吉野順平:呪術廻戦
赤竜の下顎。
あの通り道へ戻ってきた。
戻ってきたというより……戻された、が正しいか。
崖の縁から下を覗くと、渓谷の底で二つの影が噛み合っている。
オルステッドと魔虚羅が、まだやり合っているのだろう。
俺の胸の奥が、変な鳴り方をした。
戻りたい。戻って何かしたい。
足を一歩でも前に出せば、きっと身体は勝手に下へ向かう。
……でも戻れない。
息を吐くと、白い靄が口元からこぼれた。
それが、やけに現実感を持って俺の目の前に残る。
逃げた。
いや、逃がされた。
戻りたいって感情は当然ある。
でも、それで戻るのは違う。
それは味方の犠牲を無駄にし、命を踏みにじる行為にほかならない。
俺は拳を握り直す。
爪が掌に食い込む。
痛みが頭を冷やす。
俺は視線を上げた。
進行方向は二つ。
ひとつは、アイシャたちが向かったフィットア領方面。
もうひとつは、その逆シーローン王国方面。
「アイシャたちの方へ逃げるか……?」
口に出してみるたが脳がすぐに否定する。
……いや。
オルステッドのヘイトは俺に向いていた。
面と向かって「殺す」と言われたのだ。
あいつが追うなら俺だろう。
俺がアイシャたちの方へ走れば、後ろに災厄を引き連れていくことになる。
なら反対側しかない。
あいつと出会ってから追い詰められたうえでの選択肢しか選んでない気がするが、しょうがない、シーローン王国方面へ逃げよう。
俺が逃げる方向を変えれば、オルステッドの追跡もそっちへ逸れるはず。
そうなれば、アイシャたちの生存率は上がる。
そう決めかけたところで、脳が引っかかりを投げてくる。
「……誰にも見られてないなら意味がないか」
俺がどっちへ走ったか、オルステッドが知らなければ意味がない。
あいつが俺の逃走方向を把握できないなら、結局馬車の方へ向かうのが合理的だ。
なぜなら、あいつにとって確実に居場所が分かるのは馬車なんだから。
何か俺を追跡する方法があるかもしれないが、その可能性に賭けるには、賭ける対象がでかすぎる。
つまり、証言者が必要だ。
俺がどっちへ逃げたかをオルステッドに伝える存在。
俺は呼吸を落として、周囲の気配を探った。
近くから微弱な呪力を感じた。
隠してるというより、そもそも大きくない。
……さっきの仮面の少女だ。
そいつが近くにいる。
近くで息を殺して隠れている。
呪力のない世界で、呪力を持っている。
ということは……たぶん日本人。
同郷。
言葉が通じる可能性。
事情を共有できる可能性。
助け合える可能性。
脳が勝手に甘い選択肢を並べる。
……会話してみるか?
一瞬だけ足がそっちへ向きかけた。
でも、すぐにやめた。
……博打だ。
でかすぎる博打。
まず、あの少女が本当に日本人とは限らない。
呪力を持っている理由が別にあるかもしれない。
それに、あの少女とオルステッドの関係性が分からない。
もし、助けられている立場だったら?
もし、守られている立場だったら?
もし、あいつに借りがある立場だったら?
恩がある相手を裏切るか?
普通は裏切らない。
俺だって簡単には裏切れない。
信用がない。
俺は今誰かと信頼関係を築いてる時間がない。
論外だ。
なら、確実な方に賭ける。
確実に“証言者”として機能する方。
あの少女がオルステッドの味方だろうが、恩人だろうが、なんだろうが。
俺が反対方向へ走れば、それを見たという事実は残る。
あの少女が何者であれ、オルステッドにそのことを報告するだろう。
報告は人間の習性だ。
危険に遭遇した時、人はより強い存在へ情報を渡す。
それが生存戦略として合理的だからだ。
これが一番硬い。
俺は最後にもう一度だけ、フィットア領方面を見た。
アイシャの顔が浮かぶ。
あの声が途切れる未来だけは絶対に阻止しなければ。
俺は踵を返した。
地面を蹴って呼吸を整える暇もなく走り出す。
進路はシーローン王国方面だ。
―――
夜。
焚き火の火が、ぱちりと小さく弾けた。
乾いた枝が割れる音が、闇の中ではやけに大きく聞こえる。
俺は焚き火の向こうをぼんやり見つめたまま、膝を抱えて座っていた。
手のひらを炎にかざすと、熱が皮膚を押し返してくる。
それが妙に現実感をくれる。
俺が今生きているという実感を。
赤竜の下顎からはだいぶ離れた。
だが、途中で魔虚羅の気配が消えた。
ふっと、糸が切れたみたいに。
あれは多分――
「……倒された、か」
俺は手のひらを見た。
焚き火の赤い光が、指の節を強調してる。
爪の隙間に黒い汚れ。
血はもう乾いていた。
焚き火がまた、ぱちりと弾けた。
火の粉が舞って、夜の闇に飲まれて消える。
その消え方がさっきの魔虚羅の気配みたいで、目を逸らしたくなった。
オルステッドには、まだ追いつかれていない。
それが余計に怖い。
追いつかれてないからって安心できるわけじゃない。
むしろ、どこにいるか分からないってことだ。
あいつが今俺の背を追っているのか。
それとも、馬車の方へ向いているのか。
考えても答えが出ない。
答えが出ないのに、脳だけが勝手に回る。
嫌な想像ばかりを、丁寧に組み立て始める。
もし、俺の思った通りにいっているなら。
俺が囮になって、あいつの目を引けているなら。
アイシャたちは助かる。
アイシャがいる。
ノコパラがいる。
ブレイズもいる。
リーリャさんがいる。
それに、ルーデウスがいる。
……あいつがいるなら、なんだかんだ最後は形にする。
俺が知ってるルーデウスはそういう奴だ。
「俺が居なくたって……」
口に出した瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
“居なくたって”なんて逃げの言葉だ。
そう分かっているのに、その言葉がないと呼吸が詰まりそうだった。
……寝よう。
考えだしたらきりがない。
考えても答えは出ない。
出せるだけの情報が、俺にはもう残っていない。
俺は泥のように眠った。
―――
目を覚ますと。
身長が伸びていた。
いや、伸びたんじゃない。
戻っていた。
前世の俺の姿だ。
周りを見回す。
白い。
壁も床も天井も、境界が分からないくらい白い。
眩しいわけじゃないのに、目が疲れる白だ。
まさか……と思ったところで、背後から声がした。
「やあ」
反射で振り返る。
そこに立っていたのは、白いマネキンだった。
輪郭は人間。姿勢も人間。
だが、顔だけがモザイクみたいに潰れている。
「まさか、あんなことになるなんてねぇ……」
『解』
不可視の斬撃が走る。
だが、当たった感触がない。
白いマネキンの輪郭を通り抜け、向こう側へ抜けた。
まるで薄い霧を斬ったみたいに、手応えがゼロだ。
「フフ、ずいぶん怒ってるね」
『解』
また透ける。
また抜ける。
斬撃がただ空間を滑る。
「クク……っ、やめてよ、そんな必死になられたらさ、こっちが笑いをこらえるの大変じゃないか」
『解』
『解』
『解』
「無駄だよ。今のボクたちは触れ合うことすらできない状態だからね」
……で、なんだよ
「お、やっと話す気になってくれたかい?」
用がないなら消えろよ。
「冷たいなあ。せっかく会いに来てあげたのに」
会いに来た?
ハッ! 俺を弄びに来ただけだろ。
「まあ、それも否定はしないけど……それだけじゃない。ちゃんと用があるんだよ?」
お前と一分一秒たりとも会話をしたくはない。
さっさと用を言え。
「無礼な奴だなあ。君はボクが素を出せる数少ない人間なんだ。もっと会話を嚙み締めさせてくれよ」
人をイラつかせるのが得意な奴だな。
「君が勝手にイラついてるだけじゃないの?」
……というかお前。
体治ったんだな。
「まあね。あれぐらいなんてことないよ」
どこがだよ。
めちゃくちゃ焦ってただろうが。
「そりゃ焦るさ。ボクだって痛いのは嫌だし、死ぬのはもっと嫌なんだ。それは君も同じだろう?」
ああ、そうだな。
そこだけは同意してやる。
ほら、楽しい会話ってやつはしてやったぞ?
さっさと要件を言え。
「……その様子だと、ボクの切り札にとことんやられてるようだねえ」
切り札……
オルステッドのことか?
「そう、オルステッドだよ。あの男は厄介だろう?」
あいつはお前の味方なのか?
「そうさ。とっても頼もしい、ボクの切り札だ」
なんでルーデウスを狙わせたんだ?
「……彼もボクにとって邪魔だからね」
なんであいつは俺を観察するみたいに戦ってた。
お前が殺せって言ったなら、最短で殺した方が合理的だろ。
「彼ぐらい強ければ君なんかいつでも殺せるからね、遊んでたんじゃないかい?」
なんであいつはヒトガミという単語に反応した奴を殺そうとしてるんだ?
それじゃあ、お前の味方ってよりも敵側の思考だろ?
「それはねえ――」
バカだろお前。
俺にペラペラと教えようとしすぎだ。
嘘ついてんだろ?
「あれ、もうバレちゃった?」
お前みたいに心が読めなくても、心を読む方法はいくらでもある。
確証がないってだけでな。
「まあ、隠す気もあんまりなかったし、別にいいけどね」
お前みたいに分かりやすい奴が周りに居れば、俺の人間不信もなくなりそうだ。
まあ、分かりやすいってだけで嘘まみれではあるがな。
「褒めてるのか、貶してるのか、どっちなんだい」
オルステッドは、お前に敵意を抱いていたっぽいが。
あいつはお前と敵対してんのか?
「ああ、そうさ」
ずいぶんと簡単に認めるな……
どうやって俺とオルステッドを合わせたんだ?
「それはたまたまさ。本当にたまたま君とオルステッドが出会って、勝手に戦ったんだ」
信じられないな……
どうする?
オルステッドと協力するか?
いや、もし本当にオルステッドがこいつの味方なら死にに行くようなものだ。
「安心しなよ。オルステッドとボクは敵対関係さ」
……お前は俺とオルステッドが協力するのが怖くないのか?
「怖いさ。だからオルステッドに君がボクの使徒だって言っちゃおうかな? オルステッドはいい具合に勘違いしてくれてるようだし、ちょっと匂わせれば簡単にいけそうだ」
そうか、オルステッドの夢の中に出てくれば簡単に伝えられるもんな。
クソッ……詰んでんだろ。
俺は使徒じゃないって弁明するか?
「弁明する前に、君はオルステッドに殺されるんじゃないかな? なにせボクはオルステッドにとっても恨まれてるからね」
……
「あ! それとも君のお友達がボクの使徒だって伝えようか? ノコパラは実際に使徒だったんだ。嘘じゃあない」
……くれ。
「ん? 何か言ったかな?」
止めてくれ。
「フフ……さて、どうしようか。じゃあ君の使い魔……魔虚羅だったっけ? あれをオルステッドにもう一度ぶつけてよ。単体の生物で彼をあそこまで追い詰めたのは凄いことなんだよ?」
無理だ。
次にオルステッドに魔虚羅を当てても確実に適応する前にやられる。
「んー、ボクとしては君とオルステッド。どっちかが死んでくれればそれでいいんだけど……」
それはできない。
俺は死にたくないし、オルステッドを倒せない。
それ以外のことはなんだってやる。
だから、皆には手を出さないでくれ。
「ねえ、言葉使いがなってないんじゃないのかな? ボクは神様なんだ。神様に頼みごとをするのにため口ってのは、流石にないんじゃないかな?」
俺は土下座をした。
自分の影が、白の中で薄く伸びるのが見えて、惨めさが喉に引っかかった。
お願いします、ヒトガミ様。
俺の大切な人たちには手を出さないでください。
俺にできることなら、なんだってします。
「じゃあ、君が死んでくれよ」
……それは、できません。
「どうしてだい?」
俺が死のうとしても、宿儺がいるので俺は多分……死ねません。
「そうか。彼もいたんだったね。便利な言い訳だ……それじゃあ、彼とオルステッドを戦わせることはできそうかい?」
それは、宿儺の性格からして難しいと思います。
そもそも、今は完全に沈黙状態なので。
会話をすることすらできないです。
「はぁ……君が死ねないなら、やっぱり君の周りの人間を殺すしかないんだけど」
……どうしてヒトガミ様は、皆を殺そうとするんですか?
「前も言っただろ? 君の子孫が将来ボクを殺すからさ」
俺の大切な人たちの中に、俺の子孫につながる相手がいるってことですか?
「そうだよ。君もうすうす気づいてるんだろ?」
…………
「ふーん。あくまでも気づいてないふりをするんだね。まあ、そっちの方が都合がいいんだけど……それじゃあまだ足りない。君と一緒でボクも確証のないものが怖いんだ」
俺は頭を床に押し付ける。
白い床に額が触れて、擦れて、それでも止めなかった。
これで何かが変わるなら、みっともなさなんて安い。
「フフ……そこまでしてくれるっていうなら、ボクにも考えがある。なんたってボクは神様だからね!」
感謝します。
ヒトガミ様。
「思ってもないことを言ってボクの機嫌を逸らすなよ」
申し訳ございません。
「こほん……それじゃあ、『お告げ』を与えましょう」
はい。
「これから先の人生。君の知り合った人たちとは、一生関わらずに生きなさい」
……分かり、ました。
「あれ? 意外とすんなり受け入れるんだね」
ヒトガミ様は、これ以上ないほど妥協をしてくれましたので。
私は受け入れる以外の選択肢はありません。
「おお、本気で言ってるね。ま、せいぜいプレゼントの腕輪でも眺めてなよ」
……。
「ウフフッ……あははっ! 君のそういう顔を見たかったんだよ。同じようなことは何回もやって来たけどさ……君みたいに嫌いな奴が相手だと、気持ちよさは段違いだ」
自分でも分かる。
いまの俺は、平静というより感情を握り潰しているだけだ。
こいつに餌をやりたくない。
でも、餌をやらない努力すらこいつにとっては面白く映る。
「もっとそのまま、頑張って平静を装ってみてよ。悔しいかい? 怒ってるかい? それとも悲しいかい?」
どれを選んでも、俺の負けだ。
悔しいと認めたら、悔しさを餌にされる。
怒ってると認めたら、怒りを燃料にされる。
悲しいと認めたら、悲しみを玩具にされる。
沈黙ですら、心を読めるこいつにとっては甘いデザートに過ぎない。
「まあ、そう悲観的にならないでもいいじゃないか。彼らには今、ルーデウスがいるんだ。君が居なくたってどうにでもなる。君が居なくても皆勝手に生きていくさ。人間ってそういうものだろ?」
その言葉は刃物だ。
刃先が見えないのに、確実に皮膚の下へ入ってくる。
俺の存在価値を、薄く、薄く削っていく。
「ねえ、君が必死で守ろうとしてるものって、君一人いなくなった程度で崩れるものなのかい? 違うだろ? 君が信じた人たちなら、君がいなくたってきっと大丈夫さ!」
俺は奥歯を噛んだ。
否定した瞬間、俺は皆を軽く見たことになる。
肯定した瞬間、俺は自分を不要だと認めることになる。
どっちに転んでも、俺の首は締まる。
「君も思ってるよね。『俺が居なくてもいい』って。さっきも言いかけてたんだろ? 焚き火の前で、夜の静けさに負けそうになりながら」
そうですね。
「うーん……反応が鈍いなあ。じゃあ、もっと具体的にしてあげようか。君が消えても、ルーデウスは前に進む。ブレイズもノコパラもリーリャだってそうさ。皆それぞれの人生があるからね。君一人に構ってられる時間なんてない」
名前を並べられるたび、胸の内側が痛む。
大事なものに触れられている。
汚い手で丁寧に撫でられている不快感。
抵抗したいのに、抵抗の仕方が分からない。
「アイシャも……まあ、最初は崩れるかもしれない。悲しんで、苦しんで、君の名前を喉が枯れるまで叫ぶかもしれない。でもね、時間は残酷なんだ。いつかは慣れる。忘れる。そして薄れて、上書きされていくんだ」
想像が勝手に走った。
俺のいない道で泣きながら進むアイシャ。
でもある瞬間ふっと顔を上げる。
誰かが肩を抱いて、誰かが頭を撫でて。
少しずつ笑い方を取り戻していく未来。
それは守れた証拠だ。
幸せのはずだ。
そのはずなのに、胸の奥が焼ける。
「思い出は増えて、君の空席は少しずつ君以外の誰かで埋まっていく。君のこともそのうち忘れるさ」
幸せであってほしい。
でも、忘れられたくない。
俺の名前が「昔」という枕詞で語られる瞬間を想像して、耐えられない。
「君はね、君が必要とされている状態が欲しいんだ。それがないと、自分の価値を信じられない。『自分はここに居ていい』って、許可がないとダメなんだ」
違う……と言えない。
否定したいのに、否定の材料が見つからない。
“必要とされたい”は、ずっと俺の背中に貼り付いていたものだ。
こいつはそこに爪を立ててくる。
「でも、君はその許可を自分じゃ出せない。だからずっと外の評価を欲しがる。褒められたり、頼られたり、感謝されたり。そういう外野からの声がないと、君は許可を出せない」
……お願いします。
俺の心を覗かないでください。
「ああ! 君は人間不信だから、その外の評価すらも信じられないんだったね! 褒められても、裏があると疑う。頼られても、利用されてると疑う。感謝されても、そのうち裏切られると疑う。矛盾していると思わないかい? 自分も他人も信じられないくせに、必要とされたいだなんてさ」
拳に力が入った。
でも俺は土下座のまま、動けない。
動けないから、その力は自分の掌を傷つけるだけで終わる。
「君は“信じない”ことで安全を確保して“必要とされる”ことで存在を確保しようとしてるけど、残念なことに、両方を取るのは無理なんだよ」
……そう、ですね。
おっしゃる通りです。
「だからさ。優柔不断な君に代わってボクが選択をしてあげたんだ。君が関わらないでいいという選択をね。これで裏切られることもないし、信じる必要もない。それに、君の大切な人たちも守れる。最高の取引だと思わないかい?」
……分かりました。
俺は関わりません。
俺が知り合った人たちとは、距離を取って生きていきます。
「うん、いい子だね。存分に楽しんだところで、そろそろ起きる時間のようだ」
白い空間の輪郭が、少しずつ滲む。
遠くが薄くなって、足元がほどけていく。
現実に引き戻されていく。
「それじゃあ、カイン。ボクの『お告げ』をちゃ~んと守るんだよ」
子どもをあやすみたいな声。
最後の最後まで、軽い。
俺の人生を指先で弄ぶ軽さ。
「破ったらどうなるか……賢い君ならわかってるよね」
……はい。
「大丈夫。彼らには、ボクが適当な理由をでっちあげておくからさ。君がいなくなったって、彼らは『君なりの事情があった』って納得する。君の知らない場所で、君の知らない会話をして、君の知らない思い出を増やしていく。その間、君は一人で生きるんだ。誰からも必要とされずに……でも、安全にね」
最後の「安全に」という言葉がやけに甘く感じた。
飴みたいに舌に残って、吐き出せない。
「君はさ……まあ頭がいいんだろうね。でも、熟慮は時に短慮以上の愚行を招くものさ、君ってその典型」
何が言いたいんですか……?
「自分の感情を言語化しすぎてるってことさ。普通、他人の思考は素材のままでボクの前に出される。だからボクがそれをうまく調理して、言葉にしてから、そこをつかないといけない。でも君の場合は最初から料理が出来上がっている。食べやすくて助かるよ」
助かるよ……助かるよ……助かるよ……
ヒトガミのエコーを聞きながら俺の意識は沈んでいった。
―――
目を開けた。
夜の寒さが、まだ皮膚の上に残っている。
焚き火は小さくなって、赤い芯だけがちろちろと息をしていた。
煙の匂いが鼻の奥に残っていて、さっきまでの白い空間が嘘みたいに、生々しい現実が戻ってくる。
身体を起こすと、関節がきしむ。
寝たはずなのに、まるで走り続けた後みたいに体が重い。
それでも、呼吸はできる。
心臓も動いてる。
だから、起きるしかない。
左腕に手が伸びた。
無意識だった。
考えるより先に、触ってしまっていた。
木の感触。
指先が滑って、引っかからない。
手作りなのに、妙になめらかで、角が丸く削られていて、肌に馴染む。
丁寧に削って、何度も磨いたんだろう。
その努力の跡が、指先から嫌というほど伝わってくる。
『見たら私のことを思い出せるように』
そんな言葉が、勝手に思い浮かぶ。
浮かぶな。
……浮かぶなって。
そう命令したところで、脳は命令を聞かない。
むしろ「思い出すな」と思った瞬間、思い出す方向へ全力疾走する。
自分の頭のくせに、俺の味方をしない。
アイシャの顔が浮かぶ。
笑ってる顔。
怒って頬を膨らませる顔。
眠い目をこすりながら、俺の袖を掴む顔。
俺の膝に頭を預けて、安心したみたいに寝息を吐く顔。
「お兄ちゃん」と呼ぶ声が、耳のすぐ横で聞こえた気がした。
……やめろ。
やめてくれ。
だって、もう会えないんだ。
会えないって決めたのは俺だ。
いや、俺は決めてすらいない。
首に刃を当てられて、「どっちがいい?」と聞かれただけ。
それを「選択」と呼ぶのは、あまりにも卑怯だ。
思い出すだけ俺が苦しい思いをするだけだ。
苦しくなると、手が震える。
手が震えると、判断が鈍る。
判断が鈍ると、何かを間違える。
「一目だけ」と言い訳して、足が勝手に戻るかもしれない。
「一声だけ」と自分を騙して、遠くから覗くかもしれない。
「一言だけ」と正当化して、皆の前に出てしまうかもしれない。
俺が守ると決めたものを、俺自身の手で台無しにする。
俺が皆の死体を作る。
それを想像するだけで、胃がひっくり返りそうになる。
だから……しまおう。
俺は腕輪を握りしめたまま、影を呼ぶ。
足元の影が広がる。
そこへ腕輪を落とす。
腕輪が闇に飲まれた瞬間、心も一緒にしまえた気がした。
本当に一瞬だけ。
「…………」
静かだ。
森は何も言わない。
火も、もうほとんど息をしていない。
ぱち、と小さく弾ける音だけが、妙に大きく聞こえる。
分かってる。
どうせ会えない。
どうせ戻れない。
なら、切り替えるしかない。
忘れるしかない。
俺だけの人生を、もう一度最初からやり直すしかない。
誰にも触れず、誰にも触れさせず、傷つけず、傷つかず。
何もなかったことにして、平気な顔をして――
「ッ……そんなこと! できるわけないだろ!!」
叫びながら、腕を振るう。
白い線が空気を裂いて、木々をなぎ倒した。
幹が折れる鈍い音が遅れて響いて、葉がざらざらと雨みたいに落ちる。
鳥が一斉に飛び立って、羽音が暗闇に散った。
森は何も言わない。
怒らない。
責めない。
殴り返してこない。
だから余計に、俺だけがみじめになる。
殴った拳が痛むみたいに、暴れた後の静けさが、俺の滑稽さだけを浮き彫りにする。
……もう嫌だ。
なんで俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
俺が何をしたっていうんだ。
誰かを守りたいって思っただけだろ。
誰かと一緒に笑いたいって思っただけだろ。
それが、そんなに悪いことなのか。
日常ってやつは、そんなに高価なのか。
俺には支払えないものなのか。
支払えなかったから奪われるのか。
会いたい。ただ会いたい。
ブレイズと、言葉がなくても気まずくならない沈黙を味わいたい。
ノコパラと、同じ冗談を何回も擦って、何回でも笑いたい。
リーリャさんと、今日、明日の料理の献立を真面目に考えたい。
アイシャの頭を撫でたい。
撫でたら、くすぐったそうに目を細めて、それで嬉しそうに笑う。
命を削る覚悟ができたのは、きっとああいう時間のおかげだ。
俺は、ようやくそれを知ったのに。
知った瞬間に、取り上げられた。
笑えるくらい、出来すぎてる。
まるで、誰かが俺の顔を覗き込んで、タイミングを測っていたみたいだ。
やっと「一人じゃない」と思えた。
やっと「頼ってもいい」と思えた。
その直後に、こうして一人に戻される。
調子に乗るなと言わんばかりに。
お前が欲しがるな、と言わんばかりに。
……昔からそうだった。
必死に積み上げても、少しだけ手応えを掴んでも、
「よし」と思った瞬間に、全部が無意味になる。
意味を持ちそうになるたびに、潰される。
期待の芽が出るたびに、踏み折られる。
最後に残るのは、いつも同じ感覚だ。
期待した「俺」が馬鹿だった。
信じた「俺」が間違いだった。
手を伸ばした「俺」が、欲張りだった。
……そういうことなら、話は早い。
世界が悪い。運命が悪い。神が悪い。
そう言ったところで、届かない相手に石を投げるだけだ。
投げた石は虚空を切って、跳ね返りもしない。
虚しさだけを連れて帰ってくる。
だから俺は、矛先を探す。
探して、探して、結局いつもの場所へ戻る。
そこは何度も踏み固めてきた道だから、暗闇でも迷わない。
息が詰まっても、足が止まっても、そこだけは確実に辿り着ける。
――俺だ。
責める先を自分にすると、世界が急に単純になる。
「俺のせいだ」と決めると、理由が手のひらに収まる。
収まった瞬間、痛みが形を持って、扱いやすくなる。
扱える痛みは、耐えられる。
きっとこれは、身の丈に合わない幸福を求めようとした俺への罰なんだ。
幸福なんて、俺には早すぎた。
あの時間を「当然」だと思ったのが、間違いだった。
守れると信じたのが、驕りだった。
大切にしたいと願ったのが、欲深かった。
なら――失うのは当然だ。
当然のことが起きただけだ。
俺が「当然じゃない」と騒いでるから苦しいだけで、
最初から「そういうもの」だと思っていれば、こんなに痛くないはずだ。
大丈夫だ。
きっと慣れる。
きっと薄れる。
きっと忘れる。
そうやって生きていけるようにできてるんだろ、人間ってやつは。
俺だけが特別にいつまでも痛いままなんてことはない。
さて。
明日からどうやって今までを上書きしていこうか。
何もなかったみたいに歩けるように。
何も欲しくならないように。
何も守ろうとしないように。
……まずは。
二度寝でもするか。
どうせ考えても無駄なんだ。