受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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長くなりました。


七十三話

 

「僕はカインを信じきれてるわけじゃないんです……」

 

 

「え……? 信じてないの?」

 

 

私の口から出た声が思ったより小さくて、なんだか情けなかった。

問い詰めたいわけじゃないのに、問い詰めるみたいな言い方になってしまって、私は口を開いたことをちょっとだけ後悔する。

 

 

「あ、いや……誤解しないでくださいよ。信じてない、って意味じゃなくてですね……」

 

 

ルーデウスさんは慌てて手を振ってて、焦ってるのが丸わかりだった。

 

 

「絶対的には信じきれていない……そういうことだろう?」

 

 

ルイジェルドさんが低い声で言って、視線をまっすぐルーデウスさんに向けた。

 

 

「そう、ですね……信じきれてるかって言われると、正直分からないです。だって、向こうの状況は分からないですし、相手はルイジェルドさんでもかなわないぐらい強いですから……」

 

 

……じゃあ、なんで。

なんでルーデウスさんは、昨日からあんなに安心した顔ができたんだろう。

怖いのに、分からないのに、それでも“待とう”って言えるのは、どうして。

分からない。

けど、分かりたい。

私の中でぐちゃぐちゃに絡まってる不安を、ほどく何かが欲しかった。

 

 

「アイシャからしたら、僕がカインを信じきれているように見えたんですよね?」

 

 

「……うん」

 

 

「なら、良かったです」

 

 

私が小さく頷くとルーデウスさんは肩の力を抜いて、ほんの少しだけ笑った。

その反応の意味が分からなくて、私は瞬きをした。

 

 

「何がよかったのよ?」

 

 

さっきまでそっぽ向いてたエリスさんが言った。

分からないなら分からないって顔をしながら、それでも答えを待つように腕を組み直してる。

 

 

「そう見えたことが、です」

 

 

ルーデウスさんは、そう答えてから少しだけ視線を落とした。

 

 

「僕だってちゃんと怖いんですよ。カインが絶対に大丈夫だとは言い切れないです。最悪の想像だって、普通に出てきます」

 

 

……私もだ。

私も昨日から、それが勝手に出てくる。

お兄ちゃんが帰ってこない想像。

私が追いかけて、足手まといになって、もっと最悪になる想像。

どれも見たくないのに、目の裏に勝手に浮かぶ。

 

 

「でも、それでも……カインのことは信じていたいんです」

 

 

……私だって、お兄ちゃんを信じたい。

それなのに、頭の中にはたくさんの“もしも”が溢れて、最悪の想像が次々と湧いてくる。

信じたいって思ってるのに、疑ってしまってる自分がいる。

それじゃあ信じてるなんて言っていいのか分からなくなってしまう。

 

 

「それは僕ができるカインへの恩返しというか……返し方なんです」

 

 

「恩返し?」

 

 

私は反射で聞き返していた。

その言葉に引っかかったのは、たぶん私にも返したいものが沢山あるからだ。

全部、私の中ではまだ“受け取ったまま”で、返せた気が一つもしてない。

その返しきれてない相手が、今いなくなりそうで、だから私は余計に怖い。

 

ルーデウスさんは一瞬だけ目を泳がせて、言葉を選ぶような間を置いた。

 

 

「カインは……誰かに頼るのが得意な人じゃないんです。優しいのに、必要以上に自分の内側で抱え込むところがあって、他人に『信じる』って言われるのを、簡単には受け取れない感じがあるというか……」

 

 

それは、お兄ちゃんの“そういうところ”を、ちゃんと知ってる人の言い方だった。

優しくされるほど疑ってしまうところとか、軽い励ましほど怖がるところとか、そういうのをたぶん知ってる。

はっきり言わなくても分かる。

言葉の選び方が、避け方が、触れ方が、知ってる人のそれだった。

 

 

「そんな人なのに、カインは昔……僕に『友達でいたい』って言ってくれたんです」

 

 

「友達でいたい……」

 

 

お兄ちゃんが誰かにそんな風に言うところを私は見たことがない。

仲間とか、守るとか、責任とか、そういう言い方はする。

でも「友達でいたい」って、もっと違う。

たぶんそれは、お兄ちゃんにとって弱いところが見えちゃう言葉で、だからこそ相手を選ぶ言葉なんだと思う。

私はお兄ちゃんの弱いところを見せてもらうのにだいぶ苦労した。

黙って抱え込む人だから、言わないで済ませようとする人だから、面倒くさいほど優しい人だから。

 

ルーデウスさんは、その時のことを思い出すように目を細めて言った。

 

 

「その時のカインの顔は、優しい顔なのに……少し、怯えてました」

 

 

……怯えてる顔。

それは私もよく見る。

お兄ちゃんはふいにそういう顔をする。

優しい顔なのに、目だけが少しだけ遠くを見るみたいに曇って、声が弱くなる。

 

大丈夫だよって言いたいのに、根拠がないから言えなくて、言えない自分が情けなくて、だけど軽い言葉を投げるのはもっと怖い。

お兄ちゃんは、そういう嘘を簡単に見抜く。

だから私は、お兄ちゃんに対して軽い言葉を吐きたくない。

疑ってるのに信じてるとは言いたくない。

言ったら、たぶん私の方が耐えられない。

 

そんな私の沈黙にルーデウスさんは、少しだけ肩をすくめてほんの小さく笑った。

 

 

「……あの時、僕はすごく嬉しかったんです」

 

 

嬉しかった。

その一言が意外だった。

もっと立派な理由が来ると思っていたのに、出てきたのは“嬉しい”だった。

 

 

「……僕も人を信じるのが怖いって感覚はある程度知ってるんです。だからこそ、その怖さを抱えたまま『友達でいたい』って言われたのが、すごく刺さったというか、嬉しかったんですよ……本当に」

 

 

分かる気がした。

お兄ちゃんが私に「大事にしたい」って言ってくれた時、私も嬉しかった。

それは、ただお兄ちゃんが好きだから嬉しいってだけじゃない。

 

……多分その理由は――

 

と、言葉にしようとした瞬間に、ルーデウスさんが先に続けた。

 

 

「だから僕も、同じように返したいんです。ただ、言葉だけだと届かない人もいるって知ってます……昔、そういう人を見たことがあるので。だからカインには、言葉じゃなくて行動とか態度で示したほうがいいと思ったんです。疑いがあっても、“信じる行動”はできますし、それが少しでも伝わるなら、それが僕の返し方だと思うんです」

 

 

そう言ってから、ルーデウスさんは少しだけ視線を逸らした。

話したくないところをぎりぎりまで出してくれたみたいな顔だった。

“昔見たことがある”って言い方が、少しだけ引っかかった。

でも、今はそこを聞く時じゃない。

もっと別の言葉が私に刺さった。

 

――疑っていても信じる。

 

……そうだ。

お兄ちゃんだって、疑う気持ちは持ってた。

それでも信じようとしてた。

そのことに、私は嫌な気持ちなんて一度もなかった。

むしろ嬉しかった。

疑う気持ちが残ってるのに、それでも私を大事にしたいって言ってくれた。

だから嬉しかったんだ。

お兄ちゃんをただ好きだったからって理由じゃなかった。

“怖いままでも、私を選んでくれた”のが嬉しかったんだ。

なんでこんな簡単なことに、私は気づかなかったんだろう。

 

 

「じゃあさ……」

 

 

声が震えそうで、私は一回喉を鳴らしてから言った。

 

 

「お兄ちゃんを疑ってても、お兄ちゃんを信じていいの?」

 

 

言った瞬間、心臓が強く鳴った。

自分の弱さをそのまま差し出したみたいで、怖かった。

 

ルーデウスさんは、すぐには答えなかった。

でも、迷ってる沈黙じゃなくて言葉を選んでる沈黙だった。

そのあと、ゆっくり頷いて言った。

 

 

「……いいと思います。どれだけ怖いと思ってても、信じたいと思ってるなら信じてもいいと思います。『怖い』って気持ちがあるからといって、『信じたい』って気持ちが消えるわけじゃないですからね」

 

 

その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中が急に静かになった。

静かになったというより、別の声が聞こえた。

 

――お兄ちゃんの声。

 

『どんなに沢山の面倒くさいでも、アイシャを大事にしたいって気持ちには勝てないよ。人間って、ひとつの感情だけで動いてるわけじゃないからさ』

 

気づけば私の口角は上がっていた。

笑うつもりなんてなかったのに。

でも、胸の奥がちょっと軽くなって息が通った。

 

うん。

そうだよね。

 

信じきれなくても、信じていい。

疑ってしまってても、信じていい。

 

お兄ちゃんが私にダメなところがあっても、大事にしたいって言ってくれたように。

私も信じるのが怖くても、疑ってても、信じたいって思ったら信じていいんだ。

 

大事なことは、お兄ちゃんがもう教えてくれてたんだ。

 

 

「『大丈夫』って言葉が軽く思えるなら、言葉だけじゃなくて……行動で示せばいい」

 

 

私は自分に言い聞かせるために、ぼそっと言った。

 

お兄ちゃんもそうだった。

私はお兄ちゃんの言葉だけを信じてきたわけじゃない。

言葉が軽くならないように、行動がいつも一緒にあった。

だから、お兄ちゃんの言葉は誰の言葉よりも価値があったんだ。

 

信じるって、相手に渡すものでもあるんだ。

受け取ってもらえるか分からなくても、渡したいって思うものなんだ。

信じられるようになった自分を作ってから渡すんじゃなくて、怖いままでも渡すんだ。

 

私もお兄ちゃんに恩返しがしたい。

返したいものがたくさんある。

だから、怖くても待つ。

疑ってしまっても、それでも信じたいって選ぶ。

それを、行動にする。

 

私は深呼吸をして、胸の奥の痛みを一回だけ飲み込んだ。

痛みが消えたわけじゃない。

でも、痛いままでも立てる気がした。

 

 

「……私、待つ。お兄ちゃんが大丈夫だって信じて待つ」

 

 

言った瞬間、喉がきゅっとなった。

途中は苦しかった。

でも最後まで言えたら、少しだけすっきりした。

たぶん、信じたいって気持ちを言葉にできたからだと思う。

 

ルーデウスさんが、穏やかに笑って頷いた。

 

 

「はい。一緒に待ちましょう」

 

 

ルーデウスさんがそう言って頷いた瞬間、空気が少しだけ落ち着いた気がした。

胸の奥に詰まっていたものが、全部消えたわけじゃない。

でも、ぎゅっと固まっていた怖さがほんの少しだけ形を変えて「耐えられる怖さ」になった感じがした。

 

そのとき、横からエリスさんがはっきりと言った。

 

 

「……めんどくさい奴ね」

 

 

その言い方はぶっきらぼうで、ちょっとだけ棘があって、でもたぶん本気で悪く言ってやろうって感じじゃない。

それでも私は反射でむっとした。

 

……なんでだろう。

さっきまで自分でも「めんどくさい」って思ってたのに、他の人の口から出ると、ちょっとだけ引っかかる。

私だけが言っていい、みたいな勝手な気持ちが出てくるのが子供っぽい。

 

でも、否定はできなかった。

お兄ちゃんがめんどくさい人なのは、事実だし。

 

人に頼るのが下手で、痛い時ほど笑って誤魔化して、平気なふりが上手で、でも嘘は下手で、こっちが踏み込もうとすると一歩引いて、何も言わずに抱え込んで、勝手に限界まで頑張って、最後に潰れそうな顔をする。

こっちが手を伸ばすと、受け取ってくれる時もあるのに受け取ったあとで「迷惑じゃなかった?」みたいな顔をする。

 

……うん、めんどくさい。

すっごくめんどくさい。

 

でも。

 

そんな気持ちがあっても、私がお兄ちゃんを好きな気持ちには勝てない。

呆れても、腹が立っても、怖くても、寂しくても……

それでも最後に残るのはやっぱり「好き」だ。

 

人はひとつの気持ちだけで動いてない。

 

むっとする私も本当だし、好きでたまらない私も本当だし、怖い私も本当で、全部が一緒にあるだけ。

それがぐちゃぐちゃだから苦しいけど、それでも全部ひっくるめて私なんだって、さっき思い出したばっかりだ。

 

そう思ったら、またお兄ちゃんの顔が浮かんできて、私は軽く笑ってしまった。

自分でも「なんでこの状況で笑えるの」って思うのに、笑いは勝手にこぼれる。

たぶん、頭の中に出てきたお兄ちゃんがいつもの顔をしていたからだ。

 

それから私は少しだけ肩をすくめて、わざと大げさに言った。

 

 

「うん。お兄ちゃんはめんどくさいよ! す~っごくね!」

 

 

自分で言っておいて、ちょっとだけ頬が熱くなった。

悪口っぽい言い方になったけど、悪口じゃない。

むしろ、そういうところも込みで私はお兄ちゃんを好きなんだって言ってるつもりだった。

 

 

「……ですね」

 

 

ルーデウスさんが、あっさり同意した。

軽く頷いて、当たり前のことを確認するみたいに。

 

ルーデウスさんは、さっきからお兄ちゃんを「知ってる人」の顔で話している。

私はずっと、私が一番お兄ちゃんを知ってるって、勝手に思っていた。

でも、もしかして……

 

 

「ねえ、ルーデウスさんって……お兄ちゃんと何歳の頃に知り合ったの?」

 

 

「えーっと……二歳か三歳ぐらいの頃ですかね……」

 

 

ルーデウスさんは指を折って数えるみたいに視線を上げて、少し曖昧に答えた。

二歳。三歳。

その数字が、私の頭の中で音を立てて転がった。

 

……その時の私はまだ生まれてすらいない。

 

 

「ブエナ村にいなかったのって確か……」

 

 

「エリスの家庭教師をしに、ボレアス家にいたからですね」

 

 

ルーデウスさんが今度ははっきり答えた。

それを聞いたエリスさんが、ふふーんと鼻を鳴らして腕を組んで胸を張った。

なぜ誇るのかは、よく分からない。

 

私はそのままの勢いで続けて聞いた。

確認しないと落ち着かなくなってしまったから。

 

 

「じゃあ……エリスさんの家庭教師をしにいったのは何歳だったの?」

 

 

「七歳よ!」

 

 

エリスさんは待ってましたと言わんばかりに即答した。

早すぎてルーデウスさんが口を挟む隙もない。

 

 

「なんでエリスが言うんですか……」

 

 

そのぼやきが聞こえた瞬間。

私はもう耐えきれなくなって両手で顔を覆う。

 

手のひらの裏で、私ははっきりと自分の間違いに気づいた。

 

――お兄ちゃんは私といた時間よりもルーデウスさんといた時間の方が長い。

 

私はせいぜい三年。

ルーデウスさんは最低でも四年……たぶん、もっと。

数字にするとあっさり差が出る。

しかも、その「四年」は私が生まれる前から始まってる。

 

私よりも、お兄ちゃんを知ってる人はいる。

私といる時のお兄ちゃんが全部じゃない。

私がいなかった時もお兄ちゃんの人生はちゃんとあった。

 

当たり前のことなのに、「私が一番分かってる」って顔をしてたんだと思うと、なんだか胸の奥がむず痒くなって、情けなくて、恥ずかしくて、両手の隙間から熱が漏れそうだった。

 

 

「はあ……」

 

 

お兄ちゃんのことをめんどくさい人だなんて、私が言える話じゃないなあ。

私だって十分めんどくさい。

勝手に理解者ぶって、勝手に不安になって、勝手に独占しようとしてたんだもん。

 

でも。

それに気づいたら次は変な熱が湧いてきた。

悔しいとか、寂しいとか、そういうのも少しある。

けどそれより強いのは――興味だ。

 

私の知らないお兄ちゃんを知りたい。

その知らない部分も、ちゃんと「お兄ちゃん」なんだって思ったから。

知ったらもっと好きになるのかもしれないし、もっと困るのかもしれないけど、それでも聞いてみたくなった。

 

私はゆっくり手を下ろして、ルーデウスさんのほうを見る。

 

 

「……ねえ、ルーデウスさん」

 

 

「はい、どうしました?」

 

 

「子どもの頃のお兄ちゃんって、どんな感じだったの?」

 

 

ルーデウスさんは一瞬、言葉を探すように目を泳がせた。

口下手だから、たぶん整理してから話す人なんだと思う。

 

 

「えっと……子どもの頃のカイン、ですよね」

 

 

「うん、子どもの頃のお兄ちゃん。私が知らない頃の」

 

 

「えっと……難しいですね。カインって子どもらしくないところと、変なところで子どもっぽいところが同時にあるので……」

 

 

ルーデウスさんはそう言いながら、どこか懐かしそうに目を細めた。

私はその横顔を見ながら、勝手に胸がそわそわした。

 

 

「子どもらしくない、っていうのは……弱音を吐かないところです」

 

 

「弱音を……吐かない?」

 

 

お兄ちゃんが弱音を吐かないのは知ってる。

知ってるけど子どものころから、って言われるとなんだか別の重さが乗ってくる。

 

 

「はい。剣術の稽古とかでも父様に……よくボコボコにされてました」

 

 

「……え?」

 

 

私は思わず、変な声を出した。

お父さんがお兄ちゃんをぼこぼこ?

そんなの想像ができない。

 

だって、私のお父さんはちょっと頼りなさそうな人だし、転移が起きる前に村にいたころだって、お兄ちゃんとお父さんが剣の稽古をしていて、お兄ちゃんが一方的にやられてるところなんて見たことがなかったから。

 

でも、ルーデウスさんは当たり前のように頷いた。

 

 

「はい、本当にボコボコです。打たれて、投げられて、転がされて……見てるこっちが痛くなるくらい」

 

 

そっか……お兄ちゃんにも弱い頃があったんだ。

その事実が胸の奥にすとんと落ちる。

私が知ってるお兄ちゃんは、最初から強かったわけじゃない。

当たり前のことなのに、私はその当たり前をちゃんと想像したことがなかった。

 

 

「それでもカインは『もう一回』って言って父様に向かっていくんです。だから父様も容赦しなくて」

 

 

ルーデウスさんの声は、淡々としてるのに重かった。

何度も見たことがある人の言い方だった。

 

 

「そのせいで、カインは父様に何度もボコボコにされてました。でも、カインは泣き言を絶対に言わないんです。あのくらいの年なら普通は泣くくらい、ほんとにボロボロでした」

 

 

その言葉で別の光景が勝手に浮かんだ。

私の膝の上で泣いてたお兄ちゃん。

やっと私に弱いところを見せてくれた時の顔。

あの時の涙は、なんか……私だけのお兄ちゃんみたいで、ちょっと嬉しくて――

 

 

「……はっ」

 

 

だめだめ。

めんどくさいよ、私。

嬉しがってる場合じゃないし、独り占めみたいな考え方もよくない。

分かってるのにそういう気持ちが出てくるのがほんとにめんどくさい。

 

 

「でも、そのくせ……変なところで子どもっぽいんですよ」

 

 

ルーデウスさんはそこで少しだけ笑って口元を緩めた。

 

 

「すぐ照れるし、照れ隠しが下手なんです。僕が真面目にお礼を言うと目を逸らして『ありがとな』って言うんですけど……耳は赤いんですよ」

 

 

「ふふっ……」

 

 

私は思わず笑ってしまった。

いつもの兄ちゃんだ。

真面目な顔で頑張ってるのに褒められた瞬間だけ視線を逸らして話題を雑に変える。

絶対バレてないと思ってるのがまた可愛い。

 

 

「でも不思議なことに、褒める時は照れずにまっすぐ言うんです。あの顔で褒められると、ちょっと恥ずかしいんですよね……」

 

 

「うん、わかる」

 

 

私が小さく言うと、ルーデウスさんは少し驚いた顔をしてから、ふっと笑った。

 

 

「ですよね」

 

 

お兄ちゃんは、自分のことは誤魔化すのに相手のことはまっすぐ言う。

まるで、その言葉だけは絶対に誤魔化しちゃいけないって決めてるみたいに。

 

 

「あ、あと……僕がブエナ村を出てからのカインのことは分からないですが。あの頃のカインはすごく必死に強くなろうとしてました。子どもがやるにはちょっと異常なくらいに……」

 

 

「必死に……」

 

 

「はい、父様にいくら鍛えられてても足りないって顔をしてました。僕でも父様でもない、ずっと上を向いてる感じでした」

 

 

ずっと上を向いていた。

それは多分私の知らないお兄ちゃんだ。

今のお兄ちゃんは、上っていうより周りを見てた。

私たちを見て、私たちが困らないように、怖がらないようにって強くなろうとしてたと思う。

 

でも、昔のお兄ちゃんは……上。

もっと遠くて、もっとひとりぼっちで、もっと届かない何かを見てたのかもしれない。

 

 

「理由を聞いたことがあるんです。なんでそんなに頑張るのかって。そしたら……『救いたい人がいる』って言ってました」

 

 

「救いたい人……」

 

 

「はい、ですが……それが誰なのかは分かりません。カインが言いづらそうだったので、僕もそれ以上は聞きませんでした」

 

 

誰なんだろう。

私の頭の中で勝手に想像が走る。

家族? 友達? それとも――

 

……好きな人、とかかな。

 

そうだよね。

私が知らないってことはそういう可能性もある。

お兄ちゃんだって、私が知らないところで誰かを好きになったり、守りたいって思ったりしてたのかもしれない。

 

そのとき、ルーデウスさんがふっと私から視線を外してお母さんの方を見た。

 

 

「リーリャさんはどうでしたか? 昔のカインって」

 

 

私は一瞬だけ「なんでお母さんに?」って思った。

でも、すぐにはっとした。

そうだ。

お母さんも昔のお兄ちゃんを知っている人だった。

そう思ったら今まで聞かなかったのがもったいない気持ちになった。

 

お母さんは少しだけ目を伏せて、それから丁寧に言葉を整えて口を開いた。

 

 

「はい。子どもの頃のカイン様は、ルーデウス様のおっしゃる通り……子どもらしくはございませんでしたね」

 

 

「ですよね。僕もそう思います」

 

 

そしたらお母さんは、ふっと視線をルーデウスさんに向けて、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

 

「ルーデウス様もでございますよ」

 

 

「えっ、僕ですか?」

 

 

「はい。ご自分ではお気づきではないかもしれませんが、カイン様と同じように……子どもらしくはございませんでした」

 

 

お母さんの声が少しだけ軽い。

言い方が丁寧なのにどこか楽しそうで、私はそれが嬉しかった。

 

お母さんがふっと目を細めて、昔を思い出すように続ける。

 

 

「特に、私とゼニス様がご懐妊中だった頃ですかね。あの頃は本当に助かりました。ルーデウス様とカイン様が率先してお家のことをほとんど全部やってくださいましたから。掃除も、洗濯も、食事の支度などをまだ小さな体で一生懸命に」

 

 

「あれは……僕らなりにできることを、ってだけで」

 

 

「いえ、本当に助かりましたが……やはり、子どもらしくはありませんでしたね。普通の子どもならもっとわがままを言ったりするものですが……お二人はいつも『大丈夫です』と言って、私たちを気遣ってくださいましたから」

 

 

「……うっ」

 

 

ルーデウスさんが急にエリスさんの方を向いてすがるような目で見た。

 

 

「僕って、ちゃんと子供でしたよね?」

 

 

エリスさんは腕を組んだままじーっとルーデウスさんを見てぽつりとつぶやいた。

 

 

「ルーデウスが……子供……」

 

 

「エリス?」

 

 

ルーデウスさんが首を傾げると、エリスさんは急に顔を赤くして慌てたように声を張り上げた。

 

 

「そ、そうね! ルーデウスはよく私の胸をさわろうとしてくるから、エッチな子供ね!」

 

 

「エッチなのは余計ですが……そう、僕は子供ですよ。ちゃんと」

 

 

ルーデウスさんが苦笑いしながら訂正する。

その姿がなんだかおかしくて、私は思わず口に出して笑ってしまった。

 

 

「ふーん……ルーデウスさんってやっぱり変態なんだ」

 

 

「や、やっぱり?」

 

 

ルーデウスさんがびっくりした顔でこっちを見た。

 

 

「だって、お兄ちゃんが言ってたもん。自分の師匠の水浴びをよく覗く人って」

 

 

「あー……それはですね……」

 

 

ルーデウスさんがへらへらと笑って、視線を泳がせた。

完全に言い訳顔だ。

 

お母さんはそんなルーデウスさんを見て、くすっと笑った。

 

 

「そういうところも子どもらしくないところではありますね……子どもらしいとも言いますが」

 

 

その時、ルーデウスさんがちょっと不思議そうにお母さんを見た。

 

 

「リーリャさん、なんか昔と雰囲気違いませんか?」

 

 

「そうでしょうか?」

 

 

「昔は……もっと淡々としていたと思います。表情もあんまり変えなくて、いつもピシッとしてるっていうか」

 

 

お母さんは、ふっと目を細めて柔らかく微笑んだ。

 

 

「ええ、そうですね。あの頃の私は少し張り詰めすぎていましたから。今は……少し肩の力を抜くことができましたので……」

 

 

お母さんのその笑顔は、目尻に小さくしわが寄って本当に楽しそうだった。

昔のお母さんを知ってる人たちから見たら、きっとびっくりするくらい柔らかくなった顔だと思う。

私もなんだか嬉しくなった。

 

そのまま話は途切れずに続いて、気づけばテーブルの上は「お兄ちゃんの話」を中心にくるくる回り始めていた。

 

そのどれもが、私の知らないお兄ちゃんで、でも確かに私の知ってるお兄ちゃんでもあった。

胸の奥がむずむずして、でも嫌ってわけじゃなくて、もっと聞きたくなる感じがした。

 

その流れを、エリスさんが我慢できなかったみたいに遮った。

机に身を乗り出して、眉をきゅっと寄せて、勢いのある声で言う。

 

 

「ねぇ、そいつって剣術も使うのよね? どのくらい強いのよ!」

 

 

ルーデウスさんは言葉を探すように顎に手を当てながら答えた。

 

 

「確か僕がブエナ村を出る頃には、水神流の上級でしたね。父様と一緒に稽古して、相当鍛えられてましたよ」

 

 

「そのころのそいつは何歳なのよ……」

 

 

「えーっと……エリスと同い年ぐらいなので、八歳ですかね?」

 

 

「そ、そう……同い年なのね……」

 

 

エリスさんの声が急に小さくなった。

胸を張ってた姿勢がほんの少しだけ崩れて、腕を組む力が強くなる。

口がきゅっとへの字になって、分かりやすくむすっとした。

たぶん、お兄ちゃんの方がすごかったんだと思う。

 

 

「へへ……」

 

 

声に出さないようにしたのに、口の中から勝手に出てしまう。

自慢したいわけじゃない。

自慢したい気持ちもあるけど、それ以上に“お兄ちゃんはちゃんと強い”って事実が、今の私には支えになる。

 

すると、お母さんが思い出したように今度は私のほうへ視線を向けた。

 

 

「アイシャが赤子の頃のカイン様は、本当によくお世話してくださっていたんですよ?」

 

 

「……それは知ってるよ」

 

 

お兄ちゃんが昔から私の面倒を見てくれてたって話は、何度も聞いたことがある。

でもそれは知ってるってだけで、私自身が覚えてるわけじゃない。

赤ちゃんの頃の記憶なんて、ほとんどないんだもん。

 

お母さんは、少し懐かしそうに目を細めてゆっくり続けた。

 

 

「生まれた頃こそ、私やゼニス様がお世話をしておりましたが……あれはたしか、ゼニス様が提案しカイン様にアイシャのお世話をやらせてみた後は、積極的にお世話をするようになりました。特に、おしめの交換がとてもお上手で……」

 

 

「お、お母さん?」

 

 

嫌な予感がぞわっと背中を走りぬける。

なんか方向性がまずい気がする。

すごくまずい。

 

そんな私の予感なんて知らないと言わんばかりに、お母さんは止まらない。

むしろ、思い出が溢れてくるみたいに言葉が滑らかに続いていく。

 

 

「アイシャが漏らして泣いても、カイン様は慌てることなく落ち着いて布を広げて、優しくお尻を拭いて、新しい布を当てて……」

 

 

「ちょ、ちょっと待って! 何言ってんの?! お母さん!」

 

 

私は慌てて両手を振って、お母さんの言葉を遮った。

顔が一気に熱くなって、耳の先まで赤くなるのが自分でも分かる。

 

それなのにお母さんはまだ続けようとする。

 

 

「アイシャもカイン様がおしめを替えてる間は不思議と泣き止んでカイン様のお顔をじっと見つめて……よく指を握っていましたよ。小さな手で、ぎゅっと……」

 

 

「なんで続けるのぉ!? もうやめてってば!」

 

 

私はテーブルに突っ伏して両手で耳を塞いだ。

声が裏返っちゃって、情けないくらい震えてる。

 

自分の裸を好きな人に見られてるってだけで、もう死にたくなるくらい恥ずかしいのに。

おしめを替えててもらってたなんて、想像しただけで頭が真っ白になる。

お兄ちゃんがなんとも思ってないのは分かってる。

お兄ちゃんにとっては「赤ちゃんの世話」ってだけで、特別な意味なんてないんだろうけど……それとこれとは違う。

せめて、二人っきりの時にしてほしい。

二人っきりでも絶対無理だけど!

 

いや、確かに転移したての頃はお兄ちゃんの前で裸になって体を拭いてもらうこともあった。

でも、あの時の私はまだそんなこと気にしないぐらい子供だったからできたことだし。

今は違う。

今はもう意識しちゃう。

思い出しちゃうから……

 

うわぁぁ、だめだめだめ!

思い出したら余計に顔が赤くなってきた!

 

 

「でも、本当に優しかったんですよ? アイシャが泣き止まないときは、ずっと抱っこして歩き回って……」

 

 

それは……嬉しい。

すごく嬉しい。

でも、やっぱり恥ずかしい。

胸の奥が温かくなるのと同時に顔が熱くてたまらない。

みんなが見てる前でこんな話は絶対に無理だよぉ……

 

私の顔が真っ赤になってるのを見かねたのか、ルーデウスさんが慌てて手を挙げた。

 

 

「あ、アイシャ! よければ……今のカインの話も聞かせてくれませんか? 最近のこととか、僕がブエナ村を出て行った後のカインの話とか……」

 

 

その言葉が出た瞬間、私は心の底から「ありがとう」って思った。

助け舟ってこういうことを言うんだと思う。

 

私は耳まで熱いまま、机に突っ伏した顔をほんの少しだけ上げる。

 

そのタイミングで、お母さんが小さく咳払いをした。

声の調子が、いつもの“整っている”ものに戻っている。

 

 

「……申し訳ございません。少々お話し過ぎましたね。ルーデウス様とカイン様はご友人でいらっしゃいますから……昔の話をお聞きになりたいのも当然でございますよね」

 

 

「い、いえ! 全然! むしろ、えっと……すごく参考になりましたし……」

 

 

参考って何の参考なの。

私は突っ込みそうになって飲み込んだ。

突っ込んだらまた話がそっちに戻りそうだったから。

それだけは絶対に嫌だった。

 

……ルーデウスさんはいい人だ。

 

いや、いい人って言葉は軽いかな。

でも、私が昨日あんな言い方をしても今こうしてちゃんと気を遣ってくれて、しかも気を遣ってるのが見えすぎないように頑張ってくれる。

 

私はルーデウスさんのことを誤解してたのかもしれない。

変態だとか、変な人だとか、すごい人だとか、そういう人伝に聞いたことだけで判断してしまってたんだと思う。

 

お兄ちゃんもよく言ってた。

人のことを人から聞いた話だけで判断しちゃいけない、って。

自分で見たものと、感じたものと、ちゃんと確かめたものを混ぜて、それでも迷うくらいが普通だって。

私はそれを分かったふりだけして、昨日は自分の都合で忘れてた。

 

ルーデウスさんは、ほっとしたように肩を落としてから改めて私のほうを見た。

 

 

「父様から、ある程度起きたことは聞いていますが……詳しい中身は知らないんです。ですので、転移した後のカインのことをアイシャの口から聞かせてください」

 

気づけば、みんなの視線が私に集まっていた。

ブレイズさんも、ノコパラも、お母さんも、ルイジェルドさんも、エリスさんも。

 

一斉に見られると普通なら緊張する。

でも、不思議と嫌じゃなかった。

 

お兄ちゃんの話なら、私はちゃんと話せる。

話せることがあるのに黙ってるほうがよほど嫌だったからだ。

 

私は、まだ少し熱い頬を手のひらで押さえながら口を開いた。

 

 

「お兄ちゃんはね……」

 

 

そこまで言い切ったところで胸の奥が少し落ち着いた。

大丈夫。

お兄ちゃんのことなら、私は逃げない。

 

 

「すごいんだよ!」

 

 

 

―――

 

 

 

あの後、私はお兄ちゃんのことを、ほんとにたくさん話した。

最初は“必要な情報だけ”にするつもりだったのに、気づいたら「この時のお兄ちゃんはこうで」「あの時はこう言って」って、勝手に思い出が口から出てきて話してる自分のほうが追いつけなくなるくらいだった。

 

いつのまにかノコパラとブレイズさんも会話に混じっていた。

それぞれが知っているお兄ちゃんの姿を少しずつ足していった。

そのたびに「私だけが知っている」と思っていたお兄ちゃんが「みんなの中にもいる」お兄ちゃんになっていって変な気持ちになった。

悔しいような、安心するような、どっちでもあるような。

 

そんなふうに心の中が忙しいのに、ルーデウスさんの声は変に落ち着いていて、私の話を一つも取りこぼさないように聞いてくれていた。

うなずき方が丁寧で、相づちも軽くなくて、こちらが言いよどむと待ってくれる。

……その「待ち方」を見た瞬間、私は気づいた。

 

ルーデウスさんの私を見る目は、お兄ちゃんが私を見る目によく似てた。

 

正確には……妹を見る目。

 

そのことに気づいた瞬間、遅れてきた実感がじわじわ広がっていく。

頭では分かっていた。

ルーデウスさんは腹違いではあるけど、血のつながった兄。

でも、頭で分かるのと心が納得するのは別で、心のほうはずっと置き去りだった。

 

今その置き去りにしていたものが、温度を持って戻ってきた。

 

私は家族を大切にしたいと思ってる。

きれいごとじゃなくて、本当にそう思ってる。

 

それを、お兄ちゃんの両親が亡くなってしまった時に知った。

いつか、というのは突然に来る。

昨日まで一緒にいた人が明日はいないこともある。

だから今いる家族をちゃんと大切にしないといけない――って。

 

……いや。

多分その時も、ちゃんとは分かってなかった。

分かったとおもっていただけで、胸の奥に落とし込めていなかった。

お兄ちゃんがいなくなって、ちゃんと分かった。

いなくなって初めて気づけた。

ああ、こういうことだったんだって遅すぎるぐらいに分かった。

 

やっぱり自分の身で体験しないと身につかないものってあるんだと思う。

嫌なやり方だけど、そうすることでしか学べないことがある。

そして身体が分からないままだと、大事な瞬間にちゃんと動けない。

 

だからこそ、今この場で。

ルーデウスさんのことを「ルーデウスさん」って呼んでいるのが、なんだかもったいない気がしてきた。

距離を保つための呼び方は便利だけど、便利なぶんだけ心の逃げ道にもなる。

今は逃げ道を作っている場合じゃない。

大切にするって決めるなら、呼び方からちゃんとしたい。

 

そんなことを考えていたら、ルーデウスさんが急にぼそっと呟いた。

 

 

「あ、料理……」

 

 

「料理?」

 

 

私が聞き返すと、ルーデウスさんははっとして顔を上げた。

さっきまでの落ち着いた顔が、ぐっと崩れる。

目が光った。

光りすぎてる。

怖い。

 

 

「カインは……どんな料理を作るんですか?」

 

 

声がほんの少しだけ上ずっていた。

興奮してるのが隠せてない。

隠す気もなさそう。

ルイジェルドさんが横でビクッとするぐらいには勢いがあった。

 

 

「たくさんあるよ?」

 

 

「構いません!」

 

 

私はちょっと得意げに言った。

本当はこういう時に得意げになっている場合じゃないけど、これは私の中の“確かなもの”だから声が勝手に調子づく。

 

 

「まずは……から揚げ!」

 

 

「から揚げ……」

 

 

ルーデウスさんが、すぐにその名前を口の中で転がすように呟いた。

私は続ける。

口に出すだけで舌が勝手に思い出してしまう。

 

 

「外がカリッとしてて、中は肉汁がじゅわってしてるの。噛んだら、熱いのと、塩っぽいのと、少し甘いのが一緒に広がって、口の中が忙しくなるのに……すぐ次のから揚げが食べたくなっちゃう」

 

 

「外がカリッ……中がじゅわ……」

 

 

私は頷いて言葉を続ける。

味を思い出すだけで、お腹が鳴っちゃいそうだった。

 

 

「あと、カレー」

 

 

「カレー……!」

 

 

「匂いだけで美味しいのに、米に掛けるともーっと美味しくなるの。最初に鼻に来る匂いが強くて、でも怖い匂いじゃなくて、食べたいって気持ちを勝手に作る匂いで……食べるとお腹の奥まであったかくなるんだよ」

 

 

その説明を聞いたルーデウスさんが、なぜか胸を張った。

 

 

「そうでしょう! そうでしょうよ!」

 

 

……なんでルーデウスさんが得意げなの。

作ったのはお兄ちゃんなのに。

食べたのは私なのに。

 

私は思い出の棚をもう一段だけ深く探って、一番大きいものを引っ張り出すように言った。

 

 

「一番美味しかったのは……やっぱりすき焼きかな」

 

 

口にした瞬間、ルーデウスさんの顔が固まった。

笑っていた口元が止まって、目が一回だけ瞬いて、それから――

 

 

「……は?」

 

 

短い声が落ちた。

聞き返しというより、理解が追いついていない声だった。

 

 

「一番って言ったけど、カレーも唐揚げもすごいよ? でも、すき焼きは……あれはなんていうか……うん、とにかくすごかった」

 

 

私はうまく説明できる気がしなくて、正直に逃げた。

 

だって、凄い以外が出てこないから。

甘くて、卵をからめて、肉がやわらかくて、最後にお米が全部持ってく。

説明できるのに、うまく言葉にするとこぼれそうで、私は結局それだけ言ってしまった。

 

横からノコパラとブレイズさんが無言でうなずいた。

一緒に食べた人のうなずきは、短くても重い。

「分かる」っていう同意が言葉より強い。

 

三人分の同意が揃ったところで、ルーデウスさんは言葉を嚙み砕くように繰り返し呟いた。

 

 

「すき焼き……すき焼き……すき、焼き?」

 

 

ルーデウスさんが呟いて、膝から崩れ落ちた。

ほんとに崩れ落ちた。

椅子から落ちる寸前で、机に手をついて耐えてる。

さっきまでの落ち着いた雰囲気はどこへ行ったんだろうか。

 

 

「どうやって……どうやって……」

 

 

取り乱してる。

さっきまで「信じたい」なんて落ち着いた話をしていた人と同じ人物には見えない。

いや、この人の中ではどっちも本気なのだと思う。

本気の種類が違うだけ。

 

 

「醤油は!? 卵はどうしたんです!? 豆腐はあったんですか!?」

 

 

その声が大きくて、私は一瞬びくっとした。

疑問と感動が混ざって、もはや怒りのような熱量になってる。

 

私は少し得意げに説明しようとした。

だって今のルーデウスさんは、ほんとに嬉しそうで。

私が知っていることを話せば、きっと喜んでくれるって分かるから。

 

 

「豆腐はなかったけど……醤油はね――」

 

 

そこまで言いかけて、ふと気づいた。

エリスさんとルイジェルドさんは、まったくピンと来てない。

そりゃそうだ。

 

だって、お兄ちゃんが作る料理はどれも別の世界の料理で、名前が伝わるはずない。

すき焼きって言っただけで、醤油と卵が出てくるのは、すき焼きを知らないと出てこない。

 

だから、今この場で一番おかしいのは……

ルーデウスさんだけが、あまりにも分かりすぎていることだ。

 

その瞬間、私は別のことを思った。

 

ルーデウスさんはもしかして……お兄ちゃんが別の世界から来たって、知ってるのかな。

 

私だけだと思ってたのに。

私だけが知っている、って勝手に抱えていたのに。

ちょっとだけ悔しいような気もしたけど、すぐに「まあいいや」って思えた。

だってルーデウスさん、こんなにうれしそうにしてるんだし。

 

そして、私がそう思えたのも、たぶん――

ルーデウスさんが私のお兄さんだからだ。

 

……お兄さん。

 

心の中で呼んだだけなのに、なんだか口の中がくすぐったくなった。

呼び方ひとつで、関係が急に近づく感じがして落ち着かない。

落ち着かないのに、嫌じゃない。

 

そんな私の内側の変化なんて知らないまま、ルーデウスさんが机に手をついたまま勢いよく顔を上げた。

 

 

「カインを迎えに行きましょう!」

 

 

「急に!? 待って待って! 落ち着いてってば!」

 

 

私は慌てて手を振った。

今の私たちは、落ち着いて待つって決めたばかりなのに。

完全に勢いで言ってる。

 

 

「でも、迎えに行ったほうが早いかもしれませんし、何より……!」

 

 

「何より、何?」

 

 

「何より、すき焼きを作ってもらわねば……」

 

 

「そこなんだ!?」

 

 

「い、いえ……もちろんカインも心配ですよ?」

 

 

私が突っ込むと、ルーデウスさんは一瞬だけはっとして、咳払いをして姿勢を正した。

今さら取り繕っても遅いし、目がまだ落ち着いてない。

 

だから、私はわざと話題を引っ張って、ルーデウスさんの勢いを止めることにした。

 

 

「料理なら、私とお母さんが作れるよ。だから今は迎えに行くより、待つほうを優先して。分かった?」

 

 

「作、れる……?」

 

 

「うん、お兄ちゃんに教わってるし」

 

 

ルーデウスさんは、私の顔を見てから、お母さんの顔を見て、それからまた私に戻ってきて首を小さく左右に振った。

そして、急にお母さんのほうへ視線を固定する。

 

 

「リーリャさんも作れるんですか?」

 

 

「……え、ええ。はい、その……カイン様に、いろいろと教わっております」

 

 

次の瞬間。

 

ルーデウスさんが両手でお母さんの手を掴んだ。

そして、ぶんぶんと上下に振り始めた。

お母さんの腕が揺れる。

お母さんの胸が揺れる。

お母さんの冷静さが揺れる。

 

 

「すごいです! リーリャさん! 本当の、本当にすごいです! この世界の宝ですよ!」

 

 

「る、ルーデウス様……っ、あの……っ、おやめください……っ」

 

 

お母さんがあたふたしている。

本気で困惑している。

声は丁寧なのに、息が少し乱れていて、視線が迷子になっている。

……お母さんのここまで混乱した姿は初めて見たかも。

 

ルーデウスさんはようやく手を離して、今度は私のほうに向き直る。

そして、さっきより少しだけ落ち着いた声で言った。

 

 

「アイシャ……いえ、アイシャさんと呼ばせていただきます! あの料理たちを作れるなんて、素晴らしい才能です!」

 

 

……そこで、私はちょっとだけもやっとした。

呼び方が丁寧になっただけなのに。

むしろ礼儀としては正しいのに。

でも、距離ができた感じがして胸の奥が小さく引っかかる。

 

たぶん、さっきまで「お兄さん」って言葉を自分の中で転がしてたせいだ。

一歩近づく準備をしていたのに、急に一歩引かれたように感じた。

 

 

「……」

 

 

私が言葉を探している間に、横から鈍い音がした。

 

ごんっ

 

エリスさんのげんこつが、ルーデウスさんの頭に落ちた音だ。

ルーデウスさんは「いたい!」と声を出した。

ちゃんと痛そうなげんこつだった。

 

 

「やめなさいよ、ルーデウス。その子が困ってるじゃない」

 

 

エリスさんは腕を組み直して、むすっとした顔で言った。

その言い方はぶっきらぼうなのにちゃんと優しかった。

 

 

「あ……す、すみません。つい……」

 

 

「つい、じゃないわよ」

 

 

ルーデウスさんがようやく落ち着いた。

呼吸が整って、姿勢が戻って、目の焦点がちゃんと合う。

 

……よかった。

本当に落ち着いてくれてよかった。

エリスさんが止めなかったら、危なかったかもしれない。

 

エリスさんは、そのまま私のほうへ視線を向けた。

鋭い目。

でも、ほんの少しだけ表情ふっと緩み、口元が柔らかくなった。

その一瞬が、すごくかっこよく見えた。

 

私はルーデウスさんに向き直る。

 

今なら言える。

ルーデウスさんが落ち着いた今しかない。

ここで言わないと、たぶんまた私は“さん”に逃げる。

 

 

「呼び方は……アイシャのままでいいよ」

 

 

そう言ってから、少しだけ溜めた。

ほんの少し。

溜めたのは、恥ずかしかったからだ。

急に距離が近づく感じがむずむずして、気持ちが落ち着かなくなる。

 

 

「私も……お兄さんって呼ぶから」

 

 

そう言ってから私はちょっと俯いた。

急に距離が近づく感じが、やっぱり恥ずかしかった。

 

ルーデウスさんは目を見開いて、それからぱっと笑った。

さっきの興奮の笑顔じゃない。

今のは、ちゃんと嬉しい時の笑顔だ。

 

 

「はい!」

 

 

その返事は、やっぱり真っ直ぐで私は少しだけ息が楽になった。

 

エリスさんが、横からふっと息を吐くように言う。

 

 

「良かったわね」

 

 

その言い方もぶっきらぼう。

でも、どこか機嫌が良さそうに聞こえる。

 

私はその流れに乗ってしまうことにした。

エリスさんとは仲良くしたいと思ったから。

さっきの“かっこよさ”が私の中に残っているうちに。

 

 

「エリス姉も、ありがとね!」

 

 

わざとかわいらしく言ってみた。

語尾を少し上げ、声を少しだけ柔らかくしてからの、上目遣い。

どんなお兄ちゃんもいちころの必殺技だ。

 

 

「え……エリス、姉……?」

 

 

エリスさんが固まった。

腕組みが、ほんの少しだけ崩れる。

驚いた顔が一瞬見えて、慌てて腕を組み直す。

 

そして。

 

 

「むふー……」

 

 

満足げな声が出た。

あきらかに口の端が上がっている。

……エリスさん、分かりやすすぎる。

 

 

「ふふん! カインってやつがいない間は、私がアイシャを守ってあげるわ! だって私はお姉さんだもの!」

 

 

言い切った。

迷いがない。

ああいうふうに言い切れることができるのは、すごいことだと思う。

 

そのとき、ルーデウスさんがまた口を開いた。

まだ懲りてない。

 

 

「ちなみに……『お兄ちゃん』って呼ぶのは……」

 

 

「ダメ!」

 

 

私は即答した。

エリスさんのげんこつより速かった自信がある。

 

早すぎて自分でも笑いそうになった。

だって“お兄ちゃん”は、もう決まっている。

その呼び方は、私の中であの人だけのもの。

譲れないものがあるのは、きっと悪いことじゃない。

 

お兄ちゃんが帰ってくるまで、待つ。

待つって決めたから。

その間に守れるものは守る。

呼び方も、距離も、気持ちも。

全部ぐちゃぐちゃでも、ぐちゃぐちゃのままでも、私はちゃんと選ぶ。

 

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