オルステッドが、霧の向こうから這い上がってくる。
崖を“走って”いる。断崖絶壁を、地面と同じ顔で踏んで、一直線に。
白いコートが風を裂き、足が岩を蹴るたびに、小さな欠片が舞って落ちた。
あり得ないのに、目はそれを現実として捉えてしまう。
俺は崖の縁に立ち、意識をオルステッドの足元へ落とす。
断崖絶壁。
そこに、意識を杭みたいに突き刺す。
「『捌』」
不可視の斬線が、断崖へ走る。
狙いはオルステッドじゃない。足元だ。
壁面が、四角く、くり抜かれたみたいに抜け落ちる。
壁ごと、崩れた岩塊ごと、渓谷の底へ。
白いコートが一瞬だけ広がって、すぐ霧に溶けた。
重い破砕音が遅れて響いた。
霧の向こうで、岩が地面にぶつかる乾いた音がした。
……よし。
これでちょっとは時間が稼げる。
そう思ったのに、胸の奥が全然軽くならない。
脳がすぐ次の最悪を並べてくる。
どうする?
魔虚羅なしで、あいつとは戦えはしないだろ。
俺は影へ意識を伸ばす。
さっきから、術式が空振りする感覚が残っている。
式神へ届かない。視界共有も繋がらない。
なのに、『御廚子』のほうは動いた。『捌』も『解』も出せる。
となると原因はやっぱり……領域展開の反動ってことでいいのか?
けど、納得がいかない。
領域の後でも術式を平然と使っている奴らを俺は知っている。
五条悟とか、宿儺とか。
あれは、何か直す方法があるってことだろ。
反転術式で脳を治せば……?
俺は反転術式を回した。
脳の内側へ、熱を流す。
――だが。
術式が戻る気配はない。
感覚が空振りする。
回路の先が、焼け焦げたまま繋がらない。
ならどうする?
オーバーヒートしたなら冷やすか?
どうやって?
それとも待つか?
いや、そんな悠長なことをやってる間に、あいつが戻ってくる。
――その予感は、すぐに現実になった。
渓谷の底から。
霧の向こうから。
濃い気配が、ゆっくりと浮上してくる。
「……また崖を上って来たの――」
言いかけた俺の言葉が喉で止まった。
違う。
走ってない。
オルステッドが――飛んでいる。
いや、飛んでるっていうより。
浮遊している。
空中に固定されてるみたいに落ちない。
白いコートが、風に吹かれて揺れている。
重力が仕事を放棄してる。
理解が追いつかない。
魔術か?
舞空術みたいなものか?
……今はいい。理屈は後だ。
撃ち落とさないと。
俺は腕を突き出す。
指先で狙いを固定する。
呼吸は浅いまま、出力だけを上げた。
「『解』!」
さっきと同じように、斬撃を連射する。
オルステッドは空中で静止した。
本当にピタリと。
そして、刀で斬撃を捌き始める。
……このまま撃ち続けても、稼げるのはせいぜい数十秒。
あいつの捌きは正確すぎる。
数で押しても、ほとんど意味をなしていない。
術式の問題をどうにかしないと、魔虚羅が使えずに俺は死ぬ。
いや、俺が死ぬだけならまだいい。
その後の馬車まで追われたら、全部終わる。
術式のオーバーヒート。
これをどうにかする案は一応ある。
だが、できるかは分からない。
……でも、やるしかない。
俺は覚悟を決めて、脳に呪力を込める。
頭の奥へ、無理やり圧を詰め込む。
内側から頭蓋骨を押し広げるみたいだ、
冷たい汗が首筋を伝い、心臓が嫌に跳ねる。
怖い、怖い、怖い。
本能が耳元で悲鳴を上げているように「やめろ」と叫ぶ。
俺はその悲鳴を無視して、脳の一部を破裂させた。
頭の中が小さく爆ぜる。
視界が一瞬だけ白くなる。
音が遠のいて、吐き気が喉からこみ上げてくる。
膝が抜けそうになって、歯を噛みしめないと倒れそうになる。
俺はすぐに反転術式を回す。
痛みが一段階ずつ引いていく。
熱が頭の奥から引いて、呼吸が戻る。
「……魔虚羅、両腕を上げてくれ」
返事はない。当然だ。
でも魔虚羅は言われた通り、ぬっと両腕を上げた。
「よし! 術式が戻ってる」
俺がやったのは、術式が宿っている脳の一部を呪力で壊して、反転術式で治しただけ。
機械がオーバーヒートして動かないなら、機械を一回壊して新品に直せばいいと言う脳筋にも程がある作戦だ。
五条悟や宿儺なら、もっとスマートにやるんだろう。
けど今の俺には、そういう発想をひねり出す余裕がない。
綺麗さは後回しだ。
俺は『解』を撃ち続ける。
とにかく、斬撃を放つ。
一瞬でも手を止めたくない。
オルステッドは空中で静止したまま、刀を振るう。
その動きは、まるで流れる水みたいに滑らかだ。
一つの動きの終わりが、次の動きの始まりになっていて、どこにも隙が見えない。
斬撃を連射している合間。
一瞬だけ集中を割って『虎葬』と視界を共有する。
――馬車は走っている。
崖沿いの道。
車輪が跳ね、布が煽られ、砂利が尾を引く。
それでも止まらず、必死に進んでいる。
距離は俺が思った以上に稼げていた。
『虎葬』は術式が死んでる間も動いていたらしい。
命令が残っていたのか、自立思考で判断していたのか。
理由はどうでもいい。
今はその事実だけを嚙み砕く。
「……俺も逃げるか?」
一瞬、甘い考えが浮かぶ。
浮かんだ瞬間に、自分で叩き潰した。
無理だ。
距離は稼げているが、それでも足りない。
あいつが追う気になれば、すぐに追いつくだろう。
だから、俺がここで足止めするしかない。
視界を戻す。
オルステッドと俺との距離はある。
だが、あいつは階段でも上るように、俺との距離を削ってくる。
俺は命令を叩きつけた。
「魔虚羅! 俺を投げ飛ばせ!!」
魔虚羅が来て、俺の胴を掴む。
……意外と優しい。
もっと力任せに、骨が砕けるほど掴まれると思ってた。
なのに掌は的確で、必要な力だけで掴んでくれる。
意外と器用なんだな。
魔虚羅が俺を掴んだまま、ぐっと振りかぶる。
視界がぐるっと回り、三半規管が悲鳴を上げる。
空が上下逆さになって、崖が横に倒れて見える。
俺はその瞬間に、『貫牛』の術式をのせる。
投げられるなら、これ以上相性のいい状況はない。
――ふと、考えが浮かぶ。
式神は二種類しか顕現できない。
でも、能力だけならいけるんじゃないか?
やってみるか。
できるかどうかは今決まる。
俺は右腕に『鵺』の呪力特性を重ねようとする。
「……ん、できたな」
右腕の周囲に紫電が溢れている。
細い稲妻が指先から肘へ走って、腕がバチバチ鳴っている。
「……おお。これ、千――」
言い切る前に、世界が跳ねた。
魔虚羅の投擲が、優しい握りからは考えられない速度で俺を放つ。
身体が矢みたいに空を切って、オルステッドへ一直線に飛ぶ。
風が顔面を殴る。
頬が引きちぎれそうだ。
息を吸う余裕もない。
俺は左腕から斬撃を連射しながら、オルステッドへ突っ込んでいく。
狙いは命中じゃない。
捌かせることだ。
オルステッドが刀を振る。
白い線が残像を引いて、俺の斬撃を削り落としていく。
あいつの腕が忙しく動いている。
――今だ。
俺は『解』の発生場所を変える。
今までみたいに手のひらからではなく、文字通りオルステッドの目の前。
眼球の数センチ前から斬撃を放った。
考える猶予もない距離。
だが、オルステッドの瞼が閉じようとしていた。
なんで、それに反応できるんだよ。
だが間に合いはしない。
斬撃がギリギリオルステッドの眼球に当たり、血が空中に細く散る。
オルステッドの視線が塞がれる。
ほんの一瞬。
たった一拍。
それで十分だ。
俺は、落雷そのものを叩きつけるかの如く、右腕を振りぬいた。
衝撃が一つにまとまってオルステッドへ叩き込まれる。
すさまじい衝撃が腕に返ってきた。
肉を殴った手応えじゃない。
硬い塊をぶん殴っている感覚だ。
同時に紫電が炸裂し、雷鳴のような音が腹の底まで響いた。
オルステッドの体が、紫電に絡め取られたまま渓谷の底へ吹き飛んでいく。
白いコートが、引きちぎれそうに揺れた。
刀の光が遠ざかっていく。
その瞬間、遅れて痛みが来た。
俺の右腕が、人差し指と中指の間から肘にかけて裂けていた。
まるで破れた布みたいに皮膚が開き紫電が肉を焼いている。
痛みが俺の神経を舐める。
……視界を奪われながらも、斬ったのか。
そのまま、俺も渓谷へ落ちていく。
俺は落ちながら、反転術式を右腕へ回す。
裂けた肉が、ジッパーが閉まるように繋がっていく。
「魔虚羅!」
名前を叫ぶと、白い影が崖の縁から滑り出した。
魔虚羅が迷いなく降りてくる。
巨体が空を裂いて、俺の横に並んだ。
こいつが横にいるだけで、安心感が違う。
霧が薄くなって、渓谷の底が見えてくる。
それと同時に俺を睨んでいるオルステッドの姿も目に入った。
視線だけで背中を刺されるみたいな感覚が走る。
胸の奥が、嫌なふうに冷える。
まあ、あれで死んだとは思ってなかった。
……思ってはなかったが、こうもピンピンされるとさすがに応える。
俺の必死さが、全部無駄だったと言われるみたいだ。
オルステッドが、俺の落下地点へ踏み込んだ。
着地狩り。
最悪の単語が頭をよぎる。
「……っ、させるかよ!」
俺は空中で身体をひねり、魔虚羅の足元へ手を伸ばした。
その足を、バレーのレシーブの要領で飛ばした。
魔虚羅がオルステッドへ突撃する。
推進力を、そのまま槍みたいに前へ変える。
腕に括られた剣が、空気を裂いて突き出される。
オルステッドの刀が、真っ向からぶつかった。
金属が泣くような音がして、霧が爆風によって押し広げられる。
その隙に俺は着地する。
顔を上げると、すでに魔虚羅とオルステッドが剣戟を繰り広げていた。
魔虚羅の剣は重い。
振り下ろすたびに風が裂ける。
互角……に見えて、じわじわ押されている。
武器の性能差なのかは分からないが、オルステッドのほうが余裕がある。
――ガコンッ。
魔虚羅の方陣が回った。
あと七回。
「あの刀に適応したか?」
そう思ったのに、目に見える有利が来ない。
オルステッドの優勢は変わらずだ。
まあ……あの刀、なんか光ってるしいかにも特別な感じだ。
適応する対象が複雑だと、方陣の回る回数も多くなるのだろう。
一回回った程度じゃあ焼け石に水だ。
適応の回数制限がある今の状態でそれは致命的。
あと七回方陣が回れば、強制調伏はなかったことになって魔虚羅は俺の味方じゃなくなる。
七回転のうちにあの刀へ完全適応して、オルステッドを倒せるか?
そんな答えの出ない問いを考える。
その時、オルステッドの刀が消えた。
……いや、違う。
消えたように見えただけだ。
刀が振るわれたのに、俺の目が追えてないだけ。
だが、今のは見える見えないの範疇を越えていた。
魔虚羅が細切れになる。
肉片がゴロゴロと舞った。
それでも、魔虚羅の気配はまだ生きている。
すさまじいな……あれだけやられてまだ生きてるのか。
やっぱり一度適応した攻撃は死にづらくなるらしい。
“死”のラインが、どんどん遠ざかっていく。
オルステッドは、魔虚羅を殺ったと思ったのか。
それとも、ただ興味が薄れただけなのか。
術者本人をを直接狙う気なのか。
理由は分からないが、標的を俺に変えて向かってきた。
真正面から戦うのは無理だ。
俺は、徹底してサポートに徹する。
魔虚羅が再生するまでのつなぎだ。
俺は両手を挟むように構えて、前方に突き出した。
両掌の間に圧を作り『満象』の水を圧縮する。
圧縮、圧縮、圧縮。
糸のような細さをイメージ。
「宿儺の見様見真似だけど……なッ!」
そう言い捨てて放つ。
霧を割って水が飛んだ。
イメージしていた糸ほど細くはない。
だが、指ぐらいには細い。
圧縮された水がレーザーのように伸びて、オルステッドへ突っ込んでいく。
オルステッドは刀で受けた。
刃先で真っ二つに割れる。
割れた水が左右へ散り、岩壁へ叩きつけられて爆ぜる。
これだけじゃ足りない。
俺は水の流れに、『鵺』の紫電を流した。
水の線が導線になって、オルステッドに当たった。
オルステッドの動きが、ほんの少し鈍る。
ほんの少し。
だけど、今の俺にはその少しが命綱だ。
――ガコンッ。
オルステッドの背後で方陣が鳴った。
あと六回。
魔虚羅がオルステッドへ向かっている。
霧を踏み割り巨体が再び前へ出る。
その瞬間、オルステッドと俺の目が合った。
「なぜだ?」
声が霧を裂いて俺の耳に刺さる。
「なぜ、適応の合図であるあの輪の回転……それが起きるたびに。貴様は苦しそうな顔をする?」
――しまった。
顔に出てたか。
いや、出るに決まってる。
あの方陣は、魔虚羅が強くなる音だが。
それと同時に、俺の寿命が短くなる音でもある。
勝つための切り札が、時間切れで爆弾に変わる。
苦しくならない方が変だ。
オルステッドは俺の返事を待たない。
というか、最初から待つ気がない。
淡々とした足運びで、水のレーザーを半歩だけずらして避けると、そのまま視線を魔虚羅へ戻した。
まるで、俺は添え物だと言わんばかりに。
……いい。
見ないなら、見ないでいい。
その背中に叩き込むだけだ。
俺は、もう一度両手を前に突き出した。
水を細くまっすぐに。
魔虚羅と打ち合っている、その死角へ――
だが、オルステッドは見ずに避ける。
背中に目でもついてんのか?
水のレーザーが霧を裂き、後ろの岩肌を削り落とした。
岩が削げる音が遅れて響く。
それでも俺はオルステッドの背中に向けて撃つ。
『解』も混ぜる。
斬撃とウォーターレーザーで押し込む。
一瞬でも動きが鈍らせることができたらそれでいい。
オルステッドは俺を見ない。
俺へ背を向けたまま、魔虚羅とだけ戦っている。
なのに、俺の位置取りも、攻撃のタイミングも全部読まれている。
――違和感。
さっきからずっと、胸の奥に小さい棘みたいなものが刺さってる。
抜けない。
痛みも派手じゃない。
ただ、ずっと気持ち悪い。
何かを見落としている。
そう思うのに、何を見落としているのかが分からない。
「……いや、これでいい。問題なし」
俺は自分に言い聞かせる。
今は手を動かせ。
今は撃て。
今は時間を稼げ。
――ガコンッ。
方陣が回った。
あと五回。
魔虚羅は、まだ劣勢だ。
俺は『解』を挟み続ける。
背中、膝裏、足首。
踏み込みの支点を削るための斬撃を放つ。
だが、オルステッドは背中を見せたまま崩れない。
――ガコンッ。
方陣が回った。
あと四回。
魔虚羅は……劣勢か。
やり合えてるように見える瞬間もある。
だがそれは、俺が希望を見たいだけであって、現実は誤差程度。
オルステッドのほうがずっと余裕がある。
――ガコンッ。
方陣が回った。
……あと三回。
方陣が回るまでの速度が少し上がってきた。
それだけが救いだ。
あの刀に魔虚羅が慣れてきている証拠。
……そのはずなのに状況は変わらない。
俺の中の嫌な違和感が、どんどん形になっていく。
――ガコンッ。
方陣が回った。
あと……二回。
ここまで来てもまだ劣勢。
あの刀は、そこまで適応しづらいのか?
いや、それにしても変だ。
何かが噛み合っていない。
その瞬間、俺の脳がひっかかった。
「……あいつさっきからずっと、俺に背を向けて戦ってないか?」
背中を見せても平気、って話じゃない。
偶然でもない。
俺の位置に対して、必ず背を向けるように立ち回っている。
――何かを隠してる?
「……まさか!」
俺は歯を食いしばり、崖の側面へ跳んだ。
呪力を足裏にまとわせ、岩肌に張り付く。
戦場全体を俯瞰する位置。
そして見えた。
オルステッドの手。
刀を持っていない方の手が、短く、滑らかに動いている。
指先が空を撫でるように、空間をなぞった。
その瞬間、氷が生まれた。
霧の中で白い結晶が一瞬で形を作り――飛ぶ。
魔虚羅の脇腹に突き刺さった。
「あッのやろう……ッ! 適応を無駄遣いさせてやがったな!?」
声が漏れた。
適応を“刀”に使わせてるように見せかけて。
裏で、別の攻撃を混ぜていた。
多分氷以外の魔術も使ってたんだろう。
魔虚羅の適応を無駄遣いさせて、回転数を削っていたんだ。
「背中を向けてたのは、俺にそれを見せないためか!」
背筋が冷たくなる。
心臓が嫌な速度で鳴る。
俺は壁に張り付いたまま叫んだ。
「魔虚羅! 聞け! オルステッドには適応するな!!」
その瞬間。
オルステッドが、こちらへ目を向けた。
俯瞰している俺を、正確に捉える。
そして、淡々と口を動かした。
「……やはり、この輪の回転数には制限があるのだな? そうでもなければ説明できんほどの無法すぎる力だ」
……違う。
違うけど――言い返せない。
魔虚羅の適応に回数制限なんてない。
本来なら、際限なく回る……と思う。
ただし今は違う。
俺が縛った。
俺が勝手に期限を決めた。
俺の都合で、味方を爆弾に変える導火線を付けた。
オルステッドの推理は半分外れで、半分当たりだ。
そして最悪なのは、半分当たってるだけで対策として成立してしまうことだ。
戦闘経験の差だろうな……
まあ、いまさら愚痴ってもしょうがない。
こういうのは割り切りが肝心だ。
勝ち筋が細いなら、細いままでも押し通すしかない。
「……魔虚羅。オルステッドを引き付けておいてくれ」
言葉は祈りに近かった。
命令みたいに聞こえるのが嫌で、俺は少しだけ声を柔らかくした。
魔虚羅は返事をしない。
だが、足元の影が沈み、次の瞬間には巨体が前へ出ていた。
剣を構え、岩肌を踏み砕きながらオルステッドに距離を詰める。
オルステッドは魔虚羅を刀で受け流しながら、俺に視線だけを寄こす。
「まだなにか隠しているのか? 多芸だな」
声が落ち着きすぎていて、腹が立つ。
俺の必死を、観察ノートに書き込むみたいな口調で言いやがる。
「お前ほどじゃないさ……」
俺は笑ったつもりだったが、口角が引きつった。
それでも言葉は続ける。
言ってしまえば、もう戻れないから。
「……これで俺の手札はもう全部切ることにした」
言い終えるのと同時に、俺は踵を崖に立て、体重を前へ預けた。
背中を壁に近づけたまま滑り落ちる。
靴底が岩を削り、小石を散らす。
途中、岩の出っ張りを蹴った。
トンッ、と足裏に硬さが返り、身体が宙に放り出される。
狙いはオルステッドの頭上。
オルステッドは、俺が頭上に上がった瞬間にはもう視線が上を向いていた。
そして迷わず地面を蹴って俺の方へと飛び込んできた。
速い。
下から上へ、空を泳ぐみたいに、白いコートを揺らしながら一直線に俺へ届く。
俺は、宙に浮いている状態で両手を前に出した。
指を折り、合わせ、印を結ぶ。
指は震えていた。
怖いし、焦ってるし、冷たい。
それなのに、指はするりと噛み合った。
「……領域展開」
言葉が喉を出た瞬間、世界が再構築される。
霧が裂けるとか、風が止まるとか、そういう生易しい変化じゃない。
空間そのものが裏返る。
足元も、頭上も、前も後ろも、いったん全部同じ黒になってから。
そこへ異物が現れる。
――社が建っていた。
ただの社じゃない。
屋根の反りは異様に強く、瓦の列が棘みたいに波打っている。
軒先には鎖が垂れて、重い輪や札が絡み、鈍い金属の気配がそこら中に残っている。
そして四方は扉じゃなく、裂けた口。
柱のあいだに上下の顎が噛み合い、歯がむき出しになっている。
口の奥は暗く、縦に落ちる影だけがゆらいで、奥は見えない。
明らかに祈りを捧げるような場所じゃないな。
社の前には山がある。
牛の頭骨が積まれた山。
白いはずの骨が闇に並ぶせいで逆に汚れて見える。
……うるさいな。
この領域には、オルステッドも魔虚羅もおらず俺一人だってのに。
領域のいたるところで、ずっと音が鳴っている。
ギャリ、ギャリ、ギャリ――
空間のあちこちで、斬撃が斬撃を打ち付ける音が鳴り続ける。
見えない刃が生まれて、別の刃にぶつかり、砕ける。
砕けた瞬間に別の刃が生まれる。
その繰り返しが、何度も何度も起きている。
領域展開『伏魔御廚子』
ここは、斬撃を“燃料”にして蓄え、最後に吐き出すための炉だ。
斬撃は領域内で無数に発生する。
干渉して、衝突して、消滅して。
その消滅は熱になる。
圧になる。
衝撃になる。
それらは、この閉ざされた空間の外へ逃げることを許されない。
エネルギー保存の法則に従って、ここに強制的に保存され続けていく。
つまり、領域そのものが爆弾。
溜め込んで最後に吐き出すという領域。
「……っ」
耳鳴りが頭の奥で膨らむ。
汗が背中を一気に濡らす。
口の中が紙みたいに乾いて、舌が上顎に張りつく。
目が乾いて痛い。
瞬きをするたび、砂を擦るような刺激が走る。
……エネルギーが溜まっていってる証拠か?
その感覚が、気持ち悪いほど分かりやすい。
部屋の中の空気が重くなっていくみたいだ。
バカなりにこの領域を組んでは見たが、正直強いとは思ってない。
一回も試運転してないから、威力の上限も下限もわからない。
「確定」を押し付けるはずの領域展開で、結果が読めないと言う時点で、領域としては二流以下だろう。
そして一番笑えないのは、このエネルギー爆発が多分俺にも当たるってこと。
斬撃そのものは術者の俺には当たらない。
でも副次的なエネルギーはやっぱり別だったようだ。
熱も圧も衝撃も、俺だけ避けるなんて器用なことはできない。
さっきも試したが、この領域の中だと影に入れない。
足元の影に入って回避、みたいな逃げ方ができない。
避けようがない。
避ける場所がない。
仮に当たらないとしてもオルステッドを倒せるかどうかは……運だな。
運に賭けるなら、確率をできるだけ上げる。
爆発のエネルギー量を上げるために、俺はできるだけ耐えるしかない。
そう決めた瞬間、身体が悲鳴を上げた。
手足が痺れる。
指先がじんじんして、力が抜けていく。
足元が勝手に傾く。
ふらつきが揺れに変わって、俺は膝をついた。
「くそ……」
耳が詰まる。
水に潜ったときのように音が遠い。
鼓膜の奥を針でえぐられたように、頭の中まで痛みが走る。
平衡感覚が壊れる。
立っているのか、倒れているのか、分からなくなる。
吐き気が喉の奥まで上がってくる。
このままだと、この爆弾のピンを抜くこともできなくなりそうだ。
領域にいくらエネルギーをためたとしても、それを開放しなければ意味がない。
ただの自滅で終わる。
それだけは避けたい。
ただ、領域を解除するだけだとエネルギーごと帰ってしまう可能性がある。
だから必要なのは解除じゃない。
解放だ。
外へ流し出す形に領域の外郭を作り変える必要がある。
……そのために詠唱の後追いが要る。
俺はまだ「領域展開」としか口にしていない。
領域の名前を告げてはいない。
つまり、まだ“領域”が固まりきっていない。
詠唱の後追いをすると、領域の外郭だけがだんだん極小に圧縮されていく。
今、俺のいる空間そのものは変わらない。
外から見た、領域の外郭だけが小さくなる。
爆発するときの威力を、少しでも上げるためだ。
圧縮した状態から解放されるなら、その差分が衝撃になる。
……と、思う。
詠唱を終えると、領域は閉じない領域になる。
外郭が消える。境界がほどける。
溜め込んだエネルギーが一斉解放される。
――そこまでやって、ようやく爆弾になる。
今はまだ溜めてるだけだ。
俺は透視眼を使って下を見る。
透視眼で魔力は透けないとキシリカは言ってたが、呪力は透けたな。
渓谷の底。霧の向こう。
オルステッドと魔虚羅が戦っている。
魔虚羅が踏み込み、剣を突き、斬られて、再生して、また前に出る。
オルステッドは白い刀を振るい、淡々と対処している。
互角に見える瞬間もある。
でもそれは一瞬で、次の瞬間には魔虚羅が削られる。
……それでも戦っている。
胸の奥が妙に熱くなった。
頼もしさと、申し訳なさが一緒に刺さる。
詠唱を終える前には、魔虚羅を影に入れて避難させるべきだ。
今は強制とはいえ、俺のために頑張ってくれている。
役目を終えたから俺の自爆と一緒に「はい、さようなら」それは流石に、ひどいだろう
それに、現実的な話もある。
魔虚羅が生きているレベルの爆発なら、オルステッドは確実に生きているだろう。
なら、魔虚羅を巻き添えにする意味がない。
ただ味方を減らして敵が残るだけだ。
それで……えーと。
ああ……頭が朦朧としてきたな。
反転術式で体を無理くり治しながら耐えてるが、もう無理そうだ。
透視眼の視界に入っている魔虚羅の影へと意識を移す。
「……戻れ」
影が魔虚羅の足元に薄く滲んだ。
魔虚羅の巨体が、その黒に沈んでいく。
引きずり込むというより、落ちていく感じだ。
巨体が全部呑まれた瞬間、影が静かに閉じる。
よし。
これであいつを爆発に巻き込まずに済む。
次の瞬間、透視眼の向こうでオルステッドが動きを止めた。
あいつはゆっくり顔を上げて、この領域を見上げた。
……こっちは結界で隔たれてる。
本来なら目が合うはずがない。
なのに、今目が合った気がした。
領域を壊すと言う発想になる前にさっさと詠唱するか。
俺は深夜テンションで考えた詠唱の記憶を引きずり出す。
「……幾重にも連なる龍鱗よ。
刃を受け、熱を抱き、衝撃を呑み込み、
守り続けたがゆえに循環を拒み、
破壊を内に封じ込めた、不滅の檻よ。
その鱗をいま、剥ぎ捨てろ」
詠唱の一節が落ちた瞬間、空気が変わった。
見えている訳じゃないが、領域が縮小していくのが分かる。
「反発、此処に満つ。
断たれ、潰え、無へ還るはずの力の残滓。
相殺し、衝突し、干渉し、
名もなき形へと変わり果てた怨嗟の奔流よ。
今こそ、世界に刃向かえ」
耳が痛い。
痛いを通り越して、頭蓋骨の内側が痒い。
歯が勝手に噛み合って、ガチガチ鳴る。
「来たれ流星。
互いを引き裂き、
互いを求め、
互いを喰らい合いながら、
一つの終焉へと堕ちゆく双つの星。
惹かれ合うことそのものが罪である終末の災厄。
夜天を焦がす流星の如く、
滅びの光を孕みし流転の凶兆よ。
破滅の軌道を描きながら、
今此処に交われ」
領域がビー玉レベルの大きさになった。
最後だ。爆弾のピンを抜こう。
「世界よ……
その瞬間だった。
――ガコンッ
乾いた金属音が、俺の鼓膜を叩いた。
影の中に居るはずの魔虚羅の方陣が回った。
思考が止まる。
なんだ? 何に適応した?
そもそも、なぜ適応した?
魔虚羅は今、影の中に収納してある。
オルステッドと戦ってもいない。
この状況で適応が起きる理由が見当たらない。
意味が分からなくて、脳が一瞬フリーズする。
その間にも、領域が変質する気配がした。
領域が「閉じない領域」へ、書き換わろうとしている。
……結構ラグがあったな。
まあ、領域を弄り回したんだ、処理が遅れても不思議じゃない。
これで溜め込んだエネルギーが、外に逃げ場を見つけて爆発になる。
……はずだ。
はず、はず、はず。
さっきから俺の戦いは「はず」ばっかりだ。
エネルギーは、だいぶ溜めた。
斬撃が斬撃を穿って、砕けて、砕けて、砕け続けた。
俺の身体が先に壊れかけたくらいだ。
だから、威力は期待できる。
期待できる……けど。
オルステッドを倒せるレベルかは分からない。
いや、倒せるかどうかなんて、俺の腕前じゃ計算できない。
計算できるのは、自分の限界だけだ。
倒せたらいいな。
倒せなかったら最悪だ。
倒せても、その後が地獄だ。
そして俺は死ぬかな。
死ぬだろうなあ。
死にたくないなあ……
そんな当たり前の感情が、逆に笑えてくる。
今さら何を言ってんだ、って。
でも本音だ。
生きたい。
その時。
俺の足元に、影が現れる。
「ん?」
いや、俺が出した影じゃない。
勝手に生えてきたみたいに、黒がにゅるっと広がる。
この領域の中で、影は作れないはずじゃ……
影はまるで水たまりみたいに揺れて。
次の瞬間、そこから白い手がぬるりと出てきて俺の足首を掴む。
「うわっ!?」
俺の身体が、影に沈む。
水面みたいに波紋が広がって、次の瞬間には腰まで落ちている。
「ちょ、待っ……!」
俺は抵抗する間もなく、影へ沈んでいった。
息ができない。
影の中は静かだった。
さっきまでうるさかった斬撃の音が、嘘みたいに消えた。
そして目の前に、魔虚羅が立っていた。
目はない。
でも、顔の向きが俺に揃っている。
じっとこっちを見ている気がする。
「……もしかして、爆発から俺を助けてくれたのか?」
理解がようやく繋がった。
あの方陣の回転。
適応の音。
御廚子の領域では影を作れない。
影へ逃げられない。
そのルールに適応して、無理やり影を作った?
俺は喉を鳴らして、変な笑いを押し込んだ。
だって、そんなの無茶苦茶だ。
無茶苦茶だけど、今の状況を説明できるのはそれしかない。
俺は一歩だけ近づいて、魔虚羅を見上げる。
「……魔虚羅」
声が変に震えた。
怖さじゃない。
ありがたさと、申し訳なさが混ざって、変になる。
「俺を助けてくれて……ありがとう」
……いや、分かってる。
俺が死ねば魔虚羅も消える。
術者が死んだら式神も終わり。
そういう損得で動いたのかもしれない。
でも、言わずにはいられなかった。
理由がどうであれ、俺を助けてくれたのは事実なのだから。
影の水面が波立った。
上から圧が落ちてくる。
影が一瞬だけ明るくなる。
爆発が起きたのか……
反射で肩がすくむ。
もし外にいたら、今ので骨ごと消し飛んでたな。
そう思うと背筋が寒い。
俺は影の出口を作る。
このまま引きこもってても意味はない。
息も続かないし、結果を見ないと。
相手が倒れてるかどうか。
倒れてないなら、次を考えないと。
俺は影から抜ける。
外の世界はまだ揺れていた。
衝撃で空気が歪んで、霧が吹き飛ばされて、土煙が渓谷を満たしている。
熱が残っていて、皮膚がチリチリする。
鼻の奥が焦げ臭い。岩が焼けた匂いだ。
そして――被害が見えた。
球体状に、地形が抉られている。
まるで超巨大なスプーンで地面をえぐり取ったように、谷の底が丸く削れていた。
岩の断面が赤黒く焼けて、ところどころ白く光っている。
熱で結晶化したのか、細かい粒がきらきら舞っている。
威力は、まあ……
「二流以下」って言ったの撤回するか迷うくらいには、ちゃんと爆弾だった。
でも。
土煙の奥から感じる圧がある。
重い。
呼吸が止まる。
鳥肌が立つ。
ため息が出そうだ。
俺は透視眼に呪力を通した。
土煙が透け、輪郭が浮かぶ。
……いた。
オルステッド。
コートは消し飛んだようで、上半身裸だ。
皮膚の表面が焦げて、ところどころ黒くなっている。
髪の先も焼けて、少し乱れてる。
……それだけだ。
立ってる。
膝をついていない。
息も乱れていない。
ピンピンしてる、って言うのはさすがに盛りすぎか。
確かにダメージはある。
それでも致命傷には見えない。
この地形の削れ方でこの程度かよ。
オルステッドが、刀を振った。
土煙が左右に割れて吹き飛び、視界が開けた。
その中心で、オルステッドの目が俺を捉えた。
「カイン・アルネス。貴様を対等な敵と認めよう……今この瞬間から、俺の全力を持ってして、貴様を殺すことにした」
俺は乾いた笑いを漏らした。
「ハッ! それは光栄だな、第三ラウンドといこうか」
強がりだ。
指は震えてる。
でも口だけは、軽くしておく。
軽くしないと心臓が潰れる。
その瞬間――俺の胴体が掴まれた。
「なっ?!」
視界の端に白い手。
魔虚羅だ。
魔虚羅が俺の体を片腕で軽々持ち上げている。
持ち上げるというか、拾うように。
そして、崖の上に向けて振りかぶった。
「……おい」
嫌な予感が背中から這い上がる。
「まさか、お前……! 俺を逃がすつもりか!?」
俺は咄嗟に魔虚羅の腕をほどこうとした。
だが、俺の力じゃこいつの手を剥がせなかった。
「待て! 俺は――」
次の瞬間、魔虚羅が俺を投げた。
身体が宙へ放り出される。
渓谷の底から崖の上へ。
ありえない速度で。
投げ飛ばされながら、俺は魔虚羅を見る。
魔虚羅はオルステッドの方を向いていた。
俺を逃がして、自分が残る気だ。
「クソッ……!」
胸の奥が熱くなる。
苛立ちと、悔しさと、情けなさが一緒に煮えた。
俺が足手まといだから。
俺が魔虚羅を使いこなせないから。
俺が“ちゃんと調伏”できてないから。
崖の上へ向かって飛びながら、俺は喉が裂けるぐらい叫んだ。
「魔虚羅ァ! 何でもいいから適応しろ! そしたら調伏がなかったことになって、調伏の儀にまた呼べる!」
自分でも勝手な命令だって分かってる。
でも今はそれしか言えなかった。
「次はちゃんと調伏するから!!」
――ガコンッ!
崖下で、方陣の音が響いた。
乾いており、硬い音。
それでいて胸の内側まで殴られるような音だった。
その瞬間。
魔虚羅が口を動かしたように見えた。
「……え?」
何を言ったのかは分からない。
呪いの言葉を吐いたのかもしれない。
ただの呼吸で、そう見えただけかもしれない。
そもそも、口が動いたように見えただけで何もしていないのかもしれない。
でも、俺はその動きから目を逸らせなかった。
俺は自分の弱さを呪って、唇を噛むしかなかった。