受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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七十六話

 

「ふむ……ハンバーグでしたか? これは、とっても美味しいですねえ」

 

 

向かいに座ったランドルフさんが、そんなことを言いながら、ナイフとフォークで切り分けた肉の一切れをゆっくり口に運ぶ。

その声音は相変わらずのんびりしている。

食べる手つきは丁寧で、噛むたびに目元が少しだけ緩むから、本当に気に入ってるんだと分かる。

さっきまで顔中を血まみれ……もとい、ケチャップまみれにしていた人と同一人物とは思えないくらい、今のランドルフさんは穏やかだった。

 

 

「ありがとうございます」

 

 

俺もそう返してから、焼きたてのハンバーグへフォークを入れる。

その瞬間、こんがり焼けた表面がわずかに割れて、中から肉汁がじわっと滲んだ。

その上には、さっき俺が口の中に突っ込まれたあのケチャップが乗っている。

 

俺たちは今、厨房でハンバーグを食べている。

 

改めて文字にすると意味が分からない。

でも、ケチャップがあるんだ。

何も作らないという選択肢は俺にはない。

作らない方が不自然だ。

 

 

「しかし、助かりましたよ。勢いで作ってみたはいいものの、これを何に使えばいいのか分かりませんでしたから」

 

 

まさか、ランドルフさんがケチャップを作っているなんて思いもしなかった。

いや、思えるわけがない。

定食屋で、殺し屋で、七大列強五位で、しかも死神。

そこへさらに“ケチャップ開発者”まで乗ってくるなんて予想できないだろ。

何をどうしたらそんな肩書の盛り方になるんだ。

 

 

「使い道はたくさんありますよ」

 

 

「こういう時、カインさんは本当に頼りになりますねえ」

 

 

「頼りになってるのが料理方面なのは、ちょっと複雑ですけどね」

 

 

「何か一つでも強いものがあるのは大事なことですよ」

 

 

死神に言われると、説得力があるな。

とはいえ、料理で強いって言われても困るけど。

でもまあ、実際こうして役に立ってるんだから、あまり卑屈になるのも違うか。

 

 

「それにしても……カインさんが神子だというのには驚きました」

 

 

驚いた、と言っているが、その目はあんまり驚いた人の目じゃない。

どちらかというと愉快そうだ。

知らなかった事実を知ってびっくりしたというより、前から引っかかっていた答え合わせが済んで、少し面白がっている顔に近い。

 

 

「どういった力なのですか?」

 

 

「……小型の使い魔を大量に出せるのと、見えない斬撃を放てる……くらいですかね」

 

 

“くらい”と言いながら、十分おかしい能力だとは思う。

思うが、他に比べればまだ出してもいい札だ。

ランドルフさんが今どこまで王国側の人間として情報を共有している可能性がある以上、手札を開示しすぎる意味がない。

今向こうが知っているのは、使い魔と迷宮のボスを倒せる力だけだ。

そこへ自分から色々足していくのは、ちょっと危ない気がする。

 

 

「見えない斬撃……あの時、空に向かって放っていたものですか?」

 

 

「そうです」

 

 

即答する。

そこはもう見られている。

隠す意味は薄い。

むしろ曖昧にすると逆に怪しまれる。

 

 

「私はてっきり、魔剣の力かと思っていましたが」

 

 

ランドルフさんが、そう言いながら俺の腰を見た。

だが、腰に剣はない。

シャガールに預けたままだ。

だから視線だけが空を切って、それから再び俺へ戻る。

 

 

「剣にもその力は宿ってますよ」

 

 

「剣に神子の力が宿るのですか?」

 

 

「……実際に宿ってるんですから、宿るんでしょう」

 

 

ランドルフさんは、そこで少しだけ愉快そうに笑った。

このまま喋ってると、色々とぼろが出そうだ。

手遅れな気もするが……

 

 

「不可視の斬撃ですか……見せてもらっても?」

 

 

「いいですよ」

 

 

そう言いながら、俺は指を軽く振るった。

空気を撫でる程度の小さな動き。

次の瞬間、ランドルフさんの皿の上にあったハンバーグが、均等に切り分けられた。

 

ランドルフさんは、それをしばらく眺めた。

 

 

「……空気を割くように動いていましたね」

 

 

やっぱり認識してるな。

 

完全に見えているわけじゃない。

けど、“そこを何かが通った”という感覚は拾っている。

切り札だの七大列強だのという肩書きが、今こうして現実の細部にじわじわ染みてくる。

強い人って、やっぱり見える景色が違うんだろうな。

 

ランドルフさんは、切り分けられたハンバーグを一つ口へ運んで、ゆっくり噛んで、それから何でもないことみたいに言った。

 

 

「私と一緒に働きませんか」

 

 

その一言を聞いた瞬間、俺の頭の中で候補が二つ並んだ。

ランドルフさんと一緒、ということは、定食屋か、暗殺者だ。

で、この流れから前者の勧誘が来るとは正直あまり思えない。

思えないんだが。

不可視の斬撃を見せた直後だからこそ、逆に「その斬撃、うちの厨房で活かしませんか」とか言い出す可能性もゼロじゃない。

 

俺は一応、もっとも警戒すべき方へ先に釘を刺すことにした。

 

 

「暗殺者という意味でなら、お断りします」

 

 

ランドルフさんは、断られたこと自体には特に傷ついた様子もなく、むしろ噛んでいたハンバーグを一度きちんと飲み込んでから、少しだけ目を細めた。

 

 

「それは残念です……借り物とはいえ、向いている力だと思ったんですがねえ」

 

 

ドキリ、とした。

借り物。

俺の力をそう呼んだ。

迷いなく。

 

 

「……借り物ですか?」

 

 

問い返した声が、自分でも少しだけ固かった。

たぶん、笑えていない。

誤魔化そうとするには、その言葉は核心に触れすぎていた。

 

ランドルフさんはフォークの先でハンバーグの断面を軽く押し、肉汁とケチャップが皿の上でじわりと混ざるのを眺めながら、のんびりと頷いた。

 

 

「ええ。神子の力というのは、生まれ持ったものなのでしょう? でしたら、自分で鍛えて得たものとは少し違う。そういう意味では、借り物とも言えるのではありませんか」

 

 

……ああ。

そういう意味か。

一瞬、深いところまで踏み込まれたのかと思った。

神子って設定の中で処理するなら、確かに“自分で鍛えて得たものじゃない力”って意味では、借り物と言っても間違いじゃない。

 

 

「借り物の力なのは、まあ事実なので否定しませんが……『借り物とはいえ』ってどういう意味ですか」

 

 

「失礼。お気に障りましたかね?」

 

 

ランドルフさんは、少しだけ申し訳なさそうに肩をすくめた。

でも、あくまで表面だけだ。

本気で焦っているわけじゃない。

言うべきだと思ったから言った顔だ。

 

 

「祖父に厳しく言われているんですよ。借り物の力に振り回されるな、と」

 

 

「ランドルフさんにも、そういう力が?」

 

 

俺が聞くと、ランドルフさんは「ええ」と小さく頷いた。

それから、躊躇いもなく右目の眼帯に手を掛ける。

黒布の結び目がほどけて、すっと外された。

その動作があまりに自然で、こちらが身構える暇もなかった。

 

現れた目は、赤かった。

ただ赤いだけじゃない。

虹彩の奥に、六芒星のような文様が沈んでいる。

見た瞬間に“普通じゃない”と分かる目だ。

 

 

「魔眼ですか……」

 

 

「はい。とても強力な魔眼でしてねえ。残念ながら、私自身でもまだ扱いきれておりません」

 

 

ランドルフさんはそう言って、あっさりと認めた。

扱いきれていないと言いながら、その実かなり使い込んでいる感じがする。

本当に制御不能な人は、こんな風に静かに言わない。

 

そして、その赤い目でこっちを見たまま、ランドルフさんは小さく首を傾げた。

 

 

「そういえば、カインさんも目の色が違いますね。もしや、魔眼ですか?」

 

 

「まさか。ただ色が違うだけですよ」

 

 

即答した。

そこは即答する。

変に迷うと余計な勘繰りを呼ぶ。

透視眼のことをわざわざこの人相手に開示する理由はないし、したところで面倒が増えるだけだ。

ただ色が違うだけ。

それで通るなら、その方がずっといい。

 

 

「神子の力に加えて魔眼持ちとなれば流石に特殊すぎますからねえ」

 

 

あなたに言われたくないです。

心の中だけで、即座にそう返した。

王国の切り札で、魔眼持ちで、暗殺者で、定食屋で、七大列強五位で、死神で、ケチャップの人。

そんな人に「特殊すぎる」と言われても説得力はない。

 

ランドルフさんは眼帯を元に戻しながら、今度は少しだけ真面目な声色になった。

 

 

「お気を付けください。身の丈に合わぬ力を持つ者には、身の丈に合わぬ壁が来るものですから」

 

 

「身の丈に合わぬ壁ですか……」

 

 

「ええ、借り物の力を振るいすぎると、その強大な力の方に見合う壁が来てしまいがちですからねえ」

 

 

……心当たりがありすぎた。

 

オルステッド。ヒトガミ。

それだけで十分すぎる。

今の俺には、明らかに手に負えない相手がすでに二つも絡んでいる。

どっちも、関わらずに済ませるには大きすぎる。

前世でも、似たような経験があった。

身の丈に合わないものを抱えて、勝手に潰れそうになった経験が――

 

……ん?

前世でそんな経験あったか?

 

思い出そうとすると、そこだけ妙に靄がかかる。

嫌なことはいくらでもあった。

だがそんな経験あるかと言われると、上手く掴めない。

“身の丈に合わぬ力”と結びつく記憶を探ろうとするが、輪郭が曖昧だ。

思い出せそうで、指先から抜ける感覚。

 

……まあいい。

前世は前世だ。

今ここで、昔の自分の失敗探しをしても腹は膨れないし、目の前のハンバーグも冷める。

 

 

「ランドルフさんは、そういう人を知ってるんですか?」

 

 

「祖父がそうだったとよく語ってくれましたから」

 

 

「その人は……どうなったんですか?」

 

 

答えが欲しかった。

借り物の力を持った人間が、どこへ辿り着いたのか。

何を掴めば折れずに済むのか。

そこに、今の俺が借りられる答えがあるかもしれないと思った。

 

ランドルフさんは、すぐには答えなかった。

フォークでハンバーグをもう一切れ切り分けて、口へ運んで、ちゃんと飲み込んでから、ようやく言葉を返してくる。

 

 

「障害には打ち勝ちましたよ。借り物の力に見合う、精神性を身に着けたと言っていましたから」

 

 

精神性……

 

口の中で転がす。

やたら抽象的だ。

抽象的だが、分からないでもない。

力を持つのに見合う、内側。

器量。覚悟。

そういう類の話なんだろう。

たぶん、技術だけじゃない。

気持ちだけでもない。

生き方全体の話だ。

 

 

「本来そういうものは、自分の力と一緒に鍛えられていくものですからねえ」

 

 

ランドルフさんは、またハンバーグを口へ運んだ。

 

 

「ですが、借り物の力を与えられてしまえば、その機会は失われ、力だけ先に手に入って、心は弱いまま……ということになりがちです」

 

 

また、ドキリとした。

 

宿儺の力を持ってはいる。

けど、肝心の中身。

俺自身がその力に見合っていない。

だから、理不尽に対して簡単に折れてしまう。

あの時だってそうだった。

どうしようもないと決めつけて、心が先に膝をついた。

そう突きつけられた気がした。

 

でも、しょうがないだろ……どうしようもできない状況なのには変わりないんだから。

 

そう思った瞬間、ランドルフさんがカラカラと笑った。

 

 

「心当たりがおありで?」

 

 

「……まあ、はい」

 

 

認めるしかなかった。

ここで強がっても仕方がない。

たぶんもう顔に出ている。

 

 

「どうやって、その精神を鍛えたんですか?」

 

 

「恥ずかしがってあまり教えてくれませんでしたが……仲間のおかげだと言っていましたねえ」

 

 

「……」

 

 

今の俺には無理だな。

考えるより先にそう思った。

 

仲間。

それが大事なのは分かる。

分かるし、たぶん本当にそうなんだろう。

でも、今の俺にはそれを選べない。

選べる立場じゃない。

関わるほどに巻き込む。

巻き込むと分かっていて近づくのは、俺には無理だ。

だからこそ余計にその答えが遠い。

 

 

「そういえば、お仲間の皆さんはいないのですね。城には連れてこなかったのですか?」

 

 

「……事情があって、今は離れてます」

 

 

「おや、そうでしたか」

 

 

ランドルフさんは、それ以上は踏み込まなかった。

そこはありがたい。

分かっているからこそ、その引き際の良さが逆に少し怖い。

この人はいま、俺が話したくないラインをちゃんと見て、そこへは乗らないことを選んだと分かってしまうからだ。

見透かされている。

 

ランドルフさんは最後の一切れになったハンバーグを、綺麗にナイフで切り分けて、少しだけケチャップを絡めて、それから口へ運んだ。

 

 

「やはり美味しいですねえ。肉の焼き目の香ばしさと、中の柔らかさがちゃんと両立していて、そこへこの酸味のある赤いソースが乗ると、くどさが綺麗に消えていく。これは、なかなか……危険な食べ物です」

 

 

「危険なんて感想、初めて聞きましたよ」

 

 

「食べやすいというのは、それだけでつい食べ過ぎてしまうということですから」

 

 

俺はその言葉に、ちょっとだけ安心していた。

死神だとか暗殺者だとか、そういう肩書きを持っていても、料理の感想は普通に言うんだな、と。

まあ、普通って何だよという話ではあるんだが。

それでも、料理を食べて美味しいと思って、その美味しいを言葉にする感覚まで全部が全部、別の生き物みたいというじゃないんだと思うと、少しだけ息がしやすくなる。

 

けど、その安心も長くは続かなかった。

 

ランドルフさんが、フォークを置いて、こちらをじっと見た。

そして、口元だけを少しだけ緩める。

意味ありげに。

前までは意味深な顔なだけで、それほど意味はない笑みだと思っていた。

そういう雰囲気を標準装備してる人なんだろうと。

でも今は違う。

死神。

七大列強五位。

王国の切り札。

そういう肩書が、あの人の笑みの一つ一つに勝手に裏を付けてくる。

ただ見られているだけなのに、俺の中の何かを見抜かれている気がする。

落ち着かない。

すごく落ち着かない。

 

 

「時に、カインさん。教養はありますか」

 

 

「教養、ですか」

 

 

急な方向転換だった。

料理からどうしてそこへ飛ぶ。

でも、この人相手にいちいち「なんで」と突っ込んでいたら会話が進まない気もする。

 

 

「えーっと、ミリスの学校の入試試験を満点合格するぐらいにはありますよ」

 

 

言いながら、ふと思い出す。

アイシャが受けた入試試験。

あれをアイシャが遊び半分で、抜き打ちのような形で俺に出してきたことがあった。

こっちが油断してるところへ、にやにやしながら問題を出してきて、「お兄ちゃん、これやってみて?」と言われた時は、何だその挑戦的な目はと思ったが、やってみれば案外全部解けた。

 

その時のアイシャは、悔しがるでもなく、なぜか自分が勝ったように胸を張っていた。

問題を出したのそっちだろ、と今でも思う。

でも、あの自慢げな顔はかなり可愛かった。

……いや、今そこを思い出すとちょっときついな。

やめよう。

 

 

「ふむ……それはなかなか」

 

 

ランドルフさんは素直に感心したように頷いた。

それから続けて聞いてくる。

 

 

「年はおいくつで?」

 

 

「十五歳ぐらいですかね」

 

 

「おや、成人していたのですか……まあ、成りたてなら大丈夫でしょう」

 

 

「……なんでそんなことを聞くんです?」

 

 

さっきから聞いてくることの方向が、なんというか条件整理っぽい。

教養。年齢。

成人しているかどうか。

雑談にしては項目が具体的すぎる。

嫌な予感というほどではない。

ただ“何かに使う気だな”という予感はある。

 

ランドルフさんは、こちらの問いにあっさり答えた。

 

 

「城への出入りが自由なのでしたら、ある方の先生をしていただけないかと思いまして」

 

 

「いきなり先生ですか……俺より適任はたくさんいるでしょう」

 

 

思ったままを返す。

別に先生をやったことがないわけじゃない。

アイシャだったり、シルフィだったり、結果的にそういう立場っぽくなったことはある。

料理の先生という意味なら、リーリャさんや、ランドルフさんにだって教えたことはある。

教えること自体は、たぶん苦手ではない。

むしろ得意な方ではあると思う。

相手の理解に合わせて言葉を選んで、付き合って、待って、引っ張る。

そういうのは嫌いじゃないし、割と上手くできると自負している。

ただし、それはこっちにやる気がある時の話だ。

今までは、相手が身近で、大事で、できるようになってほしいと思えたから、自然と口も手も動いた。

でも、見ず知らずの人間に同じ熱量を出せるかと言われると話は別だ。

 

ランドルフさんは、そんな俺の返答に満足そうでも不満そうでもなく、ただ少しだけ目を細めた。

 

 

「必要なのは知識ではないのですよ。初対面の私に料理を教えて時のような……ああいう、めんどくさい性格の方が適任だと思っていましてね」

 

 

「それは……褒めてるんですか?」

 

 

「もちろん褒めてますとも」

 

 

即答だった。

悪びれもしない。

めんどくさい性格を長所として勧誘材料にされる日が来るとは思わなかった。

 

 

「あなたぐらいめんどくさい性格の方が、あの方に合いそうなんですよ。とても良い作用が起こりそうです。まあ、半分以上は勘ですがね」

 

 

「ああ……さっき色々聞いたのは、先生の条件だったんですね」

 

 

「ええ。できれば、学があって、剣術も使えると良いですから。カインさんにぴったりではありませんか」

 

 

城への出入り。教養。剣。

嫌な予感が、少しずつ具体性を持ち始める。

 

 

「ランドルフさんじゃダメなんですか?」

 

 

「私は教えるのがあまり上手くありませんし、それに、その生徒は……小さい子が好きな方でしてねえ」

 

 

……待て。

未成年をご所望の生徒?

字面がだいぶ不味くないか?

いや、もちろんそのままの意味じゃないのかもしれない。

だが、言葉の切り取り方だけ見ると全力で危ない。

しかも、城への出入りができるなら、という感じで誘ってきたということは、相手は城内にいるやつなんだよな?

嫌な予感しかしない。

 

 

「七日間だけでも、どうです?」

 

 

「うーん……」

 

 

渋る。

本気で少し迷った。

一週間。

短い、短いからこそ断りづらい。

そのとりあえずが厄介だ。

一週間だけなら。

様子見だけなら。

そう思って引き受けた何かが、そのままずるずる本契約になる未来なんて、この世界にも前世にも腐るほどあっただろう。

でも、本当に一日だけ何か教えるくらいなら……と、思ってしまう自分もいる。

 

俺が曖昧に唸っていると、ランドルフさんが少しだけ身を乗り出してきた。

それから、声をひそめる。

耳打ちだった。

 

 

「―――」

 

 

提示された週給を聞いた瞬間、俺の迷いは吹っ飛んだ。

 

 

「やります」

 

 

即答だった。

食い気味ですらあった。

自分でも引くくらい判断が早かった。

 

でも仕方ないだろ。

今の俺には、お金がないのだから。

S級冒険者とはいえ、頻繁にはないS級の依頼しか受けていないせいで、名声のわりに懐事情はそこまで派手じゃない。

 

いや、収入そのものは悪くない。

だが、安定しない。

しかも、今はこまめに街へ寄って、記録を残して、移動して、補給して、という風にやっているから、収入より出費の方がじわじわ追いついてきている。

 

そして、この服だ。

この王城に来るためにわざわざ買った、あのバカ高い服。

店員さんに似合うと言われ、こっちは「場違いにならない程度でいいです」と何度も言ったのに、「いえ、お客様はこちらが絶対に」だの「この生地はお立場に相応しく」だのと押し切られて、半ば強制的に買わされてしまった、あの洒落てはいるが洒落にならない値段の服。

あれのせいで財布が軽い。

本当に軽い。

 

国に仕えないかと誘われてはいるが、今のところ受けるつもりもないし、だったら自分で稼いでおきたい。

一週間だけなら何も起こらないだろうし大丈夫だろう。

……たぶん。

 

ランドルフさんは、俺の即答に対して「おや」と少しだけ笑った。

予想はしていたが、ここまで綺麗に釣れるとは思っていなかった顔だ。

 

 

「では、早速……」

 

 

そう言って立ち上がろうとしたランドルフさんを、俺は慌てて止めた。

 

 

「待ってください。せめて、相手がどんな人かは聞かせてください」

 

 

流石にそこを知らずに行くのは危ない。

いや、もう十分危ない流れではあるんだが、それでも最低限の情報は欲しい。

 

ランドルフさんは、再び椅子へ腰を戻しながら、穏やかな声で答えた。

 

 

「王竜王国へ留学しに来ている属国の王子です。まあ、留学と言っても実態は属国からの反乱を防ぐための人質のようなものですがねえ」

 

 

王子か……

なんかだいぶ面倒ごとの匂いがしてきた。

いや、最初からしてたけど。

今の一言で、その匂いがかなり格上げされた。

 

 

「というか、王子の先生なんて仕事、俺が受けられるんですか?」

 

 

率直な疑問だった。

いや、能力の話じゃない。

制度とか立場とか、そっちの話だ。

俺はただの冒険者だ。

神子って肩書はあるが、身元も経歴も薄い。

人柄はある程度担保されているとは言え、王子の先生をやらせる仕事を、そんな簡単に受けられるものなのか。

普通はもっと、推薦状とか家柄とか、面倒な条件がついてきそうなもんだろう。

 

 

「それは……どういうことでしょうか?」

 

 

「公的な仕事そうなのに、俺みたいなのがそんな立場の人間に近づいていいのかって話です」

 

 

俺がそう言うと、ランドルフさんは「ああ」と頷いた。

そこはちゃんと説明するつもりらしい。

 

 

「仕事を受け付けているわけではありませんよ。私個人の依頼です。給料も私が自腹で払うつもりです」

 

 

「……どうしてそこまでするんですか?」

 

 

ランドルフさんは、そこでほんの少しだけ目を細めた。

からかうでもなく、試すでもなく、なんというか……思い出す前の顔だった。

目の前の皿でも、俺でもなく、少しだけ別の場所を見ている顔。

 

 

「お気に入りの、お客様ですから」

 

 

「……おいしそうに料理を食べてくれるお客さん、ってことですか?」

 

 

そう聞き返しながら、半分くらいは違うだろうなと思っていた。

この人の言う“お気に入り”は、たぶん単純な好き嫌いじゃない。

もっとこう、本人にしか分からない理由がある時の言い方だ。

 

案の定、ランドルフさんは小さく首を振った。

 

 

「いえ。特別おいしそうに食べてくれる方というわけではないんですよ」

 

 

「じゃあ、どうしてお気に入りなんです?」

 

 

俺がそう聞くと、ランドルフさんはそこで少しだけ黙った。

ほんの一拍とか、そういう短いものじゃない。

考えている沈黙だった。

言うか、言わないか。

どこまで言うか。

そういうのを秤にかける時の、あの独特の静けさ。

 

やがてランドルフさんは、少しだけ肩を抜くように笑った。

 

 

「……まあ、カインさんならいいでしょう。あなたも、私のお気に入りのお客様の一人ですからねえ」

 

 

「はあ……」

 

 

「その方は、私の料理を『美味しい』そう言ってくれたんですよ」

 

 

そういうランドルフさんの顔が、急に人間味を帯びた顔になった。

いや、もともと人間なんだろうけど、今までの会話の流れだと、どうしても“死神”とか“列強”とか、そういう肩書きの方が前に出ていた。

 

なのに今は違う。

ただ、自分の作った料理に対して向けられた言葉を大事そうに抱えている、ひどく普通の顔だった。

 

 

「それは……よかったですね?」

 

 

よく分からないまま、とりあえずそう返す。

いや、よかったのは分かる。

分かるが、ここで俺が全力で共感するには、前提が少し足りない。

たぶん俺は今、この人が大事にしている感情の核心をまだちゃんと掴めていない。

だから、どうしても少しうやむやな返しになる。

 

ランドルフさんは、その微妙な返事を責めるでもなく続けた。

 

 

「フフ……まあ、カインさんほど料理がお上手で、その言葉を言われ慣れている方には分かりませんよねえ」

 

 

「いや、言われ慣れてるってほどじゃ……」

 

 

反射でそう言いかけて、少しだけ言葉を飲み込む。

たしかに、俺は料理を作って褒められた経験が、かなりある。

前世ではそんなことほとんどなかったはずなのに。

こっちへ来てからは、思っていたより“美味しい”という言葉をもらってきた。

家族だったり、仲間だったり、たまたま食べた誰かだったり。

その一つ一つが、俺にとってはかなり大きかった。

だから、軽くは扱いたくなかった。

 

ランドルフさんは、少しだけ肩をすくめた。

 

 

「実はですねえ、私カインさんに教えていただいたナナホシ焼き以外の料理は、まだまだまずいままなんですよ」

 

 

「そうなんですか……」

 

 

……それもそうか。

心の中で、素直にそう思った。

以前教えたのは、あくまで唐揚げの作り方。

いや、この世界での名前ならナナホシ焼きか。

ともかく、あれは“あの料理の正解”を教えただけであって、料理そのものの考え方とか、火の入れ方とか、味の重ね方とか、そういう根っこの部分を教えたわけじゃない。

つまりは、付け焼き刃でしかないわけだ。

そりゃ、一品だけ正解を知っても、全部が一気にうまくなるわけじゃないよな。

ん……?

まてよ――

 

 

「ってことは、その、まずいままの料理を美味しいって言ってくれたってことですか?!」

 

 

「ええ、ええ! そうなんですよ。料理を美味しくしようと、城の兵士相手に練習している際に食べてくれましてねえ。その時に『美味しい』と言って、おかわりまでしていただけたんです」

 

 

語り方が、急に生き生きし始めた。

料理の話をしている時のランドルフさんには熱がある。

この人は本当に料理が好きなんだとわかる。

そして、好きだからこそ嬉さもデカかったんだろう。

 

 

「それは何というか……嬉しかったでしょうね」

 

 

今度は曖昧にせず、そう言えた。

 

まずいかもしれない。

まだまだかもしれない。

でも、自分で積み上げてきたものを“美味しい”と、そう肯定される。

しかも、おかわりまでされる。

そりゃ、嬉しいに決まってる。

 

ランドルフさんは、少しだけ目を伏せて、でも確かに嬉しそうに頷いた。

 

 

「はい……とっても嬉しかったんですよ」

 

 

その声は、本当に心の底から出ていた。

飾ってない。

盛ってない。

まっすぐな喜びだと感じた。

 

 

「カインさんにナナホシ焼きの作り方は教えてもらいはしましたが……それはつまり、今までの自分の努力が意味のないものだと認めるということでしたからねえ」

 

 

その言葉に、俺は一瞬だけ言葉を失った。

ああ、そうだよな。

そうなるよな。

 

正論を言えば解決、なんてそんな単純な話じゃない。

ランドルフさんにもランドルフさんの積み上げてきたものがある。

工夫して、失敗して、試して、また失敗して。

その時間ごと“違いますよ、こうです”ってやられたら、そりゃあ自分がやってきたこと全部が薄く見えてしまう時だってある。

俺は“役に立つことを教えた”つもりでいたけど、その裏でそういう感覚を抱かせていたなら、だいぶ鈍かった。

 

 

「それは……申し訳ないことをしました。すみません」

 

 

「いえいえ、カインさんにも感謝はしていますよ。ナナホシ焼きは城の兵士にも好評ですからねえ」

 

 

ランドルフさんは、そこで少しだけ笑みを深くした。

 

 

「ただ、やはり……自分の努力が認められるというのはいいものですねえ。何と言いますか……ありのままの自分を受け入れてもらったような気がしましたよ」

 

 

「ありのままの自分ですか……」

 

 

「ええ」

 

 

ランドルフさんは、そこでゆっくりと椅子から立ち上がった。

それから何でもないみたいな顔で言う。

 

 

「では、雇用契約書を取ってきますね」

 

 

「え、契約書?」

 

 

思わず聞き返した。

いや、だってそうだろう。

王の命令でもなければ、ギルドの正式依頼でもない。

ランドルフさんが自腹で払うと言った、いわば私的な頼み事だ。

それなのに契約書。

俺の中では、せいぜい口約束に毛が生えたくらいの、一週間だけの小さな手伝いのつもりだったんだが。

 

 

「個人が依頼する仕事ですよね? そこまでしなくても……」

 

 

思ったまま口にすると、ランドルフさんは扉の取っ手に手をかけたまま、こちらへ半分だけ振り返った。

その顔は穏やかで、声も柔らかかったんだが、言ってる内容はあまり柔らかくなかった。

 

 

「いえいえ。途中で逃げられても困りますから」

 

 

さらっと言う。

声は柔らかい。

柔らかいのに、言ってる内容だけは妙に物騒だ。

……なんかちょっと怖くなってきたぞ。

 

 

 

―――

 

 

 

ランドルフさんが部屋を出ていって数分。

俺はその場にひとり残されて、さっき聞いた言葉をぼんやりと思い返していた。

 

――ありのままの自分を受け入れてもらったような気がしましたよ。

 

それは、嬉しかったんだろう。

料理が上手いとか下手だとか、そういう話だけじゃない。

もっと根っこのところで、自分が積み上げてきたものを、自分ごと認めてもらえた感覚だったんだと思う。

 

俺はありのままの自分を受け入れてもらうのを怖がってしまう人間だから、なおさらそう思う。

見せれば嫌われるんじゃないかとか、知れば離れていくんじゃないかとか、そういう余計な予防線を先に張る癖が染みついてる。

だから、ランドルフさんの言う「嬉しかった」は、たぶん俺が思ってるよりずっと重い。

 

……まあ、そこはいい。

いや、よくはないんだが、今そこを掘ってもしょうがない。

つまり、ランドルフさんに共感したってことだ。

そういう相手なら、ランドルフさんがその王子に恩を返したいと思うのも分かる。

理由としては十分だ。

これなら知らない王子だか王女だかに何か教えるって話も頑張れそうな気がする。

俺は人のためって理由の方がやる気が出るからな。

まあ、自分のためだと、やる気が出ないと言った方が正しいのかもしれないが。

 

そうやって一人で勝手に納得していたところへ、ちょうどいいタイミングでランドルフさんが戻ってきた。

手には一枚の紙。

見るからに手作りの契約書だった。

城の正式文書みたいな仰々しいものじゃない。

でも、雑でもない。

項目ごとにきっちり整っていて、字も読みやすく、報酬と期間と内容、それから途中で投げ出されたら困るのでその時は困りますね、みたいな柔らかい文面のくせに逃がす気のない一文まで入っている。

 

 

「はい、こちらです。ささっとで構いませんので」

 

 

「個人依頼にしては、ずいぶん準備がいいですね……」

 

 

「後で言った言わないになるのも面倒ですからねえ」

 

 

俺は紙を受け取って、一応最後まで目を通した。

特に変な項目はない。

家庭教師のやる業務をそのまま書いたような契約内容だ。

報酬もさっき耳打ちで聞いた額と同じ。

何度見ても、やっぱりいい額だ。

いい額ではあるんだが、気分的には死神に命を売っている気分だ。

半分はあってるのが怖い。

まあ、命の方ではないし大丈夫だと思いたい。

 

俺が紙を返すと、ランドルフさんは満足そうに頷いて、契約書を丁寧に折りたたんだ。

 

 

「ありがとうございます。では、今から始めましょうか」

 

 

「今からですか!?」

 

 

さすがに聞き返した。

いや、そりゃ仕事なんだからいつか始まるのは当たり前なんだが、まさか契約して即実務へ移行すると思わないだろ。

せめて明日とか、なんなら一回心の準備をする日ぐらいくれてもいいんじゃないか。

 

 

「そこは、まあ……個人の依頼ですからねえ。融通は利きますよお」

 

 

公的手続きじゃないからこそ、思い立ったらすぐ動ける。

そういう理屈なのだろう。

厄介だけど、納得はできる。

 

 

「便利な言葉ですね」

 

 

「はい、気に入っています」

 

 

まるで悪びれない。

この人、絶対こういうやり取り好きだろ。

好きじゃなきゃこんな自然に言えない。

 

そこからランドルフさんに連れていかれたのは、王城の本館から少し離れた離宮だった。

そのまんまだな。

そこは、やや閉じた印象の建物群で外から見れば白い石と薄青の屋根瓦で統一された、上品で静かな区画だ。

 

留学……という名目の人質である王子や王女が住んでいる場所らしい。

パッと見は十分豪華な作りになっている。

だが、なんというか住みやすさ重視の豪華さではない。

そう見せたいのか、人質たちから不満が出ないように作られているのか……

どっちでもいいな、俺が住むわけじゃないし。

……豪華な鳥籠、という表現が一番しっくりきた。

 

やがて目的の生徒がいるという部屋に着いた。

ランドルフさんはそこで一度だけ振り返って、穏やかに言った。

 

 

「それでは、家庭教師の件をお伝えしてまいりますねえ」

 

 

「……まだ伝えてすらいなかったんですか」

 

 

「ええ」

 

 

そう言って、ランドルフさんは先に中へ入っていった。

 

俺は廊下で一人残され、少しだけ息を吐く。

手持ち無沙汰だったので、反射的に透視眼を使った。

どんな相手かくらい見ておきたい。

見ておいた方が心の準備もできる。

……のだが、ちょうどランドルフさんの立ち位置が悪くて、生徒の姿がきれいに隠れてしまっている。

 

ただ、体格だけは分かった。

小柄で、太い。

いや、「ふくよか」とか「恰幅がいい」みたいな上品な表現もあるんだろうが、第一印象としては「太い」だ。

 

年齢はそう高くなさそうだが、身体に締まりがない。

いかにも、贅沢に慣れた王子らしい体型だ。

偏見かもしれないが。

 

 

「陛下。家庭教師を連れてきました」

 

 

「おお! ちゃんと条件はそろっているのだろうなあ?」

 

 

……ん。

なんか下品な声だ。

 

まてまて、なんだその感想は。

声だけで人を判断するのは良くない。

良くないんだが、聞いているとなんだか気分が下がる声だ。

ヒトガミとかな。

あれと同じ種類とまでは言わない。

けど、なんというか、他人を当然のように下に置いて喋る声というのは、それだけで少し耳に引っかかる。

 

 

「はい……賢くて、教えるのが上手で、熱心に話を聞いてくれて、絶対に見捨てなくて、見た目がよくて、小さい子という条件すべてに合う教師を見つけてきましたよ」

 

 

いや、前半四個あたりは家庭教師としてあった方がいい項目ではある。

かなり大事だ。

だが、後半二つはやっぱりおかしいだろ。

見た目がよくて。

小さい子。

何だその条件。

そんな項目全部クリアできる人間そういないだろ。

……あ、いやロキシーさんが居たな。

 

 

「でかしたぞ! ランドルフ。数度しか顔を合わせておらぬ余のために、よくぞそこまで骨を折ったものだなあ」

 

 

「いえいえ、ちょうどそんな人物が転がり込んできただけですから」

 

 

転がり込んできた扱いなんだな。

まあ否定はしにくい。

この国へ来て、迷宮を攻略して、王に呼ばれて、そのまま離宮へ連行されてるんだから、だいぶ流されてはいる。

 

 

「ぐふふ……何を教えてもらおうか、楽しみであるなあ」

 

 

……ん?

 

一瞬、変な方向に思考が滑った。

もしかして俺狙われてる?

 

生徒は声からして男だ。

男なんだが、もしかしてそういう趣味なのか?

リーリャさんから、王族は特殊な性癖を抱えてる人間が多い、みたいな話を聞いたことがある。

それを今、思い出したくない形で思い出してしまった。

やめろ、余計な先入観を持つな。

まだ会ってもいない相手だぞ。

だが、聞こえてくる会話がその自制をちょっとずつ崩してくる。

 

 

「ええ、たくさん勉強なさってください」

 

 

「うむ! たくさん、勉強させてもらうとする……ぐふ」

 

 

待て待て。

 

その“勉強”は、ランドルフさんの想定してる意味の勉強で通じてるのか?

なんというか、向こうの声の温度が、どう考えても机に向かうとか、読み書きとか、礼法とか、そういう健全寄りの響きじゃない。

あまり学問として認めたくないタイプの「勉強」な気がする。

 

もしかしてランドルフさん、気づいてないのか?

 

……いや。

あの人が気づいていない可能性は、たぶんない。

死神で、暗殺者で、王城の奥で普通に料理してるような人が、相手の言葉の裏を拾えないわけがない。

むしろ、気づいたうえであえてそのまま流している可能性の方が高い。

それどころか、ここへ来る前にわざわざ契約書を用意していたことまで思い出すと、最初からある程度この展開を見越した上で、俺を逃がさないために契約書を用意していた、と考えた方が自然ですらあった。

 

……最悪な理解の仕方をしてしまった。

 

だが、俺が部屋の外で一人勝手に青ざめている間にも、扉の向こうの会話は、楽しそうに、そして俺にとってはだいぶよろしくない方向へぬるぬる進んでいく。

 

 

「それで、そやつはもう来ておるのか?」

 

 

「はい、来ていますよ。今すぐにでも始めたいと、ずいぶん息巻いておりました」

 

 

言ってないです。

と反射で思いかけて「待てよ」と思い返す。

完全には言ってない、とは言えない。

契約する時、あの週給を耳元で囁かれた瞬間の俺はたしかにかなり前のめりだった。

前のめりどころか、たぶん目の色が変わっていた。

「やります」とも言った。

しかも即答で。

 

……くそ、言質としては十分すぎるな。

 

扉の向こうで、王子の声がぱっと明るくなる。

 

 

「ほう! 今すぐとな……よいではないか、よいではないか! やる気のある者は好ましいぞ!」

 

 

すごい喜びようだな。

本当に勉強に対してその反応なら、真面目でいい子なんだけどな。

どう考えてもそうじゃない響きが混ざってるのが嫌だ。

 

というか俺、もしかしなくても騙されてないか?

いや、騙されてるよなあ……これ。

報酬で釣られて、面倒ごとのど真ん中まで引っ張ってこられて、しかも今この扉一枚向こうでは、俺が何を教えることになるのか、俺の知らないところで話が進んでる。

 

だが、ここで逃げたら契約違反。

残ったら残ったで不穏。

見事に詰んでる。

 

 

「それで、余の家庭教師はどこにおるのだ?」

 

 

「扉の外でお待ちいただいておりますよ」

 

 

「ふむ……ふむふむ……じらすのう、ランドルフ。余は待たされるのが嫌いだぞ?」

 

 

「存じておりますとも。ですので、そろそろお通ししましょう」

 

 

ああ、駄目だ。

これは本格的に、ろくでもない匂いがする。

 

だが、逃げるわけにもいかない。

逃げたら、たぶん契約書が飛んでくる。

いや、紙そのものじゃない。

もっと社会的で、面倒で、逃げても逃げ切れない形で飛んでくる。

俺はいま王城の中にいて、相手は離宮住まいの属国の王子で、仲介してきたのは王国の切り札たる死神兼定食屋だ。

どう考えても、この場で一番立場が弱いのは俺。

 

そう最悪な結論がついたところで、扉の向こうでランドルフさんの声が聞こえた。

 

 

「では、カインさん、どうぞ」

 

 

声は穏やか。

だが、逃げ道はない。

というか契約書にサインした時点で、もう逃げ道はなかった。

 

俺は一度だけ深く息を吸って、そして、余計なことは考えないようにしながら扉を押し開けた。

 

部屋へ入る。

だが、ここできょろきょろと中を見回したりはしない。

そういうのは駄目だ。

特にこういう場所では、最初の所作ひとつで「田舎者」「無礼者」「舐めている」と、好き勝手に言われかねない。

それが嫌なら、最初だけでも丁寧にやるしかない。

相手が誰であれ第一印象は大事だ。

 

だから俺は、部屋へ入ってすぐ、きっちりと頭を下げ礼を取った。

 

 

「お初にお目にかかります。カイン・アルネスと申します。この度はご縁をいただき、まことにありがとうございます。未熟者ではありますが、務めを果たせるよう尽力いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」

 

 

まずは挨拶。

まずは礼。

そういう形から入っておけば、大きく外しはしない。

リーリャさんにも教え込まれたし、こういう時の型というのは簡単には裏切らない。

 

数秒の沈黙が落ちる。

 

妙だなと思った。

返事がない。

いや、ないわけじゃない。

ある種の息を呑むような気配だけはある。

でも、それが「おお、よく来たな」みたいな歓迎の気配じゃない。

もっと引っかかる感じだ。

 

変だ。

俺、そんなにおかしなこと言ったか?

 

そう思って、ゆっくり顔を上げた。

 

視線が真正面のそいつとぶつかる。

 

丸い。

いや、失礼なのは分かってる。

分かってるけど第一印象がそれだった。

年は俺とそう変わらないように見える。

豪奢な衣服に包まれた身体は全体的に肉付きがよく、椅子に座っているというより、そこへ沈んでいるような座り方をしている。

顔立ちそのものは王族らしく整っているはずなのに、その整い方を全部台無しにするような、ねっとりした目つきと、いかにも人を値踏みするような笑みが乗っている。

 

そして何より、俺はその顔を知っていた。

 

向こうも、俺の顔を見て目を丸くしていた。

 

 

「「あ……」」

 

 

思い切り、間抜けな声が重なった。

 

俺の目の前にいたのは、忘れようにも忘れられない癇に障る面だった。

向こうも向こうで、俺の顔を見た瞬間、目を見開いて固まっている。

 

 

「「あの時の……!」」

 

 

その次の言葉も、ほとんど同時だった。

 

 

「アホ王子!」

 

 

「ニセルーデウス!」

 

 

死神の耳打ちは、そりゃあ縁起悪いよな。

 

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