受肉転生 ~宿儺と一緒に本気出す~   作:てとらとりす

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八十六話

 

フィットア領へ戻る旅の途中。

 

その日の夜は、馬車の中で過ごした。

 

馬車の中で過ごす夜は、ちゃんと屋根のある部屋で眠る時とは全然違う。

 

床は硬いし、布を敷いても揺れの名残みたいなものが体に残る。

外では夜の森がずっと音を立てていて、風で葉っぱが擦れる音や、遠くで小さな生き物が動く音が、眠っていても耳の端に触れてくる。

 

朝は、まだ空が薄い灰色をしている頃に目が覚めた。

 

お母さんも、もう起きていた。

 

 

「おはようございます」

 

 

「おはよう、お母さん」

 

 

小さな声で挨拶をして、私は毛布をたたみ、寝癖がついていないか手で髪を確かめてから、馬車の外へ降りた。

 

外には、ルイジェルドさんが座っていた。

 

背筋を伸ばして、槍を手にしたまま、朝焼け前の森を見ている。

一晩中起きていたはずなのに、全然疲れているように見えない。

 

 

「おはようございます、ルイジェルドさん」

 

 

私がそう言うと、ルイジェルドさんは静かにこちらを向いた。

 

 

「ああ、今日も早いな」

 

 

「夜の見張り、どうもありがとうございました」

 

 

お母さんが丁寧に頭を下げる。

私もそれに合わせて、もう一度ぺこりと頭を下げた。

 

ルイジェルドさんは、いつものように頷いた。

 

お母さんと私は、すぐに朝の仕事を始めた。

 

まず、昨夜のうちに干しておいた服を確認する。

馬車の横に張った棒に、洗った服が並んでいた。

 

夜露が心配だったけれど、服はちゃんと乾いていた。

 

私は一枚ずつ手に取って、布の状態を確かめる。

湿り気が残っていないか。

泥がついていないか。

縫い目がほつれていないか。

汚れが落ち切っていないところはないか。

 

魔術を使えば、もっと早く乾かせる。

温風を当てたり、水気を飛ばしたりすれば、すぐに終わる。

でも、魔術で急に乾かすと服が傷みやすい。

布がごわごわしたり、縫い目が引きつったり、乾き方にむらが出たりする。

旅の途中では服も大事な道具だ。

新しいものを簡単に買えるとは限らないし、気に入った服ならなおさら長く着たい。

だから、ちゃんと干して乾かす。

 

私は服を畳んでいく。

 

まず袖を内側へ。

裾の歪みを直して、縫い目に沿って折る。

大人の服は大きいから、地面へ引きずらないように膝の上を使う。

小さい布は端を揃えて、すぐ取り出せるように分ける。

誰のものか、どの順番で使うものか、荷物のどこに入れるかも考えながら畳む。

 

手は迷わない。

布の向きも間違えない。

服の種類ごとに分けて、荷物に入れる順番も考える。

 

でも、頭の中はずっと別のことを考えていた。

 

この服をしまったら、少しだけ時間ができるかな。

 

あのぬいぐるみの腕、縫えるかな。

 

まだ胴体もちゃんと形になっていない。

頭も仮に丸くしただけだ。

お兄ちゃんに似せるなら、髪の色はもう少し暗い布の方がいいかもしれない。

今使おうとしている布は、少し明るすぎる気がする。

あの髪の色を布で表すのは難しい。

糸を混ぜればいいのかな。

でも、変に混ぜると汚れみたいに見えそうで怖い。

 

目はどうしよう。

 

お兄ちゃんの目を布と糸で作るのは難しい。

黒い糸だけだと、怖くなるかもしれない。

優しい顔にしたい。

笑った顔にしたい。

でも、あんまり似せすぎると、寂しくなっちゃうかな。

 

似ていたら嬉しい。

でも、似ていたら会いたくなる。

抱きしめた時に、本物じゃないって分かって、胸がきゅっとなるかもしれない。

でも、似てないと嫌だ。

 

私は服を畳む手を止めずに、そんなことばかり考えていた。

 

最後の一枚を畳み終わる。

全部を持ち主ごとに重ねて、荷物へ綺麗に入れた。

隙間ができないように、押し込みすぎて皺にならないように。

服の間に小さな布を挟んで、取り出しやすいように位置を調整する。

 

よし。

 

全部終わった。

 

今なら、ちょっとだけ休めるかもしれない。

 

私は馬車の端に置いた小さな袋の方へ目を向けた。

朝食が始まる前に、針を出して、昨日の続きを少しだけ。

腕の形を整えるだけなら、すぐできるかも。

縫い目を細かくすれば、あとで綿を詰めても変にならないはずだし――

 

 

「アイシャ」

 

 

お母さんの声がした。

 

私は肩をぴくっとさせた。

 

 

「どうしたの?」

 

 

お母さんは火の準備をしながら、こちらを見ていた。

 

 

「朝食の支度を手伝っていただけますか。水を出すのと、食材の下準備をお願いします」

 

 

「……」

 

 

面倒くさいなあ……

 

そう思った。

思ってしまった。

自分でも、びっくりした。

 

今までなら、呼ばれた瞬間に立っていた。

朝食の支度くらい、面倒だなんて思わなかった。

なのに今は、足が動くまで少し遅れた。

眠いわけでも、疲れているわけでもない。

ただ、ぬいぐるみのことを考えていた頭が、朝食の支度という言葉で急に冷めた。

 

私は服をしまい終わった荷物を見たまま、少しぼーっとしてしまった。

 

手は荷物の口を押さえたまま。

目はお母さんの方を向いているのに、頭の中は動いていない。

自分でも、今返事をしなきゃいけないと分かっている。

分かっているのに、声が出るまで遅れた。

 

 

「アイシャ?」

 

 

もう一度、お母さんに呼ばれる。

 

私は、はっとして立ち上がった。

 

 

「いま行く!」

 

 

そう言って足を動かしたけど一歩目が重かった。

 

でも、歩き始めればちゃんと動けた。

焚き火のそばへ行って、お母さんの隣にしゃがみ込む。

水を用意して、器を並べて、食材を受け取る。

 

鍋の湯気を見ている間、私の頭の隅では布と糸のことを考えていた。

 

朝食が終わって、片付けをする。

器を洗い、火の始末をして、荷物を積み直す。

馬車に乗り込んで、またフィットア領へ向けて動き出した。

 

車輪が土の道を踏む音が、一定のリズムで続いている。

馬車の中には荷物が積まれていて、座る場所も限られている。

私は端の方に小さく座り、膝の上に布と針を出す機会をうかがっていた。

 

馬車の向かいでエリス姉とノコパラがまた何かで言い合いになりかけていた。

 

最初は小さな声だったのに、だんだん大きくなっていく。

エリス姉はすぐ声に勢いが出る。

ノコパラはノコパラで、ぶっきらぼうに返すから、火に油を注いでいる。

ブレイズさんが間に入ろうとしているけれど、言葉が短いせいで、止めるというより壁になっているだけに見える。

ルーデウスお兄さんも何とか宥めようとしているが、エリス姉の勢いとノコパラの言い方の悪さに挟まれて、少し困っているみたいだった。

 

今のうちかもしれない。

 

みんな私の手元どころではなさそうだ。

お母さんも荷物を確認していて、私の手元を細かく見ているわけではない。

私は荷物の奥から、小さな布と糸をそっと取り出した。

 

お兄ちゃんも、こういう気持ちだったのかな

 

お兄ちゃんが私に財布を作ってくれた時のことを思い出す。

あの時のお兄ちゃんも隠れて作っていた。

私にばれないようにしていた。

私を喜ばせたくて、でも驚かせたくて、こっそり縫っていた。

 

そう思うと、口元が緩んだ。

こっそり何かを作るのは、ちょっと悪いことみたいでなんだか楽しい。

相手を思い浮かべながら、布を選んで、形を考えて、針を刺す。

お兄ちゃんも、私のことを考えながら財布を作ってくれたのかな。

そうだったら、嬉しいな。

 

針に糸を通して一針目を入れようとした、その時だった。

 

 

「アイシャ」

 

 

お母さんの声がした。

 

私は針を持ったまま振り返る。

 

お母さんは、畳んだ服を何枚か手に持っていた。

朝、私が仕分けたものの中から見つけたのだろう。

袖口や裾のあたりに、小さなほつれがある服だった。

 

さっき畳んだ時に、私も気づいていた。

後で直さなきゃいけないと思っていた。

だけど、今じゃなくてもいいかな、と後に回していたものだ。

 

 

「朝の仕分けで見つけていた服のほつれですが、今のうちに直していただけますか。町に着くと、補給や確認で手が埋まりますので」

 

 

私は、膝の上の布を見た。

 

まだ一針も縫ってない。

 

それから、お母さんの手にある服を見た。

ほつれは小さいけれど、放っておけば広がる。

直せる時に直した方がいい。

 

どうしよう。

 

ほんの少しだけ迷った。

でも、結局私は頷いた。

 

 

「うん。分かった」

 

 

お母さんは「お願いします」と言って、服を私の横へ置いた。

 

私はぬいぐるみ用に準備した針を、そのまま服のほつれ直しに使った。

糸の色を合わせる。

ほつれた部分を指で整える。

縫い目が表に出すぎないように、小さく細かく針を通す。

 

最初の一枚は、袖口の縫い目が少し緩んでいた。

糸がほつれて、小さな輪っかが浮いている。

これくらいなら、簡単に直せる。

私は布を指先で軽く引っ張って、縫い目の向きを確かめた。

馬車が揺れるたびに針先が少しぶれそうになるから、膝と指で布を押さえながら、細かく針を通していった。

 

私は針を動かし続けた。

 

なのに、膝の横に置いたぬいぐるみ用の布だけが、ちっとも形にならない。

 

その布は、さっきからずっと私の近くにある。

手を伸ばせば届くところにある。

でも、触れない。

触ったら、そっちを縫いたくなってしまうから。

 

私は目の前の服に集中しようとした。

 

それでも、ときどき頭の中に、お兄ちゃんのぬいぐるみのことが浮かんでしまう。

 

腕は少し長めの方がいいかな。

服はどうしよう。

お兄ちゃんがよく着ていた色に似せる?

それとも、私が好きな色を少し入れる?

 

そう考えかけて、すぐに目の前の服へ戻る。

 

違う、今はこっち。

 

気づけば、外の音が少しずつ変わっていた。

 

道の石を踏む音が増える。

人の声が遠くから聞こえる。

馬車の速度が少し落ちる。

 

町が近いのだ。

 

私は最後の一枚のほつれを直し終えて、糸の端を丁寧に始末した。

縫い目を指で確かめて、服を畳む。

それをほかの服と一緒に重ねて、お母さんへ渡した。

 

 

「終わったよ、お母さん」

 

 

お母さんは手を止めて、私が直した服を一枚ずつ確認した。

 

 

「綺麗に直せていますね。助かりました」

 

 

「……うん」

 

 

ちゃんと褒められた。

 

助かったって言われた。

お母さんの役に立てた。

それは嬉しいはずだった。

 

なのに、何かが物足りなかった。

 

胸の奥に、穴みたいなものが残っている。

そこに風がすうっと入ってくるような感じがした。

 

どうしてだろう。

 

いつもこういう仕事を終わらせると心がふわふわする。

ちゃんとできた。

役に立てた。

次も頑張りたい。

そういう気持ちが、私の中で膨らむ。

 

でも今日は、そのふわふわが来なかった。

 

お母さんは間違ってない。

むしろ、ちゃんとお礼を言ってくれた。

でも、胸の奥に空っぽが残った。

 

服は直した。

でも、ぬいぐるみは一針も進んでいない。

 

私は、そのせいかなと思った。

 

お兄ちゃんのぬいぐるみを作りたかったから。

その時間がなくなったから。

だから、少しだけつまらないのかなって。

 

うん。きっとそうだ。

そういうことだと結論づけて、私は針をしまった。

 

 

 

―――

 

 

 

町に着いてからも、やることはたくさんあった。

 

まずは、お金の管理だ。

 

その役割を与えてくれたのは、お兄ちゃんだった。

 

「計算ならアイシャが一番早いからな」

 

そう言って、当然のような顔で、私に任せてくれた。

 

お金の管理なんて、すごく大事なことだ。

使いすぎたら困るし、足りなくなったら食べ物も買えない。

宿にも泊まれない。

馬車を動かすにも、道具を直すにも、全部お金がいる。

 

そんな大事なことを、お兄ちゃんは私に任せてくれた。

 

ただ「手伝って」じゃない。

「アイシャならできる」と思って、任せてくれた。

それは、お兄ちゃんが私を頼ってくれた証拠。

だから、私はこの役目がけっこう好きだった。

 

町に着くとすぐに、私は今日使える分のお金を頭の中で計算した。

 

頭の中で数字を動かす。

引いて、足して、残して、分ける。

数字は自然に並んだ。

 

 

「今日は買い出し分がこのくらいかな」

 

 

私は小さな袋に必要な分だけを入れて、ノコパラに渡した。

 

ノコパラは袋を手の上で軽く弾ませた。

 

 

「少なくねえか?」

 

 

「お馬さんを買ったんだから。今は使いすぎちゃだめなの」

 

 

「ちっ、分かってるよ。値切ればいいんだろ」

 

 

「でも、安いだけで腐りかけの食べ物はだめ。ルーデウスお兄さんが悲しがるから」

 

 

「りょーかい」

 

 

分かってくれたみたいだ。

 

次に、エリス姉とルーデウスお兄さん、ブレイズさんが冒険者ギルドへ向かう準備をしていた。

馬を買ってお金が減ったから、その分を依頼で稼ぐためだ。

エリス姉はじっとしているより動いていた方がいい人だから、依頼を受けるとなると少し機嫌が良さそうだった。

 

 

「アイシャ、しっかり留守番してなさいよ」

 

 

「うん。気をつけてね、エリス姉」

 

 

「当たり前よ。ルーデウス! 早く行くわよ!」

 

 

「そんなに急がなくても依頼は逃げませんよ」

 

 

「いいから!」

 

 

ルーデウスお兄さんは苦笑しながら、私の方に振り返った。

 

 

「アイシャ、ルイジェルドさんと一緒にいてくださいね」

 

 

「うん」

 

 

「何かあったら、すぐに知らせてください」

 

 

「分かった」

 

 

ブレイズさんは短く「行ってくる」と言って、荷物を背負った。

 

そうして、みんなは出ていった。

 

私はお母さんと一緒に残る。

ルイジェルドさんも、私のそばについてくれる。

 

たぶん、私を一人にしないためだ。

ありがたいけれど、少しだけ申し訳ない。

でも、ルイジェルドさんはそれを負担みたいには言わない。

 

 

「アイシャ、私たちは馬の世話をしますよ」

 

 

「うん」

 

 

お母さんに呼ばれて、私はすぐに返事をした。

 

今の馬は、数日前に買ったばかりの馬だ。

前は、お兄ちゃんの『虎葬』、もしくは『玉犬』がいてくれた。

大きくて、ふわふわで、温かくて……あの毛並みは、本当に気持ちよかった。

 

私は馬のたてがみを櫛で整えながら、『玉犬』のことを思い出す。

 

転移したばかりの頃、私は毎日のように『玉犬』と一緒に寝ていた。

お兄ちゃんのそばで、『玉犬』のふわふわに埋もれて眠る。

怖くても、寒くても、あの毛に包まれると少しだけ大丈夫になる。

お兄ちゃんの匂いと、『玉犬』の温かさと、夜の静けさ。

それが、あの頃の私の安心だった。

 

今はもう、寝ていない。

寝ていないけど。

本当は、抱きしめて寝たい。

 

強がっているだけだ。

 

私は桶に水を汲み、馬の脚元へ運んだ。

馬は『玉犬』とは全然違う。

毛並みはふわふわというより、なめらかで短い。

体温はあたたかいけれど、触った時の安心感も違う。

首を撫でると、馬は鼻を鳴らした。

 

 

「いい子だね」

 

 

私は小さく言って、毛についた汚れを落としていく。

 

私は馬の足元を確認して、汚れを落とし、蹄の様子を見る。

お母さんに教わった通り、傷や腫れがないか確かめる。

餌の量も確認する。

水を飲む様子も見る。

旅で馬が倒れたら本当に困るから、ここは丁寧にしなきゃいけない。

 

終わる頃には、手に少しだけ馬の匂いがついていた。

 

私が少しだけ伸びをしていると、後ろから大きな手が頭に乗った。

 

ぽん、と。

 

ルイジェルドさんだった。

 

 

「疲れていないか」

 

 

「大丈夫だよ」

 

 

「そうか」

 

 

それだけ言って、私の頭を優しく撫でた。

 

ルイジェルドさんは、たくさん私を撫でる。

 

この人は子供が好きらしい。

前にも、子供を見る目がとても優しいと思ったことがある。

顔は怖く見えるけれど、撫でる手は優しい。

力もちゃんと抑えてくれる。

大きな手だから、頭がすっぽり包まれるみたいになる。

 

でも、やっぱりお兄ちゃんとは違う。

 

撫で方一つでも、人によって全然違う。

なでなでは、意外と奥が深い分野なのかもしれない。

 

私はそんなことを考えながら、ルイジェルドさんの手に少しだけ頭を預けた。

 

 

「無理はするなよ」

 

 

「うん」

 

 

無理はしていない。

……たぶん。

 

その後も、私はたくさん働いた。

 

ノコパラが買ってきたものを確認する。

袋の中身を数える。

干し肉の量、穀物の袋、塩、少し安く買えた野菜。

お酒は入っていなかった。

 

エリス姉たちが戻ってきた時には、汚れた装備の確認も手伝った。

エリス姉は依頼で服を汚していた。

泥が乾く前に落とした方がいい。

ルーデウスお兄さんの外套にも小さなほつれがあった。

ブレイズさんの荷物には、知らない葉っぱがくっついていたから、虫がいないか確かめた。

 

 

「助かるわ。アイシャはいい子ね!」

 

 

エリス姉が言った。

 

 

「ありがとうございます、アイシャがいると本当に段取りが早いですね」

 

 

ルーデウスお兄さんも言った。

 

 

「助かった」

 

 

と短くブレイズさんが言った。

お母さんも、何度か「よくできています」と言ってくれた。

皆、お礼を言ってくれた。

ちゃんと役に立てている。

 

だから、足りないなんて思うのは変だ。

 

そう思う。

 

思うのに、胸の奥に小さな空っぽが残っている。

 

何が足りないのか、自分でも分からなかった。

だって、仕事はちゃんとできている。

誰かに怒られたわけじゃない。

失敗したわけでもない。

むしろ、いつも通り上手にできた。

たぶん、普通の子なら十分すぎるくらいできている。

 

それなのに、気持ちだけが少し遅れてついてこない。

 

褒められた言葉が、胸の中へ入ってこない。

表面だけをすっと撫でて、そのままどこかへ行ってしまうみたいだった。

 

 

「……なんでだろ」

 

 

小さく呟いてみても、答えは出なかった。

 

私はそのもどかしさを抱えたまま、夜を迎えた。

 

宿の部屋に戻る頃には、足は少し重くなっていた。

朝からずっと動いていたから、疲れているのは当たり前だ。

荷物の整理、買い出しの確認、服の直し、馬の世話、夕食の手伝い。

 

私は荷物の奥を開けた。

 

そこには、ぬいぐるみ用の布と糸が入っている。

昨日から全く進んでいない。

まだ腕も縫えていない。

顔なんてずっと先。

髪の色も決まっていないし、目をどうするかも決まっていない。

 

結局、今日はぬいぐるみに触れることができなかった。

 

ちゃんと働いた。

それは分かっている。

けど、私がやりたかったことは、ひとつも進んでいない。

 

私は布を指先で少しだけ撫でた。

 

夜更かししてやろうかな、とちょっとだけ思った。

 

今から少しだけならできる。

腕を片方縫うくらいなら、そんなに時間はかからない。

お母さんが寝たあと、灯りを小さくして、布団の中でこっそり針を動かせばいい。

ちょっとくらい寝るのが遅くなっても、私はたぶん大丈夫だ。

 

でも、明日も早い。

 

朝になったら、また起きて支度をしなきゃいけない。

寝不足で手元が鈍るのは、流石に良くない。

私がぼんやりして、荷物の数を間違えたり、馬の様子を見落としたりしたらダメだ。

 

私は、唇を尖らせた。

 

 

「……明日やろ」

 

 

そう、小さく呟いて布を畳む。

 

明日やればいい。

明日、頑張って時間を作ればいい。

今日はちゃんと寝る。

そう決めたのだから、そうする。

 

私は針も糸も、布も、きちんと元の場所へしまった。

 

布団に入って目を閉じる。

 

明日こそだ。

明日こそ、ちゃんとぬいぐるみを進める。

 

そう思いながら、私はそのまま眠ることにした。

 

 

―――数日後―――

 

 

 

私は少しずつ手を抜いて仕事をするようになっていった。

 

最初は、本当に少しだけだった。

 

朝洗った布を干す時に、いつもなら風の通りを見て、日が当たりすぎない場所を選んで、厚い部分と薄い部分の乾き方を指で確かめながら、ちゃんと順番に並べていた。

 

魔術で乾かすと、布が傷みやすい。

 

それは知っている。

熱を入れすぎれば縮む。

風を強く当てすぎれば繊維が荒れる。

乾かし方が悪いと、着た時に変に硬くなったり、縫い目のところから傷んだりする。

 

ちゃんと分かっている。

 

でも、私は魔術の扱いが上手だ。

ルーデウスお兄さんぐらい使えるとは言えないけど、加減することならできる。

 

強くしなければいい。

熱をほんの少しだけにして、風も布の表面を撫でるくらいにする。

厚いところには少し長く、薄いところには短く。

指先で湿り気を確認して、乾ききる少し前で止めればいい。

 

やってみたらできた。

お母さんだって、何も言わなかった。

気づかれなかったのだ。

 

だから、次の日も同じようにした。

その次の日は、もっと早くできた。

その次は、服を干す場所を選ぶ時間も削った。

 

ちゃんと乾いている。

ちゃんと着られる。

誰も気づいていない。

誰も困っていない。

 

……だから大丈夫。

 

荷物の確認も、少しずつ変わっていった。

 

前は、袋を開けて、一つずつ中身を確かめていた。

全部を見て、触って、状態を確かめて、傷んでいるものがないかまで見ていた。

でも、毎日全部を見る必要はない。

 

袋を持った時の重さ。

揺らした時の音。

それだけで、大体は分かる。

 

いちいち、全部を開ける必要はない。

 

私は手を抜いてもそれなりにできる。

いや、それなりどころか、普通の人以上にはできる。

私の年齢を考えたら、十分すぎるくらいできているはずだ。

ノコパラなんて、お金に余裕があるときなんかは、袋の中身を数えもしないで使う。

エリス姉は買い物をすると勢いで余計なものまで買いそうだし、ルーデウスお兄さんは計算はできても、細かい荷物の収まりまではあまり見ていない。

ブレイズさんは実務はできるけど、必要なことだけやって終わりという感じだ。

 

だから、少し手順を省いても、結果はちゃんと出る。

 

出来ているんだから、大丈夫。

そう、大丈夫なのだ。

 

そうやってできた時間を、私はぬいぐるみ作りに当てた。

 

私は、なんで仕事がつまらなくなったのか、少し考えた。

でも、すぐ分かった。

お兄ちゃんがいないからだ。

 

それだけだった。

それ以外に、理由なんて思いつかなかった。

 

お兄ちゃんがいた時は、こんな感じじゃなかった。

服を畳んでも、荷物をまとめても、ちゃんと満たされていた気がする。

今は何をやっても、空っぽのままだ。

 

だったら答えは簡単だ。

 

ぬいぐるみを作れば、お兄ちゃん成分が補充される。

自分でそう考えて、少しだけおかしくなった。

成分って何だろう。

薬みたいに、袋に入れて持ち歩けるものでもないのに。

 

でも、気持ちとしてはそれが一番近かった。

お兄ちゃん成分が補充されれば、この空っぽが埋まる。

空っぽが埋まれば、仕事にもちゃんと力が入る。

 

つまり、ぬいぐるみ作りは、仕事のためになることだ。

 

大事なことだ。

 

……うん。大事なことだと思う。

 

まだ小さな腕。

まだ顔もない。

まだお兄ちゃんには全然見えない。

でも、私の中ではちゃんとお兄ちゃんに向かっているものだった。

 

針に糸を通す。

布を合わせる。

丸くなるように、縫い目が外へ出すぎないように、小さく針を動かす。

 

仕事の時より、腕が動く。

 

服を乾かす時は、ただ早く終わらせたい。

荷物を確認する時は、間違えないようにするだけ。

買い出しの計算も、頭の中で答えが出るから、別に難しくない。

 

でも、ぬいぐるみは違う。

 

考えることがいっぱいある。

 

お兄ちゃんの腕って、こんな感じかな。

もっとしっかりしてるかな。

抱きしめた時に寂しくならないくらい、柔らかい方がいいかな。

でも、柔らかすぎるとお兄ちゃんっぽくないかな。

お兄ちゃんの服の色はどうしよう。

いつもの服に似せるなら、この布じゃ明るい。

でも、暗くしすぎると地味になる。

目はどうしよう。

困ったように笑っている顔にしたい。

でも、ずっと困っているのは嫌だ。

私を見る時みたいに、すっごく優しい顔がいい。

 

そういうことを考えていると、空っぽが少しだけ埋まる。

 

朝の支度をしている時より。

荷物をまとめている時より。

服を畳んでいる時より。

誰かに「助かった」と言われた時より。

 

ぬいぐるみを一針進めた時の方が、ずっと心が動いた。

 

だってしょうがないじゃん。

 

好きなんだもん。

 




明日もあります。
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