受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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七十九話

 

朝、目が覚めてからもしばらく宿儺の言葉が頭の中に残っていた。

 

 

俺はベッドの縁に腰掛けたまま、しばらく動けなかった。

寝具の質は良すぎるくらいだったし、眠気は抜けている。

体の重さも、昨日泥みたいに眠ったおかげか思っていたより軽い。

けど、胸の奥だけが妙にざわついていた。

宿儺に言われたことが、綺麗に整理されているわけじゃない。

ただ、無視していいものではなくなった、という実感だけがあった。

 

芯。

自分の中の基準。

何を良しとして、何を許さないのか。

何を望んで、何を失いたくないのか。

言葉にしてしまえば単純なのに、いざ自分のこととなると、途端に手触りが悪くなる。

何を良しとする。

何を許さない。

何を望む。

何を恐れる。

何を奪われたくない。

それらが一本の線にまとまらない。

 

……でも、やるしかない。

 

宿儺にそこを突かれたことで、「今のままでいいわけがない」と自分が思っていたのをごまかせなくなったのは確かだ。

皆のため、守るため、責任だから。

そういう言葉は全部嘘じゃない。

でも、それだけではもう足りない。

その奥にある、自分の本音に手をつけなきゃいけない。

 

だから考えてはいるんだが、当然のようにすぐ何か分かるわけでもない。

分かるなら昨日まであんなにぐちゃぐちゃになってない。

ただ、それでも昨日までと違うのは、分からないから後回しにしよう、で終わらせる気になれないところだった。

少なくとも、そこから逃げるのは違う。

違うという感覚だけは、かなりはっきり残っている。

 

そうやって、朝っぱらから一人で唸っていたところへ――

 

――どんどんどん!

 

 

「おい、起きておるのだろうな! 開けるぞ!」

 

 

と、返事をする暇もなく扉が開いた。

 

入ってきたのは、当然パックスだった。

今日も今日とて偉そうだし、今日も今日とて寝起きの人間への気遣いという概念が顔に出ていない。

ただ、昨日と違って少しだけ目が冴えている。

というか、妙にやる気がある顔だった。

 

 

「……勝手に入ってくるなよ」

 

 

「教師がいつまでも部屋へ籠もっておる方が悪い!」

 

 

「いつまでもって……まだ早いだろ」

 

 

「学ぶ意欲に時刻など関係ない!」

 

 

「お前、絶対そういうこと言う奴じゃないだろ……」

 

 

と思ったが、まあ、勉強熱心なのは悪いことじゃない。

いや、熱心というより、昨日少し手応えを感じて調子に乗ってるだけかもしれないが。

多分俺が褒めすぎたんだろう。

それがこいつの中で、「もっとやればもっと認められるかもしれない」みたいな感じで火をつけたんだろう。

だとしたら、教師としてはある意味、狙い通りでもある。

しかし、朝っぱらから扉を蹴破る勢いで来るのはやめてほしい。

 

 

「勉強熱心なのはいいことだけど、せめて人の部屋へ入る前にノックくらい覚えろ」

 

 

「それは礼法の時間に教えればいい」

 

 

「礼法の前に常識で覚えとけよ」

 

 

こういうやり取りが自然に出るあたり、昨日よりはだいぶ空気が軽い。

パックスも、露骨に噛みついてくるというより、半分くらいはラリーを楽しんでいる。

 

結局、俺はため息を一つ吐いて立ち上がった。

どうせこいつは帰らない。

帰らないどころか、俺が着替えるまでそこに立ってそうだ。

それはそれで落ち着かない。

 

 

「分かった分かった。顔洗ってくるから、先に部屋で待ってろ」

 

 

「逃げぬであろうな?」

 

 

「昨日と同じこと言ってるぞ」

 

 

「ただの確認だ!」

 

 

それから朝の支度を済ませ、俺はパックスの部屋へ向かった。

 

部屋に入ると、机の上には紙と筆記具が並べられていた。

昨日より整っている。

本当にやる気なんだなと少しだけ感心する。

本人は絶対に「楽しみで待ってた」なんて顔じゃないけど、準備の丁寧さだけは正直だ。

 

 

「ほら、早く座れ」

 

 

「教師のくせに生徒へ命令口調か」

 

 

「じゃあ殿下、お座りくださいませ」

 

 

「馬鹿にしておるだろう」

 

 

「分かったから座れ」

 

 

「最初からそう申せ」

 

 

……なんだこいつ。

昨日から何度も思ってるが、本当に面倒くさい。

 

それから午前の時間は、昨日よりも少しだけ本格的な授業になった。

昨日は、考え方の整え方とか、質問の立て方とか、頭の使い方そのものへ触る感じだったから今日はそこへ少しだけ具体を足した。

問いを出して、答えを考えさせて、その答えへ至る道筋を言葉にさせる。

ただ正解を当てるんじゃなく、なぜそう考えたかを喋らせる。

その途中で、パックスがたびたびこちらの紙を盗み見ようとするのが、なんともこいつらしかった。

 

 

「おい」

 

 

俺が声をかけると、パックスはぴたりと動きを止めた。

 

 

「余は何も見ておらんぞ」

 

 

「いや、まだ何も言ってないんだけど」

 

 

「ぐぬぅ……」

 

 

口ごもった。

反射で言い訳しちゃったんだな。

そうかそうか。

 

 

「何故答えだけを教えんのだ」

 

 

「ん?」

 

 

「分かるであろう。答えをそのまま示せば、余はそれを覚える。そのほうが、効率も良い。貴様のやり方は回りくどいのだ」

 

 

なるほど、そう来るか。

昨日の授業で、考える過程の話はかなりしたつもりだったが、こいつの中ではまだ“正解を寄越せばいい”って発想が強いらしい。

まあ、分からなくもない。

王子として育ってきたならなおさらだ。

正解を知る側が上で、教わる側はそれを受け取るだけ。

そういう構図の中で育ったんだろうし。

 

 

「いや、最近気付いたんだよ。答えだけ押しつけるのってあんまりよくないなって」

 

 

「何だそれは。教師がそんなことでよいのか?」

 

 

「よくない気づき方だったとは思ってるよ」

 

 

パックスは怪訝そうに眉を寄せた。

俺は少し迷ってから、そのまま話した。

 

 

「ランドルフさんに料理を教えたことがあってさ」

 

 

「ランドルフにか」

 

 

「そう。味付けの正解とか、工程とか、火加減とか、俺の知ってる“これが上手いやり方だ”ってのをそのまま渡した。結果としてたしかに料理は上手くなったけどさ、あの人らしさが少し消えた気がしたんだ」

 

 

思い出す。

ランドルフさんの、あの微妙な顔。

感謝していないわけじゃない。

むしろ役に立ったと思ってくれてる。

でも同時に、「自分が積み上げてきたものが全部間違いだった」とも感じていた。

あれは結構きつかった。

 

 

「だから、答えだけ見せるのはなし。お前の頭でそこへ辿り着け。遠回りでもな」

 

 

「面倒だな」

 

 

「まあ、否定はしない」

 

 

「教師というのは、もっとこう……効率的なものだと思っておった」

 

 

「それは、“とりあえず覚えさせる”って意味ならな」

 

 

そう言い切ると、パックスは黙った。

 

そのあとは、また机に向かって、問答と沈黙と小さな舌打ちと、わずかな閃きの連続だった。

 

気づけば、昼をだいぶ回る前に、予定していた内容のほとんどが終わっていた。

もう少しやれないこともなかったが、ここから先は集中の質が落ちる。

変に長引かせるより、少し物足りないところで止めた方が明日へ繋がる。

 

 

「……今日はここまででいいか、結構早く進んだな」

 

 

そう言うと、パックスは最初こそ「まだやれる」とでも言いたげな顔をしたが、少し遅れて、自分でもだいぶ進んでいたことに気づいたらしい。

顎を上げ、不本意そうに、それでいてどこか満足げに鼻を鳴らした。

 

 

「当然だ。余にかかれば、この程度朝飯前だからな」

 

 

「もう朝飯食ったあとだけどな」

 

 

俺が間髪入れずに返すと、パックスの眉間にしわが寄る。

その反応の速さは、ある意味で才能だと思う。

 

 

「いちいち揚げ足を取るでない、鬱陶しい!」

 

 

「揚げ足っていうか、事実確認だよ」

 

 

「教師が生徒の気分を害してどうする!」

 

 

「王子が毎回わざわざ突っ込み待ちみたいなこと言うからだろ」

 

 

「誰が突っ込み待ちだ! 余の圧倒的な実力を端的に表現しただけだ!」

 

 

「端的すぎて時間の流れごと無視してたけどな」

 

 

「……覚えておれよ。余が王になった暁には、その軽口を叩いたこと必ず後悔させてやる」

 

 

「王になったあとに一番最初にやることが昔の家庭教師への仕返しなのは、だいぶ器が小さいな」

 

 

「家庭教師ではない! 臨時の、しかも不本意な、仮の教師だ!」

 

 

「呼び方にこだわるわりには、朝から押しかけてきただろ」

 

 

「ぐ……そ、それは学びの機会を無為に捨てるのが愚かだからであって、貴様を評価しておるわけでは断じてない!」

 

 

「わかったわかった。じゃあその時まで口が残ってるように頑張るよ」

 

 

「ふん!」

 

 

パックスは鼻を鳴らす。

でも、怒っているわりに機嫌は悪くない。

昨日から学んだ。

こいつの「ふん」は種類が多い。

 

そして、その流れのまま、パックスは当然のように言った。

 

 

「では午後は剣術であるな」

 

 

「……え?」

 

 

「何を呆けておる。教師は文と武の両方を教えてこそであろう」

 

 

勝手に決められた。

いや、待て。

そういえばランドルフさんが、最初に“剣術も使えるといい”とか何とか言っていた気がする。

あれはこういう意味だったのか?

 

 

「何だ。出来ぬのか?」

 

 

「いや、まあ出来るけどさ……」

 

 

「なら良い。訓練場を使う。遅れるでないぞ」

 

 

パックスは、そう言い捨てて部屋を後にした。

去り際まで偉そうだったな。

まあ、王子だしな。

偉い人間が偉そうにしているだけだと思えば、多少は腹も立ちにくい。

多少はな。

 

俺は片づけを終えてから、昼食を食べに食堂へ向かった。

いや、やろうと思えば自分で作れる。

ランドルフさんに「厨房は好きに使って構いませんよ」と言われているし、材料だって城ならそこそこ揃うだろう。

だから、気合いを入れれば何かしら作れる。

作れるんだが……自分のためだけとなると、どうにもやる気が出ない。

そういう奴なんだろう、俺は。

 

前世では、むしろ自分を満足させるために作っていたはずなんだけどな。

美味い料理を食べたかったし、外食もお金がかかるし、動画や本を見ながら、ああでもないこうでもないと試していくのは、あの頃の数少ない楽しい時間でもあった。

あれはあれで悪くなかったが、今は違う。

もう知ってしまった。

自分の料理を誰かが食べて、美味いって顔をしたり、嬉しそうにしたり、驚いたり、また食べたいとか言ってくれたりするあの感覚を。

一度あれを知ると、自分一人のためだけに火を入れて、味を整えて、皿へ盛るって行為が、急に少しだけ色褪せる。

贅沢な話だとは思う。

一度知った味というものは、なかなか抜けない。

 

 

 

―――

 

 

 

食堂のご飯は、無難に美味しかった。

城の食堂だけあって、最低限以上のものはちゃんと出てくる。

でも、飛び抜けて美味いわけでもない。

人に食べさせるために工夫したものと、自分が適当に腹を満たすための違いみたいなものが、ちょっとだけ分かってしまう。

そういう目で見るのも、あんまり良くないんだろうけど。

 

食堂を出たあと、俺は廊下を歩きながらさっきの授業の反省でもしようかと思っていた。

今日のパックスは、数字の処理より言葉の整理の方が得意そうだったとか、政治へ繋がる話題だと食いつきがいいとか、明日はそのへんから広げた方がいいかもしれないなとか。

そんなことを考えながら曲がり角へ差しかかったその時。

 

 

「――だから余が一歩、こう、前へ出た瞬間よ! 敵兵どもは一斉に竦み上がり、為すすべなく……」

 

 

ん……パックスだ。

 

独りで何やってんだあいつ。

大げさな抑揚。

無駄に誇らしげな語尾。

しかも内容が既に怪しい。

敵兵どもって何だよ。

お前の威圧で引く兵がいたら、そいつら別の意味で終わってるだろ。

 

俺が半ば呆れながら足を止めた、その時。

 

 

「凄い……」

 

 

……あ、いや。

誰かの声がした。

 

平坦だ。

驚いているのか、本気で感心しているのか、あるいはただ相槌を打っているだけなのか判別しづらい。

でも、独り言ではなかった。

ちゃんと話し相手がいる。

 

気になって少しだけ覗く。

 

そこにいたのは、中学生くらいに見える女の子だった。

髪は水色。

淡くて、光を受けると透けそうな色だ。

顔立ちは整っているのに、感情がひどく薄い。

ちゃんとパックスを見ているし、話も聞いている。

ただ、目だけが虚無のように静かで、そこに感情の起伏があまり映らない。

何を考えているのか分からない。

そういう顔だった。

 

家庭教師の条件に「幼い女の子」みたいなものを入れていたりもしたが、やっぱりあいつはロリコンか……いや、待て。

パックスの年齢からすれば、別にそこまでおかしくないのか。

こっちが前世込みで色々ひねくれた見方をしているだけかもしれない。

いや、でも条件の出し方が気持ち悪かったのは事実だしな。

うーん。

判断に困る。

今のところは、女子の前で妙に張り切る面倒な王子くらいに留めておくのが平和だろう。

 

それより驚いたのは、あいつにちゃんと話し相手がいたことだ。

そこが一番意外だった。

勝手なイメージだが、パックスって、周りが怖がるか、うんざりするか、利用するかの三択みたいな人間関係しかなさそうだったから、こうして武勇伝を得意げに聞かせる相手がいるのはちょっと意外だった。

 

パックスは、両手を広げて自分の偉業を語っている。

すっごいイキイキしてるな。

今日の授業で少し褒められた時ともまた違う。

あれは、出来たことへの嬉しさだった。

今のこれは、“話を聞いてくれる相手がいる”こと自体への気持ちよさだ。

 

話を聞いてくれる相手がいるっていうのは、思った以上に気持ちがいい。

いや、分かる。

分かるんだよ。

俺だって、アイシャに――

 

……だから、今は俺一人で頑張るフェーズなんだから、思い出に浸ろうとするな。

ちょっと油断するとすぐそこへ滑る。

あの笑顔とか、こっちを見上げる目とか、そういうのを思い出し始めると、今のこの場に必要ない柔らかさまで一緒に胸へ湧いてきてしまう。

今はまだ、それをやるべきじゃない。

結局また他人へ寄りかかる方向へ流れかねないんだから。

 

俺は、小さく息を吐いてその場を離れた。

邪魔するのも悪いしな。

あの女の子が誰なのかは気になる。

でも、今そこで覗き見を続けるのは、流石に趣味が悪い。

 

そして、午後。

パックスに指定された場所で待っていると、少し遅れて本人がやって来た。

やっぱり偉そうだ。

待たせたことを詫びるでもなく「待たせたな」と言うでもなく、当然そこに俺がいることを前提に歩いてくる。

 

 

「それで、剣術か」

 

 

「うむ。余へ剣の極意を叩き込め」

 

 

「極意は無理」

 

 

「なぬ!?」

 

 

「だって一週間だぞ。極意どころか、基礎の基礎をちゃんと入れられるかどうかだ」

 

 

俺はパックスを頭からつま先までざっと見た。

パックスは明らかに、剣を継続的に扱える体をしていない。

贅肉が多いとかそういう意味じゃない。

いや、それもなくはないが、問題はそこだけじゃない。

体幹が弱い。

師匠もよく言っていた。

身体も出来ていないやつに剣を握らせるのは危ない。

筋力だの持久力だの以前に、怪我の仕方が悪くなる。

変に力んで、変な癖を覚えて、それを直すのに余計な時間がかかる。

それは本当にそうだと思う。

 

 

「で、今日は何を学ぶのだ?」

 

 

パックスが腕を組みながら聞いてくる。

目はやる気に満ちている。

その目に、ちょっとだけ水を差すのが申し訳ない気もしたが、嘘をついても仕方ない。

 

 

「剣を教える前に、まず身体づくりだ」

 

 

そう言うと、パックスは案の定、すごく嫌そうな顔をした。

 

 

「なんだと」

 

 

「だから身体づくり」

 

 

「いや、待て。剣術の授業であろう?」

 

 

「そうだな」

 

 

「ならば何故そこで身体づくりなどという、あまりにも地味で、あまりにも汗臭く、あまりにも余の身分に似つかわしくない単語が出てくるのだ」

 

 

「身分に似つかわしいかどうかは知らないけど、必要だからだよ」

 

 

「つまらん!」

 

 

「つまる、つまらんの話じゃなくて単純に危ないんだよ。明らかに剣を扱えない感じじゃん。お前」

 

 

「体型で人を判断するな!」

 

 

「体型というか、体の使い方だな」

 

 

そこで俺は一歩近づいて、パックスの肩を軽く押した。

それだけで、重心が少しぶれる。

ほら見ろという顔を俺がすると、パックスは悔しそうに唇を噛んだ。

 

 

「今のは……油断していただけだ!」

 

 

「じゃあ、油断しない体を作ろうな」

 

 

「ふん……!」

 

 

パックスはむすっとしながらも、完全には反発しなかった。

昨日の勉強の時間で少し学んだのかもしれない。

こっちが理屈を持って言っている時には、いちいち噛みついても最終的に自分が損だと。

いや、そこまで綺麗に整理してるかは怪しいな。

ただ、少なくとも話は聞くところまでは来ている。

 

とはいえ、俺は一週間しか家庭教師をしない。

ここで真面目にやるなら、最初の数日は走らせて、柔軟をやらせて、体幹を作らせて、足腰を整えて、それからようやく木剣に触らせる。

そのくらいが本来の順序なんだろう。

 

だが、それをやったらこの一週間ずっと身体づくりだけで終わる。

それではパックスのモチベーションが持たない。

昨日と今日で分かったが、こいつは手応えがあるから頑張れるタイプだ。

逆に、地味な積み重ねだけを延々とやらされると、理屈では納得しても、どこかで「余は何をやっておるのだ」と不機嫌になる。

 

 

「だから、身体づくりは一旦脇に置く」

 

 

「ほう?」

 

 

「型は教える。立ち方、重心、肩の抜き方、踏み込みの前に何を意識するか、素振りの時にどこへ力を通すか。そのへんは言葉でやる。実際に振るのは身体づくりが終わってからだな」

 

 

「……よかろう。余は寛大だからな。それで手を打ってやる」

 

 

上からだな……

 

まあ、それでいい。

少なくとも、やる気はある。

だったら、それをちゃんと使う方が先だ。

 

 

「ほら、足を開け。肩幅より少し広く。つま先は開きすぎるな。腰を落としすぎるな。力むな。抜くなって言われると余計に難しいのは分かるけど、それでも肩に力を入れるな」

 

 

「注文が多いぞ!」

 

 

「最初はそんなもんだよ」

 

 

パックスは不満を隠そうともせず、それでも一応は言われた通りに型を作った。

作ったんだが――うん、ひどいな。

膝は内側へ入りかけているし、腰は逃げているし、胸だけ変に張っていて、全体としては「剣士っぽいポーズを取ってみました」という感じだ。

ちゃんとした構えではない。

でも、まあ最初はそんなものだ。

むしろ、何も知らない人間がいきなりそれっぽく立てたら怖い。

 

俺は木剣も持たせず、まずは型だけを繰り返させた。

足の裏のどこへ重心が乗っているか。

腰が逃げると踏み込みが死ぬこと。

肩へ余計な力が入ると、腕の軌道が鈍ること。

顎が上がれば視界も呼吸も雑になること。

一つずつ直し、そのたびに少しだけ形が変わり、それでもまだ別の歪みが残るから、またそこを指摘する。

直して、崩れて、また直して。

その繰り返しだった。

 

やっぱり修正点は多い。

しかし、致命的に鈍いわけじゃない。

言われたことを身体へ落とすのは遅いが、意味を理解する頭はある。

だからこそ、こっちもつい指摘が増える。

ここも違う。

そこも違う。

今のは少し良かった。

でも次は腰が浮いた。

そうやって、思ったことをそのまま口にしていったら――

 

 

「ええい、さっきから口うるさいぞ貴様!」

 

 

「ん?」

 

 

「肩が違う、腰が違う、目線が違う、足が甘い、呼吸が浅い、いちいちうるさい! 余を木偶か何かだと思っておるのか!」

 

 

……あれこれ一気に教えすぎて、偉そうに映ってしまったらしい。

失敗失敗。

こいつ相手に細かく言いすぎると、「指導」より先に「見下された」に変換されやすいんだろう。

ロキシーさん、よくパックスの家庭教師を一週間どころかそれ以上続けられてたな。

本当にすごい。

俺なんかまだ二日目だぞ。

 

 

「悪い悪い。ちょっと詰め込みすぎたな」

 

 

「ちょっとだと!? 余が少し形を作れば、そこが違う、ここが甘い、まだ逃げておる、腰が浮いておる、肩が死んでおる――死んでおるとは何だ! 生きておるわ!」

 

 

「そこは比喩だよ」

 

 

「分かっておる! そういうことを言っておるのではない!」

 

 

その顔がいかにも悔しそうで、こっちとしてもつい余計な一言を足したくなるんだが、ここで煽り返すと授業がどんどん遠ざかる。

だから、とりあえず俺は肩をすくめて一つ息を吐いた。

 

 

「悪い。ちょっと一気に言いすぎたな」

 

 

「ふん……ならば見本を見せよ」

 

 

「見本?」

 

 

「そうだ。余へあれこれ言うのであれば、まず貴様が示すのが筋であろう。言葉ばかり達者でも、実際に出来ねば意味はあるまい?」

 

 

なるほど。

たしかに、その流れは自然だ。

あれこれ直せと言うなら、じゃあ実際にどんなものが正しいのか見せろ、と。

筋は通っている。

通っているんだが――少し困る。

 

 

「見せろって言われてもなあ……」

 

 

俺は頭の後ろを軽く掻いた。

出来ないわけじゃない。

見せること自体は別に問題ない。

だが、あまりやりたくない理由がある。

 

 

「何だ、その歯切れの悪さは。まさか、口ばかりで実際には出来ぬのか?」

 

 

「出来ないわけじゃないんだが……本気でやろうとすると、我流になるんだよ」

 

 

そう言うと、パックスの眉がぴくりと動いた。

我流という言葉に反応したか?

王子様は、そのへんの言葉に格好よさを感じるお年頃なんだろうか。

まあ、俺もちょっとカッコつけていった自覚はあるけど。

 

師匠に習った水神流の型はちゃんとある。

受けて返すための美しい線も、立ち方も、手の置き方も、ちゃんと身体に入っている。

でも、俺は速さを重視して剣を振ろうとすると、どうしてもそこから外れる。

自分に合う形へ勝手に崩れる。

いや、崩れるって言い方は少し違うか。

最適化なのかもしれない。

でも、少なくとも“教本どおりの綺麗な型”ではない。

だから見本としては微妙なんだが……まあ、いいか。

見たいとわめかれるなら、さっさと見せた方が早い。

 

俺は近くに立ててあった木剣を一本取った。

本音を言えば、そろそろ俺の剣を返してほしい。

城の中で持ち歩けないのは分かるんだが、シャガールは早く返してほしい。

……まさか、忘れてるわけじゃないだろうな。

こんなことなら影の中に入れておけばよかったな。

 

まあ、ないものを欲しがっても仕方ない。

今日見せたいのは“速く振るとこうなる”って感覚の方だ。

だったら木剣で十分だ。

 

数歩先の的の前へ出る。

藁を束ねた簡素な的だ。

風が少しだけ吹いて、その上の藁がかすかに揺れた。

 

木剣を腰へ引く。

足幅を決める。

重心を落とす。

居合の構え。

鞘がないから厳密には違うが、身体の使い方としては、あれが一番近い。

剣を振り抜くために溜める。

ただ、それだけのための静けさを作る。

 

後ろで、パックスが何か言いかけた。

 

 

「待て、貴様! それはさっき言っていた構えと――」

 

 

言い切る前に、俺は剣を抜いた。

 

音は、ほとんどしなかった。

木剣が空気を裂く短い唸りと、踏み込みの足音。

それだけだ。

次の瞬間には、俺はもう振り抜いた後の位置に立っていた。

 

俺は抜いたあとの位置で止まり、そのまま木剣を下ろす。

 

パックスの顔が、ぽかんと固まっていた。

口が半端に開いている。

さっきまで何か言い返そうとしていた形のまま、その続きを忘れたように。

 

 

「見えたか?」

 

 

「……」

 

 

返事がない。

 

俺は的へ歩み寄って、藁束の上の方へ手をかけ軽く押した。

その瞬間、何も起きていないように見えた的がすっと上下に分かれた。

切り離されていた上の方が、ずれて地面へと落ちる。

乾いた藁の匂いと、細かい切れ屑が少しだけ舞った。

 

木剣で斬れるのもおかしな話だが、速さを優先すると結果としてそうなる。

それだけだ。

 

パックスは、まだ固まっていた。

目だけが的と俺を行ったり来たりしている。

どう見ても処理が追いついていない顔だ。

 

俺は肩を軽くすくめた。

木剣を片手でくるりと返しながら、少しだけ苦笑する。

 

 

「だから言ったろ? 見本にならないって」

 

 

パックスはまだ、何も言えない顔をしていた。

悔しいのか、驚いてるのか、分からないでもない。

 

多分両方かな?

 

自分が文句を言った手前、素直にすごいとも言いたくない。

でも、見えなかった以上、強がりにも限界がある。

そういう顔だった。

 

そこからのパックスは、やっぱり不満そうな顔をする瞬間こそあったものの、さっきまでよりずっと素直に話を聞くようになった。

いや、本当に、露骨なくらいに。

やっぱり、実際に見せるって大事なんだな。

こっちが何を基準にして話しているか分からないままだと、人は「言ってるだけ」にしか聞こえない。

でも、一度“本当にそう動ける”ところを見せれば、そこから先は言葉の意味が変わる。

同じ注意でも届き方が違う。

パックス相手には、それが大きかったのかもしれない。

 

だから俺も、さっきよりは少し順番を考えて教えた。

全てを一気に言わない。

一つ直して、少し褒めて、また一つ直す。

 

時間が経つにつれて、パックスの立ち方は少しずつマシになった。

ひどかった最初の「それっぽいポーズ」から、ようやく“立とうとしている”姿勢へ変わっていく。

もちろん、まだ剣士の構えとは言い難い。

でも、土台の向きは前よりずっといい。

少なくとも、見栄えだけを作って満足していた最初の状態よりは良くなっている。

 

日は、ゆっくりと傾いていった。

石畳の色が少しずつ柔らかくなって、俺たちの影も長く伸びる。

練習場の端では、兵士たちが別の訓練をしているのか、ときどき掛け声が遠くで弾けた。

でも、こっちの空間は不思議と静かだった。

木剣の音もない。

あるのは、俺の指示と、パックスの文句と、その合間に挟まる短い呼吸だけだ。

 

午後の光がさらに傾き、石畳に落ちる影が長くなる頃には、流石にパックスの足も怪しくなってきた。

膝の踏ん張りが甘くなる。

肩がまた上がる。

文句の回数もさらに増える。

そうなれば、もう終わり時だろう。

 

俺は手を打って、そこで区切りをつけた。

一度止められると気が抜けるらしく、パックスはその場で大きく息を吐いた。

 

それでも、次の瞬間にはすぐ顎を上げて、いかにも余裕があるふうを装ってみせるあたりがまた、実にこいつらしい。

疲れているのを認めるのは負け。

へばったと見られるのはもっと負け。

そういう妙な基準が、たぶんこいつの中にはちゃんとあるんだろう。

 

宿儺が言っていたことを、そこで少しだけ思い出す。

自分が何を不快と感じるかを、少なくともこいつは知っている。

 

……これが芯、なのか?

 

いや、流石にそれは違うか。

だが少なくとも、見下されたくないとか、弱って見られたくないとか、そういう分かりやすいこだわりが、パックスの動きを最後の最後で支えているのは確かだ。

宿儺が言っていた“第七の方がまだマシ”ってのは、たぶんこういうことなんだろうなと思う。

良い悪いは別として、自分がどこで意地になるかを、パックスはちゃんと知っている。

少なくとも今の俺よりは、その輪郭がはっきりしているのかもしれない。

 

パックスは、乱れた呼吸を無理やり隠して胸を張りながら鼻を鳴らした。

 

 

「で、どうだ」

 

 

「何が」

 

 

「何が、ではない! 余の型のことだ!」

 

 

ああ、そっちか。

いや、まあ、そう聞きたくなるよな。

今日は午前も午後も、かなり真面目にやっていた。

その手応えを確かめたい気持ちがあるのは分かる。

それに、こういうところで下手に濁すと、せっかく出たやる気がしぼむ。

本音と、モチベーション維持。

その両方を見ながら言葉を選ぶのも、教師の仕事なんだろう。

 

俺は少しだけ考えてから、あえて真正面から言った。

 

 

「それなりには良くなったよ」

 

 

そう言うと、パックスの眉がわずかに動いた。

 

 

「当然だ。余にかかれば、この程度のこと――」

 

 

「朝飯前はもう聞いたぞ」

 

 

「うるさいわ!」

 

 

俺は少し笑ってから、具体的に指摘を入れた。

 

 

「でも、実際よかったよ。午前より立ち方がだいぶ良くなってた。足の裏に体重を乗せる感覚も少し分かってきたし、肩の無駄な力みも後半は減った。あと、自分で今のは違うって気づく回数が増えてたしな」

 

 

「……そうか」

 

 

「ただし、身体がついてこないと結局崩れる。だから、宿題を出す」

 

 

「宿題だと?」

 

 

「そう。筋トレメニュー」

 

 

「きんとれめにゅーとはなんだ」

 

 

「これ」

 

 

そう言って、俺はあらかじめ紙へ書いておいた簡単な筋トレメニューを渡した。

腕立て、腹筋、腰落とし、柔軟、あと足腰を使う軽めの反復。

剣術の名目で来た以上、あんまり地味な単語ばかり並ぶと嫌がるかとも思ったが、そこはもう仕方ない。

土台は土台だ。

 

パックスは心底不服そうに鼻を鳴らしたが、俺が差し出した紙を最終的にはちゃんと受け取った。

受け取って、ざっと目を通して、また不機嫌そうに眉を寄せる。

 

 

「今の身体で剣を振り回しても、変な癖がつくだけだからな。授業の外でも少しはやれ。朝と夜。全部やってもそんなに時間はかからない」

 

 

「余へ、さらに働けと言うのか」

 

 

「身体を使うのを“働く”って言うなよ」

 

 

「面倒なものは全て働きだ」

 

 

「駄目な王子の理屈だな」

 

 

「こんなもの、余が毎日やるとでも?」

 

 

「やれ」

 

 

「命令するな!」

 

 

「じゃあ提案する。やった方がいいぞ、未来の王様」

 

 

「……」

 

 

パックスは不満そうに紙を睨んでいたが、破り捨てるような真似はしなかった。

むしろ、嫌そうにしながらも内容はちゃんと読んでいる。

その時点で、まあ大丈夫だろう。

 

 

「じゃあ、そういうことで」

 

 

俺が軽く手を振ると、パックスは最後まで偉そうに顎を上げたまま踵を返した。

歩き去る背中まで堂々としている。

そういうところは、本当に王子なんだよな。

嫌味ではなく、ちゃんと身についたものとしてある。

まあ、中身が追いつくかどうかはこれからだが。

いや、それは俺もか……

 

 

 

―――

 

 

 

夜ご飯も、結局食堂で済ませた。

昼と同じく、無難な飯だ。

腹は膨れる。

それで十分。

 

部屋へ戻ってからも、すぐに寝る気にはなれなかった。

いや、寝るわけにはいかない、の方が近いか。

ヒトガミに会いたくない。

それがまず一つ。

それに、日中は出来なかった“芯”のことも考えたかった。

 

片手間に、明日のパックスへの授業の準備もある。

あいつの今日の反応を見る限り、身体づくりの意味はちゃんと噛ませた方がいい。

だが、説明ばかりでも飽きる。

少しだけ成功体験も混ぜる。

そのへんの配分を考えつつ、机へ向かった。

 

机へ向かい、紙を広げる。

パックス用のメモ。

今日の修正点。

明日見るべきところ。

それを書きながら、頭の片隅では別のことを考える。

 

芯。

 

机に肘をつき、指先でこめかみを軽く押す。

言い換えるなら、こだわりみたいなものなんだろうか。

自分が何を良しとして、何を許せないか、その基準になるもの。

それが他人基準じゃ駄目で、自分基準でなきゃいけない。

しかも、ちょっとした都合で揺らぐものでも駄目。

折れないものでなきゃいけない。

 

強い奴ほど、呪いと言ってもいいぐらいのこだわりを持っている気はする。

良くも悪くも、その人を縛って、その人を前へ押し出して、時には周りも巻き込んで、でも最後まで貫いているもの。

 

分かりやすいのは、アトーフェの“勇者”だ。

あれは、信仰とか執着とか、そういう生易しいものじゃない。

あいつの中では“勇者”という概念が絶対で、それに触れるものの価値が全部そこで決まる。

勇者と認めた相手へ向ける執着。

理屈が通っていようがいまいが、本人の中では絶対に揺らがないものとして機能していた。

あれは、間違いなく芯だ。

 

もっと分かりやすく、漫画の主人公とかで考えてみる。

海賊王になるとか。

火影になるとか。

言葉にすると子どもっぽい。

でも、その子どもっぽさを、何があっても手放さないから強いんだろう。

笑われても、否定されても、痛い目を見ても、それでもそこへ戻れる言葉を、自分の中へ持っている。

なるほど、芯ってのはああいう感じかもしれない。

 

だが、そんなもの、俺には――

 

 

「……ない、よな」

 

 

海賊王。火影。勇者。

そういう、馬鹿みたいにでかくて、だからこそ揺らがない言葉。

人に笑われても、否定されても、自分の中でだけは価値が落ちない言葉。

そういうものが芯なのだとしたら、たしかに俺にはない。

 

 

「いや、まあ……そりゃそうだろ」

 

 

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

半ば自嘲で、半ばは本当にそう思ったからだ。

俺には、そんな大層な夢はない。

 

守りたい、とか。

失いたくない、とか。

理不尽に負けたくない、とか。

 

そういう気持ちは確かにある。

あるけど、それはまだ芯というより感情の束だ。

一本の線……芯になっていない。

だから、状況が変わるたびに優先順位までぐちゃぐちゃになる。

俺の中では、すぐに価値が変わりゆくものだ。

 

だけど、それが必要だと言われてしまった。

じゃあどうやって作るのか、と考えてみても当然すぐ分かるわけがない。

 

一朝一夕で生えてくる類じゃないんだろう。

今日決めました、明日からそれで生きます。

みたいな軽さで口にしたところで、それは芯じゃなくて標語だ。

痛い目を見た時に折れる。

苦しくなった時に捨てる。

そういうのは、きっと違う。

 

 

「……うーん」

 

 

唸ってみても、頭の中の霧は薄くならない。

 

そもそもこうして部屋の中でじっとしていて、どうにかなる類のものにも思えない。

考えるのは大事だ。

逃げないのも大事だ。

だが、惰性で時間が過ぎるのを待つだけの生き方じゃきっと一生見つからない。

 

前世でそれをやった。

いや、やってしまったからこそ、それだけは分かる。

何も決めず、何も掴まず、なんとなく息をして、なんとなく日をやり過ごしているうちは、気づいた時には何年も過ぎている。

それで後から慌てても、空っぽの時間はそう簡単に埋まってくれない。

 

なら、何か目的を持って進んでいけば、その先で見つかるのかもしれない。

何でもいいから目的を持って進む。

進みながらどこで自分が立ち止まりたくなくなるのか、どこで本気になるのか、何を見過ごせないのかを探していく。

そうしていれば、そのうち芯ってやつの輪郭も見えてくるのかもしれない。

 

とはいえ、じゃあどこへ行けばいいのかと聞かれると、そこも分からない。

何をすればいいのかも、何を選べばいいのかもまだ霧の中だ。

だったらまずは、歩く道を見つけるところからなのかもしれない。

 

俺は小さく息を吐いて、こめかみを指先で押した。

考えているようで、堂々巡りだ。

こういう時に頭の中だけ回していても、だいたいろくなことにならない。

少なくとも俺はそうだ。

答えが出るまで部屋に籠もるタイプじゃないし、籠もった結果うまくいった記憶もあまりない。

 

いっそ外でも歩くかと思った、その時だった。

 

……ん?

 

扉の向こうに気配がする。

 

気配というか、足音というか、布擦れの小さな音というか。

とにかく、誰かが扉の前でしばらくうろうろしている気配だ。

嫌な予感がして、俺は透視眼へと魔力を込めた。

 

透視眼で扉の向こうを覗く。

 

……パックスだった。

 

扉の前で行ったり来たりしている。

三歩進んで、止まって、また戻って、手を上げかけて下ろして、今度は腕を組んで、それからまた何か考え込む。

さっきまで偉そうだった王子様が、夜更けの廊下でこそこそ迷っている光景は、かなり珍妙だった。

 

俺は一度だけ息を吐いてから、席を立った。

扉のところまで歩いて、そのまま開ける。

 

視線がぶつかった瞬間、パックスの肩がぴくっと跳ねた。

思った以上に驚いている。

ほんとに何してたんだこいつ。

 

 

「……入れよ。そんなところで突っ立ってたら冷えるぞ」

 

 

「う、うむ……」

 

 

妙に歯切れの悪い返事だった。

いつもの偉そうな勢いが半分くらいどこかへ行っている。

珍しいこともあるもんだと思いながら部屋へ通すと、パックスは咳払いを一つしてから、いかにも「たまたま寄っただけだが?」みたいな顔を作っていた。

 

そんな顔をしたところで、さっきまで扉の前をうろうろしてたのは丸見えだったんだけどな。

 

話を聞いてみれば、今日出した問題で分からないところがあったらしい。

だったら最初からそう言ってノックすればいいのに、わざわざ扉の前を行ったり来たりしていたのは、プライドか、あるいは一応こっちに気を遣ったのか。

 

……前者だろうな。

パックスが相手の都合を慮るほど繊細なやつなら、昼間あんなに堂々と振る舞っていない。

分からないことを聞きに来たという事実そのものが、こいつの中でちょっとした引っかかりになっていたんだろう。

 

俺は椅子へ座り直し、パックスを向かいへ座らせて紙を受け取った。

問題そのものはそこまで難しいものじゃない。

だが、パックスは途中の考え方を一つ飛ばして、結果だけを急いで掴みに行く癖がある。

解答をよく見ると、案の定手前の整理を省いていた。

 

俺は紙の余白へ、順番を崩さないよう気をつけながら補助線みたいにいくつかの印を書いた。

どこで考え違いをしたのか、なぜそこがずれたのか。

そこを自分で辿れるように、答えには行き着かないぎりぎりのところまで道筋だけを整える。

 

パックスは最初こそ不服そうな顔でそれを見ていたが、途中でふっと表情が変わった。

腑に落ちた時の顔だ。

 

そこからは早かった。

自分で一度引っかかった場所が分かれば、パックスは案外その先を自力で進める。

むしろ、そういう瞬間の吸収はかなり速い部類だと思う。

 

問題の確認が終わったあと、パックスが不意に机の上の紙束へ目をやった。

さっき俺が脇へよけた、授業用のメモだ。

明日の内容をざっくり書き出していた紙の端が、まだ見えていたらしい。

 

俺が何も言わずに待っていると、やがてパックスが顔を上げた。

 

 

「……貴様、何をしていたのだ」

 

 

「ん?」

 

 

「余が来る前だ。そこに、紙を広げているであろう。何をしていたのかと聞いておる」

 

 

俺は机の上に散らばっているメモへ視線を落とした。

 

 

「明日の授業の準備だよ。今日のお前の反応見て、どこから話した方が分かりやすいか考えてた」

 

 

そう答えると、パックスはほんの少しだけ目を細めた。

その顔には、単なる確認以上の色が混じっていた。

意外そうというか、引っかかってるというか、何かを確かめようとしているような目だ。

 

 

「そこまでする必要があるのか?」

 

 

「そこまでって?」

 

 

「授業の外でも、こうして紙をまとめたり、余がどこで引っかかったかを考えたりだ。わざわざそんなことまでせずとも、適当に教えれば済む話であろう」

 

 

「いや、まあ……仕事だし」

 

 

普通の答えを返したつもりだったんだが、パックスの顔はますます険しくなった。

納得した顔じゃない。

むしろ、その言い方が気に障ったらしい。

 

 

「仕事でも、やらぬ者はやらぬであろう」

 

 

「あー……それって、前にお前の家庭教師やってた奴の話か?」

 

 

パックスは少しだけ黙った。

いつもなら即座に反発するところで、間が空くあたり本当に図星らしい。

 

 

「……そうだ。以前ついていた者に、分からぬところを聞けば面倒そうな顔をされる。余のことなどまともに見ておらんかった」

 

 

「まあ、そりゃそうなんじゃないか?」

 

 

パックスがぎろりとこっちを見る。

 

 

「……なんだと?」

 

 

「いや、だってお前普通にクズじゃん」

 

 

「き、貴様……!」

 

 

「リーリャさんを監禁してたのもそうだし、兵士の家族まで押さえて脅しに使ってたんだろ? どう考えてもクズだと思う」

 

 

パックスの肩がわなわなと震えだす。

顔も赤い。

怒ってるのは一目で分かる。

だが、俺も言葉を引っ込める気にはなれなかった。

 

 

「自分に置き換えて考えてみろよ。そんな奴に対して、よし真面目に教師やろう。人生導いてやろう……なんて殊勝な気持ちになるか? 普通はならない。面倒くさいし、関わりたくないし、出来れば距離置きたいって思うだろ」

 

 

「……ッ」

 

 

「お前はもうちょっと自分を客観視した方がいいと思うぞ。王族だから何しても許されるって顔してるうちは、周りが本気で向き合うわけないだろ」

 

 

言い切ったあとで、部屋の空気が一段冷えた気がした。

流石に言い過ぎたかもしれない。

 

……いや、でも悪いのは百パーセントパックスなんだよな。

そこは本当にそうなんだよ。

今さら過去の所業を“教師なんだから優しくして当然だろ”みたいな顔で処理される方が、俺としてはよっぽど気持ち悪い。

だから、間違ったことを言ったつもりはない。

 

そして案の定、パックスは爆発した。

 

 

「矛盾しておるではないか!」

 

 

怒鳴り声が、部屋の壁を揺らすように響いた。

 

 

「誰も彼もが、余に教師などしたくないと思うなら、なぜ貴様は余の教師をしておるのだ!? 言っていることがめちゃくちゃではないか!」

 

 

部屋の中へ、その声がびりっと走る。

 

俺はその勢いを正面から受けながら、少しだけ目を丸くした。

そこを聞くのか。

怒るなら、もっと別のところがあるだろうに。

けど、こいつの中で一番引っかかっていたのはそこなんだろう。

 

だから、変に飾らずにそのままを言った。

 

 

「お前が頑張ってるからだよ」

 

 

言った途端、パックスの顔が止まった。

怒鳴り返されると思っていたのかもしれない。

少なくとも、今の返しは想定外だったらしい。

 

俺はそのまま続ける。

 

 

「どれだけクズでも、どれだけ過去に何をやっていようが、今ここでちゃんとやろうとしてるなら、俺はそこまで無かったことにはしたくないんだよ」

 

 

綺麗事みたいに聞こえるかもしれない。

実際言葉だけ切り取れば、ずいぶんと聞こえのいいことを言っている自覚はある。

けど、そこに混ざっている感情は、別にそんな立派なもんでもなかった。

 

前世の俺だって、大概クズだ。

怒られないように、浮かないように、嫌われないように。

そうやって周りの顔色を見て、角が立たない方向へばかり舵を切って、結局自分が何をしたいのかも曖昧なまま、ふらふらと流されていた。

胸を張って語れる生き方じゃない。

かなりみっともないクズだと思う。

 

今だって、別に立派になれたわけじゃない。

変わろうとはしている。

強くなろうとか、自分で選ぼうとか、そういう方向へ足掻いてはいる。

だが、今なおその途中だ。

だからこそ、目の前で不器用にでも踏ん張っているやつを見捨てるってことは、自分のその“変わろうとしてる部分”ごと見捨てる事になる気がした。

 

パックスは、怒鳴り返すでもなくしばらく黙っていた。

少し間を置いてから、パックスは思いのほか小さい声で言った。

 

 

「……ならば。余が頑張らなくなれば、貴様も見限るのか?」

 

 

今日はやけにしおらしいな、こいつ。

 

昼間の偉そうなアホ王子はどこへ行った、と一瞬思ったがすぐに考え直す。

多分いないわけじゃない。

ただ、今はその下にある別の部分が表へ出てきてるだけなんだろう。

 

前の家庭教師が、よっぽど傷になっているらしい。

 

少なくとも、どうでもいい相手に向ける反応じゃない。

腹が立ったなら怒鳴って終わりだし、馬鹿にされたなら馬鹿にし返して終わりだ。

なのに今のこいつは、そういう反射で動いていない。

わざわざ「頑張らなくなったらどうなる」と聞いている。

つまり、それが気になって仕方ないってことだ。

 

一人がそうだったから、他の人間もきっとそうだ。

一度向けられた冷たさは、次もまた来る。

見てくれているように見えても、結局は途中で見限られる。

 

呪いみたいなものだ。

 

……まあ、因果応報ではあるんだろうけどな。

こいつがやってきたことを思えば、誰かに本気で向き合ってもらえなかったとしても、不憫なとこだけ切り取って「可哀想だ」とは言いづらい。

むしろ、そういう扱いを受けても仕方ない部分はある。

けど、仕方ないで終わらせると、そこで人間はずっと同じ場所に沈む。

その沈み方を俺は嫌というほど知っている。

 

俺の中にも、似たような呪いはある。

どうせ自分なんて、どうせ本音を出したって、どうせ期待したところで、そういう面倒くさい決めつけが、今もまだ残ってる。

 

だからこそ、ここは適当に流したくなかった。

変に優しく誤魔化すんじゃなくて、ちゃんと今のこいつへ向けて言ってやるべきだと思った。

 

俺は肩の力を抜いて、できるだけ普段通りの声で返した。

 

 

「見捨てないよ」

 

 

「……」

 

 

「お前はやれば出来る人間だからな」

 

 

「……な、で、では! やる気がなくなればどうするのだ!」

 

 

「やる気がないなら、やる気が出るように仕向ければいい。機嫌が悪いなら、何が気に食わないのか探ればいい。生徒のやる気を引っ張り出すのも、教師の仕事だ」

 

 

やればできる子。

 

Y・D・K

 

……なんだっけそれ。

どこかで聞いた、軽い標語みたいなやつだ。

今ここで口に出しても確実に伝わらないし、伝わったところでパックスが機嫌を損ねるだけだから飲み込んだが、感覚としてはけっこう近い。

パックスは、めんどくさいし、性格が捻くれてるし、自尊心の塊みたいなところはあるけど、ちゃんとやれば形になる方だ。

少なくとも、何もない空っぽじゃない。

 

俺は少しだけ笑って、言葉を足した。

 

 

「まあ、端的に言うとだな――期待してるってことだ」

 

 

その途端だった。

 

あからさまに、パックスの機嫌が回復した。

早いな。

さっきまであんな顔してたのに、今はもう口元が緩んでる。

 

 

「ふん……ようやく見どころがあると分かったか」

 

 

「分かりやすいよな、お前」

 

 

「当然であろう。余の器を見抜ける者は少ない。貴様はその希少な側であった、というだけの話だ」

 

 

「急に上からに戻るのやめろよ」

 

 

パックスはさっきまでのしおらしさをどこかへ投げ捨てたように、わざとらしく胸を張った。

偉そうだし、調子に乗ってるし、正直ちょっと鬱陶しい。

だが、さっきの沈んだ顔よりはこっちの方がずっと関わりやすい。

 

そして案の定というか何というか、次に飛び出してきたのはとんでもない台詞だった。

 

 

「余が王になった暁には、特別に貴様を側へ置いてやってもよいぞ。側近として使ってやる。光栄に思え」

 

 

「それは本当にやめてください」

 

 

反射で即答していた。

 

 

「何故だ!」

 

 

「絶対面倒くさいから」

 

 

「無礼であるぞ貴様! 王の側近だぞ! 栄誉であろうが!」

 

 

本当に嫌だ。

軽口を叩いたことを後悔させてやる、みたいなことは前に言われていたが、まさかそういう方向で来るとは思わなかった。

もっとこう、嫌味とか意地悪とか、そのへんだと思うだろ普通。

なんで未来の就職先みたいな形で囲い込みを始めるんだ。

嫌がらせのつもりかどうか知らないが、俺からすると十分すぎるほど嫌だ。

本当にやめてほしい。

 

パックスはわなわなと怒っていたが、怒り切る前にふっと目を細めた。

 

 

「……まあよい。今すぐ決めよとは言わぬ」

 

 

「今後も決めない予定です」

 

 

「余の将来を軽んずるでない!」

 

 

「お前の将来は軽んじてない。俺の将来を守ってるだけだ」

 

 

「ええい、うるさい! せめて“考えておきます”くらいの社交辞令は言えぬのか!」

 

 

「言ったら本気で覚えてそうだから嫌だ」

 

 

「当然覚える!」

 

 

「ほらやっぱ駄目じゃん」

 

 

言い返すたびに、パックスの顔がころころ変わる。

忙しい奴だ。

 

でも、その忙しさのおかげで、さっきまでの重い空気はすっかり薄れていた。

こいつ相手にずっとしんみりしていても疲れるし、こっちだってそんなに優しくできた人間じゃない。

少し真面目なところへ触れて、そのあといつもの軽口へ戻すくらいが今の距離感としてはちょうどいい。

 

 

「ほら、用事終わったんなら帰れよ。夜更かしすると頭が回らなくなるぞ」

 

 

「余を子ども扱いするな」

 

 

「じゃあ扉の前でうろうろしてたのは何なんだよ」

 

 

「そ、それは……」

 

 

パックスが一瞬詰まる。

その沈黙がもう答えみたいなものだ。

 

 

「ノック一つにあんなに時間かける大人がいるかよ」

 

 

「うるさい! あれは戦略的間だったのだ!」

 

 

「何の戦略だよ」

 

 

「教師へ威圧感を与えつつ、余の格を保つための――」

 

 

「なら、もう失敗してるな」

 

 

「黙れ!」

 

 

捨て台詞のようにそれだけ言って、パックスはようやく部屋を出ていった。

扉が閉まり、足音が遠ざかる。

さっきまで騒がしかった空気が、すっと夜の静けさへ戻っていく。

 

俺はその場で小さく息を吐いて、机へ視線を戻した。

散らかった紙に、書きかけのメモ。

芯について考え込んでいた途中の、まとまりきらない思考の跡。

 

……結局、芯についてはまだ何も分からずか。

 

分からないものは分からない。

でも、分からないから終わり、という感じでもない。

 

少なくとも、さっきまでよりは少しだけ前を向けている気がする。

 

芯、なんて大層なものは、今日考え始めて今日見つかるような代物じゃないのだろう。

だったら、焦って完成形を探すより先にやることがある。

 

 

「まずは……進むべき目標を見つけるところからだな」

 

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