俺は今、魔術であることを試している。
炭酸水の試作だ。
この世界に炭酸水はない。
たぶんない。
少なくとも、俺は見たことがない。
前世では、炭酸水なんてどこでも買えた。
コンビニでも、スーパーでも、自販機でも。
まあ、俺は自分で買いに行くことなんてなく、両親に買ってきてもらっていたのだが。
……そこは思い出すと心にくるので、今は置いておく。
場所は、宿の裏手にある小さな空き地だ。
人目が多い場所でやると、何をしているのか説明が面倒くさいし、下手をすると宿の主人に怒られる。
いや、怒られるだけならまだいい。
もし容器が破裂なんてした日には、エリスに「何やってるのよ!」と殴られ。
ルイジェルドに「危険な実験は人のいない場所でやれ」と真顔で注意され。
アイシャには冷静な顔で後片付けを手伝われながら、心の中で点数を下げられるかもしれない。
それは避けたい。
というわけで、俺は周囲を確認してから、両手を前へ出した。
「さて……まずは容器からだな」
俺は土を集め、粘土を固めるように形を作っていく。
普通の壺では駄目だ。
中に気体を押し込む以上、圧力に耐えられる強度がいる。
薄ければ破裂する。
隙間があれば漏れる。
適当に作ると、炭酸水ではなく爆発水になる。
表面を滑らかにし、内部を緻密にし、外側は厚く、底はさらに厚く。
岩というより、焼き締めた陶器と金属の中間。
円筒形の容器ができあがる。
口は狭く、胴は太い。
蓋も同じ土魔術で作る。
ただ被せるだけではなく、ねじ込むように噛み合わせる構造にした。
これで密閉できるはずだ。
そして、容器の底には十字の溝を作る。
貫通はさせない。
あくまで外側に、十字のくぼみを刻むだけだ。
俺は空中に水の玉を出した。
水魔術で作った水。
その水を冷たく調整していく。
凍らせてはいけない。
凍ったら飲めないし、そもそも気体を溶かす前に面倒なことになる。
水面に薄氷が張る寸前、そのぎりぎりを狙う。
その水をさっき作った容器に入れる。
手を近づけると、ひやりと冷気が伝わってきた。
悪くない。
次が問題だ。
二酸化炭素。
火を消す空気、と言えば近いか。
生き物が吐き出す空気。
火を弱める空気。
普通の空気より少し重く、水に溶けると、舌を刺すような酸味を生む空気。
俺はそれを頭の中で何度も繰り返した。
風魔術は、空気を動かす魔術だ。
なら、空気の中から特定の性質を持つものだけを集めることも、理屈の上ではできるはず。
できるはず……というかできなければ今日の実験は終わりだ。
俺は魔術で作った二酸化炭素だと思われる気体を容器の中へ押し込む。
水面の上に、見えない層ができる。
そのままさらに圧をかける。
逃げようとする空気を、魔術で押し戻す。
「よし……今だ」
蓋をする。
土魔術で作った蓋を素早くねじ込み、密閉する。
ぎゅっと噛み合わせ、魔術で継ぎ目をさらに固める。
これで中の空気は逃げにくい。
……逃げにくいはずだ。
最後に、土魔術で十字の石を作る。
もちろん、飛ばすためではない。
容器の底に作った十字のくぼみにぴったり差し込む、回転用の取っ手みたいなものだ。
「ミキサー……いや、シェイカーか? まあ、回ればいいか……」
俺は容器の底に作っておいた十字のくぼみに、土魔術で作った十字型の石を差し込んだ。
あらかじめ作っておいた十字のくぼみへ、ぴたりとはまる。
俺はそこへさらに土魔術を流し、接合部をわずかに強化した。
容器の側面へもう片方の手を当て、魔術で冷却を続ける。
内部の水が凍らないぎりぎり。
そこを維持する。
そして、十字の石へ魔力を流した。
「あとは、岩弾砲を放つ時と同じ……回転、回転……」
容器が回り始める。
最初はゆっくり。
徐々に速度を上げる。
十字の岩が、唸るように回る。
「これで、二酸化炭素と冷水が混ざって炭酸水になる……はず」
そうカインが言っていた。
炭酸水の作り方は、ブエナ村にいた頃、カインから聞いた話が元になっている。
あの頃の俺たちはまだ子供で、魔術の扱いも今ほど細かくなかった。
いや、俺は当時からそれなりに使えていたつもりだが、こういう精密な気体操作だの、容器の密閉だの、圧力を考えた実験だのはさすがに無理があった。
カインも説明しながら、「いつかできたら面白いな」くらいの調子だったと思う。
当時の俺は、へえ、と流した。
流したが、忘れなかった。
なぜなら、その話があまりにも怪しかったからだ。
……カインはたぶん、というか絶対に俺と同じだと思っている。
俺と同じ。
転生者。
昔から怪しんではいた。
この炭酸水の作り方もそうだ。
俺の五歳の誕生日に、あいつが作ってくれたコロッケもそう。
あの時の味は、どう考えてもこの世界のものじゃなかった。
この世界にも似たようなものが偶然存在する可能性は、ゼロではない。
ゼロではないが、偶然で済ませるには無理がある。
他にも色々あった。
言い回し。
発想。
現代的な知識。
この世界の子供が自然に持っているには、無理があるものばかりだった。
だが、俺は決定的な確認をしていない。
理由の一つは、カインが話したくないなら無理に踏み込むべきではないと思っていたから。
カインは友達だ。
この世界で最初にできた友達。
ただ一緒に遊んだ相手、というだけではない。
カインは、俺の恐怖を軽く扱わなかった。
何でそんなことで怯えてるんだ、と笑わなかった。
無理やり引きずり出して、根性論で何とかしろと言ったわけでもない。
ただ、俺が外へ出られない人間なのだと受け入れてくれた。
それでも関わるのをやめなかった。
あの頃の俺にとって、それがどれだけ大きかったか。
だから、その友達が隠しているものを興味だけで暴くのは違うと思った。
カインが話したいなら話せばいい。
話したくないなら、そのままでもいい。
それに、俺だって怪しい言動はあったはずだ。
けれど、カインは何も詮索する素振りを見せなかった。
俺を怪しげに見たり、妙に目を細めたり、わざと踏み込むような質問をしてきたり。
そういうことはなかった。
もしかしたら気づいていて、あえて触れていないのかもしれない。
だとしたら、なおさら俺から不用意に踏み込むのは失礼だ。
……いや。
半分ぐらいは建前だな。
俺は容器を回しながら、少しだけ苦笑した。
本当は、俺が怖いだけだ。
自分の中に、前世のヒキニートが入っていることを知られたくない。
カインに前世の話をすれば、俺の中身まで見透かされるかもしれない。
根っこがどんな奴なのか。
どんなふうに生きていたのか。
何から逃げて、何を捨てて、何をしなかったのか。
そういうものを、同じ世界を知る人間の目で見られるかもしれない。
だが、俺はこの世界で本気で生きている。
少なくとも、前世よりはましな人間になっているはずだ。
魔術を覚え、家族と向き合い、旅をして、仲間もできた。
こうして外で実験なんてしている。
前世の俺からすれば、信じられない進歩だ。
昔のように、部屋の中で時間だけを腐らせていた俺とは違う。
だが、その中にあのクズ人間が入っているとカインが知ったら、どう思うだろうか。
引きこもりで。
親の葬式にも出ず。
姪を盗撮したことすらある。
口にするだけで吐き気がする。
いや、口にはしていない。
頭の中で思い出しただけだ。
それでも気持ち悪い。
そんな俺を、カインが受け入れてくれる自信がない。
カインは俺がどんな人間であれ友達でいたいと言ってくれた。
でも、それは今の俺を見ての言葉だ。
前世の俺を知っても同じように思ってくれるかは、別の話だ。
もしかしたら、前世の俺よりもクズな可能性も……ないな。
そこは、考えなくても分かる。
カインは、俺の中にある呪いのような鎖を解いてくれた人だ。
俺をあの狭い部屋から出してくれた人だ。
本人は知らないだろうが、俺にとってはそういう存在だ。
そんなカインに見限られるのが怖い。
あの目が軽蔑の目に変わるのが怖いだけだ……
「……まあ、とにかく」
俺は小さく呟いた。
カインが転生者なのは、もう確定だ。
なんたって、アイシャがカインに教わったと言って作る料理の全てが、向こうの料理だからな。
初めてアイシャの料理を食べた時は、感動で涙が出たぐらいだ。
いや、本当に出た。
あれは危なかった。
エリスに見られ「何泣いてるのよ!」と怒鳴られ、ルイジェルドには深刻な顔で「毒か」と疑われた。
違う。
毒ではない。
攻撃属性『郷愁』だ。
防御不能の精神攻撃である。
俺が作ったとしても、ああはならない。
俺が元ニートで料理スキルがないせいなのか。
アイシャの手腕がいいのか。
カインの教え方がうまいのか。
……全部だな。
俺も地球の料理を再現しようと、旅の中で試行錯誤していた。
けれど、せいぜい記憶を頼りに「こうだったかな」とやる程度だ。
そもそも俺はまともに料理なんてしたことない。
冷凍食品、カップ麺、コンビニ弁当。
母親に作ってもらったものを、ろくに感謝もせず食べていた男である。
そんな俺が、異世界でいきなり料理人になれるわけがない。
カインやアイシャの作れる料理とはレパートリーも、味の再現度も、雲泥の差だ。
あいつの前世は、もしかしたら何かお店を持っていたのかもしれない。
料理人だったとか、定食屋の息子だったとか。
餅は餅屋、というやつだ。
いや、それだけじゃない。
地球の料理を再現するには、それに付随した材料や調味料が必要なのだ。
レシピだけ知っていても、醤油がなければ醤油味は出せない。
味噌がなければ味噌汁は作れない。
出汁の概念がなければ、あの旨味には届かない。
それを、なんとカインは自作、もしくは見つけている。
醤油から始まりいろいろ。
本当にいろいろ。
どこから探してきたのか、どうやって作ったのか、聞きたいことはいくらでもある。
カインには本当に感謝しかない。
すき焼きを食べた時は、気絶しそうになったぐらいだ。
「さて、そろそろかな」
俺は回転を止め、蓋の周りに耳を近づける。
変な軋みはない。
膨らんでいる様子もない。
少なくとも、今すぐ爆発して俺の顔面に土製容器の破片を突き刺す気配はなさそうだ。
それでも、油断はしない。
俺は顔を少し遠ざけ、ゆっくり蓋を緩めた。
ぷしゅっ。
小さな音がした。
「おお……」
これは、あれだ。
聞き覚えがある。
ペットボトルの蓋を開けた時の、現代文明のささやきみたいな音だ。
ただし、音は弱い。
店で買った炭酸飲料なら、もっとはっきり主張してくる。
これは、どちらかというと、気の抜けかけた炭酸が最後の意地を見せた時の音だ。
俺は土魔術で作った小さな器に、中身を注いだ。
透明な水の中に、細かな泡が浮いている。
浮いてはいる。
だが、頼りない。
強炭酸とは比べるまでもない。
微炭酸という言葉にすら、少し気を遣わせるくらいの控えめな泡だ。
俺は一口飲んでみた。
舌の上で、しゅわ、とする。
いや、しゅわ、というより、しゅ……くらいかもしれない。
ただの水ではない。
だが、あの喉の奥を刺すような刺激はない。
「……失敗だな」
俺はそう呟いてから、すぐに首を振った。
「いや、成功ではあるか」
失敗というには、成果がある。
成功というには、完成度が低い。
こういうのを一歩ずつ積み重ねていき、最終的な成功へ繋げるのだ。
前世の俺は、それが分からなかった。
努力という言葉から逃げて、地道に積み上げることを馬鹿にして、分かりやすい一発逆転の妄想ばかりしていた。
いつか本気を出せば何とかなる。
自分には本当は才能がある。
きっかけさえあれば変われる。
そんなことを考えながら、何も始めずに時間だけを溶かしていた。
けれど、そんな都合のいい日は来ない。
一歩ずつ着実に。
これは、生まれ変わってから、前世の俺にならないように気を付けていることの一つだ。
魔術もそうだった。
剣術もそうだった。
人間関係だって、たぶんそうだ。
最初から完璧な形なんてない。
失敗して、直して、また試す。
そうやって前へ進むしかない。
俺はもう一口、薄い炭酸水を飲んだ。
「まあ、美味しくはある、か」
そう独り言を言った時だった。
「ルーデウス! そんなとこで何してるのよ!」
背後から、勢いのある声が飛んできた。
振り返ると、エリスが大股でこちらへ歩いてきていた。
その後ろから、アイシャとルイジェルドもついてきている。
アイシャは、俺の手元を見て、少しだけ首を傾げていた。
好奇心と警戒が半分ずつ、という顔だ。
俺は器を軽く掲げて見せた。
「美味しい水を作ってたんです。エリスも飲んでみますか?」
「美味しい水?」
「ええ。まあ、試作品ですが」
「もらうわ!」
判断が早い。
エリスは俺の手から器を受け取ると、迷いなくぐいっと一気に飲んだ。
そして、飲み終えたエリスは、器を口から離して――
「ぷはーっ!」
と、実にいい声を出した。
CMに出られそうだ。
夕日を背にして「美味い!」と叫ばせたい迫力があった。
エリスは口の周りを手の甲で拭い、目をぱちぱちさせた。
「何これ。変な水ね」
「変ですか」
「舌がちょっとちくちくするけど、嫌じゃないわ。甘くもないのに、なんかもう一口飲みたくなる感じね」
おお。
なかなか的確な感想だ。
だが、やっぱり砂糖はマストか。
砂糖なしで美味しいのなら、原価ゼロで大量生産して売り出そうとも思ったが、どうやら無理そうだ。
俺の魔術で作れるなら、商売としてはかなりいい。
この世界には炭酸水がない。
珍しさだけでも、最初は売れる可能性がある。
そこに果汁や砂糖を混ぜれば、子供から大人まで喜ぶ商品になること間違いなしだ。
「ただ、もっと強くてもいいわね。今のはちょっと弱いわ」
「そこは僕も同意見です」
「なら、もっと強くしなさいよ」
「簡単に言いますね」
「ルーデウスならできるでしょ?」
そう言われると、ちょっと嬉しい。
よし、いつかエリスを唸らせるぐらいの強炭酸を作ろう。
俺はもう一つ器を作り、アイシャにも注いだ。
「アイシャも飲んでみますか?」
「うん。ありがと、ルーデウスお兄さん」
アイシャは両手で器を受け取った。
まず匂いを嗅ぐ。
次に泡をじっと見る。
それから、ほんの少しだけ口をつける。
そして、ぽつりと言った。
「もしかして、これがコーラ?」
俺は黙った。
エリスが「こーら?」と聞き返し、ルイジェルドさんがわずかに眉を動かす。
知らない言葉を聞いた時の、当然の反応。
コーラ。
コーラと来たか。
普通の子供なら、まず「変な水」と言う。
あるいは「舌が痛い」とか、「腐ってるの?」とか、そんな反応をするだろう。
実際、エリスはかなり正しく「変な水」と評した。
なのにアイシャは、コーラと言った。
炭酸水を飲んで、それをコーラにつなげる。
それは、確実に知っている側の発言だ。
アイシャはたまに、向こうの世界のことを知っているようなことを言う。
もちろん、理由は考えられる。
アイシャはカインから料理を教わっている。
その料理を教える中で、ついでに飲み物の話をしたのかもしれない。
軽い雑談として聞かされたのだと考えることはできる。
できるのだが。
アイシャは、あまりにも向こうのことを知りすぎている節がある。
以前アイシャの口から『玉犬』などという日本語が出てきたときは、三度見ぐらいしてしまった。
軽い雑談で済ませるには、少し伝え過ぎだ。
俺は器を持ったままのアイシャを見下ろした。
「コーラですか?」
アイシャは、ほんの一瞬だけ固まった。
本当に一瞬だ。
普通なら見逃す程度の間。
けれど、今の俺はその一瞬を見逃せなかった。
アイシャはすぐに、いつもの利発そうな顔へ戻る。
そして、コップの中身をもう一度見て、少しだけ首を傾げた。
「うん。お兄ちゃんが、しゅわしゅわして黒い飲み物があるって言ってたから。これも、そういうのかなって思っただけ」
「なるほど。カインが」
「うん。だから、そういうのかなって思っただけ」
「黒くはありませんよ?」
「だから違ったね」
アイシャは、そこであっさり話を切った。
それ以上、コーラについて話そうとしなかった。
器を両手で持ったまま、もう一口だけ飲み、それからにこっと笑う。
「でも、これも面白いね。もっと甘くて、もっとしゅわしゅわしたら美味しそう」
「……そうですね」
会話が完全に終わった。
いや、終わらせられたのか?
俺はそう感じた。
なぜそこで終わらせる?
ただコーラのことを聞いているだけなら、もっと聞いてもいいはずだ。
コーラって作れないのか。
黒くするにはどうするのか。
甘くするには何を入れるのか。
そんなふうに、いくらでも質問が続いていい。
けれどアイシャは、すっと会話を閉じた。
知っていることを隠すように。
これ以上話すと危ないと分かっているように。
無邪気な顔で、無邪気ではない線を引いた。
俺は、アイシャがどこまで知っているのかが気になった。
ただ料理を教わっただけなのか。
コーラや炭酸飲料のような話を、軽い雑談としてただ聞かされただけなのか。
それとも……カインはすでに、アイシャに自分が別の世界の住人だと話しているのか。
そんな可能性が頭に浮かんだ瞬間、俺の胸の奥がはっきりとざわついた。
別にカインが誰に何を話そうが、俺が口を出すことではない。
カインがアイシャを信頼して話したのなら、それは二人の間の話だ。
俺が勝手に踏み込んでいい領域ではない。
分かっている。
分かっているのだが、気になってしまった。
「アイシャ」
「なに? ルーデウスお兄さん」
「少しだけ、二人で話せませんか?」
アイシャの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「二人で?」
「ええ。少しだけです。カインについて、聞きたいことがありまして」
嘘は言っていない。
話したいことは、カインについてだ。
俺自身のことではない。
少なくとも、入口はそうだ。
エリスがすぐに眉をひそめた。
「何よ。私に聞かれたら困る話なの?」
「困るというより、カインのことですしプライバシーがですね……」
「カインのことなら、ルーデウスだって知ってるんじゃないの?」
「知っていることもありますが、知らないこともあります」
「ふぅん……」
エリスはあまり納得していない顔だった。
まあ、当然だ。
俺が小さな女の子を二人きりで呼び出すと言えば、疑われても仕方ない。
日頃の行いが悪い。
「さすがの僕でも妹に変なことはしませんよ」
「自分でそう言うところが怪しいのよ」
ぐうの音も出ない。
いや、出そうと思えば出るが、出したところで殴られそうなので黙っておく。
「ルーデウスお兄さんは、お兄ちゃんの何を聞きたいの?」
「……カインが、どんな話をしていたのかです」
俺は言葉を選んだ。
「料理の話とかですかね、僕も少し気になっていまして……」
「……ふーん」
アイシャは小さく相槌を打った。
カインの秘密を無理に引き剥がすつもりはない。
アイシャが守ろうとしているものを、俺が壊していいわけがない。
興味だけで踏み込むな、というのは自分で自分に言い聞かせてきたことでもある。
それでも聞きたい。
どうしても気になってしまう。
アイシャは、俺の顔をしばらく見ていた。
小さな子供にじっと見られるだけなのに落ち着かない。
まるで試されているようだった。
やがて、アイシャはこくりと頷いた。
「うん。少しならいいよ」
「ありがとうございます」
「でも、お兄ちゃんが困ることは言わないからね」
「はい。それはもちろん」
「あと、変なこと聞いたら怒るよ?」
エリスは納得しきっていない顔で腕を組んだ。
「アイシャ、ルーデウスが変なこと言ったらすぐ呼びなさいよ」
「うん。ありがと! エリス姉」
アイシャは器を持ったまま、俺の方に歩いてきた。
「どこで話すの?」
「僕の部屋でいいですか?」
「うん」
歩きながら、俺は頭の中で言葉を整理していた。
もしアイシャが何も知らなければ。
俺は不用意に踏み込めない。
変な聞き方をすれば、逆に俺の方が怪しまれる。
自分の中に前世のヒキニートが入っていること。
流石にそこまではバレないかもしれないが、元いた世界の記憶を持っていること。
それがバレるかもしれない。
それだけは隠したい。
だから、それとなく探るしかない。
カインからどんな話を聞いたのか。
料理以外の話をどこまで知っているのか。
そして、その話をアイシャがどう受け止めているのか。
アイシャが嫌がれば、すぐに謝って引く。
そこは決めていた。
カインの秘密を、アイシャから無理に聞き出すのは違う。
それは友達としても、兄としても、最低のやり方だ。
ただ。
もしカインがすでに、アイシャに転生者だと伝えているなら。
別の世界から来た人間が中にいても。
この世界で生まれたカインだけではないと知っても。
それでも、アイシャは変わらずカインを「お兄ちゃん」と呼べたのだろうか。
もしそうなら……
もし、そうであるならば……
俺はその答えをどうしても知りたかった。
―――
「それで、話って何?」
私は、空になった小さな器を両手で持ったまま、ルーデウスお兄さんを見上げた。
ルーデウスお兄さんは、すぐには答えなかった。
口を開きかけて、少し止まる。
それから、困ったように眉を下げる。
いつものルーデウスお兄さんなら、もっと言葉がするすると出てくる。
お兄ちゃんの料理の話をするときなんて、目を輝かせて、すごく分かりやすくなる。
お肉がどうとか、味付けがどうとか、前に食べた時の感動がどうとか、ちょっと大げさなくらい楽しそうに話す。
でも今の顔は、そうじゃなかった。
これは、料理の話をしたい顔じゃない。
「ルーデウスお兄さん?」
「あ、いえ……すみません。少し聞き方を考えていまして」
「聞き方?」
「はい。アイシャが嫌がることを、聞くつもりはないんです。ただ、カインについて、少し気になることがありまして」
お兄ちゃんについて。
その言葉を聞いた瞬間、私は胸の中に小さな蓋をした。
お兄ちゃんのことなら、何でも嬉しく話したい。
お兄ちゃんがどれだけすごいか。
どれだけ優しいか。
私にどんなことを教えてくれたか。
どんな時に困った顔をするか。
どんな時に笑ってくれるか。
そういう話なら、私はいくらでもできる。
でも、お兄ちゃんの秘密は別だ。
あれは、私が勝手に話していいものじゃない。
お兄ちゃんが私に話してくれたから、私の中にあるだけ。
お兄ちゃんが「アイシャなら」と思ってくれたから聞けたもの。
だから、私は笑いすぎないように、でも怖い顔にもならないように気をつけて、首を傾げた。
「お兄ちゃんの、何を知りたいの?」
「……カインは、ああいう料理をどこで覚えたと言っていましたか?」
私は瞬きをした。
どこで覚えたか。
そこなんだ。
料理のことを聞くなら、もっと簡単でいいはずだ。
「どうやって作るんですか」とか。
「何を使ってるんですか」とか。
「カインは他に何を教えたんですか」とか。
でも、ルーデウスお兄さんは、お兄ちゃんの料理がどこから来たのかを気にしている。
私は、ほんの少しだけ考えるふりをした。
「んー……わかんない。お兄ちゃんは色々知ってるからね」
嘘ではない。
お兄ちゃんは、本当に色々知っている。
お料理も。
道具のことも。
変な言葉も。
この世界にはない考え方も。
私が「なんで?」って聞いたら、教えてくれる時もあるし。
少し困った顔をして「もうちょっと大きくなったらな」と言う時もある。
だから、わかんないは嘘じゃない。
ルーデウスお兄さんは、私の答えを聞いて少しだけ目を伏せた。
納得してない顔だ。
「……たとえば、あの味付けとか。調味料とか、出汁の取り方とか。こちらではあまり見ないですよね」
私は、その言葉を心の中でそっと拾った。
こちらではあまり見ない。
じゃあ、「あちら」では見たことがあるの?
どこで覚えたのか。
こちらではあまり見ない。
そこを気にしている。
ルーデウスお兄さんが気にしているのは、料理そのものじゃない。
料理の出所だ。
私は、器の縁を指でなぞった。
もしかして、ルーデウスお兄さんは、お兄ちゃんと同じなのかもしれない。
お兄ちゃんと同じ。
別の世界を知っている人。
この世界に生まれる前のことを覚えている人。
だから私を探ろうとしている?
いや、まだ決めつけるのは早い。
ルーデウスお兄さんはすごい人だ。
魔術もできるし、頭もいい。
でも、お兄ちゃんとは違う。
お兄ちゃんと同じだなんて、簡単には思えない。
ルーデウスお兄さんも、お兄ちゃんから聞かされてる?
……それはない。
お兄ちゃんは、私に初めてこの秘密を話したと言っていた。
少なくとも、私に話す時のお兄ちゃんは、そういう顔をしていた。
怖くて、迷っていて、それでも私に隠したくないって顔だった。
だから、勝手に他人へ広げたくない。
お兄ちゃんの秘密だから。
それに、二人だけの秘密という響きがけっこう好きだから。
お兄ちゃんが私にだけ話してくれたこと。
お兄ちゃんが、私なら聞いても大丈夫だと思ってくれたこと。
それは、私の胸の中で、とても大切なものになっている。
でも。
もし、ルーデウスお兄さんも本当にお兄ちゃんと同じなら。
もし本当に、別の世界から来た人なら。
秘密にし続けるのも違うのかもしれない。
同じような秘密を持っている人が、すぐ近くにいるなら。
それは、お兄ちゃんにとって悪いことではないのかもしれない。
でも、だからって、私が勝手に言っていいことではない。
私は、何を守るべきなんだろう。
お兄ちゃんの秘密。
ルーデウスお兄さんの気持ち。
私が知っていること。
まだ分かっていないこと。
頭の中で、いくつもの小さな箱が並ぶ。
どれを開けていいのか。
どれは閉じておくべきなのか。
私は一つずつ、間違えないように見ていく。
……いや、まだルーデウスお兄さんがお兄ちゃんと同じだと決まったわけじゃない。
ルーデウスお兄さんが私を探ってくるなら、私からも探っていいよね。
私は器を両手で持ったまま、ぱっと笑った。
「ルーデウスお兄さんは、ああいう料理をどこかで食べたことあるの?」
「……ああいう料理、と言うと、たとえばどんなものがありますか?」
質問に質問で返してきた。
やっぱり、探られてる。
「んー」
私は少し考えるふりをした。
何を言うかは、もう決めていた。
「えっとね。細長い、つるつるした食べ物があってね」
「細長い?」
「うん。粉をこねて、細くして、熱いお湯でゆでるんだって。それを、すごく熱い汁の中に入れるの」
ルーデウスお兄さんの目が、少しだけ真剣になった。
私は続ける。
「汁はね、骨とかお肉とか、野菜とか、いろんなものを長く煮て作るんだって。お兄ちゃんが言うには、しょっぱいのも、白くて濃いのも、赤っぽいのも、黒っぽいのもあるって」
「……」
「上には、薄く切ったお肉とか、ゆでた卵とか、緑の野菜とか、細い白いものとか、いろいろ乗せるの。すごく熱くて、食べる時にふーふーして、つるつるって食べるんだって。お兄ちゃんは、夜に食べると危ないって言ってた。美味しすぎて、また食べたくなるからって」
ルーデウスお兄さんの顔が変わった。
さっきまで慎重に整えていた表情が、はっきり崩れた。
「……まさか」
「確か名前は……ラー……」
「ラーメン」
ルーデウスお兄さんが、私より先に言った。
私は目を瞬かせた。
言い当てた。
ルーデウスお兄さんは、もう止まらなかった。
「醤油、味噌、塩、とんこつ……いや、とんこつは現状だと再現が難しいでしょうね。麺も問題です。かん水がないと、あの独特の感じが出ない。チャーシュー、メンマ、ネギ、煮卵……ああ、煮卵……」
そこまで言って、はっとしたように口を押さえた。
でも、もう遅い。
種類まで知っている。
お兄ちゃんでも、材料がなくてまだ作れていない料理なのに。
私は名前と、ざっくりした説明しか聞いていなかったのに。
ルーデウスお兄さんは、そこにない物を思い出していた。
私はじっとルーデウスお兄さんを見た。
ルーデウスお兄さんは、明らかにしまったという顔をしている。
口元を押さえたまま、視線が少し泳いでいた。
お兄ちゃんと同じってことでいいのかな?
もういいや。
聞いちゃお。
「ルーデウスお兄さんも、お兄ちゃんと同じなの?」
「……同じ、というのは」
「生まれるの前のこと、知ってるんでしょ?」
私は待った。
しばらくして、ルーデウスお兄さんは小さく息を吐いた。
「……ええ。たぶん、アイシャが思っている意味で、僕はカインと同じです」
私は目をぱちぱちさせた。
「……へぇー、そうなんだ……」
思っていたより、変な声が出た。
驚いた。
本当に驚いた。
だって、もしかしたらそうかもとは思ったけど、実際に本人の口から言われると頭の中で置いていた小さな予想が急に大きな形になる。
ルーデウスお兄さんも、お兄ちゃんと同じ。
この世界だけの人じゃない。
前の人生の記憶を持っている人。
私は思わず、ルーデウスお兄さんをじっと見てしまった。
ルーデウスお兄さんの顔を、上から下までじっと見てしまった。
すると、ルーデウスお兄さんがびくっとした。
肩がほんの少し跳ねる。
目が怯えたみたいに揺れる。
「大丈夫? ルーデウスお兄さん」
「あ、いえ……その、アイシャは気味が悪くないんですか?」
「気味が悪い?」
私は首を傾げた。
言葉の意味は分かる。
でも、その言葉が今のルーデウスお兄さんに向けられる理由が分からない。
「お兄ちゃんと同じなんだってびっくりしちゃったけど、別に気味悪くはないよ?」
「……そう、ですか」
ルーデウスお兄さんは、ほっとしたような、でもまだ信じきれないような顔をした。
その顔が不思議だった。
どうしてそんなに怖がってるんだろう。
ルーデウスお兄さんはすごい人なのに。
私よりずっと年上で、私よりずっと大人っぽく振る舞える人なのに。
今は、まるで私に怒られるのを怖がっているみたいだった。
その時、ルーデウスお兄さんが急に顔を上げた。
「……お兄ちゃんと同じ、ということは」
「うん?」
「アイシャは、カインも転生者だと……前世の記憶があると、知っているんですか?」
「あ……」
しまった。
普通に言っちゃった。
お兄ちゃんと同じ。
もうそれは、私がお兄ちゃんの秘密を知っていると言っているのと同じだ。
気が緩んでた。
ルーデウスお兄さんが認めたから、つい。
お兄ちゃんと同じ人が本当にいるんだと思ったら、びっくりして、口が先に動いてしまった。
どうしよう。
言っていいのかな。
言ってはいけないのかな。
お兄ちゃんの秘密は、お兄ちゃんのものだ。
私が勝手にばらすものじゃない。
だけど、今のこれはもう、ほとんどルーデウスお兄さんにばれている。
お兄ちゃんが話したことを私が全部説明するのは違うけど、知っているかどうかだけなら……いや、それでも勝手に言っていいのかな。
私が迷っていると、ルーデウスお兄さんが少し慌てたように手を振った。
「あ、無理に聞くつもりはありません。ただ……カインについては、ブエナ村にいた頃から、少し怪しいとは思っていたんです」
「怪しい?」
「たとえば、向こうの料理の作り方を知っていたこととか……炭酸水の作り方もそうです。子供が普通に知っているには、少し詳しすぎた」
「……」
「それに、カインは時々、子供とは思えない物事の見方をしていました。考え方が現実的だったり、逆にこの世界にはない発想をしたり。もちろん、それだけで決めつけるつもりはありませんでしたが……」
ルーデウスお兄さんは少し笑った。
「ここまで来ると、もう疑いというより、答え合わせみたいなものです」
お兄ちゃん……それはバレるよ……
私は、心の中で小さくお兄ちゃんに向かってそう言った。
お兄ちゃんは賢いのに、そういうところは抜けている。
自分が変なことをしているって、ちゃんと分かっている時もあるけれど、料理とかになるとちょっと楽しそうになる。
誰かに食べてもらいたくて、喜ばせたくて、つい色々教えちゃったんだろう。
そういうちょっと抜けてるお兄ちゃんも私は好きだ。
好きだけど、ばれないようにするには向いていないと思う。
……お兄ちゃんの秘密は言わない。
それは決めている。
お兄ちゃんが私に話してくれたことは、私が勝手に広げていいものじゃない。
どんな名前だったのか。
どんな人生だったのか。
どんな人だったのか。
何を覚えていて、何を怖がっているのか。
そういうのは、全部お兄ちゃんのものだ。
けど、これはもうほとんどばれてる。
ここで何も知らないふりをしても、ルーデウスお兄さんはたぶん納得しない。
それに、ルーデウスお兄さんはもう、自分も同じだと認めた。
なら、少しくらいならいいのかもしれない。
私は、ゆっくり息を吸った。
「……お兄ちゃんは、私に秘密を話してくれたよ」
ルーデウスお兄さんの目が、ほんの少し大きくなった。
私はすぐに続ける。
「でも、お兄ちゃんが言ってくれた秘密の中身は言わないよ? どんなことを覚えてるとか、どういうふうに話してくれたとか、そういうのは言わないからね」
「はい」
「ほんとに、これだけしか言わないからね!」
念押しすると、ルーデウスお兄さんは少しだけ背筋を正した。
私が怒っていると思ったのかもしれない。
でも、怒っているわけじゃない。
ただ、大事なものを守りたいだけだ。
「分かっています。無理に聞き出すつもりはありません」
「……なら、いいよ」
本当は、少し迷っている。
でも、ルーデウスお兄さんがすごく怖そうな顔をしていたから。
たぶん、この人も何かを隠している。
そして、それを知られたら嫌われると思っている。
その気持ちは、お兄ちゃんの時にも少しだけ見た。
だから、私は全部は言わないけど、全部隠すのも違う気がした。
ルーデウスお兄さんは、ゆっくり頷いた。
「ありがとうございます」
「お礼を言われるほどじゃないよ。もうほとんどバレてたもん」
「それでもです」
ルーデウスお兄さんは、しばらく黙っていた。
それから、すごく慎重な声で聞いてきた。
「アイシャは……どうして、そんなカインを受け入れられたんですか?」
「受け入れる?」
私はきょとんとした。
その聞き方が、不思議だった。
受け入れるって何だろう。
まるで、お兄ちゃんを受け入れるために、何か大変な覚悟が必要だったみたいな言い方だった。
怖いものを我慢して飲み込むみたいな。
嫌いなものを、無理やり好きだと言うみたいな。
そんなふうに聞こえた。
ルーデウスお兄さんは、私の反応に少しだけ戸惑ったようだった。
でも、すぐに言葉を続ける。
「だって、子供の中に大人が入ってるんですよ? 前の人生の記憶があって、この世界とは別の場所で生きたことがある。そういう話を聞いて……驚いたり、怖かったり、気味悪がったりはしないんですか?」
驚いたり。
怖かったり。
気味悪がったり。
私は、その言葉を一つずつ頭の中に置いた。
お兄ちゃんが秘密を話してくれた夜のことを思い出す。
焚き火の光。
お兄ちゃんは、私に向き合ってくれた。
言葉を選んで、逃げないように、でも私を怖がらせないようにちゃんと話してくれた。
生まれる前の記憶があること。
この世界じゃない、別の世界で生きていたこと。
前のお兄ちゃんは、今のお兄ちゃんとは違って、弱くて、逃げてばかりだったこと。
私はちゃんと聞いた。
難しいところもあったけど、意味は分かった。
お兄ちゃんの中に、私が知らない時間があるんだって分かった。
私は、その時の自分の気持ちを思い出そうとした。
驚いたり。
怖かったり。
気味が悪かったりは……
「……してないかな」
私はそう答えた。
言ってから、自分でも不思議になった。
あれ。
そういえば、私は本当に驚かなかった。
お兄ちゃんにその秘密を伝えられた時、話の意味はちゃんと理解した。
お兄ちゃんの中に、生まれる前の記憶がある。
別の世界で生きていたお兄ちゃんがいる。
それは分かった。
でも、怖がったり、気味悪がったりはしなかった。
それどころか、驚きもしなかった気がする。
ルーデウスお兄さんが同じだって分かった時は、びっくりしたのに……
なんでだろう。
お兄ちゃんだと、驚かなかった。
ルーデウスお兄さんだと、驚いた。
その違いを考えようとした時、ルーデウスお兄さんがさらに身を乗り出した。
「本当に、怖くなかったんですか?」
「うん」
「どうしてですか? カインはカインとして生まれたはずなのに、そこに別の人の記憶があるんですよ。普通の子供じゃない。普通なら、何か……引っかかるはずでしょう? どうしてアイシャは、変わらずカインをお兄ちゃんと呼び続けられるんですか?」
ルーデウスお兄さんの声は、熱を帯びていた。
責めているわけじゃない。
怒っているわけでもない。
ただ、本当に分からないみたいだった。
どうしてそう思えるのか、どうして怖がらないのか、どうして変わらずそばにいられるのか。
それを知りたくて仕方がない、そんな声。
怖いのかな?
でも、私にはその怖がる意味がよく分からなかった。
「だって、お兄ちゃんは生まれた時からお兄ちゃんでしょ?」
「……え?」
ルーデウスお兄さんは、ほんとうに分からないって顔をした。
私の言葉が、予想していた答えと全然違ったみたいだった。
目を丸くして、少しだけ口を開けて、すぐには何も言えない。
いつものルーデウスお兄さんなら、困った時でも冗談を挟んだり、ちょっと笑ってごまかしたりするのに、今はそういうのが出てこなかった。
だから私は、もう一度ちゃんと考えた。
私が変なことを言ったのかな。
ルーデウスお兄さんが怖がっていることは、もしかしたら大人にとっては普通のことなのかもしれない。
子どもの中に、別の人生を生きた記憶がある。
たしかに、言葉だけを聞くと不思議だ。
変だと思う人もいるのかもしれない。
でも、私にとっては、やっぱり怖いことじゃなかった。
「お兄ちゃんに生まれる前の記憶があったとしても、私が今まで過ごしてきて、お兄ちゃんと呼んできたお兄ちゃんは、そのお兄ちゃんでしかないよ」
私はゆっくり言った。
急いで言うと、言葉がこぼれてしまいそうだったから。
ちゃんと伝えたかった。
ルーデウスお兄さんが欲しがっている答えが何なのか、私には分からない。
でも、この気持ちだけは嘘じゃない。
「生まれる前の記憶があっても、お兄ちゃんは生まれた時からお兄ちゃんだし」
「生まれた時から……」
「うん。お兄ちゃんは、赤ちゃんの時からカイン・アルネスでしょ? 前の記憶があっても、この世界で生まれて、育って、私と会って、私のお兄ちゃんになってくれたのは、今のお兄ちゃんだもん」
言葉にしてみると、すごく簡単だった。
本当に、それだけなのだ。
お兄ちゃんに生まれる前の記憶があったとしても。
別の世界で、別の人として生きていたことがあったとしても。
それを知ったからって、私が今まで一緒に過ごしてきて、お兄ちゃんって呼んできたお兄ちゃんが、急に別の誰かになるわけじゃない。
今までのことが、どこかから急に取り替えられるわけじゃない。
中身が大人でも。
前の世界の記憶があっても。
私が好きになったお兄ちゃんは、そのお兄ちゃんなのだ。
好きになったお兄ちゃんに、秘密があっただけ。
それだけだ。
「生まれる前の記憶があるからって、お兄ちゃんが急にお兄ちゃんじゃなくなるわけじゃないよ」
「お兄ちゃんが私にとって特別なのはずっと変わらないの」
特別。
その言葉が、私の中で小さく光った。
あ、そっか。
お兄ちゃんは、私にとって特別なんだ。
ただ優しいだけじゃない。
ただ強いだけじゃない。
ただ料理が上手なだけでもない。
あんなにかっこよくて、優しくて、私をちゃんと見てくれて、私が知らないことをたくさん知っていて、でも不器用なとろこもある人。
そんな人は、この世界のどこを探しても、きっと他にいない。
お兄ちゃんは、いつだって普通の人じゃなかった。
誰かと同じところに並べて比べられる人じゃなかった。
この世界だけで、あんな人がぽんっと生まれてくる方が不思議。
そんなふうに思ってしまうくらい、私はお兄ちゃんを特別に思っている。
特別なお兄ちゃんが、特別な生まれ方をしていた。
それだけだった。
だから、お兄ちゃんが「別の世界の人」だって聞いた時、私は驚くより先に納得したんだと思う。
やっぱりね、って。
ルーデウスお兄さんはぽつりと言った。
「それは、カインだからでしょう」
私は迷わず頷いた。
「うん。お兄ちゃんだからだよ」
嘘をつくところじゃないと思った。
お兄ちゃんだから、私は怖くなかった。
お兄ちゃんだから、秘密を聞いてもお兄ちゃんのままだった。
お兄ちゃんだから、特別な生まれだと聞いても納得できた。
それは本当だ。
ルーデウスお兄さんは、小さく笑った。
でも、その笑い方は、あまり嬉しそうじゃなかった。
「それはそうですよね……」
寂しそうな声だった。
その顔を見た瞬間、私は少しだけ胸がちくっとした。
私の答えは、ルーデウスお兄さんが欲しかったものとは違ったのかもしれない。
ルーデウスお兄さんは、「誰でも受け入れられる」と言ってほしかったのかもしれない。
「カインが羨ましいです」
羨ましい。
その言葉は、とても小さかった。
私はルーデウスお兄さんをじっと見た。
ルーデウスお兄さんは、少しだけ目を伏せていた。
私の答えを聞いて、何かを諦めようとしているみたいだった。
お兄ちゃんだから大丈夫。
だったら、自分は違う。
そんなふうに、勝手に線を引こうとしているように見えた。
それは、なんだか違う気がした。
「じゃあ、ルーデウスお兄さんもそうすればいいじゃん」
「そうする、とは?」
「ルーデウスお兄さんも、ルーデウスお兄さんを誰かと一緒に積み重ねていけばいいんだよ!」
私は頭の中に浮かんだことをそのまま言った。
「……すみません。ちょっと、意味が分からないです」
「むぅ……」
伝わらなかった。
やっぱり、お兄ちゃんみたいにはいかないかあ……
お兄ちゃんなら、私がよく分からないことを言っても、ちゃんと形にしてくれる。
私の中にあるふわふわした気持ちを、掴みやすい言葉にしてくれる。
私が言いたいことを先に見つけて、「つまりこういうことか?」って言ってくれる。
それで、私は「そう!」って言える。
ちゃんと頭の中を整理しないとだ。
たぶん、お兄ちゃんもそうしてから、私にちゃんと言葉にしてくれていたんだと思う。
私が泣きそうな時も、怒りそうな時も、分からなくなっている時も。
お兄ちゃんはすぐに答えを出しているように見えるけど、本当は頭の中で一生懸命考えてくれていたのかもしれない。
だから、私もそうしなきゃ。
ルーデウスお兄さんに伝わるように。
「えっとね」
私はゆっくり口を開いた。
「……私が、お兄ちゃんのことをお兄ちゃんだって思えるのはね」
「はい」
「お兄ちゃんが私に、いっぱいお兄ちゃんを積み重ねてくれたからなの」
ルーデウスお兄さんは、まだ少し分からない顔をしていた。
でも、ちゃんと聞いてくれている。
私は、指を一本立てた。
「たとえばね。私が小さい時から、お兄ちゃんは私を見てくれたり、ご飯を作ってくれたり、抱っこしてくれたり、私と手をつないでくれたり」
もう一本、指を立てる。
「私が頑張ったら褒めてくれた。失敗したら、一緒にどうしたらいいか考えてくれた」
もう一本。
「私が役に立たなきゃって思って苦しくなった時も、お兄ちゃんは、役に立つ私じゃなくて、私そのものを見てくれた」
そうだ
お兄ちゃんは、私にたくさんくれた。
毎日の中に、少しずつ。
「そういうのを、私の中でひとつずつ積み重ねてきたの」
「積み重ねて……」
「うん。だから秘密を聞いても、その秘密だけでお兄ちゃんが全部変わっちゃうわけじゃなかったんだよ。お兄ちゃんと一緒に過ごしてきた時間の方が、ずっと大きかったから……」
言葉にして分かった。
私は、秘密を受け入れたんじゃない。
お兄ちゃんを受け入れていたから、秘密もその中に入ったんだ。
私は、うまく伝わるか不安になりながらも続けた。
「秘密を聞く前から、お兄ちゃんは私にとってお兄ちゃんだったから、その秘密もお兄ちゃんの一部なんだって思えたの」
「……カインの一部」
「うん。全部じゃないよ。秘密は大きいけど、お兄ちゃん全部じゃないもん」
「つまり……秘密よりも、それまでの関係の方が大きかった、ということですか」
「うん! たぶんそれ!」
私が頷くと、ルーデウスお兄さんは小さく息を吐いた。
「なるほど……」
「だからね、ルーデウスお兄さんも、誰かと一緒にルーデウスお兄さんを積み重ねていけばいいの」
私は少し身を乗り出した。
「いっぱい一緒にいて、ちゃんと話して、困ったら助けて、失敗したら謝って、嬉しい時は一緒に笑って。そういうのを重ねていったら、その人の中に『ルーデウスお兄さん』ができていくでしょ?」
「僕が、誰かの中に……」
「うん。そうしたら、もし秘密を話す日が来ても、秘密だけでルーデウスお兄さんが全部変わったりしないと思う」
うまく言えているかは分からない。
でも、私の中ではそうだった。
お兄ちゃんの秘密を聞いた時、私の中にあるお兄ちゃんは消えなかった。
前世の記憶があるって聞いても、別の世界を知っているって聞いても、それまで私を大事にしてくれたお兄ちゃんは、そのままそこにいた。
むしろ、そんなことまで話してくれたのが嬉しかった。
私を信じてくれたんだって思った。
だから、怖くなかった。
「ルーデウスお兄さんも、今、私と積み重ねてるしね!」
「え?」
「ルーデウスお兄さんは、エリス姉とも積み重ねてるでしょ? ルイジェルドさんとも。お兄ちゃんとも。私とは……まだちょっとだけかもしれないけど、今こうして話してるから、これも一つだよ」
「……そういうものですか」
「そういうものだと思う」
ちゃんと伝わったかな。
変な言い方じゃなかったかな。
お兄ちゃんみたいに上手には言えなかったけど、でも、私なりに一生懸命考えて話した。
ルーデウスお兄さんが、自分で自分を遠くに置いてしまわないように。
秘密があるから駄目なんだって、勝手に諦めてしまわないように。
やがて、ルーデウスお兄さんはゆっくり息を吐いた。
「……ありがとうございます、アイシャ」
私は、ぱっと笑った。
「どういたしまして!」
そう言って、力いっぱい頷いた。
大したことを言ったつもりはなかった。
私はただ、お兄ちゃんと一緒にいた時に分かったことを話しただけだ。
でも、ルーデウスお兄さんがそれで少しでも楽になったなら、それは嬉しい。
「僕を、積み重ねていきます」
「うん!」
「自分で自分を積み重ねる、という表現はなかなか不思議ですが……でも、アイシャの言いたいことは、少し分かりました。秘密を打ち明ける前に、その秘密を受け止めてもらえるだけの自分を、誰かの中に作っていく。そういうことですよね」
「そうそう!」
本当は、私が言ったことが全部正しいかなんて分からない。
人の気持ちを考えるのは難しいし、ルーデウスお兄さんが怖がっているものがどれくらい大きいのかも、私は知らない。
でも、一緒にいる時間がちゃんと残ることだけは分かる。
お兄ちゃんが私に残してくれたから。
私の中に、たくさんのお兄ちゃんが積み重なっているから。
ルーデウスお兄さんは、少しだけ目を伏せて、ふっと笑った。
「アイシャは、不思議ですね」
「不思議?」
「ええ。欲しい時に、欲しい言葉をくれるところが……少しカインに似ています」
「……私が?」
私は思わず、自分を指さした。
「お兄ちゃんに?」
「ええ」
ルーデウスお兄さんは頷いた。
その瞬間、胸の中がぱっと明るくなった。
お兄ちゃんに似ている。
その言葉が、私の中にすとんと落ちた。
似ていると言われたのは、顔とか、背の高さとか、そういうものじゃない。
言葉の選び方。
誰かが欲しい言葉をあげられるところ。
お兄ちゃんが私に何度もしてくれたことを、少しだけできたのかもしれない。
そう思ったら、嬉しくて、嬉しくて、声を出して笑いそうになった。
でも、あんまり大きく喜ぶと恥ずかしい。
だから私は、口元を少しだけ押さえて、声を抑えて小さく笑った。
「ふふ……ほんとに?」
「ええ。今の言葉は、僕にとってとてもありがたかったです」
「そっか……そっかぁ、えへへ……」
だめだ。
頬が緩む。
にやける。
でも、仕方ない。
お兄ちゃんに似ているなんて言われたら、嬉しくならないわけがない。
お兄ちゃんみたいになりたいわけじゃない。
私は私だし、お兄ちゃんにはなれない。
でも、お兄ちゃんが私にくれた優しさを、私も誰かに渡せたなら、それはとっても嬉しい。
ルーデウスお兄さんは、そんな私を見て、少しだけ目を細めた。
「アイシャは、本当にカインが好きなんですね」
その声は、からかう感じではなかった。
どちらかというと、納得したような声だった。
私が今まで話してきたことを聞いて、そう思ったのだと思う。
だから、私は隠せなかった。
隠した方がいいのかな、と一瞬だけ思った。
でも、無理だった。
お兄ちゃんのことを好きだと言うのは、恥ずかしいけど、嫌じゃない。
「……うん」
声が小さくなった。
けれど、それだけだと足りない気がした。
だから、私は両手を胸の前でぎゅっと握って、もう一度言った。
「好き。大好き」
言った瞬間、胸の中がいっぱいになった。
声は小さかったけど、ちゃんと言えた。
お兄ちゃんがここにいないのに、言うだけでこんなに恥ずかしい。
もし本人の前で言ったら、私はどうなってしまうのだろう。
でも、お兄ちゃんには何度だって言いたい。
好き。
大好き。
世界で一番特別。
そう言いたい。
ルーデウスお兄さんは、少し目を丸くして、それから苦笑した。
「はは……これは、カインに『お義兄さん』と呼ばれる日も近いですね」
「っ!」
今度は、胸が変な跳ね方をした。
ルーデウスお兄さんが、お兄ちゃんに、義兄さん。
つまり、それは。
つまり、私とお兄ちゃんが。
そういうことで。
……いや、そういうこと?
私は一気に恥ずかしくなって、椅子から立ち上がりかけた。
「ルーデウスお兄さんっ!」
私は思わず詰め寄った。
「何その言い方!」
「いえ、可能性の話ですよ」
「可能性でも言い方があるでしょ!」
「でも、アイシャはカインが大好きなんですよね?」
「それは、そうだけど……!」
「なら、将来的には僕とカインが義兄弟に……」
「まだそこまで言ってないもん!」
私はさらに一歩詰め寄った。
その時だった。
ルーデウスお兄さんが少し身を引いた拍子に、内ポケットのあたりから、小さな箱が滑り落ちた。
「あ」
箱は床に落ちて、軽い音を立てる。
蓋が少し開いて、中から柔らかそうな小さい布が飛び出した。
私は反射的に目を向けた。
私は一瞬、動きを止めた。
……あれはたしか。
お兄ちゃんと別れた後に、お母さんがルーデウスお兄さんに渡していた箱だ。
お母さんはとても真面目な顔で渡していた。
ルーデウスお兄さんも、大事そうな顔で受け取っていた気がする。
大切なものなのかな。
落としちゃったのはよくないよね。
「あ、ごめんなさい。今拾うね……」
私は慌ててしゃがんだ。
ルーデウスお兄さんも動こうとしたけれど、私の方が近かった。
箱を拾い、中から飛び出した布もそっと手に取る。
柔らかい。
小さい。
白っぽくて、端に可愛いリボンがついている。
床に落ちたから、埃がついていたらいけないと思って、私は軽くぱんぱんと払った。
それから、形を整えるために広げる。
「ルーデウスお兄さん、これ――」
「ちょっ、まっ……」
ルーデウスお兄さんの声がした。
私は広げた布を見た。
次の瞬間、ルーデウスお兄さんは両手で頭を抱えた。
「終わった……」
そして、そのまま膝から崩れ落ちる。
「鍵付きにするんでした……」
私は、手の中のそれをもう一度見る。
えっと……これは……え?
「パンツ……」