馬車の中は、息をひそめたみたいに静かだった。
お母さんとブレイズさんは、いつも通り静かだ。
でも今日はノコパラまで黙ってる。
それどころか、頭に麻袋をかぶって顔を隠している。
意味は分からない。
でも、ふざけてるわけじゃない……と思う。
馬車には、私たち以外にも三人いる。
一人は、ハゲ頭の大人の男の人。
槍を持ったまま、馬車の中でぐったりと横になっている。
もう一人は、赤い髪の女の子。
歳はお兄ちゃんと同じくらいに見える。
馬車の隅でちんまりしていて、膝の上に男の人の頭を乗せてる。
その男の人――ルーデウスさんは気絶している。
……ルーデウスさん。
腹違いだけど、血のつながった本当の兄。
でも「兄」とは呼びたくない。
その言葉は、口にした瞬間別の顔が浮かぶ。
そっちだけに使いたい。
そっちじゃないと、嫌。
だから、今はルーデウスさんと呼ぶ。
そう決めた。
そして、揺れが少し大きくなった時。
赤髪の女の子の膝の上で、ルーデウスさんの指がぴくりと動いた。
「る、ルーデウス……目が覚めたの!?」
「う……げほっ!」
その声に反応するみたいに、ルーデウスさんの体が小さく跳ねる。
喉の奥から濡れた音がした。
次の瞬間、血が口元に溢れる。
「大丈夫ですか! ルーデウス様!」
お母さんがすぐに動いた。
声は丁寧なのに、焦りが隠れていない。
膝をついて懐からハンカチを出して、血を拭こうとする。
「ルーデウス、大丈夫なの?」
「だ、大丈夫です。ちょっと……肺に残った血が出てきただけですから」
「そう……」
赤い髪の子は、言葉を飲み込んだみたいに短く返した。
拳が膝の上で固く握られている。
ルーデウスさんは周りを見回した。
視線が私たちを順番に通って、最後にお母さんに止まる。
「何があったか詳しく教えてもらえますか? カインたちのことは、父様からある程度は聞いてますが……今この状況は、あまり把握しきれていないので」
お母さんは一度息を吸って、ゆっくり話し始めた。
赤竜の下顎で、ルーデウスさんがオルステッドという人に殺されかけていたのを偶然発見して、お兄ちゃんが助けに向かったこと。
私たちは、お兄ちゃんが時間を稼いでくれている間に逃げたこと。
話を聞き終えたあと、ルーデウスさんは少しだけ目を伏せた。
何かを噛みしめるみたいに言った。
「カインは、オルステッドを引き付けてシーローン王国方面に向かったらしいです……」
「どうしてそれを?」
お母さんが眉を寄せて聞く。
「えーと……気絶する前に、聞かされたんですよ」
ルーデウスさんは視線を逸らして、少しだけ苦笑した。
……なんで。
なんで私に言ってくれなかったの。
その考えが浮かんで、すぐに飲み込んだ。
言ってくれなかったんじゃない。
言えなかったんだ。
私たちじゃ、どうにもできない相手だったんだ。
私たちがいれば、邪魔になる相手だったんだ。
だから最善を選んだだけ。
それだけ。
実際、私は殺されかけた。
あの手がナイフみたいに頬を掠った。
頬が熱くて、何が起きたのか分からなくて。
恐怖で私は少し漏らしてしまった。
お兄ちゃんが間一髪で助けてくれなかったら、私は死んでたと思う。
私は、お兄ちゃんが大丈夫だと信じることしかできない。
信じる以外の行動をしたら、私は邪魔になる。
その時、ルーデウスさんが自分の服の中を探った。
首元に指を入れて、何かを引っ張り出す。
「リーリャさん。このペンダントと……アレ。ありがとうございます」
「どうしてルーデウス様がそれを? それはシーローン王国に置いてきたはずなのですが……」
「実はですね――」
そこから先は、ルーデウスさんの話だった。
どうやらルーデウスさんも、私たちと同じで魔大陸に転移していたらしい。
ルーデウスさん。
赤い髪の子――エリスさん。
ハゲ頭の人――ルイジェルドさん。
その三人で「デッドエンド」というパーティーを組んで私たちと同じ道を通って、エリスさんをフィットア領に連れ帰るために旅をしたこと。
ペンダントは、シーローン王国で第三王子がルーデウスさんを探してて、そこで捕まった時に手に入れたものだと言う。
さらに第七王子にちょっかいをかけられて、ひと悶着あったとも聞かされた。
お母さんは、そのペンダントのことをぽつりと言った。
本当はルーデウスさんの十歳の誕生日に送るつもりで持っていたけど、転移で城に来た時に兵士に管理没収されたせいで、あの城に置きっぱなしだったと。
……そういう話だった。
馬車の中に短い沈黙が落ちる。
その沈黙を割ったのは、ルーデウスさんだった。
「アイシャ……ですよね?」
「初めまして……ルーデウスさん」
「はい。初めまして、アイシャ」
会話が続かない。
いや、そもそも私に続ける気がない。
この人と何を話せばいいんだろう。
聞きたいこともそこまでない。
血が繋がっているって言われても、今まで居なかった人は、やっぱり居なかった人だ。
「えーと……アイシャも魔大陸を旅したと父様から聞きましたが、大丈夫でしたか?」
「お兄ちゃんがいたので大丈夫です……」
自分でも愛想が悪いって分かる言い方だった。
でも丁寧に答える余裕がない。
余裕がないのに、この人は変に落ち着いているように見える。
その落ち着きが、なぜか……嫌だった。
「お兄ちゃん……カインのことですか?」
私は頷く。
言葉にすると喉が詰まりそうで、頷くことしかできない。
「やっぱりカインは凄いですね。僕たちなんてルイジェルドさんがいなかったら、どうなってたか……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さい火種が落ちた。
お兄ちゃんが凄いのは、私が一番知ってる。
凄い。強い。優しい。頼れる。
……でも、それは今言うことなの?
今する話って、魔大陸でどうだったとか、ルイジェルドさんがいなかったらとか、そういう“思い出話”じゃない。
今この瞬間、お兄ちゃんが戦ってるかもしれないって話じゃないの?
なんで、もう大丈夫みたいな顔をするの。
友達じゃないの?
心配じゃないの?
そう思った瞬間、視界の端に映ったものがさらに私をイラつかせた。
……膝枕。
膝枕をしているエリスさんの腰にすがりつくように、ルーデウスさんが抱きついた。
顔がにやけてる。
泣きたいのを誤魔化してる顔なのかもしれない。
でも、それでも。
今それを見せられたら、胸の奥がぐにゃってねじれた。
「叩くわよ」
エリスさんが言った。
怒ってる声なのに震えてる。
「いいですとも」
次の瞬間。
コツン。
軽く頭を叩かれて、ルーデウスさんは目を細めた。
……何やってるの。
エリスさんは、殴った手を引っ込めたと思ったら、今度は引き寄せた。
ルーデウスさんの頭を、ぎゅって抱え込んで、胸に押しつける。
「……ルーデウスが、生きてて……よかった……」
泣き声が混ざった。
エリスさんの肩が小さく揺れて、ルーデウスさんの頬に涙が落ちていくのが見えた。
私は言葉を選ぶ余裕なんてなかった。
選んだら、引っ込めちゃいそうだったから。
「なんで、なんでそっちが泣いてるの?」
「え……?」
ルーデウスさんが、顔だけをこっちに向けた。
抱きしめられたまま。
その顔は弱い顔だった。
弱くて、でも安心してる顔だった。
それが嫌だった。
「お兄ちゃんが……友達が心配じゃないの?」
言い方がきついって分かってる。
でも、きつく言わないと誰も気づかない気がした。
「心配ですよ……もちろん……」
ルーデウスさんは、ちゃんと答える。
ちゃんと答えてるのに、私のもやもやは消えない。
頭の中で、煙がぐるぐる回ってる。
「じゃあ、なんで膝枕なんかできるの?」
「それは……」
ルーデウスさんが言葉に詰まる。
その間にエリスさんが、ぐっと顔を上げて私を睨んだ。
「なによ! ルーデウスは死にかけたのよ! 安静にしてなきゃじゃない!」
「でも、抱き着く必要ないじゃん!」
私も負けずに言い返す。
言い返した瞬間、胸が少しだけ軽くなる。
軽くなるのが嫌だ。
こんなので軽くなる自分が嫌だ。
「しょうがないじゃない! ルーデウスが死ぬって思ったら、そうしたくなったんだから!」
「アイシャ! やめなさい!」
お母さんが私の肩を掴んで引いた。
でも、掴まれた場所だけが熱くなるだけで、口の中の言葉は止まってくれなかった。
「ルーデウスさんは、もうお兄ちゃんに助けてもらったじゃん! もう死なないじゃんじゃん! 今死ぬかもしれないのは……お兄ちゃんじゃん!」
自分でも、子どもっぽい言い方だって分かる。
分かるのに直せない。
頭で整える前に、言葉が勝手に転がっていく。
「じゃあなによ! あいつのところに戻れっていうの!?」
「そうじゃない! そうじゃないけど……っ!」
違う。違うんだよ。
戻れって言いたいんじゃないの。
でも、じゃあ何が言いたいのって聞かれたら、うまく言えない。
頭の中で、言いたいことが絡まって言葉にならない。
「何が言いたいのよ……」
エリスさんが立ち上がった。
その拍子に、膝の上のルーデウスさんの頭がずるっと滑る。
「エリス……僕は大丈夫ですから……」
「全然大丈夫じゃないわよ! ルーデウスは死にかけたのよ!? それなのに安静にするのが悪いってわけ!?」
エリスさんが怒鳴る。
怒鳴りながら、手は震えてる。
……分かってる。
大切な人が生きててくれるのは嬉しい。
もし私が逆の立場だったら、きっと同じことをする。
抱きついて、離したくなくて、何度も確かめたくて、泣いてしまうと思う。
なのに、なんで私は怒ってるんだろう。
何が言いたいのか、自分でも分からない。
頭の中がぐちゃぐちゃで、なにも分からない。
いつもなら、お兄ちゃんがほどいてくれた。
言葉の糸を引っ張って、絡まりをほどいて、「アイシャはこう思ってるんだろ?」って、当ててくれたのに。
今は私が自分で解かなきゃいけない。
でも、解こうとすればするほど、引っぱった糸が絡まって固くなる。
息が詰まって、喉が痛くなって、目が熱くなって、声が勝手に出た。
「おにいぢゃんに……しんでほじぐない……っ」
涙が出て、鼻がつまって、息がうまく吸えなくて恥ずかしかった。
でも止められない。
「やだぁ、やだよぉ……おにいぢゃん! かえってきてよぉ!」
自分の顔がぐしゃぐしゃなのが分かる。
恥ずかしい。
でも、恥ずかしいより、怖いほうが大きい。
怖いが大きすぎて、恥ずかしさが押しつぶされる。
馬車の中が、一気に静かになった。
さっきまでの言い合いの熱が嘘みたいに引いて、私の泣き声だけが残る。
その静けさを、別の声が割った。
「ルーデウス、説明しろ……ここはどこだ。なぜ子どもが泣いている」
槍を抱えた大人の人――ルイジェルドさんが、上体を起こしていた。
「ルイジェルドさん……! 起きたんですか!」
「……ここは馬車か? あいつはどうなった?」
「実はですね――」
ルーデウスさんは、ルイジェルドさんに状況を話し始めた。
言葉が続くたびに、私は手を握った。
爪が掌に食い込んで痛い。
でも、痛い方がいい。
胸のぐちゃぐちゃが少しだけ散る。
「カインというのは……お前がいつも話していた奴のことか?」
「はい」
ルイジェルドさんの眉がぐっと寄って、槍を握る手に力が入る。
「なら子どもではないか! 子どもを置いて逃げたのか!」
「あいつがそう判断したんだよ……俺達は邪魔だってな」
麻袋をかぶったまま、ノコパラが言った。
声が疲れてる。
悔しさを飲み込んでる声。
「同じことだろう!」
ルイジェルドさんが、馬車の出口に手をかける。
今にも飛び出しそうな勢いだ。
「戻る。子どもを死なせるわけにはいかん」
そう……普通はそう言う。
私が欲しかったのは、この反応だったのかもしれない。
なのに――
「大丈夫です」
ルーデウスさんが、強く言った。
その声は、迷いのないものに聞こえた。
「なぜだ!」
「……大丈夫です。今は僕を信じてください」
ルイジェルドさんが、歯を噛みしめるみたいに黙った。
そのまま、私たちを一人ずつ見て最後にルーデウスさんを見た。
「何か理由があるんだな?」
「はい」
「……分かった、信じよう」
ルイジェルドさんは、まだ納得してない顔だった。
でも、槍を下ろした。
踏みとどまった。
“信じる”って言った。
その瞬間、もやもやの正体がやっと見えた気がした。
……そっか。
ルーデウスさんは、お兄ちゃんを信じてるんだ。
だから、あんなふうに膝枕なんかできてた。
だから、泣いてるエリスさんを受け止める余裕があった。
だから、さっきの私の言葉にも、ちゃんと向き合えてた。
……私は、違った。
私が怒ってたのは、ルーデウスさんが安心してるのが許せなかったんじゃない。
膝枕が気に入らなかったわけでもない。
ルーデウスさんが、お兄ちゃんを信じてたからだ。
信じてるから、落ち着いていられた。
だから、私の怒りが浮いて見えた。
私だけが信じきれてないみたいで……嫌だった。
お兄ちゃんを一番知ってるのに。
お兄ちゃんを一番大事に思ってるのに。
信じるって言い切れない自分が嫌で。
その嫌さを、怒りにして投げてただけ。
私の怒りは、誰かへの怒りじゃなくて。
自分の中の弱さに向けた怒りだったのかもしれない。
それに気づいた瞬間、涙がまた落ちた。
さっきの泣き方とは違う、静かな落ち方。
私は袖で乱暴に拭いて、息を吸って声を押し殺して泣いた。
―――
二度寝から起きて、しばらくは体が動かなかった。
動かなかったっていうか、動かす理由が見つからなかった。
起き上がるって、目的がないとこんなに面倒なんだな……って、妙に冷静に思う。
俺はぼんやりしたまま、ずっと馬に変身している『虎葬』の視界を共有していた。
いや、共有“し続けてしまっている”の方が正しい。
目の前の森を見ても、現実感がない。
視界の片隅に、別の場所の景色がずっと貼り付いているせいだ。
だから今は、別の何かで上書きをしたかった。
『虎葬』は、もう町の近くにいた。
近くどころか、ちゃんと入ってる。
門をくぐって、人の気配の濃い通りを歩いて、馬宿の前まで辿り着いてる。
……偉い。
俺よりよっぽど偉い。
俺なんて焚き火の前で寝て起きて、まだ人生のロードマップが真っ白だってのに。
今の『虎葬』は馬宿に繋がれている。
すると、ふいにその鼻先をちいさい手が撫でた。
……アイシャだ。
小さな手が馬に変身している『虎葬』の首を何度も何度も撫でる。
指が滑って、毛並みが逆立つくらい、同じところを擦っている。
アイシャの顔が、ちらっと見えた。
灯りの下で、目の下に影が落ちてる。
口元が、きゅっと固い。
笑ってない。
……どうしたんだろうか。
町に着いたんだし、みんな生きてるし、今はとりあえず休めるはずだ。
それなのに、あの顔。
理由を探し始めた瞬間、俺の頭が勝手に答えを作り始める。
「もしかして……俺がいないから、か?」
……って、そんなわけあるか。
自分で言ってて腹立つ。
腹が立つし、惨めになる。
こういう冗談は、笑って誤魔化せる相手がいてこそ成立するんだよ。
今の俺が言っても、うすら寒いだけだ。
寒いのは空気だけで十分なのに、俺の言葉まで冷えるのは勘弁してほしい。
あー……これが最後か。
アイシャの顔を見るのはこれが最後。
そう決めた。決めさせられた。
どっちでもいい、結果は同じだ。
このまま見続けたら、俺が何をしでかすか分かったもんじゃない。
俺は基本的に我慢が得意じゃない。
得意なのは、我慢してるフリだけだ。
上手いせいで、たまに自分まで騙される。
俺が今アイシャに何かをしてやれるわけでもない。
助けに行けない。声も届かない。
抱きしめることも、頭を撫でることもできない。
できないのにアイシャの顔を見て、自分だけ満足する。
なんて卑怯な奴なんだろうか。
皆を信じよう。
今はそれしかない。
信じる以外の選択肢が、全部地獄に繋がってる。
だったら、消去法で信じるしかない。
向こうは宿に着いたっぽいし、もう大丈夫だろ。
ルーデウスもいる。
「そういえば、ルーデウスがボレアス家での家庭教師が終われば、アイシャとノルンちゃんの家庭教師にしようなんて案をゼニスさんが提案してたな」
そうだな、俺が居なくたってアイシャの……皆の人生は何の問題もなく進んでいく。
……よし。
ここで切る。
ここで終わり。
俺は深呼吸した。
息を吸って、吐いて、もう一回吐いて、視界の奥に手を伸ばす感覚で糸を引いた。
ぷつん、と。
アイシャの表情が切れた。
切れた瞬間、胸が軽くなる。
軽くなるのが、また嫌だ。
自分の心が相変わらず都合よすぎる。
都合よく軽くなって、都合よく重くなって、都合よく傷つく。
それで、都合よく生き延びる。
生き延びるって、そういうことなのかもしれない。
……いや、あんまり考えるとまた気分が落ちるからやめよう。
百害あって一利なしだ。
影に戻した『虎葬』の気配が、足元の暗いところに沈む。
そこにいるのに、いないみたいだ。
「ふぅー……」
息を吐いたら、白く曇った。
寒いな。
寒いと人はロマンチストになるとどこかで聞いた。
だか、俺の場合は寒いと卑屈になるらしい。
……で。
これから何をしようか。
「えーっと……………」
何も思い浮かばない。
頭の中が空っぽだ。
まあ、当然と言えば当然だ。
“予定”とか“目的”とか、そういうのが全部、誰かと繋がっていたんだからな。
繋がっていたものを切ったら、目的も一緒に切れた。
当たり前のことが当たり前に起きただけだ。
でも、空っぽってのは悪くない。
空っぽだと、余計な希望が湧かない。
希望が湧かないなら、裏切られもしない。
……いや、これはちょっと言い方が暗すぎるか。
まあいい。
考えても出ないものは出ない。
出ないなら出ないなりに動くしかない。
こういう時に立ち止まると、ろくなことを考える。
ろくなことを考えて、ろくなことをする。
俺は自分のその癖を知ってる。
オルステッドが来てるかもしれない。
来てないかもしれない。
でも、来てる前提で動いた方が後悔は少ない。
後悔の数を減らす。
完璧な正解を選ぶのはもう無理なんだ。
この先の人生は、マシな地獄を選び続けるだけ。
俺がみんなに近づかない限り、ヒトガミはオルステッドを意図的に差し向けることはしないと約束した。
あいつが約束を守るやつには見えない。
しかし、だからといって俺がみんなの所へ戻ればオルステッドも連れて行ってしまうかもしれない。
それだけは避けなければいけない、
まあ、ヒトガミが差し向けなくてもオルステッドのヘイトは俺に向かっている。
なら、俺がオルステッドを引き連れて皆から離れればいいだけの話だ。
つまり――俺が「ここにいる」と分かる痕跡を残して、俺の方へ来てもらう。
言い方だけ聞くと、なんか恋愛の駆け引きみたいだな。
追ってほしいのは事実だけど、追われたいわけじゃないんだよ。
ややこしい。
んー……分かりやすくするなら、森を壊しながら進むのが手っ取り早いか?
木をへし折って、地面を抉って、遠くから見ても「通ったな」って分かる道を作る。
うん、想像だけなら気持ちいい。
……いや、あほなのか?
派手にやり過ぎたらあいつだって「誘導」だと気づくに決まってる。
警戒されたら追跡の優先度まで下がりかねない。
あと普通に、森に申し訳ない。
森は悪くない。
悪いのはいつだって俺だ。
森を壊す以外で、オルステッドが勝手に寄ってくる状況……
うーん、有名になるか?
有名になるって言葉だけ見ると、陽キャっぽいな。
俺、陽キャじゃないんだけどな。
でも陽キャのふりはうまい自負はある。
まあ、金魚のフンがうまいって言った方がいいか。
輪の中心じゃなくて、中心の近くを漂うのが得意。
……いや、今は一人なんだった。
一人で金魚のフンって何だよ。
というか有名か……
なんか、握手会とかやるのか?
「サインください!」って言われて、木の板に『捌』で刻むのか?
……さて、しょうもない冗談はここまでにして、どうやって有名になるかだが。
一番無難なのは冒険者だな。
この世界は強い奴が目立つし、目立つ奴の情報は勝手に遠くへ飛ぶ。
酒場で語られて、掲示板に貼られて、ギルドの職員が口を滑らせて、旅人が盛って話して、最終的に原型がなくなる。
噂が回れば居場所も回るはず。
今の俺はA級だ。
S級にでもなれば、ちょっとは箔がつくだろ。
S級って言ったら、町の酒場で知らないおっさんが勝手に話を盛るレベルだ。
「見たか? あいつが噂の――」てな感じで、勝手に二つ名まで付けられる。
……やだな。
二つ名とか、絶対変なのになる。
まあ、俺の名前が入っていれば何でもいい。
オルステッドに俺の名前を名乗ってるしな。
でもなー、S級になるの時間かかりそうなんだよなー
いや、時間は……あるのか。
今から一人で延々と生きる予定だし。
んでS級になる条件は、確か二つ。
A級の仕事を百回こなすか、
S級の仕事を二十回連続でこなす、だったよな。
魔大陸以来、A級の依頼なんて全くしてないからな。
百回は普通にめんどくさい。
一つ一つは大したことなくても、積み重ねると生活が仕事になる。
生活を仕事にしたいわけじゃないんだよな。
仕事を“餌”にして噂を作りたいだけだ。
それに、この方法でS級に行っても、噂にはなりにくそうだ。
じゃあS級二十回連続の方か。
ただ、S級の依頼が毎回あるかって言われたら、そうでもないんだよな。
まあ、町を転々としながら、S級があれば受ける、なきゃ次の町へ、って感じで回るしかない。
流れ者の冒険者って響きはちょっと格好いいな。
S級の依頼は受けたことがあるけど、戦闘系が多い。
戦闘系なら俺に向いてるし、手早く終わらせやすい。
別に噂が広がればいいだけだし、ロキシーさんみたいに迷宮でも攻略でもしようかな?
迷宮ってのは分かりやすい。
危険がある。報酬がある。実績が残る。
しかも、基本的に自己責任だから、周りを巻き込みにくい。
俺がやらかしても、迷宮の中なら被害範囲が狭い。
十種があるから、ソロ攻略も現実的だ。
偵察、索敵、移動、運搬、全部を一人でできるからな。
一人なのに、数だけは多い。
孤独のパーティーだ。
……あ、パーティーも解散しなきゃだな。
パーティー解散の条件って何だっけ?
リーダーが死亡した時は自動解散、ってのは知ってる。
じゃあ……いったん死んで、『円鹿』に治してもらえば脱退扱いになったりする?
いや、発想が物騒すぎる。
保険金詐欺みたいな発想はやめろ。
そもそも、死を検知できるような感じでやってないだろうし、ただ勝手に死んで勝手に生き返った奴になるだけだ。
いや、でもギルドカードとかこの世界の技術基準で見るとオーバーテクノロジー的なところがあるんだよな……
まあいいや。
解散はせずに、脱退だけで済ませよう。
俺一人が抜ければいい。
どうせ単独行動を続けるつもりなんだから、面倒は先に片付ける。
で、有名になってオルステッドを引き付けるって案だが。
問題があるんだよな……
噂は便利だけど、誰にでも届く。
届いてほしい相手だけに届く方法なんて、そんな都合のいいものはない。
みんな耳にも入るかもしれない。
入ったらどうなる?
「何あいつ? 俺たち置いて一人で楽しく冒険者してんの?」
みたいに思われるだろうか。
うわ、きっついな……
流石にそんなことは言われないと思いたい。
あるいは、会おうとしてくれるだろうか。
その場合、全力で逃げさせてもらうけど。
逃げながら心の中で泣く。
最悪な青春映画だ。
上映したくない。
もし追って来てくれたら、
「探さないでください」って定番の置手紙でも書くか。
いや、それだとほとんど「探してください」って言ってるのと同じだな。
探さないでと書くやつは、だいたい探してほしいのだ。
俺も例外じゃない。
そもそもヒトガミが皆にどんな伝言を言ってるか、そこが一番怖い。
皆が納得できる理由。
俺が急に失踪しても「そうか、なら仕方ない」って思える理由……
一番無難なのはオルステッドを引き付けるから追わないで、みたいな感じか。
……まあ、なんにしても、俺の知らない場所で俺の物語が勝手に作られていくのは、気持ちが悪い。
というかあいつ、どうやって皆に伝言を届けるつもりなんだ?
やっぱり定番の夢?
それとも誰かに言わせる?
もしかして手紙か?
いや、手紙はさすがに無理か。
……無理って決めつけるのも危ないな。
あいつは何でもやりそうだし。
ま、俺の知らない方法でもあるんだろう。
なんたって神様だしな。
次に会った時にでも聞いてみるか。
はあ……会いたくないな。
あいつの顔を思い浮かべるだけで憂鬱になってくる。
まあ、あいつの顔はモザイクなんだけどな。
「はは……」
……無理に笑うと余計にみじめになるからやめよう。
笑い声ってのは、無理に出すもんじゃない。
今の俺の笑い声は、ただ地面に落ちて溶けるだけの雪みたいなものだ。
お、今のちょっと詩的だったな。
詩的になってる場合じゃないけど。
「よし! 冒険者になって名を上げて人生逆転するぞー!」
自分で言ってて、ちょっとだけ笑いそうになった。
嘘だ。
全然笑えない。
でも、口角は上がった。
上がったなら十分だ。
あとは歩けば、勝手に体が追いつくはずだ。