受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

67 / 85
六十六話

 

難民キャンプに転移者の情報を伝えた俺たちは、

いったんミリシオンへ戻ることになっている。

今度の移動は行きとは違う。

寄り道も、確認も、立ち止まる理由もない。

行きはどうしても慎重にならざるを得なかった。

情報の精度、現地の状況

判断材料が足りないまま進むのは、

無駄に危険を背負う行為だ。

だから速度よりも確実性を優先した。

まあ、それでもかなり早い移動だったが。

 

だが、帰りは違う。

目的はひとつ――ミリシオンへ戻ること。

 

移動経路はすでに把握している。

危険区域も、回避すべき時間帯も分かっている。

道中で集める情報も、今は必要ない。

つまり、移動効率だけを考えればいい。

 

結果として、想像していたよりも早くミリシオンへ戻れそうだった。

 

 

 

―――

 

 

 

――け。『伏魔御廚子』」

 

き、決まった……

カッコ良すぎる。

やはり詠唱はいいな。

中二病感があれば、なお良しだ。

 

俺は今、ウィシル領にある町の宿で、

一晩丸ごと使って詠唱を考えていた。

 

深夜テンションのせいというか、

おかげというか。

正直、自分でも驚くくらい、

しっくり来るものができた気がする。

 

人は眠らないと、

だいたいロクなことを考えない。

 

変な結論に飛びついたり、

無意味に哲学的になったり、

急に過去を思い出して悶えたり。

 

だが、たまに。

本当にたまにだが。

 

奇跡的に、

「すごくロクなもの」も生まれる。

 

……今回は、後者だと信じたい。

 

自信はある。

少なくとも、今の俺はそう思っている。

 

俺は椅子に深く腰をかけ直し、

天井を仰ぐ。

 

朝だ。

 

薄くカーテン越しに差し込む光が、

部屋の埃をぼんやり照らしている。

 

この部屋には、今俺しかいない。

いつもならアイシャと、

たまにリーリャさんがいるのだが、

今日は少し変則的な部屋割りだ。

 

ノコパラ、ブレイズ。

アイシャ、リーリャさん。

そして、俺。

 

たまにある、部屋割りだ。

 

俺は机に向かったまま、

一枚の紙を眺めていた。

 

コン、コン。

 

部屋がノックされる。

 

 

「お兄ちゃーん? 起きてるー?」

 

 

「ん……アイシャか。ああ、起きてるぞ」

 

 

正確には、起きているというより、

起きっぱなしなだけだが。

 

ドアが開いて、

アイシャがひょこっと顔を出す。

 

 

「おはよ、お兄ちゃん」

 

 

「おはよう、アイシャ」

 

 

そう返してから、

違和感に気づく。

 

朝のアイシャにしては、

髪型がちゃんとしている。

寝癖がない、服装もきっちりとしている。

 

いつもなら、半分寝ぼけたまま、

髪も跳ねて、「後で直す!」とか言っているはずだ。

 

リーリャさんにやってもらったのかな?

 

そんなことを考えていると、

アイシャの視線が、机の上に向いた。

近づいて、一枚の紙を指差す。

 

 

「なにこれ?」

 

 

……しまった。

 

詠唱を書いた紙だ。

 

見られてしまった。

別に隠しているわけでもないし、

見られて困るものでもない。

困るわけではないが……

 

恥ずかしい。

すごく恥ずかしい。

 

どれだけ自分で

「かっこいい」と思っていても、

誰かに見られると話は別だ。

 

そもそもこの詠唱は、

誰にも聞かれない前提で作っているのだ。

 

アイシャは紙を手に取って、

しげしげと眺める。

 

 

「んー……なんて書いてあるの?」

 

 

アイシャが首を傾げる。

 

……あ。

 

そうか。

完全に自分用だから、

日本語で書いたんだった。

 

 

「自作の詠唱だよ。俺が前いた世界の言語で書いたものだ」

 

 

そう言うと、

アイシャの目が、きらっと光った。

 

嫌な予感がする。

 

 

「じゃあさ! 音読して!」

 

 

「んー……」

 

 

思わず唸る。

時間稼ぎにもならないのは分かっているが、

口が勝手にそう動いた。

 

 

「いやだった?」

 

 

「そうじゃない。ただ……恥ずかしいだけだ」

 

 

正直に言う。

 

するとアイシャは、

「あー」と何かに納得したように頷いて、

次の瞬間、当然のように俺の膝に乗ってきた。

 

 

「……おい」

 

 

「だって、こうした方が逃げられないでしょ?」

 

 

「言っとくけど、前の世界の言語だからな。アイシャが聞いても、意味は分からないと思うぞ?」

 

 

「うん、知ってる!」

 

 

「……じゃあ、なんで聞きたいんだ」

 

 

至極まっとうな疑問だと思う。

 

アイシャは、

膝の上で少し身体を揺らしながら、

にぱっと笑った。

 

 

「まーまー、いいから、いいから」

 

 

説明する気はないらしい。

 

まあいいか。

聞いたところで音以上の情報はない。

そう、自分に言い聞かせる。

 

 

「こほん……」

 

 

喉を整える。

腹に力を入れる。

独りで使うつもりだった詠唱を、

誰かの前で口にするのは、

やっぱり少しだけ勝手が違う。

 

 

「幾重に――

 

 

 

―――

 

 

 

――け。『伏魔御廚子』」

 

 

最後の一音を吐き切って、

俺は、恐る恐るアイシャの顔を見る。

 

 

「……どうだ?」

 

 

「すっごく良かった!」

 

 

「ホントか!」

 

 

「うん!」

 

 

即答だった。

迷いも間もなく、勢いだけで返ってきたその一言に、俺は一瞬で肩の力が抜ける。

 

……よかった。

少なくとも、変ではなかったらしい。

 

 

「ちなみに、どの辺が良かったんだ?」

 

 

アイシャは、わざとらしく顎に指を当てて考える仕草をしてから

にやり、と笑った。

 

 

「お兄ちゃんの恥ずかしそうな顔かな~」

 

 

「……もしかしなくても、最初からそれが目的だったな?」

 

 

「えー? なんのことかな~?」

 

 

目を泳がせながら、

わざとらしく口笛まで吹こうとする。

これは確信犯だな。

 

俺はアイシャの頭に、

こつん、と軽くチョップを落とした。

 

 

「痛ったー!」

 

 

アイシャは頭を押さえて、

大げさに身を縮める。

 

 

「チョップはひどくない!?」

 

 

「今のは完全に自業自得だ」

 

 

「えー、だって本当に良かったんだもん」

 

 

「……で」

 

 

俺は話題を切り替える。

 

 

「なんでこんな朝っぱらから、俺のところに来たんだ?」

 

 

詠唱を聞きに来ただけ、

という線も否定できないが、

さすがにそれだけとは思えない。

 

 

「あ」

 

 

アイシャは一瞬だけ固まってから、

はっとした顔をする。

 

 

「忘れてた」

 

 

そう言って、

アイシャは俺の膝から、ぴょんと軽やかに降りて、正面に立った。

 

姿勢を正して、

こほん、と一つ咳払いをする。

 

 

「お兄ちゃん」

 

 

「なんだ?」

 

 

「私と……お出かけしてください」

 

 

……。

 

 

「あー……何か欲しいものでもあるのか?」

 

 

言った瞬間に気づく。

 

まただ。

また、裏を探ろうとしている。

 

理由があるはずだ。

目的があるはずだ。

そうじゃないと納得できない。

 

アイシャは、一瞬きょとんとして、

それから、むっと頬を膨らませた。

 

 

「ちがうもん」

 

 

「じゃあ、なんだ?」

 

 

「……理由がないと、ダメ?」

 

 

少しだけ、間が空いた。

 

胸の奥でいつも引っかかるはずの“癖”が、

なぜか今回は、すっと流れた。

 

 

「いや、ダメじゃない。いいぞ。お出かけをしようか」

 

 

その瞬間、

アイシャの顔がぱっと明るくなる。

 

さっきまでのむっとした表情が、

嘘みたいに消えた。

 

 

「ほんと!?」

 

 

「ああ、ほんとだ」

 

 

「やたっ!」

 

 

くるっとその場で一回転して、

両手を小さく上げて喜ぶ。

 

分かりやすすぎる反応だ。

見ているこっちが、少しだけ気恥ずかしくなる。

 

 

「ちょっと待ってて!」

 

 

そう言い残して、

アイシャは勢いよく踵を返す。

 

 

「準備してくる!」

 

 

ばたばたと足音を立てて、

ドアを開け――

 

 

「宿の前で集合ね!」

 

 

そう念押ししてから、

アイシャは部屋を飛び出していった。

 

ばたん、と扉が閉まり、

足音が、廊下の向こうへ遠ざかる。

 

……嵐が過ぎたみたいだな。

 

静かになった部屋で、

俺は小さく息を吐いた。

 

さて。

 

 

「俺も支度をするか」

 

 

 

―――

 

 

 

宿の前で、俺は一人待っていた。

 

朝の空気は、まだ少しだけ冷たい。

吸い込むと肺の奥まで澄んだ感覚が広がって、

頭がしゃきっとする。

眠気は一切ない。

 

それもそのはずで、

さっき脳の視交叉上核あたりを呪力で一度だけ壊して、直後に反転術式で完全修復したばかりだからだ。

 

倫理的にどうなんだ、と聞かれたら、

俺も首を傾げるしかない。

 

だが眠気は消える。

人間の体って案外雑にできてると思う。

 

……いや、壊せるものを壊していい道理はないんだが。

 

そんな反省を半分ほど流しつつ、

俺は宿の前を行き交う人々を、ぼんやりと眺めていた。

 

商人らしい男が荷車を押して通り過ぎ、

鎧姿の冒険者が二人、何か言い争いながら角を曲がっていく。

パン屋の前では、焼きたての匂いに釣られて子どもが立ち止まり、それを母親が軽く叱りながら引っ張っていく。

 

こういう何でもない時間を、

前は「意味がない」と切り捨てていた気がする。

今は、ただ見ているだけでも悪くないと思える。

 

……いや、今でも油断すると、

意味とか考え始めるけど。

 

人はそう簡単には変われない、ってことだ。

 

ため息をつきそうになった、その時。

 

 

「お兄ちゃーん!」

 

 

聞き慣れた声が、朝の空気に響いた。

 

顔を上げると、宿の入口からアイシャが出てくるところだった。

小走りで近づいてきて、俺の前でぴたっと止まる。

 

 

「待った?」

 

 

「いや、今来たところだ」

 

 

嘘ではない。

少し長く立っていた気もするが、誤差だ。

アイシャは俺の前でくるっと一回転してみせる。

 

 

「どう? ちゃんとしてる?」

 

 

服装も、髪も、きちんと整っている。

いつもの元気さに、

ほんの少しだけお出かけ感が足されている感じだ。

 

俺は一瞬だけ全体を眺めてから、頷いた。

 

 

「うん、問題ない。ちゃんとしてるぞ」

 

 

「えへへ」

 

 

「で、お出かけって、どこに行くんだ?」

 

 

「んー……どこ行こっか?」

 

 

「なんだ、決めてなかったのか」

 

 

「うん! お兄ちゃんとなら、どこでもいいもん」

 

 

俺は思わず苦笑して、

小さくため息をついた。

 

 

「はいはい」

 

 

そう言って、アイシャの頭に手を伸ばす。

 

軽く撫でるつもりだったのに、

その手を、ぱしっと掴まれた。

 

 

「じゃあ、しゅっぱーつ!」

 

 

有無を言わせない宣言。

そのまま、俺の手を引いて歩き出す。

 

 

「ちょっ……」

 

 

そう声を上げたものの、

俺は抵抗せずにそのままついていく。

 

理由も目的地も決まっていない。

それでも、不思議と不安はなかった。

 

……まあ、何とかなるだろう。

 

そう根拠もないのに結論をつけて、

俺はアイシャと並んで朝の町へ歩き出した。

 

 

 

―――

 

 

 

アイシャは、どこか明確な目的地へ向かっている様子はなかった。

名所でもなければ、有名な店でもない。

地図に印がつくような場所でもない。

 

ただの道。

ただの街。

 

それでも、アイシャは楽しそうだった。

 

理由は分からない。

だが、楽しそうだということだけは、はっきり分かる。

 

歩き方が軽い。

視線が忙しい。

見るもの全てが面白そうに見えているのだろうか?

 

俺は、その隣を歩いているだけだ。

 

アイシャが足を止めると、

俺も止まる。

アイシャが少しだけ早足になると、

俺も自然と歩調を上げる。

 

合わせている、というより、

自然とそうなっている、という感覚に近い。

 

露店が並ぶ通りに差しかかると、

香辛料と焼き物と油の匂いが混じった、

少し雑多で、食欲を刺激する匂いが鼻をくすぐる。

 

 

「いいにおい……」

 

 

「食べたいのか?」

 

 

「今じゃない!」

 

 

即答だった。

 

 

「後で、もっといいのがある気がする」

 

 

「勘か?」

 

 

「うん!」

 

 

……その勘、当たるんだろうか。

 

そう思いながらも、

否定する気にはならなかった。

 

根拠のない勘に従って、

結果がどうなろうと、

それを「無駄」とは呼ばない気がしたからだ。

 

少し歩いて道端で丸くなっている猫を見つけると、

今度はそっちに吸い寄せられる。

 

 

「わーっ! にゃんにゃんだ!」

 

 

「にゃ、にゃんにゃん……」

 

 

「お兄ちゃん、見て見て! にゃんにゃんだよ!」

 

 

アイシャが俺の袖をぐいぐい引っ張って、猫の方を指差しながらにぱっと笑う。

指先は猫のほうに向いているのに、顔は俺を見上げていている。

 

 

「あ、ああ……にゃんにゃんだな」

 

 

「にゃんにゃん触ってもいいかにゃ……あっ」

 

 

言い終えた直後に、アイシャが自分の口を両手で押さえた。

頬がすっと赤くなって、目が泳ぐ。

 

……にゃんにゃん言い過ぎて、語尾にまでにゃんが付いたな。

俺の口角が勝手に上がりそうになった。

でも、ここで笑ったらアイシャは絶対に「今のは違うもん!」とか言い出して、最終的に俺のすねを蹴ってくる。

 

だから俺は唇を軽く噛んで、上がりかけた口角を抑えた。

 

 

「……嫌がられたら、やめとくんだぞ?」

 

 

「う、うん……っ」

 

 

アイシャは赤い顔のまま、こくこくと小さく頷いた。

 

そのまましゃがみ込んで、地面にスカートの裾が触れることも気にせず、そーっと手を伸ばす。

 

それに対して猫は目を開けもしない。

それどころか「邪魔するな」と言わんばかりに、

尻尾を一度だけ、ぴしりと揺らした。

 

それを見て、アイシャが小さく笑う。

 

 

「あはっ、怒られちゃったね」

 

 

「だな」

 

 

アイシャは満足そうに立ち上がる。

 

触れなかったのに満足らしい。

触ること自体が目的じゃないのか。

 

よく分からないが、

俺の口元も自然と緩んでいた。

 

そういえば、俺が生前飼ってた猫はどうなったんだろうか……

俺が死んだせいで、残されちゃっただろうから心配だ。

 

そんなことを考えながら市場に出ると、人の流れが一気に増えた。

行き交う声、笑い声、呼び込みの声。

活気がある、という言葉がそのまま形になったような場所だ。

 

 

「お兄ちゃん、これ!」

 

 

布屋の前で立ち止まり、

色鮮やかな布を指差す。

 

 

「どう思う?」

 

 

「……布だな」

 

 

「もう!」

 

 

アイシャは不満そうに頬を膨らませて、

別の布を引っ張り出す。

 

 

「じゃあ、これは?」

 

 

「さっきより派手だな」

 

 

「ふーん」

 

 

納得したのかしていないのか分からない反応。

結局、何も買わずに店を離れる。

 

屋台を冷やかして、

特に欲しいものもないのに値段を聞いて、

「高いな」「まあまあじゃない?」なんて話をして。

 

壁に描かれた落書きを見つけて、

「これ何の絵だと思う?」と真剣に考える。

 

 

「……ドラゴン?」

 

 

「えー? 犬じゃない?」

 

 

「どんな犬だよ」

 

 

角度を変えて見て、

少し離れて見て、

それでも分からなくて笑う。

 

そんなことを繰り返しているうちに、

気づけば、空が少しずつ橙色に染まり始めていた。

 

朝の冷たさは消えて、

夕方特有の、少し疲れた空気が漂っている。

 

 

「……もう、夕方か」

 

 

俺がそう言うと、アイシャも空を見上げた。

 

 

「わっ、ほんとだ……帰ろっか!」

 

 

「ああ、そうだな」

 

 

歩き始めてから、

何時間経ったのかは分からない。

でも、不思議と疲れてはいなかった。

 

……いや、正確に言うなら、

体は多少疲れているはずだ。

ただ、それを「嫌だ」と思わない。

 

宿へ戻る道すがら、

アイシャがふと、こちらを見上げた。

 

 

「ね、今日さ、何したかって聞かれたら、なんて言う?」

 

 

「散歩じゃないのか?」

 

 

「んー……」

 

 

アイシャは腕を組んで、首をかしげる。

 

 

「まだまだダメか……」

 

 

「何の話だ?」

 

 

「んーん、こっちの話」

 

 

「?」

 

 

アイシャはそれ以上説明する気がないらしく、

俺の疑問符を置き去りにしたまま、

すたすたと足を進めた。

 

……まあ、いいか。

 

理由を聞かなかったからといって、

何か困るわけでもない。

そうやって納得しようとするのは、

たぶん俺の“いつもの癖”だ。

 

分からないことがあると、

つい理由や背景を整理したくなる。

理解できないまま放置するのが、

どうにも落ち着かない。

 

でも今日は、

その癖を無理に働かせる必要もない気がした。

 

アイシャの歩き方が、やけに軽い。

鼻歌とまではいかないが、

つま先に少しだけ弾みがあって、

歩くリズムが楽しそうだ。

 

時折、こちらを振り返っては、何か言いたげに口を開き、結局何も言わずに、にぱっと笑って前を向く。

 

……さっきから、こういうのが多いな。

 

言いかけて、言わない。

説明できるはずなのに、あえてしない。

それが気にならない自分に、少しだけ違和感を覚える。

 

宿の建物が見えてきた。

朝に出たときと同じ場所。

 

 

「あーあ、もう着いちゃうね」

 

 

アイシャがそう言って、

少しだけ速度を落とした。

 

 

「結構歩いたな」

 

 

「うん。でも楽しかった!」

 

 

「俺もだ」

 

 

そんな会話をしながら、

俺たちはそのまま宿に入った。

 

階段を上りながら、

俺は何となく、今日一日を頭の中でなぞっていた。

 

自分の部屋の前に立つ。

 

扉も、廊下も、何も変わった様子はない。

俺は扉に手をかける。

 

その横で、アイシャが立ち止まった。

 

 

「アイシャは部屋に戻らないのか? 俺は部屋に戻るけど?」

 

 

「うん、そうして」

 

 

「?」

 

 

ほんの一瞬、引っかかるものはあった。

言い回しが微妙におかしい。

が……まあ、いいか。

俺は扉を開けた。

 

――その瞬間。

 

視界いっぱいに、色が飛び込んできた。

 

 

「……?」

 

 

一瞬、部屋を間違えたかと思った。

だが、間違いなく俺の部屋だ。

 

壁際には簡単な飾りつけ。

布で作られた、素朴だが手間のかかった装飾。

机の上には、明らかに“いつもより豪華”な料理。

 

……なんだ、これ。

 

頭が追いつく前に、声がした。

 

 

「おー、やっと帰ってきたか」

 

 

ノコパラが腕を組んでニヤニヤしている。

その隣で、ブレイズが肩をすくめて笑っていた。

少し離れたところには、リーリャさんが、

穏やかに微笑みながら、軽く頭を下げている。

 

状況が、理解できない。

 

 

「……なんで俺の部屋にいるんだ?」

 

 

「なんでって、お前そろそろ十五になるだろ?」

 

 

「?…………あ。誕生日か」

 

 

「そういうことだ。これでお前も大人の仲間入りだな」

 

 

「いや、まだ厳密には十四歳だけど……」

 

 

「んな細かいことはいいんだよ」

 

 

「お誕生日おめでとうございます」

 

 

リーリャさんが、丁寧な口調で言う。

 

そして。

 

 

「お兄ちゃん、お誕生日おめでとー!!」

 

 

背後から、少し大きな声。

 

振り返ると、

さっきまで廊下にいたはずのアイシャが、

いつの間にか部屋の中にいて、

満面の笑みを浮かべていた。

 

 

「……ありがとう?」

 

 

「? 嬉しくねぇのかよ」

 

 

「いや、嬉しくないわけじゃなくてだな……」

 

 

言いかけて、言葉に詰まる。

こういう時の俺は説明が下手だ。

頭の中では整理できているのに、

それをそのまま口に出すのが、どうにも苦手で。

 

その間に、リーリャさんが口を開いた。

 

 

「宿の方にも、事前にきちんと許可をいただいております。飾り付けとお料理も、規模を抑えたものですので、他のお客様のご迷惑にはならないかと」

 

 

……そっちか。

 

いや、確かに気になる点ではあったが、

だが、今の俺の混乱の原因はそこじゃない。

 

 

「いえ、そうじゃなくてですね……」

 

 

現実感がない。

 

まるで、誰かの物語を横から覗いているような感覚。

自分が主役だという実感だけが、すぽっと抜け落ちている。

 

そんな俺の逡巡をぶった切るように、

横から元気な声が飛んできた。

 

 

「ビックリしたってことでしょ!」

 

 

勢いのある声。

迷いのない断定。

 

ビックリ、か。

 

そう言われてみれば、

確かにそれが一番近い表現かもしれない。

 

予想していなかった。

油断していた。

完全に、虚を突かれた。

 

 

「そうだな、すごくビックリしたな」

 

 

俺がそう答えると、

アイシャは満足そうに、ぱんっと小さく手を叩いた。

 

 

「じゃあ、サプライズは成功だね!」

 

 

「ほら、立ってないで座れよ」

 

 

今度はノコパラが顎で椅子を示す。

 

部屋の中央。

一番いい位置に置かれた椅子。

 

 

「別にどこでもいいんだが……」

 

 

「だーめ。今日はそういう日なの!」

 

 

「分かった、分かった」

 

 

俺は素直に、

言われた通りその椅子に腰を下ろした。

 

座った瞬間、

視線が一斉にこちらに集まる。

 

……思ったより落ち着かないな。

 

祝うのはいい。

準備するのも嫌いじゃない。

誰かのために動くのは、むしろ得意な方だと思っている。

 

だが、自分が真ん中に据えられると、

急に勝手が分からなくなる。

 

正解が分からない。

分からないまま、とりあえず背筋を伸ばす。

 

……無駄に姿勢だけは良くなったな。

 

 

「カイン様」

 

 

リーリャさんが、軽く一礼する。

 

 

「私からの贈り物ということで、ささやかではございますが、料理をご用意いたしました」

 

 

そう前置きしてから、

料理についての説明を始める。

 

皿に盛られた料理は、

見た目こそ派手ではないが、

湯気と一緒に立ち上る香りだけで、

手間がかかっているのが分かる。

 

 

「特別な料理ではございませんが、栄養と食べやすさを意識して作りました。徹夜明けと伺いましたので」

 

 

バレてたのか……

 

いや、隠していたつもりはなかったが、

改めて言われると、少しだけ気恥ずかしい。

 

 

「ありがとうございます」

 

 

そう言って頭を下げると、

リーリャさんは「どういたしまして」と柔らかく微笑んだ。

 

この人の微笑みは、不思議だ。

押しつけがましくないのに、

ちゃんと「気にかけていますよ」という意思が伝わってくる。

 

 

「じゃ、冷めないうちに食べようぜ」

 

 

ノコパラの一声で、

皆が一斉に料理に手を伸ばす。

 

俺も箸を取って、

一番近くにあった皿から口に運んだ。

 

……うまい。

 

味が濃すぎない。

けれど、物足りなくもない。

噛むたびに、じわっと旨味が広がる。

 

胃に落ちていく感覚が、やけに優しい。

 

 

「どうですか?」

 

 

リーリャさんが、少し控えめに聞いてくる。

 

 

「とっても美味しいです!」

 

 

気づいたら、即答していた。

 

社交辞令じゃない。

本当に、そう思った。

 

 

「特に、この煮込み。味が優しくて、でも薄くなくて……体に染みる感じがします」

 

 

「そう言っていただけて、安心いたしました。味付けを抑えすぎると、かえって物足りなくなりますので」

 

 

「その辺のバランスが、すごくちょうどいいです」

 

 

「ええ……何度か調整いたしましたから」

 

 

料理について話している間、

俺の頭の中から、

「祝われている」という意識が、

少しずつ薄れていった。

 

 

「お兄ちゃん、これも食べてみて!」

 

 

アイシャが、自分の皿から一品を指差す。

 

 

「それ、アイシャのだろ? いいのか?」

 

 

「いいの! 分けてあげる!」

 

 

そう言って、俺の皿に少し移してくる。

 

……勝手だな。

 

だが、嫌な気はしない。

一口食べると、さっきとは少し違う味付けだった。

 

 

「……こっちは、ちょっと香辛料が効いてるな」

 

 

「でしょ! それも美味しいよね!」

 

 

「ああ、美味しいな」

 

 

そんな、どうでもいい会話を交わしながら、

料理は少しずつ減っていく。

 

気づけば、椅子に座ることへの居心地の悪さは、

ほとんど感じなくなっていた。

 

……あれだけ落ち着かなかったのに。

人間の感覚なんて、案外いい加減なものだ。

 

 

「……ごちそうさまでした」

 

 

最後の一口を食べ終えて、

俺が箸を置くと、それを合図にしたみたいに空気が変わった。

 

 

「んじゃ、腹も落ち着いたところで、次はプレゼントだな」

 

 

ノコパラの一言で、

俺は、無意識に背筋を伸ばしていた。

 

 

「何をそんなに構えてんだよ」

 

 

ノコパラが、少し呆れたように言いながら、

どこかから包みを取り出す。

 

 

「ほら。俺からだ」

 

 

差し出されたのは、革製の手袋だった。

 

 

「……手袋?」

 

 

「そうだ」

 

 

短い返事。

いつも通りの、ぶっきらぼうな口調。

 

受け取って、手に取る。

革は柔らかいが、芯がある。

使い込めば馴染みそうだ。

 

試しに片方だけはめてみると、

驚くほどしっくりきた。

 

 

「やけにぴったりなサイズだな……」

 

 

「当たり前だろ。サイズはアイシャに測らせたからな」

 

 

「……え?」

 

 

反射的に視線を向ける。

 

アイシャは、なぜか胸を張って、

にぱっと笑った。

 

 

「いつの間に……」

 

 

「ひ・み・つ!」

 

 

思い返してみると、

最近、やけに手を引かれたり、

指を握られたりすることが多かった気がする。

 

 

「無茶すんなとは言わねぇけどな、どうせ無茶するなら、せめて手くらいは守っとけ」

 

 

相変わらず、優しさをそのまま言葉にしない男だ。

 

 

「ありがとな、ノコパラ」

 

 

そう言うと、

ノコパラは「おう」と短く返して、

それ以上は何も言わなかった。

 

次に前へ出たのは、ブレイズだ。

 

 

「俺からは、これだ」

 

 

差し出されたのは、ベルト。

 

金具はシンプルだが、

革の厚みと縫製がしっかりしている。

剣の鞘を装着できるやつだ。

 

 

「今使ってるの、だいぶくたびれてただろ」

 

 

「……気づいてたのか」

 

 

「気づくさ」

 

 

短い言葉。

だが、ブレイズらしい。

 

 

「ありがとう。大事に使う」

 

 

ベルトを手に取ると、

ずしりとした重みが伝わる。

 

二人のプレゼントを受け取ったところで、

視線が自然と、隣へ向く。

 

言わなくても分かる。

アイシャの番だ。

 

……なのに。

 

さっきから、明らかに様子がおかしい。

 

椅子の上で小さく体を揺らしたり、

特に理由もなさそうなのに、指先をもじもじさせたり。

こちらと視線が合いそうになると、

わざとらしいくらい、すっと逸らす。

 

どうしたんだろうか?

 

さっきまで、

「ひ・み・つ!」とか、

あんなに堂々としていたのに。

 

もしかして、さっきのお出かけがプレゼントだったのか?

 

俺が何も言わずに見ていると、

アイシャは一度だけ深呼吸して、

ぱっとこちらを向いた。

 

 

「お兄ちゃん!」

 

 

「ん?」

 

 

「腕、出して!」

 

 

……腕?

 

思わず、両腕を見下ろす。

 

 

「右か? 左か?」

 

 

「んー……こっち!」

 

 

「左か。了解」

 

 

言われた通り、左の袖を少し捲って、腕を出す。

 

その間も、アイシャと目が合わない。

視線は、俺の腕の少し横を、ふらふらと彷徨っている。

 

……本当にどうした。

 

アイシャは小さく息を吸ってから、

ごそごそと懐を探り始めた。

 

取り出したのは、

木彫りの腕輪だった。

 

表面は丁寧に磨かれていて、角も丸い。

飾り気はほとんどないが、

雑に作られたものではないことは、一目で分かる。

 

……これは。

 

 

「……もしかして、アイシャが作ったのか?」

 

 

そう聞くと、

アイシャは一瞬だけ目を泳がせてから、

こくん、と小さく頷いた。

 

 

「えっとね! 持ってても邪魔にならなくて、それで、見たら……」

 

 

そこまで言って、

アイシャは、ぴたりと黙った。

 

 

「……見たら、何だ?」

 

 

優しく促すつもりで聞いたが、

逆効果だったらしい。

 

アイシャは、ぎゅっと腕輪を握りしめて、

首を横に振る。

 

 

「な、何でもない!」

 

 

……何でもない、は嘘だな。

 

俺は、心の中で小さく苦笑する。

 

どこかで覚えがある光景だ。

 

自作人形を、

誕生日プレゼントとして差し出してきた、

ルーデウスの顔と、よく似ている。

 

……やっぱり兄妹だな。

 

同じ血を引いていると、

こういうところも似るのか。

 

 

「ほら! つけるから動かないで!」

 

 

そう言って、

俺の左手首を片手で掴む。

 

アイシャは、

慎重に、慎重に、

腕輪を俺の手首に通す。

 

 

「……ちゃんと、邪魔にならない?」

 

 

「ならないな。むしろ付けてるのを忘れそうだ」

 

 

「それは……ダメ」

 

 

小さな声だった。

否定というより、修正に近い響き。

 

一瞬、意味が分からず首を傾げる。

だが、すぐに気づいた。

 

そうか。

そういうことか。

 

『それで、見たら……』

 

さっき、アイシャが途中まで言いかけて、

急に黙り込んだ言葉。

 

その続きを、

今になって、ようやく理解した。

 

『見たら私のことを思い出せるように』

 

そう言いたかったのかもしれない。

付けっぱなしでも気にならない。

でも、ふと目に入ったときに、

「アイシャが作った腕輪」だと思い出せる。

 

……なるほど。

確かに、それは「忘れそう」じゃ困る。

 

俺は左手首を軽く返して、

腕輪の感触を確かめた。

丁寧に丸められた縁。

削った痕を消すために、

何度も磨いたんだろうな、と分かる表面。

 

 

「ありがとな、アイシャ。大事にするよ」

 

 

そう言いながら、自然と手が伸びて、

アイシャの頭を撫でた。

 

ごまかすためじゃない。

慰めるためでもない。

ただ、今そうしたかっただけだ。

 

アイシャは一瞬だけ固まって、

それから、恐る恐る聞いてくる。

 

 

「……ほんと?」

 

 

「ああ。ちゃんと、見るたびに思い出すよ」

 

 

そう答えた瞬間、

アイシャの顔が、目に見えて驚きに変わった。

 

 

「え……?」

 

 

口が少し開いたまま、まばたきも忘れて、

俺の左手首と、俺の顔を交互に見る。

 

これは、俺の考察が当たってたってことでいいのかな?

 

アイシャは、

しばらく何も言わずに、

ただじっと俺を見ていた。

 

それから、ゆっくりと口元が緩んで――

 

 

「よかった!」

 

 

そう言って満足そうに、にぱっと笑い、

小さな八重歯がちらりと覗いた。

 

……うん。

やっぱり、合ってたらしい。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。