「……つまらんなあ、小僧」
「再会の第一声がそれって、流石にどうなんだよ。いや、まあ、お前に情緒を求めた俺が悪いのかもしれないけど……でも、見どころ自体はあっただろ。アトーフェとか、オルステッドとの戦いとかさ」
「そこは否定せん。魔王との殺し合いも、龍神と対した時の張り詰め方も、それなりには見られた。特に龍神との戦いで小僧が魅せた領域は、退屈しのぎには十分だった」
わずかに口元が歪む。
笑った、というより、思い出しただけだ。
面白かった玩具を、一度だけ思い返してやった程度の顔だった。
「道中の旅も存外悪くなかった。あの頃の小僧は、何を踏めば次へ進めるかを、己の足で探っていた。だからまだ見る価値があった」
そこまで言って、宿儺は骨の肘掛けへ預けていた指先を、とん、と鳴らした。
「――だからこそ、今の貴様に失望している」
失望。
予想していた言葉だった。
だから驚きはしなかった。
だが、実際に言われるとやっぱり嫌な気分にはなる。
しかも相手が宿儺だ。
期待も、失望も、こいつに言われるとどっちも重い。
「……しょうがないだろ。そうするしかない状況なんだから」
宿儺は、退屈そうな顔を崩さなかった。
ただ、目だけがじっと俺を見ている。
「そうするしかない、か。この状況自体は、俺の想定通り……いや、計画通りと言った方が近いか」
その瞬間、俺は眉を寄せた。
計画通り?
この状況が?
ヒトガミの奴に未来だの約束だのをちらつかされ、オルステッドの影に怯えながら、皆から離れて目立つように動いている今が?
「お前がこの状況を……仕組んだって?」
聞き返す声が、思ったより低く出た。
怒っているんだと思う。
少なくとも、いい気分じゃない。
宿儺は、玉座の背にもたれたまま頷いた。
「一度目の邂逅で、神気取りは小僧へ言ったらしいな。未来視が乱れるのは、俺が貴様の魂に同居しているせいだと」
「ああ……言ってたな」
ヒトガミは確かにそう言った。
未来視がぶれるのは宿儺のせいかも、と。
あの時はそれっぽく聞こえたし、実際そうなのかと思っていた。
だが、後になってどうやら別の要因だったらしいって話も出てきた。
結局どこまで本当なのか、今もすっきりしたとは言い難い。
「それを聞いた俺は考えたのだ。俺がなりを潜めれば、ぶれは薄れる。そうなれば、あの神気取りは小僧へ全力で牙を剥く流れを作れるとな」
「なんでそんなこと……」
責めるつもりで口を開いたのに、最後まで責めきれない。
本当になんでだ。
わざとヒトガミをこっちへ向ける?
わざわざ障害を増やす?
意味が分からない。
「障害物だ」
即答だった。
少しのためらいもない。
宿儺に良心の呵責みたいなものを期待する方が馬鹿なんだろうけど、それでも、もう少し何かあるだろと思ってしまうくらいには即答だった。
「勝てぬ敵、奪われる恐怖、見えぬ未来。そういうものを小僧の目の前へ置けば、貴様は嫌でも進む。嫌でも伸びる。そう踏んでいた」
宿儺はそこで、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「未来視の乱れは別の要因だったようだが、まあ構わん。結果として、踏まねばならん障害はそれなりに揃った」
「だから、なんでそんなことをするんだよ」
「小僧を成長させるためだ」
それだけ言ってから、少しだけ口の端を吊り上げた。
「言っただろう。生き方を変えたと、だから小僧に期待してやっているのだ」
期待。
口にするのは簡単だ。
でもこいつの期待は、温かく背中を押す類のものじゃない。
崖から突き落として、這い上がってくるかどうかを眺めるような期待だ。
「だが。その障害物に対して、今の小僧は“見ないふり”を選んでいる」
「……っ」
「小僧も気づいているのだろう? あの神気取りが約束を守る保証など、どこにもないと」
その通りだ。
そんなものは、最初からない。
それぐらい、俺だって分かっている。
「それを理解した上で、この状況を受け入れているからつまらんと言っておるのだ」
「だったら!」
気づけば声が出ていた。
骨の空間に反響して、自分の叫びが何重にも返ってくる。
「だったら、どうしろって言うんだよ!」
喉の奥から一気に吐き出したせいで、呼吸が乱れる。
でも止まらなかった。
「どうせ約束なんか破られるかもしれないからって、皆のところへ戻ったとしても、ヒトガミにオルステッドを差し向けられたら終わりじゃないか……! 俺の命も、皆の命も、あいつに握られてるんだから!」
吐き出した瞬間、喉が焼けるように痛くなった。
ずっと言わないようにしていたことを、そのまま外へ出したからだ。
口にしたくなかった。
口にしたら、現実として形になってしまう気がしていた。
とっくに現実だって分かっているくせに。
宿儺は、俺の怒鳴り声を受けてもまるで顔色を変えなかった。
それどころか、退屈そうに細めた目のまま、淡々と言った。
「人間は、現実が不変恒常なものだと、自らに暗示をかける。命も、生活も、常に瀬戸際を流れているというのに」
「……俺がそうだって言いたいのか?」
「そうだ。今の小僧は、この逆境に相対して“見ない”という選択肢を取っている」
宿儺は頬杖を外し、玉座のひじ掛けへ肘を置き直した。
その動きだけで、骨がきしむ。
場の圧がもう一段深くなる。
「それを止めろと俺は言っているのだ……恐怖がある。焦りがある。痛みがある。ならば喰らえ。糧にしろ」
「簡単に言うなよ……命を賭けられてる状況で、そんなふうに振る舞えるわけないだろ……!」
吐き出した声は、怒鳴りきれずに途中で軋んだ。
分かってる。
宿儺が言ってる理屈そのものは分かるんだ。
恐怖も焦りも痛みも、全部を喰って前に進めってことだろ。
それが出来たら強いに決まってる。
そんなの、分かってる。
でも、分かるのと出来るのは全然別だ。
崖の縁で「落ちなければいい」と言われるのと同じで、理屈は簡単でもそこで足が竦まないとは限らない。
「……誰であれ、己の命を賭ける胆力を持ち得ているわけではない。ましてや、他者に勝手に秤へ載せられることもあるだろう。そういう理不尽は珍しくもない……俺が勝手に秤へと乗せる側だったからな」
その言葉で、思わず奥歯がきしんだ。
まさに今の俺がそうだと思ったからだ。
ヒトガミに握られている。
あいつの気分一つで、俺の命も、俺の周りの命も、どう転ぶか分からない。
そんな状況へ勝手に立たされて、勝手に選ばされて、勝手に責任だけ背負わされて……
「だが、小僧は違う」
「……え?」
短く、断ち切るように宿儺が言った。
今の流れで、何がどう違うって言うんだ。
こっちはまさに“勝手に賭けられてる側”だと思っていたのに、そこで違うと断言されると、反発より先に意味が分からなくなる。
「小僧は、自らの意思でこの道を選んだのだろう?」
「俺が……自分で?」
言葉の意味が、一瞬で呑み込めなかった。
いや、呑み込みたくなかったんだと思う。
その言い方だと、今の状況の根っこまで、俺の責任みたいじゃないか。
「俺は言ったはずだぞ? その力は呪いだとな」
心臓が、どくりと強く脈打った。
「その呪いは、貴様自身を焼き殺そうとし、その周囲まで巻き込んで灰にしようとする……俺はそう告げたはずだ。まさか、耳に入っていなかった訳ではあるまい」
……言われた。
あの時、宿儺は甘いことなんて一つも言わなかった。
便利だとか、無敵だとか、皆を守れる奇跡だとか、そんな都合のいいものとしては一度も語らなかった。
ただ、呪いだと言った。
自分も、周りも巻き込んで焼く力だと。
そういうふうにしか言わなかった。
それでも俺は、手を伸ばした。
伸ばしたんだ。
「小僧は、その呪いに己が焼き殺されることを承知した上で、俺の力を受け取ったのではなかったのか?」
俺は答えられなかった。
覚悟。
俺にそんなものが本当にあったのか?
自分で自分へ問い返して、すぐに言葉が濁る。
あの時の俺は、もっと……雑だった気がする。
どうせ何とかなるだとか、上手くやれば大丈夫だとか、そういう希望的観測で、深く考えないまま飛びついただけじゃなかったのか。
「覚悟」なんて綺麗な言葉だったか?
もっと雑で、もっと楽観的で、もっと傲慢な選び方だったんじゃないのか?
「死神も言っていたな。力には、それに見合った障害がついてくると」
「……ああ」
「ならば今この状況は、なにも不思議なことではない。当たり前の現象が当たり前のように起きているだけにすぎん。それも、小僧自身の選択の帰結としてな」
ヒトガミやオルステッドの存在。
皆を巻き込むかもしれない恐怖。
その全部を、俺は“仕方のないもの”として抱え込んできた。
でも、そこに“お前はその入り口に自分で立ったんだろ”という事実が、じわじわ引きずり出される。
力を持った以上、その力に見合う形で障害もまたでかくなる。
そういう意味では、今の俺の置かれた状況はたしかにおかしいんじゃない。
理屈としては筋が通っている。
嫌なほどに。
「だというのに、小僧はその恐怖を、くだらん自己否定で麻痺させている」
「麻痺……」
言葉の意味は分かる。
分かってしまう。
自分は駄目だ。
どうせ足りない。
どうせ俺なんかじゃ無理だ。
そうやって先に自分を下げておけば、本気で欲しがらずに済む。
本気で期待せずに済む。
もし失っても、「ほら、やっぱり」と自分で自分へ言い訳できる。
そういう麻痺の仕方を、俺は今やっている。
「何故小僧がそんなくだらん選択肢を選ぶのか……それは、小僧に芯がないからだ」
その一言は、ヒトガミに“空っぽ”と言われた時よりもきつく響いた。
空っぽだとか、中身が小さいだとか、そういう言い方とは違う。
もっと、核心めいたものに聞こえたからだ。
「……いや、違うな。ないわけではない。あるにはある。だが、それを全て他者へ預けているのだろう」
「悪いかよ」
気づけば、そう返していた。
半分は意地だ。
半分は、本当にそう思っているからだ。
他人を大事にして、そのために動くことの何が悪い。
「それ自体は、別に構わん」
意外だった。
てっきりそこは、弱いだの情けないだのと切り捨てられると思っていた。
宿儺は、頬杖をついたまま面白くもなさそうに言う。
「俺の取れんかった生き方でもあるからな。くだらんが……まあ、新鮮ではあった」
いかにも宿儺らしい物言いだった。
褒めてもいないし、羨んでもいない。
ただ、自分にはなかったから、少しだけ目新しかったと。
その程度の温度感で、人の生き方に触れてくる。
「が」
その一声だけで、場の空気がまた引き締まる。
「小僧にそのやり方が向いているとは思えん。他者を信じきれぬ小僧が、他者を指針にしたところで、いずれ必ず揺らぐ。相手が変わることを恐れ、失うことを恐れ、そのたびに足を止める。そういう性質なのだろう、小僧は」
その一言一言が、胸のどこかへ嫌なくらいぴたりとはまる。
信じきれない。
そうだ。
そこが一番の問題なんだろう。
皆を大事に思っている。
それは本当だ。
でも、その“皆”を、俺はどこかでずっと怖がってもいる。
裏切られるかもしれない。
置いていかれるかもしれない。
見捨てられるかもしれない。
だから、他者のためだと言いながら最後まで誰かへ委ねきれない。
そのくせ、自分の芯はそこに置いている。
歪まないわけがない。
「ならば、どうするか――己の内に芯を作ればよい」
「俺の中に……芯?」
思わず、そう繰り返していた。
芯。
曖昧に言うなよと思う。
だが、宿儺が言うとそれがただの精神論に聞こえないのが厄介だった。
宿儺は自分の言葉に酔うために喋るタイプじゃない。
必要だと思ったことしか口にしないし、その必要を勝手に決めて勝手に押しつけてくる奴だ。
「どれほどの弱者であれ、その内に揺らがぬ芯があれば折れることはない。自分が何を良しとし、何を許さぬか。その基準を最後まで己の内に抱いておければ、強者にすら手が届くことがある」
「……実体験か?」
「そうだ」
その答えに、誇張も、謙遜も一切なかった。
その答え方だけで、本気でそう言っているんだと分かった。
「己さえ定まれば、そこに限界などない。弱さも、才能も、血も、生まれも、それの前では二の次だ。己が最後まで己を裏切らぬのであれば、道はどうとでも開く」
宿儺の言葉が、頭の中でやけに長く反響した。
自分さえ定まれば。
自分が自分を裏切らなければ。
それだけ聞けば、強者の理屈だ。
宿儺のような、最初から何もかも踏み潰して進める側の人間が言う論理だ。
「自分さえ、か……でもそれは……」
「そうだ。小僧は己すら定めることが出来ん人種だ」
宿儺は、そこでわずかに目を細める。
観察している目だ。
解剖している目だ。
俺の中身を開いて、どこに何が詰まっていて、どこが腐っていて、どこがまだ使いものになるのかを、勝手に見ている。
「小僧は、自己を否定し、卑下している。しかも、それを進んで選んでいる節があるように見える。恐怖を麻痺させるには過剰なほどにな」
「……」
「なにか、恐怖以外に抑えたいものでもあるのか?」
答えられなかった。
分からない。
本当に分からない。
怖いからだけじゃないのかもしれない。
でも、じゃあ何だと聞かれると上手く形が見えない。
喉の奥で、言葉にならない何かがひっかかるだけだ。
「フン……小僧に小僧のことを聞いた俺が間違いだったな」
宿儺は、骨の玉座に深く身を沈め直した。
頬杖をつき、足を組み、また退屈そうな姿勢へ戻る。
「自己という一点においては、まだあの第七の方がマシだな」
「……パックスか」
「愚鈍で、浅ましく、欲に塗れ、見栄と劣情と小賢しさを服でも着るようにまとっている、あれだ」
「ボロクソだな」
「事実だろう。あれを強者の器だとは欠片も思わん。あれの未来は、せいぜい権力に酔って足元を掬われる小物だろう。知恵も、胆も、器も、現時点の小僧より下だろう」
「そこまで言って、なんで俺よりマシになるんだよ……」
「簡単な話だ。あれは下らん人間だが、自分が何に腹を立てているのかは知っている」
「……」
「見下されること。侮られること。あれはそれを明確に不愉快だと理解している」
たしかに、パックスは自分の怒りどころを知っている。
見下されるのが嫌だ。
侮られるのが嫌だ。
馬鹿にされるのが嫌だ。
だから噛みつく。
だから反発する。
鬱陶しいくらい分かりやすかった。
「大して小僧はどうだ?」
喉がわずかに詰まる。
いやな予感しかしなかった。
でも、宿儺はそこで止まってはくれない。
「優しさだの、責任だの、守るだのと、聞こえの良い言葉をいくつも並べてはいるが、その実、それらを盾にして、自分の本音から目を逸らしているだけではないか」
「……っ」
「何を望み、何を恐れ、何を奪われたくないのか。そこを己の言葉で定められぬ限り、芯など生まれようがない」
反論したいのに、出来ない。
優しさも責任も、嘘じゃない。
守りたいと思ってるのも本当だ。
けど、それだけじゃないだろうと問われると、たしかにその通りでしかない。
失いたくない。
置いていかれたくない。
変わられたくない。
見捨てられたくない。
そんな、口にした途端にみっともなく聞こえるものが、たぶん底の方に沈んでる。
俺はそれをずっと、綺麗な言葉で包んできただけだ。
「……だったら、どうしろって言うんだよ」
ようやく出た声は、思ったよりずっと掠れていた。
怒鳴るほどの勢いはもうない。
ただ、喉の奥から無理やり絞り出したみたいな、弱い声だった。
「俺は分からないんだ。お前みたいに“これが俺だ”って最初から決まってるような人間じゃない。何を望んでるのかも、何を一番怖がってるのかも、何を奪われたくないのかも、綺麗に切り分けられない。嫌なものも、怖いものも、守りたいものも、全部ぐちゃぐちゃなんだよ」
吐き出してから、自分でも情けないと思った。
でも、それが本音だった。
格好つけようが何しようが、結局今の俺の中身はそういう整理も統一も出来ていないぐちゃぐちゃなものの寄せ集めでしかない。
「そんなこと、知っておるわ」
「……は?」
「小僧がその程度の半端者でしかないことなど、とっくに知っておると言ったのだ」
あまりにも平然と言われて、逆に言葉が出なかった。
出来ていないことを出来ていないと、そのまま言われただけだ。
「己が半端で、定まらず、何を握って何を捨てるべきかも分からぬ。そんなこと、最初から分かりきっている。でなければ、今さらこんな話はせん」
宿儺は玉座の上でわずかに身を起こし、俺を見下ろした。
「それでも小僧は、この現状を変えたいのだろう?」
「……」
答えなんて最初から決まっている。
変えたい。
その一言だけは、もう誤魔化しようがなかった。
ヒトガミに喉元を押さえられて、オルステッドという理不尽の影に怯えて、皆から距離を取って、そのくせ「これは仕方ないことなんだ」と自分へ言い聞かせながら、少しずつ自分を削っていく。そんな今の在り方を、まともだなんて、俺自身が一番思っていない。
俺は、気づけば床を睨みつけたまま、絞り出すように口を開いていた。
「……変えたいに決まってる」
声が震えた。
けど、途中で引っ込める気にはなれなかった。
「怯えてるくせに、怯えてるって認めたくなくて、先に自分を駄目だってことにして、失う前から諦めた顔して、そうやって何もかも誤魔化してる。こんな今の俺が……ほんとに死ぬほど嫌いなんだ」
宿儺は、それを聞いても顔色一つ変えなかった。
玉座に腰を預けたまま、ただ目だけで俺を射抜いてくる。
「ならば、やることは決まっておる」
その一言で、空気がまた研がれる
「小僧の内に、己を基準とした折れることのない芯を作れ」
その言い方は、それまでよりもずっと重かった。
ただ芯を作れと言われるのとは違う。
誰かのためでもなく。
誰かの言葉でもなく。
誰かが変われば揺れるようなものでもなく。
俺を柱にした、折れることのない芯。
そこまで言われて、ようやく宿儺が俺に何を言いたいのかが、はっきりした気がした。
だからこそ、俺は顔をしかめる。
「待てよ。それはさっき宿儺が無理だって言ったんだろ。俺には出来ない。自分を定めることも、自分で最後まで立つことも出来ない人種だって。だったら、それが答えだとしても、今の俺にはどうしようもないじゃないか」
「出来んことと、それをしないことを同じにするな、阿呆」
ぴしゃりと、切り落とす声だった。
「今の小僧には出来んだろう。しかし、だからといってそれが必要でなくなるわけではあるまい。必要なものを、出来んからという理由で捨ててよい道理がどこにある」
低く、重く、逃がさない声だった。
反論しようとして、喉が止まる。
言ってることは分かる。
出来ないからって必要なものが要らなくなるわけじゃない。
正論だ。
「小僧も現状が良くないと理解しているのだろう? 変わりたいと思っている。ならば、必要なものへ手を伸ばせ。届くか否かはその後の話だ」
「……」
……分かってる。
本当は分かってるんだ。
今の俺が“仕方ない”って言葉を盾にして、逃げ続けてるだけだってことも。
ここでさらに目を逸らしたら、たぶんもう二度と戻って来られないってことも。
何より、ここまで言われておいて、宿儺の前で何も選ばないという選択肢を取るのが死ぬほど嫌だった。
それは意地だ。
けど、今の俺には、その意地ですら必要だった。
俺はしばらく黙ったまま、自分の影みたいなものを見ていた。
情けない。
ぐちゃぐちゃだ。
何を握って何を捨てたいのかも、綺麗に言葉にできない。
でも、そんな半端者と自覚してるからといって、そこで終わっていい理由にはならない。
出来ないから、必要なものを諦める。
それを正当化し始めたら、たぶんもう何にも手が届かなくなる。
「……分か、った」
喉の奥から、ようやくそれだけを絞り出す。
小さかった。
情けないくらい小さかった。
だから俺は、もう一度自分に言い聞かせるために言い直した。
「分かったよ」
俺の中で、何かが少しだけ座る。
まだ芯なんて呼べるほど立派なものじゃない。
でも、さっきまでのただ揺れてるだけの俺よりは、ほんの少しだけ前へ出た気がした。
「変わりたいと思ってるのは、本当だ」
声はまだ硬かった。
でも、さっきみたいに逃げ腰じゃない。
「このままが嫌だってのも本当だし、怖いからって目を逸らしてるのが駄目だってのも分かってる。それが必要だって言うなら……手を伸ばしてみるよ。俺の中に、そういう芯ってやつを作ってみる」
まだ何一つ出来ていない。
やると口にしただけだ。
それでも、さっきまでの「どうしようもない」しかなかった場所に、無理やり一本杭を打ち込んだみたいな感覚があった。
宿儺はそこで、ようやく口の端をわずかに吊り上げた。
「それでいい」
短い。
本当にそれだけだ。
けれど、こいつがこういう時に余計なことを足さないのは、ありがたかった。
頑張れだの、期待しているだの、そういう信じきれない言葉を混ぜられるより、ずっとよかった。
だから俺は、そこで一応、聞くだけ聞いてみることにした。
せっかく腹を括ったんだ。
聞けることは聞いておいた方がいい。
少なくとも、俺はそういう小賢しさを持っている。
「……それで、具体的には?」
「何の話だ」
「いや、芯を作るって言われても、さすがに抽象的すぎるだろ。何をどうしたらいいとか、そういう……」
そこで、宿儺は露骨に鼻で笑った。
心底くだらないことを聞かれた時の顔だ。
その表情だけで、俺は半分くらい答えを察してしまう。
「俺が教えると思っているのか?」
「……だよなあ」
思わずそう返すしかなかった。
知ってた。
いや、本当は聞く前から大体そうだろうなと分かっていた。
けど、万が一くらいはあるかと思った俺が馬鹿だった。
宿儺が親切に段取りを説明してくるわけがない。
そんな宿儺は、想像しただけでちょっと気持ち悪い。
「小僧の人生に何が起きるか、何を喰らい、何に躓き、何を拾うか――そんなものを俺が先に知っておっても退屈なだけだ」
宿儺は骨の肘掛けへ指先を軽く打ちつけながら、低く続けた。
「己を柱にするのだから、柱にするものも小僧が自分で見つけろ」
逃げ道が塞がれた感じがした。
けど、曖昧に濁してもらうより、こうやって無茶を押しつけられた方が、今の俺にはありがたかったのかもしれない。
「分かった。芯ってやつを、自分の中でちゃんと見つけてみるよ……上手く出来るのかは分からないけど」
「届くか否かはその後の話だ、と先ほど俺が言ったばかりだろうが」
「ああ、そうだったな」
そして、宿儺は少しだけ視線を逸らし、この骨と血の生得領域のどこか遠くを見るみたいな目になった。
その横顔には、相変わらず退屈と傲慢が張りついている。
「俺の中に折れない芯を作る……」
まだ何を基準にするのかも分からない。
折れないものなんて、俺の中に本当に作れるのかも分からない。
それでも、今はそこへ手を伸ばすしかない。
そういう段階なんだと思った。
「一度ならず、二度三度と俺を興じさせておいて、その程度で終わろうとするなよ、小僧」
その言い方に、思わず口元が少しだけ歪んだ。
笑った、というほど綺麗な表情じゃない。
でも、嫌な気分ではなかった。
こいつなりの期待なんだろう。
最悪だなと思う。
最悪だけど、悪くない。
宿儺は、そこでふと視線を逸らした。
俺ではなく、この骨と血の生得領域の、もっと遠いどこかを見るような目になる。
骨で組まれた柱の隙間の向こう、底のない闇のさらに先でも眺めるみたいに。
その横顔には、相変わらず退屈と傲慢が張りついている。
ああ、またあの顔だ。
あの顔を見ていると俺は……
「この先も、しばらく俺は表へは出ん」
思考が宿儺の声で断ち切られた。
視線を戻すと玉座の上の宿儺は、すでにこっちを見ていた。
「小僧が己を柱とした芯を作るつもりなら、しばらく俺は傍観に回るとする」
「何でだよ」
俺がそう聞くと、宿儺は面倒だと言わんばかりに目を細めた。
その顔でちゃんと説明してくれるあたり、今日は本当に珍しい。
「小僧が己を基準とした芯を作る最中に、俺という“他者”がそばにおればどうなる?」
「……どうなるって」
考えかけて、すぐに嫌な答えが浮かんだ。
宿儺がそれを言わせるように、じっとこちらを見ている。
「寄りかかる、かもな」
「その通りだ。小僧のような脆弱な人間は、傍に他者がいれば、すぐそこを基準にしようとする」
「……否定しづらいな」
「事実だからな。俺が傍に居続ければ、小僧の芯は“己を基準としたもの”ではなく、俺という他者を基準とした紛い物の芯となる。それでは結局前と同じ、二の舞でしかない」
宿儺が傍にいれば、俺はきっとどこかでそっちを見る。
これで合ってるのか。
次はどうすればいいのか。
どこまでなら外していないのか。
そうやって、また他者を基準にし始める。
それじゃ意味がない。
せっかく宿儺に「己を柱にしろ」と言われたのに、その直後から宿儺を柱にし始めたら、笑えないどころの話じゃない。
これからは、本当に自分だけで考える時間が来るってことだ。
「それで……いつ帰ってくるつもりなんだよ」
「さあな。小僧が寄りかかる必要を失うまでだろう」
「宿儺らしいな……」
少しだけ笑ってしまった。
自分でも意外だった。
こんな会話の最中に、そんなふうに息が抜けるとは思わなかった。
「せいぜい足掻いてみせろ、小僧」
「……ありがとな、宿儺」
そう言うと、宿儺は即座に眉を寄せた。
露骨に不愉快そうな顔だ。
そこまで嫌そうにされると、逆に面白い。
「小僧のためにやっておるわけではない」
「分かってるよ」
「俺の退屈しのぎにすぎん」
「分かってるって……」
「小僧の人生を俺がつまんでやるに足るものにしろと言っておるだけだ」
その言い方は、ひどく宿儺らしかった。
助けるとか、導くとか、そういう綺麗な言葉は一切ない。
ただ、面白そうだから指をかける。
価値がありそうだから、少しだけ手を出す。
その程度の、傲慢な興味。
だからこそ、信じられる部分もある。
こいつは情けに酔わない。
善意のふりをしない。
見世物としてでも、退屈しのぎとしてでも、面白いと思ったものにはちゃんと触る。
その一貫性だけは、人間不信の俺にとって信頼できるものだった。
「……十分だよ、それで」
骨の領域が、ゆっくりと遠ざかっていく気配がした。
視界の端から、暗さが崩れ始める。
意識が現実の方へ引かれているのだと分かる。
最後に見えたのは、骨の玉座の上で相変わらず退屈そうな顔をしている宿儺だった。
でも、その目だけは、ほんの少しだけ冴えて見えた。
見物を続ける獣の目だ。
だったら、せめてその退屈だけは、裏切ってやりたいと思った。