受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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蛇足編を見て四苦八苦していたらかなり投稿期間が空きました。
アイシャ編です。


八十三話

 

朝、目が覚めてすぐに私は隣を見た。

 

理由なんて考える前に、顔が勝手にそっちへ向く。

まだ少しだけ重たいまぶたを持ち上げて、布団の端、壁際、部屋の隅、荷物の置かれた場所を順番に見る。

 

……いない。

 

そう思ってから少しだけ遅れて、当たり前じゃんと自分に言い聞かせる。

 

お兄ちゃんは、今ここにいない。

 

それは昨日急に決まったことじゃない。

もう何日も前から分かっていることだ。

それでも、朝になるたびに身体が先に探してしまう。

頭では分かっているのに、まだ覚え直せていない。

 

お兄ちゃんが近くにいる時は、起きたらまずお兄ちゃんの気配を探していた。

 

寝息が聞こえる時もあったし、もう起きている時もあった。

私が起きたのに気づくと、振り返って「おはよう、アイシャ」と言ってくれる。

寝ぼけたまま返事をすると、少しだけ笑って、頭を撫でてくれる時もあった。

 

そういう朝が、私の普通だった。

 

今の普通は違う。

 

隣にいるのはお兄ちゃんじゃなくて、お母さんだ。

 

お母さんはもう起きていて、荷物の中身を静かに整えていた。

ひとつひとつに無駄がなくて、音も小さい。

私もそれなりに早く起きたつもりだったのに、お母さんはもっと早い。

 

 

「おはようございます」

 

 

「おはよう、お母さん……今日も早いね」

 

 

「アイシャも十分早いですよ」

 

 

「お母さんには負けるけどね」

 

 

「競争ではございません……よく眠れましたか?」

 

 

「うん。大丈夫。ちゃんと寝たよ」

 

 

嘘だ。

本当は、夜中に一回だけ目が覚めた。

 

怖い夢を見たわけじゃない。

ただ、目が覚めて、近くにお兄ちゃんがいないことを思い出して、しばらく天井を見ていただけだ。

 

お兄ちゃんはいない。

それは事実だ。

 

別に泣くほどじゃない。

お兄ちゃんがいないだけ。

……いないだけって言うと、胸の中で少しだけ何かが押し返してくるけど、この世界からいなくなったわけじゃない。

 

 

「よし……」

 

 

声に出すと、朝がちゃんと始まった気がした。

お兄ちゃんがいない朝には、そういう小さな区切りが必要だ。

 

お兄ちゃんはいつか帰ってくる。

今すぐじゃないだけで、帰ってこないわけじゃない。

帰ってきたら、たぶんいつもの顔で私を見てくれる。

私が怒ったら謝ってくれるし、私が泣いたら困るし、私が抱きついたら受け止めてくれる。

 

私は、その未来を思い浮かべることができる。

だからまだ大丈夫だった。

 

寂しくないわけじゃない。

いないことが平気なわけでもない。

でも、お兄ちゃんが帰ってくる未来は、私の中ではまだちゃんと繋がっている。

糸のように細く見える時もあるけど、切れてはいない。

 

私は布団から出て、手早く身支度をした。

髪を結ぶ時指先が少しもたついたけど、結び目はちゃんと整えた。

お兄ちゃんがいたら、後ろから見て「曲がってるぞ」とか言って直そうとしてくれるかもしれない。

お兄ちゃんはそういう細かいところに気づく。

気づいて、私がむっとする前に「でも、似合ってる」とか言ってくるはず。

 

 

「ふふっ……」

 

 

私は水で顔を洗って、眠気と一緒に余計な考えも流そうとした。

鏡代わりの金属板に映った顔は、別にひどくはない。

ちゃんとアイシャ・グレイラットの顔をしている。

泣き虫には見えない。

 

……たぶん。

 

支度を終え、私は小さな袋を取り出した。

 

お兄ちゃんにもらった葉っぱが入っている袋だ。

お兄ちゃんが前いた世界にも、同じようなものがあったらしく、茶葉というらしい。

この乾いた葉っぱをお湯に浸すと、少し渋くて、でもホッとする飲み物になる。

飲むと体がゆっくり温まって、頭の中のざわざわが静かになる。

 

私はコップ一つ多く並べかけて、ハッとした。

……癖って、なかなか抜けない。

でもまあいいや、お母さんのってことにしよう。

 

水魔術で目の前に水球を出す。

次に火魔術で水球を温める。

指先で温度を確かめながら、ちょうどいいところで止める。

 

水と火を同時に無詠唱で扱うのは、前よりずっと簡単になった。

お兄ちゃんがいたら、きっと褒めてくれる。

私はその想像だけで気分がよくなって、茶葉を摘まんでコップに入れた。

 

そこで、また手が止まる。

 

……この濃さは、お兄ちゃんの分だ。

 

お兄ちゃんは、このくらいの方が落ち着くって言ってくれた。

苦すぎないか聞いたら、少し渋いくらいが目が覚めるからちょうどいいって、真面目な顔で言っていた。

私が得意げに「じゃあ次からこの濃さにするね!」って言ったら、お兄ちゃんはちょっと困った顔で笑って、無理に合わせなくていいとも言っていた。

 

でも、私は無理なんかしてなかった。

 

茶葉を見下ろして、私は少し迷った。

濃いまま淹れてもいい。

けど、その杯を飲んで落ち着くお兄ちゃんはいない。

お兄ちゃんの真似をして飲むのは嫌じゃないけど、朝から苦い顔をしても仕方ない。

 

 

「……今はいらないよね」

 

 

私は茶葉を少し戻した。

自分が飲むには、もう少し薄い方がいい。

お母さんも濃すぎるお茶はあまり好まない。

分かっているのに、最初にお兄ちゃんの分を作ろうとしてしまう。

 

いない人の杯を、勝手に用意しそうになる。

 

変なの。

 

私はお母さんに杯を渡して、自分の分も手に取った。

 

 

「どうぞ、お母さん」

 

 

「ありがとうございます」

 

 

口をつけると、やっぱり少し薄かった。

私にはちょうどいい。

でも、お兄ちゃんに淹れるならもう少し濃い方がいいって思う。

 

そう思っただけで、なぜか口元が緩みそうになった。

 

お兄ちゃんのことを考えると、寂しいのに嬉しい。

 

いないのに、ちゃんといるみたいだから。

 

 

「とても美味しいですね」

 

 

「ありがと」

 

 

私は少しだけ嬉しくなった。

お母さんに褒められるのは、背筋を正してもらうような感じがする。

お兄ちゃんに褒められる時とはまた違う。

 

お兄ちゃんに褒められると、胸の内側がぽかぽかして、つい顔が緩む。

お母さんに褒められると、もっとちゃんとしようと思う。

 

どっちも好きだ。

 

 

 

―――

 

 

 

朝食は宿の食堂で済ませる。

味は普通。

お兄ちゃんが作ってくれた朝ごはんを思い出すと、ちょっとだけ比べてしまう。

焼き加減とか、塩の量とか、食べやすい大きさとか、そういう細かいところが全然違う。

 

でも、それを口に出すのは失礼だから言わない。

 

この数日でルーデウスお兄さんたちのことは、だいたいのことは分かってきた。

 

人は一緒に動いてみると分かる。

食べる時。

歩く時。

休む時。

誰かが困った時。

誰かが傷ついた時。

そこで何をするかで、その人がどんな人か少しずつ見える……ってお兄ちゃんが言っていた。

 

ルイジェルドさんは、ブレイズさんと少し似ている。

 

二人とも口数は多くない。

必要な時に必要なことだけ言う。

無駄に気を引こうとしないし、自分の強さを見せびらかすこともしない。

危ない時には先に動く。

自分が動くべき場所を分かっている人の静けさがある。

 

そういう人は、信頼できる。

 

ルイジェルドさんは、子どもに対して特にまっすぐだ。

私の荷物を、何も言わずに全部持とうとする。

私が平気だと言っても、本当に平気かどうかを見てから頷く。

そういうところは、少しお兄ちゃんに似ている。

スープの湯気の向こうに、一瞬だけお兄ちゃんの顔が浮かんだ気がした。

 

すぐに消えたけど。

 

エリス姉は、分かりやすい人だ。

 

勢いがある人と言ってもいい。

嬉しい時は嬉しい顔をするし、怒った時は怒る。

気に入らないことがあればすぐ言うし、大事な人が傷つけばすぐ前に出る。

そこは、とてもいいところだと思う。

 

ただ、ノコパラとは合わないと思う。

 

ノコパラは口が悪いし、言い方がねじれている。

あの人はたぶん、正しいことを言う時でも、わざわざ相手を怒らせるような言い方をする。

本人はそれが癖になっているのかもしれない。

 

エリス姉は真っ直ぐに受け止めるから、たぶんすぐ噛み合わなくなる。

ノコパラが皮肉を言って、エリス姉が真っ直ぐ怒るところまで、簡単に想像できる。

 

だから、二人を長く近くに置くのは危ない。

 

そしてエリス姉もルイジェルドさんも、我が強い。

 

悪い意味じゃない。

けど、動かしやすいかと聞かれたら、動かしづらい。

力ずくで動かす人たちではない。

納得しないと動かないし。

 

そういう時に必要なのが、ルーデウスお兄さんだ。

 

ルーデウスお兄さんは、エリス姉とルイジェルドさんの手綱をうまく握っている。

手綱という言い方は少し失礼かもしれないけれど、他にちょうどいい言葉が思いつかない。

強く命令しているわけではない。

むしろ、ぱっと見た感じだと振り回されているように見える。

エリス姉に怒られて、ルイジェルドさんに注意されて、困った顔をしていることが多い。

 

でも、肝心なところでは二人ともルーデウスお兄さんを頼る。

 

エリス姉は勢いのまま走ろうとしても、ルーデウスお兄さんが本気で止めると一度は止まる。

ルイジェルドさんも、自分の信念で動く人だけれど、ルーデウスお兄さんの言葉ならちゃんと聞く。

 

これは、私が今すぐ真似できるものではない。

信頼を築いてきた時間の問題だからだ。

一日や二日で作れるものじゃない。

危ない旅をして、何度も助け合ってきたから、今の形になっている。

 

少しだけ羨ましい。

 

私とお兄ちゃんにも、そういう時間はあった。

だから、私たちにも信頼はある。

ただ、今は隣にいないだけだ。

 

私はパンを小さくちぎりすぎていたことに気づいて、まとめて口に入れた。

もそもそして食べづらい。

 

ルーデウスお兄さんは、少し変な人だ。

丁寧なのに、時々目が変な方向へ行く。

けれど、悪い人ではない。

 

 

 

―――

 

 

 

朝食を終える頃には、今日買うものが頭の中でだいたい決まっていた。

食材は多めに買いすぎない。

保存できるものを中心に買う。

 

私は宿の人に市場の混み具合を尋ねた。

相手が答えやすい聞き方をすれば、大人は思ったより色々教えてくれる。

子どもだからと軽く見られることもあるけれど、丁寧に聞けば思いもよらないことまで話してくれる時もある。

 

そういう情報は役に立つ。

 

宿を出る頃には、空はすっかり明るくなっていた。

 

一緒に行くのは、私とルーデウスお兄さんとエリス姉。

少し離れたところには、ルイジェルドさんがいる。

 

エリス姉は、ルーデウスお兄さんのすぐ隣に立っている。

 

近い。

本当に近い。

 

袖が触れそうな距離どころか、少し動いたら肩が当たりそうだった。

ルーデウスお兄さんが一歩ずれると、エリス姉も当然のように一歩ずれる。

ルーデウスお兄さんが振り返れば、エリス姉も同じ方向を見る。

何か危ないものがあるわけでもないのに、ルーデウスお兄さんを中心にして動いているみたいだった。

 

ルーデウスお兄さんも、嫌がってはいない。

 

むしろ、時々だらしない顔をしている。

 

その顔を見たエリス姉が拳で頭を小突いて、ルーデウスお兄さんが変な声を出す。

 

周りから見たお兄ちゃんと私って、こう見えてたのかな。

いや……もっと分かりやすくべたべたしていた気がする。

 

私はお兄ちゃんの袖を掴むだけじゃ足りなくて、手を握っていたし、眠くなると寄りかかっていたし、人混みでは後ろから服を掴んでいた。

お兄ちゃんの背中に顔をくっつけていた時もある。

お兄ちゃんは「歩きにくい」と言いながら、歩幅を私に合わせてくれた。

お兄ちゃんは困った顔をするけど、振りほどいたりしない。

そういう人だから。

 

市場の入り口に差しかかったところで、ルーデウスお兄さんがそわそわした様子でこちらを見た。

 

 

「アイシャ、今日は何を作るんですか?」

 

 

声が少し弾んでいる。

私は思わず口元を緩めた。

ルーデウスお兄さんは、私の作る料理にすっかり胃袋を掴まれている。

正確には、ルーデウスお兄さんが喜んでいるのは私の料理であり、お兄ちゃんから受け継いだ料理でもある。

 

私の手で作っているけど、味の奥にはお兄ちゃんがいる。

そう思うと、私だけじゃなくてお兄ちゃんまで褒められているみたいで、つい胸を張りたくなる。

 

 

「今日はね、肉じゃがにするつもり」

 

 

ルーデウスお兄さんの目が、分かりやすく輝いた。

 

 

「肉じゃがですか……いいですね。まさにお袋の味。家庭料理の王道」

 

 

「おふくろ……つまり、お母さんの味ってこと?」

 

 

「ええと、そういう意味もありますけど、必ずしも実の母親が作る味というわけではなくてですね。心の故郷といいますか、胃袋に帰省本能が芽生える味といいますか……」

 

 

「アイシャが作るんだから、アイシャの味でしょ?」

 

 

あまりにもまっすぐな言い方だった。

ルーデウスお兄さんは一瞬固まって、それから困ったように笑った。

 

 

「それは、まあ、そうですね。アイシャの味です」

 

 

「ならそう言えばいいじゃない!」

 

 

エリス姉がばっさり切る。

 

私は少し笑ってしまった。

 

ルーデウスお兄さんの褒め方は、いつもよく分からない。

お袋の味とか、胃袋が帰るとか、味の宝石箱とか。

料理を褒めているはずなのに、言葉だけ聞くと別の話に聞こえる。

 

でも、喜んでくれていることは分かる。

 

本当に楽しみにしてる顔だ。

 

食べる前からそんな顔をされると、作る側としては嬉しい。

失敗できないなと思うけど、嫌な緊張ではない。

ちゃんと美味しくしたい。

お兄ちゃんに教わった味をできるだけ上手に出したい。

 

そういう前向きな気持ち。

 

 

「ねえ、肉じゃがってことは、肉も使うのよね!」

 

 

エリス姉が急に身を乗り出した。

肉という言葉に反応するのが早い。

 

 

「そうだけど、あんまり高いのはダメだよ?」

 

 

「分かってるわよ! ただ量は多めがいいってだけよ!」

 

 

「りょーかい。エリス姉の器には肉を多めに入れるね」

 

 

「分かってるじゃない!」

 

 

そう言うなり、エリス姉は私の頭をわしゃわしゃ撫でた。

 

結構強い。

髪が少し乱れる。

 

撫でるというより、可愛がっているという感じだ。

力いっぱいではないけど、遠慮もあまりない。

お母さんの整った手つきとは全然違う。

お兄ちゃんの、少し確認するみたいに優しく触れる手とも違う。

 

でも、嫌じゃない。

むしろ好きだ。

 

 

「えへへ……エリス姉、髪が乱れるよ」

 

 

「あとで直せばいいじゃない」

 

 

「直すのは私なんだけど」

 

 

「なら私が直すわ!」

 

 

「エリス姉がやったらもっと乱れそう」

 

 

「失礼ね!」

 

 

エリス姉はむっとしたけれど、手はまだ私の頭に置かれていた。

 

エリス姉の撫で方は乱暴だけど、その分ちゃんと好意があると分かる。

褒めてくれている。

可愛がってくれている。

だから、ちゃんと嬉しくなる。

 

でも、やっぱりお兄ちゃんの手が恋しい。

お兄ちゃんの手は、触れる前に少しだけ迷う。

それから、私が嫌じゃないって分かると、ゆっくり撫でてくれる。

 

私はあの手が好きだ。

帰ってきたら、たっくさん撫でてもらおう。

私がちゃんと待っていた分いっぱい。

 

そう決めると、少しだけ足取りが軽くなった。

 

露店に着いて、私は芋を見た。

形は少し違うけれど、煮ればほくほくする。

肉じゃがに使うなら、煮崩れしすぎないものがいい。

表面に傷が少なく、重みがあって、芽が出ていないものを選ぶ。

 

手に取る。

重さを見る。

指で軽く押して硬さを見る。

匂いを嗅ぐ。

悪くない。

 

値段は、相場より少し高い。

市場の入口に近い店だからかな?

旅人向けの値段なのかもしれない。

けれど質はいい。

遠くまで戻る手間と、今日の予定を考えると、少し高くてもここで買うのは悪くない。

 

そう判断してから、私はもう一度芋を手のひらで転がした。

 

ただ、言われた値段のまま払うのは違う。

質がいいのは分かる。

値段が張る理由も分かる。

けど、相場より少し高いのも事実だ。

 

こういう時に、何もせずにただ買うとノコパラが鼻で笑う。

 

ノコパラなら、ここですぐ返事をせず、相手が少し不安になるまで黙る。

 

ただ、ノコパラのやり方は少し刺々しい。

私はあそこまで嫌な感じにはしたくない。

お兄ちゃんだったら、きっと相手の品をちゃんと褒めてから、無理のないところを探す。

 

だから私はいつも二人のやり方を借りることにしている。

私は芋を両手で持って、店主のおじさんを見上げた。

 

 

「おじさん、このお芋すごくいいですね。重さもありますし、煮ても美味しそうです」

 

 

まず褒める。

 

これは本当のことだ。

嘘をつく必要はない。

いいところをちゃんと見つけて言えば、相手も嫌な気分にはなりにくい。

 

店主のおじさんは、少し得意そうに鼻を鳴らした。

 

 

「お、嬢ちゃん、分かるのかい?」

 

 

「はい。煮物に使いたいんです。形が残る方がいいので、こういうのを探していました」

 

 

「へえ。小さいのに、よく見てるな」

 

 

よし。

 

話を聞いてくれる顔になった。

私はそこで芋を見下ろし、わざと迷うように眉を下げた。

 

 

「でも……入口の方のお店だから、ちょっとだけ高いんですね」

 

 

「おっと、そこまで分かるのか」

 

 

「はい。さっき宿の人に、市場の奥の方が少し安いって聞きました。でも、今日は荷物もありますし、戻る時間も考えたら、ここで買いたいんです」

 

 

私がそう言うと、店主のおじさんは腕を組んだ。

 

顔は怒っていない。

けれど、すぐに頷く気もなさそうだった。

商売をする人の顔だ。

こちらが分かっていて言っていることを理解した上で、それでも簡単には譲らないという顔。

 

 

「うーん、嬢ちゃん。見る目があるのは分かったが、こっちもいい芋を仕入れてるんだ。あんまり下げると、こっちが困っちまう」

 

 

「はい。だから、いっぱい下げてほしいわけじゃないんです」

 

 

私はすぐには引かない。

でも、押しすぎもしない。

ここで強く出すぎると、せっかく褒めた分が消えてしまう。

おじさんの品物がいいことは本当だし、ここで買うつもりなのも本当。

だから、相手が負けた気分にならないところを探す。

 

お兄ちゃんだったら、たぶんそうする。

 

ノコパラなら、もっと雑に揺さぶると思う。

高いな、他所で買うか、とか言って、本当に背を向けるかもしれない。

あれはあれで効果はある。

けど、私が同じことをやると、ちょっと嫌な子どもになってしまう。

 

私は、嫌な子どもにはなりたくない。

できれば、可愛い子どもでいたい。

 

だって、その方が通る話もある。

私は自分の見た目が、大人からどう見えるかを分かっている。

小さくて、まだ幼くて、ちゃんと礼儀正しくしていれば、しっかりした子だと思われる。

困った顔をすれば、助けてあげたくなる人もいる。

笑えば、相手の警戒が少し緩む。

 

それを使うのは、悪いことじゃないと思う。

 

私は芋を両手で抱えたまま、一歩だけ店台に近づいた。

 

そして、店主のおじさんを下から見上げる。

目はまっすぐ。

声は少しだけやわらかく。

 

 

「おじさんのお芋で、美味しいご飯を作りたいんです。だからほんの少しだけ、値下げできませんか?」

 

 

店主のおじさんは、わざとらしく大きく息を吐いた。

 

 

「仕方ないな……嬢ちゃんがそこまで言うなら、値下げしてやる」

 

 

「っ! 本当ですか?」

 

 

「ああ。ただし、美味しく作ってくれよ」

 

 

「おじさん! ありがとうございます!」

 

 

私はぱっと笑って見せた。

大げさなくらい喜んでみせる。

これは大事だ。

 

値下げしてもらった後に、「当然でしょ」みたいな顔をすると、相手は面白くない。

けど、子供の私が嬉しそうにすれば、相手も悪い気はしない。

おじさんは少し損をしたかもしれないけれど、可愛い子どもに喜ばれたという気分が残る。

 

私は選んだ芋を布袋に入れてもらい、代金を渡した。

 

店主のおじさんは袋を私に差し出しながら、にやっと笑った。

 

 

「嬢ちゃん、将来はきっといい奥さんになるな」

 

 

その言葉が私の耳に入ってころんと転がった。

 

――いい奥さん。

 

その丸い言葉は、転がったと思ったらすぐに走り出す。

行き先なんて、最初から決まっている。

 

お兄ちゃんのところだ。

 

……いい奥さん。

お兄ちゃんの、奥さん。

 

私が食材を選んで、値段を見て、料理を作って、お兄ちゃんが帰ってくるのを待つ。

お兄ちゃんが疲れて帰ってきたら、温かい肉じゃがを出す。

味は少し濃いめ。

芋は煮崩れすぎないけれど、少しだけ角が崩れて、煮汁が絡むくらい。

お肉は柔らかくして、玉ねぎは甘くなるまで煮る。

 

お兄ちゃんは一口食べて、きっと少し目を細める。

それから、いつもの落ち着いた声で言う。

 

『美味しいな、アイシャ』

 

……だめだ。

 

想像しただけで、頬が熱くなる。

 

 

「ど、どうも」

 

 

私は変な返事をしてしまった。

 

店主のおじさんは笑っている。

からかわれたのだと分かるけど、嫌な感じではない。

悪意がないから、むっとする理由もない。

ただ、胸の中がふわふわして落ち着かない。

 

そんな気分のまま、私は露店を後にした。

 

 

 

―――

 

 

 

夜。

 

私はベッドの中で目を開けていた。

 

お母さんはもう寝てる。

お母さんは寝姿まできちんとしている。

まるで誰かに見られることを前提にしているみたいだ。

 

私は布団の中で、少しだけ体を丸めた。

 

夜になると、部屋が少し広く感じる。

 

お母さんがいるから、別にお兄ちゃんがいたころより狭くなったわけじゃない。

むしろ、理屈で言えば今の方が狭いはずだ。

お母さんはお兄ちゃんより背が高いし、荷物だってある。

お兄ちゃんは荷物の多くを影に入れていたから、部屋の中に置くものは少なかった。

だから、理屈だけを見れば、今の方が部屋は狭い。

 

自分でも馬鹿らしいと思う。

 

お兄ちゃんがいないと、世界が少しつまらなく感じてしまうのだ。

 

楽しくないわけではない。

 

今日だって、買い物は楽しかった。

ルーデウスお兄さんは肉じゃがというだけでそわそわしていたし、エリス姉は肉を多めにしてほしいって分かりやすくお願いしてきた。

店主のおじさんにいい奥さんになると言われて、変な返事をしてしまった。

思い出すと、まだ少し頬が熱くなる。

 

けれど、その楽しさの最後には、いつも同じものがくっついてくる。

 

お兄ちゃんに話したい。

楽しかったよって言いたい。

上手くできたよって言いたい。

いい奥さんになるって言われたんだよって。

 

……最後のは、言えるか分からないけど。

 

今日あった出来事は、最後に必ずお兄ちゃんへ向かってしまう。

楽しかったことを、楽しかっただけで終わらせられない。

 

それを聞いたお兄ちゃんが、どんな顔をするのか見たい。

 

困ったように笑うのか。

偉かったなって褒めてくれるのか。

値下げの仕方を聞いて少し感心してくれるのか。

 

でも、今お兄ちゃんはいない。

話したい相手がすぐ隣にいない。

 

夜はこういうことを考えやすい。

 

昼間は手が動いている。

必要なものを考えて、先に動く。

そうしていると、頭の中が忙しくなれる。

寂しさが入り込む隙間はあっても、座り込む場所まではない。

 

でも、夜は違う。

 

やることが少なくなる。

お母さんが眠って、部屋が静かになって、外の音も遠くなると、寂しさが私の隣に座る。

 

邪魔はしてこない。

泣かせようとしてくるわけでもない。

ただそこにいる。

 

だから私は、毎晩のように心の中の箱を開ける。

お兄ちゃんにもらった特別が沢山入っている箱。

 

その箱は、誰にも見えない。

 

お母さんにも、ルーデウスお兄さんにも、エリス姉にも、お兄ちゃん本人にも見えない。

私の中にだけある、大事な箱だ。

中には、お兄ちゃんがくれたものが入っている。

 

言葉。

手の温かさ。

料理の匂い。

頭を撫でられた時の感触。

私を見つけてくれた目。

私が頑張った時に、ちゃんと頑張ったと分かってくれた声。

形のあるものも、形のないものも、全部そこに入っている。

寂しい夜には、決まってその箱を開ける。

 

 

 

―――

 

 

 

私は小さなメイド服のスカートの端を、ぎゅっと握りしめた。

 

ほんの数日前まで、私とノルン姉は、真っ暗な夢の中にいた。

 

体が熱くて、頭がふわふわして、喉の奥がからからで、目を開けているのか閉じているのかもよく分からないくらい苦しかった。

途中からは、誰かが冷たい布を額に乗せてくれたり、お母さんの声がしたり、お父さんの慌てた声がしたりしていた気がする。

 

最後の方は、なぜかぐっすり眠れたけど……

 

今の私は、もうすっかり元気だ。

お熱も下がった。

体も軽い。

起き上がってもふらふらしないし、歩いても足がもつれない。

 

それなのに、胸の中だけは、まだ熱が残ってるぐらい苦しかった。

 

私のせいで、お兄ちゃんやお父さんたちが、私の兄であるルーデウスさんの十歳の誕生日パーティーに行けなくなってしまったからだ。

 

ルーデウスさん。

血が繋がっている、本当の兄。

 

そのルーデウスさんは、お兄ちゃんにとって大切なお友達だと聞いてる。

 

本当ならロアの街まで行って、みんなでお祝いするはずだった。

 

大きなお城で美味しいものを食べて、綺麗な服を着た人たちの中でルーデウスさんをお祝いする。

お兄ちゃんもきっと、お友達と久しぶりに会ってお話をしたりしたかったはずだ。

 

それを、私が壊してしまった。

私が熱を出したから。

私がちゃんとしていなかったから。

 

私が元気になればなるほど、申し訳ない気持ちが溜まっていく。

苦しかった時は、考える余裕もなかった。

けれど、頭がはっきりするようになると、自分が何を邪魔したのかが分かってしまった。

 

お兄ちゃんは天井を見上げてぼーっとしていた。

 

たぶん考え事をしている。

お兄ちゃんは時々、こういう顔をする。

一人で笑ったり、難しい顔をしたりする。

 

まるで、誰かと会話しているように。

 

 

「……お兄ちゃん」

 

 

私は、そっとお兄ちゃんの服の端を引っ張った。

お兄ちゃんは「ん?」と短く声を漏らして、こっちに振り返ろうとした。

 

その前に、私は頭をぺこりと下げた。

 

 

「お熱を出しちゃって……ごめんなさいっ!」

 

 

言えた。

ちゃんと言えた。

 

でも、顔は上げられなかった。

 

床の木目ばかりが見える。

磨かれているけれど、小さな傷があって、ところどころ色が違う。

そういうどうでもいいところばかり目に入るのは、たぶん怖いからだ。

 

あの優しい目が、私を見てくれなくなったらどうしよう。

お兄ちゃんの足を引っ張ってしまった私を、お兄ちゃんが本当はどう思っているのか分からなくて怖かった。

誰かの気持ちなんて普段は考えたりしないのに、お兄ちゃんの気持ちだけはどうしても気になってしまう。

気になるだけで、何かわかる訳でもないのに……

 

私は顔を上げられなかった。

スカートの端を握っていた指に、また力が入る。

すると、お兄ちゃんがふっと息を吐いて笑った。

 

 

「なんで謝るんだ?」

 

 

私は、そろそろと顔を上げた。

お兄ちゃんは笑っていた。

私が変なことを言った時にする顔。

少しだけ眉を下げて、だけど目はやわらかくて、私を責めるつもりなんて全然ない顔。

その顔を見たら、安心してしまいそうになった。

 

でも、安心していいのか分からなくて、私は唇をきゅっと結んだ。

 

 

「だって……お兄ちゃん、ルーデウスさんと約束してたんでしょ? でも、私のせいで行けなくなっちゃったじゃん……」

 

 

言いながら声が小さくなっていく。

 

ちゃんと言いたいのに、言葉が喉のところで潰れてしまう。

お兄ちゃんに嫌われたくない気持ちと、ちゃんと謝らなきゃいけない気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざる。

 

 

「大丈夫。子供がそんなこと気にしなくていいんだ。俺が行けなかったのは、俺が自分で決めたことだしな。アイシャを置いて、お祭り騒ぎになんて行けるわけないだろ?」

 

 

「でも……」

 

 

「でもじゃない。熱を出したのは、アイシャが悪いからじゃない。具合が悪い時は、ちゃんと休む。そっちの方が大事だ」

 

 

「でも、お兄ちゃんは、行きたかったんでしょ?」

 

 

聞いてしまった。

答えが怖いのに。

 

 

「まあ、会えるなら会いたかったけどな」

 

 

胸がちくっとした。

やっぱり、やっぱり行きたかったんだ。

 

そう思った瞬間、また謝ろうとしたけど、お兄ちゃんは私が口を開くより早く続けた。

 

 

「……けど、それはアイシャを置いてまで行きたいって意味じゃない。そこを間違えるなよ?」

 

 

「……お兄ちゃん」

 

 

「俺にとっては、熱を出してるアイシャのそばにいる方が大事だったから残った。それだけだ」

 

 

それだけと、お兄ちゃんは簡単に言う。

でも、私にとっては全然簡単じゃなかった。

 

だって、お兄ちゃんはまた私を選んでくれた。

 

ルーデウスさんとの約束より、お祭りより、綺麗な会場より、美味しいご飯より、友達と会うことより、私のそばにいることを選んでくれた。

 

嬉しい。

すごく嬉しい。

でも、その嬉しさが、また申し訳なさと一緒に混ざって胸の中でぐるぐるした。

 

この気持ちを、どうしたらいいんだろう。

そう思って、また下を向きそうになった時だった。

 

お兄ちゃんが、すっと私の前に屈んだ。

そして、私の顔をじっと見つめた。

 

 

「アイシャ」

 

 

「……なに?」

 

 

「また変な顔してる」

 

 

「変な顔じゃないもん」

 

 

「してるよ。今にももう一回謝りそうな顔だ」

 

 

言い当てられて、私はドキッとした。

 

どうして分かるんだろう。

 

お兄ちゃんは、私の顔をよく見る。

言葉にしていないことまで、たまに当ててくる。

嬉しい時も、眠い時も、我慢している時も、甘えたい時も、私が自分で言うより先に気づくことがある。

 

それは嬉しいけど、こういう時はちょっと困る。

 

お兄ちゃんは私の前に屈んだまま、ほんの少しだけ首を傾けた。

目の高さが近くなる。

それだけで、さっきまで床ばかり見ていた私の視界に、お兄ちゃんの顔がいっぱい入ってきた。

 

 

「アイシャ」

 

 

「……うん」

 

 

「子供が謝った後にはな、することがあるんだ」

 

 

「すること……?」

 

 

私が聞き返すと、お兄ちゃんは妙に真面目な顔をした。

その顔が本当に真面目だったから、私は思わず背筋を伸ばしかけた。

 

何だろう。

休むこと?

ご飯をちゃんと食べること?

お母さんに心配をかけないこと?

 

そう思っていたら、お兄ちゃんの両手が私の顔へ伸びてきた。

 

 

「ああ、それはな……これだ!」

 

 

「……あぇ?」

 

 

人差し指が、私の口の端に当たる。

 

そして「むぎゅー」っと左右に引っ張り上げる。

 

 

「んむっ……!?」

 

 

左右に引っ張られた。

 

痛くはないけど、急に口の端を持ち上げられて、顔が変な形になる。

目も少し丸くなったと思う。

何をされているのか分からなくて、私はお兄ちゃんの顔を見たまま固まってしまった。

 

お兄ちゃんは、そんな私の顔を見て、満足そうに頷いた。

 

 

「アイシャの笑顔は世界一可愛いからな。その顔を見せてくれたら俺は何でも許せるよ」

 

 

「……む、ぅ……」

 

 

顔を引っ張られているせいで、ちゃんと言い返せない。

変な顔にされているはずなのに、お兄ちゃんの目がすごく優しかったから、怒る気にもなれなかった。

 

むしろ、なんだかおかしくなってきた。

 

私はお兄ちゃんの指に口の端を持ち上げられたまま、ふっと息が漏れるように笑ってしまった。

最初は本当に小さな笑いだった。

けど、一度笑いが出ると、胸の中でぐるぐるしていたものがほどけていく気がした。

 

お兄ちゃんは、それを見てまた頷く。

 

 

「そう。その顔だ」

 

 

「……ん、んむぅ」

 

 

「俺はアイシャに悪くもないことで謝られるよりも、笑ってもらう方が嬉しいな」

 

 

そう言われると、何も言えなくなる。

 

だって、お兄ちゃんが「笑って」って言うなら、私はいつだって笑ってたい。

お兄ちゃんの前で泣いてもいいって分かっている。

お兄ちゃんの前なら沢山甘えてもいいって、最近は少しずつ分かってきた。

でも、それでもお兄ちゃんが私の笑った顔を世界で一番可愛いと言ってくれるなら、私は笑っていたい。

 

私はお兄ちゃんが好きだと言ってくれる私でいたい。

 

私は口の端を引っ張られたまま、小さく頷いた。

 

 

「……ん。わかった!」

 

 

ようやくそれだけ言うと、お兄ちゃんは指を離してくれた。

口の端が少しむずむずする。

私は自分の頬に手を当てて、まだ変な顔になっていないか確かめた。

 

でも、お兄ちゃんがまだ私を見ているから、私はすぐに手を下ろして今度は自分で笑ってみせた。

 

泣きそうな顔じゃなくて。

謝りたい顔でもなくて。

お兄ちゃんが好きだって言ってくれる、笑った顔。

 

ちゃんとできているか分からなかったけど、お兄ちゃんは私の顔を見ると、満足そうに頷いた。

 

 

「うん。やっぱり、アイシャは笑ってる方がいい」

 

 

「……ほんと?」

 

 

「ああ。可愛いよ」

 

 

また言った。

 

お兄ちゃんは、そういうことをすぐ言う。

私がどきっとするようなことを、当たり前に言う。

それなのに、言った本人はちっとも悪いことをした顔をしていない。

むしろ、本当のことを言っただけだ、みたいな顔をしている。

 

だから私は、どう返せばいいのか分からなくなる。

 

怒るのは違う。

嫌じゃないから。

でも、平気なふりをするのも難しい。

顔が熱くなるから。

嬉しすぎるから。

 

 

「お兄ちゃん、そういうのを急に言うのはよくないよ」

 

 

「そうか?」

 

 

「そうだよ! びっくりするんだもん」

 

 

「じゃあ、先に言えばいいのか? 今から可愛いって言うぞーって」

 

 

「それも変だよ!」

 

 

私が思わず声を上げると、お兄ちゃんはくすっと笑った。

 

その笑い方を見たら、私の中でぐちゃぐちゃしていたものが少しだけほどけた。

さっきまでぎゅっと固まっていたものが、お兄ちゃんの指でほっぺたを引っ張られた時から、少しずつ柔らかくなっていた。

 

お兄ちゃんは、私の頭にまた手を置いた。

 

 

「よし。いい子だ」

 

 

「……えへへ」

 

 

お兄ちゃんになでなでされると、どうしても口元が緩んでしまう。

 

私は、お兄ちゃんの手に合わせて頭を傾けた。

もっと撫でやすいように。

そうしたら、お兄ちゃんは少しだけ驚いた顔をしたけれど、手は止めなかった。

 

その時、ふとさっきお兄ちゃんが言った言葉が頭に残っていることに気づいた。

 

お祭り。

綺麗な会場。

美味しいご飯。

ルーデウスさんの誕生日。

そして、たぶんそこにいる、綺麗な服を着た人たち。

 

私はぽつりと聞いた。

 

 

「ねえ、お兄ちゃん」

 

 

「ん?」

 

 

「お嬢様って、どんな感じなの?」

 

 

「なんだ? 気になるか?」

 

 

「……うん」

 

 

「そうだな……お嬢様っていうのは、家の中で大事に育てられて、綺麗な服を着て、礼儀作法を習って、周りから丁寧に扱われる女の子、って感じかな」

 

 

「丁寧に?」

 

 

「ああ。椅子を引いてもらったり、荷物を持ってもらったり、お茶を淹れてもらったりする偉い人だな」

 

 

「お茶を淹れてもらう、偉い人……」

 

 

私は自分の服を見下ろした。

 

厚い布で作られた、小さなメイド服。

汚れても大丈夫なように、動きやすいように作られた服。

お母さんが丁寧に洗ってくれるから、いつも清潔できちんとしている。

 

私はこの服が好きだ。

この服を着ていると、ちゃんと役に立てる気がする。

お母さんみたいにはまだできないけど、お兄ちゃんのために何かできる子になれる気がする。

お茶を淹れたり、荷物を整えたり、服の汚れに気づいたり、そういう小さいことを一つずつできるようになるのが嬉しい。

 

私は、お兄ちゃんの役に立てるメイドさんでいたい。

 

でも、ふと「お嬢様」という響きに、ほんの少しだけ憧れのような、不思議な感情が芽生えた。

 

お兄ちゃんは、私の顔を見て楽しそうに言った。

 

 

「なんだ、アイシャもお嬢様になってみたいのか?」

 

 

「なれるなら、なりたいけど……私はメイドだし、お嬢様にはなれないでしょ?」

 

 

私は軽い気持ちで言った。

 

お母さんから、身分というものは教わっている。

私たちは仕える側。

お嬢様は仕えられる側。

その線は、私が頑張ったからといって飛び越えられるものじゃない。

 

だから、本気でお嬢様になれると思って言ったわけじゃない。

 

ただ、お兄ちゃんにお嬢様のように扱ってもらう自分を、想像したかっただけ。

それだけだ。

 

お兄ちゃんは、私の服と顔を交互に見て、それからゆっくり言った。

 

 

「まあ、貴族っていうのは生まれでなるもんだからな……アイシャがいくら賢くても、こればかりは努力でどうにかするのは難しいかもしれない」

 

 

「うん」

 

 

それは分かっている。

 

分かっているから、悲しくはない。

少しだけ胸の中くしゅんとしたけれど、それは本当に少しだけだった。

 

でも、お兄ちゃんはそこで言葉を止めなかった。

 

 

「だが、そうだな……」

 

 

「……?」

 

 

お兄ちゃんは少しだけ黙って、何かを考えるように視線を落とした。

 

その沈黙は長くなかったはずなのに、私には少しだけ長く感じた。

お兄ちゃんが黙ると、お部屋の中が急に静かになる。

私はなんだか心細くなって、お兄ちゃんの服の裾をぎゅっと握った。

 

どこかに行っちゃわないように。

今だけは、ちゃんとここにいてほしかったから。

 

次に沈黙を破ったのは、お兄ちゃんのわざとらしいくらいに芝居がかった声だった。

 

 

「こほん……おや? これは失礼しました。その素敵なドレスをお召しの方は、もしやどこかの国の王女様ですか?」

 

 

「……え?」

 

 

お兄ちゃんが、急に仰々しく腰を折って礼をした。

 

私は驚いて、思わず自分の服を見下ろした。

 

 

「お、お兄ちゃん? 私、いつものメイド服しか着てないよ?」

 

 

厚い布の、動きやすい服。

お母さんが洗ってくれた、私の大好きなメイド服。

どこを見ても、きらきらの宝石なんてついていない。

ふわふわのレースもない。

汚してはいけないような、特別なドレスじゃない。

 

でも、お兄ちゃんは首を横に振った。

 

 

「いや、俺の目には、世界でいちばん可愛いドレスに見えるな。キラキラの宝石がついていて、レースがふわふわしていて……ああ、眩しすぎて直視できないくらいだ」

 

 

「そんなに?」

 

 

「そんなに、そんなに」

 

 

お兄ちゃんは大げさに目元へと手をかざした。

まるで本当に私が眩しくて見られないみたいに。

 

その仕草がおかしくて、私は小さく笑ってしまった。

 

からかわれている。

絶対にからかわれている。

 

でも、嫌じゃなかった。

 

 

「お兄ちゃん、変だよ」

 

 

「変じゃない。俺は今、王女様を前にして緊張しているだけだ」

 

 

「王女様って、私?」

 

 

「他にいるか?」

 

 

そう言われて、私は何もないお部屋の中を見回した。

ここには、本物のお嬢様なんていない。

私とお兄ちゃんだけ。

 

お兄ちゃんは瞳の奥に悪戯っぽい光を宿したまま、私に右手を差し出した。

 

 

「王女様。もしよろしければ、この不束な私と一曲踊っていただけませんか?」

 

 

「……私、踊りなんて知らないよ? お母さんから作法とかは教わったけど、ダンスなんて踊れないもん」

 

 

本当に知らない。

お母さんから教わったのは、お辞儀の仕方とか、物を渡す時の手の形とか、歩く時にばたばたしないこととか、そういうものだ。

くるくる回ったり、音楽に合わせて足を動かしたりすることとは、全く別のことだと思う。

 

それに、失敗したらどうしよう。

お兄ちゃんの足を踏んだらどうしよう。

変な動きになって、お姫様どころか、ただの変な子になったらどうしよう。

 

そんな気持ちが出てきて私が後ろに下がりかけると、お兄ちゃんは軽く笑った。

 

 

「大丈夫。俺だって踊りなんて知らない」

 

 

「えっ、知らないの?」

 

 

「ああ、全く知らない」

 

 

「じゃあ、だめじゃん」

 

 

「だめじゃない。音に合わせて体を揺らすだけでいいんだよ。雰囲気を楽しめば、それで立派な舞踏会だ」

 

 

「雰囲気を……楽しむ……」

 

 

「そう。今日は俺とアイシャだけの舞踏会だからな。楽しみ方は俺たちで作ればいい」

 

 

そんなのでいいのかな。

 

でも、お兄ちゃんは堂々としていた。

踊りを知らないと言っているのに、私に手を差し出している。

 

お兄ちゃんの手。

 

いつも私の頭を撫でてくれる手。

大きくて、あたたかい手。

 

私は迷った。

でも、迷ったのはほんの少しだけだった。

結局私はその手に自分の手を乗せた。

 

お兄ちゃんの手の中に、私の小さな手がすっぽり収まる。

それだけで、不思議な力が湧いてくるような気がした。

 

 

「お兄ちゃん……ほんとに、大丈夫?」

 

 

「ああ。俺に任せろ」

 

 

お兄ちゃんは立ち上がった。

 

私の左手をそっと持ち上げて、自分の肩に乗せる。

少し高い。

背伸びをするほどではないけれど、いつもより近くに立たないとお兄ちゃんの肩に手が届かない。

その距離が少し恥ずかしくて、でも嬉しかった。

 

次に、お兄ちゃんの大きな右手が私の腰に優しく添えられた。

 

びくっとした。

 

腰に触れられるのは、頭を撫でられるのとは違う。

 

 

「すまん、ビックリしたか?」

 

 

「う、うん」

 

 

「嫌だったらすぐ言えよ」

 

 

「別に、嫌じゃない……よ?」

 

 

「そっか……よかった」

 

 

お兄ちゃんはそう言って、少し安心した顔をした。

 

そして、小さく鼻歌を口ずさみ始めた。

それは、不思議な音だった。

 

静かで、どこか懐かしくて、足がふわふわと軽くなるようなメロディ。

聞き慣れないのに、なぜか耳に残る。

お兄ちゃんがぼんやりしてる時に歌っている、あの不思議な歌の一つかもしれない。

 

 

「さあ、アイシャ。まずは右だ」

 

 

「右……?」

 

 

「そう。俺が少し動くから、アイシャは合わせるだけでいい。次は左。ほら、焦らなくていい」

 

 

「う、うん」

 

 

最初の一歩は、すごくぎこちなかった。

 

足をどこに置けばいいか分からない。

お兄ちゃんの靴を踏みそうになる。

手の位置も、腰に添えられた手の感触も、全部気になって、頭の中が忙しかった。

 

 

「次は、少し回るぞ」

 

 

「ま、待って、お兄ちゃん」

 

 

「大丈夫。ゆっくりでいい……俺たちならできるさ」

 

 

お兄ちゃんが少しだけ私の手を持ち上げる。

私はそれに合わせて、くるりと体を動かした。

スカートが少しだけ揺れる。

メイド服なのに、ほんの一瞬本当にドレスみたいに見えた気がした。

 

最初は怖かった。

でも、不思議なことが起きた。

私の頭の中に「正解」の形が浮かんできたのだ。

 

お兄ちゃんが右に動くなら、私はこっち。

お兄ちゃんの手が上がるなら、私は回る。

足を置く場所。

体を傾ける角度。

お兄ちゃんの呼吸に合わせるタイミング。

それが、少しずつ見えてくる。

 

ああ、なんだ。

 

これも、いつもと同じなんだ。

 

一番効率のいい動き。

一番きれいな軌道。

相手の動きとぶつからない場所。

 

そういう「正解」がある。

そして、「正解」の動きをすれば、こんなの全然難しくない。

 

それが分かると、急に楽しくなってきた。

 

 

「お兄ちゃん、次は?」

 

 

「次は……右に一歩。そう、そのまま回る」

 

 

「こう?」

 

 

「そう。上手だ。じゃあ、今度は俺の腕の下をくぐってみるか」

 

 

「うん!」

 

 

言い終わる前に、私は体を小さく回した。

お兄ちゃんの手の下をくぐって、もう一度向き合う。

そしてまた、手を取り合う。

 

お兄ちゃんは驚いた顔をしていた。

 

 

「……すごいな、アイシャ。本当に初めてか?」

 

 

「えへへ……お兄ちゃんの教え方が上手だからだよ!」

 

 

本当は、お兄ちゃんの教え方だけじゃないと思う。

でも、そう言いたかった。

お兄ちゃんが私を驚いた顔で見てくれるのが嬉しかったから。

お兄ちゃんが、すごいって思ってくれているのが分かったから。

 

お兄ちゃんの鼻歌に合わせて、私たちは踊り続けた。

 

私はもう、足元なんて見なかった。

 

お兄ちゃんの目だけを見る。

お兄ちゃんの呼吸だけを感じる。

手のひらの温かさ。

腰に添えられた手の優しさ。

鼻歌のゆっくりしたリズム。

全部が一つになって、私の体が勝手に動いていく。

 

部屋は広くない。

床も舞踏会の会場みたいにぴかぴかじゃないと思う。

壁にはいつもの家具があって、窓の外には見慣れた景色がある。

それなのに、私にはその部屋が広い広いお城のように感じられた。

 

今この世界には、私とお兄ちゃんしかいない。

 

病気で苦しかったことも。

お兄ちゃんがパーティーに行けなかったことへの申し訳なさも。

謝りたくて胸がぎゅっとしていたことも。

全部、このダンスの中に溶けていく。

 

お兄ちゃんが見てくれている。

お兄ちゃんが私を王女様って呼んでくれる。

お兄ちゃんが、私の手を取ってくれている。

 

だから私は、本物のお嬢様よりも幸せな気持ちになれる。

 

 

「ちょっと教えただけで、こんなに踊れるなんてな……もしかしてアイシャは、本当にどこかの王国から迷い込んできたお姫様だったりして? 魔法でメイドの姿に変えられてるだけなんじゃないか?」

 

 

お兄ちゃんが優しく、冗談めかして言う。

 

その言葉が嬉しくて、私はもっと高く、軽やかに跳ねた。

 

お兄ちゃんを驚かせたい。

もっともっと見てほしい。

お兄ちゃんが驚いてくれるたびに、私の中に甘いお菓子を食べた時みたいな幸せな味が広がていく。

 

もし私が本当に魔法でメイドの姿に変えられているお姫様なのだとしたら、お姫様に戻してくれたお兄ちゃんは、きっと王子様だ。

 

そう考えると、体がもっとふわふわした。

お兄ちゃんは王子様って感じではないかもしれない。

けれど、私を見つけてくれる。

私を笑わせてくれる。

私の小さな願いを、こんなふうに叶えてくれる。

 

だったら私にとっての王子様は、お兄ちゃんなんだ。

 

踊りが終わる。

鼻歌が止まる。

お兄ちゃんは私の手を離さずに、そっと立ち止まった。

 

窓から差し込む夕暮れ近い光が、私たちの影を床に長く伸ばしている。

私の影は小さい。

お兄ちゃんの影の方が少し大きい。

その二つが繋がったまま並んでいた。

 

お兄ちゃんは、息を吐いて笑った。

 

 

「どうだ? アイシャ。お姫様にはなれたか?」

 

 

その問いかけに、胸が高鳴った。

 

……お姫様。

 

もし、本物のお姫様が、王子様に何かをねだることができるなら。

もし、今だけ私がお姫様なら。

 

少しだけ、ワガママを言ってもいいのかな……

 

私は胸の奥から湧き上がってくる謎の勇気に背中を押されて、右手の甲をお兄ちゃんへ差し出した。

 

 

「あと少しかな……」

 

 

「あと少し?」

 

 

「ここに、お兄ちゃんがちゅってしてくれたら、本当のお姫様になれるかも」

 

 

言ってから、胸の音がものすごく速くなった。

 

さっきのダンスよりもずっと激しく、どくどくと鳴っている。

 

言ってしまった。

言っちゃった。

 

自分で言ったのに、恥ずかしい。

でも、引っ込めたくなかった。

 

お兄ちゃん、ちゅーしてくれるかな。

もし、お兄ちゃんの唇が私の手に触れたら。

想像するだけで、またお熱がぶり返してきちゃいそう。

 

お兄ちゃんは、困ったように自分のうなじをぽりぽりと掻いた。

そして、ちょっと大げさにため息をつく。

 

 

「……それは、困ったな」

 

 

「え……?」

 

 

私は、しゅんとした。

やっぱりだめだったのかな。

子どもっぽすぎたかな。

変なお願いだったかな。

 

でも、お兄ちゃんはすぐに続けた。

 

 

「だって、これでアイシャが本物のお姫様になっちゃったら、アイシャはそのまま偉い人たちに囲まれて、平民の俺とはもう会えなくなるかもしれないだろ?」

 

 

お兄ちゃんは、わざとらしく肩を落とした。

すごくしゅんとした顔をしてる。

本当は冗談だって、何となく分かった。

分かったけれど、その言葉だけは胸の奥にまっすぐ刺さった。

 

 

「アイシャに会えなくなるのは……寂しくて、俺は明日からご飯も喉を通らないかもしれないなあ……」

 

 

会えない。

お兄ちゃんと、もう会えなくなる。

 

お姫様になったら、お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃなくて、遠くの人になってしまう。

手を繋げなくなる。

可愛いって言ってもらいなくなる。

頭を撫でてもらえなくなる。

 

 

「……あ」

 

 

私は慌てて、差し出していた手を引っ込めた。

そして、その手を背中に隠す。

 

 

「や、やっぱり、ちゅーはなし! 私、お姫様じゃなくていい! メイドさんでいい!」

 

 

声が大きくなった。

 

自分でもびっくりした。

でも、本当に嫌だったのだ。

お姫様になれるとしても、お兄ちゃんに会えなくなるならいらない。

綺麗なドレスも、宝石も、でっかなお城も、全部いらない。

 

お兄ちゃんがどこかへ行ってしまうかもしれない。

私を置いて、遠い場所へ行ってしまうかもしれない。

そんなの絶対に嫌だ。

 

それは熱を出した時よりも、ずっとずっと怖いことだから。

 

お兄ちゃんは一瞬だけ目を丸くして、それから吹き出すみたいに笑った。

 

 

「はは……冗談だよ。俺が寂しいって言ってすぐに手を隠すなんて、アイシャは優しいな」

 

 

「…………」

 

 

冗談だってことは、分かっていた。

本当に分かってたもん。

お兄ちゃんがからかっていることくらい、私にだって分かる。

 

でも、もし本当にそうなったらと考えたら怖かったのだ。

 

 

「もうっ! お兄ちゃんのバカ! アホ! バカァ!」

 

 

私はお兄ちゃんの胸を、ぽかぽかと拳で叩いた。

 

お兄ちゃんの胸は広くて、硬くて、私の小さな拳じゃ全然痛くなさそう。

それがちょっと悔しくて、もっと強く叩いてみる。

本気で痛くするつもりはない。

でも、私が怒っていることは分かってほしかった。

 

すると、お兄ちゃんは「ごめん、ごめん」と言いながら、私の頭を優しく撫でてくれた。

 

 

「悪かった。ちょっとからかいすぎたな」

 

 

「ちょっとじゃないもん」

 

 

「うん。ごめん」

 

 

「ほんとにごめんって思ってる?」

 

 

「思ってるよ」

 

 

「じゃあ、もっと撫でて」

 

 

お兄ちゃんの手が、また私の頭を撫でる。

すると、さっきまでの怖さが少しずつ消えていった。

 

お兄ちゃんはここにいる。

私のそばにいる。

私を置いて、遠くへ行ったりしない。

 

今はそれが分かるだけで、胸が落ち着いた。

 

 

「でも、そうだな。お姫様になりたかったアイシャに、何もしないのは失礼か」

 

 

「……?」

 

 

私が顔を上げると、お兄ちゃんは自分自身の右手の甲に、そっと唇を寄せた。

 

――ちゅっ。

 

小さな音だった。

でも、私の耳には雷が鳴ったのかと思うぐらい、大きい音に聞こえた。

 

お兄ちゃんは、その右手の甲を私の手の甲にそっと重ねた。

 

 

「!」

 

 

お兄ちゃんの唇が触れた場所の熱が、手と手を通して移ってくるような気がした。

 

 

「直接は、アイシャが将来本当の王子様に会った時のために取っておきなさい」

 

 

「……」

 

 

「今はこれで我慢してくれませんか? 王女様」

 

 

「うぅ……」

 

 

王女様。

またそう呼ばれた。

 

嬉しいような、足りないような。

くすぐったいような、もっとほしいような。

胸がいっぱいで、どう言えばいいのか分からない。

直接してほしかった気もする。

でも、直接だったら、私は本当に熱がぶり返してしまう。

だからこれでよかったのかもしれない。

でも、やっぱり足りない気もする。

 

私の心はいっぱいいっぱいだった。

 

 

 

―――

 

 

 

「ふふ……うへへぇ……」

 

 

思い出しただけで、変な笑いが漏れた。

 

私は布団の中で、口元を両手で隠す。

お母さんはもう眠っている。

だから大きな声は出せない。

でも、口元が勝手に緩んでしまう。

だって、あんなの思い出したら笑っちゃうに決まってる。

 

私は布団の中で、そっと自分の手の甲を見た。

 

もう、そこには何も残っていない。

お兄ちゃんの唇が触れたのは、お兄ちゃん自身の手で、私の手にはそのあと重ねられただけ。

だから、跡なんてあるわけがない。

熱も、音も、全部もう過去のものだ。

 

でも、私の中には残っている。

 

お兄ちゃんは、私のためならどんな願いも叶えてくれる。

 

私がお嬢様ってどんなのか聞いただけで、王女様にしてくれた。

メイド服をドレスだと言ってくれた。

踊れないのに踊ってくれた。

私が勇気を出したら、困った顔をしながらも、私が傷つかない形を探してくれる。

 

お兄ちゃんはいつだって、私の欲しいものになってくれる。

 

寂しい時は、そばにいてくれる人。

怖い時は、守ってくれる人。

頑張った時は、ちゃんと見つけて褒めてくれる人。

甘えたい時は、それを受け止めてくれる人。

私が王女様に憧れた時は、少しぎこちない王子様みたいに振る舞ってくれる人。

 

そういうお兄ちゃんを知っているから、私はもっと欲しくなる。

 

もっと見てほしい。

もっと撫でてほしい。

もっと可愛いって言ってほしい。

もっと私を選んでほしい。

もっと、もっと、私のそばにいてほしい。

 

欲しいものが一つ叶うたびに、次の欲しいものが出てくる。

 

これは、少しよくないことだと思う。

 

お兄ちゃんが優しいからって、何でもお願いしていいわけじゃない。

お兄ちゃんは私がお願いすると、たぶん無理をしてでも叶えようとしてくれる。

だから、私がちゃんと考えなきゃいけない。

 

考えなきゃいけないんだけど……

 

……でも。

 

 

「しょうがないじゃん……好きなんだもん」

 

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