受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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六十七話

 

俺たちは今、馬車に揺られながら、

「赤竜の下顎」という山脈を通過しようとしている。

 

ここは以前俺たちが赤竜の群れに襲われたところだ。

あの時に、この山脈の赤竜はほぼ全て狩り尽くしてしまったと思っていたのだが。

この山脈には、まだまだ赤竜がうじゃうじゃといた。

本当にうじゃうじゃだ。

数匹どころじゃない。

視界に入る範囲だけでも、

常にどこかに赤い影が浮かんでいる。

 

本来ならこの赤竜は、

この道を通る限り、

地上のものには、ほとんど関心を示さない。

 

縄張り意識がどうとか、

魔力の流れがどうとか、

理由はいくつか聞いたが、

正直どれも信憑性は低い。

 

要は、

 

「赤竜の下顎を通ってる限り、竜は襲ってこない」

 

それだけ覚えておけば十分なはずだ。

だが、俺たちは赤竜の群れに襲われた。

あれは本当に意味が分からない。

 

空から首のない一匹の赤竜が突然降って来たかと思えば、他の赤竜がどんどんやってきて、その全てと戦う羽目になってしまった。

 

襲ってきた赤竜を全て狩り尽くした後の処理がだいぶ大変だったのを覚えている。

 

 

 

―――

 

 

 

赤竜の下顎。

 

山の端を削ったみたいな通り道だ。

片側は岩の壁がずっと続き、青白い石肌に霜と凍った筋が張りついている。

 

反対側は開けていて、天然の石柱が点々と立つ。

その隙間の向こうはすぐ崖で、白い靄が底を隠し、深さの感覚を消している。

 

そんな道を、馬車の揺れに身を任せている。

俺が崖の外の景色を眺めていると、ぞわりとした感覚が走った。

 

……殺気?

 

いや、殺気って何だよ。

自分で自分に突っ込む。

匂いみたいに漂うものじゃないし、視界の端で光ったわけでもない。

音でもない。触れたわけでもない。

 

理屈で説明できないのに、体のほうが先に答えを出す。

 

――今すぐ顔を上げろ。

 

俺は反射的に、馬車の前方へ視線を向ける。

 

見えた。

 

馬車の進行方向、少し先。

人影が二つ、重なっている。

片方が、片方に触れているように見えて、

次の瞬間、背中に冷たい汗が流れた。

 

触れてるんじゃない。

腕が胸に刺さっている?

 

 

「……は?」

 

 

声が、薄く漏れた。

自分の口から出たのかも曖昧なくらい、頼りない音だった。

理解が追いつく前に、馬車の中から声が飛ぶ。

 

 

「ルーデウス様!!」

 

 

リーリャさんの叫びだった。

 

丁寧語が崩れたわけじゃない。

言葉はいつも通りなのに、声の芯だけが異様に震えている。

そこに混じった焦りと恐怖が、説明より先に状況を確定させた。

 

……ルーデウス?

 

刺されている人物を、もう一度よく見る。

後ろ姿で顔ははっきりしない。

でも、リーリャさんがそう呼ぶなら、そうなんだろう。

 

というか、考えるより先に体が動いていた。

 

馬車を急停車させ『虎葬』を影に戻す。

揺れが止まった瞬間、世界が急に鮮明になった。

 

俺は飛び降りた。

 

地面に着地し、靴底から乾いた音が鳴る。

前方の男が腹に手を突き刺したまま刺した相手を横へずらし、こちらを向いた。

 

だが、俺の意識は男に向かなかった。

 

視界を占めたのは、ただ一つ。

胸を貫かれている子供。

細身で、茶色の髪色で、血に濡れた胸部。

 

ルーデウスだ。

 

貫かれているのは、

間違いなくルーデウスだった。

 

胸が完全に貫かれている。

服は裂け、赤黒い血が溢れ出し、地面に落ちていく。

血が落ちるたび、乾いた石に吸われていく。

 

……まずい。

 

思考が、異様なほど冷静だった。

これは致命傷だ。

臓器を避けている可能性は低い。

出血量が多すぎる。

 

……死んでるのか?

 

その言葉が喉元までせり上がって、唾ごと飲み込んだ。

言った瞬間に終わってしまう気がした。

 

否定しろ。確認しろ。生きていると証明しろ。

 

 

「ルーデウス!!」

 

 

叫んだ声は、思っていたより低く硬かった。

そして――動いた。

ルーデウスの指が、かすかに、

だが、確かに動いた。

 

……生きてる。

 

その事実が分かった瞬間、肺の奥が勝手に空気を欲しがる。

でも同時に理解する。

 

――このままでは死ぬ。

 

胸部は貫通。

出血量は致命的。

時間は味方じゃない。

 

治療と排除。どちらも必要だ。

迷っている暇はない。

 

俺は男へ向かって飛び出した。

 

常時纏っている闘気が、一段階、二段階と跳ね上がる。

それだけじゃ足りない。

闘気の上から呪力を全開で循環させる。

筋肉が硬くなる。骨が重くなる。

視界が少しだけ狭まり、世界が前に寄っていく。

 

『貫牛』の術式も上乗せする。

 

前にしか進めなくなってしまうが、

距離を稼ぐほど威力が上がる術式。

 

一直線。

男の中心へ、杭を打ち込むみたいに突っ込む。

 

視界が狭まる。

世界が、男一人に収束する。

耳鳴りみたいに、自分の心臓の音がうるさい。

 

突っ込むと同時に、別の式神を顕現させる。

 

 

「『蝦蟇』」

 

 

地面からぬるりと現れる影。

 

『貫牛』を纏えば回避ができない。

だから外側に回避手段を用意する。

攻撃が逸れたり、カウンターを受けた時に、

俺を回収して逃がすための保険だ。

 

男は俺の突進を見て――笑った。

 

そして、信じられない行動に出た。

ルーデウスを、俺の方に放り投げたのだ。

 

 

「チッ……蝦蟇!」

 

 

即座に命じる。

『蝦蟇』の舌が伸びる。

空中で放り投げられたルーデウスの体を正確に捉え、巻き付いて引き寄せる。

 

巻き付いた瞬間、ルーデウスの身体がぐらりと揺れ、血が弧を描いた。

それが視界の端で赤い線になって、焦りが喉を焼く。

 

俺は速度を一切落とさないまま、男へ向かって腕を振り抜いた。

 

 

「はぁぁぁっ!!」

 

 

今の俺は呪力に闘気。

さらに『貫牛』も乗っている。

当たれば骨も肉もまとめて持っていける。

そう確信できるだけの重さが拳にあった。

 

……だが、止まった。

 

片手だった。

本当に片手の掌で、俺の拳を受け止めた。

 

 

「む……」

 

 

男が、わずかに眉を動かす。

 

 

「受け流すつもりだったが、威力を見誤ったな」

 

 

まずい、と考えるより先に視界の端から男の足が消えた。

 

鈍い音とともに、腹に衝撃が突き刺さる。

 

内臓がまとめて揺さぶられて、胃がひっくり返る。

息が抜ける。肺が空になる。

吸おうとしても空気が入ってこない。

 

 

「……ッ、は……!」

 

 

身体がふわっと浮き、空中で一回転する。

地面に叩きつけられる直前、かろうじて受け身を取った。

でも衝撃は身体の奥まで残った。

腕が痺れ、視界の縁が白く滲む。

 

 

「意識を落とすつもりだったのだが。タフだな」

 

 

冗談じゃない。

 

腹の奥が焼けるように痛い。

呼吸がうまくできない。

骨も折れてる。

外側じゃなく、内側が確実にやられてる。

 

防御をすり抜けて、臓腑に直接触れられたみたいな感覚。

 

男は、黙ってこちらを見ていた。

追撃もしない。距離も詰めない。

ただ、観察している。

 

……余裕、か。

 

歯を食いしばり、反転術式を自分に回す。

呪力を反転させ、壊れた内側を一つずつ修復していく。

痛みが鈍くなり、呼吸が戻る。

 

 

「『蝦蟇』……来い」

 

 

命じると、蝦蟇がルーデウスごと近づいてくる。

男はそれすら止めない。

 

本当に、見ているだけだ。

 

ルーデウスの体が近くに来た瞬間、俺は膝をついて胸部を見る。

 

近くで見るとさらに酷い。

貫通している穴が、呼吸に合わせてかすかに動く。

血が止まりかけているように見えるのは、出る血が減っただけだ。

身体がもう出せるものを出し切りかけてる。

 

 

「頼むぞ」

 

 

誰にともなく呟いて、反転術式に集中する。

塞げ。最低限でいい。死なせるな。

 

 

「……がはッ」

 

 

ルーデウスの顔が歪む。

痛いんだろう。生きてる証拠だ。

 

それだけで胸が少し軽くなるのに、

状況は全くもって軽くならない。

 

視線を上げた。

 

……あの男を除けば、人影が三つもある。

 

ひとりはスキンヘッドの男。

見た感じ意識はない。

体格からして護衛だろう。

胸元に打撃痕。呼吸が浅い。

 

もうひとりは赤髪の女の子。

若い。子どもと言っていい。

こっちの人は意識はあるようだが、動けていない。

 

そして、最後の一人。

 

あの男の少し後ろ。

そこに、仮面の少女が立っていた。

 

男が、その少女に目配せをした。

ほんのわずか、顎を動かしただけ。

それだけで少女はすっと距離を取る。

命令に従ってるというよりも最初からそのつもりだったと言う動き。

 

一瞬、仮面の少女に『解』を当てようとも思った。

今なら背中が見えている。

狙いやすい。

一発入れたら、何か分かるかもしれない。

 

でも、やめた。

 

……あの少女から、呪力を感じた。

あれがヒトガミの言っていた、この世界に来たもう一人の日本人なのかもしれない。

今ここで雑に殺すことはできない。

 

……いや、違う。

優先順位だ。

今は目の前のこいつで手一杯だ。

 

俺は呼吸を一つ深くして、視線を目の前の男に戻す。

 

 

「あんたは誰なんだよ……『円鹿』」

 

 

問いを投げながら名を呼ぶ。

白い鹿が顕現し、倒れている二人に向かって駆けた。

 

俺が同時に抱えられる処理量には限界がある。

なら、式神に任せるしかない。

 

 

「オルステッドだ」

 

 

「オルステッドね、オディオって名前に改名したらどう……だッ!」

 

 

言葉の最後を踏み込みに変える。

剣を振り抜いた。

剣から放たれた、不可視の斬撃が空気を切り裂いて飛ぶ。

 

見えない一撃。

 

――そのはずだった。

 

オルステッドは動かない。避けない。

腕を上げただけだ。

 

次の瞬間、血が舞った。

 

 

「……まじかよ」

 

 

切れている。

腕に、確かに切り傷がある。

 

でも、それだけだ。

深くない。致命じゃない。

剣から放たれた『解』を直撃させて、これだけ?

 

 

「……なんなんだこいつ」

 

 

オルステッドは自分の腕に走る血を一瞥し、呟いた。

 

 

「凄まじい威力だな……俺の龍聖闘気に傷をつけるとは」

 

 

龍聖闘気。

闘気の種類か? だが、そんなものは聞いたことがない。

聞き慣れない単語が背筋を冷やす。

 

 

「だが、魔術ではないな……」

 

 

見抜かれた。

 

完全に格上。

脳が淡々とそう結論を出す。

感情は追いついていないのに、

理屈だけが先に積み上がっていく。

 

オルステッドは少しだけ思案するように視線を逸らし、言葉を放った。

 

 

「一応聞いておくか……貴様は『人神』という単語に聞き覚えはあるか?」

 

 

「!?」

 

 

胸の奥がひゅっと縮む。

 

なんでその名前を知ってる?

こいつはヒトガミの使いなのか?

ヒトガミに言われて俺たちを殺しに来たのか?

 

最悪だ。最悪すぎる。

 

答えたくない。

口を開きたくない。

でも沈黙の中で、俺の顔のどこかが反応したのかもしれない。

ほんの一瞬の動揺。

それだけで、こいつには十分だったらしい。

 

 

「その反応、当たりか……今日は運がいい。だが、使徒を全てこちらに向かわせるとは、どういうつもりだ?」

 

 

――使徒?

 

思考が追いつかない。

使徒だと?

こいつがヒトガミの使いなんじゃないのか?

なのに、俺たちが使徒?

 

混乱がそのまま言葉になって飛び出す。

 

 

「お前は……ヒトガミの使いなのか!!」

 

 

空気が変わった。

オルステッドの表情がはっきり歪む。

 

激情。

さっきまでの無表情とは違う。

 

 

「……俺が、あいつの使徒だと?」

 

 

怖い。後ずさりしそうになる。

だがこれで分かった。

こいつの怒りは演技じゃない。

本気で苛立っている。

 

 

「……もしかしてですが。俺たち、何か誤解をしてませんか?」

 

 

言ってみた。

状況的に、あまりにも無謀だと思いながら。

 

オルステッドはじっと俺を見る。

 

視線が鋭い。

だが、さっきまでの殺意とは違う。

聞く気はある。そう感じた。

 

 

「まずは、自己紹介でもしましょう。俺はカイン・アルネスと申します」

 

 

言葉にした瞬間、オルステッドの眉がわずかに寄る。

怪訝そうな顔。

 

……俺だって簡単に信じられるわけがない。

ほんの数分前まで、ルーデウスは胸を貫かれ、

血を流して倒れていた。

どんな理由があれ、その原因が目の前の男であることは動かない。

事実は重い。

 

それでも、敵だと断定するには言葉と態度にズレがある気がした。

 

 

「貴様……随分と礼儀正しくなったのだな」

 

 

「? 俺は生まれてこのかた、ずっと礼儀正しく生きてきたつもりですが……」

 

 

返しながら、頭の中で警報が鳴る。

 

なんだこいつ。

俺のことを知ってるのか?

ヒトガミから聞いた?

 

……いや、それにしては違和感がある。

まるで「昔は違った」と言いたげな含み。

 

そう感じた瞬間――

 

キンッ、と空気が鳴った。

 

俺の意思とは関係なく、黒い斬撃が走る。

 

次の瞬間、オルステッドの頬が裂けた。

赤い血がつうと滴る。

 

 

「……は? な、なんで勝手に術式が!?」

 

 

剣を振っていない。

呪力も込めていない。

術式に使った感覚すらない。

それなのに『解』が勝手に発動した。

 

ありえない。

 

オルステッドは頬の血を指先で拭い、低く言う。

 

 

「油断させて殺す算段だったか……だがその程度で、俺は死なんぞ」

 

 

次の瞬間、気配が跳ね上がる。

 

殺意。

 

今度は、はっきりこちらへ向けられる。

 

空気が重いなんて表現じゃ足りない。

皮膚の内側から押し潰される。

骨の隙間に冷たい圧が入り込む。

そんな錯覚に陥るほどの殺気。

 

……交渉決裂だな。

 

内心で舌打ちしながら、切り替える。

もういい。考えるのは後だ。

こいつは敵だと、勝手に結論付けよう。

少なくとも今この瞬間、こいつはルーデウスに明確な敵意を向けている。

それだけは確かなんだ。

 

守ること。

今はそれだけに思考を絞れ。

 

呪力の流れを一気に加速させる。

 

 

「『解』!!」

 

 

一発じゃない。

正面からでもない。

 

全方位だ。

 

間合いも角度も軌道も無視して、

逃げ場を潰すように不可視の斬撃を連射する。

前後左右、上下――密度で押し潰す。

 

足止めぐらいなら……

 

 

「……ッ!?」

 

 

オルステッドは、斬撃の雨の中を散歩でもするかのように歩いてくる。

最小限。無駄がない。

まるで最初から全部見えているかのように、

避け、弾き、叩き落としながら距離を詰めてくる。

 

いや、こいつには『解』の斬撃が見えているのだろう。

 

一定以上の強者には、不可視というアドバンテージがほとんど意味を持たないのか?

 

 

「いや……だとしてもだろ!」

 

 

歯を噛みしめる。

 

斬撃の数が違う。

常識的に捌ける量じゃない。

反応速度の問題じゃない。思考が追いつく前に身体が限界を迎える――はずだ。

 

なのに近づいてくる。

 

踏み込みが軽いのに、圧が重い。

距離が縮まるたび、心臓が嫌な跳ね方をする。

 

まずい。

まずい、まずい、まずい。

 

オルステッドはもう目の前だ。

 

俺は剣を振って迎撃しようとする。

その瞬間――視界が揺れた。

 

 

「……がはっ!」

 

 

息が抜ける。

 

オルステッドの手刀が俺の胸を貫いていた。

 

皮膚も骨も筋肉も、まるで無かったみたいに。

胸の奥に空洞ができる感覚。

心臓がどこにあるのか分からなくなる。

 

次の瞬間、視界が回転する。

投げられた。

地面に叩きつけられ、衝撃が遅れて全身を打つ。

 

……胸に穴が開いている。

 

反転術式を即座に回す。

血管をつなぎ、筋繊維を戻し、空洞を埋める。

治る。この程度なら治る。

 

 

「次だ」

 

 

淡々とオルステッドは言い放った。

 

その一言が頭を殴った。

 

次?

また俺か?

それともルーデウス?

 

胸の奥に残る鈍い痛みが判断を一瞬遅らせる。

反射的に視線を上げる。

 

オルステッドは、もう俺を見ていなかった。

狙いが変わった。

 

――馬車だ。

 

皆がいる場所。

ノコパラ、ブレイズ、リーリャさん。

そして……アイシャ。

 

 

「くそッ……くそくそくそ!!」

 

 

理解してしまった瞬間、

喉の奥から掠れた声が漏れる。

 

ノコパラは元ヒトガミの使い。

アイシャにはヒトガミの話をしてしまっている。

詳しくは話していなくても、知ってしまった事実がある。

 

ヒトガミという単語に反応したんだ!

 

オルステッドは、馬車に向かって走っている。

その背中があっという間に遠ざかっていく。

 

 

「待て!!」

 

 

喉が裂けるほど叫ぶ。

 

 

「相手は俺だ! 行くなら俺を倒してからにしろ!!」

 

 

オルステッドは振り返らない。

代わりに低い声だけが返ってくる。

 

 

「やはり、生きていたか……だが、先にあいつらだ」

 

 

終わる。

 

そんな予感が一気に現実味を帯びる。

仲間が死ぬ。ノコパラが。ブレイズが。リーリャさんが。

 

――アイシャが。

 

最悪の未来が、確定した映像のように頭の中に流れ込んでくる。

息が詰まり、心臓が早鐘を打ち、鼓動がうるさくて周囲の音が遠ざかる。

この距離、この速度差。間に合わない。

 

結論が泡みたいに浮かぶ、その瞬間――

 

 

「お兄ちゃん!!」

 

 

アイシャの声が切迫した形で飛んだ。

馬車は遠いのに、耳の奥に直接刺さってくる。

背中が凍り、次の瞬間には熱くなる。

 

オルステッドの手が動いた。

 

手刀。今度は迷いがない。

一直線。狙いがアイシャだと、見た瞬間に分かる。

 

 

「やめろォォ!!」

 

 

叫びながら、詠唱が先に口をついた。

理屈じゃない。反射だ。

 

 

「『龍鱗』!」

 

 

呪力が一気に集まり、血管の内側が熱くなる。

 

 

「『反発』!」

 

 

足元の砂利が震え、世界が一瞬だけ遠のく。

 

 

「『番の流星』!」

 

 

手刀はもう届く距離。

 

 

「『解』!!」

 

 

全力で腕を振り抜く。

空間が裂ける。

不可視の斬撃が、オルステッドの腕を薙いだ。

 

血が散った。

肉が裂ける音が遅れて届く。

 

同時に、小さな声が漏れた。

 

 

「……いっ」

 

 

アイシャの声。

悲鳴にも、叫びにもなりきらない。

息が零れたみたいな、細い音。

 

アイシャの姿はオルステッドに隠れて見えない。

 

――死んだ?

 

貫かれた?

 

時間が引き延ばされる。視界が狭くなる。

頭が真っ白になる。理屈が消える。

心臓が一回、あり得ないほど強く跳ねる。

 

 

「アイシャァァ!!」

 

 

叫びながら、俺は呪力を足元へ叩き込んだ。

 

圧縮。圧縮。圧縮。

限界まで溜めて――爆発させる。

 

地面が割れる。

衝撃が足首から脛、膝、腰へ突き上げ、

身体が矢のように前へ飛ぶ。

風が顔を叩く。

 

拳にだけ呪力を集中させる。

他は捨てる。防御は後回しだ。

『貫牛』を拳へ纏う。

 

 

「ぐちゃぐちゃにしてやる……ッ!」

 

 

そう吐き捨てるように言って、俺はオルステッドへ突っ込んだ。

腕を振るう。拳に重さを乗せる。

当たれば、骨でも肉でもまとめて潰せる――はずだった。

 

オルステッドは、

俺が今来た道へ滑るように移動して避ける。

 

 

「凄まじい腕力だが……」

 

 

落ち着いた声が、すれ違いざまに響く。

 

 

「当たらなければ、どうということもない」

 

 

拳が空を切る。

拳の通った軌道だけ空気が持っていかれ、豪風が生まれた。

馬車の布がばたつき、石ころが渦を巻く。

 

オルステッドが居なくなったことで、その先にいるアイシャの姿が映る。

 

その場で立ち尽くしているアイシャと目が合った。

目が合ったと言うことは……生きている?

……生きている! 生きていた!

 

その事実を嚙み締めたことで緊張が一瞬ほどけ――次の瞬間、熱が込み上げた。

 

頬に切り傷。

細い線が一本、赤く走っている。

血が一筋だけ垂れていた。

 

俺は歯を食いしばってオルステッドを睨む。

見ると、オルステッドの腕が千切れかけていた。

遅れて理解が追いつく。

俺の『解』が届いたから、手刀が逸れたってことか……

あれがなければ、今の傷じゃ済んでなかっただろう。

 

 

「お、お兄ちゃん……私」

 

 

「大丈夫だ」

 

 

短く言って、俺はアイシャの頭に手をそっと置く。

指先が髪を滑って、かすかに震えが伝わってくる。

そのまま反転術式を流す。

赤い線が薄れていく。

滴っている血を指で拭い取る。

 

――時間はない。

 

 

「……皆はあそこのルーデウスたちを回収して、逃げてくれ」

 

 

言った瞬間、アイシャの目が揺れた。

何か言いたげな顔。

拒否したいのが分かる。

 

だから一歩近づき、声を落とす。

 

 

「頼む……頼らせてくれ」

 

 

アイシャは唇を噛み、泣きそうになって、それでも泣かなかった。

背筋を伸ばし、小さく頷く。

 

 

「……分かった!」

 

 

「ありがとう」

 

 

俺はノコパラとブレイズを見る。

 

 

「俺があいつを引き付けてる間に、あの倒れてる三人を馬車に乗せてくれ」

 

 

言い切って、二人の反応を見る。

ブレイズは唇を引き結び、

迷いのないまま短くうなずいた。

ノコパラも同じだ。

普段なら減らず口の一つでも挟みそうなのに、

今は冗談を言う空気じゃないと分かっている。

 

 

「絶対にここに戻ってくるな、何があってもだ」

 

 

言ってしまってから、自分で胸の奥が痛んだ。

“戻るな”なんて言葉、縁起でもない。

でも、今は縁起より確率の話をしなきゃいけない。

俺がここで負ける確率は高い。

なら、逃がす。

優先順位を間違えてはいけない。

 

アイシャたちは走った。

『蝦蟇』が巻いているルーデウスへ。

『円鹿』が治療し終えている二人へ。

『蝦蟇』と『円鹿』を影に戻し『虎葬』を呼んで馬に変身させる。

 

すると、リーリャさんが馬車と『虎葬』を繋げる準備に取り掛かってくれた。

ありがたい。

 

俺はオルステッドへ視線を戻す。

 

千切れかけた腕はあっさり完治していた。

 

オルステッドは俺を見ている。

怒りでも焦りでもない、静かな視線。

俺が必死に足掻く様を観察している、虫を潰す前の目。

 

腹の底が冷たくなる。

 

 

「ブッ殺してやるッ!」

 

 

言葉にしないと手の震えが止まらない。

言葉にしても震えは止まらない。

それでも言う。

次に進むための合図として。

 

足元に圧縮した呪力を放出し、爆発させる。

地面が砕け散り、石が跳ね、視界が引き延ばされる。

反動で、俺の体は矢のように前へ投げ出される。

同時に『貫牛』を纏う。

 

距離が縮む。鼓動がうるさい。

それを無視して身体が前へ前へとせり出していく。

 

右腕を上から叩きつけるように振り下ろす。

拳を落とすというより、腕ごと杭にして打ち込むつもりで、全体重と呪力を乗せる。

 

 

「当たらなければ……」

 

 

オルステッドが淡々と言いかけた、その瞬間。

 

視界の端で光が走った。

いや、光じゃない。

動きが速すぎて、俺の脳が光に誤変換しただけだ。

 

右腕が斬られた。

 

手刀。

切断面がするりと開く。

嫌なほど滑らかな断面。

肘の少し下から、俺の右腕が飛んだ。

 

 

「もう一度言おうか?」

 

 

痛い。熱い。焼けるようだ。

骨の奥がむき出しになって、空気に触れている。

吹っ飛んだ腕が、地面を転がる音が聞こえる。

 

斬られた腕がそのまま下に空を切る。

 

遅れて、切断面から熱いものが噴き出す。

俺は反転術式を即座に右腕へ回す。

血管を繋ぎ、骨を組み、筋肉を巻き付け、皮膚を閉じる。

間に合え。間に合え。間に合え。

 

オルステッドが、わずかに眉を動かした。

 

 

「……手応えが、さっきよりないな」

 

 

当然だ。

呪力強化を拳に集中してるからな。

もう防御は捨てている。

殴られたら治す。斬られたら生やす。

そうやって前に出るしかない。

 

再生した右腕が、まだ熱を持っている。

痛みは残る。

残るが、痛みを気にしてる暇がない。

俺はそのまま剣の柄へ手をかける。

 

抜刀。

鞘が鳴り、刃が光り、空気が一瞬だけ冷たく張り詰める。

今の俺が出せる……

 

――最高速度で振り抜いてやる。

 

そう思って俺は剣を振るう。

だが、刃が伸びる軌道の先に、

まるで答えのように“手”が現れた。

 

……止められた。

 

また、手刀だ。

手刀が剣を受け、火花が散る。

金属同士が噛み合ったような音がして、手首に痺れが走る。

 

……なんで手刀で火花が散るんだよ。

皮膚だろ。肉だろ。おかしいだろ。

叫びそうになるのを噛み潰して、現実だけを飲み込む。

 

火花の向こうで、オルステッドが俺を見た。

その視線が、少しだけ深くなる。

 

 

「……抜刀での光の太刀。やはりカイン・アルネスで間違いないのか?」

 

 

言葉の意味を噛む暇はない。

俺は、剣に触れているオルステッドへ意識を叩きつける。

 

 

「『捌』!!」

 

 

斬撃が走る。

腕、肩、胸、首筋――血が滲む。

細い切り傷が一気に増え、オルステッドは血だらけになる。

 

手応えはある。

確かに当たっている。

 

……なのに、致命にならない。

 

硬い岩に刃を当てているみたいだ。

 

オルステッドは、後ろへ飛んで距離を取った。

俺の剣が届かない位置へ、余裕を持って下がる。

 

そして、今つけた傷がみるみるうちに塞がっていく。

血が引いて、皮膚が閉じて、まるで最初から何もなかったみたいに戻っていく。

 

嫌になる……

 

横目で馬車の方を確認する。

ノコパラがスキンヘッドの男を抱え、ブレイズがルーデウスと赤髪の女の子を担ぎ上げ、馬車へ飛び乗るのが見える。

 

 

「『虎葬』……行け!」

 

 

砂利が跳ね、車輪が悲鳴を上げるように回り始め、

馬車がぐっと加速する。

 

その瞬間、アイシャと目が合った。

この距離でも分かるくらい不安そうな顔だ。

胸の前で拳を握って、口を開く。

 

 

「お兄ちゃん! 頑張れ!!」

 

 

アイシャの声が風に千切れながらも届く。

喉が熱くなる。

返事をしたら声、が震えそうだった。

 

震えた声をアイシャに聞かせたくなくて、俺は返事の代わりに左腕を突き上げた。

 

その動きで、左手首の木彫りの腕輪が視界に入る。

 

もらった時は「付けてるのを忘れそうだ」

なんて言ったのに、こんな状況でも、これだけは視界から外れない。

 

俺がここに立っている理由を、思い出させてくれる。

 

アイシャが遠くなっていく。

馬車が小さくなっていく。

音が薄くなっていく。

 

頑張れ、か。

ああ、死ぬ覚悟で頑張ろう。

死ぬつもりなんて毛頭ないがな。

 

腹をくくれよ、俺。

万全な状態で理不尽に挑めることなんて、

人生で一度だって無かっただろ。

一回も試運転してない。

準備不足かもしれない。

……それでもやるんだよ。

 

俺は両手を組み、指を噛み合わせる。

指と指が重なり、掌の熱が混ざる。

 

オルステッドが首を傾げた。

 

 

「どうした? 人神にでも祈るか?」

 

 

……嫌味のつもりか、それとも確かめのつもりか。

どちらにしても、今は乗ってやる価値がない。

 

余計な言葉を吐いたら、集中が切れる。

 

俺は目を瞑り、術式に呪力を集め始める。

自分の内側の壁を無理やりこじ開ける。

本来なら閉じている場所に、外の空気を押し込む。

 

そんな感覚。

 

 

「『領域展開!』」

 

 

喉が痛くなるほど叫ぶ。

叫んだ瞬間、足元の影が一気に跳ね上がって、

俺の足首を舐めるように絡みつく。

 

 

「『嵌合暗翳庭(かんごうあんえいてい)』!!!」

 

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