俺は今、王竜王国の首都ワイバーンにいる。
場所が変わったからといってやることは変わらない。
まずは冒険者ギルドに行って、よさげな依頼でもないか探そう。
そう思いながら、久しぶりである、ワイバーンの街並みをなんとなく目でなぞっていく。
記憶が曖昧ってほどじゃないが、はっきり鮮明かと言われるとそこまででもなくて、ああこんな道だったか、こんな店構えだったか、くらいの温度で景色が脳の奥に引っかかってくる。
戻ってきたのは数ヶ月ぶりだし、その程度のぼやけ方はまあ普通だろう。
そうやって、取り留めのないことを考えながら歩いていた時だった。
視界の端に、やたらと自己主張の強い建物が飛び込んでくる。
あのでっかい建物、増築されまくった建物じゃないか。
一瞬、足が止まる。
止まってから、思い出す。
思い出してしまう。
『お兄ちゃん、みてみて! あの建物すっごく大っきい!』
『あれは多分、増築を繰り返した結果だな』
『えぇ……効率悪すぎじゃない?』
『土地が足りなくなったんじゃないか?』
『でも、こんなぐにゃぐにゃにするより、最初から大きく建てればいいのに』
『予算とか、当時の事情とか、色々あるんだろ』
『ふーん』
……うん。一言一句覚えてるな。
もっと細かく言えば、「あの窓だけ貴族ぶってる」「でも屋根は諦めた感じする」みたいに、好き放題言って笑ったんだったか。
俺は小さく息を吐いて、視線を逸らした。
やめやめ。
別のことを考えよう。
ああいうのは、一回頭の中に浮かぶと、そのまま芋づる式に思い出がついてくる。
今はよろしくない。
街を歩きながら勝手にしんみりしてる男とか、側から見たら気持ち悪いだけだしな。
別のこと。
別のことだ。
……そうだな。
俺も晴れてS級になった。
いや、晴れてって言い方は少し違うか。
手放しで喜べる状況でもないし、祝ってくれる相手が近くにいるわけでもない。
だがまあ、なったものはなった。
名前も、ちゃんと残せているはずだ。
偽名でもなく、借り物でもなく、カイン・アルネス。
今ここでその名がどのくらい通るのかは分からないが、少なくともギルドの中では、もう「どこの誰だか知らない若造」では済まないところまで来ている。
S級にはS級ならではの待遇があって、夢のように豪華。
……とまではいかないが、それなりに便利ではある。
高ランク向けの依頼や情報が優先的に回ってくるし、受付の態度も微妙に丁寧になるし、宿によっては割引が利いたりする。
あとは馬鹿な連中に舐められにくくなる。
これが意外と大きい。
人間、肩書きが一つ増えるだけで「とりあえず喧嘩を売る」みたいな面倒くさい馬鹿が減る。
減るだけでゼロにはならないのが世の悲しいところだが。
で、S級になったのに、わざわざS級の依頼を探すのには訳がある。
……いや、訳ってほど大層なものでもないか。
ぶっちゃけ、それ以外にすることがないからだ。
……その言い方にはちょっと語弊があるな。
別に本当に暇なわけじゃない。
目的がないわけでもない。
オルステッドを引きつけるだの、目立つだの、死なないだの、やることはいくらでもある。
ただ、その全部をまとめて現実的な形に落とし込むと、結局「派手で、危なくて、名前の残る仕事をする」が一番手っ取り早い、というだけの話だ。
だからまあ、そんなところだ。
そんなことを考えながらギルドに入って、いつものように掲示板を眺めて、受付で話を聞いて、ついでに他の冒険者の雑談にも耳を傾けてみたわけだが――
結果から言うと、S級の依頼はなかった。
いや、正確には“今の俺が欲しいタイプのS級依頼”がなかった。
王国間を跨ぐ長期護衛だの、貴族絡みの秘匿依頼だの、集団前提の大型討伐だの、そういうのはいくつかあった。
だがどれも、今の俺には微妙だった。
長く拘束されるのは避けたいし、集団行動はもっと避けたい。
貴族相手の護衛なんてもってのほかだ。
面倒の塊じゃないか。
その代わり、良さげな噂を聞いてしまった。
この近く、歩いて一週間くらいの場所に迷宮があるらしい。
まあ、迷宮自体は珍しくない。
ここに着くまでにも、俺はいくつか潜っていくつか攻略してきた。
一人でな。
ただ、そのどれもが噂にはならなかった。
そりゃそうだ。
見た人がいないし、そもそも迷宮自体の知名度が薄い。
街道から外れた崩れた砦の地下だの、湿地の奥の穴だの、そんな場所にある小規模な迷宮なんて、攻略したところで「へえ」で終わる。
いや、終わりすらしない。
誰も知らないものは、存在していないのと大差ない。
戦果の見せ方って大事だよなあ、とその時しみじみ思った。
だが、今回の迷宮はその辺の反省点をかなりカバーできている。
知名度はそれなりにある。
何でも、けっこう長い間誰も攻略できていないらしい。
完全未踏じゃない。
むしろ、挑むやつはちょくちょくいる。
だが深部まで抜け切れない。
罠が多く、構造がいやらしく、しかも実入りも悪くはないから、余計に人が寄る。
稼げるかもしれない。だが死ぬかもしれない。
冒険者が好きそうな条件が揃っている。
……まあ、理由は何だっていい。
向かうか。
そう決めてからの行動は早かった。
必要最低限の補給だけ済ませて、翌日にはもう街を出ていた。
―――
数日かけて迷宮へと移動した。
別に式神を使って移動したってわけじゃない。
自分の足で移動しただけだ。
だって俺の足、式神より速いし……
王都を離れるにつれて、道は少しずつ荒くなる。
最初は荷馬車が余裕ですれ違える幅だった街道も、半日も進めば両脇の草が迫りはじめ、さらに先では荷車の轍が乾いた土に深く刻まれているだけの道になる。
途中、小さな宿場町が二つ、半ば崩れた祠が一つ、街道警備の詰め所が一つ。
王竜王国は兵の配置がわりと現実的で、首都周辺の道には最低限の監視がある。
ただし“安全”を保証するほどじゃない。
「死ぬ時は死ぬが、完全放置ではない」くらいの温度感だ。
これもまあ、この世界らしい。
で、そんな「最低限の文明」の匂いがだんだん薄れてきた頃。
俺はようやく目的地に着いた。
――風鳴りの迷宮。
名前の通り、入口の岩穴に風が通るたびに笛のような不気味な音が鳴る。
遠目にはただの崖の裂け目だが、近づくと人工的に削られた跡が混ざっていて、自然物のふりをした罠みたいで気味が悪い。
周囲には小さな野営跡もいくつか見えた。
焚火の灰、削った杭、打ち捨てられた空き瓶。
挑んだ冒険者はそれなりにいるらしい。
そういう痕跡をぼんやり眺めながら、俺は迷宮の入り口に立った。
「どうやって、攻略しようか……」
口に出してから、少し考える。
今までは何となく入って、何となく攻略してきたからな。
いや違う、何となくって言い方は語弊があるな。
一応その場その場ではちゃんと考えていたし、死なないようにもしていた。
ただ、こう……作戦立てて、情報集めて、順序立てて、みたいな“模範的な冒険者の攻略”をしてこなかっただけで。
……うん。
言えば言うほど、俺が真面目にやってない奴みたいで嫌だな。
「よし。じゃあ真面目にやるか。目指すは完全攻略だ」
口に出してから、少しだけ気分が整う。
言葉ってのは不思議なもので、どうせ自分しか聞いてないのに、一度そう決めてしまえば意識がそっちに寄る。
「『脱兎』」
影から白兎が大量に出てきて、ざざっと迷宮へと入っていった。
十、二十、三十……数えるのが馬鹿らしくなるくらい、白い小さな塊が一斉に散る。
耳が揺れ、短い脚が石を打ち、風鳴りに混じってぱたぱたと足音が消えていく。
普通に見たらちょっとした怪異だし、夜中に知らずに遭遇したら悲鳴くらいは上げると思う。
そのほとんどと視界を共有して、迷宮内の情報を埋めていく。
最初のころは頭痛と吐き気でどうしようもなかったが、今は“どこを見るか”を選びながら流せる。
右の通路、左の段差、前方の分岐、天井の亀裂、床の継ぎ目、壁際の苔。
複数の映像が一気に流れ込んでくる感覚は、慣れていても少し忙しい。
けど、この手の情報の洪水も今の俺なら十分処理できる。
おっと。
インプっぽい魔物が出てきた。
角のある猿みたいな、痩せた小鬼じみたやつだ。
皮膚は灰色で、目だけが妙にぎらついていて、岩陰からぬっと現れた。
脱兎だけでは倒せる相手じゃないが――
「『解』」
視界共有している脱兎のすぐ前で、そいつの首から下がずれた。
ある程度近ければ、視界共有からでも斬撃は放てる。
この距離、この通路幅、この程度の魔物なら問題ない。
別の視界では、風で揺れる苔の奥に不自然な石壁。
隠し通路っぽい。
さらに別の兎が、段差の先で金属の反射を拾う。
お、ほかの脱兎の視界に宝箱が映った。
覚えておこう。
宝箱自体は珍しくない。
が、迷宮で見る宝箱は大抵、その見た目より中身より、「その周辺に何が仕込まれてるか」の方が大事だ。
今回見えた箱も、置かれてる位置がいかにもだ。
通路の行き止まりの少し手前、壁際。
床の石目がそこだけ微妙に不揃い。
はいはい、踏むと何か来るやつね。
こういうのを、あとで地図に印つけていく作業は嫌いじゃない。
むしろちょっと楽しい。
――数時間後。
俺は迷宮の入り口付近、風が少しだけ弱まる岩陰を陣取って、羊皮紙を広げて迷宮の全体図を書いていた。
こういうのは雑にやると後で自分が困るし、今回は最初から「人に見せる前提」で書くつもりだ。
だったら最初から丁寧にやった方がいい。
後になって清書し直すのは面倒だし、何より二度手間は嫌いだ。
一度で終わるなら、それに越したことはない。
迷宮の全体図は、思っていたより素直な形をしていた。
いや、素直って言うと語弊があるか。
潜る側からすれば十分いやらしい。
ただ、風の通り道と通路構造の理屈が見えた時点で、厄介な迷宮から癖のある構造物くらいには格が落ちる。
そうなるとあとは早い。
主通路、分岐、縦穴、小部屋、行き止まり。
順番に線へ落としていけばいい。
罠の位置や隠し部屋もかなり見つけた。
風圧で作動する矢罠が四つ。
踏み板式の落とし穴が三つ。
隠し扉が二つ。
宝箱は大小合わせて七つ。
うち三つはたぶん罠箱。
床の組み方が露骨だし、壁際に魔力の流れが残っている。
二つは本命。
置き場所が深く、周囲の罠が逆に整理されていて、守る気がある置かれ方をしている。
残りは微妙。
微妙というのは、本当に微妙だ。
囮なのか、昔の冒険者が置いたものなのか。
それとも中身だけとっくに抜かれて箱だけ戻されたのか、判断がつかない。
まあ、今回の俺はどっちでもいいんだが。
で、ボス部屋っぽいところも見つけた。
いかにもって感じの扉がある。
両開きの石扉で、左右に羽根を広げたような文様。
「ここから先が最後です」って、迷宮の方がわざわざ札を下げてるようなもんだ。
ああいう分かりやすさは、嫌いじゃない。
迷宮だってたまには親切にしてくれるらしい。
そこまでは自分の足で向かう。
流石に斬撃の効果範囲外だし。
それに、何というか……もう少し実感が欲しいところだ。
視界共有から魔物を斬るのは便利だし、攻略としてはほぼ正しい。
だが、あまりに簡単すぎると自分が今何を攻略しているのか、ちょっと曖昧になる。
せっかく迷宮に来たんだし、少しくらいは「自分でやった」って感触が欲しい。
俺は立ち上がり、羊皮紙を丸めて影へ収納した。
そのまま迷宮へ再突入する。
もう内部構造は頭に入っている。
どの角を曲がれば何がいて、どの段差が罠で、どの部屋が外れかも分かっている。
だから足は止まらない。
道中の魔物は、視界に入れば『解』を放って処理してから影に入れる。
風の抜ける細道から飛び出してきたインプは、顔を向けるより先に胴を断って落とす。
天井に張りついていた蝙蝠の群れは、まとめて首を裂いて沈める。
やや広い部屋の隅で糸を張っていた蜘蛛は、脚ごと斬ってから影へ引きずり込む。
マッピングの際に倒した魔物も影に入れる。
使える部位があるかどうかは後で見るとして、通路を死体で埋める意味はない。
入り口からボス部屋まで、一度も立ち止まらずに到着した。
扉の前で一度だけ深呼吸して、透視眼を使う。
中にいる魔物は一体。
大きい。四足。長い尾。背中に突起。
風をまとっているのか、体表の周囲だけ像がわずかに揺れて見える。
……勝てるな。
俺は先んじて、詠唱しながら部屋に入る。
「龍鱗……反発……番の流星……」
扉を押す。
重い石が鈍く鳴る。
開いた隙間から、冷たい風が一気に流れてきた。
入室してから速攻で斬撃を放つ。
「『解』」
視界の中心、部屋の奥。
風をまとったデカい蜥蜴みたいな魔物。
たぶん、リザード系の別種か。
巨体のわりに身構える動作が早い。
だが、間に合うかどうかは別だ。
重い体がほんの一瞬だけ揺れて、それからずるりと左右へ開く。
咆哮らしい咆哮もない。
威厳も、見せ場も特にない。
ただ、終わったという事実だけが部屋の中へ落ちる。
迷宮を攻略したっていう実感は薄いな……
俺は部屋を一周だけして、他に隠し扉や追撃用の仕掛けがないことを確認した。
そのあと、扉の外へ戻りながら頭の中でもう一度、迷宮全体の構造をなぞる。
この迷宮の全体図は、丸ごとギルドに提出するつもりだ。
噂にはなりやすそうだし。
それに、隠し部屋や宝箱に手を付けないことにした。
これも、噂になりやすそうだからだ。
「完全な図面だけ残して、中身にはほとんど手を付けていない」
その方が、周りが勝手に話を膨らましてくれるだろう。
迷宮を出て、風の止んだ入口を振り返る。
さっきまで耳障りだった笛みたいな音が、もうほとんど鳴っていない。
主が死んだからなのか、ただの偶然なのかは分からない。
……まあ、その仕組みを真面目に考える気はないが。
考えたところで俺に分かるとも思えないしな。
――半月後。
城から招待が来た。
なんで……とは言うまい。
理由は分かりきっている。
迷宮の情報を完璧に書いた図面をギルドに提出したからだろう。
実際に招待状にはそう書いてあるし。
やたら丁寧な文面で、「風鳴りの迷宮の詳細な踏査および図面提出の功績により」だの、「王都における冒険者の範となる行いを称え」だの、いかにも役所と城の人間が何回も文章を直してそうな、固くて重たい言い回しが並んでいた。
なんなら図面をギルドに提出しに行ったときに、ギルドマスターが出てきて「多分呼ばれます」と言われたしな。
予告されていた未来が、そのまま届いただけだ。
めんどくさくはあるが、拒否するわけにもいかないだろう。
流石にこれを断っただけで即犯罪者だの不敬罪だの、そんな露骨なことにはならないはずだ。
ただ、敵をつくる恐れはある。
王城からの正式な招待をよほど筋の通った事情もなく蹴れば必ず角が立つ。
面子だとか、上下関係だとか、そういう俺の嫌いなやつがまとめて乗っかってくるからだ。
俺の敵はオルステッドだけでいい。
これ以上いらん相手に睨まれてたまるか。
はあ、身なりのいい服を買わなきゃだな……
―――数日後。
いろいろ、もろもろの手続きを終わらせて、王竜王城の謁見の間へとやって来た。
城へ入る時点で剣は預けた。
当然だ。
王のいる場へ武装したまま入れるわけがない。
とはいえ、腰が軽くなると軽くなるで落ち着かない。
指の置き場が分からないというか、いつもある重みがないだけで、妙に手持ち無沙汰になる。
謁見の間の入り口には、巨大な甲冑が二つ左右にある。
デカさは大人二人分ぐらいか。
人型ではあるが、人が着る前提の大きさには見えない。
肩当ても胸当ても、もはや防具というより建材に近い。
こんなもの誰かが着るわけでもないのに、なんの意味があるんだろうか……。
まあ、威圧のためなのだろう。
その巨人の甲冑の間を抜け、重たい扉を通って中に入ると、また鎧があった。
今度は普通の大きさだが、中に人はいない。
空の甲冑が、玉座付近まで等間隔に並んでいる。
そしてその絨毯の脇には、ちゃんと鎧を着た兵士たちが王を守るように立っている。
ように、ではなく実際に守っているのだろう。
飾りの甲冑とは違って、こっちは本物だ。
いざとなれば即座に動けるような緊張感がある。
その玉座は、なんと鉄だった。
いや、本当に鉄かどうかは分からん。
だが少なくとも、柔らかさとは無縁の冷たくて硬そうな見た目をしている。
お尻が痛くなりそうだ。
さすがに一日中座っている訳ではないだろうけど。
あれに長時間座って政務とかやってたら、権威より先に痔になるんじゃないか。
……いや、流石にそこまで想像するのは失礼か。
周りには、竜や王冠や剣を模した紋章がこれでもかと配置されていて、威圧感満載だ。
一つ一つを見ると凝ってるな、で終わるんだが全部まとめて押しつけられると、しっかり圧巻される。
なるほど、権力ってのはこうやって視覚化するのか。
勉強になる。
真似したいとは思わないが。
「王竜王国第32代国王レオナルド・キングドラゴン陛下にあらせられる!」
と、それっぽい紹介をされたのは、紹介された通り王様だ。
当たり前だけど。
見た目は金髪で、まあ王様っぽい人だ。
年は四十前後か、もう少し上。
派手に怒鳴るタイプには見えないが、だからといって甘そうにも見えない。
肩幅がしっかりしていて、座っていても身体が出来てるのが分かる。
装飾過多なだけの貴族じゃなく、ちゃんと鍛えてはいるんだろうなって感じの体格。
戦えるのかと聞かれれば分からないが。
俺は膝をついている。
ここで突っ立っているほど、礼儀を知らないわけでもない。
作法というのは、相手の土俵に入るための最低限の通行料みたいなものだとリーリャさんも言っていた。
払えるなら払っておくに越したことはない。
「顔を上げ、名を名乗れ」
「はっ、私は冒険者のカイン・アルネスと申します。此度は、お招きにあずかり恐悦至極に存じます」
口にしていてちょっとだけむず痒い。
でも、まあこういう場だ。
いつもの調子で「どうも」なんて言うわけにもいかない。
ここで変な印象を残して得することはないしな。
王は俺を少し眺めてから口を開いた。
「面を上げよ、カイン・アルネス。其方を呼んだ理由、理解しておろうな」
さっそく本題か。
雑談から入られるより、よっぽど助かる。
「招待状にて、ある程度は理解しております」
「ならば話は早い」
王の指先が、横に控えていた文官の方へ軽く動く。
すると、その文官が巻物を広げる。
たぶん俺が提出した図面の写しだ。
「実際に確かめさせたが、精巧な出来であった。通路の構造、罠の位置、隠し部屋に至るまで、ほぼ齟齬がなかった。あれほどの図面は、宮廷の探索役でもそうそう持ち帰れぬ」
「お褒めにあずかり、光栄です」
こういう時、変に気の利いた返しは要らない。
素直に受けて、丁寧に礼を言う。
その方が安全だし、何より今の俺にはそのくらいしかできない。
「して……これは、どうやって成したのだ?」
さっそく予想通りの質問の一つが来たな。
流石に何の準備もなしで王の前に来るほど、俺は肝の据わった人間ではない。
付け焼き刃の答えしか用意していないが、ないよりはずっとマシだ。
「神子の力にございます」
万能言い訳――神子。
この言い訳もワンパターンだとは分かっている。
だが、便利なんだから仕方ない。
「戦闘能力のない小型の使い魔を大量に召喚し、それらを迷宮内へ放って情報を集めました。一体一体は弱く戦闘には向きません。ですが数を出せますので、探索と地形把握には向いております」
「ほう、神子……」
その単語だけで、場が少しざわつく。
あからさまじゃない。
でも、ちゃんと空気が揺れた。
兵の視線がわずかに寄り、文官たちの呼吸が少し変わる。
だが王はそのざわめきを手を一振りして静めた。
「その力、余に見せてみよ」
俺は手影絵を作り、影へ意識を落とした。
「『脱兎』」
影から白い兎が一匹、ぴょこん、と現れる。
ふわふわしていて、見た目だけなら危険の欠片もない。
そのせいか、周囲の空気が「……これが?」という方向に少し傾いたのが分かった。
まあ、そうなるよな。
見た目はただの白兎だ。
強そうには見えない。
実際、単体では強くもない。
俺は脱兎を一歩前へ進ませてから続けた。
「このような使い魔にございます。これをあと数千単位での運用が可能です」
場がまた少しざわつくが、神子ならば……と、納得する空気が確かにあった。
神子ってのは、常識に収まらないから神子なんだろうし。
だったら、小型使い魔を大量に出せると言われても、まあそういうやつもいるのか、で済ませやすいんだろう。
王は少しだけ目を細め脱兎を見下ろしてから、再び俺へ視線を戻した。
「宝の在処を知っておったというのに、なぜ手を付けなかったのだ?」
来た。これも予想していた。
当然だよな。
迷宮の図面はある。
罠の場所も把握している。
隠し部屋の位置まで分かっている。
だったら普通は、金目のものも回収してくる。
それをしなかった理由は、そりゃ聞かれる。
「此度の目的は、財貨の回収ではなく迷宮そのものの把握にございました。手を広げれば判断が鈍ると考え、まずは全体像の確保を優先いたしました」
王は軽く頷いた。
それから、少しだけ口元に興味の色を残したまま、問いを重ねる。
「何ゆえ、そのようなことをしたのだ」
想定通りの問いだ。
“できた”理由じゃなく“やった”理由。
この手のやつは、むしろそっちの方が大事だ。
力があるだけのやつなんて、どこまで行っても危なっかしい。
その力を、何のために使う人間か。
王が知りたいのは多分そこだ。
「冒険者として名を立てたかったからでございます」
それは本当だ。
格好をつけた言い方をするなら、己が名を世に示したかった。
正直に言うなら、俺がここにいると分かる痕跡を、意図的に残しておきたかった。
「宝を持ち帰る者は多くとも、迷宮そのものを持ち帰る者は少ないでしょうから」
玉座の上の王は、短く頷いた。
否定はしない。
少なくとも、冒険者が名を求めること自体を浅ましいとは思っていないらしい。
そして、王は次の問いを投げてきた。
「報告によれば、迷宮の道中における魔物、最奥にいた主級魔物も、其方が倒したとある。違いないか」
「相違ございません」
王はそれを聞いてほんの少しだけ身を乗り出した。
「単独でか?」
「はい」
「それもまた、神子の力か」
「神子の力を用い、単独で攻略いたしました」
少しの沈黙。
それから、王は口元をわずかに緩めた。
笑った、というより面白いものを見つけたときの顔だ。
「カイン・アルネス」
名を呼ばれる。
さっきより近い。
空気の距離が。
「迷宮を丸ごと見通す神子の力。そして、主級を単独で屠る腕前。どちらも得難い」
否定はしない。
いや、できない。
そこで「そんなことは」とか言い出すのは、かえって礼を失するだろう。
「我が王竜王国は、強者を歓迎する国だ。特に、それが利益に変わる強者であればなおさらな」
だろうな。
言われなくても、ってやつだ。
王竜王国が栄えた理由からして、強者は大歓迎の国なんだろう。
血筋や格式を重んじないわけじゃない。
むしろ、そういうものもきっちり積み上げている。
その上でなお、「使える強さ」には価値があると、国全体で割り切っている感じがする。
理想や誇りがないわけじゃないが、それだけで腹は膨れないし国も回らない、という現実をよく知っていそうな国だ。
「迷宮を知り、その奥にある利益までも国のものとする。それは一度きりではなく、継続する力だ。それに、其方の使い魔には迷宮以外にもいくらでも使い道があろう」
まあ、そうだな。
脱兎みたいな小型の群体を、大量に動かせるなら使い道は山ほどある。
迷宮の下見。敵陣の斥候。街道の哨戒。山岳地帯での遭難者捜索。
鉱脈の当たりをつける下見にだって使えるかもしれない。
王の立場からすれば、「迷宮を丸裸にする」だけで満足する理由がない。
「其方を、我が王竜王国へ迎えたい」
ストレートだ。
遠回しに匂わせるでもなく、変に恩着せがましくするでもなく、はっきりと言った。
その潔さは嫌いじゃない。
嫌いじゃないが、簡単に頷ける話でもない。
こっちはこっちで事情がある。
言えない事情が、やたらと多いだけで。
「無論、今ここで答えを出せとは言わぬ」
そこも読んでいたか。
いや、王ってやつは大体そこまで考えてるものなのかもしれない。
「返事は待つ。その間、城内を見て回ることを許そう」
それは……大丈夫なのか?
表向きは微動だにせず、心の中だけでそんな声が漏れた。
素性の知れない冒険者をうろつかせるのは危険なのでは?
いや、もちろん「好きに」と言っても本当に好き放題できるわけじゃないだろう。
立ち入りを許される範囲は決まっているはずだし、目もついているはずだ。
むしろ、好きに動けると言っておいた方が、逆に動き方で人となりを見やすいまである。
それでもなお、よく俺の言うことがホラじゃないと信じられたなとは思う。
ギルドでの図面の照合があったとはいえ、神子だの使い魔だの、普通なら眉唾で終わる話だ。
まあ、その“普通”を押し切るだけの結果を先に出してしまったから、向こうとしては信じざるを得ないのか。
人は実績に弱い。
王でもそこは同じらしい。
「ありがたきお言葉にございます」
それで謁見は終わった。
思っていたより、ずっと短く。
思っていたより、ずっと濃かった。
さて、ひとまず剣を返してもらうか。
そう思って、城に入る時に預けた管理口へ向かったわけだが。
――無い。
管理口の机の向こうで帳簿を捲っていた係の男が「あれ?」みたいな顔をした時点で、嫌な予感はしていた。
していたが、まさか無いとは思わないだろ普通。
城に入る時に預けた剣だぞ。
そのへんの宿屋じゃないんだから、もう少しこう……あってほしい。
「よお」
声が飛んできた。
横からだ。
低くて、やたら馴れ馴れしい声。
城の中で聞くには、妙に場違いな声色。
裏路地で喧嘩が始まる前みたいな響きだった。
視線を向ける。
そいつは、俺の剣を持っていた。
しかも、わりと気楽そうに。
持ち方は乱暴ってほどじゃないが、気を遣ってる感じもない。
いかにもって感じの見た目だ。
でかい。
肩幅もあるし、腕も太い。
一言で言うなら“柄が悪い”という印象。
見覚えはある。
さっきの謁見の時にいたやつだ。
王の脇で俺のことをやたらチラチラ見てきていた。
あの位置にいるってことは、近衛か重臣か、どっちにしろ偉い側の人間なんだろうが、見た目だけなら王の横にいるより酒場の奥で腕組んでる方が自然なくらいには荒っぽい。
「これが、あいつの言ってた魔剣か……なあ、使ってみてもいいか?」
開口一番それかよ。
遠慮がないにもほどがある。
というか、なんで俺の剣をあいつが持ってるんだ。
まずそこから説明してほしい。
「……誰ですか?」
丁寧に言う気が、ちょっと失せた。
相手もそのへんは気にしてないらしく、むしろ口の端を上げる。
「覚えてないのか? ……まあ、無理もないか」
覚えてない……?
どこかで会ってるのか。
さっき見たから見覚えはある。
だが、「覚えてないのか」と言われるほど接点があったかと言われると、すぐには出てこない。
俺が眉を寄せて記憶を引っ掻き回していると、男は剣を肩に担ぐような勢いで持ち替えて、自分で名乗った。
「大将軍シャガール・ガルガンティス。王竜王国の『一の将』だ」
「シャガール……?」
頭の中で、その名前が記憶の底を転がった。
どこかで聞いた気はする。
いや、聞いたというか誰かと結びついている。
でも顔と名前が一致しない。
大将軍。一の将。
めちゃくちゃ偉い人なんだろうが、そんな人間と知り合いになったことはないはずだ。
王様ならいるんだが。
俺がまだ首を傾げていると、シャガールは鼻で笑って言った。
「ランドルフを勧誘してた奴って言えばわかるか?」
「あっ! あの時のチンピラか!」
言った瞬間、管理口の人が視線を逸らした。
大将軍を前にして、その第一声が「チンピラ」は、だいぶダメだ。
しかし、俺の中での第一印象はそこなんだからしょうがない。
ランドルフさんの定食屋で、ランドルフさんの作る料理はまずいから定食屋なんかやめて、俺のところに来い。
とか何とか言っていた、あのチンピラっぽい男。
……え、もしかしてこの人。
結構偉い立場の人なのか?
いや、今まさに“大将軍で一の将”って名乗っただろ。
結構どころじゃない。
かなり偉い立場の人だ。
城の中で王の脇に立つ大物と、定食屋で「そんなもんやめろ」と絡んでくるチンピラが、同一人物であっていいのか?
シャガールは、俺の反応に腹の底から面白がっている顔で笑った。
「まさか、あの時の坊主が迷宮を単独で攻略できるほどの実力者だとはな」
「こちらこそ、あのチンピラがまさか大将軍様だとは思いませんでしたよ」
口にしてから、まあまあ失礼だなとは思った。
大将軍って聞いても、やっぱり脳内であの定食屋の場面が邪魔をする。
「ハッ! 言うじゃねえか」
笑いながらそう返してくるあたり、本当にそのへんは気にしていないらしい。
むしろ、楽しそうに鼻を鳴らす。
そのへん、器がでかいのか単に雑なのか分かりづらい。
いや多分両方だな。
まあ、こちらとしてはありがたい。
いちいち言葉狩りされたら、こっちも息が詰まる。
というか、こんなすごい人に勧誘されるランドルフさんって何者なんだ?
不可視であるはずの『解』を認識してた時点で、只者ではないと思ってはいた。
だが、王竜王国の一の将とやらが直々に勧誘に来る相手となると、話が一段どころか三段くらい変わってくる。
「ランドルフさんは、今もまだ定食屋やってるんですか?」
「やってるぞ」
そこは変わらないのか。
なんだか少し安心する。
「定食屋と、この国お抱えの暗殺者を兼業してる」
「あ、暗殺者……?」
思わず素で変な声が出た。
定食屋と暗殺者を兼業って何だ。
どういう生活だ。
朝は出汁を取って、夜は首を取るのか?
意味が分からない。
いや、この世界だと意味が分からないことは珍しくないが、それにしてもひどい組み合わせだ。
「定食屋の経営だけじゃあ大変らしくてな。足りねえ分を殺しで稼いでる。本人は“ハイブリットですよ”とか、よくわからねえこと言ってるが」
ハイブリット。
いや、言いたいことは分かるような、やっぱり分からないような。
というか俺が教えた言葉じゃないか。
なんだか嬉しいな……
まあ、確かに見た目だけなら似合いそうな職業だ。
殺しができるのかは知らないが。
いや、知らないというか、実際やってるって言われた以上できるんだろう。
目が死んでるし、不気味な雰囲気だしな。
本人は気さくな人なんだけど、気さくさの奥に只者じゃない感はずっとあった。
あれが殺し屋の気配だと言われれば、まあ、納得はできる。
「あ、気になったんですけど、俺みたいな素性が分からない奴を城でうろつかせていいんですか?」
さっきから引っかかっていたことを、そのままぶつける。
だってそうだろ。
王に呼ばれたとはいえ、俺は外から来た冒険者だ。
素性なんて、自己申告とギルドの履歴くらいしか分からない。
そんなやつを“好きに動いていい”って、ちょっとゆるすぎる。
いや、もちろん本当に自由なわけじゃないだろうが、それでも扱いは妙に柔らかい。
気味が悪いというほどじゃないが、理由は知りたかった。
シャガールは「ああ」と、いかにも簡単な話だと言わんばかりに頷いた。
「ランドルフのやつが陛下にお前のことを伝えてたからな、ある程度は信頼されてる」
なるほど。
俺の人柄がある程度あっち側に伝わっていたから、扱いが緩めだったのか。
そう考えると辻褄は合う。
……いや、合うけど。
それで終わらせていい話でもない。
だって、初めてランドルフさんに会った時のことを思い出してみろ。
あの時、シャガールはランドルフさんを勧誘しに来ていた。
王城に籍を置いてますって感じじゃなかったはずだ。
あの時から、少なく見積もっても数ヶ月は経っている。
たった数ヶ月で、王に直接話が通る立場になったってことか?
いや、シャガール経由で話が通った可能性もあるか。
それでも、王に届く位置にいる時点で十分すごい。
「数ヶ月で王様に直接口利きできる立場になるなんて、すごいスピード出世ですね」
俺がそう言うと、シャガールは一瞬だけきょとんとしたあと、すぐに鼻で笑った。
笑い方が、いちいちチンピラっぽい。
この人ほんと、立場が大将軍じゃなかったら絶対もっと色んなところで揉めてるだろ。
「ハッ。出世……そんな生ぬるい話じゃねえよ」
「違うんですか?」
「違うも何も、あいつは最初からそういう扱いを受ける側だ」
「最初から……?」
「ランドルフは七大列強五位の「死神」だ。王竜王国の切り札みてえなもんだし、最初からそれなりの立場が用意されてる」
七大列強五位。
死神。
王国の切り札。
……情報量が多いな。
ちょっと待ってくれ。
一つずつ処理させてほしい。
人間、驚きにも順番ってものがある。
定食屋の店主に乗っけていい情報量じゃない。
その中でもまず、俺の耳を真っ先に引いたのは「死神」だ。
なんだその、いかにも強くて怖くて格好いい二つ名は。
ごちゃごちゃしてないのに、一発ですごい奴と分かる。
ランドルフさんにも似合う二つ名だ。
いや、俺だって一応、S級冒険者になったことで二つ名はついた。
ついたんだが。
「解体屋」だ。
いや、間違ってはいない。
確かに『捌』で魔物を綺麗に剥いでギルドに渡してはいたけどさ……
でも、死神と並べると急に生活感がすごいんだよ。
なんか、朝早く市場にいてもおかしくない響きになるんだよ。
で、次に引っかかったのは、七大列強だ。
四天王とか、七武海とか、そういう響きがする。
というか、多分そういう感じのやつだろ。
「七大列強って、なんなんですか?」
聞くしかない。
知らないまま流していい単語じゃなかった。
「色々あるが、端的に言やあ、世界で最も強え七人ってところだ」
やっぱりそういうやつか。
世界最強の七人。
字面だけでだいぶいい。
子どもの頃の俺が聞いたら、間違いなく目を輝かせていたと思う。
今の俺でも、ちょっと輝いた。
でも、それと同時に思う。
「そんなランキングで五位のランドルフさんて本当に何者なんですか……」
「だから言っただろ? あいつはただの定食屋に収まる器じゃねえって」
シャガールは「いや、言ったっけな……」と首を掻いているが俺はそれどころじゃない。
……俺、あの人に変なこと言ってないよな?
いや、わりと言った気がするな。
というか結構言ったな。
料理の感想も普通に言ったし、変なところで気安く話したし、なんならちょっと踏み込んだことまでやった覚えがある。
でも、今さらどうしようもないな。
変に距離を取り直す方がむしろ不自然だ。
あの人がそういうことを気にしないタイプだと信じたい。
「他の七大列強の名前とかって分かりますか?」
これは純粋な好奇心もあるが、それ以上に実利だ。
世の中、知らない危険が一番怖い。
知ってる危険は対処のしようがある。
いや、対処できるかどうかは別として、少なくとも心の準備くらいはできる。
特に今の俺は、余計な強者と気軽に鉢合わせしていい立場じゃない。
シャガールは少しだけ肩をすくめ、「あくまで俺もランドルフから聞いた話だがな」と前置きしてから、やけにあっさりした口調で教えてくれた。
第一位:「技神」消息不明
第二位:「龍神」オルステッド
第三位:「闘神」闘神鎧
第四位:「魔神」ラプラス
第五位:「死神」ランドルフ・マリーアン
第六位:「剣神」ガル・ファリオン
第七位:「北神」アレクサンダー・カールマン・ライバック
待て待て待て待て。
脳内で即座にブレーキを踏んだ。
いや、踏まざるをえないだろ。
さらっと、とんでもない名前が混ざってた。
なんか、オルステッドがいるんだけど。
俺、戦ったんだけど。
死にかけたんだけど。
今も追われてるかもしれないんだけど。
いや、まあおかしいくらい強いとは思っていた。
思ってはいたけど、いざ世界で二番目に強いってなると、急に現実味のある絶望に変わる。
しかも、このランキング。
神しかいない時点で、とんでもない人外魔境な気がする。
技神、龍神、闘神、魔神、死神、剣神、北神。
なんだよその世界最強ランキング。
人間を入れる気があるのか。
いや、ランドルフさんは一応人間か……人間だよな?
というか、オルステッドが二位か。
「龍神」という肩書だけで見れば、一位よりも強そうだ。
いや「技神」ってのが何なのか知らないから適当なことは言えないが、それでも「龍神」の圧はすごい。
少なくとも、俺が負けたのにも納得ができるってものだ。
むしろ二位相手にあそこまでやれてたなら、ちょっと褒めてほしいまである。
まあ、殆ど魔虚羅のおかげなんだが……
シャガールは、そんな俺の内心なんて気にした様子もなく、俺の剣を軽く持ち直した。
「そういや、ランドルフのやつがお前のことを呼んでたぞ」
……怖い。
反射でそう思った。
いや、怖いだろ。
俺、あの人の料理に面と向かってまずいとか言っちゃったし、殺されるかもしれない。
そんな短絡的な人じゃないとは分かっている。
分かってはいるんだが「死神」という肩書を聞いてしまったあとだと、その楽観視もさすがに少し揺らぐ。
とはいえ、呼ばれた以上は行かないわけにもいかない。
シャガールにランドルフさんのいる場所を聞き、ついでに剣はそのまま預けていくことにした。
向かう先が城の中である以上、武器を持ち歩くのは良からぬ誤解を招く可能性があるからな。
一応、「振り回さないでくださいよ」と、きっちり釘は刺しておいた。
下手に弄ると斬撃が出る時あるしな。
目的の部屋の前に立つ。
木の扉だ。
飾り気は少ないが、取っ手だけはやたらと頑丈そうで、妙に使い込まれている。
人が頻繁に出入りしている部屋の気配があった。
一度だけ深呼吸してから、俺は軽く扉を叩いた。
「どうぞ」
中から聞こえた声は、確かにランドルフさんの声だった。
ほっとするべきなのか、逆に緊張するべきなのか判断に迷う。
だが、ここまで来て立ち止まるわけにもいかない。
扉を開けて、中へ入る。
そこは厨房だった。
広い。
城の厨房ってもっと人がわさわさしてるものかと思ったが、この部屋はその中でも少し独立した場所らしく、作業台と大きなかまどと、吊るされた調理器具が整然と並んでいる。
鍋からは湯気が立ち、甘いような酸っぱいような、食欲を刺激する匂いが漂っている。
ランドルフさんもいた。
だが、その顔は血だらけだった。
「……へ?」
間抜けな声が出た。
出るだろ。
出ない方がおかしい。
だって顔面が真っ赤なんだぞ。
額から頬、鼻筋、顎のあたりまで、べっとりと血みたいなものが付いていて、エプロンにまで飛んでいる。
厨房の中で、血塗れの顔で死神が立っている。
どう考えてもまずい状況だ。
死神って肩書を知らなくても十分にまずい。
知ってしまった今はもっとまずい。
そんな俺の反応を見ても、ランドルフさんはまったく慌てなかった。
血だらけのまま、目を細めてからからと笑った。
「フフ……お久しぶりですねえ」
その意味深な笑顔は、今の状況だと恐怖心をそそるだけだ。
俺が一歩も動けずにいる間に、ランドルフさんはすっと距離を詰めてきた。
足音が静かすぎる。
城の石床の上なのに、なんでそんな音がしないんだ。
暗殺者だからか?
死神だからか?
そう考えてる間にも距離は縮まる。
手には、血のついたナイフ。
そのナイフが俺に向かって伸びてくる。
右から来ると思った。
手首の角度、肩の入り方、重心の流れ。
だから左へ避けた。
避けたつもりだった。
だが、それはフェイントだったようで、避けた先に滑り込むようにして赤い切っ先が迫る。
そういやこの人北神流だったな、と思い出した時にはもう遅い。
ナイフの先が、俺の口に突っ込まれていた。
「んぐ……?」
間抜けな声が漏れた。
刺された。
だが、痛みはない。
代わりに、舌の上へ何かがべっとりと広がる。
とろみがあって、温かくて、少しだけ重い。
鉄の味はしない。
むしろ逆だ。
甘み。
その奥から、ほどよい酸味。
野菜を煮詰めた時のような旨味と、肉の脂を受け止めるような厚み。
料理をぐっと食べやすくする味だ。
というか、懐かしい。
すごく懐かしい味だ。
ランドルフさんが、ナイフを引きながら聞いてくる。
「どうです?」
俺は瞬きを二回して、口の中に残ったそれをようやく理解した。
血じゃない。
これは。
「ケチャップじゃねえか」