またこの真っ白な空間か……
見渡す限り、上も下も、右も左も、境目なんてものはどこにもない。
ただ白だけが無遠慮に広がっているこの場所は、相変わらず何度来ても慣れないし、慣れたくもない。
しかも最悪なことに、ここに来ると前世の記憶が鮮明になる。
あの頃のどうしようもなく腐っていて、誰とも関わらずに済むことだけを生きる理由みたいにしていた自分の感覚が、ここにいると嫌でも戻ってくる。
せっかく、こっちの人生で少しずつ身体に馴染ませてきた。
前を向く感じとか、息を吸うたびにちゃんと今を生きてるって思える感覚とか。
そういうものを、この空間は容赦なく剥がしにくる。
まあ、それ以外にもこの空間が憂鬱な理由はあるんだが。
「やあ」
……
わざわざ返事をする気にもなれなくて、俺は黙ったままそちらを見る。
見る、と言ってもこの空間じゃ距離感が狂う。
すぐ近くにいるようにも、やたら遠くにいるようにも見える。
「またアレを頼めるかな?」
……はい。
口に出した瞬間、自分でも少し嫌になる。
慣れた返事だ。慣れてしまっている。
こいつに素直に返事をするのは気持ち悪い。
けど、今さら反抗してもしょうがないと割り切っている自分もいる。
「いつも助かるよ」
……ヒトガミ様はどうして――
いや、何でもありません。
今のは、聞かなかったことにしてください。
本当は、喉の奥まで出かかった。
ずっと引っかかっている疑問だ。
こいつが俺にやらせることは案外限定的だ。
もっとあれこれ命じてもいいはずなのに、変なところで手を出してこない。
「『どうして自分にあれこれやらせないのか』って聞きたいのかい?」
チッ……はい。
俺にやれることが多いのは自覚してます。
だから、逆に不自然なんですよ。
あなたが俺を便利な駒として使い倒さない理由が。
俺があなたの立場なら、もっと図々しく使い倒しますよ。
どうせ読まれてるなら、妙に取り繕うだけ無駄だ。
便利な駒。
自分で言っておいて気分のいい言葉じゃない。
けど、事実としてはそうだろう。
俺は目立たないように立ち回れる。
必要なら汚れ仕事もできる。
人から離れて生きることも、それなりに苦じゃない。
何かを抱えたまま黙って動くことにも慣れてる。
こいつみたいな存在からすれば、使いやすい条件が揃いすぎている。
「大丈夫だよ。ボクが君にあれこれやらせる予定は今のところはない。というか、やらせると面倒なことになる」
?
「君の未来はよくブレると言っただろう? あれのせいで君が誰かと関わると、その人物の未来もちょっとずつブレていくんだよ」
なるほど。
俺を動かすと未来視が意味をなさなくなるってことですか。
腑に落ちた。
俺自身がノイズで、触れた相手の未来まで乱すなら、未来視にたよりまくってそうなこいつにとっては確かに扱いづらいだろう。
言い換えれば、俺は駒というより砂を噛んだ歯車だ。
便利な時もあるが、回しすぎると全体が狂う。
「そういうこと。だから君にはなるべく誰ともかかわらずに過ごして欲しいわけさ」
言われなくてもそのつもりですよ。
半分は本音だ。
誰かと関われば関わるほど、失う時の痛みも、巻き込む危険も増える。
今の俺は一人のほうが都合がいい。
……いや、都合がいいと思い込まないとやっていられない、が正しいか。
「殊勝な心掛けだね。それに、君が『アレ』をしてくれるだけで十分にお釣りが来てるんだ」
……怖い言い方しないでくださいよ。
なんか俺が悪いことしてるみたいじゃないですか。
やってることはただ、領域展開の空打ちなのに。
そう。
俺がこいつに頼まれてやっているのは、定期的な領域展開の“空打ち”だ。
誰かを閉じ込めることも、殺すこともしない。
ただ、展開して、解く。
それだけ。
外から見れば訓練じみた行為にしか見えない。
だが、こいつはそれを妙に重く扱う。
「助かる」だの「お釣りが来る」だの、こっちが気味悪くなるくらいに。
「空打ち、ね。君はそう思ってるのかい?」
まさか。
ただ、空打ちしてるわけじゃないのは分かりますけど、俺にそれをやらせる理由が思い当たらないんですよ。
俺だって馬鹿じゃない。
こいつが意味もなくこんなことをさせるはずがない。
ただ、その意味が分からない。
自分のやっていることの本質を理解できていない状態で、はいそうですかと従い続けるのは、正直かなり気持ちが悪い。
「君の『アレ』は世界に自分の世界を持ってくる。つまり世界に分岐点を意図的に作れるのさ。ボクはその副次的な効果を利用させてもらってるだけだよ」
意味が分からないですね。
聞いたところで予想通りよく分からない。
分岐点。副次的な効果。
言葉だけはもっともらしいが、もっともらしい言葉を並べられたからといって納得できるわけじゃない。
むしろ分かった気にさせないように、わざと曖昧にしているようにすら聞こえる。
「うん、わかるように言ってないからね」
自分のやってることが分からないってのは、怖いものですね。
これは本音だった。
知らないまま刃物を振っているようなものだ。
自分では空を切っているつもりでも、実際にはどこか別の場所の何かを傷つけているかもしれない。
見えないところで何が起きているかも分からない。
意味も分からない。
影響の範囲も分からない。
分からないまま使うしかないのが一番気持ち悪い。
「フフ……大丈夫だって。ボクに利点があるだけで、君の大切な人たちの不利になるようなことはしてない。約束は守ってるさ」
それなら……いいです。
よくない。
よくないに決まっている。
こいつの「約束は守ってる」は、信用に値しない。
そもそも、守っているかどうかを確かめる手段がこっちにない以上、約束そのものが片道切符みたいなものだ。
だが、それでも頷くしかない。
反発しても得るものがない。
下手をすれば、こいつが「じゃあ別のやり方にしようか」と言い出す可能性すらある。
だったら、少なくとも今の均衡を維持するしかない。
「あ、そうだ。冒険者人生は順調そうだね」
まあ、冒険者人生の方は順調と言えば順調ですね。
本来の目的である、オルステッドを引き付けることができているかどうかは分からないですけど。
それが一番の問題だった。
食って、寝て、依頼をこなして、名声を上げて。
表向きは順調だ。
金も稼げているし、名も少しずつ売れてきている。
だが、俺が今やっている全部は、最終的に“オルステッドの視線を引き受ける”ための布石だ。
もしあいつが俺を追っていないなら、今の苦労の大半は空回りになる。
「気になるかい?」
気になりますよ。
そりゃ、皆の命が懸かってるんですから。
未来が見えるなら、あいつが今なにしてるか教えてほしいんですけど。
言いながら、少しだけ探る。
こいつがどこまで答えるのか。
まあ、期待はしていない。
期待していないが、聞かなきゃ何も始まらない。
「君がオルステッドに追いつかれて殺されようが、ボクにとっては関係ないことだよ」
ハッ……でしょうね。
知ってましたよ。
乾いた笑いが喉の奥で漏れた。
あまりに予想通りすぎて、逆に腹も立たなかった。
ああ、やっぱりそういう返しをするんだな、という確認だけが残る。
「見逃してやってるだけありがたいと思って欲しいんだけどねえ」
ええ、それは本当にありがたいと思ってますよ。
……というか、最近よく俺を夢に呼びますよね。
前は宿儺が起きてるからとかなんとか言ってたじゃないですか。
あれはどうなったんです?
「前まではそうだったけど、今は違うやり方で呼んでるからね。彼が起きていようと起きていまいと関係ないのさ」
……違うやり方。
どんなやり方なんですか?
聞いた瞬間、嫌な予感しかしなかった。
こういう時の“違うやり方”ってのは、大体こっちにとって都合の悪い変化だ。
こいつが嬉しそうならなおさらだ。
顔が見えなくても、声音だけで十分分かる。
「そうだねえ……話はボクが君にバラバラにされた所に戻る」
そんなこともありましたね。
あの時は確かに、神気取りのやつに一杯食わせたと思っていた。
多少なりとも焦らせたつもりだったし、実際それは間違ってなかったらしい。
ただ、その後の面倒まで込みで考えれば、あれで良かったのかは今でも分からない。
「あの時のボクはとっても焦ったよ。このまま芋虫みたいな姿で生きていくのか、とね」
……ずいぶん生々しい想像ですね。
というか、治せばいいのでは?
言葉の後半は、わりと素朴な疑問だった。
焦るのは分かる。
いや、分かりたくはないが、まあ四肢が切断されたら焦るだろう。
でも、こいつは神だ。
俺なんかよりよほど好き勝手できる存在のはずだ。
なら、治すなりなんなり、他にやりようはいくらでもありそうだと思った。
「肉体があるならね」
?
一瞬、意味が分からなかった。
肉体があるなら。
じゃあ逆に言えば、あの時俺が壊したのは肉体じゃないってことだ。
「そうだね。君がバラバラにしたのはボクの魂そのものさ。君がボクの魂に触れ、その魂をバラバラにした」
魂の方を治癒すればいい話じゃないんですか?
回復魔術なんかで。
あなたに回復魔術が使えるのかは知らないですけど。
あの時の俺は、触れた相手にしか斬撃を放てなかった。
空間ごと切り裂くような真似はまだできなかったし、遠隔でどうこうする精度もなかった。
なら、あの時俺が触れたのはこいつの“身体”じゃなく“魂そのもの”だったってことか。
「ボクは人間が使える技術のほとんどを使えるから、そこは問題ないよ」
なら何が問題なんです?
こいつ、絶対にこの会話を楽しんでる。
もったいぶる間の取り方からしてそうだ。
わざと余計な会話を置いて、こっちが苛つくのを待ってる。
そのくせ、内容はちゃんと重要だから無視もできない。
本当にうざい。
「実は回復魔術はね、体を再生してるわけじゃない。体を再構築してるだけなんだ」
一から作り直してるだけってことですか。
反転術式とは違うが、やってることは魔術の方が高度そうだな。
習得難易度は反転術式の方が高いが。
いや、欠損を治すレベルの回復魔術、それこそ王級ぐらいになると、そっちの方が習得難易度が高かったりするのか?
「そう。あれは肉体の情報をもとに体を作ってるだけだから、それを魂には適用できない」
じゃあなんで……
そこまで言いかけて、嫌な予感がまた一段濃くなる。
治せないはずの魂を、こいつは今こうして治った体で語っている。
だったら答えは一つだ。
治せるようになったってことだ。
問題は、その理由がどれだけろくでもないかだけ。
「ボクは君のおかげで新たなステージにたどり着いたんだよ! 成長したのさ!」
新たなステージね……
また始まった。
こういう言い回しがいちいち芝居がかってるから腹が立つ。
ヒトガミはそこでわざとらしく間を作った。
こいつは、どうしてこうも“間”を大事にしたがるのかね。
もったいぶれば賢そうに見えるとでも思ってんのか。
「辛辣だねえ」
そりゃあ多少は荒れもしますよ。
それでも、表向きは頑張って取り繕ってるんですから見逃してくださいよ。
で、なんなんですか?
新たなステージって。
「フフ、よくぞ聞いてくれたね……新たなステージ。それは、魂の知覚さ」
はあ……魂の知覚……
聞いた瞬間の感想はそれしかない。
なんかすごそうな単語を出してきたな。
それ以上でも以下でもなかった。
だが、今のこいつにとってはそこが本題らしい。
声が妙に弾んでいる。
「そう、魂の知覚さ。ボクは君たちの魂だけを呼び出してここで会話しているわけだけど、そこを気にしたことなんて今までなかった。だって初めからできていたことだからね。人が誰に教わらずとも呼吸ができるように、ボクも“そういうものだ”と思っていたのさ」
先入観ってやつは厄介ですね。
口に出してみると、妙にありふれた結論だった。
だが、ありふれているからといって間違いでもない。
できていることほど、人はわざわざ分解しない。
息を吸う時に肺の動きなんていちいち意識しないし、歩く時に筋肉の順番なんて考えない。
俺だって術式を使う時、理屈では追えても、全部を言葉にできるわけじゃない。
身体に馴染んだものは“そういうもの”として処理される。
それが通じなくなって、初めて中身を見る。
そういう話なんだろう。
「そういうことになるのかもしれないね。できていることほど、人は中身を考えない。
考えなくても困らないからさ。ボクにとって“魂を呼ぶ”っていうのは、まさにそれだったんだよ」
話の筋はなんとなく見えてきましたよ。
こいつは自分の魂を壊されたことで、初めて魂そのものを“対象として認識”できるようになった。
それまでは使えていた。
だが、使えているだけで、構造までは見ていなかった。
見えていないから、応用もできなかった。
でも一度、自分の身に傷として返ってきたことで、曖昧な感覚が輪郭を持った。
……結局、自分の身で体験しないと見につかないものもあるってことだろう。
まさか神様気取りのこいつまで同じ結論に転がってくるとは思わなかった。
なんだ、案外不便な生き物じゃないか。
いや、生き物って呼んでいいのかは知らないが。
「そう。だから魂については前まで曖昧な感覚だったけど、自分の魂が初めて傷を負ったことで、初めて魂を深く知覚することができたんだ。そして、魂を知覚しながら回復魔術を使うことによって、魂だって再構築できるようになったのさ!」
迷惑な話ですね。
心底そう思った。
俺が一矢報いたつもりでいた一撃が、結果的にこいつの理解を一段階押し上げて、前よりしぶとく、前より器用に俺へ干渉してくるようになった。
敵に塩を送るどころか、敵のレベル上げに協力したようなもんじゃないか。
しかもこいつ、そこを嬉々として語るから余計に腹が立つ。
「ひどいなあ。君のおかげでボクは一つ上の段階に進めたんだよ?もっとこう、喜びを分かち合うとかないのかい?」
あるわけないでしょう。
……で、それがどうして俺をポンポン呼べることにつながるんです?
俺にとって大事なのはそこだ。
魂を治せるようになりました、成長しました、進化しました。
はいはい、良かったですね。
で、それがなんで俺の睡眠環境をぐちゃぐちゃにする話へ繋がるんだってところが、本題だ。
「繋がりまくりさ。魂を知覚して分かったが、魂には簡単な構造がある。それは中身と器だ」
器……肉体ってことですか?
言いながら、自分でも半分ぐらいは違う気がしていた。
肉体は器だ。
単純に考えればそうだろう。
でも、こいつの言い方はもっと別の何かを指している。
「違うよ。肉体も器ではあるけど、それとは別だ。魂には器と中身がある。それをまるごと肉体に入れてるって仕組みさ。ちなみに、中身は本人の精神状態によって変化していくんだよ。今の君がそうだ」
今の俺の中身は空っぽそうですね。
自嘲気味に言ってみた。
どうせ、今の俺がまともじゃないのは自分でも分かっている。
削れてる。痩せてる。中身がしぼんでる。
そういう感覚はある。
だったら、こいつがどう評価してるか聞くのも、まあ怖いもの見たさだ。
「そうさ! 空っぽ同然なんだよ。君の中身はね」
そうですか。
即答されると、流石にちょっと傷つくな。
いや、自分で言ったんだけどさ。
言ったけど、そこまで嬉々として肯定されると話は別だ。
こいつ、人の心を逆撫でする才能だけはほんとに一級品だと思う。
「前までのボクは君を器ごと呼ぼうとしていた。けどそれは、その器に同居している宿儺ごと呼ぶことになってしまうんだ。そうなると容量オーバーで呼べなくなる。宿儺が寝ていればギリギリ呼べるけどね」
ってことは今のあなたは、器の中にいる俺と宿儺を見分けて、俺だけを呼んでるってことですか?
「そうだね。君一人に絞れば、呼ぶのなんてどうってことないよ。君は器に対して中身が小さすぎるからね。君はずいぶんと分相応な器をもらったようだねえ」
小さい小さいって、何度も言わないでくださいよ。
地味に傷つくんですよ。
情けない返しだと自分でも思う。
でも、こいつの言い方だと、まるで俺が中身のない軽い人間みたいじゃないか。
いや、実際そういう面があるのは否定しきれないが、だからって面と向かって繰り返されると腹が立つ。
「だって本当に小さいんだからしょうがないだろ? 君の中身は、他の人間より明らかに小さい。多分、君の未来がブレるのはそのせいなんじゃないかな?」
小さいから未来がブレる、ですか。
なんか、急に情けない理由になりましたね。
強さとか運命とか、そういう格好いい理由じゃなくて、単に中身が足りてないって。
自分で言っておいてなんだが、あまり気分のいい言葉じゃない。
もっとこう、選ばれた器だとか、異物を抱えた宿命だとか、そういう大層な話にしてくれた方がまだ笑えた。
中身が足りてません、だから未来が定まりません。
あまりにも身も蓋がない。
「そういう言い方をすると可哀想に聞こえるね」
可哀想で済むならまだマシでしょう。
要するに俺は、欠陥品みたいなものだってことじゃないですか。
言いながら、妙にしっくりきてしまったのが嫌だった。
欠陥。
その言葉自体は、たぶん昔からずっと別の形で聞いてきた。
お前は周りとは違う。
普通じゃない。
変だ。ズレてる。気持ち悪い。
言葉は毎回少しずつ違ったけど、結局は同じことを言われていた気がする。
だから、頑張って矯正してきたんだ。
笑い方を合わせて、黙るところを覚えて、空気を読んだふりをして、普通っぽい形に自分を押し込んできた。
合わせれば何とかなると思ってたし、合わせないと弾かれるとも分かっていた。
それが“欠陥を隠す”ってことだったのかもしれない。
「欠陥品、ね。君はずいぶんと自分に厳しいんだねえ」
厳しいんじゃなくて、妥当な言い方を探しただけですよ。
今までそんな人間は見たことがないんでしょう?
だったら、どっか欠けてるって考えるのが自然だ。
自嘲のつもりだったのに、声は妙に平坦に出た。
たぶん、こういう時だけ感情が薄くなる。
本当に嫌なことを言われた時ほど、むしろ腹の底は静かになる。
怒るより先に「まあ、そうかもな」と納得してしまうあたり、我ながら情けない。
「実際、今までそんな人間は見たことがないんだよ。器に対して中身がここまで小さい人間は、君が初めてだよ。まあ、魂を知覚して日も浅いし探せば意外といるのかもしれないけどね」
ハッ……光栄ですね。
まったく嬉しくないですけど。
初めて。唯一。特別。
そういう言葉はたいてい、人を喜ばせるために使うものだ。
でも今この場では、ただ“前例がないほど歪だ”という意味でしかない。
しかも、それを告げてくる相手がヒトガミだ。
誉め言葉に変換する余地なんて最初からない。
「なぜそこまで中身が小さいのか……普通は完璧に満ちているわけではないにしろ、ある程度は埋まっているものなんだ。経験とか、欲とか、執着とか、恐れとか、そういうものでね。だから未来が見えやすい」
……
黙って聞く。
口を挟むのが惜しい、というより、挟むと安っぽくなりそうだった。
経験。欲。執着。恐れ。
言われたものは、どれも俺の中にないわけじゃない。
なのに、こいつはそれでもなお空っぽだと言う。
あるのに足りないのか。
それとも、あるようで奥まで根を張っていないのか。
考え始めると嫌な方向へいくらでも潜っていける。
「でも、君は明らかに空っぽすぎる。元からそうだったのか、はたまた自分からそうしたのか……どっちでもいいけどね」
……どっちでもいい、ですか。
ずいぶん雑に人の根っこを扱うんですね。
こいつにとってはそうなんだろう。
原因に興味がないわけじゃない。
ただ、俺を“理解”したいんじゃなく、“把握”したいだけだ。
中身がどうしてこうなったかなんて、道具の製造過程ぐらいの価値しかない。
「まあ、君が何者であれ、君が一人でいる限りボクにとっては些細なことさ。そこだけは守ってくれていれば、あとは君のことなんてどうでもいい」
分かってますよ。
結局こいつにとって重要なのはそこだけだ。
俺が空だろうが欠けてようが歪んでようが、誰かと深く関わらず、勝手にどこかで生きていてくれればそれでいい。
腹は立つが、分かりやすくて助かる部分もある。
期待しなくていい相手は、ある意味で楽だ。
「ああ、『アレ』は忘れないようにやるんだよ?」
それも込みで分かってると言ったんですよ。
「結構。それじゃあセカンドライフを楽しんで」
楽しんで……楽しんで……楽しんで……
エコーを聞きながら、俺の意識は沈んでいった。
白い空間がさらに白くなって、輪郭が滲む。
自分の足場が消えていく感覚は、相変わらず好きになれない。
好きになれないが、抗う術もない。
―――
目が覚める。
最初に見えたのは、白じゃなかった。
乾いた空の色と、草の匂いと、遠くで鳴く鳥の声。
それだけで少しだけ気分がましになる。
王竜王国へ向かう途中。
道から少し外れた、人目の少ない場所。
周りには誰もいない。
風だけが草を揺らして、昼とも夕方ともつかない半端な光が地面を斜めに切っていた。
身体を起こすと、夢の感触がまだ薄く残っていた。
胸の奥の気持ち悪さも、耳の奥のエコーも、完全には消えていない。
だが、現実の重さはちゃんとある。
土の硬さも、風の冷たさも、息を吸った時の胸の動きも。
その一つ一つが、白い空間よりずっと信用できた。
「ああ、せいぜい楽しんでみるさ」
誰に聞かせるでもなく、そう吐き捨てる。
皮肉半分、本音半分。
楽しめるかどうかなんて分からない。
でも、どうせ走るしかないなら、全部を苦痛として抱えるよりは、少しぐらい笑える余地を残した方がまだましだ。
俺は指を組む。
指の隙間に力を込めて、呼吸を一つ深く落とした。
「領域展開……」