい。

……だが、俺の振る舞いを思い返すと、反論できるはずがない。

 

俺は一歩前に出て、三人の前で立ち止まる。

言葉を探す必要はなかった。

探せば、また理屈をこね始めるのは分かっている。

 

 

「ごめん」

 

 

だから、先に頭を下げた。

 

 

「無理してるのを隠して、平気なふりをして、誰にも頼らずに、勝手に抱え込んでました。心配も、手間も、全部かけて……」

 

 

「……本当に、ごめんなさい」

 

 

沈黙。

 

その沈黙を、真っ先に破ったのはノコパラだった。

 

 

「……はぁ」

 

 

大きなため息。

そして、苛立ちを隠さない声。

 

 

「俺が、お前みたいなガキに負けるわけねぇだろ。子どもは黙って、大人に頼るもんなんだよ」

 

 

「あ、それ……」

 

 

「なんだよ?」

 

 

怪訝そうな顔。

その目を見て、俺は一瞬言うべきか迷った。

迷っている俺の横から、軽い声が飛んできた。

 

 

「それ……もう私が言っちゃった」

 

 

ノコパラの表情が、ぴたりと止まる。

 

次の瞬間、顔を赤くした。

横でブレイズが肩を揺らす。

 

 

「かっこつけそこなったな」

 

 

「うるせぇ!!」

 

 

その様子を見て、アイシャがぱっと両手を合わせる。

 

 

「ごめんね、ノコパラ!」

 

 

わざとらしいくらいに元気で、悪びれた様子は一切ない。

 

ノコパラは頭を掻き、盛大に舌打ちをした。

一瞬だけ、言葉を探すように視線を逸らしてから、

俺の方を睨む。

 

 

「まあ、すかしたお前をぶっ倒したときは、正直スカッとしたからな。それでチャラにしてやるよ」

 

 

「ありがとな、ノコパラ」

 

 

そう言うと、ノコパラは一瞬だけ鼻を鳴らし、そっぽを向いた。

照れ隠しだと分かる。

 

……そういえば。

 

 

「あの一連の動きは、誰が考えたんだ? 罠も連携もやけに完成度高かったけど。ブレイズか?」

 

 

ブレイズは、あっさり首を横に振った。

 

 

「いや、考えたのは……アイシャだ」

 

 

「……え?」

 

 

間の抜けた声が、勝手に出た。

そして、ゆっくりとアイシャを見る。

 

視線が合った瞬間、アイシャは待ってましたとばかりに胸を張った。

両手を腰に当てて、得意げな顔。

 

 

「ふふーん!」

 

 

まじか……

 

頭の中で、さっきまでの光景が一気に巻き戻される。

投げナイフ、粉塵、立体移動を潰す罠、落とし穴、

至近距離の岩砲弾。

全部、俺を倒すために最適化されていた。

 

 

「ほ、本当にアイシャが全部考えたのか?」

 

 

「うん、お兄ちゃんを子ども扱いするためにね!」

 

 

「……子ども扱い?」

 

 

「そ。お兄ちゃんって、すっごく強いでしょ? そのせいで誰にも頼れないのかなーって、ずっと思ってたの」

 

 

「そうなのか……」

 

 

「だからね、わたしがお兄ちゃんに勝ったら、お兄ちゃんも『自分も子どもなんだ』って気づけて、誰かに頼りやすくなるでしょって思って、やったんだよ」

 

 

そこで、アイシャは少しだけ肩をすくめて笑う。

 

 

「ま、結局違ったけどね。結果オーライだったからいいけど!」

 

 

……違った。

確かに、違った。

 

アイシャの考えは外れていたのかもしれない。

少なくとも、理由の核心はそこじゃなかった。

 

俺は、頼ったせいで関係が壊れるのが怖かったんだ。

 

弱さを見せた瞬間に、失望されるんじゃないか。

期待を裏切って、距離を置かれるんじゃないか。

そんな想像を、勝手に膨らませていた。

 

でも、実際はどうだった。

 

無理をして倒れて、泣いて、みっともないところを見せて。

頼った結果、壊れたものは何一つない。

叱られて、笑われて、呆れられて。

それでも、この関係はちゃんとここに残っている。

 

俺は、ようやく知ったんだ。

頼ってもいいんだと。

 

そして、アイシャの言葉を反芻しているうちに、

もう一つの事実が浮かび上がってくる。

 

俺は、最初から自分のことを子どもだと思っていなかった。

無意識のうちに、大人側に立っていた。

 

理由は単純、前世の記憶がある。

ただそれだけの理由だ。

中身は大人だ。

だから大人として振る舞うべき。

そういうものだと、疑いもしなかった。

疑う余地があるなんて、考えもしなかった。

 

そして、大人は誰かに頼っちゃだめだ、と思っていた。

守る側が弱さを見せるのは無責任だ。

背負うと決めた以上、一人で立ち続けるのが当然だ。

 

そんな、どこで刷り込まれたのかも分からないルールを、俺はいつの間にか自分自身に課していたのかもしれない。

 

誰に言われたわけでもない。

教えられた覚えもない。

ただ、前世で上手く生きられなかった自分が、

「せめて次は、ちゃんとした大人でいよう」と決めただけだ。

 

……馬鹿らしい。

 

前世で生きたと言っても、

あれは“まともに生きた”と言えるものじゃない。

逃げて、閉じこもって、何も選ばず、

年だけを重ねただけの時間だった。

それを「大人だった」と言い切るのは、あまりにも都合がいい。

 

アイシャたちのおかげで、

俺はようやく、自分がまだ未熟な子どもなんだと気づかせてもらえた。

 

強くはなった。

守れる力も、戦える技も、選ぶ覚悟も手に入れた。

でも、それだけだ。

 

生き方としては、まだ途中。

やっと、スタートラインに立っただけなのかもしれない。

 

 

 

―――

 

 

 

俺は、皆と一緒に両親の墓へ向かった。

 

森を抜け、少し開けた場所に出ると、

石が整然と並ぶ区画が見えてくる。

誰かが大切にしてきた人生の終着点が、ここには幾つもある。

 

その中の二つ。

並んで立つ墓の前で、俺は立ち止まる。

 

名前が刻まれた石。

簡素で、飾り気はない。

それでも、間違いなく俺の両親の墓だった。

 

吐き気はなかった。

あれほど苦しめられてきた、あの感覚は来ない。

ただ、視界が滲んで、頬を伝うものが落ちる。

 

涙だ。

 

理由は、はっきりしている。

 

悲しいからだ。

寂しいからだ。

そして――もう二度と会えないからだ。

 

それだけの、単純な感情。

 

前は、この感情に耐えきれなかった。

押し寄せる実感を、身体が拒否して、胃の中身ごと吐き出してしまった。

感情を受け止める余裕なんて、どこにもなかった。

 

でも、今は違う。

 

アイシャたちと、苦しみを分け合えた。

弱さを見せて、受け止めてもらえた。

 

だから、この感情はちゃんと「涙」に留まってくれている。

 

俺は墓石を見つめた。

 

深く息を吸って、ゆっくり吐く。

そして言葉を探す。

 

 

「えーっと……俺さ、転移してから自分なりにいろいろと頑張ったんだよ。魔王倒したり、転移者の捜索したり。ほんとにいろいろ……」

 

 

声に出した瞬間、堰が切れたみたいに視界が滲んだ。

墓石の文字が読めなくなる前に、俺は一度目を伏せた。

 

 

「父さんと母さんにさ、胸張って『ただいま』って言いたかったかんだ……」

 

 

「……まあ、結局言えずじまいだったけどね」

 

 

笑おうとして、失敗した。

喉が詰まって、息が変な音になる。

 

 

「父さんと母さんもさ……俺と一緒で、胸張って『ただいま』か……『お帰り』を言いたかったのかもって」

 

 

言葉が途切れ途切れになってくる。

それでも、前に進もうとして、転びながら続けた。

 

 

「これは……そうだったらいいなってだけの、俺の妄想でしかなくて……父さんたちがどう思ってたかなんて……もう、分からないけど……」

 

 

涙が、ぽたぽたと落ちる。

地面に吸い込まれて、消えていく。

 

 

「ああ、そうだ」

 

 

俺は、少しだけ顔を上げた。

 

 

「俺にはさ……『お帰り』って言ってくれる仲間が、たくさんできたよ」

 

 

それを口にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

 

「母さんは、俺に友達が少ないことを心配してたよね」

 

 

「父さんも……友達は多い方がいいって、よく言ってた」

 

 

言葉を並べながら、喉の奥がひりつく。

思い出を撫でるたびに、優しさと後悔が一緒に湧いてくる。

 

 

「え……っと、それで……何が言いたいのかっていうと……」

 

 

声が弱くなる。

 

ちゃんと安心させる言葉を。

大丈夫だって、胸を張れる報告を。

そう思うのに、口を開くたびになにか違う気がして、言葉が逃げていく。

 

――魔王を倒した。

――たくさんの人を助けた。

――強くなった。

 

どれも事実だ。

でも、それを言うたびに胸の奥が小さく否定する。

 

そのとき、俺の背中に大きな手が触れた。

ブレイズだった。

 

 

「お前の伝えたいことを、伝えればいい」

 

 

「っ……そう、だな」

 

 

……ああ。

俺は、また取り繕おうとしていたのか。

親の前で、安心させたい一心で、

立派な言葉を探していた。

 

でも、俺が本当に伝えたいことは、

そんな立派な報告じゃない。

成功談でも、武勇伝でもない。

 

もっとずっと単純で、ずっと大切なことだ。

 

胸の奥で、答えが形になる。

ずっと最初から、そこにあった答えだ。

言葉を探す必要なんて最初から無かったんだ。

 

墓石に刻まれた名前を、じっと見つめる。

その文字が、静かに俺を見つめ返してくる。

 

 

「父さん」

 

 

「母さん」

 

 

声が自然と落ち着いた。

 

 

「俺を産んでくれて、育ててくれて、守ってくれて……」

 

 

息を吸う。

 

 

「愛してくれて……ありがとうございました」

 

 

それだけだった。

飾りも、理屈も、理由もない。

ただの、感謝。

 

……そうだ。

 

父さんも、母さんも。

俺を無償で愛してくれていた。

ただ“自分たちの子供”ってだけで。

 

それに対して、俺が返すべき言葉は、

最初からこれだけでよかったんだ。

 

無償に返す、なんて変な話かもだけど。

感謝は言える。言葉にできる。

 

その瞬間、胸の奥で重く居座っていた何かが、静かに降りていった。

悲しみが消えたわけじゃない。

寂しさが無くなったわけでもない。

 

それでも。

 

感謝を口にできたことで、

俺はようやく、この別れを受け取れた気がした。

 

 

 

―――

 

 

 

墓を離れて、テントへ戻ることにした。

 

……なんだ、これ。

 

足は前に出ているはずなのに、

景色だけが少し遅れてついてくる。

音が遠い。輪郭が曖昧だ。

 

頭の中がふわふわする。

悲しみが抜けた反動なのか。

それとも――

 

一歩踏み出した瞬間、足元が揺れた。

地面が、ほんの少しだけ斜めになる。

 

 

「お兄ちゃん!」

 

 

呼ばれた声が、ワンテンポ遅れて届く。

次の瞬間、身体が傾き……

 

柔らかい腕に、受け止められた。

 

 

「……あ」

 

 

リーリャさんだ。

背中と腕をしっかり支えられて、

ようやく自分が倒れかけたことを理解する。

 

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 

リーリャさんは眉を寄せて、俺の顔を覗き込んだ。

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

「大丈……夫じゃないかもです」

 

 

そう言った瞬間、妙に安心してしまった。

 

リーリャさんが、そっと俺の額に手を当てる。

ひんやりとした感触が心地いい。

 

 

「……熱がありますね」

 

 

「徹夜続きだったそうだからな」

 

 

そう言いながら、ブレイズが俺をおんぶしてくれる。

 

 

「心が落ち着いた分、身体が遅れて限界を迎えただけだ」

 

 

俺はそのままテントに運ばれ、ベッドに寝かされる。

背中がベッドに触れた瞬間、身体が一気に重くなった。

鉛を詰められたみたいに、手足が言うことをきかない。

 

……ああ、だめだ。

 

頭が、熱を持った綿みたいになっている。

思考がまとまらない。

なのに、変なところだけは妙に冴えていて、

「このままじゃ寝落ちするな」とか、

どうでもいい判断だけが先に浮かぶ。

 

俺は重たい腕をどうにか動かし、胸に手を置いた。

自分で自分に解毒魔術をかけようとする。

 

 

「……えっと……」

 

 

……おかしい。

 

呪力を集めようとして、魔力が混じる。

いや、逆か?

そもそも、どっちがどっちだ。

 

頭の中で、線が絡まってほどけない。

普段なら無意識に分けている感覚が、今はごちゃごちゃだ。

 

……無理か。

 

そう思った時、俺の手がやさしく押さえられた。

 

 

「いけません。今は休むべきです。ご自分で治そうとしないでください」

 

 

「……すみ……せん」

 

 

「いいえ。これも……恩返しですから」

 

 

「俺とノコパラは、森に仕掛けた罠を回収してくる。あんなもの仕掛けっぱなしだと危険だからな」

 

 

ブレイズが短く言う。

ノコパラは、ちらりと俺を見てから、鼻で笑った。

 

 

「アイシャ。そのバカを頼んだぜ、ほっとくとまた働きそうだからな」

 

 

……違う、と言いたかった。

そんなことないって。

もう無理はしないって。

 

でも、その力がない。

舌が重くて、声にならない。

 

 

「まっかせて! ちゃんと見張っとくから!」

 

 

元気な返事が返だ。

……頼もしいな。

そう思った直後。

 

 

「あたっ!」

 

 

短い悲鳴。

アイシャがリーリャさんにチョップをされた。

 

 

「アイシャ。声が大きいですよ。少しは加減をしなさい」

 

 

「はーい……」

 

 

アイシャが声を潜めて返事をする頃には、

ブレイズとノコパラは、もう外に出ていた。

 

リーリャさんが、水を絞る音を立てる。

濡れ布が、ぎゅっと絞られる音。

それから、アイシャに渡される。

 

 

「ありがと、お母さん」

 

 

次の瞬間、額に冷たい感触が乗った。

 

 

「……気持ちいい?」

 

 

アイシャの声が近い。

 

俺は、ゆっくり頷く。

冷たさが、気持ちいい。

額から、ひんやりした感覚が滲み込んで、

頭の中で暴れていた熱が、少しだけ引いていく。

 

 

「ふふっ……おやすみなさい、お兄ちゃん」

 

 

アイシャの声は、驚くほど優しかった。

いつもの勢いも、冗談めいた明るさもない。

ただ、布をかけるみたいな静かな声。

 

 

「おやすみ」

 

 

返したつもりだった。

でも、それが声になっていたのか、

口の中で消えただけなのか、自分でも分からない。

 

まぶたが重い。

閉じようと意識しなくても、勝手に落ちていく。

 

俺は泥のように眠った。

 

 

 

―――アイシャ視点―――

 

 

 

お兄ちゃんのまぶたが落ちて、寝息が聞こえてきて、私は思わず口元を緩めた。

 

 

「寝ちゃった」

 

 

「ちゃんと寝かせてあげましょう。今はそれが一番でしょうから」

 

 

「うん。起きたら、また動こうとするもんね」

 

 

お兄ちゃんは、無理をしてるのに、それを無理だと思えない。

人の気持ちは、あんなに丁寧に考えるのに。

人が辛そうだったらすぐ気づくくせに。

自分のことになると、びっくりするくらい鈍い。

 

でも……それを責める気にはなれない。

 

私がこうやって、誰かのことを考えられるようになったのも。

無理をしてる人を、放っておけなくなったのも。

お兄ちゃんのせいだから。

 

視線を少し逸らして、ふと思い出す。

 

 

「あ、そうだ。お母さん、なんであんなにたくさん罠の作り方知ってたの?」

 

 

作戦の流れを考えたのは、たしかに私だった。

 

でも、森の中に仕掛けたたくさんの罠は、

お母さんが教えてくれたものばかりだ。

 

まあ、お兄ちゃんが想定よりも想定通りに動いてくれたおかげで、ほとんど使わなかったんだけど。

 

 

「メイドの嗜み、というやつです」

 

 

「ふーん」

 

 

私は、曖昧に相槌を打つ。

 

……絶対それだけじゃない。

でも、お母さん聞かれたくなさそうな顔してるなあ。

 

前の私なら、きっと遠慮なく聞いてたと思う。

でも、聞かないほうがいいこともあるって、今は分かる。

 

そういう気遣いができるようになったのも、

やっぱりお兄ちゃんのおかげなんだけど。

 

視線を戻すと、ベッドの上のお兄ちゃんが、

ちょっとだけ眉をひそめてた。

 

 

「あ……布がずれてる」

 

 

私はそっと手を伸ばして、おでこの布を直そうとした。

 

 

「ひゃー……熱いね、お兄ちゃん」

 

 

指先に伝わる熱に、思わず声が漏れた。

さっきよりちょっと上がってる気がする。

布を取り替えて、絞り直して、もう一度おでこの上にそっと置く。

 

お兄ちゃんのおでこ……

 

 

「カイン様が起きられたら、お粥を作りましょうか」

 

 

「う、うん。私も手伝うね」

 

 

「ええ。アイシャは、具を細かく刻んでください。喉を通りやすいようにお願いします」

 

 

「はーい」

 

 

「返事は短くです」

 

 

「はい」

 

 

私は短く返事をしてから、

もう一度お兄ちゃんを見る。

 

体から、うっすら汗が滲んでいた。

私は布でそっと拭いてあげる。

すると、お母さんが小さく笑った。

 

 

「どうしたの? お母さん」

 

 

「いえ、アイシャが熱を出した時のことを思い出していました」

 

 

「……それってもしかして、転移するちょっと前のこと?」

 

 

「ええ。カイン様はとても心配そうにアイシャを看病してくださいましたから、今とは逆ですね」

 

 

……お兄ちゃんが?

 

熱を出したことは、なんとなく覚えてる。

頭がぐらぐらして、体が動かなくて、

それなのに、何故か安心していた記憶がある。

 

でも、お兄ちゃんに看病された記憶はない。

 

 

「旦那様よりも手際が良かったので、私と奥様が感心したのを覚えています」

 

 

「私、その時のことあんまり覚えてないんだよね。お兄ちゃんが看病してくれたのなんて、初めて知ったもん」

 

 

「アイシャがまだ、三歳の頃のことですからね」

 

 

「む……熱のせいだから」

 

 

私の記憶力はいい方だと思う。

嫌だったことも、嬉しかったことも、

全部ちゃんと覚えてる。

それが、お兄ちゃんとの記憶ならなおさらだ。

 

だから、お兄ちゃんに看病された記憶がないのが、

ちょっとだけもどかしい。

 

そんなことを考えていると、

お母さんが口を開いた。

 

 

「そういえば、その時にカイン様から病人が安心する“おまじない”を教えていただいたのを思い出しました」

 

 

「おまじない……? なになに? どんなの?」

 

 

「それはですね、こうするのだそうです……」

 

 

お母さんは、少しだけ声を落として、

ベッドのそばに寄った。

そして、眠っているお兄ちゃんの手に、

自分の手をそっと重ねる。

 

 

「……」

 

 

「こうして手を握ると落ち着くそうです。あの時も、アイシャの手をカイン様が握った途端に呼吸が落ち着きましたから」

 

 

そうだったんだ……

 

私は、今度は自分の番だと、

反対側の手にそっと触れる。

ぎゅっと握らない。

逃げられる余地を残したまま、指を絡めるだけ。

 

 

「……あ」

 

 

ほんとだ。

ほんのちょっとだけど、

お兄ちゃんの顔が、少しだけ柔らいだ気がした。

眉が緩んで、口元がほんのわずかに下がる。

 

 

「これが、おまじない……」

 

 

思わず、小さく呟く。

私はそのまま、手を離さなかった。

 

すると、お母さんがくすっと軽く笑った。

 

 

「ねえ、お母さんって最近よく笑うよね」

 

 

昔はもっと張りつめてた気がする。

笑うことはあっても、

今みたいに、私を見て笑うことなんてほとんど無かった。

 

お母さんは、少しだけ間を置いてから答えた。

 

 

「それはですね……カイン様のおかげです」

 

 

「それって、お兄ちゃんがお母さんを助けたから?」

 

 

「ええ。それももちろんありますが、それだけではありません」

 

 

そう言って、お母さんは私の頭に手を置いた。

お兄ちゃんよりも、少し大きい大人の手。

お兄ちゃんとは、違う安心をくれる手。

 

 

「カイン様は、私がアイシャを“母親として”愛しているのだと、教えてくださいましたから」

 

 

私は急に恥ずかしくなって、目を伏せた。

頬が熱い。たぶん赤くなってる。

 

 

「……」

 

 

何も言えない。

 

しばらく、そのままの時間が流れてから、

お母さんは手を離した。

 

 

「私は解毒魔術を使える方を探してきます。アイシャは、カイン様をお願いします」

 

 

お母さんは、テントの入口へ向かいながら、

振り返ってそう言った。

 

私は、慌てて顔を上げる。

 

 

「うん、分かった」

 

 

お母さんはそれを聞いて、

小さく頷き、テントの外へ出ていく。

 

テントの中は、しーんとしてる。

 

私は、ゆっくり視線を下げて、

お兄ちゃんの方を見る。

 

ああ……そっか。

 

今さっきのお母さんとの会話も、

お兄ちゃんがいたから生まれたものなんだ。

 

お母さんが笑ったことも。

「母親として愛してる」なんて、少し照れ臭い言葉を口にしたことも。

それを私が聞けたことも。

全部、お兄ちゃんがここにいるから、起きた出来事なんだ。

 

そんなことを、今さら思う。

でも、思ってしまった以上、止められなかった。

 

もし、お兄ちゃんがいなかったら――

 

そんな「もし」を想像をしようとして、

私はすぐにやめた。

だって、うまく想像できない。

別の人生とか、違う道とか、

そういうものが思い浮かばないくらい、

私はもう、お兄ちゃんが中心でできあがっちゃってる。

 

私は、お兄ちゃんにもらったものが多すぎる。

 

算術とか、魔術とか、知識とか、

そういう分かりやすいものだけじゃない。

 

この世界は、私の考えだけで動いているわけじゃないって知れたこと。

私が失敗しても、簡単には見捨てられないって信じられるようになったのも。

自分で自分に「頑張った」って言っていいと、思えるようになったのも。

 

全部、全部。

お兄ちゃんのおかげだ。

 

そう思うと「返せるのかな」って、胸がきゅっとなる。

こんなにもらって、ちゃんと返せる日なんて来るのかな。

 

お兄ちゃんは、きっと何とも思ってない。

「勝手にやったことだ」って言うだろうし、

「気にしすぎだ」って、照れたあとに笑うんだと思う。

 

でも、私は気にする。

 

私は、もらったものはちゃんと同じぐらいにして返したい。

 

……って思うけど。

もらった分を、きっちり計算して返すなんて無理だって分かってる。

算術ならできるけど、気持ちは数字にできない。

 

そもそも、同じ形じゃ返せない。

知識を知識で返すとか、

支えを支えで返すとか、

そんな簡単な話じゃない。

 

返せるのかな。

 

返したいなあ。

 

そう思って、私はお兄ちゃんの手を握ったまま、

少しだけ力を込める。

 

……熱い。

 

熱のせいもきっとある。

でもそれだけじゃなくて、

お兄ちゃんの体温は、もともとちょっと高い。

私の手を引くときも、頭を撫でるときも、いつも少しだけあったかかった。

 

昔は、お兄ちゃんに撫でられると、

なんでか分からないけど、あったかくなって、

それを「体温が高いからかなー」って、

なんとなく思ってた。

 

体温の高い手で撫でられるから、

私もあったかくなるんだって。

 

そう……思ってた。

 

でも、今は違う。

その“あったかい”の理由が、

別のところにあるって、知ってしまった。

 

……気づかされちゃった。

って言った方が正しいと思う。

 

前は、曖昧で済んでた。

「家族みたい」って言えば、きれいに片付いた。

ずっと一緒にいたから、命の恩人だから。

理由を増やして、好きの形を分けて、どれも正解にしておけた。

笑って誤魔化して、撫でられたら満足して、抱きつきたい衝動も「甘え」で片づけられてた。

 

でも今は、もう無理になっちゃった。

 

きっかけは、あの時。

私の中の本音を、お兄ちゃんに見抜かれた時。

価値があるとかないとか、出来る子だとか出来ない子だとか、そういう採点を全部ひっくり返して、どんな私でも置いていかれないって教えてもらった日。

 

あの時の私は、失敗が怖かった。

相場を間違えて、高く買ってしまって、みんなに迷惑をかけた。

「ごめんなさい」を言っても、胸の奥の怖さが消えなくて。

本当は、もっと単純だったのに。

「見捨てないで」

言いたかったのは、ただこの一言だけだったのに。

 

でも、私はそんな自分の気持ちが分かってなかった。

怖い気持ちの正体が分からないまま、強がって、意地を張って、変に遠回りして。

お兄ちゃんに向かって、自分の気持ちをぐちゃぐちゃのまま投げつけてしまった。

自分でも分かるくらい、面倒な投げ方をした。

 

でも、お兄ちゃんは嫌な顔ひとつしなかった。

私のぐちゃぐちゃを、そっと拾い上げてくれた。

拾ってから、手のひらの上で一個ずつ確認するように、ほどいてくれた。

絡まって固くなってた糸を、無理に引きちぎらないで、指先でゆっくり、痛くないように優しく、本当に優しくほどいていった。

 

そして、ほどけたところから、私に戻してくれた。

私を見てるって言ってくれた。

価値がある時だけじゃなく、何もできない瞬間も含めて、見捨てないんだって教えてくれた。

 

その上で。

いつものように頭を撫でてくれた。

 

あの手のひらが、あったかくって。

あの指の動きが、心地よくって。

あの瞬間、心がふわって浮いた感じがした。

 

私は嬉しかった。

もう、言い訳できないくらい嬉しかった。

嬉しすぎて、息の仕方が一瞬分からなくなるくらい嬉しかった。

 

……でも、同時に怖くなった。

 

嬉しいって感じたぶんだけ、失くなるのが怖くなった。

この手が離れたらどうしようって、勝手に想像してしまった。

 

だから私は、意地悪をした。

自分でも嫌になるくらい、意地悪な確認。

 

『私ってめんどくさいよね?』

 

どうしても、確かめたくって聞いた。

お兄ちゃんを試すみたいに、言ってしまった。

最低だって分かってる。

でも、答えがほしかった。

 

あの手で撫でられながら、答えをもらえたら。

根拠なんかなくても、心の底から「大丈夫」って思えるから。

安心できるから。

 

そしてお兄ちゃんは――

 

『どんなに沢山の面倒くさいでも、アイシャを大事にしたいって気持ちには勝てないよ』

 

そう、言ってくれた。

 

私の悪いところを、消さないで。

「面倒くさくないよ」って軽く済ませないで。

「そんなことない」って否定しないで。

 

ちゃんと“ある”って認めたうえで。

それでも、手を離さないって、大事にしたいって言ってくれた。

 

あの時だ。

あの時に、曖昧なまま隠しておけたものが、隠せなくなってしまった。

「家族みたいな人」で済ませたくても、済まなくなった。

「命の恩人」で逃げようとしても、逃げ道がなくなった。

 

好きの形を分けたら、楽になれると思ってた。

好きの形を変えたら、安心できると思ってた。

でも、もう無理だった。

 

胸の奥が、むずむずして。

顔が熱くなって。

意味もなく胸がうるさくなる。

鼓動が、耳の内側を叩いて、息まで急かしてくる。

 

この感じに、ちゃんと名前があるって知ってしまったから。

 

 

「うぅ……」

 

 

恥ずかしい。

とっても恥ずかしい。

 

私は、そっとお兄ちゃんの手を離した。

 

今は看病中だし、お兄ちゃんは熱で朦朧としてるし。

さっきみたいに、変なことは考えちゃだめ。

 

布を取り替えたり、汗を拭いたり、

ちゃんと、やるべきことをやらないと。

 

そうやって自分を忙しくして、胸の中のうるささから目を逸らそうとした、その瞬間。

 

 

「わっ……」

 

 

手を、ぎゅっと掴まれた。

 

逃げられないほどじゃない。

痛くもない。

でも、離れる気を失くすには十分すぎる力だった。

 

 

「……アイ……シャ……」

 

 

名前を呼ばれた。

弱くて、かすれた声。

熱でふわふわした声。

いつもの頼れるお兄ちゃんの声じゃない。

 

名前を呼ばれただけで、胸が苦しくなる。

 

私は今すぐ暴れたい気分だった。

顔を隠して、布団に飛び込んで、足をジタバタさせたい。

この場から走って逃げたい。

 

でも、それはできない。

だって、今は看病中だし、

お兄ちゃんは熱でつらそうで、

 

……私の手を離したくなさそうだから。

 

私は、いっぱいいっぱいの気持ちを、ぜんぶまとめてため息に変えた。

胸の中で暴れてるものを、体から抜くみたいに。

そして、できるだけいつもの調子で言う。

 

明るく。

軽く。

ばれないように。

 

 

「はいはい、私はここにいるよ……逃げないってば」

 

 

自分でも、びっくりするくらい優しい声になった。

優しい声にしたつもりじゃないのに、勝手に優しくなる。

 

今度は自分から、そっと握り返す。

指を絡めて、私が逃げないと分かるように。

 

すると、ぎゅっとしていた力が、少しだけ緩んだ。

呼吸がゆっくりになる。

胸の上下が落ち着いていく。

 

……あ。

 

今、私が。

私がお兄ちゃんを安心させたんだ。

 

そう思った瞬間、

胸の奥が、またあったかくなった。

 

すごく、すっごく嬉しい。

 

心が満たされていくのが分かる。

お腹がいっぱいになる感じじゃない。

胸の内側が、じんわりあったかくなる感じ。

 

……また、もらっちゃったなあ。

 

もらうつもりなんてなかったのに。

返す番だって思ってたのに。

看病して、支えて、分け合って、ようやく少し返せたって思ったのに。

また私の方が満たされていく。

 

 

「あーあ……」

 

 

私は、眠っているお兄ちゃんを見下ろして、小さく笑った。

 

 

「また返さないといけないものが、増えちゃったじゃん」

 

 

握った手を、もう片方の手で確かめるように包みこむ。

指先に残る熱が、まだ胸をうるさくする。

だけど、今はそのうるささが少しだけ心地よかった。

 

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