「さて、ここらへんでいいか」
俺は今、王竜山脈の上空を『虎葬』の背に立って飛んでいる。
見下ろせば、山脈はまるで世界の骨のように、ぎざぎざと連なっていた。
剥き出しの岩肌。
その合間を縫うように濃い影が沈んでいる。
人の気配は一切無い。
町も街道も見えない。
ちょうどいい場所だ。
万が一やらかしても、街一つ吹き飛ばすようなことにはならない。
いや、そうならないようにする努力はするつもりだが。
俺は『虎葬』の首筋を軽く叩いた。
巨体が応じるように羽ばたきを強める。
風圧が変わり、ぐっと身体が後ろへ持っていかれそうになる。
高度が上がり、空気が薄く、冷たくなっていく。
頬へ当たる風が痛いくらいだ。
地面がさらに遠くなっていく。
落ちたら死ぬ高さだ。
まあ、今から落ちるんだけど。
俺にやれるか……
そこまで考えて、すぐに頭の中でその考えを打ち消す。
やれるかどうかじゃない。
やるんだ。
約束をしたんだ。
その言葉を自分に向けて言い聞かせる。
出来るかどうかで足を止めるのは、もう散々やった。
無理そうだから、難しそうだから、今の俺には足りないから。
そうやって腰を引いて、それで結局何も掴めないまま時間だけ食ってきた。
危ない危ない。
また、いつもの癖に飲まれるところだった。
嫌になるほど俺らしい。
けど、もうそこへ付き合ってやる気はない。
「ふう……やるか」
まずは『貫牛』の術式を体に付与した。
距離を稼げば稼ぐほど威力が上がるという、単純でそれゆえに使いどころを間違えなければ恐ろしく強い術式だ。
そこからさらに、『鵺』の呪力特性を右腕に乗せる。
ばち、と紫電が右腕へ這った。
指先から肘まで、細い雷が幾筋も走る。
皮膚の表面がひりつく。
乱暴だし、繊細さもへったくれもないけど、今はそれでいい。
速くて、重くて、真っ直ぐならそれでいい。
俺は『虎葬』の背で歩を進めながら、影絵を結んでいく。
「『万象』」
宣言と同時に、影が膨れ上がった。
『虎葬』の背に落ちていた影が、黒い湖のように広がる。
そこから、巨大なものの輪郭がゆっくりと、しかし確実に立ち上がっていく。脚。
胴。
牙。
鼻。
山を削って作ったような、圧倒的な質量の塊。
普段のサイズじゃない。
限界まで大きくした。
山の上空からさらに別の山を呼んだような、頭の悪いサイズ感だ。
いや、頭が悪いのは知ってる。
知ってるけど、必要なんだからしょうがない。
俺は『虎葬』の背から、空へ一歩踏み出した。
眼下は空だ。
普通なら、踏み外したら死ぬ高さ。
でも今は、その“死”を自分で選んで一歩進む。
もちろん死ぬつもりは毛頭ない。
足裏の感触が消え、当然次の瞬間には、身体が落ちていく。
風が一気に全身へ噛みついてきた。
胃が浮く。
視界が跳ねる。
慣れてるわけじゃないが、やると決めた以上、今さら高度のことなんて考えてもしょうがない。
上空ではなおも『万象』が形作られている。
式神は完全顕現するまでは重力が働かず落ちない。
『万象』は空に張り付いたまま、ゆっくりと“完成”に近づいていっている。
サイズを大きくしたのには、単純に威力を上げる意味もある。
それはもちろんそうだ。
『万象』がでかければでかいほど、それだけ威力が増えるからな。
けど、本命はそこだけじゃない。
完全顕現までの時間を稼ぐ。
『万象』の滅茶苦茶な質量が、完全に形成され重力従い落下してくるまでの猶予。
それを得るために、あえてでかくしている。
つまり、空から落ちてくる『万象』を少しだけ遅らせるためだ。
俺は下へと落ち続けている。
地面はまだ遠い。
が、さっきまでよりずっと近い。
王竜山脈の峰が、鋭い牙のように下から迫ってくる。
落下のおかげで、かなり距離を稼げていた。
高いところから落ちるなんて普通はただの自殺行為だ。
でも今は違う。
『貫牛』の術式が、落下によってどんどん加算されていくのが分かる。
頭上では、限界まで巨大化させた『万象』が完全顕現までの最後の輪郭を埋めつつある。
あと少しで完全顕現し重力に従って落ちてくるはずだ。
地面が近づいてきた。
そろそろか……
俺は落下の最中に、無理やり体の軸を整えた。
落下の軸をぶらさない範囲で、両腕を前へ突き出す。
右腕にはまだ『鵺』の紫電がまとわりついている。
頭の中に、あの時の光景がよぎった。
黒い領域。
白い巨体。
目がないはずなのに、こっちを見ている気がしたこと。
俺が強制的に調伏し、謝って、感謝して、最後には俺を放り投げて、自分だけが残ってオルステッドを引き受けてくれたあの頼れる式神。
息を吸う。
そして、日本語で言葉を紡いだ。
「『布瑠部由良由良』」
その音だけが、風の中で妙にくっきり響いた気がした。
次の瞬間、俺の下の空間が影に上書きされ歪む。
白い体が、ぬるりと出てくる。
膝。腰。胴。腕。
そして、背負った方陣。
俺よりも下。
地面よりはまだ高く。
ちょうど俺の落下線上へ重なる位置へ、白い式神が現れ始める。
影から這い出るというより、空間そのものがあいつのために裂けたみたいな顕現の仕方だ。
「『
名を告げると、魔虚羅は完全顕現した。
重力が白い巨体を掴む。
巨大な方陣が背中でわずかに震え、白い肉体が落下の風を裂く。
俺よりずっと重く、ずっと強く、ずっと頼りになる存在が、今は俺と同じ方向へ、同じ速度で落ちていた。
俺は落ちながら、白い巨体を見た。
目はない。
表情も、相変わらずよく分からない。
それでも、前よりずっと“知らない化け物”という感じは薄かった。
口が勝手に開いた。
「約束を果たしに来たよ。魔虚羅」
返事なんて期待していない。
いや、期待していないは嘘か。
ちょっとくらい何か返ってきてほしいと思っている。
あの時、最後に見た口の動きが本当にただの錯覚じゃなかったなら。
俺の都合のいい願望だけじゃなかったなら。
今度は、ちゃんと正面から向き合いたい。
魔虚羅は何も言わない。
けれど、落下の最中。
ほんの一瞬だけ顔の向きがこちらへ寄った気がした。
目はない。
表情もない。
それでも“見られた”という感覚だけは確かにあった。
俺は唇の端を少しだけ吊り上げた。
その感覚だけで十分だった。
返事なんていらない。
そもそも、返ってくるような相手だと思って言葉を放ったわけじゃない。
俺が勝手に約束を覚えていて、俺が勝手にそれを果たしに来ただけだ。
ひどく一方的で、押しつけがましい。
けどあの時、渓谷の底で俺は確かに助けられた。
俺の都合で呼び出して、俺の都合で縛って、それなのに最後には命を繋いでもらった。
その借りを、今度は“ちゃんと向き合う”という形で返したかった。
俺は左手を魔虚羅に伸ばした。
もちろん、手を繋ぐためじゃない。
そんな甘ったるいことを、この高度と速度でやる趣味はない。
落下している最中の魔虚羅の胸に、俺は手のひらを叩きつけるように当てた。
硬い。
白い外殻のような肉体は、ただの式神とは思えない密度が詰まっているのが分かった。
人肌なんてものじゃない。
鉄でも石でもない、もっと得体の知れない硬さだ。
そのまま、俺は迷わず叫んだ。
「『捌』!」
次の瞬間、魔虚羅の体へ無数の斬撃が走った。
胸から肩へ。
腹から腰へ。
腕、首、脇腹、腿。
見えない刃が一斉に食い込み、白い巨体が空中でずたずたに裂けていく。
傷が増えるたび、血とも影ともつかないものが風へ散った。
切って、切って、切って。
それでも、まだ足りないとでも言うように、細かく細かく刻み込む。
普通の相手ならこれで終わる。
終わるどころか、原型すら残らない。
けど、相手は魔虚羅だ。
反撃こそ出来ていないものの余裕の表情……だと思われる顔で耐えている。
魔虚羅は声を上げない。
俺と一緒に空から落ち続ける。
悲鳴も、怒号も、呻きもない。
だが、魔虚羅が鳴らす音は決まっている。
―――ガゴンッ
来た……
魔虚羅の背後の方陣が回転した。
金属でもないのに、金属が噛み合ったような重い音。
聞くたびに背筋がぞくりとする音だ。
オルステッドと戦った時に、この音が時限爆弾のタイマーみたいなものだったからだろう。
適応した直後、手応えが変わる。
目に見えて、『捌』の通りが悪くなった。
さっきまで肉を紙のように軽々と裂いていた斬撃が、今は表面を削るだけで終わる。
深くまで入らない。
いや、入ってはいるんだろうが、致命傷としてはまるで足りない。
斬撃が“効いている”から“邪魔にはなる”くらいまで、一気に格落ちした。
完全に適応できたわけじゃない。
斬れば裂ける。
傷は入る。
けど、これではもう『捌』、もしくは斬撃そのものが魔虚羅にとって致命打になることはない。
でも、それでいい。
そもそも、今の俺の呪力出力じゃ全力の『捌』でも魔虚羅を粉微塵になんて出来ない。
出来るわけがない。
もし出来るなら、とっくの昔に俺はもっと色々なことを楽に終わらせてる。
この『捌』の目的は、魔虚羅の適応を斬撃に集中させることだ。
指示が出されてない状態の魔虚羅は、今現在自分に害をなしているものから順に適応していく。
その害が一つなら、それを優先して。
複数あるなら、その中から“適応しやすいもの”から順番に。
たぶん、この考察は当たっている。
だから、今ここで斬撃へ意識を向けさせる。
そうすれば――次の一撃は、まだ適応されていない状態で叩き込める。
魔虚羅が先に地面へ落ちる。
空気が砕ける音と一緒に、白い巨体が王竜山脈の岩肌へ激突した。
衝撃で石が弾け、細かな破片が花火のように跳ねる。
着地なんて綺麗なもんじゃない。
純粋な墜落だ。
人間なら絶対に原型が残らない速度と質量で、白い巨体は山へと叩きつけられた。
その真上から俺も落ちる。
『貫牛』の術式効果は、もう滅茶苦茶に溜まっていた。
落下によって加算され、加算され、加算され続けた力だ。
そこに『鵺』の呪力特性をまとわせた右腕の紫電まで乗る。
なんだか、右肩から先が別の何かに作り変えられてるみたいな違和感がある。
今の俺の右腕は、もはや腕というより質量をもった落雷そのものに近い。
「はあぁぁぁッ!」
叫びながら右腕を振り抜く。
狙うのは魔虚羅の顔面。
呪力強化。
闘気。
落下の勢い。
『貫牛』の蓄積。
『鵺』の雷性。
全てを右腕へ集めた拳が、魔虚羅の顔へ突き刺さる。
手応えは一瞬だけあった。
硬い白い顔面に拳がめり込む。
その次の瞬間には、感触そのものが消し飛んだ。
衝突より先に破壊が起きたのか、破壊が起きたから感触が遅れたのか、自分でも分からない。
ただ、魔虚羅の頭部が跡形もなく消し飛んだの分かった。
破片が細かすぎて形にすらならない。
そこにあったはずのものが、衝撃と紫電の全部をまとめてぶつけられ、一瞬で空白へと変わる。
山肌がその余波でさらに抉れ、岩の破片が爆ぜた。
落下の衝撃は、魔虚羅をクッションにしたおかげである程度は緩和された。
……だが、俺の右腕は別だった。
「――ぐっ、あぁぁッ!」
叫び声が漏れる。
威力を出しすぎたせいで、肘から先がもう腕の形をしていない。
皮膚が裂け、筋肉が煮えたように崩れ、骨の白さがところどころ覗く。
見た目はかなりひどい。
皮膚が裂け、筋肉が捻じれ、骨が砕け、紫電で焼け焦げた肉がごちゃ混ぜになって、何がどうなっているのか自分でもよく分からない有様だ。
『貫牛』の術式によって、威力が極限まで出たせいだろう。
当然だ。
あれだけの加算を、俺の腕一本へ受け止めさせて壊れないはずがない。
むしろ、肩から千切れてないだけまだましまである。
でも、痛がっている暇はない。
俺は即座に足を使って跳ね、魔虚羅から距離を取った。
岩を蹴る。
視界の端で、自分の右腕だったものがどろりと垂れているのが見えた。
だが、魔虚羅は顔を潰したぐらいじゃ死なない。
魔虚羅の再生が始まる予感がする。
あの異常な生存力は、頭部の完全破壊程度じゃ止まらない。
……が。
「来い――!」
俺が見上げた、その直後。
魔虚羅の頭上に影が落ちた。
上空から降ってくる、馬鹿みたいにでかい『万象』の影だ。
完全顕現までの時間を稼ぐために、あえて限界まで巨大化させた質量。
落下の勢いをたっぷり引っ提げた、空からの暴力。
遅れてくるように計算したそれが、今遅れて間に合う。
『万象』が、山一つを押し潰す勢いで魔虚羅へと叩きつけられる。
音というより災害のような衝撃が走った。
空気が殴られる。
山そのものが震え、岩の裂け目に詰まっていた細かな石が一斉に跳ね上がる。
耳の奥が鳴り、次の瞬間にはそれすら潰す轟音が全身を貫いた。
土煙が巻き上がる。
茶色と灰色と白がごちゃ混ぜになった濁流が、魔虚羅のいた場所を中心に噴き上がって、俺の視界を奪っていく。
俺は反射的に左腕で顔を庇った。
右腕は、もう庇える形すらしていない。
何回も言うが本当にひどい。
自分の体を見ている気がしないくらいひどい。
笑えてくるほどひどいが、実際に笑ったら我慢している痛みが溢れ、俺が悶えるだけだろう。
落下を終えた『万象』を影へ戻す。
これ以上残していても意味がない。
使うべき一撃はもう落とした。
なら次だ。
「っ、ぅ……」
右腕がずきずきと痛む。
いや、ずきずきなんて可愛いものじゃないな。
神経の一本一本を焼いた針で引っ掻き回されてるような痛みだ。
少し気を抜くと、それだけで意識の焦点が持っていかれそうになる。
けど、今は腕を治すより先にやることがある。
俺は痛みを我慢して、『虎葬』へと意識を向けた。
さっきまで足場にしていた竜の形を、頭の中でいったんばらす。
翼、胴、脚、尾。
全部を一度“竜”という形から解体して、必要なパーツだけを引っ張り出す。
今欲しいのは飛行能力でも、全身の完成度でもない。
もっと単純な火力だ。
今ので魔虚羅を完全破壊できていれば、こんな再構築は無駄になる。
けど、それでいい。
無駄なら無駄で構わない。
問題は“無駄じゃなかった時”に遅れないことだ。
俺は透視眼を使った。
土煙の向こうを見る。
……やっぱり生きている。
いや、生きているという言い方をしていいのかは分からない。
視界を遮る土煙の奥で、目立つのは傷一つない方陣だった。
砕けても欠けてもいない。
あの不気味な輪が、なぜか宙に浮いている。
その下には、もはや魔虚羅とは呼びにくい肉片の塊があり。
それも方陣と同様、宙に浮いていた。
肉片っぽい物体がカラカラと乾いた音をたてている。
再生しようとしているのか?
異戒神将とかいう格好いい名は、伊達ではない。
……まあ、異戒神将が何かは知らないが。
けど、あれだけ仰々しくて格好いい名前が、この程度で死ぬ式神につくわけがないってことぐらいは分かる。
実際にオルステッドにバラバラにされても生きてたし。
左手を傷んだ右腕へ添える。
反転術式を回す。
焼け爛れた肉の下で潰れた筋肉と砕けた骨が、無理やり元の形に引き戻されていく。
魔虚羅を倒す方法はいくつかある。
一つは、初見の技にて一撃で葬り去ること。
適応する猶予など与えず、最初の一撃目で消し飛ばす方法だ。
理屈としては分かりやすい。
だが、そんな技今の俺にはない。
宿儺は『開』で調伏したらしいが、俺の『開』にそんな威力はない。
というか、俺の『開』を使うぐらいなら、上級火魔術を使った方が威力は出ると思う。
あれは、宿儺の呪力出力と縛りがあればこその技だ。
まあ、『御廚子』の領域展開なら、もしかしたらいけるかもしれない。
でも、あれは溜めが必要な設計上、難しい。
魔虚羅が黙って待ってくれるわけもないしな。
ならもう一つ。
適応が追いつかない速度で、多種多様な攻撃をぶつけ続ける。
こっちだ。
今まで俺は、斬撃をぶつけた。
膂力をぶつけた。
『鵺』の紫電をぶつけた。
『万象』の質量もぶつけた。
このうち、膂力と質量は物理カテゴリに分類され、同時に処理される可能性がある。
けど、方陣の回り方を見るに、全くこっちの攻撃に適応できていない。
追いついていない。
斬撃には一段応じた。
だが、顔面を吹き飛ばした打撃と紫電と、そのあとから落とした『万象』の質量までは、まだ追いついていない。
なら。
ここで一気に畳みかける。
再生しきる前に。
方陣が回る前に。
立ち上がる前に。
次の手札を、次の害を重ねる。
俺は再生した右腕を一度だけ握って確かめた。
指は動く。
肘も曲がる。
完璧じゃないが十分だ。
両手で影絵を組む。
「『虎葬』」
足元の影が応じる。
そこから這い出てきたのは、竜の首だけだ。
しかも一つじゃない。
三つだ。
一つ。
赤竜。
分厚い鱗と、熱を孕んだ喉袋。
口の端から漏れるのは、火山の奥を覗いたような赤。
顎が開くたび、周囲の空気が熱に炙られている。
二つ。
青竜。
赤竜とは対照的に細長く、しなやかで首筋の線が滑らか。
口元から白い霧が零れ、周囲の空気を白く濁らせている。
三つ。
雷竜。
特徴的なのは、頭部の中央から天に突き出た一本の角だ。
その角のからは、翡翠色の電光がバチバチと滲み、周囲に広がっている。
三つの首が、影の中から並んで伸びる。
首から下は、全部影へ沈めたままだ。
見た目だけならキングギドラっぽい。
だが、体の方は即席で再構築したせいでろくに手も付けていない。
というか、首以外にほとんど手を回していない。
歩くのは無理。
立つのも無理。
飛ぶなんて論外。
全体像を見たら、かなり冒涜的な見た目をしていると思う。
見た目だけで言えば、神話の怪物というより、失敗した粘土細工に無理やり竜の首を三本ねじ込んだ何かの方が近い。
でも、今必要なのは美しさじゃない。
――火力だ。
三つの口が、同時に魔虚羅へと開かれる。
赤竜の喉が膨らむ。
青竜の牙の隙間から白い霧が溢れる。
雷竜の角へ緑の電流が集まり、首筋全体が発光する。
「放て!」
俺の掛け声と同時に、三竜の首から一斉にブレスが吐き出された。
赤竜からは炎。
濃く、重く、ただ敵を燃やし尽くす熱の奔流。
青竜からは氷。
白い霧を引きずりながら、空気ごと凍らせる極低温の吐息。
雷竜からは電気。
翡翠色の閃光が束になって走り、線じゃなく面で地形を焼く電撃。
三種のブレスが、まとめて魔虚羅へ叩き込まれる。
耳を澄ます。
炎の唸り。
氷が砕けて弾ける音。
翡翠色の雷光が空気を裂く甲高い悲鳴。
それらの奥を探る。
方陣の音は……聞こえない。
俺は息を詰めたまま、なおも耳を澄ませ続けた。
三つの首は休みなくブレスを吐き続けている。
赤竜の炎が岩を溶かし、青竜の冷気がその熱を割り、雷竜の翡翠色の電光が、その全てを無理やり貫く。
視界の向こうは完全にブレスの嵐だ。
普通の相手なら、とっくに跡形もなく消えている。
……まあ、相手が普通じゃないから、こうして十全の警戒を続けてるんだけど。
一応、出せる手札は出し尽くした。
『捌』で斬って、適応を斬撃へ寄せた。
『貫牛』を乗せた一撃で顔を消し飛ばした。
『万象』を空から叩き落として、質量で潰した。
それでも終わらない前提で、三竜のブレスを重ねている。
これで駄目なら、抵抗はあるが領域展開するしかない。
正直やりたくない。
あれはまだ“俺が使いこなしてる”なんて胸を張れる代物じゃない。
けど、魔虚羅相手に手加減だの、出し惜しみだのと言っていられ力もない。
だから、次が必要ならやる。
そう決めたまま、十分ぐらい経った。
その間も、三竜の首はブレスを吐き続けた。
炎は途切れず、氷は砕け散り、雷はひたすら空気を焼く。
熱と冷気と電撃が混ざり合ったせいで、もう煙の色すらおかしくなっている。
赤、白、翡翠、灰、黒。
全部が層になって渦を巻き、その向こうの景色を完全に殺していた。
それでも。
方陣の音だけは聞こえてこない。
「……やったか?」
口をついて出た瞬間、俺は顔をしかめた。
敵が見えない状態でその台詞は駄目だ。
非常によくない。
古今東西、ろくなことにならない非常に理不尽なフラグだ。
こんなもの、死亡確認どころか再登場の合図みたいなもんだろ。
だが、流石にここまでやってなお生きてるなら、もう笑うしかない。
俺は少しだけ逡巡したのちに『虎葬』へと意識を飛ばし、ブレスを止めた。
赤竜が喉を閉じる。
青竜の口元から冷気が細く漏れて消える。
雷竜の角を走っていた翡翠色の電光が、ぱち、ぱち、と名残を散らしながら沈んでいく。
静かになる、とは言わない。
岩が崩れる音も、熱せられた地面がひび割れる音も、まだそこら中で鳴っている。
それでも、あの三重奏の破壊音が途切れたことで、ようやく耳が景色に追いついた。
視界を塞ぐ煙だけが残る。
俺は左手を軽く振った。
斬撃が煙を十字に裂く。
濃く積もっていた煙が四つに割れ、そのまま強引に吹き飛んだ。
視界が開ける。
――魔虚羅はいなかった。
あの白い巨体も。
頭上に浮かんでいたはずの方陣も。
どこにもない。
「……は」
変な息が漏れた。
調伏できたか……?
……いや待て。
そこで俺は慌てて十種影法術へ意識を込めた。
いつも通り自分の影、その奥に沈んでいる式神の気配へ触る。
玉犬、脱兎、鵺、蝦蟇、満象、貫牛、虎葬……その並びのさらに奥。
今までなかったはずの重さがある。
「あ」
魔虚羅がいる感覚がある。
ということは、今までのブレス祭りは無駄撃ちだったってことか。
たぶん調伏そのものはもっと前に終わっていた。
俺が慎重になりすぎて、念入りに焼いて、凍らせて、雷で炙り続けていただけだ。
まあ、慎重なのは悪いことじゃない。
悪いことじゃないんだけど、十分間ひたすら焼いて凍らせて感電させ続けたあとで、実は最初の段階でもう終わってた可能性が出てくると、ちょっと虚無だな。
とはいえ、念には念を入れた結果だ。
そこはまあ、いいことにしておこう。
改めて地面を見回す。
『貫牛』の力を限界近くまで溜めたパンチは、魔虚羅の顔面を跡形もなく吹き飛ばしただけじゃなく、その下の岩盤まで一直線に抉っていた。
衝突点から地面に向かって、巨大な槍でも突き刺したような穴が走っている。
俺の右腕が肉塊になったのも、納得の威力だ。
『万象』の落下はもっとひどい。
ただ落ちただけで、山肌の一角が丸ごと沈んでいた。
砦でも一つ埋められそうな規模の窪地が出来ていて、その周りの岩盤は圧し割られ、亀裂が蜘蛛の巣みたいに広がっている。
そして『虎葬』、三竜のブレス。
炎で赤黒く溶けた岩が、冷気で急激にひび割れ、その裂け目へ雷が走った痕が翡翠色の焼け跡が残っている。
ある場所はガラス化した跡が残り。
ある場所は霜の柱が林みたいに突き立ち。
ある場所は炭化を通り越して、何か別の鉱物へ変わったような質感になっていた。
十分快調で焼き続けた結果。
山脈の一角は、世界の法則からはみ出た実験場みたいになってしまった。
熱いのに冷たい。
焦げているのに凍っている。
割れているのに溶けている。
俺はその矛盾した光景を見下ろしながら、短く息を吐いた。
……うん。
分かってはいた。
分かってはいたが。
やっぱり、俺の身の丈に合ってない力だな。
これだけ派手にやらかしたのは間違いなく俺だ。
俺が考えて、俺が組んで、俺がぶつけた。
けれど、その結果を目の前にした俺自身が一番引いている。
その時点で、これを胸を張って「自分の力です」と言うのはまだ違うんだろう。
借り物の力を使っていること自体が悪いんじゃない。
でも、それを自分のものと言い切れるほど、俺はまだ咀嚼しきれていない。
この力を自分の力だと言い張れるのは、まだまだ先だな。
俺は小さく息を吐いてから、改めて両腕を前へ突き出した。
さっきまで魔虚羅を殺すために向けていた手だ。
けれど今はそうじゃない。
呼ぶための形。
ちゃんとこっち側に迎えるための形だ。
十種影法術の底へと静かに名を落とす。
「『布瑠部由良由良……
影が揺れる。
岩のひび割れの間に落ちていた影が、じわりと膨れた。
黒が濃くなり、そこから白が出てくる。
脚。胴。腕。頭。
そして背負った方陣。
魔虚羅は、やっぱり他の式神とは別格の風格があった。
大きいとか強そうとか、そういう分かりやすい違いじゃない。
もっと根本的に、同じ棚へ並べていい存在じゃない感じがある。
魔虚羅は何も言わず、ただそこに立っていた。
「ごめん、待たせた」
返事はない。
まあ、分かってる。
ここで「気にするな」なんて喋り出す相手じゃない。
……いや、万物へ適応できるんだから、喋ることにも適応できる可能性はあるのか?
と、一瞬だけ考えたけど、そういう問題でもない気がする。
俺は視線を外さずに続けた。
「……あの時は、俺を逃がしてくれてありがとう」
渓谷の底。
まだ何も掴めていなかった頃の俺。
勝手に呼び出して、勝手に頼って、それでいてちゃんと調伏も出来ず、最後には逃がしてもらう形で終わったあの情けない戦い。
あの時のことを思い出すと今でも苦しい。
それでも、あれがなかったら俺はここに立っていない。
魔虚羅は、やっぱり何も喋らない。
たぶんこれからも喋らない。
けど、だから何も通じていないとは思わない。
そう思える程度には、あの時の俺はちゃんと魔虚羅に助けられた。
少なくとも俺には、そう信じるだけの理由が残っている。
俺は少しだけ口元を緩めた。
「当分戦闘で呼び出すことはないだろうけど、これからよろしくな!」
言いながら、俺は手を差し出した。
別に魔虚羅が気さくに握手してくることを期待しているわけじゃない。
自己満だ。
分かってる。
調伏を終えた勢いで、勝手に区切りをつけたくなっただけの行為だ。
勝手でも何でも礼と挨拶くらいはしておきたい。
魔虚羅は、相変わらず何も言わない。
だが、ほんのわずかに腕が動いた。
方陣の下、白く硬質な腕がゆっくりとこちらへ向く。
動き自体は最小限だ。
それでも、こっちに向けたと分かる角度だった。
……まさか、本当に握手してくれるのか?
そんな都合のいい想像が頭をよぎった、その瞬間。
ぐっ、と全身が沈んだ。
「っ……なんだ、これ……」
ぐっ、と全身が一段下へ引かれる。
疲労じゃない。
戦闘後の脱力でもない。
さっきまでの戦闘の反動とは質が違う。
外側から、問答無用で押し潰しに来るような直接的な干渉だ。
俺は反射的に空を見上げた。
ドラゴンだ。
それもとんでもなくでかい。
いや、でかいなんて言葉で済ませていいサイズじゃない。
『虎葬』の赤竜だって十分に巨大だ。
けど、今空を覆っているそれは、それよりも二回りはでかい。
どう見ても、あの体では飛べるわけがない。
翼はある。
あるんだが、釣り合いが狂っている。
あの体を支えられる骨格にも、筋肉にも見えない。
……あれが王竜か!
ここは王竜山脈のど真ん中。
王竜の縄張りだもんな。
そりゃ王竜の一匹や二匹いる。
今さら過ぎるだろと自分へ突っ込みたくなったが、今はそんな余裕もない。
重い。
ほんとに重い。
あいつがやってんのか?
魔術を使う魔物は戦ったことがある。
だが、こんなふうに“周囲を重くする”みたいな魔術は聞いたことがない。
俺だけじゃなく、その場の岩も、砂も、全部が少し沈んでいる。
体そのものに下向きの命令を追加されている感覚だ。
巨大な竜は、そのまま山脈の一角へ降り立った。
着地した瞬間、山肌がぐらりと揺れる。
ただ降り立っただけで、そこらの魔物ならそれだけで心が折れそうな圧だ。
そいつは首をもたげ、俺を見下ろした。
「オマエ、ナゼ、ヒザマズカナイ?」
「しゃ、しゃべった……」
思わず素で漏れた。
だが、次の瞬間に違和感へ気づく。
口が動いていない。
王竜の顎は閉じたままだ。
なのに、声だけが耳の中に直接落ちてくる。
しかも超カタコトだ。
「ワレ、王竜王。シャベルノトウゼン」
何だその理屈。
いや、理屈ですらないな。
「王竜王だから当然」って自己紹介と結論を一文に詰め込んで終わらせるな。
「あれ? でも、王竜王って昔倒されたんじゃなかったっけ……」
すると王竜は、露骨に機嫌を悪くした気配を放った。
体がまた重くなる。
「アレ、ニセモノ」
ぴしゃりと切って捨てる。
「王竜ノ王、ニンゲン程度ニ、ヤラレルワケナイ。ワレコソ、真ノ王竜王」
すごい理屈だな。
いや、でも存在感だけで見ればそう言いたくなる気持ちも分からなくはない。
重い。
会話をしているだけで、膝にじわじわ負担がたまっていく。
俺は出来るだけ平静を装って言った。
「とりあえず、この俺を重くしてる魔術か何かを解いてもらっていいか?」
「イヤダ」
即答だった。
しかもそこで終わらず、重さがさらに増した。
背中へ別の山でも乗せられたように腰が沈む。
呼吸一つするのにも一苦労だ。
間違いなく、あの王竜王が何かしている。
重力魔術――そう呼ぶのが一番近いのかもしれない。
仕方なく、俺は解いていた呪力強化を纏い直した。
呪力を筋肉へ通す。
骨を支え、関節を締め、内側から身体を持ち上げるように力を回す。
沈んでいた膝が少し戻る。
重さ自体は消えないが十分耐えられる。
……うん。それほど苦じゃないな。
そう思ったのが、向こうにも伝わったのかもしれない。
王竜王の不機嫌さが、また一段増した。
「ム」
短く唸ったあと、さらに重さが増した。
岩場へひびが走る。
俺の足元の砂利が、押しつけられて細かく砕ける。
岩の上に立っている足裏が少し沈む。
けど、呪力強化の出力を上げればまだまだいける。
消費は増えるが耐えるだけなら問題ない。
少なくとも、今すぐ地面へ這いつくばることはない。
でも――魔虚羅は大丈夫か?
ちらりと視線を向ける。
魔虚羅はさっきの姿勢のまま止まっていた。
俺に手を差し出してくれている状態のまま固まっていた。
この重さの影響を受けているんだとしたら……
ガコンッ!
「あ……」
方陣が鈍い音とともに回った。
さっきまで俺に向いていた手が、そのまま下へ振り抜かれる。
腰が沈む。
白い巨体が、ほんの一拍だけ深く屈む。
そして――弾けた。
弾丸のように、なんて比喩は生ぬるい。
白い質量の塊そのものが、空気を破裂させて王竜王へ飛んだ。
空気を裂きながら一直線。
けど、ただ真っ直ぐ速いだけじゃない。
ほんの少しふわっとしてるというか、落ちる感じが薄い。
重力そのものに適応したってことか?
だとしたら、あの王竜の力は重力魔術で確定か……
白い拳が、王竜の鼻面へめり込んだ。
衝撃で王竜の巨大な頭がぶれた。
顔面が殴られた瞬間だけ、ただの的に見える。
遅れて骨の軋む音と、岩盤が砕ける音がまとめて鳴った。
魔虚羅は止まらない。
一発。
二発。
三発。
左右の拳をほとんど同時に叩き込み、顔面を抉り、首の付け根へ打ち込み、顎を跳ね上げる。
王竜の巨体がよろめくたび、その足元の山肌がずるりと崩れた。
殴っているのは神将一体のはずなのに、見ている側の感覚では巨大な岩塊が何度も何度もぶつかっているみたいだった。
「グ、オオォ……ッ!」
王竜王が、ようやく怒声らしきものを上げた。
「ナゼ、ヒザマズカナイ!」
殴られながら言うことか?
そこへそんな強いこだわりを持たれると、もはや威厳とか思想とかじゃなくて性癖みたいに見えてくる。
いや、さすがにそれは失礼か。
魔虚羅は当然王竜王に返事なんてしない。
そのまま、顔面を掴んで横に薙ぎ払うように振り飛ばした。
王竜王の巨体が、山肌へ叩きつけられる。
山が揺れた。
岩盤が円形にへこみ、その周囲が一斉に崩れた。
普通の生き物ならそれだけで死ぬ衝撃だろう。
でも相手は自称ではあるが王竜王だ。
あの態度のデカさに見合うだけの頑丈さはあるらしい。
首を振って、すぐに起き上がろうとする。
「フ、ザケルナ……!」
次の瞬間、王竜王は怒りに任せて首を反らし口を開いた。
炎のブレスが放たれる。
首は一つしかない。
だが、その一息で吐かれた火炎は、さっき俺が『虎葬』から出した三竜のブレスに匹敵して見えた。
量じゃない。
密度だ。
一直線なんて生易しいものじゃない。
圧し流す。
焼き潰す。
景色ごと持っていく。
王竜王のブレスは、そういう暴力だった。
赤竜の炎が“火”なら、こっちは“災害”に近い。
火柱というより、山脈の一角に太陽を押しつけるような熱が、魔虚羅を丸ごと呑み込んだ。
白い巨体が炎の向こうへ消える。
一瞬、助けに動こうとして俺も足を踏み出しかけた。
が……
ガコンッ!
方陣が回った。
「はやっ……」
けど、まあそうか。
さっき放った『虎葬』の三竜ブレスとは違う。
あれは炎も氷も雷も、一度に三種類のブレスをぶつけていた。
今の王竜王のブレスがどれだけ強力だとしても、放っているのは結局炎だけだ。
単純だし、現象としては分かりやすい。
魔虚羅にとって適応しやすい方なんだろう。
炎の中で白い影が一歩前へ出るのが見えた。
次の瞬間には、魔虚羅はブレスを正面から突っ切っていた。
炎がもう障害になっていない。
押し戻されるはずなのに、そのまま真っ直ぐ進んでくる。
適応が終わった後の魔虚羅にとって、あの灼熱はただの背景へ格落ちしていた。
魔虚羅はそのまま王竜王へと迫り、顔を掴んだ。
魔虚羅の白い手は、王竜王の顔よりずっと小さい。
それでも五本の指が、硬い鱗に食い込み肉体ごと掴み取った。
サイズ差なんて関係ないとでも言うように、指先がめりめりと沈んでいく。
魔虚羅はそのまま腕を振り抜き、王竜の巨体を横殴りに投げ飛ばした。
王竜王は、その巨体ごと宙を舞い別の峰へ叩きつけられる。
魔虚羅は、追撃も速かった。
一度高く跳ぶ。
跳ぶというより、一瞬だけ空へ浮いたように見えた。
重力へ適応した名残か、動きがまだ少しだけふわふわしている。
高く、高く身を持ち上げる。
そして落下の勢いをそのまま脚へ乗せ、王竜王の横顔へ蹴りを叩き込んだ。
凄まじい音がした。
蹴り一発で王竜王の頭が地面へもう一段沈む。
王竜王が体勢を立て直す前に飛び込み、拳を落とす。
一発ごとに岩が跳ね、鱗が砕け、山肌が抉れる。
王竜王の長い首が左右へ振られ、叫びが喉の奥で潰れ、そのたびにさらに殴られる。
王竜王が爪を振るう。
だが、魔虚羅はその内側に潜る。
腹へ拳。
顎へ肘。
さらに肩を掴んで、引き倒す。
巨大な王竜王が、山脈の斜面へ無様に転がる。
その首に魔虚羅が馬乗りになる。
うわあ……
殴る。
殴る。
殴る。
躊躇がない。
容赦もない。
拳が入るたび、王竜王の顔の形が変わる。
鱗が割れ、骨が砕け、血とも熱ともつかないものが飛ぶ。
それでもまだ生きてるのが、王竜王のタフさの証明なんだろうが、今はむしろ処刑時間を伸ばしているだけにしか過ぎない。
白い腕が王竜の首元へ伸びる。
嫌な予感しかしない。
王竜もそれを感じたんだろう。
巨体をよじり、翼を広げようとする。
だが、もう遅い。
魔虚羅の手が、首の付け根に深く食い込んでいた。
そして――王竜の首が引きちぎられた。
王竜の頭部が胴から離れ、巨大な血の弧を描いて宙へ舞う。
胴体は一拍遅れて崩れ、首を失ったまま山肌へ沈んだ。
頭の方は、さらに遠くの岩へぶつかってそこでようやく止まる。
静かになった。
「あ、軽くなった」
さっきまで全身を押し潰していた見えない重さが、嘘のように消えていた。
肩が軽い。
呼吸が楽だ。
膝もちゃんと伸びる。
術者が死んだことで、王竜の魔術が解けたらしい。
魔虚羅は、首を引きちぎったあともしばらく王竜の死体を見下ろしていた。
それから何を思ったのか、片手で王竜王の頭を掴み、もう片方の手で胴体を引きずり始めた。
ずるずる、と山肌の上を王竜王の巨体が引き摺られていく。
絵面がだいぶひどい。
そして、そのまま俺の前まで持ってきてどさりと置いた。
「……あ、『虎葬』に吸収させるためか」
思わず納得した。
気が利くな。
いや、本当にそう表現していいのかは分からない。
だが、少なくとも俺が次にやろうとしていたことを魔虚羅は何も言われずに先回りしていた。
式神がそこまで察するのか。
あるいは、俺の意図が術式越しにそのまま伝わっているのか。
理屈はよく分からない。
分からないが、助かるのは確かだ。
俺は魔虚羅を見上げた。
「改めて、よろしくな!」
そう言って、今度はこっちから迷わず手を伸ばした。
さっきみたいに、様子見のための差し出し方じゃない。
ちゃんと“ありがとう”の後“これからよろしく”の意味を込めて、自分からがしっと握る。
やっぱり、握手向きの手ではない。
骨みたいで、刃みたいで、生き物のぬくもりとは無縁の感触だ。
けど、嫌じゃない。
むしろ、こっちの都合へ無理に寄ってこない感じが好きだ。
魔虚羅は、やっぱり何の反応も返してこなかった。
握り返しもしない。
こっちを見下ろすこともない。
ただ、手を掴まれたまま、ぴたりと止まっている。
……うん。
まあ、そうだよな。
少しだけ気恥ずかしくなって、俺が手を離そうとしたその時だった。
ガコンッ!
「……え?」
なんでそこで回るんだよ。
意味が分からない。
今なんか適応するようなことあったか?
俺が戸惑うより早く、魔虚羅の輪郭がぶれた。
方陣を背負ったまま、巨体が少しずつ影へ溶けていく。
「お、おい、ちょっと待て」
思わずそう言ったが、止まる気配はない。
全身の輪郭そのものが滲んで、墨を水へ落としたみたいにゆっくり黒へ還っていく。
「……な、何に適応したんだ?」
次回から数話はアイシャ編になります。
アイシャ編に関しては、原作のこともありますが、この二次創作の要となる話の一つなので、しっかりとやっていく都合上、投稿間隔が空くかもしれません。
お付き合いいただければ幸いです。
原作の展開を蔑ろにしていると捉えられる恐れのある表現が出ると思うので、批判は受け入れるつもりです。
聞きたいことがあれば、出来る限り答えます。