私の手の中には今、パンツがある。
女物。
そして、大きさ的に子供用のパンツ……
純白の布に、可愛いリボン。
きちんと畳まれていたのだろうけれど、箱から飛び出して、私が埃を払うために広げてしまったせいで、今はその形がはっきり分かってしまっている。
それが、ルーデウスお兄さんの持っていた箱の中から出てきた。
私は手の中のそれを見る。
床に膝をついたまま頭を抱えているルーデウスお兄さんを見る。
もう一度、手の中を見る。
……えっと。
どういうこと?
「ルーデウスお兄さん?」
「違うんです」
ものすごく早かった。
私がまだ何も聞いていないのに、ルーデウスお兄さんは顔を上げ、両手を前に出し、必死な顔でそう言った。
「いや、違わないと言えば違わないんですが、これはですね、決してそういうやましい目的で持っていたわけではなく、いえ、やましいという言葉の定義にもよりますが、少なくともアイシャが今想像しているような犯罪的な意味ではなくてですね」
「私、まだ何も言ってないよ?」
「言ってないから怖いんです!」
ルーデウスお兄さんの声が裏返った。
私は手の中のパンツを見て、それからルーデウスお兄さんを見る。
ルーデウスお兄さんは、今にも土下座しそうな勢いだった。
さっきまでの怖さとは違う。
今の怖さは、もっと分かりやすい。
嫌われたくないんだ。
私に気持ち悪いと思われたくなくて。
変な人だと思われたくなくて。
お兄ちゃんの友達なのに、私に失望されたくなくて。
だから、言葉がどんどんこぼれている。
「……女の人の?」
「はい」
「子どもの?」
「違います」
「でも小さいよ?」
「違います! あの方は大人です! 大人なんです! 見た目は小柄ですが、中身も実力も立派な大人で、僕の偉大なる師であり、尊敬すべき魔術師であり、人生の恩人でありまして!」
一気に言った。
息継ぎもほとんどなかった。
必死すぎて怖いくらいだった。
私は布をそっと畳み直しながら、首を傾げた。
「先生の?」
ルーデウスお兄さんの動きが止まった。
「……はい。これは、ロキシー……僕の魔術の師匠のものでして」
「ロキシーさん?」
「はい。僕に魔術を教えてくれた恩人で、偉大なる師で女神のような方です」
「女神」
「ええ、女神です」
そこだけ、ルーデウスお兄さんの声がやけに強かった。
私は少し首を傾げる。
ロキシーさんのことは、お兄ちゃんから聞いたことがあるし、魔大陸で会ったこともある。
ルーデウスお兄さんの師匠で、お兄ちゃんもいい先生だと言っていた。
「そんな人のパンツを盗んだの?」
聞いた瞬間、ルーデウスお兄さんの顔が、分かりやすいぐらい固まった。
目が大きく開いて、口が少しだけ動いて、それから急にぶんぶん首を横に振る。
さっきまで「女神です」と断言していた人とは思えない慌て方だった。
「ち、違います! 盗んだわけではありません! 断じて違います!」
「でも、持ってるよ?」
「持っていることと盗んだことは違うんです! これは、その、残されたものを預かっている……というか、保管しているというか、心の支えとして大切にしているというか……!」
「心の支え……」
「はい。言い換えるなら信仰とも言えます」
「パンツなのに?」
「パンツですが、ただのパンツではありません。師匠の……いえ、これはもう、僕にとっては初心を忘れないための聖遺物でして」
「せーいぶつ」
「はい。僕にとって師匠は神にも等しい存在ですので」
「神様のパンツを盗んだの?」
「盗んだわけでは……!」
ルーデウスお兄さんが両手で顔を覆った。
「ふーん」
私は小さく頷いた。
別に、ひいてはいない。
まあ、びっくりはした。
そりゃあ、パンツだし。
箱から急に出てきたし。
いくら大切な人のものだと言われても、パンツを箱に入れて大事に持っているのは、やっぱりびっくりする。
でも、ルーデウスお兄さんがこういう人だというのは、この数週間で何となく知っている。
エリスさんに変なことを言って怒られたり、たまに目線が変なところへ行ったり、すぐに調子に乗って痛い目を見たりする。
良い人なのに、ちょっと変。
すごい人なのに、かなり変。
そういう感じの人だ。
だから、今さら全部を見て「なんて人なんだろう」と思うほど、私はルーデウスお兄さんを知らないわけではなかった。
ただ、突然だったからびっくりしただけだ。
パンツだし。
私は、畳み直した布を箱の中にそっと置いた。
あまり乱暴に扱ってはいけない気がしたからだ。
これがどういうものなのかはともかく、ルーデウスお兄さんにとっては本当に大切なものらしい。
大切なものを落としたり、汚したりしたら、私だってすごく傷つく。
「あ、あの、アイシャ。そんな丁寧にしなくても……いえ、ありがたいんですが、むしろ僕の精神が削られるというか……」
ルーデウスお兄さんは、頭を抱えたまま小さくうめいた。
それから、少しだけ顔を上げる。
笑おうとしているけれど、笑えていない顔だった。
「軽蔑しましたかね……」
ぽつりと、ルーデウスお兄さんが言った。
声が小さかった。
いつもの冗談めかした感じではない。
本気で私の返事を怖がっているみたいだった。
私は首を横に振った。
「大丈夫だよ。全然」
「全然……ですか?」
「うん。ちょっとびっくりしちゃったけど」
「ですよね……」
「でも、軽蔑はしてないよ」
「……アイシャは優しいですね」
「優しいっていうか……」
私は少しだけ言葉に迷った。
だって、私も似たようなことはしてるから。
旅の途中で、私は皆の服をよく洗濯する。
服を洗う前、みんなの服を分けて、汚れを確かめて、破れがないか見ている時。
お兄ちゃんの服を手に取ると、毎回私はつい動きが止まってしまう。
着ている時は、ただの服だ。
お兄ちゃんの体に合った服。
動きやすいように直された服。
旅の砂や汗や、戦ったあとの汚れがついた服。
でも、それが私の手の中にあると、急に違うものみたいに感じる。
布なのに。
ただの服なのに。
そんなことあるはずないのに。
お兄ちゃんの体温が、まだ残っているような気がしてしまう。
だから私は、洗う前にほんの少しだけ手を止めてしまう。
布を広げて、汚れを確認するふりをして、指先でしわを伸ばして。
それから、誰も見ていない時に顔を近づけたことがある。
もちろん、ルーデウスお兄さんのようにパンツに手を出したことはない。
手を滑らせそうになったことが何回かあるけど数えてない。
だって、滑らせてないから。
ちゃんと洗って、ちゃんと畳んで、ちゃんと返してる。
毎回お兄ちゃんの顔が浮かんで、罪悪感が湧くから。
でも、そういうことを考えてしまう時点で、ルーデウスお兄さんを責める権利は私にはないし、責める気もない。
「大切な人の物を、大切にしたいって気持ちは分かるよ」
ルーデウスお兄さんが、少しだけ顔を上げる。
「……分かるんですか?」
「うん。大切な人の何かが残ってる気がして、ちょっとだけその人の代わりになる気がするもん」
言ってから、自分の声が少しだけ小さくなったのが分かった。
今だって、そうだ。
お兄ちゃんが置いていったままの服が、私の荷物の中に残っている。
もう使われないものかもしれない。
荷物になるだけかもしれない。
でも、どうしても捨てられなかった。
綺麗に畳んで、奥の方にしまってある。
たまに荷物を整理する時、その服に触れると、心がきゅっとなる。
お兄ちゃんがここにいないのに、布だけはそこにある。
そう思うと、寂しいような、安心するような、変な気持ちになる。
大切な人の物を勝手に保管しているという点では、私もルーデウスお兄さんと一緒だ。
そう考えると、なんだか変に納得してしまった。
ルーデウスお兄さんとは、やっぱり血がつながってるんだなあ、って。
こんなところで実感が湧くのも、どうかと思うけど。
「でも、大切にしてるなら、ちゃんと大切にした方がいいと思うよ。乱暴に落としたり、蓋が開いちゃったりしないように」
「はい。そこは本当に反省しています」
「あと、見られたら困るものは、ちゃんと隠した方がいいと思う」
「鍵付きにします」
「さっきも言ってたね」
「心からそう思いました」
「大切な人のだもん。ちゃんと大事にしないとね」
「はい。二度と落としません」
「エリス姉には見つからないようにね」
「命に関わりますからね」
ルーデウスお兄さんが、あまりにも真面目に言うせいで、私はまた笑ってしまった。
それから、私は自分の荷物の奥にしまってあるお兄ちゃんの服を思い出した。
……あのまま残しておくのは、危ないかもしれない。
ちゃんと畳んである。
汚れないように布で包んで、すぐに見えない場所へ入れてある。
だから、普通にしていれば触らない。
普通にしていれば。
でも、寂しい時に、指先でそっと触れてみたくなる。
もっと寂しい時は、抱きしめたくなる。
もっともっと寂しい時は、着てしまいたくなるかもしれない。
……それは、だめだ。
私は小さく息を吐いた。
他に何かお兄ちゃんの代わりになるものでも作ろうかな。
罪悪感が少なくて。
寂しい時にそっと触れても大丈夫で。
荷物の中に入れておけて。
私がぎゅっとしても、お兄ちゃんに悪いことをしている気持ちにならないもの。
……ぬいぐるみとか?
まあいいや。
今はそれよりもルーデウスお兄さんに聞きたいことがある。
私は、パンツが入っている箱を慎重にしまい直しているルーデウスお兄さんを見た。
ルーデウスお兄さんは、箱を内ポケットの奥の奥へ押し込み、今度こそ落ちないように何度も確認している。
その顔があまりにも真剣で、私はまた笑いそうになった。
でも、笑う前に私は聞いた。
「ルーデウスお兄さん」
「はい……何でしょう」
「ルーデウスお兄さんって、小さい子も好きになるの?」
ルーデウスお兄さんが、固まった。
今度は、箱を落とした時とは違う固まり方だった。
ぴしっと音がしそうなくらい、顔も肩も止まる。
それから、目だけがゆっくり私の方へ向いた。
「……はい?」
「だから、小さい子も好きになるの?」
「い、いえ、待ってください。質問の範囲が広いです。好きにも色々あります。家族として好きとか、友達として好きとか、尊敬しているとか、可愛がるとか、そういう……」
「そのままの意味だよ」
「そのままの意味が一番困るのですが」
ルーデウスお兄さんは額に手を当てた。
困らせたいわけじゃなかったけど、困っている。
でも、これはちゃんと聞きたい。
「ルーデウスお兄さんは、お兄ちゃんと同じで、中身は大人なんでしょ? じゃあ、好きになる人ってどうなるのかな~って思ったの」
「ああ、なるほど……いや、なるほどと言っていいのか分かりませんが……」
ルーデウスお兄さんは、雑に咳払いした。
「ええとですね。まず、僕の師匠は子供ではありません。小さく見えるかもしれませんが、立派な大人です。僕は尊敬していますし、恩人だと思っていますが、好きという言葉にも色々ありまして……」
「ロキシーさんは好きじゃないの?」
「尊敬しています。とても大切な人です。ただ、今アイシャが聞いている意味の『好き』とは、違うと思います」
「んー……」
好きにも色々あるのは分かる。
私がお母さんを好きなのと、お兄ちゃんを好きなのは違う。
お母さんも大好きだけど、お兄ちゃんを見た時みたいに胸がきゅっとなる訳ではない。
だから、ルーデウスお兄さんが言いたいことも分かる。
でも、私が聞きたいのはそこじゃない。
「じゃあ、エリス姉はどうなの?」
ルーデウスお兄さんがまた固まった。
「エ、エリスですか」
「うん。エリス姉は、ルーデウスお兄さんからみたら子供でしょ?」
「そうですね」
「好きなの?」
「いや、その……エリスはですね、非常に大切な仲間でして」
「うん」
「それ以上でも以下でも……いや、以下ではないですね。以上かどうかと言われると、その……僕のことをよく殴りますが、根は優しい子といいますか」
「うん」
「もちろん、女性として魅力がないかと言われれば、そんなことはないわけでして……」
ルーデウスお兄さんは、目を泳がせた。
完全に否定するなら、すぐに否定すればいい。
違いますよと言えばいい。
でもそうしない。
言葉を選んで、はぐらかして、でも嘘をつかないようにしている。
「好き?」
「……それは、まあ」
「まあ?」
「大切です」
「好き?」
「…………嫌いではありません」
「それは、好きってこと?」
「否定はしません……」
ルーデウスお兄さんは、ものすごく小さな声で言った。
ふむふむ。
――否定はしない。
私はその言葉を、頭の中にそっとしまった。
ルーデウスお兄さんは、お兄ちゃんと同じ。
大人の記憶がある。
それでも、エリス姉のことを、女の子として意識することがあるらしい。
大事なことだ。
私は、こくりと頷いた。
「教えてくれてありがと」
「いえ……アイシャには少し早い話だったかもしれません」
「早くないよ。大事なことだもん」
「そうですか」
ルーデウスお兄さんは、そう言って困ったように笑った。
それ以上は、もう聞いてこなかった。
私もこれ以上は聞かなかった。
聞きたいことは、まだ少しあった。
ルーデウスお兄さんの中にある前の記憶のこととか、お兄ちゃんと同じだと分かった時にどう思ったのかとか、どうしてそんなに怖そうな顔をしたのかとか。
でも、それはきっと、ルーデウスお兄さんが自分から話したくなった時に聞けばいいことだ。
お兄ちゃんの秘密は、お兄ちゃんのもの。
ルーデウスお兄さんの秘密は、ルーデウスお兄さんのもの。
だから私は、ルーデウスお兄さんに「またしゅわしゅわのお水作ってね」とだけ言って、部屋を出た。
そのまま私は、自分の部屋へ戻った。
扉を閉めて、荷物のそばに座る。
そうすると、急に静かになった。
静かになると、考えごとが頭の中で大きくなる。
年が離れている子供でも異性として見ることがある。
ルーデウスお兄さんは、自分より年下の女の子でも、そういう相手として考えられるらしい。
はっきり言ったわけじゃない。
でも、エリス姉の話になった時、ルーデウスお兄さんはすぐに否定しなかった。
目が泳いで、言葉が遠回りになって、それでも「大切な仲間です」と言っていた。
大切な仲間。
それは、きっと本当のことだ。
でも、それだけでもない気がした。
ルーデウスお兄さんは、エリス姉に怒られていることが多い。
殴られたり、慌てたり、変な顔をしたりしている。
時々、エリス姉を見て、鼻の下を伸ばしているように見えることもある。
エリス姉が怒るのも分かる。
ルーデウスお兄さんはエッチな人だ。
これは、間違っていない。
それでも、ルーデウスお兄さんがエリス姉を見ている目は、ただの変な目だけじゃない。
怖い時も一緒にいて、危ない時も助け合って、同じ旅をしているからこその目だと思う。
そういうのが、少しずつ積み重なって、ただの仲間じゃない何かになるのかもしれない。
つまり。
中身が大人でも、子どもの体で生きていて、誰かと一緒に過ごしていれば、その人を好きになることはある。
なら、お兄ちゃんも同じなのかな、と少しだけ思った。
お兄ちゃんにも、生まれる前の記憶がある。
大人だった記憶がある。
それなら、お兄ちゃんも誰かを女の子として見ることはあるはずだ。
でも。
お兄ちゃんが、私をそういう目で見たことは一度もない。
転移直後のことを思い出す。
旅の途中で体を洗う時、お兄ちゃんに手伝ってもらったことがある。
だから、私の裸を見たことだって、一度や二度じゃない。
寂しいからと嘘をついて、添い寝していたこともある。
本当は、寂しいだけじゃなかった。
お兄ちゃんのそばにいたかった。
お兄ちゃんの温かさを感じていたかった。
離れたら怖いというのも本当だったけど、それだけじゃない。
お兄ちゃんの腕の近くで眠ると、私だけが特別に守られているみたいで、安心できた。
今思うと、ちょっとだけ悪い子だったかもしれない。
甘えて抱きついたこともある。
寝ぼけたふりをして、服の中に潜ったこともある。
起きているのに、まだ眠いふりをして、背中を長く撫でてもらおうとしたこともある。
それで、お兄ちゃんは困ることはあった。
どうしたらいいか分からないって顔をしたり、私が甘えすぎると苦笑したり、お母さんに見られたら何か言われるかもしれないって悩んだり。
そういう困り方はあった。
でも、照れたところは見たことがない。
私の体を見て慌てたこともない。
抱きついても、顔を赤くしたことはない。
添い寝しても、お兄ちゃんは私の頭を撫でたり、布団をかけ直したりするだけだった。
そこに、ルーデウスお兄さんがエリス姉を見る時みたいな、分かりやすい揺れはなかった。
お兄ちゃんは、私を女の子として見ていない。
お兄ちゃんにとって私は、きっとまだ妹のような存在なんだ。
小さくて、守らなきゃいけなくて、甘えてきたら受け止める相手。
可愛いとは思ってくれている。
大事にもしてくれている。
でも、それはきっと妹みたいな可愛さだ。
それを悲しいとまでは思わない。
だって、お兄ちゃんに大事にされているのは本当だから。
お兄ちゃんは私を見てくれている。
私が頑張ったら褒めてくれる。
泣きそうになったら気づいてくれる。
不安になったら、ちゃんと向き合ってくれる。
頭を撫でてくれる。
手を握ってくれる。
それはとても幸せなことだ。
でも、面白くはない。
私は、私が可愛いと知っている。
街の人にも言われる。
旅の途中で会った人にも、可愛い子だねって言われることがある。
お母さんにも、ちゃんと身なりを整えれば可愛いと言われる。
ルーデウスお兄さんにも、時々子ども扱いされながらだけど、可愛いとは思われている気がする。
もちろん、お兄ちゃんにだって言われる。
笑顔の私が一番可愛いって、言ってくれた。
あの言葉は、今でも胸の中に大事にしまってある。
でも、やっぱり妹としてなのだと思う。
お兄ちゃんの「可愛い」は、きっと小さい子に向ける可愛いだ。
頑張った子を褒める時の可愛い。
守りたい子を見る時の可愛い。
頭を撫でたくなる時の可愛い。
それも嬉しい。
嬉しいけど、物足りない。
私が欲しい可愛いとは違う。
世界で一番見てほしい人だけが、私をそういうふうには見てくれない。
「……むぅ」
私は、誰もいない部屋の中で、ちょっとだけ頬をふくらませた。
自分でも子どもっぽい顔をしていると思う。
でも、誰も見ていないからいい。
少しくらい、胸の中の面白くない気持ちを顔に出してもいいと思った。
……しょうがないのかな。
妹みたいな存在を、異性として見ることはできないのかもしれない。
そう考えると、納得できる気がした。
ルーデウスお兄さんは、かなりエッチな人だと思う。
お母さんの胸を見て、鼻の下を伸ばしているところを見たことがある。
エリス姉に変なことをして、すごい勢いで怒られているところも何度か見た。
そのたびに、エリス姉が顔を真っ赤にして拳を振り上げて、ルーデウスお兄さんが「誤解です!」みたいな顔をして逃げようとして、結局ちゃんと殴られる。
あれは、たぶん、女の子として見ているから起きることなのだと思う。
でも、私には向けない。
私のことを可愛いとは言う。
小さい子として、妹みたいな子として、大事にはしてくれる。
けれど、お母さんやエリス姉を見る時みたいな目を、私に向けたことはない。
それはきっと、ルーデウスお兄さんにとって私が妹だからなんだろう。
お兄ちゃんも、きっと同じ。
「そっかぁ……同じかぁ……」
声に出すと、胸の奥がむずむずした。
でも、大丈夫。
焦る必要はない。
『お兄ちゃんのお嫁さんになる』という私の夢は、きっと叶う。
不思議なくらい、そう思える。
そうなる未来が自然と思い浮かぶ。
私の中には、そういう明るい確信があった。
だって、お兄ちゃんは私を大事にしてくれている。
私のことを見てくれている。
私が手を伸ばしたら、いつもちゃんと取ってくれる。
私が失敗したら、一緒にどうしたらいいか考えてくれる。
私が泣いたら、泣くなとは言わずに、泣いていい場所をくれる。
私が言葉にできない気持ちも、すぐに見つけてくれる。
私が欲しかった言葉を、私より先に探してくれる。
だから、きっと大丈夫。
私がちゃんと伝えたら、お兄ちゃんはちゃんと聞いてくれる。
私が本気で手を伸ばしたら、お兄ちゃんはその手を払ったりしない。
「だって、お兄ちゃんだもん……」
私は小さく呟いて、目を閉じた。
頭の中で、未来のことを考えてみる。
お兄ちゃんが帰ってくる。
今より背が伸びているかもしれない。
声も少し低くなっているかもしれない。
顔つきも、ちょっと大人っぽくなっているかもしれない。
でも、私を見る時はきっと、いつものお兄ちゃんの目をしてくれる。
優しくて、少し困ったようで、私のことをちゃんと見てくれる目。
私は、最初は普通に笑っておかえりなさいって言う。
ちゃんと待ってたよって言う。
抱きつきたいけど、いきなり飛びついたら子供っぽいかもしれないから、少しだけ我慢する。
でも、本当に少しだけだ。
お兄ちゃんが私の頭を撫でてくれたら、きっと我慢できなくなる。
その手が昔と同じで、温かくて、大きくて、私をちゃんと私として見てくれる手だったら。
私は、きっと言う。
「お兄ちゃんが大好き」
そう言ったら、お兄ちゃんはどうするだろう。
「俺もアイシャのことが大好きだよ」
そう返してくる気がした。
優しい声で。
私を安心させるみたいに。
妹に向けるみたいに。
昔からずっと、私にくれていたのと同じ温度で。
その想像をした瞬間、胸の奥がくすぐったくなった。
でも、それだけじゃ駄目だ。
私は、ぎゅっと両手を握った。
そこは、ちゃんと言わなきゃ。
お兄ちゃんは鈍感だから、きっと最初は分かってくれない。
私の「好き」を、いつもの「好き」と同じ箱に入れようとする。
それも嬉しいけど、それだけじゃ足りない。
だから、ちゃんと釘を刺しておかないといけない。
私は、頭の中の自分にもう一度言わせる。
「違うよ、お兄ちゃん。そういう好きじゃないの」
妄想の中の私は、頬を熱くしながらお兄ちゃんの目を見る。
「妹としてじゃなくて。子供としてでもなくて。私は、お兄ちゃんのお嫁さんになりたいの」
そこまで言った瞬間、ようやくお兄ちゃんの顔が変わる。
目を丸くして、すぐには言葉が出なくなる。
口を開いて、閉じて、少しだけ視線を迷わせる。
うなじのあたりに手をやって、考え込む。
私がふざけているのか、本気なのか、子どもの思いつきなのか、ちゃんとした気持ちなのか、きっと一生懸命考える。
その沈黙に、私は不安になると思う。
もし、お兄ちゃんが困ったまま、私の手を取ってくれなかったら。
もし、今までみたいに優しく笑ってくれなかったら。
もし、私の気持ちを、そっと横に置いてしまったら。
そんなことを考えた瞬間、目の奥が熱くなる。
私は妄想の中でも泣きそうな顔をしてしまう。
「……だめ?」
そう聞いたら、お兄ちゃんは私を見る。
そして、いつものように、少しだけ力を抜いて笑う。
優しい目で。
諦めたみたいに。
でも、嫌そうではなくて。
放っておけなくなったみたいに。
「……しょうがないな」
そう言って、お兄ちゃんは私の手を取ってくれる。
大きくて、あたたかい手。
昔から何度も私の頭を撫でてくれた手。
転びそうになった時に支えてくれた手。
私が泣きそうになった時、そっと握ってくれた手。
その手が、私の手を包んでくれる。
お兄ちゃんは、まだ少し困った顔をしている。
でも、私を見捨てる顔ではない。
私の気持ちをなかったことにする顔ではない。
ちゃんと受け取ってくれる顔だ。
私は、胸の奥がふわっとほどけていくのを感じる。
「……うん」
私は目を開けた。
すっごく自然だった。
お兄ちゃんなら、きっとそうする。
お兄ちゃんが私の手を取らないところなんて、想像できない。
お兄ちゃんが私を突き放すところなんて、想像できない。
お兄ちゃんが私の気持ちを聞いて、それでも冷たく背を向けるところなんて、どうしても思い浮かばない。
だって、お兄ちゃんだもん。
私が本気で欲しがったものを、いつだって最後にはくれた人。
私が泣きそうになったら、いつだって近くに来てくれた人。
私が不安になったら、ちゃんと安心させてくれた人。
だから、きっと大丈夫。
私の夢は、この先できっと叶うものだ。
そう思うと、胸の中が甘く満たされていく。
さっきまで小さくむくれていた気持ちが、少しずつほどけて、代わりにあたたかいものが広がっていく。
「……お兄ちゃん」
お兄ちゃんはまだ帰ってきていない。
今はまだ、私の隣にはいない。
でも、その未来だけは、手を伸ばせば届く場所にある。
私は目を閉じる。
想像の中のお兄ちゃんは、困ったように笑いながら、私の手を握ってくれている。
その手はあたたかくて、優しくて、絶対に離れないから。
「大丈夫」
もう一度、小さく呟く。
お兄ちゃんは、きっと私の手を取ってくれる。
そんな未来があまりにも自然で、疑う余地なく想像できるから。