あたり一面、真っ黒だった。
色がない、というより――色そのものが飲み込まれて、音と匂いだけが置き去りにされたみたいな闇だ。
地面はあるのに地面らしい硬さがなくて、足が沈み薄い水面を踏んでいるような感触がする。
俺の背後にある、不気味なオブジェクト以外何もない。
――嫌な感じだ。
俺の領域なのに、俺のものじゃないみたいな居心地の悪さがある。
「なんだ、ここは? 転移……いや、その気配はないな……」
オルステッドが周囲を見回し、淡々と口にする。
俺の領域の中でも、こいつの存在感だけが濃い。
「今一度聞こう……貴様は本当にカイン・アルネスなのか?」
「誰の話をしてるんだよ……」
「見たことのない奇妙な術。使い魔。凄まじい膂力。欠損を治すほどの治癒魔術に似た何か、それも無詠唱……どれも貴様が持ちえないものだ」
……またそれだ。
持ちえないって、何様だよ。
俺の何を知ってるって言うんだ。
「お前、俺を誰かと勘違いしてるんじゃないのか?」
「いや。さっき貴様は抜刀で、光の太刀に匹敵する速度の剣を振った。それは貴様にしか出来ん芸当だ」
「なんなんだよお前は……どんな答えが望みなんだよ……」
喉の奥から出た声は、怒鳴り声になりきれない。
怒りと困惑と恐怖が混ざって、変な温度になってる。
こいつは俺を知っているような口を利く。
礼儀がどうとか、光の太刀がどうとか。
まるで、俺じゃない別の俺を見ているみたいに。
気味が悪いという感想より先に背筋が冷える。
知らない相手に「知っている」と言われるのは、ただ不快ってだけじゃない。
自分の輪郭を勝手に削られる。
俺が俺でいる根拠を、他人の言葉で上書きされるみたいで――
いや、違う。
今はそんなことを考えてる場合じゃない。
俺は俺だ。
生まれてから今までの良いことも、悪いことも、全部この身体に詰まってる。
俺は拳を握り直す。
震えが残っているのが嫌で、爪が掌に食い込むほど力を入れた。
領域の地面――水面みたいな影が、足元で小さく波紋を広げる。
俺の感情を写しているように見えて腹が立つ。
苛立ちをごまかすために、俺は舌打ちした。
「……その悪態こそ俺の知っているカイン・アルネスなのだが」
やめろ。
そういう言い方をするな。
俺の中の知らない部分を、勝手に知っていると断定するな。
オルステッドは、俺を観察するように目を細める。
「今更だが、貴様は俺が恐くないのか?」
「……殺されそうなんだ、怖くないわけないだろ」
そう言いながら、拳に込めた力をさらに強める。
「でも、俺がここで逃げたら馬車の方を追うんだろ?」
「ああ」
「なら、お前がどれだけ怖くても俺はお前と戦うしかないだろ」
「そうか……」
その一言が、気持ち悪いくらい落ち着いている。
俺の覚悟を“情報”として受け取っただけに聞こえる。
「……というか、こんな悠長に会話しててもいいのか?」
言った直後、少しだけ後悔する。
会話を引き延ばせれば、もう少し時間を稼げたかもしれないのに。
「なに、貴様の術について少し考察していただけだ……」
「もっと考察しててもいいんだぞ?」
「貴様を無力化した後に聞いた方が早そうだ」
「そうかよ……そりゃ残念だ」
オルステッドはほんの少し口元を動かした。
笑っているようにも見える。
実際楽しんでいるのかもしれない。
こっちは楽しくない。
楽しい要素がなに一つない。
オルステッドが、ゆっくり半身になった。
片手を前に差し出し、指を揃えた手の甲だけをこちらへ向ける。
まるで「来い」と言っているみたいな構えだ。
空いたもう一方の手は腰の後ろ。
いつでも抜ける剣かのように、見えない場所で待機している。
素手のくせに、あの手刀で俺の胸もルーデウスの胸も貫いた。
肉も骨も、紙みたいに通した。
それを知っているからこそ、あの構えが怖い。
だから俺は、真正面から殴り合うのをやめた。
理不尽には理不尽をぶつけることにする。
俺はオルステッドから視線を外さないまま、領域の“上”を意識する。
『嵌合暗翳庭』の影は地面だけじゃない。
影は床で、壁で、天井でもある。
だからこそ、呼び出す場所は自由だ。
まあ、一度しか呼ばないし意味はあんまりないが。
オルステッドの頭上。
そこには、影が蠢いている。
俺は短く告げた。
「『布瑠部由良由良』」
白い足が、ぬるりと出てくる。
膝、腰、胴、腕――そして方陣。
影から飛び出した巨体が、重力をそのまま武器にして落ちてくる。
「『
名を告げた瞬間、魔虚羅は落下の勢いを刃に乗せた一撃を叩き落とした。
オルステッドが上を向く。
避けない。一歩も動かない。
――受けた。
腕で受けた。
まるで、蠅でも払うみたいに。
皮膚が裂け、血が散る。
赤が黒に飛び散って、やけに鮮やかに見えた。
魔虚羅が余った手で追撃の拳を叩き込もうとする。
オルステッドの体が、一瞬だけ揺れた。
と、思った時にはもう結果が出ていた。
魔虚羅は俺の横へ飛ばされ、地面に片膝をついた。
膝が影に沈み、黒が波紋みたいに広がる。
オルステッドは裂けた皮膚を一瞥して、淡々と言った。
「……また見たこともない使い魔だな」
……そうやって観察してくれると助かる。
こっちは必死に命を繋いでるってのに、向こうは研究者みたいな顔をしている。
腹立つ。腹立つけど、今はそれがありがたい。
領域展開『嵌合暗翳庭』
この領域には縛りがある。
いや、縛りだらけだ。
必中効果はない。
式神の種類も数も、一匹、一種類に絞った。
領域でステータスを上げる補正もない。
普通の領域なら得になる要素を、こっちから全部切り捨てた。
その縛りによって、この領域内に限り、魔虚羅の強制調伏を可能にしている。
魔虚羅を調伏する前に、こいつの性能を測りたかった。
攻撃力、防御力、再生力。
何にどう適応するのか。
適応の速度はどれくらいか。
起点は攻撃の種類なのか、概念なのか、相手の性質なのか。
輪が何を条件に回るのか。
そんな「取説」が欲しくて、俺はこの領域を組んだ。
結果として今みたいに、領域に引きずり込んだ相手に魔虚羅をぶつけるって運用もできるので、わりと良い領域だと俺は思ってる。
良くないのは、その相手がオルステッドってところだけだが。
俺は魔虚羅へ声を投げた。
「魔虚羅、俺がサポートする。お前はあいつを引き付けながら、自分の適応に集中しろ……死ぬなよ」
言った瞬間、魔虚羅がこっちを向く。
……目はない。
ただ顔の向きが俺へ揃っただけ。
それなのに、なぜか見られてる気がした。
……どうした?
まさかこいつ、自我があるのか?
そんな疑いが刺さった瞬間、別の感情が追いかけてくる。
“式神だからいい”で済ませたくない気持ち。
今さら綺麗事だって自分でも思う。
でも、心が勝手に引っかかる。
だから口が勝手に動いた。
「……ごめん、魔虚羅。俺の都合で強制調伏なんて真似して。でも、今だけは付き合ってくれ。頼む」
謝罪が通じる相手かなんて分からない。
そもそも謝る権利が俺にあるのかも怪しい。
だけど、もし俺がこいつの意思や尊厳を踏みにじってるなら、せめてそれを「自覚したまま」使いたかった。
無自覚で踏むよりマシだ。
……マシってだけで、正しいわけじゃないのも分かってる。
魔虚羅は、もうオルステッドの方を向いていた。
付き合ってくれるということだと、勝手に解釈する。
勝手だ、分かってる。
それでも今はその解釈に縋るしかない。
魔虚羅は理論上、時間さえ稼げればどんな相手にも勝てる。
適応し続ける限り、負け筋が消えていく。
ただし、オルステッド相手にその時間を稼げるかは怪しい。
領域が解ければ、強制調伏は解除される。
宿儺の呪力量のおかげで、領域の維持そのものはそこまで苦じゃない。
だが、オルステッドが領域を壊されたなら終わりだ。
だから俺は一点に賭けることにした。
――魔虚羅でオルステッドを魅せる。
あいつはさっきから、俺や式神の動きをわざわざ見てる。
珍しいからか、警戒か、理由は分からない。
でも確実に、殺すための最短だけじゃなく情報を取りに来てる節がある。
だったら話は早い。
見たいなら、見せてやる。
ただし、対価に時間をもらおう。
俺はトンッと後ろに引いた。
入れ替わるように、魔虚羅が影を蹴って前に出る。
拳を握り、腕に括られた剣を振りかぶる。
オルステッドが手刀で受ける。
金属みたいな音が鳴って、魔虚羅の剣が弾かれる。
次の瞬間、オルステッドの体が滑るように横へ流れ、魔虚羅の脇腹へ掌底が刺さった。
ドンッ、と重い衝撃。
魔虚羅の巨体がわずかに押し返される。
だが倒れない。
踏ん張って、すぐに拳を返す。
しかし、当たらない。
オルステッドはその拳を逸らす。
そして、逸らした流れのまま手刀が肩へ走った。
一閃。
魔虚羅の肩が、半分持っていかれる。
次の瞬間には、飛んだ肩の断面がボコボコと盛り上がって、すぐに再生する。
オルステッドの口元が、わずかに動いた。
「ふむ、再生するのか。無からの再生……不死魔族よりも強力だな」
よし。
その反応を引き出せれば、勝ち筋が見える。
面白がれ。観察しろ。判断を遅らせろ。
俺はすぐに手を上げ、詠唱をして『解』を飛ばす。
「――番の流星、『解』!」
不可視の斬撃が走る。
オルステッドの肩が抉れて、血が散った。
深くはあるが、致命傷にはならない。
だが、確実に邪魔はできている。
「……邪魔だな」
オルステッドが小さく言った。
フル詠唱の『解』でようやく邪魔レベル。
嫌になるが、それでもいい。
そう思わせることができれば、時間は稼げる。
オルステッドが一歩、魔虚羅の懐へ入る。
肘、肩、膝に手刀が放たれた。
締めの拳が魔虚羅の胸を叩くと、その巨体がふわっと浮いた。
魔虚羅は空中で姿勢を立て直し、剣を振り下ろす。
オルステッドは手刀で受けた。
火花が散る。
……やっぱり手刀で火花が散るのはおかしいだろ。
次の瞬間、オルステッドの手刀が横に振られ魔虚羅の腹が裂けた。
横一文字。深い。
そこへ追撃が来る。
肩が落ち、腕が飛び、顔が裂ける。
……めちゃくちゃだ。
滅茶苦茶にされてる。
それでも魔虚羅は倒れない。
飛んだ腕が生える。裂けた腹が閉じる。
俺は魔虚羅の頭上を見る。
輪はまだ回ってない。
まだ学習中か……
このままだと、斬られて終わるか?
「――の流星、『解』!」
今度は魔虚羅の攻撃線を補助するように、オルステッドの足元を切る。
踏み込みを一瞬でもズラせば、それだけで魔虚羅の攻撃が通る角度が増える。
オルステッドは、俺の斬撃を見ていた。
見て、弾いて、そして――俺に視線を寄こす。
……来る。
魔虚羅を軽くいなしたまま、オルステッドが俺の方へ走り出した。
俺は足元から呪力を放出する。
影の床が弾け、距離を取った。
俺は後退しながら『解』を撃つ。
牽制、牽制、牽制。
当てるより、足止めするための斬撃。
オルステッドは止まらない。
払う。叩き落とす。
そして踏み込む。
距離が縮まるたび、背筋が冷える。
――その瞬間。
背後から、魔虚羅が追いついた。
風圧が俺の頬を叩く。
巨体が影を蹴って滑り込み、俺とオルステッドの間に割り込む。
オルステッドの視線が俺から外れた。
魔虚羅が剣を振る。
オルステッドが手刀で受ける。
そのまま、殴る。斬る。受ける。弾く。
拳と剣。手刀と体術。
ぶつかるたびに闇の床が波紋を打って、俺の足元まで震えが伝わってくる。
―――ガゴンッ
方陣が回った。
「……来た」
回ったってことは、何かに適応したってことだ。
そして次のやり取りで、その変化が出た。
オルステッドの手刀が走る。
さっきまでなら肩が飛んでた角度。
でも魔虚羅は、半歩だけズラして受け流す。
斬り落とされるはずの腕は、掠りはしたが残る。
裂けても浅い。
魔虚羅の動きが変わった。
さっきまでのゴリ押しじゃない。
受ける位置、踏む位置、返す角度がまともだ。
なるほど。
最初は、手刀で放たれる剣術に適応したか。
「動きに合理が出てきたな」
オルステッドがぼそっと言う。
余裕のまま、観察のまま。
でも、声の温度が少しだけ変わった。
「試すか……」
オルステッドが呟いて、動きを変えた。
体術の混ぜ物が消える。
手刀だけで魔虚羅とやり合い始める。
フェイントが多い。
誘って、外して、当てる。
直線じゃなくて、嫌らしい角度で入ってくる。
……北神流か?
魔虚羅は、それでも食らいつく。
斬られて、裂けて、飛んで、再生して、また前に出る。
―――ガゴンッ
―――ガゴンッ
―――ガゴンッ
―――ガゴンッ
オルステッドとやり合いながら、方陣がどんどん回っていく。
そのたびに、魔虚羅の動きが変わる。
少しずつ噛み合ってくる。
俺はその間も『解』でちょっかいをかけ続ける。
足元を削る。角度をずらす。視線を引く。
致命にはならないが、魔虚羅が当てるための隙を増やすには十分だ。
しばらくして、魔虚羅の剣がオルステッドの手刀を捉え始めた。
弾かれていたのが止まる。
流されていたのが残る。
互角に見える。
実際、オルステッドも半歩だけ下がった。
……いけるか?
そう思った瞬間、状況がひっくり返った。
さっきの互角が嘘のように、魔虚羅がズタズタにされていく。
斬られる。崩れる。飛ぶ。
再生する前に、また斬られる。
手刀の軌道が変わった。
受け流しと返しが混じる。
……この動き、水神流か!?
「対応は剣術そのものではなく、流派にだけか」
オルステッドの声が淡々と落ちる。
……バレてる。
魔虚羅のタネが、思ったより早く理解されてる。
こうなると、こっちの戦いに付き合ってくれるかどうかも怪しい。
だが、オルステッドが剣術を使っている限り、魔虚羅を完全に破壊するのは難しい。
手刀ではどうしたって一撃で消し飛ばせない。
魔虚羅の再生力がどこまでかは分からない。
ただ、今の魔虚羅はもうオルステッドの剣術にかなり適応してきている。
適応した攻撃は効き目が落ちる。
適応した攻撃で傷を負っても、その傷は再生しやすくなる。
それが、今までの戦いで分かった適応のカラクリだ。
つまり、オルステッドが剣術以外の手札を持ってなければ、まだ可能性はある。
逆に言えば、持ってたら終わり。
―――ガゴンッ
―――ガゴンッ
輪がどんどん回っていく。
魔虚羅の動きが格段に変わっていくのが分かる。
受け流しが滑らかになって、返しが鋭くなって、踏み込みが迷わなくなる。
水神流に慣れてきて、また互角に近づく。
しかも、互角になるまでにかかる適応の回数が減ってる。
……と思ったら。
オルステッドの手刀の速度が、数段階上がった。
今度は一撃が直線で、無駄がない。
最短、最速で急所を取る動き。
「……今度は剣神流かよ」
多趣味すぎるだろ。
そんな悪態をつく暇もなく、魔虚羅がまた削られる。
腕が飛ぶ。肩が落ちる。腹が裂ける。
再生しても、追いつく前にもう一回斬られる。
当然、オルステッドが優勢に戻る。
が――
―――ガゴンッ
輪が回った瞬間、魔虚羅の動きが一段締まる。
受けが間に合う。
返しが刺さる。剣が噛み合う。
互角!
剣神流は、一度の適応で戻った。
練度が低かった?
いや、あれで低いは無理がある。
単純に、魔虚羅の学習速度が上がってるんだ。
魔虚羅とオルステッドが、互角の剣戟を繰り広げる。
手刀が剣みたいに走り、魔虚羅の剣がそれを受ける。
俺は横から『解』を飛ばす。
牽制。邪魔。
ほんの一瞬のズレ作り。
―――ガゴンッ
また、方陣が回る。
次の瞬間、魔虚羅の剣がオルステッドの腕を斬った。
今までみたいな浅い切り傷じゃない。
明確に切断した。
オルステッドの腕が宙に浮く。
「……マジか!」
歓喜の声が漏れる。
そんな俺とは、対照的にオルステッドは驚かない。
ただ、淡々と頷いた。
「龍聖闘気にまで……対象の制限はないと見ていいか……?」
そう言いながら、空中にある腕を軽く飛んでキャッチする。
痛がらない。顔色も変えない。
そのまま、魔虚羅を蹴り飛ばした。
魔虚羅の巨体が吹き飛び、領域の壁にぶつかる。
俺は喉の奥が乾くのを感じた。
今の蹴り一つで、領域の外郭が揺れた。
領域が壊される可能性が頭によぎる。
オルステッドが、俺たちから少し距離を取った。
今までずっと近距離で遊んでたのに、わざわざ下がった。
嫌な予感が背骨を撫でる。
「つい遊びすぎたな……仕方ない。抜くか」
抜く? 何を?
そう考えるより先に、魔虚羅が立ち上がって詰めようとする。
でもオルステッドはそれを見もせずに、両手を胸の前で合わせた。
合掌。
本当なら、斬撃を飛ばすべきだった。
『解』で邪魔して、動作を止めるべきだった。
……でも、無理だった。
圧。
圧倒的な圧。
空気そのものが重くなって、肺の中まで押し潰してくる。
骨の中に冷たい鉛を流し込まれたみたいに身体が固まる。
足裏が影の床に縫い付けられたみたいに、踏み出せない。
オルステッドは、ゆっくりと手を離していく。
左手から、何かが引き抜かれていく。
「……刀?」
刀身も、鍔も、柄も光っている。
光そのもののような輝き。
その光が、この闇の中で一際輝いている。
オルステッドがその刀を出し切った刹那。
空気が変わった。
一瞬で冬になったみたいな寒気が、俺の身体を包み込む。
喉が詰まる。心臓が嫌な鳴り方をする。
魔虚羅が影を蹴ってオルステッドに迫る。
でかい身体で踏み込むたび、黒い床が波打つ。
腕に括られた剣を振りかぶって叩き落とす。
オルステッドの刀が振るわれる。
速い。速すぎる。
それでも、ギリギリ目で追えた。
……追った瞬間には、もう結果が出ていたが。
魔虚羅の体が斜めに切断された。
上半身がずれて落ち、遅れて下半身が倒れる。
魔虚羅を両断した斬撃が、そのまま領域の壁に当たった。
領域が一瞬だけひび割れたみたいに歪む。
まずい!
領域が壊されれば、魔虚羅の強制調伏はなかったことになる。
影へ戻されて、舞台から消える。
魔虚羅が居なくなれば、俺は死ぬ。
オルステッドを止める奴がいなくなる。
魔虚羅は再生しようとしてる。
断面が盛り上がっているが、時間が足りない。
オルステッドの視線が俺を射抜く。
刀を構えたまま、まっすぐこっちへ来る。
魔虚羅を切った勢いのまま、刀を引き戻し俺の方へ踏み込む。
一歩が短い。無駄がない。
目の前から、白い光が迫る。
「――っ!」
俺は足元から呪力を放出した。
影の床が弾け、身体が反動でぶっ飛ぶ。
回避の動きと、呪力放出の反動で、ギリギリ避けた。
……はずだった。
痛みが遅れてくる。
右腕が軽くなった。
視界の端で、俺の腕が落ちていくのが見える。
血が散って、すぐ闇に吸われるみたいに消えた。
俺の腕ポンポン、ポンポン、飛びすぎだろ。
消耗品じゃないんだぞ。
でも左腕じゃなくてよかった……
歯を食いしばって反転術式を回す。
熱が走り、骨が繋がり、肉が戻る。
「『神刀』を持った俺の太刀筋を見切るか……」
見切れてたら俺の腕は飛んでないだろ。
その言葉を飲み込んで、俺は視線を後ろへ向ける。
領域の壁に走った亀裂。
黒い空間に傷が残り、外が覗けそうな気配すらある。
このまま何発も当てられたら確実に持たない。
俺は再生途中の魔虚羅に向かって叫んだ。
「魔虚羅! 聞け! 強制調伏の解除だ! 領域が壊れたときに影へ戻される。そのルールに適応しろ!」
ルールに適応しろという無茶苦茶な命令。
でも、魔虚羅の術式は『万物への適応』だ。
理屈だけなら可能なはず。
問題は――間に合うかどうか。
オルステッドが、刀を軽く持ち直し周囲を一瞥する。
「領域……? なるほど、ここは貴様が作った結界か」
クソッ……馬鹿か俺は。
今の命令は、手の内を丸ごと口に出してしまったようなものじゃないか。
案の定オルステッドは続ける。
「あの使い魔は、この結界の中でしか形を保てないということか?」
……言い返す余裕もない。
言い返したところで、事実は変わらない。
魔虚羅が立ち上がりきる前に、オルステッドが刀を走らせる。
今度は一太刀じゃない。
細かい光が連続で走った。
魔虚羅が一瞬で細切れにされる。
それでも、まだ生きている。
肉片が蠢き、再生を始めようとしている。
……なんでそれで生きてんだよ。
頼もしすぎるだろ。
オルステッドは魔虚羅を見ない。
狙いは完全に領域だ。
刀の切っ先を、領域の壁へ向いた。
「――っ、させるか!」
俺は『解』を連射した。
牽制。妨害。とにかく止める。
オルステッドは片手の手刀で斬撃を弾きながら、もう片方の刀で領域を裂く。
一閃。
白い線が走る。
黒の壁が、また歪む。
亀裂が増える。広がる。深くなる。
魔虚羅がルールに適応するよりも、オルステッドが領域を壊す方が早い。
脳みそが嫌な結論を出す。
……仕方ない。
俺は奥歯を噛みしめて『縛り』を結ぶ。
自分に不利な条件を背負って、魔虚羅の適応の負担を減らす。
――ルールに適応した後に、方陣が一周すればこの適応はなかったことになる。
――適応がなかったことになれば、そのまま魔虚羅の調伏の儀が始まる。
やっていることは、寿命を少し先送りしただけ。
それでも今は今を越える手が欲しい。
「……頼むぞ、魔虚羅」
俺の声は、影に吸われる前に、魔虚羅の背中に届いた……気がした。
もちろん返事なんてない。
あるのは、あの方陣が回る音だけだ。
―――ガゴンッ!
来た、と思った瞬間。
オルステッドの刀がまた領域を裂いた。
白い光が走り、ひび割れが蜘蛛の巣のように広がる。
これ以上は領域がもたない。
壊される前に、俺から終わらせる。
「解除」
言葉にした瞬間、黒い世界がひび割れる。
割れたガラスを裏から押したみたいに、亀裂が走り、領域そのものがばらばらに砕けて落ちる。
それと同時に景色が戻った。
山肌を削って作られた通路。
片側は霜に覆われた岩壁。
反対側は天然の石柱が並び、その向こうは崖。
俺は即座にその崖の方を見た。
オルステッドが空中にいる。
足場のない位置に放り出され、一瞬だけ身体が宙で止まる。
遅れて白いコートが揺れ、重力に引かれ始めた。
「ッ!?」
珍しく、声に揺れが混じった。
たったそれだけのことで、気持ちが少しだけ軽くなる。
領域を解除した際のオルステッドの座標。
それをこっちが指定させてもらった。
オルステッドが落ち始め、崖の下へと吸い込まれていく。
このまま落ちてくれれば、勝ち……とは言えないだろう。
オルステッドが落下で死ぬとは思えない。
そもそも何らかの方法で跳んでくる可能性は高い。
だから万が一を潰す。
俺は息を吐く暇もなく、腕を突き出した。
『解』を連射する。
空気を裂く不可視の斬撃が、落下中のオルステッドを押し込む。
オルステッドは、斬撃を全て捌く。
……けど、それでいい。
空中だ。足場がない。踏ん張れない。
ならオルステッドは重力によって落ちていくことしかできない。
俺は歯を食いしばって、さらに連射速度を上げる。
オルステッドは刀で、斬撃を全て捌きながら落ちる。
白い光の軌跡が、崖下へ吸い込まれていく。
オルステッドの身体が遠ざかる。
それでも撃ち続ける。
止めた瞬間飛び上がってくるかもしれない。
だから撃つ。
やがてオルステッドが、渓谷の底に沈むほど小さくなった。
白い点みたいになって、霧に飲まれて見えなくなる。
それでも俺は、崖の縁から目を逸らせなかった。
……落ちた。落とした。
だが、終わったとは思えない。
胸がまだドクドク鳴ってる。
肺の奥がヒリついて、喉が鉄みたいな味がする。
腕は重いし、足の震えも止まらない。
アイシャたちは、どこまで逃げられただろうか……
どれくらい時間を稼げた?
どれだけあいつと戦ってた?
時間の感覚が曖昧すぎる。
数分だったのか、数十分だったのか、それすら分からない。
……確認しないと。
俺は『虎葬』と視界を共有しようとする。
馬車を引いているはずだ。
視界が繋がれば、位置も状況も分かる。
……が。
「……あ?」
妙な空白にぶつかった。
術式が反応しない。
いや、反応しないんじゃない。
呪力が通る感覚がない。
回路が焼けて詰まっている。
触れようとしても、内側で手応えが消えている。
横にいる魔虚羅へ命令を飛ばそうとしても同じだ。
感覚が空振りする。
魔虚羅は首をかしげている。
……領域展開のせいか?
あれは術式の性能をフルに引き出す技だ。
無理やり限界まで回して、全機能を一斉稼働させる。
そのせいで術式がオーバーヒートしたのか?
脳裏に浮かんだ言葉に嫌な汗が出る。
「なんでそんな重要なこと教えてないんだよ、宿儺……」
怒鳴りたいのに、声に力が入らない。
あいつなら知ってたはずだろ絶対。
その瞬間だった。
ブワッと空気が押し広げられた。
今すぐここから逃げたくなるような、重く、濃い気配。
出所は考えるまでもない。
俺は反射的に崖下を見る。
霧が揺れている。
その中を何かが上がってくる。
……いや、走っている。
断崖絶壁を白いマントをはためかせ一直線に駆け上がってくる影。
もちろんオルステッドだ。
足場もない崖をまるで平地のように駆けてくる。
俺は乾いた喉で小さく呟いた。
「……第二ラウンド開始だな」